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2020年7月19日日曜日

ユダヤ教におけるフィロンの受容 Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library"

  • Naomi G. Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library," Tradition 41.3 (2008): 31-48.

フィロンはこれまでキリスト教神学、ギリシア文学、古代哲学といった枠内で読まれてきた。それはフィロン研究がそうした分野の研究者たちによって牽引されてきたからである。しかし、20世紀初頭になると、ユダヤ教にコミットし、ユダヤ教古典に通暁した研究者たち(Isaac Heinemann, Edmund Stein, H.A. Wolfson, Samuel Belkinら)の台頭により、フィロンをよりユダヤ的に理解しようとする試みが行われるようになった。

ただし、いかなる意味でもラビ・ユダヤ教的ではないフィロンが、ユダヤ世界で再び紹介されるのは、アザリヤ・デイ・ロッシの登場を待たなければならなかった。なぜフィロンがユダヤ世界で失われてしまったのかというと、様々な要因はあれど、大きな理由はフィロンが初期キリスト教によって熱狂的に受け入れられたからであろう。

フィロンが使うギリシア語にはユダヤ・ギリシア語的なコノテーションがある。ノモス、ソフィア、エウセベイア、ディカイオシュネなどといった重要な用語には、元来のギリシア語を超えたユダヤ的な意味が含まれている。しかしながら、読者がユダヤ人でなくキリスト教徒になると、そうした意味は失われてしまう。

アザリヤ・デイ・ロッシは16世紀イタリア・ルネサンス時代の博識家で、『メオール・エナイム』という著作がある。この著作の中でデイ・ロッシはフィロンを「イェディディヤ・ハ・アレクサンドロニ(アレクサンドリアの神の友)」と呼びつつ、現在のフィロン研究でも議論されているトピックを初めて提起した。すなわち、フィロンはヘブライ語の知識を持っているか、七十人訳を用いているという指摘、フィロンと口伝律法やユダヤ教セクトについて、その著作が非ユダヤ人向けである可能性、無からの創造という概念理解などである。

『メオール・エナイム』第5章によると、フィロンには4つの欠点があるという。第一に、フィロンはトーラーの原典を見たことがない。第二に、世界の創造時に原初の物質が存在していたと考えている。第三に、聖書の物語の本当の意味を単純に哲学的・知的な考えだと考えている。そして第四に、成文律法と共に口伝律法があると述べていない。他にもデイ・ロッシは、フィロンが聖書の引用や解釈に七十人訳を用いていることなどについてさらに追及しつつも、ときに擁護することもある。

デイ・ロッシのこのようなアンビヴァレントな態度の理由は、彼自身も当時異端の疑いをかけられていたからである。デイ・ロッシはタルムードのアガダーの歴史的価値について態度を保留しており、また創造から現在までの時間の伝統的な数え方も異なっていたので、ユダヤ教を破門はされないまでも、敵対者からも厳しく攻撃されていた。またその著書はイタリア各地で禁書に指定されていた。そこで、フィロンの思想を紹介しつつも、これ以上保守的な勢力から攻撃を受けないように、扱いが慎重だったのである。

しかし、上で見たデイ・ロッシからの4つの批判は、今日ではもはや大きな問題ではないだろう。唯一あるとすれば、それは原初の物質(primordial matter)に関する議論である。この問題は伝統的なユダヤ教徒がフィロンに躓いてしまう大きな理由であるが、元来は対グノーシスの議論の中で出てきたものである。タルムードの賢者たちは、創造時にいくつもの力(multiple creative powers)があったと主張するグノーシスの異端者たちを問題視している(ただし、これに対抗する「無からの創造」説がはっきりするのは後2世紀のキリスト教文学である)。ちなみにフィロンの著作にグノーシス的なところがあるかというと、それはグノーシスをどう定義するかによる。フィロンには二元論的なところや物質に対する否定的価値観などがあることは確かだが、それらはグノーシスの専売特許というわけではないので、フィロンをグノーシス主義者とは呼べない。

フィロンの思想はラビ・ユダヤ教とは確かに異なるところがある。とりわけ法的・ハラハー的議論が少ないことは明白である。しかし、一方でラビ・ユダヤ教を法的関心のみに制限することもまた誤りである。律法学者がユダヤ教において活躍してきたことは確かだが、イェフダ・ハレヴィ、ゲルソニデス、ヨセフ・アルボ、ベシュトらは律法の専門性ゆえに有名なわけではない。それにそもそもフィロンにも法的議論は現れている。

フィロンは、よく言われるように、プロト改革派のユダヤ人ではない。Alan MendelsonやYehoshua Amir(改革派ラビ養成校ヒブル・ユニオン・カレッジ教授David Neumarkの息子)などは、フィロンにフレキシブルでリベラルな精神を見出すが、論文著者はこれに反対する。フィロンは、テフィリンやメズザーの使用やトーラー学習の教え、口伝律法の遵守など、ユダヤ教の実践についてもかなり詳しく言及している。フィロンは自らをギリシア哲学者としてはではなく、敬虔な律法遵守のユダヤ人として示したかったのである。ユダヤ的なプリズムを通してみれば、フィロンの思想は現代の伝統はユダヤ教の精神とそれほどかけ離れてはいない。現在進行中のフィロン著作の現代ヘブライ語訳が、伝統的なユダヤ人読者の手に渡る日も近い。

2020年7月17日金曜日

アブラハムとロトの別れ(4) Rickett, Separating Abram and Lot #4

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 90-122.

より後代のユダヤ教聖書解釈においても、アブラハムに関する諸問題(ロトの帯同、争う羊飼いたち、土地の提供など)は明確に意識されている。その上で、トーラーを遵守する模範であるアブラムと、その好対照としての、トーラーを拒絶するロトという図式が出来上がっている。『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』と比較すると、後代のユダヤ教聖書解釈はロトに対してより否定的になっている。

フィロンは、アブラムの旅路にロトが同行していることに触れ、それをロトが言い出したことであると見なし、もってアブラムは犠牲者であるとした。羊飼いの争いに関しては、その原因はロトとその羊飼いにあるとし、一方でアブラムは争いのない静寂を求めてロトにより良い土地を譲ったのだと説明した。

ヨセフスは巧妙に説明をあいまいにし、話題の焦点を、アブラムによる問題ある申し出からロトによる出発の決断に移している。

各種タルグムはロトの財産について問題視した上で、それがアブラムに由来するものだと結論付ける。論争については、フィロン同様に、ロトとその羊飼いに責任があると論じている。アブラムの家畜は口輪をはめて他人の地所から勝手にものを食べないようにされているが、ロトの家畜はそうされず、どこにでも行ってよいとされていた。このようにアブラムとその羊飼いは肯定的に、ロトとその羊飼いは否定的に描かれている。

ミドラッシュ文学(『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』『バビロニア・タルムード』など)は、ロトがトーラーの拒絶者であることを強調する。その財産もアブラムのおかげで手にしたものであって、自分で得たものではない。羊飼いの争いは、そのままその主人たちの倫理的違いを反映している。つまり、悪なるロトの羊飼いもまた悪であり、善なるアブラムの羊飼いもまた善なのである。それゆえに、神もまたロトがアブラムの後継者には倫理的・関係性的に不適切だと断じている。つまり、ラビたちはアブラムやその羊飼いの問題からロトとその羊飼いの非道徳的な振る舞いに焦点を移しているのである。

ロトが「目を上げる」のは出エジプト記のポティファルが情欲を持ってヨセフに対して「目を上げる」のと同じであるし、「丸いヨルダン平野」を求めたのは箴言の言葉のように「売春婦を買う」のと同じであった。聖書テクストではロトがアブラムから離れようとしているとは書いていないが、ラビたちは、ロトはアブラムから離れようとしたことで、知恵とトーラーを拒絶したのだと解釈している。

『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』は、アブラムがロトに土地を提供しようとした件をなかったことにしているが、ラビたちはそれが必然だったと解釈する。すなわち、神とアブラムとの約束が履行されるためには(創13:14-17)、ロトがいなくなることを待たねばならなかったのである。それゆえに結果的にロトからのアブラムの別離は、倫理的にも宗教的にも必要性のあることだった。

ここまで論じた後、著者はアブラムとロトの別離をルツ記と比較する。こうした比較は上記のような伝統的な解釈に基づいているわけではないが、それ自体は興味深い。著者によれば、両方とも、イスラエル人による別離の要求に対するモアブ人の反応を扱っている。より具体的には、両物語は親戚関係を扱っており(ロトとアブラムは血統上の親戚関係であり、ルツ、オルパ、ナオミは結婚による親戚関係)、またある親族グループの構成員が別のグループからの別離を求めている。

とはいえ異なっている点もある。第一に、オルパやルツが最初はナオミとの同居を求めるのに対し、ロトはそのような素振りはなかった。第二に、ロトは住むための特定の場所を選んだが、オルパは自分たちの土地に戻っていった。第三に、確かにオルパとロトはイスラエル人から離れようという点で共通しているが、ルツはロトとは対照的に、イスラエル人と共にいることを選んだ。ここから、ルツ記におけるオルパはロトと比較可能な存在であり、一方でルツはロトと対照的な存在であることが分かる。ロトがオルパと同様にアブラムや神を受け入れることを拒んだのに対し、ルツはナオミが別離を求めてもそれを拒み、もって神やトーラーに従おうとした。ルツははっきりと、オルパやロトと対照をなしている。

さらにルツ記はイスラエルとモアブの関係性をめぐる問題にも関係している。ロトはイスラエルの先祖であるアブラハムと血統的につながっているが、ルツは上のようにイスラエル人のナオミを求め、その神を求めながらも、モアブ人である。申命記にはモアブ人が神の集まりに入ることは許されないと記されている(23:3)。ラビたちはしかし、神の集まりに入ることが許されないのは男性のモアブ人だけであり、女性はそれには当たらないと説明する。ルツがイスラエル人ボアズと結婚できたのは、このためである。

感想としては、ルツ記との比較は興味深いが、ミドラッシュの処理に問題を感じる。著者はテーマごとにさまざまなミドラッシュ文学を紹介している。たとえば、「アブラハムとの旅におけるロトの存在」というテーマのもとに『創世記ラバー』『バビロニア・タルムード』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』を、また「羊飼いたちの争い」というテーマについて『ペシクタ・ラバティ』『創世記ラバー』を、さらに「後継者としてのロト」というテーマに『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』を、といったように。ミドラッシュ文学は多様なので、あるテーマについてうまく説明している任意の箇所をどれかから引っ張ってくるのは簡単である。しかし、そうした紹介の仕方は恣意的になりかねない。そのようにテーマ毎にさまざまな文書から解釈を紹介するよりも、むしろ作品ごとに解釈を紹介し、各文書にそのテーマがあるかないかを示した方が恣意性を低めることができるのではないか。

2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月9日水曜日

「エノク派ユダヤ教」への批判 Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism'"

  • Anette Yoshiko Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism': 1 Enoch as Evidence for Intellectual History, Social Realities, and Literary Tradition," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 336-44.

本論文はGabriele Boccacciniの「エッセネ=エノク派仮説」に対する建設的な反論である。第二神殿時代のユダヤ教の多様性の核にあるは『エノク書』である、という理解が、エノク派文学、エッセネ派運動、クムラン共同体の関係性に関するBoccacciniの仮説の中心にある。とりわけ彼は「寝ずの番人の書」に見られる「堕天使が人間の罪と苦しみの原因である」という神話的な理解を重視する。この天使の堕落の神話は、伝統的な聖書の原罪理解からのラディカルな出発であり、ここに「エノク派ユダヤ教」が成立する。

エノク派ユダヤ教は前4~3世紀に祭司たちの中でできあがり、神殿の権威であるいわゆる「ツァドク派ユダヤ教」に相対した。Boccacciniによれば、以後数世紀に亘るユダヤ教の発展史は、このエノク派ユダヤ教とツァドク派ユダヤ教の抗争の物語といえるという。これはマージナルな黙示的思想の一派と一枚岩の主流派ユダヤ教の二項対立という従来の理解とは異なる。むしろエノク派ユダヤ教は祭司内部の反対運動に起因するのである。

方法論としてBoccacciniは、『エノク書』を中心に旧約偽典や死海文書などを渉猟した。これらを用いて悪の概念の発展と多様化を描いてみせたのである。正確には、(1)エノク派ユダヤ教は広くアピールされた運動であり、(2)この運動はエッセネ派に対する古代の言及を支持し、(3)クムラン共同体はこれらエッセネ派/エノク派の過激派であった。いわばエノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流派の現代的な名称であり、そこからラディカルでマージナルな子孫としてクムラン共同体が生まれたのである。

さらにBoccacciniは、過激派としてのクムラン共同体を生んだエノク派ユダヤ教の主流派は、そのままキリスト教のユダヤ的ルーツを構成することになり、同時にツァドク派ユダヤ教の主流派はそのままラビ・ユダヤ教を構成することになったと主張した。

論文著者は、こうしたBoccacciniのアプローチは、第二神殿時代のユダヤ教とラビ・ユダヤ教の関係や、新約聖書と初期キリスト教のユダヤ的背景の研究が大幅に進展する中で、それらのデータを総合的な理解へと統合することに成功していると評価する(一方で、古代のユダヤ教の主流派を理解するための資料としての『エノク書』など非正典テクストの重要性を低めることにつながってしまっていると批判してもいる)。

Boccacciniは『エノク書』に保存されるエノク的なテーマの統一性や思想的連続性を最初に指摘したわけではなく、彼の前にはSacchiやSchwartzらの研究が存在する。Boccacciniに独特なのは、彼の『エノク書』の利用が、思想史から社会史を描きうるという信念に基づいていることである。しかし、論文著者によれば、文学資料における思想的・テーマ的類似から社会史的な現実を再構成しようとする試みには、いくつもの方法論的な問題点があるという。

たとえば、Boccacciniは悪の起源の問題に注目したが、他の問題に注目したら別の結果が出るかもしれない。また「寝ずの番人の書」を検証の対象としたが、『エノク書』はひとつの声だけを持った文書とは到底いえない。悪の超自然的な原因や神義論をエノク派ユダヤ教とその他の諸ユダヤ教を区別するための基準に用いていることは、Boccacciniの議論に疑いを抱かせるものである。『エノク書』は、確かに一定の連続性や共通性を持ってはいるものの、そもそもはさまざまな資料のよせあつめであることを忘れてはならない。また文学的・テーマ的・思想的なつながりから社会史的な現実へと急いで飛び移ることにも注意しなければならない。

Boccacciniは、ツァドク派ユダヤ教から区別されるエノク派ユダヤ教を再構成することで、ラビ・ユダヤ教とキリスト教を共に等しく第二神殿時代のユダヤ教の後継として扱うためのモデルを提供した。しかし、これは第二神殿時代のユダヤ教をプロト・キリスト教的部分とプロト・ラビ的部分に分けることに他ならない。それゆえに、Boccaccini自身はユダヤ教とキリスト教を単一の知的システムに包摂しようとしていたにもかかわらず、実際のところ彼はそうした分岐がイエスの誕生以前からユダヤ教に存在していたことを示してしまっている。

Boccacciniの仮説が成功するか否かは歴史のみぞ知るところであろう。

2019年9月12日木曜日

聖書翻訳の中のラビ伝承 Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation"

  • Matthew Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation of the Book of Numbers," Journal of Biblical Literature 136.3 (2017): 539-63.

ヒエロニュムスはラビ文献を直接読んだわけではないが、タルグムやミドラッシュやタルムードに保存された口頭伝承へのアクセスを持っていた。かつてはラビ伝承のためにウルガータを研究することは、場当たり的で方法論を欠いていた。単純にミドラッシュ的な自由な敷衍訳をしてあるところには直接的なラビ的影響があると考えるという姿勢だった。しかし、それはヒエロニュムスの翻訳底本である聖書のVorlageの違いかもしれない。こうした研究はウルガータを聖書注解としてよりもヘブライ語の解釈として読もうとしている。そこでは、翻訳者を文化のメディエーターとして見るという視点がない。この論文は、ヒエロニュムスがユダヤ的な知識や情報提供者を用いつつ、聖書翻訳を通じて聖書解釈をしていたという可能性を追求する。聖書注解にラビ伝承を入れ込んだように、聖書翻訳にもそうしていたのではないか。

こうした観点からの研究には、C.T.R. Hayward, Friedrich Avemarie, Sebastian Weigertらのものがある。Adam Kamesarによると、『創世記のヘブライ語研究』はすぐのちに始まった聖書翻訳のための新しい文献学的システムを防御するために書かれたものだというが、Haywardは、同書中の創世記の訳文とウルガータ創世記の訳文にはかなりの相違があるため、『研究』で取り入れたラビ伝承をウルガータでは避けたと主張する。しかし、論文著者はウルガータの中にさまざまなラビ伝承があることを示してみせる。さらに、そもそも『研究』とウルガータの訳文が異なるのは、前者が注解という性質上さまざまな可能性を残せるのに対し、後者は翻訳としてひとつの訳文を選択しなければならなかったからである。いわば、ヒエロニュムスの基本路線であるrecentiores-rabbinic philologyは彼の聖書翻訳をも導いていたといえる。

ヒエロニュムスが注解を書いていない聖書文書の翻訳から、どのようにラビ伝承を確実に抽出すべきか。論文著者は、まずそれが普通でない翻訳であることを確定し、それとギリシア語訳のテクスト伝承との関係を定義し、比較可能なラビ伝承を探し、そしてヒエロニュムスの他の著作から彼がその伝承を知っていたかを確認する、という手順を提案する。

具体例を挙げる段階では、たとえば専門用語に注目したり、ラビの聖書解釈テクニック(たとえば聖書のひとつの単語を2つの単語で言い換えたりすること)と同じものを探したり、古代末期の文脈でのラビの聖書解釈を見つけたりしている。中でも興味深いのは、民数記24:24において「キッティーム」を「ローマ人」と同一視する解釈は、死海文書の『ハバクク書ペシェル』にも見られるものである。『ダニエル書注解』11:30-31でも同様の解釈をしている。もうひとつ興味深いのは、民数記10:5-7におけるラッパの音の違いを訳し分けており、それが『ミシュナー』「ローシュ・ハシャナー」4.9や『ピルケー・デ・ラビ・エリエゼル』32でのラッパの音の違いに関する説明にも見られる点である。おそらくヒエロニュムスは実際にショファールを見たことがあったに違いない(ただしそれがローシュ・ハシャナーと結びついていることまでは知らなかったようである)。

Megan Hale Williamsは、ヒエロニュムスが自分の翻訳にラビ的影響があることを公言するのは、自己構築の現れであると主張した。ヒエロニュムスがユダヤ学習やユダヤ人を描いてみせたり否定してみせたりするのは、修道者として自らを作り上げるプロセスにおける肉付けだというのである。さらにWilliamsは、ヒエロニュムス自身が説明するユダヤ人やユダヤ学習との交流を研究することと、実際の交流関係を研究することとは異なるという、方法論的に重要な指摘もしている。そしてそれゆえに、ヒエロニュムスのユダヤ学習の展開は、ユダヤ教とキリスト教の間に橋ではなく壁を作ったと主張するが、論文著者はこれに反論する。なぜなら彼の翻訳の方法論は境界を越えることを要求するものであるため、これはまさに壁ではなく橋をかけているといえるからである。

George Steinerによると、翻訳プロセスの四段階は、信頼trust、攻撃aggression、結合incorporation、互恵reciprocityであるが、ヒエロニュムスが「攻撃」に留まったままだったのに対し、オリゲネスは「互恵」の段階に達していたと考えられる。

ウルガータ中のラビ伝承は次のように同定される。ヘブライ語とラテン語の普通でない不一致があること。ラビ文学の中にユニークで比較可能な伝承があること。ウルガータの外部の資料(注解など)にラビ伝承の知識について言及があること。基本的には文献学的な翻訳であるが、ときにラビ的な解釈が適用されることがあるという点では、タルグム・オンケロスとの類似が指摘できる。ただし、さまざまな影響を含んでいるので、Adam Kamesarによる「改訂者的・ラビ的文献学(recentionres-rabbinic philology)」という表現の方がより適切である。またヒエロニュムスの実際の翻訳へのユダヤ的影響と、自己構築のためのユダヤ的影響への言及を区別するというWilliamsの主張も再考が求められる。

2019年6月29日土曜日

タルグムについて  Le Déaut, "The Targumim"

  • Loger le Déaut "The Targumim," in Cambridge History of Judaism, volume 2: The Hellenistic Age, ed. W.D. Davies and Louis Finkelstein (Cambridge: Cambridge University Press, 1990), 563-90.


タルグムという言葉は一般にアッカド語起源とされるが、Ch. Rabinはヒッタイト語起源を主張する。ティルゲムはヘブライ語から他の何らかの言語に翻訳することを意味するが、タルグムというとアラム語訳を意味する。エズラ記、ネヘミヤ記、ダニエル書以外のすべての文書のアラム語訳が存在する。かつては、「タルグムは文書化が禁じられていたので、その成立自体はキリスト教以前にさかのぼるが、文書化はラビ文学の初期(後200年)をさかのぼらない」と考えられていたが、クムランでの発見によって、文書化もキリスト教以前であったことが分かっている。

捕囚時にユダヤ人は主要言語であるアラム語を学ぶように強いられたが、ヘブライ語は礼拝と聖なる文学の言語として使われ続けた。捕囚後になるとアラム語使用は増えていき、反対にヘブライ語は人々の話し言葉ではなくなった。とはいえ、ユダヤ地方で発見された諸文書は、ユダヤ地方に限っては、バルコフバの乱の頃までヘブライ語が生きていたことを示している。

ではヘブライ語が生きていたのに、なぜタルグムが必要になったのか。ヘブライ語が次第に読まれなくなったから、というのが伝統的な回答だが、実際にはヘブライ語を読める人もタルグムを必要としたのだった。なぜなら、難解な聖書テクストは「解釈」を必要としたからである。それゆえに、エズラが律法を読んだときに、「翻訳し(メフォラシュ)、その意味を提供した」のである(ネヘ8:8-9)。

口伝タルグムはシナゴーグでの朗誦の礼拝とともに発展した。新約聖書の時代には、律法と預言書を安息日に朗誦する習慣は出来上がっていたが、その内容はよく分かっていない。ミシュナー(メギラー4)には詳細が残っている。ヘブライ語テクストの朗誦者が律法なら一節ごとに、預言書なら三節ごとに読むと、翻訳者(メトゥルゲマン)が「記憶から」その翻訳を提供するのである。すでに律法を最高とするヒエラルキーができあがっていた。「記憶から」というのは「書いてはいけない」ということだが、それは現実には守られていなかった。

1832年L. Zunzはすでに、ハスモン朝時代には文書化されたアラム語訳があったに違いないと指摘していたが、クムラン文書の発見によってそれは証明された。ヨブ記のアラム語訳(11QtgJob)は、外典創世記よりもダニエル書のアラム語に近い。クムランで発見されたという以外にはクムラン的な特徴はないので、アラム語訳の文書化はクムランの特殊事情ではないだろう(見つかったのがヨブ記であることを、エッセネ派的な現象と解釈する研究者はいるが)。パレスチナ・タルグム的な過度な付加はなく、シンプルなスタイルである。第四洞窟でもヨブ記のアラム語訳は見つかっている(4QtgJob)が、こちらは小さな断片である。ヨム・キプールには大祭司の前でヨブ記を読む習慣があったが(ヨマー1.6)、難解なヨブ記を読むためには翻訳が必要だったのであろう(A. Berliner)。第四洞窟からはレビ記のアラム語訳(4QtgLev)も発見されているが、これも断片である。基本的に、クムラン文書自体の膨大さに比して、タルグム資料の収穫はわずかであったが、それはJ.Y. Milikによれば、高度に知的なエッセネ派共同体がアラム語訳を必要としなかったからだという。初期のタルグムは一般向けだったのである。クムランのタルグム資料はすべて帝国アラム語で書かれている。

創世記4:8において、タルグム、七十人訳、ペシッタ、サマリア五書には挿入句が見られることから、これらはマソラー以前の似たVorlageに依拠しているという議論がある(S.R. Isenberg)。またヨセフスは『ユダヤ戦記』をもともとアラム語で書いたので、タルグムを用いていたと考えられている。新約聖書中にもタルグムに依拠していると見られる箇所がある(エフェ4:8、マタ27:46、Ⅱテモ3:8、ルカ6:36、同11:27など)。こうしたことからパレスチナ・タルグムと新約聖書の直接的な依存関係を議論する研究者はいる。とはいえ、こうした一致は同じテクストに依拠しているというよりは、たまたま同じ口伝解釈の伝承に依拠したと考える方がよいだろう。

五書のタルグム。タルグム・オンケロスはパレスチナ・タルムードではアクィラと混同されている。オンケロスは帝国アラム語で書かれており、パレスチナを起源とするが(プロト・オンケロス)、その編纂はバビロニアで4-5世紀に行われ、スーパーリニア母音が付された。それゆえに、アキバ学派をはじめとするタナイームの教えが反映する直解主義的な方法論を取る。つまり、パレスチナの教師たちが、彼らよりも直解主義的なバビロニアの伝統に出会って生まれたのがオンケロスである。

パレスチナの諸タルグムにUrtextを求めることはできない。口伝の枝分かれが複雑だからである。完全な訳としては、偽ヨナタン(エルサレム・タルグムⅠ)とネオフィティがあり、不完全なものとしては、フラグメント(エルサレム・タルグムⅡ)とカイロ・ゲニザがある。偽ヨナタンは、翻訳というよりは敷衍である。その最終的な編纂はタルムード後である。というのも、出26:9にはミシュナーについて、創21:21にはムハンマドの妻アディシャと娘ファーティマについての言及があるからである。ただし、申33:11にはヨアンネス・ヒュルカノスへの祈りもあり、伝承の中にはかなり古いものも含まれていることが分かる。ゲニザ・フラグメントは、最も古い形を残しており、オンケロスからの影響が皆無である。アラム語を日常的に話していた写字生によって書かれている。ネオフィティは、しばしばマソラー以前のVorlageや、タナイームのミドラッシュ以前のハラハーを反映している。また、しばしばゲニザ・フラグメントとの驚くべき一致を見せる。

預言書のタルグム。預言書はシナゴーグの礼拝においてかなり初期から読まれていた。ヨナタンは、ヒレルの弟子であるヨナタン・ベン・ウジエルに帰されるが、これはテオドティオンとの混同であろう。オンケロスと平行関係にあり、パレスチナを起源とするがのちにバビロニアで編纂された。ただし、オンケロスよりは逐語的でない。

諸書のタルグム。諸書はどの文書も公認版のタルグムを持っていない。メギロット以外にはシナゴーグでの朗誦がされなかったからだろう。諸書のタルグムはすべてパレスチナ起源であるが、バビロニアからの影響も大きく受けている。箴言タルグムはシリア語訳との類似が認められる。

すべての翻訳は解釈を前提としている。タルグムもしばしば、テクストの意味を明らかにすることを躊躇なく超えることがある。またテクスト本来の意味よりも、同時代の解釈を優先することもしばしばである。タルグムのテクニックを2つにまとめると、第一に、テクストを一見して理解できるようにすること、すなわち「説明(explanation)」であり、第二に、テクストをシナゴーグの会衆に関係あるものとすること、すなわち「実現(actualization)」である。

「説明」の例は以下のようなものである。タルグムは原文のシンタックスを変え、疑問文を平叙文に変え、間接話法を直接話法に変える。二つの別のエピソードをつなげる。不明瞭な語や表現は解釈を加え、一般的でない語はより簡単な語に代える。一語をたくさんの語によって説明することもある。メタファーやアレゴリーの本来の意味を伝える。イメージを具体的なものに置き換える。聖書は無謬の書のなので、空白や矛盾は排除する。

「実現」の例は以下のようなものである。神人同型的表現を避け、神の超越性を前提とするために、神の名を呼ぶことを避ける(代わりに、メムラ、カヴォード、シェヒナーを用いる)。聖書の登場人物(アブラハム、モーセ、アロンら)の不適切な行動の描写をリタッチする。メシアニズム、終末論、天使論、トーラー祭儀などを含む。「社会学的」な翻案、すなわち地理や歴史的な事柄を同時代のものに代えることもある(イザ9:11のアラムとペリシテがシリアとギリシアになる)。ただし、タルグム作者は恣意的な方法でこうしたことをするのではなく、聖書の一体性を重視する。

タルグムは古代のユダヤ人の聖書解釈である。聖書を理解するために作られたものである。現在の研究においては、本文批評や言語学的研究に寄与するために、正確な校訂版を作成することが求められている。また文法や辞書の整備も求められる。ミドラッシュ研究との協力も必要とされている。

2019年6月24日月曜日

タルグム概論 Hayward, "The Aramaic Targums"

  • C.T.R. Hayward, "The Aramaic Targums," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 218-41.

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ヘブライ語聖書のアラム語訳を指す「タルグム」の語は、ヒッタイト語起源ではないかとされている。五書には三種類の完全なタルグムがある。第一は、タルグム・オンケロス。オンケロスはユダヤ人改宗者で、ラビ・エリエゼルとラビ・ヨシュアの二人のパレスチナの賢者たちから教えを受けた。一般的にオンケロスはバビロニア由来とされており、確かにバビロニア・タルムードと同様に東部アラム語の特徴も持っているが、パレスチナで成立した死海文書のアラム語と似ているところもある。そのため多くの研究者たちは、もともとパレスチナで成立したあとに(プロト・オンケロス)、バビロニアにもたらされ、ラビの学塾で最終的に編纂されて公認版となったと考えている。

第二は、タルグム・ネオフィティ(MS Neophyti 1)。パレスチナのタルグムで、アレハンドロ・ディエズ・マチョによって、1956年にヴァチカン図書館で発見された(オンケロスと誤認されていた)。エルサレム・タルムードと似たアラム語である。欄外注や行間注があることが特徴的である。長い挿入がありつつも、基本的にはヘブライ語テクストに忠実である。11世紀のナタン・ベン・イェヒエルが引用している。ミシュナーと矛盾するような律法解釈を含んでいる。成立はおそらく4世紀頃か。

第三は、タルグム・偽ヨナタン。多くの拡張的な解釈を含むため、ヘブライ語の五書の二倍の長さになっている。言語的にはオンケロスと似ているが、拡張的な解釈についてはネオフィティ、フラグメント、その他のラビ文学と共通したものを持っている。他のラビ文学にはない解釈も保存している。創21:21の解釈で、ムハンマドの妻と娘に言及していることから、最終的な編纂は少なくともイスラーム期と見られる。ただし原型はラビ的権威が明確に拒絶した解釈を多く保存していることから、タルムード期以前と考えられる。

これらの完全な五書のアラム語訳に加えて、部分的な翻訳もある。第一は、フラグメント。これは西部アラム語で書かれたパレスチナ・タルグムである。解釈を穏当に付加するネオフィティと拡大解釈を含む偽ヨナタンの中間くらいの自由度である。第二は、カイロ・ゲニザの7つの断片。これもパレスチナ・タルグムである。断片は7世紀から14世紀のもの。そして第三は、タルグムのトセフトット。オンケロスとパレスチナ・タルグムの両方の要素を持った言語的特徴を持っている。

預言者については、完全なタルグムはひとつだけである。すなわち、タルグム・ヨナタンである。ヨナタン・ベン・ウジエルに帰される。バビロニア・タルムードでしばしば引用される。オンケロスと同様に、もともとイスラエルの地で成立したが、のちにバビロニアで最終的に編纂されたと考えられる。オンケロスよりも長く、またより詳細な解釈的付加が見られる。そうした解釈は他のラビ文学でもおなじみのものが多い。

諸書については、公認版のタルグムは存在しない。しかし、箴言、歴代誌、ヨブ記、詩篇、5つのメギロットなどはアラム語に訳されている。エステル記には2つか3つの訳があり、特にその二つ目は原文からかけ離れた長い解釈を含んでいる。

これら各種タルグムの共通した関心は、彼らが思うヘブライ語テクストの正しい意味である。翻訳者たちにとって聖書は無謬の書である。それゆえに、聖書にある矛盾、不明瞭さ、不合理さは、読者が表層の意味をこえて聖書の完全な意味を知るためのシグナルの役割を果たしていると理解される。そこで、タルグムは次のような操作を図る。たとえば、明らかな矛盾の排除、聖書の一貫性への関心、聖書に見られる反復表現への意味づけ(associative or complementary translation)、イスラエルや聖書の偉大の人物への批判の最小化、現在の問題解決を図るためにテクストを反転させた翻訳(converse translation)などである。

神の表現においては、神聖四文字は使われない。タルグムは神人同型的な表現を和らげ、何事も神自身ではなく「神の面前で現された」とする。こうした婉曲表現はもともとペルシアの宮廷で使われたものである。詩的表現を散文化することも多い。シェヒナーをはじめとする神の呼び名はほとんどが他のラビ文学にも出てくるが、タルグム独特のものとして「メムラ(言葉・発話)」がある。

タルグムは複数の解釈を紹介することがあるが、そうした解釈は別個に現れるのではなく、テクストの表面にシームレスにひとつの解釈のように現れる。それが複数の解釈であることは、もとのヘブライ語テクストの知識がないとわからない。一方で、律法解釈に関してはどのタルグムもひとつの解釈を提示する。タルグム・オンケロスの律法解釈はラビ・アキバのハラハー的ミドラッシュと一致しており、それはとりもなおさずバビロニア・タルムードと一致しているということである。

タルグムのジャンルの可能性としては、ミドラッシュ、再話聖書、翻訳が挙げられる。ミドラッシュと似たところを持っているが、次の3点に関して大きく異なっている。第一に、タルグムはヘブライ語テクストを翻訳したものだが、ミドラッシュはそうではない。最も敷衍が見られる雅歌タルグムやエステル記のタルグム・シェニですら、翻訳という枠組みを失っていない。第二に、タルグムはラビの名を挙げて引用することは決してないが、ミドラッシュはしばしばする。タルグムには引用を示す「ダヴァル・アヘル」のような定型句は出てこない。そして第三に、タルグムは底本のヘブライ語テクストの全体を提供するのに対し、ミドラッシュは特定のレンマだけを挙げる。

再話聖書の代表例は、ヨベル書、外典創世記、聖書古代誌、ヨセフス『ユダヤ古代誌』などであるが、タルグムとはやはり次の3点で異なっている。第一に、再話聖書はしばしば聖書のエピソードの一部分を完全に削除するが、タルグムはそうではない。第二に、再話聖書は聖書の話の順番を大きく再編成することがあるが、タルグムはそうではない。そして第三に、タルグムが底本のヘブライ語テクストのすべての語に注意を払うのに対し、再話聖書は必ずしもそうしない。

ではタルグムは翻訳なのだろうか。タルグムには翻訳に加えてエクストラの情報を組み込むことがあるし、敷衍することもある。そこでSamelyは、タルグムとはan Aramaic narrative paraphrase of the biblical text in exegetical dependence on its wordingだと定義している。

タルグムの社会的な場所はシナゴーグである。ミシュナー(メギラー4.10)には、読まれるべき(あるいは読まれるべきでない)聖書箇所や解釈されるべき(あるいは解釈されるべきでない)聖書箇所が挙げられているが、それはシナゴーグにおける問題である。タルグムは教育的あるいは説教的な目的のもとで、ヘブライ語を解さない者から解す者まですべてを対象としている。申命記シフレ(161)によると、タルグムが学塾で用いられていた可能性が示唆されている。神への崇敬が聖書に、聖書がタルグムに、タルグムがミシュナーに、ミシュナーがタルムードに、タルムードが行為に、行為が畏れに人々を導く。つまり、ミシュナーはタルグムによる前知識を必要としているというのである。このように、タルグムは個人にも共同体にも宛てられているが、非ラビ的解釈を含むことから、ラビの世界の外で生じたものではないかと考えられる。それがのちにバビロニアでラビたちに公認されたということである。

タルグムの成立時期を特定するのは難しい。最終的な編纂の時期と、文書として成立した時期も異なる可能性がある。成立時期の議論については、Renee BlochとGeza Vermesらによる先駆的な研究がある。すなわち、タルグム中の個々の解釈と、年代特定が可能な文書中の平行箇所を比較するという方法論である。他にも、聖書の地名を同時代のものに勝手に変えること、ギリシア語やラテン語からの借用語、アラム語の形態などを見ることで、年代を特定することができる。こうした分析の結果、オンケロスは後1世紀から2世紀初期に成立し、最終的な編纂はバビロニアで5世紀以前になされたと考えられる。ヨナタンも同様。ネオフィティは4世紀初期。偽ヨナタンは7世紀初期。フラグメントはネオフィティと偽ヨナタンの中間くらい。トセフトットは特定不可能。諸書のタルグムは6世紀以降。

しかし、これら以前にも、クムランには聖書のアラム語訳が存在した証拠がある。レビ記(4QTgLev = 4Q16)とヨブ記(4QTgJob = 4Q157, 11QTgJob = 11Q10)である。これらは、既存のタルグムよりもシリア語のペシッタにより近いという見解がある。ヨブ記に関しては、ヘブライ語のヨブ記以外からも影響を受けている。つまりクムランのアラム語訳ヨブ記は初期の非ラビ的タルグムを代表している。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (Supplements to Vigiliae Christianae)
Edmon L. Gallagher
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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。

2019年2月9日土曜日

説教者オリゲネスについて Heine, "Origen as Preacher in Caesarea"

  • Ronald E. Heine, Origen: Scholarship in the Service of the Church (Christian Theology in Context; Oxford: Oxford University Press, 2010), 171-87.


おそらく239年から244年にかけて、オリゲネスは、カイサリア教会での3年サイクルの説教者に任じられた。月曜日から土曜日の朝に行われる正餐を含まない祈りでは、旧約聖書の一節が朗読されたあとにその箇所に関する説教が行われる。これには信者と洗礼志願者の両方が出席できる。また日曜日、水曜日と金曜日の夕方に行われる正餐を含む祈りでは、福音書が朗読されたあとにその箇所に関する説教が行われる。これには信者しか出席することができない。このようにして3年かけて聖書を通読するのだった。

P. Nautinによると、オリゲネスの説教は詩篇、知恵文学、預言書、そして創世記から士師記までの歴史書という順で行われた。詩篇の中でも、第36篇についての説教が最も古いものと考えられている。

カイサリアにおいてオリゲネスは強力なラビ共同体に直面していた。彼は『詩篇説教』(36.1.1)において、申32:21「彼らは紙ではないもので私の妬みを引き起こし、空しいもので私を怒らせた。私も民ではないもので彼らを妬ませ、愚かな国民で彼らを怒らせる」における「民ではないもの」をキリスト者、「愚かな国民」をユダヤ人と解釈しているが、これはおそらくカイサリアにおけるユダヤ人との何らかのコンタクトを反映したものであろう。

オリゲネスはカイサリアに来て、アレクサンドリアにいたときよりもユダヤ人とキリスト者の関係性について神学的に考えるようになった。アレクサンドリアで彼が実際に相対していたのは、結局のところ彼が「ヘブライ人」と呼ぶキリスト者だったが、カイサリアでは大規模なユダヤ共同体と渡り合っていたのである。ここから、ユダヤ人とキリスト者の問題が扱われているパウロ書簡に多大な関心を寄せるようにもなった。オリゲネスだけではなく、彼の教会メンバーも日常的にユダヤ人と関わりを持っていたので、旧約聖書には直接は書かれていないユダヤ法を遵守する者すらいた。オリゲネスはユダヤ人とは異なるキリスト教的な聖書の読解を説いたが、かといってユダヤ人の聖書が完全に無意味なものになったとは考えなかった。字義通りの意味ではすでに無効でも、予言や予型の機能を話すことはできるからである。オリゲネスはユダヤ人と論争したが、彼らのことも彼らの聖書のことも否定することはなかった。説教においては、イスラエルをユダヤ人、ユダをキリスト者と見なしたり(エレ3章)、ヤイロの娘をシナゴーグ、長血の女を異邦人教会と見なしたり(ルカ8章)した。

オリゲネスの旧約聖書の説教は洗礼志願者のものではなかったが、彼らに配慮した内容になっている。たとえば彼は、さまざまな説教の中で、出エジプトになぞらえて洗礼志願者たちの進歩に言及している。出エジプトにおいて祭司がヨルダンで海を割ったように、教会における洗礼は祭司によって執り行われた。またギリシア語訳聖書においてヨシュアはイエスと音写されているのは、ヨシュアもイエスも人々を率いたからであった。

オリゲネスの聴衆には、聖書のコピーを所有するほど裕福だったり、それにアクセスすることができるほど高度な知識を盛っていたりする者たちがいた。オリゲネスはそうした者たちに、帰宅してから自分で聖書を読み返すように勧めている。彼らの中には祭司の家系の者たちもいた。一方で、占星術や予言のような迷信を信じていた者たち、サーカス、競馬、武術の試合などの興行にうつつを抜かす者たち(カイサリアには劇場などがたくさんあった)、ろくに教会に来ず、来ても噂話に興じる者たち、家のことばかりに気をとられて無駄話をする女性たち、説教の途中で帰る者たちなどもいた。オリゲネスはこうした者たちに我慢できずに、説教の中で不満を表明している。ここから、カイサリアにおけるオリゲネスが説教者として常に幸福な状態にあったとは言えないだろう。

オリゲネスが説教を通じて行おうとしていたのは、テクストの意味の解説というよりは、教会を教化することであった。そしてその教化の中身は、浄化、教化、完全化といった段階を経ていく魂の遍歴であった。そのためにオリゲネスは比喩や文彩を用いて、束縛の家としてのエジプトから自由の家としてのユダとエルサレムへの魂の遍歴を語った。そして雅歌における恋人たちのイメージから、花婿としてのキリストとの結婚こそを魂の遍歴の終着点だと説明している。こうした高度な教化を目指していたとすれば、実際の聴衆の体たらくはオリゲネスに強いストレスを与えたことだったろう。いずれにせよ、オリゲネスにとってキリスト教的生活とは静的な完成ではなく、もっと動的な前進を意味していた。

2018年6月6日水曜日

ユダヤ教、ギリシア・ラテン教父、シリア教父の比較 大澤『金の子牛像事件の解釈史』

  • 大澤耕史『金の子牛像事件の解釈史:古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈』教文館、2018年。
金の子牛像事件の解釈史: 古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈金の子牛像事件の解釈史: 古代末期のユダヤ教とシリア・キリスト教の聖書解釈
大澤 耕史

教文館 2018-03-09
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本書は、出エジプト記の金の子牛像事件について、ギリシア・ラテン教父の解釈を参考にしつつ、古代末期のユダヤ教とシリア教父の解釈の比較を試みた一作である。日本ではほとんど知られていないユダヤ伝承やシリア教父の解釈が豊富に引用されている。ユダヤ教側の資料は、5世紀から編纂が始まった『バビロニア・タルムード』まで、キリスト教側は4世紀までの解釈を対象としている。これは、第1章で研究史を概観した結果、時代や地域、歴史的な状況を一定の条件化に制限する必要があると著者が結論付けたからである。

第2章では、子牛像事件の「罪」について扱われる。ユダヤ教にとって、それは「異教祭儀」、中でも姦淫が問題だった。ギリシア・ラテン教父にとっては、具体的な図像への「偶像崇拝」が問題である。これはエジプトと関係した罪でもある。シリア教父は、これら両方の問題を取り込んでいる。すなわち、エジプトとの関係、異教祭儀、偶像崇拝、そして姦淫が取り沙汰される。ここから、シリア教父はキリスト教の立場に身を置きながらも、ユダヤ伝承を活用していたといえる。

第3章では、「アロン」の解釈が分析される。アロンは子牛像事件では「主犯」とも言える人物だが、どの解釈でも比較的擁護されている。それは、彼がユダヤ教にとってもキリスト教にとっても重要な「祭司」だったからである。やはりここでも、シリア教父はユダヤ教とギリシア・ラテン教父との類似性を持っている。

第4章では、「モーセ」の解釈が分析される。いずれの解釈でもモーセは非難されていない。ただし、ギリシア・ラテン教父はモーセを称揚するに際して、民をこき下ろしている。これは、モーセをユダヤ教から引き出してキリスト教側に引っ張り込むためである。シリア教父は、やはりユダヤ教ともギリシア・ラテン教父とも、共に類似した解釈を見せている。

第5章は、「イスラエルの民」に関する解釈が扱われる。ユダヤ教では、非難されるべき者とそうでない者を区別するなど、正当化を図るが、ギリシア・ラテン教父は概して単純に民を非難している。シリア教父は、その両方の解釈を有している。

第6章は、「サタン」の役割が解き明かされる。ユダヤ教では、子牛像事件の背後にはサタンがいたと考えるが(出エジプト記には出てこないにもかかわらず)、サタンのイメージは現代と異なっている。ヘブライ語聖書のサタンは、神の使いとして神の許容範囲内で行動するのに対し、時代が下り、新約聖書に至ると、神の敵や悪魔のイメージを得ている。一方で、ユダヤ教では依然として神の使いとしてのイメージを保持している。シリア・キリスト教はその両方のイメージを持っていた。

以上からも分かるように、シリア教父の解釈には、ユダヤ教とギリシア・ラテン教父のそれぞれに独自の特徴が両方見出される。ユダヤ教との親和性が高い理由としては、シリアではユダヤ教とキリスト教が共に少数派であったこと、相互の共同体の交流が保たれていたこと、そして言語的に似通っていることなどが考えられる。ただし、多くの場合、シリア教父がユダヤの聖書解釈を学んで自らに組み入れたのであって、その逆ではない。そのようにして、ギリシア・ラテン教父の間では失われてしまった、もしくは意図的に捨てたユダヤ的な聖書理解が、シリアにおいては保持された。

著者によると、子牛像事件が重要とされてきたのは、ユダヤ教とキリスト教の両者にとって、この事件が自分たちのアイデンティティーを示すために便利な素材であったからという。これが本書の最終的な結論である。

補遺では、ユダヤ教、ギリシア・ラテン教父、シリア教父による、子牛像事件における神の理解が描写される。ユダヤ教が神の言葉まで自由に改変する一方で、ギリシア・ラテン教父はそうしたことはしない(著者は、ギリシア・ラテン教父の予型論や比喩的解釈は、神を不動のものとして据えた上で、それでもなお多様な解釈を導くための技術だと説明する)。シリア教父は、そのちょうど真ん中ほどの厳格さを示している。やはりここでも、同じ構図が導き出される。

以下は疑問点。第一に、キリスト教でアロンが擁護されるのは、彼が祭司であるがゆえにイエスとの繋がりがあるからと著者は説明するが(91頁)、著者自身が触れているように、イエスの祭司性は伝統的にメルキゼデクに由来するとされてきた(ヘブライ書)。キリスト教において、イエスを祭司アロンとつなげるような解釈はあるのだろうか。

第二に、ギリシア・ラテン教父の間では失われた/捨てられたユダヤ伝承がシリア教父では保持されたと著者は説明するが(178頁)、そもそもギリシア・ラテン教父は失う/捨てるほどユダヤ伝承を知っていたのだろうか。オリゲネスとヒエロニュムスの他に、本当の意味でユダヤ伝承に通じていた教父などいるだろうか(ちなみに本書にはオリゲネスもヒエロニュムスも出てこない)。

第三に、比較のグループ分けが大きすぎないだろうか。少なくとも、ギリシア教父とラテン教父は別物とすべきではないか。本書では、どの章でも、シリア教父がユダヤ教とギリシア・ラテン教父の両方の特徴を持っているという構図が引き出されるが、ユダヤ教やギリシア・ラテン教父には多様な解釈が並存しているので、シリア教父がどんな解釈をしていても、それと似たようなものが見つかるのは当然ではないか。著者性の低いユダヤ教はともかく、ギリシア・ラテン教父では特定の人物を選ぶべきではなかったか。

2018年5月20日日曜日

ヒエロニュムスのユダヤ人教師 Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers"

  • Megan Hale Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers: Exegesis and Cultural Interaction in Late Antique Palestine," in Jewish Biblical Interpretation and Cultural Exchange: Comparative Exegesis in Context, ed. Natalie B. Dohrmann and David Stern (Jewish Culture and Contexts; Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2008), pp.66-86, 258-63.
ヒエロニュムスはユダヤ人教師から、ユダヤ人、彼らの習慣、そして彼らの聖書解釈を学んでいた。彼の持っている情報は概ね良好である。ここからは、単にある聖書解釈の伝統が別の伝統に影響を与えたことだけでなく、ユダヤ人とキリスト者の直接のコンタクトがあったことを窺い知ることができる。

380年の中期にベツレヘムに移り住むと、ヒエロニュムスはヘブライ語聖書の翻訳と預言書の注解に力を傾注した。そのときに彼が参照したのが、東方教父とパレスチナのユダヤ人の持っていた伝統だった。東方キリスト教の伝統には、直接師事した教父たちや文書を通じてアクセスしたが、ユダヤ人の伝統には、フィロンやヨセフスを除いて文書でアクセスすることはほとんどできなかった。そこで、彼はユダヤ人情報提供者とのコンタクトを取ったのである。

ヒエロニュムスのユダヤ人に対する態度はアンビバレントである。一方で、ユダヤ人教師に師事し、ユダヤ的な聖書解釈に繰り返し従いながら、他方で、当のユダヤ人やその聖書解釈に敵対的なことも書いている。これを単に「ヒエロニュムスは分裂した人格を持っていた」(Benjamin Kedar)と説明するだけでは不十分であろう。ヒエロニュムスがユダヤ文化と西方世界との架け橋になったのは、単に不本意な結果だったのだろうか。

4-5世紀におけるユダヤ人とキリスト者との交流は、かつて考えられていたよりも活発で重要なことだったことが明らかになっている(John G. Gager)。また「ユダヤ人」と「キリスト者」、あるいは「ユダヤ教」と「キリスト教」というカテゴリーは不安定ではっきりしないものであり、完全な別物と考えることはできない。影響関係についても、どちらが影響を与え、どちらが与えられたかを問うことは難しく、むしろ創造的な相互のプロセスだったと考えるべきである(Peter Schaefer)。

とはいえ、論文著者は、両グループが敵対心を持って互いを見ていたことは否定できないし、影響関係にも完全な中立はあり得ないと述べる。とりわけヒエロニュムスの著作は、そうした敵対心があったという社会の現実の証拠を示している。それゆえに、彼の著作を読むために、よりホリスティックで洗練された読み方が必要とされる。

3世紀から4世紀にかけて、「異教」としてローマの伝統宗教は、文化や宗教のリソースとして潜在的な活力をまだ失っていなかった(Peter Brown)。しかしながら、4世紀にキリスト教は国教化する。これは、カルトや蛮族の侵入といった外的要因によって異教が力を失ったからではなく、帝国の内的変化によって起こったものと考えられる。この変化の理由は、司教たちがローマの市民生活のあらゆる領域で自分たちの権威を確立しようとしたことにあるという。こうした前提からミラノのアンブロシウスのキャリアを再解釈すると、彼が皇帝との関係性を強化して自らの司教としての生き残りを模索した様子が浮かび上がってくる(Neil McLynn)。

しかしながら、こうした司教たちの動きは、キリスト者と非キリスト者という明確な分離を生み出した。それまで未分化だったキリスト教と異教とが、355年以降になると、はっきりと分かれてしまった。つまり、キリスト教が確固とした社会的地位を獲得していくに従って、そうでないものとしての異教があらわにされていったのである(Robert Markus)。そしてヒエロニュムスの時代こそは、キリスト教が社会的・文化的に最もはっきりとしたアイデンティティを持っていた時代であった(その後キリスト教は成長を続け、一人勝ちした結果、キリスト教が他を吸収するかたちで再び未分化になる)。

ローマの伝統宗教がそうであったように、ユダヤ教もまたキリスト教にとっての他者であった(Daniel Boyarin)。テオドシウス1世以降のキリスト教皇帝たちがユダヤ人をキリスト教徒と別個のカテゴリーと見なし、「誤り」として区別したことは、ユダヤ人とキリスト教徒との間に法的権利上の大きな差異を生み出した(Seth Schwartz)。ただし、その差異は、キリスト教と異教との差異とは微妙に異なってもいた。異教徒や異端者がキリスト教への改宗を強制されたのに対し、ユダヤ人は社会の周縁に押しやられつつも、改宗を強制されなかったのである。というのも、アウグスティヌスのユダヤ人理解に見られるように、ユダヤ人を悲惨な運命のまま、生かさず殺さずの状況下に置くことで、キリスト教の正しさが証明されるからである。もしユダヤ人がいなくなってしまったら、キリストを拒絶し殺したものたちの後継者として、集合的な罪を一身に背負う存在がいなくなってしまう(Paula Fredriksen)。Schwartzはさらに、礼拝での詩歌であるピユートには、古代末期のキリスト教徒による反ユダヤ的な神学を取り込んだ内容のものが見られると述べる。ヤンナイなどの詩人は、ユダヤ人の衰亡とエドム(=キリスト教的ローマ)の繁栄を対照的に描いている。

さて、ヒエロニュムスが活動を始めた時期には、ユダヤ人とキリスト者の境界線は明確ではなかったが、彼自身がそれを越えてユダヤの聖書解釈を取り入れていくことによって、かえってその境界線は強まった。ヒエロニュムスの大きな業績は、預言書の注解と聖書の翻訳である。彼の注解は、テクストを字義的・歴史的意味と、寓意的・霊的意味に分ける。まずは字義的解釈によって、聖書の歴史的意味を明らかにした上で、それから寓意的解釈によって、聖書の霊的意味を明らかにする(そのときに前者は後者から独立しているのではなく、むしろそれを抑制する)。興味深いことに、彼は、字義的・歴史的解釈をユダヤ的、そして寓意的・霊的解釈をキリスト教的と呼ぶ。これは、それぞれの解釈法で依拠したソースを表しているのではない。なぜなら、彼の寓意的解釈には、明らかにユダヤ教のミドラッシュから取られたものもあるからである(逆もまた然り)。

ヒエロニュムスがユダヤの解釈伝統のカテゴリーに帰しているのは、本文批評、歴史的解釈、そして千年王国説的解釈である。第一に、本文批評に関して、ヒエロニュムスが実際に依拠しているのはオリゲネスの『ヘクサプラ』であるが、彼はそれを常にユダヤ人教師から習ったと主張する。第二に、歴史的解釈は、ヒエロニュムスがユダヤ資料から直接学んだものものあれば、オリゲネスが彼の教師から習ったものを間接的に学んだものもある。また、ユダヤ人のものともキリスト者のものとも限定されない、シリア・パレスチナで共有されていた聖書解釈も含まれていた。

そして第三に、千年王国説的解釈は、神の国が地上に到来することを予言するような解釈のことであるが、これをヒエロニュムスはユダヤ由来とした上で、無意味で不快なものとして紹介している。ただし、やはりこれも実際にはユダヤ的伝統のもののみならず、キリスト教的な黙示的解釈をも含んでいる(テルトゥリアヌス、エイレナイオス、ウィクトリヌス、ラクタンティウス、アポリナリオスなど)。この解釈においてヒエロニュムスが問題としているのは、メシアが到来した未来には、大いに食べたり飲んだり結婚したりすることが許される、といった色欲に関わる事柄が含まれていることだった。修道者である彼は、これらを唾棄すべきものだと考えた。以上のように、ヒエロニュムスは、キリスト教的解釈であっても、彼が同意しないものはユダヤ的と呼んだのだった。

このようにして、ヒエロニュムスがある特定の注解を「ユダヤ的」と呼んだことは、キリスト教とユダヤ教との分化が加速する一因となった。この不当表示は、不当ながら力強いものであり、単なる修辞を超えて、のちに司教や帝国の権力と結びつくことで、既成事実となったのである。

2017年4月4日火曜日

トセフタについて Strack and Stemberger, "The Tosefta"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 149-63.
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「トセフタ」とは「付加・補足」を意味し、具体的には『ミシュナー』を補足する付加的な法的教えのことを指している。『トセフタ』は『ミシュナー』と構造を共にしている。ただし「アボット」、「タミッド」、「ミドット」、そして「キニーム」のみ『トセフタ』には含まれていない。『トセフタ』は『ミシュナー』より訳4倍ほど長くなっており、ミシュナー・ヘブライ語で書かれているが、アラム語やギリシア・ラテン語からの借用語も多く含む。

『トセフタ』の起源は、『バビロニア・タルムード』「サンヘドリン」86aによると、ラビ・ネヘミヤの作だとされている。ガオン・シェリラは、ラビ・ヒヤ・バル・アバ(とのその友人)が実際の著者だと説明している。ラシやマイモニデスも同様の見解を取る。多くの中世の学者たちは、「サンヘドリン」の指摘を無視し、ラビ・ヒヤおよびラビ・ホシャヤが『トセフタ』の著者だと主張する。Z. Frankelもこの伝統的な見解を受け入れているが、Ch. Albeckはこの二人のラビに帰されるのはわずかな部分に過ぎないと反論した。A. Goldbergは両者を架橋するために、『トセフタ』とは、ラビ・ネヘミヤがラビ・アキバおよびラビ・メイールの見解を補足したものを、ラビ・ヒヤが『ミシュナー』に依拠しつつ改訂・編集したものだと主張した。すなわち、『トセフタ』を『ミシュナー』への付加、あるいはそれへの注解と見なすわけである。

『トセフタ』と『ミシュナー』との関係は、幅広い議論を呼んでいる。研究史の中で、『トセフタ』は常に『ミシュナー』の補足と見なされていたので、それ自体を独立した者として取り上げた研究は少ない。両者には共観関係があるので、新約聖書の共観福音書の研究からも影響を受けている。両者の関係で言えることは、以下の7点である:
  1. 『トセフタ』は『ミシュナー』と一致しており、異なるとしてもわずかである。
  2. 『トセフタ』は『ミシュナー』では誰のものか分からない意見に名前を与えている。
  3. 『トセフタ』は『ミシュナー』の注解として機能する。
  4. 『トセフタ』は『ミシュナー』と共通の素材には直接言及しないが、そこから素材を付け加えている。
  5. 『トセフタ』は『ミシュナー』と法的議論や伝承者の名前で食い違っている。
  6. 『トセフタ』は『ミシュナー』の編成と大体同じだが、異なることもある。S. Friedmanによると、『トセフタ』は『ミシュナー』より原型に近い、原始的な編成を持っている。
  7. 『トセフタ』のスタイルは『ミシュナー』ほど洗練されていない。J. Neusnerによると、『トセフタ』は『ミシュナー』のように記憶しやすくは書かれていない。
M.S. Zuckermandelは、『トセフタ』とは『パレスチナ・タルムード』の基礎となった『ミシュナー』のことを指している一方で、現存する『ミシュナー』とは『バビロニア・タルムード』の基礎となった『ミシュナー』であると主張した。実際に、『パレスチナ・タルムード』はしばしば『トセフタ』と一致するが『ミシュナー』とは一致しない。彼は、逆に『パレスチナ・タルムード』が『トセフタ』と一致せず『ミシュナー』と一致するところは、テクスト上の汚染や改変があったと考えた。彼はこうした見解を基に『トセフタ』の校訂版を作成したわけだが、現在では受け入れられていない。

J.H. Duennerは、『トセフタ』とは、タルムード完成後に作成された、タルムード的バライタやタナイーム期の資料のことだと主張した。彼の見解は、Ch. AlbeckやI.H. Weissらによって受け入れられた。

A. Spanierは、A. Schwarzらの研究を受けて、『トセフタ』とは『ミシュナー』に関する特別なスコリアだと主張した。『トセフタ』の編集者は、『ミシュナー』から『トセフタ』を切り離すために、多くの箇所を付け加えたり取り去ったりした。そうすることで、新しい作品である『トセフタ』に統一感を与えようとしたのである。このようなスコリアはラビ・アキバの時代にはすでに存在し、ラビたちはそれらを『ミシュナー』に組み込んだのだった。

A. Guttmanは、『トセフタ』とは、それが『ミシュナー』を補足したり説明したり矛盾したりすることにかかわらず、『ミシュナー』に含まれていないタナイーム期の関連素材を集めた集成だと主張した。すなわち、比較的『ミシュナー』から独立した作品であると評価したのである。しかし、これはその場しのぎの議論にすぎない。

著者は、上の研究者たちのように、『トセフタ』と『ミシュナー』との関係性を全体として総合的に評価することは不可能であり、あくまでもマセヘットごとに特徴をつかんでいくしかないと述べている。著者によれば、「テルモット」では『トセフタ』は頻繁に『ミシュナー』を利用している一方で、『ミシュナー』は『トセフタ』に負うところはない。「スッコート」では、『トセフタ』は『ミシュナー』抜きでは解釈しがたいが、「イェバモット」では『ミシュナー』は明らかに『トセフタ』を想定していない。こうした観察は、『トセフタ』が『ミシュナー』に直接依拠しているというより、共通の素材があったことを示唆する。J. Neusnerは、「トホロット」において『トセフタ』は確かに『ミシュナー』の補足として理解されるが、「コダシーム」において『トセフタ』の議論は『ミシュナー』から独立している。こうした議論を重ねていくと、マセヘットごとの議論ですら大雑把に過ぎるかもしれない。

『トセフタ』とタルムードとの関係は、以下の4点が確実に言えることである:
  1. タルムードにおける『トセフタ』からの引用と言えるのは、「ヨマ」70aであるが、似た文書からの引用かもしれない。
  2. タルムード中の多くのバライタは『トセフタ』に一致する。
  3. バライタの中には、意味上は近いが言い回しは異なるものがある。
  4. タルムード中のラビたちは、『トセフタ』に親しんでいなければ出てこない解決を議論している。
こうした観察を受けて、J.N. Epsteinによれば、タルムードは『トセフタ』を別の仕方で知っていたという。『バビロニア・タルムード』のバライタはやや今日の『トセフタ』とは異なっているが、『パレスチナ・タルムード』のそれは『トセフタ』とかなり近いため、直接の関係性があるかもしれない。

一方で、Ch. Albeckによれば、タルムードのバライタが頻繁に『トセフタ』の並行箇所から外れ、また引用しそこなっているのは、タルムードの編纂者たちが『トセフタ』を知らなかったからだという。その代わりに、編纂者たちは、『トセフタ』のもととなるソースから引用したのだった。

B. De Vriesはこれらの中間の意見として、タルムードの議論における『トセフタ』の無視は、『トセフタ』への無知を意味しないと主張した。Y. Elmanは、「ペサヒーム」の研究を基に、『バビロニア・タルムード』にある『トセフタ』に似たバライタの多くは、『トセフタ』とは別に独立して受け取られたものであり、緩やかな繋がりはあるが、別の作品だと考えた。これはAlbeckの議論に近い。

『トセフタ』に関する議論は、一般的に受け入れられているものが多くない。バライタと『トセフタ』との文言が異なるのは、前者が自由に引用したからかもしれないし、直接の引用ではなく共通のソースからの引用だからかもしれない。研究史における権威であるJ. Neusnerは、『トセフタ』とは『ミシュナー』における法規の成立の歴史とは何の関係もない、『ミシュナー』以後の文書だと主張している。彼の意見も、年代によって異なるが、『トセフタ』の編纂はおそらく3世紀のアモライーム期、すなわち『ミシュナー』が完成したあとであり、かつ『パレスチナ・タルムード』よりは前のことだったと結論付けている。『ミシュナー』完成前に形成されたのは、ごくわずかな部分に過ぎない。言語的な検証から、編纂された場所はほぼ間違いなくパレスチナである。

ミシュナーについて Strack and Stemberger, "The Mishnah"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 108-48.
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「ミシュナー」とは、「学び」あるは口伝による「指導」を意味する語である。こうした一般的な文脈では、第一に、聖書テクストの解釈としてのミドラッシュ、第二に、聖書から独立して形成された法令としてのハラホット、そして第三に、非ハラハー的資料であるアガドットを指す。より具体的には、タナイームたちによって作られた宗教法を集めた文集で、ラビ・ユダ・ハナスィの手になるものを指す。教父たちがこれをデウテローシスと訳すのは、「第二のもの」という意味もあるからである。

『ミシュナー』の構成としては、6つのセデル(orders)でできており、それぞれのセデルにはマセヘット(tractates)に、それぞれのマセヘットはペレク(chapters)に、そしてそれぞれのペレクはハラホット(laws)あるいはミシュナヨットに分かれている。6つのセデルに分かれるという構造とそれぞれの名前は、『バビロニア・タルムード』「ケトゥボット」103bにも出てくるとおり、タルムード時代にはできあがっていたが、その順番はさまざまだった。マセヘットは全部で63あるが、3つの「バボット」が一つであり、また「マッコート」が「サンヘドリン」とくっついていたとすると、元来は60だったと考えられる。

あるマセヘットがどのセデルに割り当てられているかについては、通常であればそこで扱われているテーマの繋がりから理解することができるが、「ベラホット」、「ナズィール」、「エドゥヨット」、そして「アボット」に関しては説明がつきづらい。テーマ的なつながりでない場合には、法的ミドラッシュからの影響や、聖書の節の文脈から理解することもできる。『ミシュナー』の構成に、完全な一貫性や統一性を求めることは、その本質から見て期待できない。とはいえ、『ミシュナー』における資料編成の違いからは、そのもともとの資料や伝承の歴史などを分析することができる。

『ミシュナー』の起源については、987年に書かれたガオン・シェリラの手紙が参照される。これはカイロの会衆に対するガオンからのレスポンサである。ガオンによる『ミシュナー』の起源理解は、以下のようにまとめられる:
  • ラビ・ユダが『ミシュナー』を編纂した。
  • 「ウクツィン」や「エドゥヨット」のような彼以前に存在したマセヘットには、わずかな補足を施した。
  • ラビ・ユダの主たる資料はラビ・メイールのミシュナーである。
  • ラビ・メイールは師のラビ・アキバのミシュナーに基づいている。
  • ラビ・アキバは聖書時代である大シナゴーグに遡る伝承に基づいている。
  • これらの教えはすべて一致していたが、ヒレルとシャマイの時代になると異なる意見が出てきたので、文書としての『ミシュナー』が必要になった。
ユダヤ教の外部にも、これらの理解を支持する記述がある。エピファニオスによると、ユダヤ人たちの間には4つの伝承(デウテローシス)があった。第一に、モーセによるもの、第二に、ラビ・アキバによるもの、第三に、アッダあるいはユダによるもの、そして第四に、ハスモン人の息子たちによるもの、である。

『ミシュナー』と聖書解釈。口伝律法の起源に関しては、最初から口伝と成文とが共にあった(のであるから、法規はそもそも聖書由来ではない)という理解と、口伝は成文に由来する(のであるから、法規は聖書に由来するのだ)という理解とがある。N. Krochman, Z. Frankel, J. Bruell, D. Hoffmannらは、ガオン・シェリラと同様に、後者の見解を取った。J.Z. Lauterbachは、聖書に依拠するミドラッシュ的方法論に続いて、マカベア時代になると、聖書に依拠しないミシュナー的方法論が出てきたと考えた。一方で、Halevy, G. Aicher, S. Zeitlinらは、法規はそもそも聖書由来でないので、ミシュナー的方法論の方がミドラッシュ的方法論より先に出てきたと主張した。J.N. EpsteinやCh. Albeckらは中道を取り、ミシュナー的方法論とミドラッシュ的方法論とは共に存在したと主張した。

口伝律法と成文律法との歴史的な関係性を論ずることは、実際には不可能である。『ミシュナー』から分かることは、律法には三つのグループ――第一に、聖書に由来するもの、第二に、聖書から独立しているもの、そして第三に、もともと聖書から独立してできたが、のちにそれと結び合ったもの――があるということである。『ミシュナー』にはそもそも、ほとんど聖書からの引用は見られない。見られる場合も、後代の不可である可能性が高い。すなわち、概して『ミシュナー』は聖書から独立して法規を作り出してきた。

『ミシュナー』の予備的段階はどのようなものだったか。ガオン・シェリラは、ラビ・ユダ以前に「エドゥヨット」と「ウクツィン」があったことを報告している。J.N. Epsteinは、「シェカリーム」、「タミッド」、「ミドット」、「ヨマ」などは第二神殿時代から少しあとにかけて、すでに原型が存在したと主張している。これは、D. HoffmanやL. Ginzbergらによる、内容的・言語的な研究に従ったものである。これに対し、J. Neusnerは、後70年以前に『ミシュナー』が形成されていたという見解を否定的に捉えている。Ch. Albeckは、「エドゥヨット」に見られる、他のマセヘットにはない特殊性(素材の並べ方や伝承の仕方)から、「エドゥヨット」が最初期にできたものだと主張した。

ラビ・ユダ以前の段階におけるラビ・アキバの重要性は、皆が一致して認めている。Epsteinによると、ラビ・アキバが『ミシュナー』を作ったとまでは言えないが、多くの素材を提供したと認めている。同様に、その弟子であるラビ・メイールのミシュナーもまた、ラビ・ユダの『ミシュナー』の基礎になっている。こうしたことから、我々は『ミシュナー』の予備的段階に、比較的できあがった原型があったことを想像することができるが、それがそのまま伝わって今の『ミシュナー』になったとは言えない。

『ミシュナー』の編集は、伝統的にはラビ・ユダの手になるものとされているが、現在の『ミシュナー』には、その原型に多くの付加がつけられている。それは、ラビ・ユダの見解がほかの見解と比較されていたり、ラビ・ユダ以降の教師たちの見解が収められていることから分かる。これらは一般的に、『トセフタ』、法的ミドラッシュ、バライタ、そして『ミシュナー』に関するアモライームの義論などからの付加だと考えられる。いうなれば、ラビ・ユダは『ミシュナー』の編集過程における一人の主要な人物にすぎない。

『ミシュナー』のジャンル。『ミシュナー』中の誰のものか分からない見解は、しばしばラビ・ユダの見解とは異なることが多い。ラビ・ユダはなぜ自分と異なる見解を収録したのだろうか。E.Z. Melammedは、『ミシュナー』がラビ・ユダの学派の個人的な論集だからだと説明した。しかし、『ミシュナー』はそうした寄せ集めの文書なのだろうか。この問いに対して、三つの回答がある:

第一に、Ch. Albeckは、『ミシュナー』とは純粋に学問的な論集(academically oriented collection)であると主張した。すなわち、編集者は素材を集め、最も重要なものを明らかにし、そうすることで折衷的なテクストを作り上げたのである。その際に、彼はテクストを改変したり自分の見解を差し挟んだりはしなかった。編集者の目的は、実用的な法解釈を作ることではなく、目の前にある素材に手を加えずに提供することだった。『ミシュナー』にしばしば見られる反復表現、内部での矛盾などは、論集であるがゆえに自然なことである。しかし、単なる寄せ集めの論集など、当時必要とされたのかという疑問は残る。

第二に、A. Goldbergは、『ミシュナー』とは教育的な基準に基づいてデザインされた教則本(teaching manual)だと主張した。編集者の目的は、そこで扱われている法規が受け入れられたものであろうとなかろうと、学院のために公式な教則本を作ることだった。教則本として、編集者は自分の見解を入れたりはしなかった。教則本は法典のような厳格さが求められないので、『ミシュナー』にしばしば見られる論理的な瑕瑾も問題にならない。しかも教材として反復表現を用いることもごく自然である。

そして第三に、J.N. Epsteinは、『ミシュナー』とは現行の法規の代表的な判例を含む法典(legal canon)だと主張した。編集者としてのラビ・ユダは、既存の法規を改変し、付加を加え、削除し、検証し、修正したが、自分自身の見解よりは、大多数の見解を採用した。法典として、ラビ・ユダは自らの見解と異なっているものも含まなければならなかったのである。しかしながら、現代的な視点からは、『ミシュナー』は法典と言うにはあまりにも多くの矛盾を含んでいる。

これらのどれか一つを選ぶことはできないが、ラビ・ユダは『ミシュナー』を編纂することで、ユダヤ教を一つに結ぶことを目指していたと言えるだろう。

『ミシュナー』のテクスト。『ミシュナー』の出版は、公式な文書としてというよりも、いくつかのセクションを含む非公式のコピーが出回ったと考えるべきである。3世紀に『ミシュナー』のテクストがある程度固定されたあとでも、さまざまな付加が施された。文献学的には、パレスチナ型とバビロニア型があり、独立した『ミシュナー』写本はどれもパレスチナ型である。『パレスチナ・タルムード』の写本は『ミシュナー』抜きで伝えられ、『バビロニア・タルムード』は『ミシュナー』付きで伝えられてきた。

2017年4月3日月曜日

ラビ文学テクストの取り扱い Strack and Stemberger, "V. Handling Rabbinic Texts"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 45-55.
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ラビ文学が口伝として伝達されたことは、テクスト批判や批判的校訂本に方法論的な問題を引き起こした。ラビの伝承が何世紀も完璧に口伝によって伝えられたという幻想は、ラビ資料の無批判な使用を可能にしてしまったのである。歴史研究者は、事実確認をしないままにラビ文学を受け入れる一方で、明らかに事実でないと判断したところを勝手に取り除いた。思想研究者は、さまざまな記述が異なった時代に成立した事実に注意を払わず、のっぺりとした「ラビ神学」に行きついた。

ラビ文学テクストの研究にはさまざまな方法論がある。まず、文学史(Literary History)の観点からラビ文学の年代を特定することがある。このとき、我々はある作品の最終版しか語ることができないために、個々の伝承は文書全体よりも古い可能性を考慮しなければならない。この方法論では、一般に文書の著者性が問題とされるが、ラビ文学のような合成的なテクストでは不適切な議論である。テクストの年代特定においては、それが最初に引用されたのはいつなのかという、外的な証言に頼ることによって、terminus ante quemが同定される。またテクストの中で引用されているラビの中で最も新しい人物は誰か、あるいは言及されている出来事の中で最も後代のものは何か、という内的な証言に頼ることによって、terminus post quemが同定される。

文学史の中では、言語学的な検証も有効であるが、ラビ文学の場合、ラビ・ヘブライ語の儀式性や形式性ゆえに、またラビ文学が引用文学であるゆえに、さらにはラビ文学が擬古文であるゆえに、うまく機能しない。ラビ文学の文学史的研究においては、ラビ文学史の予備的な時系列を作ることがせいぜいである。その際には、タナイーム文学に優先順位がある。特にラビたちの名前に基づいて成立年代が特定され得る。また偽典、クムラン文書、新約聖書、教父文学、アラビア文学などとの比較が期待されるが、時空を隔てた諸文学の比較には注意が必要である。

文化史・宗教史(Cultural and Religious History)に基づいた研究では、テクスト解釈において、そのテクストが書かれた土地の定住の歴史、人口、経済などに注目すべきである。同時代のシナゴーグや教会、また異教の遺跡などの考古学的発見と比較すると、ラビ文学における描写はバイアスがかかっていることが分かる。ラビ・ユダヤ教とヘレニズム文化との比較は、S. Kraussらによって始められ、S. Lieberman, D. Sperber, A.A. Hallewy, H.A. Fischelらによって続けられた。特に教父文学やイスラーム文学との比較が盛んになされた。しかし、ラビ時代のパレスチナ地方のユダヤ教の多層性は十分に研究し尽されているとは言えない。

様式史(Form History)は、主に聖書学において発展してきた方法論である。M. Diberiusは福音書の様式史を明らかにしたが、H. Gunkelは旧約聖書にそれを適用しつつ、「ジャンル史(Guttungsgeschichte)」と呼んだ。「様式」が具体的なテクストの言語学的な姿のみを扱うのに対し、「ジャンル」は個別の文学的様式を、それを支配する原理や起源の状態によって同定しようとする。ラビ文学では、P. Fiebigを嚆矢に、F. Maass, J. Neusner, A. Goldberg, J. Heinemannらの研究がこの方法論を用いている。中でもNeusnerはラビ文学の「様式」を、ハラハ―的(halakhic)素材、アガダー的(haggadic)素材、注解的(exegetical)素材に分類した。

伝承史(Tradition History)は、トピックの歴史を扱うモチーフ史(Motivgeschichte)である一方で、さまざまな並行箇所を扱う共観箇所の研究(synoptic reading)でもある。この方法論による研究はあまり進んでおらず、何となれば、『ミシュナー』と『トセフタ』の共観箇所の研究すらまだ出てきていない。ただし、J. Neusnerはこの方法論がテクストの文脈を無視する点に批判的である。そして彼は、むしろ個々のラビ文学の記事の独立性を主張している。

編集史(Redaction History)は、あるテクストの最終的な編纂者の人間性や、彼の神学的な特殊性を扱う。すなわち、この方法論においては、テクストの編纂者を単なる編集者と見なさず、ほぼ著者と見なすことになる。しかしながら、ラビ文学のような合成的なテクストにおいて著者性(authorship)を語ることは不適切であることは、上で述べたとおりである。とはいえ、ラビ文学を引用文学として見たとき、編集史的アプローチは有効である。編纂者は単に無目的に引用を寄せ集めるのではなく、自身の目的を持っている。

口伝律法と成文律法 Strack and Stemberger, "IV. Oral and Written Tradition"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 31-44.
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口伝律法のコンセプトは、ラビ・ユダヤ教の基本である。口伝律法によってこそ、成文律法たる聖書は十全に適用される。この口伝律法は書かれることを禁じられていたのだろうか。この問いに対し、フランスの聖書解釈者ラッシーは是と答え、サアディアとマイモニデスは否と答えた。

口伝律法の文書化を禁じる証言としては、テムロット14b、アウグスティヌス、ヨセフスなどが通常挙げられるが、著者たちはこれらの証言は実際には文書化を禁じてはいないと解釈する。むしろ口伝律法の文書化の禁止は実用性のないドグマにすぎず、実際には禁じられていなかったという。事実、3世紀のラビたちはハガダーを書物として持っていた。またベト・シャン谷のレホブのシナゴーグの床には、法的テクストを書いたモザイクが残っている(7世紀)。ただし、こうした文書化された口伝律法は個人の使用に限られていた。

口伝律法の文書化に関する研究において、しばしば北欧のサーガ、ホメロスの叙事詩、アフリカの口承文学などとの比較研究がなされてきたが、こうした物語を扱う方法論は、アガダー研究には適用できても、法的議論には適用できない。そこで、言語学的・様式的な特徴、すなわち、統語論のパターン、基準となるフレーズ、言語的律動、共有されたキーワード、テーマ的つながりに注目する研究もなされた。

口伝律法は完全に文字通りの伝達を目的としたものではない。オリエントの人々の驚嘆すべき記憶力は、この文字通りの伝達という幻想を後押ししたが、教えを忘れることのないようにという再三の注意(ヨマ38b、メナホット99b、アボット3.8)は、実際には多くが忘れられていたことを示唆している。それゆえに、文字通りの伝達の程度を大げさに捉えてはならない。口伝律法における、長い秩序だったテクストのユニットは、文書化の仮定で出てきたものであろう。

同じ素材の口伝と成文の伝承が同時にあったことは、状況を複雑にする。『ミシュナー』の編纂者は、伝承を文書化しつつ、一方で弟子のタナイームを訓練し、その弟子たちが今度は暗記するまでそうした伝承を朗唱する。ところが、そうした弟子たちが覚えた伝承を、師である編纂者が文書化の過程で改変したり修正したりするのである。すなわち、テクストには流動性があった。

著者によれば、口伝による伝達は、その場しのぎの手段ではなかった。むしろ、第一に、口伝律法の原理は、口伝という方法においてのみ正しく伝わると考えられていたのであり、第二に、口頭での繰り返しは、そもそも『ミシュナー』というタイトルに現れているほどに重要なものだったのである。また、口伝を強調することは、聖書の正典化と表裏一体である。後代の伝承に対し、聖書を限定するために、前者を口伝として区別したのである。

2017年4月2日日曜日

法的ミドラッシュについて Kahana, "Midrashei Halakhah"

  • Menahem I. Kahana, "Midrashei Halakhah," in Encyclopaedia Judaica, 2nd edition, Vol. 14 (2006), pp. 193-204.
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法的ミドラッシュとは、タナイーム期の法的(ハラハー)資料と非法的(アガダー)資料を、トーラーの節の順に並べたものである。これに対し、同時代の『ミシュナー』や『トセフタ』は、主題に沿って解釈が並べられている。主たる現存する文書としては、出エジプト記に関する『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル』、レビ記の『スィフラ』、民数記の『民数記スィフレ』、申命記の『申命記スィフレ』などがあり、後代の資料から復元された文書としては、出エジプト記の『メヒルタ・デ・ラビ・シメオン・バル・ヨハイ』、民数記の『スィフレ・ズータ』、そして申命記の『申命記メヒルタ』がある。

D.Z. Hoffmanは、これらの資料を、ラビ・アキバ学派のものとラビ・イシュマエル学派のものに分類した:
  • ラビ・アキバ学派:『メヒルタ・デ・シメオン・バル・ヨハイ』、『スィフラ』、『スィフレ・ズータ』、『申命記スィフレ』、(『申命記スィフレ・ズータ』)
  • ラビ・イシュマエル学派:『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル』、『民数記スィフレ』
このうち、ラビ・アキバ学派のミドラッシュはさらに以下の二つに分けられる:
  1. 『メヒルタ・デ・シメオン・バル・ヨハイ』、『スィフラ』、『申命記スィフレ』
  2. 『スィフレ・ズータ』、(『申命記スィフレ・ズータ』)
前者はラビ・アキバ学派の古典的なミドラッシュであるのに対し、後者は独特の特徴を持ち、『ミシュナー』との繋がりが希薄である。

法的ミドラッシュにおいては、五書で言及されている法的素材のほぼすべてが扱われている。これらの文書は律法を扱うことを目的としているために、それを含まない創世記に関する注解が存在しないのである。ただし、法的ミドラッシュとは言いながらも、少しのアガダー的要素も含んでいる。

聖書の扱い。法的ミドラッシュは聖書テクストと、ラビたちによるその解釈とを明確に区別している。そこで聖書テクストをレンマとしてまず引用し、それからその節に対する解釈を述べるという構成になっている。聖書テクストを引用するので、注解もまた聖書テクストの順に行なわれる。言語的には、ミシュナー・ヘブライ語で書かれている。一つの聖書箇所に複数の注解が付されているが、多くの注解は誰の手によるものか不明である。聖書の節は、証明句として引かれたり、他の節にある矛盾を解消して新しい教えを明らかにするために引かれたりする。そうした節の機能から、法的ミドラッシュでは、神的な源泉としての聖なるテクストである聖書の完全な権威が認められている。

法的ミドラッシュ以前にも、聖書に見られる矛盾を解決しようという試みは、歴代誌、『神殿巻物』などに見られたが、これらは聖書内聖書解釈や再説聖書と呼ばれ、聖句と注解とが切り離されていない。一般に切り離されているものと見られるペシェルは、法的トピックを扱っていない。法的ミドラッシュの先駆としては、過越しの『ハガダー』や新約聖書などが挙げられる。

法的ミドラッシュと死海文書との違いは、第一に、前者は人間の解釈であるのに対し、後者は完全な権威としての神の言葉であること、第二に、前者が互いに異なるラビたちの意見を収録するのに対し、後者は統一的で一貫した解釈を提供すること、第三に、前者が単純なラビ・ヘブライ語で書かれているのに対し、後者は聖書ヘブライ語に近いこと、第四に、前者は後者よりも発展的な法的解釈を示していること、そして第五に、前者の方が後者より、聖書中のシンプルな法規からかけ離れたものを示していること、である。

こうした法的ミドラッシュの成立要因は、第一に、聖書が正典化され、それとは区別された文書がラビたちによって生み出される必要があったこと、第二に、聖書が聖なるものとされたことで、その解釈が必要とされたこと、第三に、聖書中のシンプルな法規から後代のラビたちの複雑な法規になるにつれて、法規の最新版が必要とされたこと、第四に、ラビの法規に対する外部からの反論を、文書を作っておさえる必要があったこと、第五に、ラビたち内部の議論のために、両学派が自分の見解をまとめる必要があったこと、などである。さらにはトーラー学習をローマが禁じたことで、トーラーが失われるのをラビたちが恐れたことも原因の一つと言える。

注解法の発展は、『スィフラ』に見られるヒレルの七つの注解法(ミドット)から始まる:カル・ヴァホメル(小から大へ)、グゼラー・シャヴァー(類似表現の比較)、ビンヤン・アヴ(ある箇所の法規の原型を別の箇所に発見)、シュネイ・ケトゥヴィーム(互いに矛盾する二つの節を発見)、ケラル・ウフェラット(一般と特殊を発見)、カヨツェ・ボー・ベマコム・アヘル(稀な語を別の箇所に発見)、ダヴァル・ラマッド・メインヤノ(文脈からの理解)。この注解法が、同じく『スィフラ』で、ラビ・イシュマエルによって13に増やされている。

数だけでなく、一つの注解法の意味もいくつか増やされている場合もある。グゼラー・シャヴァーはもともと二つの同じ事柄を比較することを意味したが、タナイーム期には二つの別の事柄についての法規を恣意的に比較することを意味した。またケラル・ウフェラットも、第一に、特殊のあとに来る一般、第二に、一般のあとに来る特殊、そして第三に、一般のあとに来る特殊のあとに来る一般の三種類が一緒くたにされていたが、ラビ・イシュマエルはそれぞれを区別した。

イシュマエル学派とアキバ学派との違い。イシュマエル学派の注解はアキバ学派のそれよりも穏健である。すなわち、前者がより聖書テクストに従い、そこにシンプルな意味を見出すのに対し、後者はそこから思い切って離れ、極端な解釈を引き出す。

さらに、イシュマエル学派は上の注解法に依拠して複数の節を比較するのに対し、アキバ学派は一つの節や言葉に拘って結論を出す。たとえば、本動詞と不定法とが並べられる聖書ヘブライ語独特の表現において、イシュマエル学派はそれを単なる文学的な反復と捉えるのに対し、アキバ学派はそれぞれの用法に意味があると捉える。

イシュマエル学派は、トーラーではっきりと書かれていないが引き出され得る解釈を、他の箇所の解釈に適用することを認めないが、アキバ学派はそれを認める。すなわち、アキバ学派は聖書を解釈して法規を引き出すのではなく、法規に合うように聖書を解釈するのである。

イシュマエル学派の解釈は穏健なので、性的な事柄や創造に関する議論などといった繊細な話題も扱うのに対し、アキバ学派はそもそも繊細な話題を扱うことを禁じている。というのも、アキバ学派は自分たちが極端な解釈を引き出しがちであることを知っており、それゆえに自分たちの解釈が異端者の正当化に使われることを恐れたのである。

両学派を分ける基準は、第一に、片方にしかない注解法があること、第二に、用いる用語の違い、第三に、登場する主たるラビたちの名前の違い、第四に、並行する解釈におけるわずかな差、などである。

文書の編纂。法的ミドラッシュの文書は、それぞれの学派を明確に区別せず、アキバ学派の文書の中にもイシュマエル学派の教えが引かれている。それを明示する場合もあれば、単にダヴァル・アヘルとして紹介する場合もある。ただしその紹介の仕方は恣意的であり、あえて部分的・断片的にしか紹介しないことがある。すなわち、文書の編纂者は客観的な文献学者ではなく、おそらくはその学派に属する者だったと考えられる。

アガダー的資料には、法的資料に見られるような両学派の区別はあまり見られない。両者共に、極めて似た内容およびスタイルのアガダーを含んでいる。むろん、表現や単語、アプローチの仕方、そして見解の違いなどがないわけでもない。

失われた法規。法的ミドラッシュには、『ミシュナー』、『トセフタ』、『タルムード』のバライタには見られない法規が保存されている。保存されていた理由は、第一に、反対意見すら収録するという、法的ミドラッシュの高度に発展した弁論ゆえ、第二に、編纂者がさまざまな資料を用いたため、第三に、初期の解釈を入れ込んだことゆえ、第四に、『ミシュナー』ほど優良な保存状態でなかったため、である。特に『スィフラ』には、レビ記に関する第二神殿時代の解釈が残されている。

各種タルグムは法的ミドラッシュと共通する資料を持っており、特にタルグム・ヨナタンは、法的ミドラッシュを文書として知っていたと考えらえる。アキバ学派は『ミシュナー』を頻繁に利用した。一方でイシュマエル学派はそのままでは引用せず、パラフレーズしたり短くしたりして引用した。「ミシュナー」という語自体も、アキバ学派の文書にだけ登場する。イシュマエル学派は『ミシュナー』の権威を認めていなかったのである。『トセフタ』はイシュマエル学派の代表的なラビたちにも言及している。タルムードとの関係としては、法的ミドラッシュの方がタルムードのバライタよりも、タナイームたちの教えをよく保存していると言える。そもそもアモライームは自身の説明や見解を付け加えている。注解法についても、法的ミドラッシュでは、複数の法規をひとつの聖句で説明したり、逆にひとつの法規を複数の聖句で説明したりするのに対し、タルムードでは、ひとつの聖句が秘めている法規はひとつだけなので、複数の聖句からひとつの法規を引き出すことは不可能だと考えられている。

法的ミドラッシュが編纂された場所と時間は、用いられている言語の特徴などから、イスラエルの地で、後三世紀中盤だと考えられている。すなわち、『ミシュナー』から『タルムード』への転換期である。Ben Zion Wacholderは8世紀だと主張するが、これは否定されるだろう。またイシュマエル学派の文書はバビロニアで編纂されたという説もあるが、これも疑わしい。

法的ミドラッシュの研究史は三期に分けられる:第一に、18から19世紀のユダヤ教科学の時代に、A. Geiger, L. Zunz, Z. Frankel, J.H. Weiss, M. Friedmanらが、タルムードやミドラッシュの歴史的発展、法規やミドラッシュの学ばれ方、そして法的ミドラッシュの再解釈などを研究した。第二に、19から20世紀には、I. Lewy, D. Hoffman, S. Schechter, H.S. Horovitzらが、イシュマエル学派とアキバ学派の比較、批判的校訂版の出版、失われた法的ミドラッシュの再構成などに従事した。そして第三に、現代ではJ.N. Epstein, Ch. Albeck, S. Lieberman, L. Finkelsteinらが、さらなる校訂版の出版を続けたが、『ミシュナー』や『トセフタ』への関心が強いために、法的ミドラッシュはやや無視されつつある。

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2017年2月19日日曜日

『スィフラ』の聖書解釈 Yadin-Israel, Scripture and Tradition

  • Azzan Yadin-Israel, Scripture and Tradition: Rabbi Akiva and the Triumph of Midrash (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2015).
本書はタナイーム期のレビ記注解であるミドラッシュ『スィフラ』の聖書解釈方法論を検証したものである。2世紀から3世紀のラビたちは、二種類のテクストを残している。第一に、記憶され朗誦される定言的な律法を持つ「ミシュナー」型。第二に、聖書の句を分解し、それに注解を施す「ミドラッシュ」型である。『メヒルタ』、『スィフラ』、『スィフレ』などは後者の型に属する。

聖書に対するミドラッシュの関係は、しばしば駄洒落や言葉遊びなどと捉えられてきたが、Daniel Boyarinは、ミドラッシュとはトーラーにおける言葉やフレーズの意味を、聖書の残りの部分から説明しようとする試みだと定義している。Boyarinの弟子である著者は、この定義がミドラッシュの法的部分にも適用可能かを明らかにしたいと考えた。

タナイーム期の法的ミドラッシュには二種類の出自がある。第一に、『スィフラ(レビ記)』、『申命記スィフレ』、『メヒルタ・デ・ラビ・シモン(出エジプト記)』、さらには『ミシュナー』と『トセフタ』にも大きく影響しているラビ・アキバの学派。そして第二に、『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル』や『民数記スィフレ』をかたちづくったラビ・イシュマエルの学派である。著者の前著であるScripture as Logosにおいて、著者はラビ・イシュマエル学派は聖書を導き手として聖書を解釈しており、それはクムラン共同体の伝統を継承した方法論であると主張した。

著者によれば、ラビ・アキバ学派による『スィフラ』には、「匿名でない発言(named) statements」と「匿名の発言(anonymous statements)」とがあり、後者はレビ記に関するランニング・コメンタリーの形式を取っているという。そして、「匿名の発言」は、『ミシュナー』や『トセフタ』において受け継がれた伝承の権威を強めるために、もはやミドラッシュ的な方法論を逸脱した「空虚な(vacuous)」な解釈であるという。一方で、「匿名でない発言」の方は真正にタナイーム期のものであると考えられ、よりどちらかと言えば「イシュマエル学派的」な傾向を持っている。

ロゴスとしての聖書 Yadin, Scripture as Logos

  • Azzan Yadin, Scripture as Logos: Rabbi Ishmael and the Origins of Midrash (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2004).
Scripture As Logos: Rabbi Ishmael and the Origins of Midrash (Divinations)Scripture As Logos: Rabbi Ishmael and the Origins of Midrash (Divinations)
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本書は、イシュマエル学派の法的ミドラッシュとされている『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル』と『民数記スィフレ』とを対象に、イシュマエル学派の解釈学を明らかにしたものである(一方で、『スィフラ』と『申命記スィフレ』とはアキバ学派に帰されている)。これらの帰属や二学派の存在などは、19世紀のDavid Hoffmanの見解(のちにJ.N. Epstein, Abraham J. Heshel)に依拠している。しかし著者は、それをポスト・モダン的な文学批評のもとで検証しようとしている点で、Daniel BoyarinやDavid Sternの系譜にも属している。

著者の根本的な主張は、イシュマエル学派の法的ミドラッシュにおいて、聖書は自らを解釈するのであり、そのとき読者による解釈は制限されている、というものである。著者によれば、これらのミドラッシュは人間の解釈者には「服従の解釈学(hermeneutic of submission)」を課し、必ずしも自由な解釈を読者に開いているわけではない。なぜなら聖書は自らを正しく解釈しているばかりか、正しく聖書を解釈することをも教えているからである。

こうした事を説明するために、著者は、イシュマエル学派では聖書は「トーラー」と「ハカトゥヴ」とに分けられていると主張する。前者は聖書の権威ある声で、かつシナイ山に由来するものあり、通常過去形で語る。一方で、後者は聖書の解釈であり、通常現在形で語る。イシュマエル学派の文書で「トーラー」と言うとき、それは自らの中に権威ある声を持っているために、人間の解釈を制限できるのである。しかし「ハカトゥヴ」と言うとき、それは編者であるラビ自身の声であり、あたかも自分たちの教えや解釈が聖書の節の中にすでに表れていたかのように表現するのである。それゆえに、「ハカトゥヴ」は誤った解釈を最初から想定しており、読者がそれを受け入れるのに警告しているとも言える。

イシュマエル学派というと、ラビ・イシュマエルの13の基準(ミドット)が有名であり、著者の分類ではこうした基準は「ハカトゥヴ」のモデルとして機能したわけだが、著者はこれは歴史的にラビ・イシュマエルに関係しているわけではないと述べる。イシュマエル学派の文書において、ミドットは聖書解釈の論理的な規則というよりも、聖書のふるまいの典型に言及しているものだと言える。

著者は、イシュマエル学派の「ハカトゥヴ」は、クムランを始めとする第二神殿時代のユダヤ教の伝統である「ロゴス」の概念に似ていると指摘する。「ロゴス」は、キリスト教教父の伝統では「教師としてのキリスト(クリストス・ディダスカロス)」として受容されている。クムランとの関係性が本当であれば、「ハカトゥヴ」を擁するイシュマエル学派は、パリサイ派=アキバ学派に反対する祭司の伝統に属していると言えるだろう。

イシュマエル学派はこれまで、聖書へのより逐語的なアプローチ(literal approach)をその特徴とすると考えられてきたが、実際には必ずしもアキバ学派よりも逐語的でないものも散見される。著者によれば、より正しくは、イシュマエル学派は聖書が自らをどのように解釈しているというテクストの文脈に、より繊細なのだという。

またこれまでは、イシュマエル学派の伝承があまり『ミシュナー』や『トセフタ』に言及されていないのは、それらが単純にアキバ学派に属するものであったからと説明されてきた。しかしながら、著者によれば、聖書そのものよりもラビ的な解釈、すなわち口伝律法の権威に基づく『ミシュナー』のスタイルは、イシュマエル学派のスタイルではないのだという。

2017年2月18日土曜日

スィフラに対するミシュナーの依拠 Reichman, Mishna und Sifra

  • Ronen Reichman, Mishna und Sifra: Ein literarkritischer Vergleich paraleler Überlieferungen (Texte und Studien zum Antiken Judentum 68; Tübingen: Mohr Siebeck, 1998).
本書は、レビ記に関する法的ミドラッシュである『スィフラ』と『ミシュナー』とを比較し、『ミシュナー』が直接的に『スィフラ』に依拠していると見られる並行箇所を比較したものである。著者の三分類によれば、第一に、一貫性を欠いているが『スィフラ』と並行している『ミシュナー』伝承、第二に、『スィフラ』による解釈のために意味論的な違いがある『ミシュナー』伝承、そして第三に、『スィフラ』を『ミシュナー』編者が改訂したと思われる『ミシュナー』伝承である。

著者はそれぞれの分類のために、多くの並行箇所を挙げているが、それらは著者自身による前提から出発した分類なので、トートロジーになってしまっている。著者の仮説では、『スィフラ』の素材は『ミシュナー』でも使われていたことになっており、その仮説に合致する箇所のみが扱われている。G. Stembergerは著者の博士論文を詳細に検証した結果、『ミシュナー』が『スィフラ』に依拠しているという主張を含む著者のほとんどの議論を否定している。

ハラハーとミドラッシュ Harris, How do we Know This?

  • Jay M. Harris, How do we Know This? Midrash and the Fragmentation of Modern Judaism (Albany: State University of New York Press, 1995).
How Do We Know This?: Midrash and the Fragmentation of Mdoern Judaism (Suny Series in Judaica, Hermeneutics, Mysticism and Religion)How Do We Know This?: Midrash and the Fragmentation of Mdoern Judaism (Suny Series in Judaica, Hermeneutics, Mysticism and Religion)
Jay M. Harris

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本書は、法的ミドラッシュと聖書との関係性について歴史的に検証したものである。歴史的には、法的ミドラッシュと聖書との関係性を理解するするためには、二つのアプローチがあった。第一に、法的ミドラッシュは解釈学的方法によって聖書から導き出されたものと考えるもの。そして第二に、法的ミドラッシュは実用的な結果を伴わない学問的なものと考えるものである。第一のアプローチの問題点は、聖書から導き出されたように見える律法は、現代の文献学的な視点から見るとかなり無理があるものだということである。一方で、第二のアプローチの問題点は、聖書的根拠を欠く律法には果たしてどのような典拠と権威があるのかということである。

本書はこうしたアプローチの違いがユダヤ史には存在したことを明らかにした上で、特に近代においては、ある者がユダヤ教の伝統の継続をどのように考えているかということが、ラビ・ユダヤ教の歴史の理解、そして法的ミドラッシュの理解に大きく作用していることを指摘する。たとえば、ラビ・ユダヤ教を否定的に捉える者たちは、その否定的な態度を正当化するために、ラビたちが作り上げた伝統は聖書を文献学的には不正確に用いたミドラッシュに基づいていると捉えてしまう。一方で、ラビ・ユダヤ教を肯定的に捉える者たちは、ラビたちの深い聖書理解を強調しようとする。いわば、それぞれの立場は最初から決まっているのである。

タルムードは、律法を導き出すためには聖書解釈が典拠になると考えたが、『バビロニア・タルムード』が聖書解釈の原則を確たる規則としては考えなかったのに対し、『パレスチナ・タルムード』はラビたちが聖書解釈において、より一貫していると考えた。とはいえその一貫性は、シンプルで理解しやすい聖書解釈をするラビ・イシュマエルと、より込み入っていて、現在の文献学からは程遠い聖書解釈をするラビ・アキバとに分けられる。

中世では、サアディア・ガオンは聖書の独立した解釈は不可能であり、聖書解釈から得られたように見える律法も、実際には口伝律法に依拠していると主張した。マイモニデスも、聖書から解釈によって得られた律法も、実際には聖書起源というよりはラビ的権威に由来すると考えるべきと述べている。