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2019年10月3日木曜日

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン・エッセネ派 Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites"

  • Gabriele Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites: Three Social Groups, One Intellectual Movement," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 301-27.

論文著者は「エノク派=エッセネ派仮説」を唱えた論者である。これはクムラン共同体のエノク的ルーツという問題と、クムラン派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の分岐点という問題を再考する機縁となった。

第二神殿時代のユダヤ教の精神史を描写するために2つのアプローチがある。第一に、異なった文書からデータを統合し、ひとつの折衷的な主題(=第二神殿時代のユダヤ教神学)を作り上げるという「公分母型アプローチ」である。実際にそのような単一の主題は存在せず、統一性を乱すような個々の特性も無視することになる。第二に、多様な主題(=第二神殿時代のユダヤ教諸神学)を代表するものとして個々の文書を孤立的に扱う「多様性強調型アプローチ」である。この場合、我々が面しているのは単一の主題の異なった段階ではなく、別の主題ということになる。

後者のように多様性に注目する場合、知的運動(intellectual movements)と社会的グループ(social groups)とを方法論的に区別しなければならない。知的レベルと社会的レベルは同じではない。そこで論文著者が主張しているのは、死海文書の背後には少なくとも、エノク派、エッセネ派、クムラン(・エッセネ)派という3つの社会的グループが存在しているが、それらは1つの知的運動であるということである。

3つの社会的グループは確かにイニシエーション儀式、メンバーシップ規則、礼拝や儀礼、生活様式などを異にしている。J. Murphy-O'ConnorやPhilip Davies, Florentino Garcia Martinez, Adam van der Woudeらによれば、クムラン派とはエッセネ派のうちの過激なグループであるという。また近年ではDavid R. JacksonやGeorge Nickelsburgらが第二神殿時代のユダヤ教にエノク派ユダヤ教と呼ぶべき特定の党派性を持ったグループが存在していたことを明らかにしている。一方で、これらの3グループには思想的に多くのパラレルも認められる。つまり同じ知的運動なのである。

(1)クムランにおける党派的テクストはエノク派とツァドク派の思想の影響を受けている。一般的には、クムラン派が自らを「ツァドクの子」と称しており、モーセ律法を重視していることから、ツァドク派からの影響が指摘されてきた。しかし、もしクムラン派がツァドク派運動だというなら、なぜ彼らは非ツァドク派的、さらには反ツァドク派的な文学も保存しているのだろうか。Lawrence SchiffmanやDaniel Schwartzらは、クムランにおけるエノク派テクストの存在をユダヤ教グループに共通する特徴だと説明するが、論文著者によればこうした説明はエノク派文学の非協調的で革命的な特徴を見落としている。

エノク派の特徴は、「堕天使」を地上における悪と不浄の蔓延の原因とする、悪の起源に関するユニークな考え方である。エノク派によれば、人間は加害者ではなく被害者なのである。また慈愛あふれる神に悪の起源を帰することもない。エノク派の思考システムでは、悪の起源について被害者としての人間と責任ある人間という2つの矛盾する考え方を採用している。言い換えれば、決定論と非決定論である。どちらか一つだけではエノク派のシステムは崩壊する。

論文著者によれば、クムランの予定論的な神学はツァドク派の契約思想ではなく、このエノク派の決定論からの影響であるという。エノク派における決定論(悪の起源は堕天使のせいであって人間のせいではない)と非決定論(人間の自由意志を認める)の緊張関係を、クムラン派は、個々の人間の運命を予め決定しているのは神であるという「個人的な予定論(individual predestination)」として解消している。こうした主張は、Paolo SacchiやEyal Regev、さらにはJohn J. Collinsのような慎重な研究者すら受け入れている。

(2)Collinsは、しかし、クムラン派とエノク派が同じグループとは言えないと主張する。なぜなら、第一に、クムランの党派的テクストが中心的な価値をモーセのトーラーに置いているのに対し、エノク派文学はモーセ伝承を無視したからである。第二に、クムラン派が党派的グループであるのに対し、エノク派は改革運動だからである。論文著者によれば、これほど異なるクムラン派とエノク派を仲介したのが、両者の特徴を併せ持つ『ヨベル書』であったという。『ヨベル書』を書いたのは、フィロンやヨセフスが描くところの都市型エッセネ派と考えられる。

(3)ではクムラン派とエノク派のユダヤ教はどのように分離したのか。クムランでは「たとえの書」がまるで見つかっておらず、おそらくは「エノク書簡」もほとんどなかったと考えられる。これら後期のエノク派文学はクムランが持つ「個人の予定論」と相容れなかったからであろう。「たとえの書」が天の裁きに際して人間の自由と選択を強調するのに対し、クムランでは善悪は神の変わることのない決定に由来していると考える。それゆえにクムランは、『ダマスコ文書』での引用を最後に、エノク派文学への興味を失った。

エノク派運動は、クムランとの接点は失ったが、より大きなエッセネ派運動(都市型エッセネ派を含む)とは密接な関係を保ち続けた。それは次の4点に注目すると分かる。第一に、エノク派ユダヤ教と都市型エッセネ派の類似。第二に、非クムラン的・非エノク的でありながら、エノク派運動にもエッセネ派運動にも共通する特徴を持つ文学があること(『十二族長の遺訓』)。第三に、イエス運動はクムランについて直接的な知識を持たなかったにもかかわらず、エノク派ユダヤ教と非クムラン的エッセネ派の特徴を持っていること。そして第四に、クムラン派は自らを指導的なエリートと考えていたが、決してエッセネ派運動の中心だったわけではないこと、である。エノク派とエッセネ派は2つの異なった社会グループだが、社会的・思想的なつながりがあったのである。

(4)ただし、以上のようなエノク派とエッセネ派との関係について、古代の歴史的なソースが証言しているわけではない。ただ組織的な分析によって、エノク派、エッセネ派、そしてクムラン(・エッセネ)派が異なった社会的グループでありながら同じ知的運動に属することが分かる。さらに言えば、エノク派はクムラン派よりも、主流なエッセネ派に近い立場を取った。

こうしたクムラン派の特殊さゆえに、Sacchiは「エッセネ派」という名称を都市型エッセネ派のみに限定することを提案しているほどである。一方でCollinsは「エッセネ派」をヤハドおよびそれとネットワークを持つ都市型エッセネ派に用い、エノク派を含めた全体を「黙示主義」と呼ぶことを提案しているが、これは大きすぎる名称であろう。Jacksonは逆にエノク派やクムラン派を含む運動全体を「エノク派ユダヤ教」と呼ぶことを提案した。

これらに対して論文著者は、運動全体を「エッセネ派的」と呼ぶことは依然として有効であるが、エッセネ派主義はひとつの社会的グループではなくより大きく多様な知的運動と見なすべきだと主張する。つまり多様な社会的グループをカバーする傘として機能する用語なのである。それゆえに、エノク派はエッセネ派的であると定義できるが、彼らがエッセネ派そのものであるとは言えない。エノク派は都市型エッセネ派の親であり、クムラン派の祖父母である。

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン派はみな同じ知的運動に属している。社会的グループとしてはエノク派はクムラン派よりも都市型エッセネ派に近い。クムラン派は根本的にエノク派神学からかけ離れているため、都市型エッセネ派からのクムラン派の分離が考えられる。いずれにせよ、エノク派はエッセネ派とクムラン派の起源において欠くことのできない役割を演じた。

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