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2020年2月14日金曜日

クムラン・セクトの形成期 Boccaccini, "The Formative Age"

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 81-.117


マカベア戦争期に書かれたダニエル書『夢幻の書』は、クムランの図書館でも権威あるものとして扱われていた。両者は共にジャンルとしては黙示文学(apocalypse)であり、同じ世界観である黙示思想(apocalypticism)を共有している。

エノクが登場する『夢幻の書』は反抗的な天使の罪に起因する悪と不浄の拡散についても言及しているので、明らかにエノク派文書だが、歴史的な観点も持っている。それゆえに、マカベア危機は天使の罪にはじまる劣化プロセス(degenerative process)の帰結と見なされている。同書の核心をなす「動物の黙示録」(エノク85:1-90:42)は、モーセのトーラーについて言及せず、無視している。

ダニエル書も同様の劣化(degeneration)の歴史観を持っている。ただし、劣化は歴史全体ではなくある一時代のことだけと考えている。またエノク派的な悪の教義は共有していない。またダニエル書は、モーセのトーラーと第二神殿の正当性を主張している点で、ツァドク派ユダヤ教の教義に同調している(ただし、ツァドク派の祭司制には批判的なので、クムランでも人気があった)。

こうした違いから、ダニエル書はラビ・ユダヤ教で正典とされ、『夢幻の書』のようなエノク派文学はそうされなかった。またここからダニエル書は黙示的(apocalyptic)でないと見なされることもある。確かに、P. Sacchiのように「黙示的」を「エノク派的」と捉えるならば、ダニエル書はエノク派でないがゆえに「非黙示的(nonapocalyptic)」あるいは「反黙示的(antiapocalyptic)」になってしまう。しかし、J.J. Collinsによると、「黙示思想(apocalypticism)」は単一の派閥ではなく世界観なので、エノク派にもツァドク派にも、さらにはキリスト教徒にも影響を与えたと言える。

『ヨベル書』(4:17-19)は、『寝ずの番人の書』『天文の書』『夢幻の書』に暗示的に言及しているので、マカベア危機のあとに書かれたものである。一方で、『ダマスコ文書』(16:2-4)で引用されているので、前党派的テクストである。思想的には、エノク派ユダヤ教の悪の概念、人間の歴史が反抗的な悪魔的力の影響下にあるという考え、劣化の歴史観を共有している。社会学的にも、ツァドク派ユダヤ教とは異なる祭司制を唱えている点で、エノク派的である。

ただし、以下の2点において、通常のエノク派文書とは異なる。第一に、ツァドク派伝統の主役であるモーセに与えられた書という自己認識がある点である。どのようにエノク派的伝統とツァドク派的伝統を混ぜ合わせるかというと、『ヨベル書』は、人間の行いがすべて書かれた天の書字板があるとする。そして、ノア、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセなど、エノク以降の啓示者たちは皆その書字板を見ることで、神の啓示を受け取っていたと説明するのである。それゆえに、父祖たちがのちにモーセに顕かにされた律法を知っていたとしても、それはラビ・ユダヤ教が説明するように律法が先在していたからではなく、彼らが天の書字版へのアクセスを持っていたからだということになる。また完全な啓示はその天の書字版にしかないので、ツァドク派のトーラーはあくまでもその不完全なコピーのひとつにすぎない。そういう意味で、『ヨベル書』はエノク派的伝統とツァドク派的伝統を調和させてはいるが、前者が後者に優越していると見なしている。こうしてツァドク派のトーラーはツァドクの家だけのものではなくなった。

第二に、神の予定論に基づく独特の選びの教義である。『夢幻の書』においては、悪や不浄はユダヤ人も含め、すべての人類に影響するし、逆に救済は非ユダヤ人も含め、すべての人類にもたらされるものとされていた。ここでは「選び」はあいまいである。ところが、『ヨベル書』においては、ユダヤ民族ははっきりと特権的に選ばれた者たちとして描かれている。エノク派的な悪の概念とユダヤ民族の選びを調和させるために、『ヨベル書』はまず神の予定論を強調する。ユダヤ民族は最初から神に選ばれた聖なる民族であった。堕天使は天国と地上の領域を侵犯したことで創造の秩序を汚染したが、ユダヤ民族は選ばれたことで、そうした不浄の世界から切り離されたのである。しかし、ユダヤ民族は常に安全なのではなく、不浄をもたらす倫理的な罪を犯せば、その特権は失われる。このように、『ヨベル書』は浄と不浄、聖と冒涜に取り付かれている。

『ヨベル書』は他にも、太陰暦に対するはっきりとした論争をユダヤ思想の中で初めて表している。『天文の書』でも太陽暦が好まれているが、太陰暦を批判しているわけではなかった。太陽暦はツァドク派とエノク派が共有する第二神殿時代の伝統的な祭司的暦であるが、太陰暦はマカベア危機の時代にギリシアから導入されたヘレニズム的暦である。太陽暦の回復は、選ばれた民を悪の諸民族から切り離すために、『ヨベル書』にとって急務だった。

『神殿の巻物』をY. Yadinは党派的文書と説明したが、多くの現代の研究者は前党派的文書と見ている。『神殿の巻物』は、『ヨベル書』のように、ツァドク派のトーラーと並行するモーセ的啓示として、エルサレム祭司制に反対する祭司グループによって書かれた。共に太陽暦を用いている。しかし、『神殿の巻物』は『ヨベル書』よりも厳格な清浄規定を持っている。神殿の不浄規定と都市としてのエルサレムの不浄規定には差があるのが普通だが、『神殿の巻物』はエルサレムにも神殿並みの清浄さを要求する。ただし、『神殿の巻物』は党派的な分離を目指しているのではなく、イスラエル全体が等しく清浄であることを求めている。

『エノク書簡』(『エノク書』91-105章)の成立は複雑だが、前2世紀にクムラン共同体は、「週の黙示録」(93:1-10; 91:11-92:1)を含むプロト『エノク書簡』とでもいうべきものを持っていたはずである。成立時代にはさまざまな議論があるが、おそらくマカベア以降と考えられる。この文書は、エノクが息子たちに送った3つの語りでできている。このうちの第二の語りが「週の黙示録」に当たる。

そこにおいて『ヨベル書』や『神殿の巻物』の伝統と大きく異なるのは、多数派が忘れた知恵を受け継ぐことになる小数の選ばれたグループという考え方である。彼らは完全にイスラエルから分離したわけではないが、いわば選ばれた者たちのうちからさらに選ばれた者たちである。彼らの時代には、第一に、イスラエルが回復して新しい神殿が建設され、第二に、人類が回復し、第三に、最後の審判と共に原始の時代に戻り、新たなる創造がなされる。

イスラエルの民への忠誠心を裏切ることなく、エノク派は、神の意思と真の解釈と彼らが考えることを実行するために、イスラエルの改心を待つ必要はなくなった。選ばれた者たちからさらに選ばれた者たちとして、ユダヤ教の内部で分離したアイデンティティを持った。

『ハラハー書簡』は、分離したグループ(われわれグループ)が権威を持つ者(あなたグループ)に対し、多数派(彼らグループ)からの分離の理由を説明する文書である。律法解釈については、『神殿の巻物』のそれと比較可能である。『ハラハー書簡』によれば、ユダヤ民族はいまだ捕囚の状態にあり、現在は新しい創造へと導く最後の出来事の始まりであるという。L.H. Schiffmanは、『ハラハー書簡』にはのちのラビ・ユダヤ教がサドカイ派に帰するハラハー理解があるが、それはツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教が共に祭司的なルーツを持つからである。「われわれグループ」が多数派である「彼らグループ」から分離したのは、自ら課した分離であって、孤立ではない。「われわれグループ」はいまだに自分たちをイスラエルの一部と考えている。これらはクムラン・グループそのものではなく、クムランの親グループである。

2015年4月8日水曜日

『律法儀礼遵守論』のエピローグ Van Weisenberg, "4QMMT: Towards an Understanding of the Epilogue"

  • Hanne van Weisenberg, "4QMMT: Towards an Understanding of the Epilogue," Revue de Qumran 21 (2003): 29-45.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の三区分のうちのセクションCを中心に検証することで、申命記からの影響を指摘したものである。著者によれば、法規を扱っているセクションBに比べて、エピローグに当たるセクションCの研究は手薄であるという。そこで著者はエピローグに注目することで、『律法』の構成における同セクションの役割を明らかにしようとしているのである。

著者はまず、全部で6つ見つかっている『律法』の写本から、校訂者が作成した合成テクストの再検証から始めている。それによると、エピローグを含むのは、4Q397、4Q398、4Q399であり、それぞれほとんど重複する箇所がないのだという。ほとんどヴァリアントがない法規部分に比して、エピローグにはしばしば異読が見られる。

『律法』の編集過程に関する研究としては、Charlotte HempelとMiguel Perez Fernandezの研究がある。前者は『律法』の法規部分と『ダマスコ文書』との共通点を明らかにしたものであり、後者はシンタックスや内容から、法規部分とエピローグの切れ目を従来のものと異なった箇所に施す試みである。こうした先行研究から、著者は法規部分で語られている、祭司性、浄不浄の問題、犠牲、聖域、聖性などといった事柄はエピローグでは一切使われていないと述べる。

こうした法規部分とエピローグとで使われるタームの違いは、それぞれが別のスタイルと特徴を持っているからと考えられる。著者によれば、法規部分が主に依拠しているのはレビ記と民数記であるのに対し、エピローグは申命記に依拠しているという。ただしこれは、法規部分とエピローグが別の文書だったということではなく、それぞれが異なった内容とジャンルであるからである。また、法規部分はそれだけでも独立した文書たり得るが、エピローグは法規部分に依存しているという。

法規部分の法規自体はレビ記と民数記に依拠しているが、スタイルの上で同部分は申命記からの影響も受けている。たとえば、『律法』は一人称複数で語られているが、これは申命記1-3章でのモーセの語りを髣髴とさせる。

2015年4月6日月曜日

『律法儀礼遵守論』のジャンル Grossman, "Reading 4QMMT"

  • Maxine L. Grossman, "Reading 4QMMT: Genre and History," Revue de Qumran 20 (2001): 3-22.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の文学ジャンルとして適したものをいくつか仮定し、それぞれのジャンルだった場合にどのように読みが変わるかを検証したものである。Steven D. Fraadeは、『律法』の名宛人が外部グループではなく、仮に内部の人間であると仮定して、同書を再読するという「レトリカルな実験」をした。これを参考にして、著者はまず同書のジャンルの可能性として、第一に、外部グループに対する手紙、第二に、内部グループに対する論文を挙げている。

手紙と論文というのは、文書の形式や内容のみを問題にしているときには、峻別しがたいものだが、著者性と舞台に注目すると、大きく異なってくる。すなわち、手紙とは特定の著者によって別の特定の読者に向けて書かれ、そのとき読者が属するサークルは、空間的にも理念的にも著者のそれの外側にある。また手紙は、著者たちが描いている状況と同時代のものであり、それを読んでいる者たちも同時代人である。一方で、(古代における)論文には必ずしも著者は必要ないが、特定の読者がいる。そして論文はそれが描いている事実と同時代か、あるいは状況を回顧的に思い出して書いた事後のものである。すなわち論文といっても二種類あり、一つは現在の状況を描く内部に向けたテクストと、もう一つは出来事や規定が起こったあと書かれた事後のテクストである。

まず著者は『律法』を手紙として読む。すると、その調子や内容から、我々はクムラン共同体の黎明期を導いた衝突の記録を見て取ることができる。そうした前提のもとで『ダマスコ文書』やペシャリームと比較すると、『律法』の著者は義の教師のメンバーか義の教師その人であると考えられる。そして著者が義の教師であれば、『ハバクク書ペシェル』などから、手紙の宛名は悪の祭司となる。

次に、『律法』を、共同体の設立と同時代に書かれた論文として読むと、内部の人間が書いたものであることが見て取れる。論文としての『律法』は、共同体の設立を記録し、それを非敵対的な調子で語ることで、敵対者を諭しているのである。ただし、このとき『律法』は特定の衝突に言及しているわけではなく、グループを形成してきたさまざまな問題のコンピレーションとなっているのである。すると、むろん敵対者の悪の祭司に対する関連性も弱まり、そもそも著者と敵対者との相互の敵対関係ではなく、著者による相手への一方的な敵愾心しかなかったかもしれなくなる。

ここで共同体による『律法』の受容に目を向けると、同書は共同体のメンバーが自分たちの設立や中心的な概念を理解するための勉強用のテクストとして、あるいは入会希望者が入会するためのテクストとして、ごく初期に用いられていたと考えられる。すなわち、『律法』はある種の権威を持っていたのである。特に後代の者たちは、共同体内部の論文ではなく、共同体外部に向けて書かれ、実際に敵対者たちに送付された手紙として読んでいたと思われる。そしてこうした理解に触発されて、義の教師と悪の祭司との衝突によって共同体が設立されたという歴史的説明ができあがっていったのである。

最後に、『律法』がさらに後代に書かれた歴史化文書として読む場合、我々は後代の参加者たちが共同体の歴史の設立時のことをどのように記憶し、創造し、構築していたかを見て取ることができる。すなわち、パウロの偽の書簡と同様のものとして読むのである。この読み方は、誰がいつ共同体を設立したのかについては教えてはくれないが、共同体の後の世代が重要であると考えていたことを教えてくれる。

『律法』のカレンダーに関しては、もし『律法』が共同体の設立と同時期に書かれたものとすると、カレンダーももともとあったオリジナルであるといえる。もし『律法』が共同体の設立と同時期か、伝達の歴史の途中で書かれたものとすると、カレンダーは写字生による付加だといえる。そして、もし『律法』が後代の成立だとすると、カレンダーがオリジナルにあったものであろうとなかろうと、それは後代の人々の考え方を反映したものであるといえる。

2015年4月1日水曜日

内部文書としての『律法儀礼遵守論』 Fraade, "To Whom It May Concern"

  • Steven D. Fraade, "To Whom It May Concern: 4QMMT and Its Addressee(s)," Revue de Qumran 19 (2000): 507-26.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の読解を通じて、この文書の性格を分析したものである。の研究としては、大きく言って次の四分野がある:第一に、クムラン共同体におけるサドカイ派的な宗教法の輪郭、第二に、クムラン共同体の初期の発展とセクトのイデオロギー、第三に、ラビ的セクト論争以前の初期のラビ的説明、そして第四に、後期第二神殿時代におけるパリサイ派とその教えの影響などである。こうした研究の多くは、同書をクムラン・セクトによる外部に対する論争の書と考えることでなされてきた。しかし著者は、これをセクト内部(intramural)の文書であると仮定してみたらどうなるかという前提から議論を始める。

まずセクションBをよく読むと、『律法』の著者である「私たち」が、「あなたがた」と呼ばれている名宛人を一切批判していないことが分かる。むしろ共同体の集合的なペルソナである「私たち」は、積極的に「あなたがた」を自分たちに組み込もうとしている様子が伺われる。

セクションCになると、記述がより対話的(dialogical)になり、三人称「彼ら」に対する言及がなくなる。二人称は複数形「あなたがた」のときは、やはり「私たち」に含めていると読むことができる。それに加えてこのセクションでは二人称として単数形「あなた」も出てくるが、著者は申命記30章および31章などの例から、こうした奨励(hortatory)のスピーチでは二人称は単数形の場合も複数形の場合もあると説明する。単数形にすることで、名宛人に対してより個人的に語りかけているように感じさせるためである。また懐柔的な(conciliatory)な口調から、「私たち」と「あなた/あなたがた」との対立は激化していないさまを見て取ることができる。いうなれば、論争的(polemical)というよりも、教育的(pedagogical)なのである。

セクションAの暦を、多くの研究者は写字生による付加だと見なしている。しかしながら、著者によれば、セクションBがセクトの分離を正当化するための律法議論のダイジェストであるように、セクションCもまた、354日区切りの太陰暦を用いるイスラエルの大多数からの分離を正当化する太陽暦のダイジェストであるという。

主としてShelomo Moragらによる『律法』の言語学的分析によると、同書は話し言葉の比較的低級なヘブライ語であるという。そこから、著者は同書を公式な手紙や正統的なセクト文書ではなく、共同体への入会希望者などに対する教育的内部文書であると見なす。

以上が本論文の主張だが、個人的に興味深かったのは、L. Schiffmanが『律法』の中に『共同体の規則』との共通語彙がないと見なしているのに対し、本論文の著者は、両者はいくつもの重要なターミノロジーやアイデオロジーを共有しているという。いうなれば、『律法』で用いられている語彙から、同書がセクト的文書であると見なすことができるのである。

2015年3月31日火曜日

『律法儀礼遵守論』とミシュナー・ヤダイム Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period"

  • Lawrence H. Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period," in Temple Scroll Studies, ed. George J. Brooke (Journal for the Study of the Pseudepigrapha Supplement Series 7; Sheffield: Sheffield Academic Press, 1989), pp. 239-55.
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本論文は、『神殿巻物』の法規を『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)と比較しつつ明らかにしたものである。この論文の主題自体は『神殿巻物』だが、この論文の重要さはむしろ『律法』の分析にある。著者によると、『律法』のセクションBで扱われている20の法規のうちのいくつかが、ミシュナー・ヤダイム4.6-7の議論と一致しているという。著者は、ミシュナー中の5つの議論のうちの4つが『律法』と一致していると主張する。

第一に、すべての書物が手を汚すというミシュナー中のサドカイ派的見解は(m. Yad. 4.6)、神殿の外で屠られた動物の皮は神殿内に持ち込まれてはならず、その皮は運ぶ者の手も汚すという『律法』中の見解(B 17-20?、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者によるものである)に由来するものである(B 21-23、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者の判断によるもの)。

第二に、『律法』は不浄な動物の骨もまた不浄であると見なすので、それを使って取っ手などを作ってはならないという(m. Yad. 4.6および『律法』B 21-22)。

第三に、ナツォーク、すなわち水の流れに沿って不浄が流れてくることに関するサドカイ派的見解が『律法』にも見られる(m. Yad. 4.7および『律法』B 55-58)。

第四に、墓地を流れてくる水に関する議論もまた、ナツォークの議論中に見られる。

以上より、パリサイ派とサドカイ派との間にある4つの議論において、『律法』の著者はサドカイ派の主張と同じ主張を持っており、パリサイ派的な見解に反対している。もし『律法』がサドカイ派の文書であるならば、クムラン・セクトは、マカベア戦争以後にエルサレム神殿を去った、不満を抱いている祭司たちによって始められたものだと考えられる。なぜならば、ツァドクの系譜に属するものではなく、ハスモン家の者が祭司職を奪ってしまったからである。

『律法儀礼遵守論』とヨセフス著作から見るパリサイ派 Schwartz, "MMT, Josephus and Pharisees"

  • Daniel R. Schwartz, "MMT, Josephus and the Pharisees," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 67-80.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)とヨセフス著作から、パリサイ派の姿をどの程度復元できるか試みたものである。著者によると、パリサイ派研究に対して死海文書が果たした役割は、間接的でありながらも強烈であるが、一方で皮肉な結果になった。というのも、死海文書によって、パリサイ派のイメージは19世紀の研究が示したものへと戻ってしまったからである。

19世紀の研究者は、ヨセフス、新約聖書、そしてラビ文学での記述から、第二神殿時代のパリサイ派が神殿崩壊後のラビ・ユダヤ教と同一であると見なした。さらに、E. Schuererは福音書やミシュナーから、パリサイ派は人間の感情を度外視したケチな詭弁家であると考えた。R. Travers HerfordやGeorge Foot Mooreは、ラビ・ユダヤ教は倫理を重要視した多面的な宗教であるとした。すなわちこの時期の研究者たちは、肯定的であれ否定的であれ、パリサイ派をラビ・ユダヤ教と同一視することと、パリサイ派が第二神殿時代における主流派だったことを主張しているのである。

これに対し、20世紀になると、Morton Smithによって、ヨセフスの記述はプロパガンダであり、パリサイ派は神殿崩壊前は主流派ではなかったという反論が行われた。さらにSmithは、新約聖書における主流派としてのパリサイ派の描写も、神殿崩壊後の状況を反映したアナクロニズムであると主張した。この考え方はJacob Neusnerによって発展され、広く受け入れられるようになっていった。Neusnerによれば、後代のラビ文学を一世紀より前のパリサイ派の研究に用いることは無責任であるという。

この傾向は、ホロコーストとイスラエル国家の成立によって、さらに強められた。ホロコーストの反動としての、反セム主義への忌避から、一方では新約聖書におけるイエスのパリサイ派批判はイエス自身の思想の反映ではなく、他方ではそもそも攻撃されているパリサイ派もユダヤ教の主流派ではなかったという議論が展開された。

こうした第二神殿時代のパリサイ派=反主流派説に対して、さらなるリアクションが死海文書の発見によってなされるようになった。第一に、『神殿巻物』『律法』『ダマスコ文書』などから、クムラン共同体が律法に対し強い関心を持っていたことが分かった。第二神殿時代に極めて霊性を重んじたクムラン共同体でさえ、律法を重視していたのであれば、パリサイ派はいわずもがなである。そしてそうであれば、ラビ・ユダヤ教はパリサイ派からさほど隔たっていないといえる。第二に、死海文書がラビ文学とよく合致することから、第二神殿時代の研究に自信を持ってラビ文学を用いることができるようになった。

パリサイ派が本当に主流派であったのかどうかという問題に関して、著者はバランスを取ろうとする。ヨセフスの記述によると、ヨセフスはパリサイ派の支配に対し批判的な記述を残していることから、翻って、パリサイ派が主流派であったことが分かる。ただし、実際にパリサイ派が支配的でなくても、ヨセフスがパリサイ派に文句をつけていた可能性もあるので、これだけではSmith-Neusner説を覆したことにはならない。

そこで『律法』を見ると、「我々は民の大多数(ロブ・ハアム)から自分を引き離した(パラシュヌ)」という一節から、パリサイ派=主流派であった可能性を見て取ることができる(「引き離す」という言葉もパリサイ派を連想させる)。しかし、著者はロブ・ハアムは「民の多く」という意味のみであって、必ずしも「主流派」を意味しないと主張する。さらに、『律法』のセクションBでは神殿と祭司性について議論されていることと、ロブ・ハアムという語が敵対者とのセクト的な議論の中では用いられていないことから、著者は当時のパリサイ派は単独の主流派とはいえず、あくまで祭司グループに準ずる位置であったと述べる。『律法』が示しているのは、当時のユダヤ世界が、クムラン派、パリサイ派、そして神殿の支配階級(=サドカイ派)に分かれていることと、パリサイ派はその支配階級と同盟関係にあったことのみである。そしてこれらの結果はヨセフスの記述からすでに知られていることであった。

2015年3月30日月曜日

ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」

  • ジェームス・C・ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、99-117頁(James C. VanderKam, "The People of the Dead Sea Scrolls: Essenes or Sadducees," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 50-62)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

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本論文は、クムラン共同体の正体をサドカイ派であるとするシフマンに対し、その正体はやはり従来の説どおりエッセネ派であるとするヴァンダーカムによる反論である。クムラン共同体をエッセネ派と同定するためには、主として二つのデータに基づいてきた。第一に、大プリニウスの証言、第二に、死海文書の内容と、エッセネ派の信仰と慣習に関するヨセフスらの記述のとの比較である。著者によれば、プリニウスはその報告をでっち上げる理由はないこと、また他のことに関する彼の証言が正確であることなどから考えて、プリニウスの証言は確かであるとしている。

第二の点に関して、ヨセフス『ユダヤ古代誌』におけるエッセネ派に関する記述と『共同体の規則』(1QS)とを比較すると、多くの類似点が見出される。著者は例として、運命について、所有物の共有について、唾を吐くことについてなどを挙げている。Todd Beallによると、ヨセフスの著作とエッセネ派に関する死海文書の間には、27の類似点、21の似通っているようにみえる点があり、同時に接点がない点が10あり、矛盾点が6あるという。死海文書自体が足並みがそろっていない点もあるが、それはそれぞれがエッセネ派内の異なるグループの文書であったからだと考えられる(『ダマスコ文書』は町や村に住むエッセネ派の文書、『共同体の規則』はクムランのエッセネ派の文書)。

著者によると、死海文書を読み解く4つの注意点がある。第一に、対象の文書が特に宗派的なテクストであるかどうかを確認すること。第二に、死海文書は現存する他の古代の著作とのみ比較であること。第三に、死海文書には、ヨセフスや他の古代の著作家が言及していない点があること。第四に、ヨセフスと死海文書とに違いがあるのは、彼が知っていたエッセネ派がクムラン共同体とは別のグループだったかもしれないこと、である。

通説では、クムラン共同体はエッセネ派であったと見なされているが、シフマンは『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)をもとにサドカイ派であったと考えている。シフマンが注目したのは、ミシュナー・ヤダイム4.6-7で議論されている4つの論争点と『律法』の記述との類似である。ヴァンダーカムは、シフマンが見出した4つの類似点のうち3つは確かに一致していると述べている。しかし、それでもヴァンダーカムはこの説は根拠が薄いと反論する(ちなみにシフマンもヴァンダーカムも、『律法』の第一部における暦法に関する記述ゆえに、同書が宗派テキストであると考えている)。

なぜなら、第一に、そもそもサドカイ派とエッセネ派とが互いに一致する領域はたくさんあると考えられるからである。第二に、ミシュナー中のサドカイ派対パリサイ派の論争の記述をどの程度信用できるかは疑問だからである。第三に、シフマンは、プリニウスやヨセフスにおけるエッセネ派に関する記述や、クムランの宗派テクストにおける非サドカイ派的記述を無視しているからである。こうしたことから、ヴァンダーカム曰く:
シフマンの論拠となる幾つかの法規上の詳細が、実際にエッセネ派の生活習慣や神学を目撃したヨセフスやプリニウス(あるいは彼の情報源)といった人々から得られる証拠や、クムラン・テキストの中心的な資料よりも大きな影響力をもつなど、到底ありえない。
と述べている。いうなれば、ヴァンダーカムは、シフマンが示している『律法』を基にした論拠よりも、より明らかな証拠がいくつもあるため、クムラン共同体=エッセネ派説はゆるがないと考えているのである(その際に、シフマンの論拠を覆すには至っていない)。ヴァンダーカムによれば、エッセネ派とサドカイ派が共にパリサイ派的な法規の改良に反対していたことは、すでに知られていたので、シフマン(とヨセフ・バウムガルテン)はそのすでに知られていたことをクムラン共同体から証明したに過ぎないのだという。

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2015年3月26日木曜日

シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」

  • ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Lawrence H. Schiffman, "The Sadducean Origins of the Dead Sea Scrolls Sect," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 35-49)。
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本論文は、クムラン共同体の正体を、通常考えられているようにエッセネ派ではなく、サドカイ派に求めるものである。まず著者は、『ダマスコ文書』がソロモン・シェヒターによって発見されてツァドクの文書とされたことと、ルイス・ギンツベルクによってパリサイ派の文書とされたこととに言及する。一方で、死海写本の研究の発展と共に、共同体はエッセネ派であったという説が強くなる(ソロモン・ツァイトリンによるカライ派説など例外もあるが)。これを著者は、先入観に基づく循環論法であると断じている。つまり、クムラン共同体がエッセネ派であるならば、ギリシア語資料の情報が死海文書から読み取れ、また同時に死海文書の情報がギリシア語資料から読み取れることになる(著者のこうした慎重さは、死海文書と新約聖書とを無理やり結び付けようとするトンデモ研究に対する批判から来ているように思われる)。

そこで、著者は『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)に依拠つつ、クムラン共同体=サドカイ派説を唱える。彼は『律法』の法規と、ミシュナーやタルムードあどのラビ文献の記述とを比較したという。マカバイ家の反乱以降、ハスモン朝が神殿を手中に収め、彼らがパリサイ派と共同戦線を張ったため、サドカイ派の中には新しい状況に適応した者と、そこから逃げ出した者たちがいた。著者によれば、『律法』は、ハスモン朝の大祭司たちが宣言した法的支配を認めない者たちが書いた手紙であるという。

パリサイ派はしばしば宗派的テクストの中で、「エフライム」、「塀の建設者」、「ドレシェイ・ハラホット(間違った法規を述べる人々)」などと呼ばれている。著者によれば、『律法』の著者が反対する法規は、後のラビ文献がパリサイ派のものとする法規と同じであり、また『律法』の著者が支持する法規は、後のラビ文献がサドカイ派のものとする法規と同じであるという。ここから、第一に、パリサイ派の見解は、のちのタルムード時代の時代錯誤的な発明ではなく、ハスモン朝の大半の時期に広まっていたこと、そして第二に、ラビ文献に記された用語や法規も、実際パリサイ派が使用したものであったことが分かる。

サドカイ派はしばしば、エフライムの敵対者である「マナセ」と呼ばれる。著者によれば、『律法』内の22の法規は、タルムードがサドカイ派のものとする見解と一致するという。同時に、『律法』のサドカイ派的と考えられる法規は、『神殿巻物』の中にも見受けられる。特に『神殿巻物』は法規の出典となる聖書箇所も挙げることがあるので重要である。

著者の主たる主張は以上だが、さらにいくつかのポイントを述べている。まずノーマン・ゴルブのクムラン遺跡=軍事的要塞説は否定されるべきだという。また死海文書の中にキリスト教の教義に似たものを探求するのは二次的な仕事にとどめるべきであると戒める。そして、聖書テクスト研究における死海文書の貢献として、クムランの聖書写本は概してマソラー本文の原型タイプと似たものであった点を指摘している。

2015年3月18日水曜日

『律法儀礼遵守論』とクムラン・セクトの起源 Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect"

  • Lawrence H. Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect," The Biblical Archaeologist Vol. 53, No. 2 (June, 1990): 64-73.

本論文は、StrugnellとQimronによる『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)の校訂版が出版される直前に、校訂者たちの許可を得てその原稿を見ることができたSchiffmanによる同書の概論である。当時の興奮をよく伝えてくれると共に、現在へと至る研究史を方向付けた一編でもある。著者によれば、『律法』は分離したセクトの指導者がエルサレムの主流派に向けて書いた文書であり、ユダヤ法の問題を扱っているという。六つの写本からなる同書は、実際の手紙であるとも考えられるし、後代になってセクトの分裂を正当化するために書かれた偽書であるとも考えられる。

『律法』の第二部によると、分裂に至らしめた原因は、メシアニズムや神学論争ではなく、ユダヤ法の問題である。これは『律法』に限らず、第二神殿時代の主要な論争においても同様である。

第三部で語られている事項について、著者は以下のことを指摘している。まず、「私たち」が「人々の大多数」から分離したこと、そのときの宛名は「あなたがた」であること、聖書の三分割に言及するときには単数の「あなた」であること、その「あなた」に対する祝福と呪いとは申命記31:29および同30:1-2を用いていること、そうした祝福と呪いによって、「あなた」がイスラエルの王たちの時代を思い出すように諭されていること、などである。ここでの名宛人は、聖書時代の王たちと比較されるような者であることから、当時の状況からして、ハスモン家の大祭司であると考えられる。

論文著者による重要な指摘としては、『律法』と『神殿巻物』との並行箇所の存在が挙げられる。両者において、イスラエルの民について言及している五書の箇所が王に比されている。ちなみに、『律法』では義の教師への言及は一切ない。『ダマスコ文書』において、義の教師が来る20年前に最初のセクト的分離が起こったという記述があるが、『律法』はこうしたごく初期に書かれたものと思われる。

第二部の律法リストの議論から、論文著者は『律法』の著者の敵対者はラビ文学で言うところのパリサイ派あるいはタナイームであると考えており、一方で『律法』の著者はサドカイ派であると考えている。そこから著者が描き出すストーリーは以下のようなものである。セクトのごく初期のメンバーはサドカイ派だったが、彼らはマカベア戦争後のマカベア家の横暴(大祭司を自分たちから立てて、ツァドク派の権威を弱めた)を受け入れることを拒んでいた。そこでこれら不満を持つツァドクたちがエルサレムの主流派から分離し、「ツァドクの子ら」を名乗りつつ、自分たちこそが真のイスラエルであると考えるようになった。一方でエルサレムに残ったサドカイ派たちは、ハスモン家の祭司たちのもとでパリサイ派的な見解を持つに至った。当初メンバーは神殿に残った派閥との和解を希望していた(それゆえに、『律法』はクムランの発展の中で最初期のテクストであるといえる)。しかし、それは不可能と悟り、セクトとして発展していき、のちに義の教師が現れるに至った。

この仮説が正しいとすると、論文著者は4つのことが指摘できると述べる。第一に、このセクトはハシディームではない。第二に、セクトがパリサイ派の下位グループから出てきたと考えることはできない。第三に、クムラン=エッセネ派仮説に関して、エッセネ派はもともとサドカイ派のセクトを指す用語だったと考えなければならない。言い換えれば、サドカイ派が過激化して完全にセクト化したものがエッセネ派である。第四に、クムランの文書がセクト文書ではなく、当時の一般的なユダヤ教文書であるとはいえない。

『律法儀礼遵守論』の基本的事項について Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah"

  • Lawrence H. Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah," in Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls, ed. Lawrence H. Schiffman and James C. VanderKam (Oxford: Oxford University Press, 2000), 1: 558-60.
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本論文は、『律法議論遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の基本的事項をまとめた辞典項目である。『律法』は、はっきりとエルサレムの権威に反対するクムラン・セクトの指導者たちから、エルサレムの祭司階級の指導者たちに向けて送られた文書と考えられる。テクストは第四洞窟から発見された六つの断片からなる。内容的に、自分たちのセクトがエルサレム主流派から分離することを正当化しているので、クムラン共同体のごく初期の作品と考えられる。

全体は三部に分けられる。第一部の暦は、『共同体の規則』の写本のうちのひとつにも載っているものなので、もともと『律法』についていたものかは分からない。太陽暦を採用しており、通常の祭りに加えて、新しいワインの祭り、オイルの祭り、木の祭りがある。こうした特徴は、『神殿巻物』にも見られる。

第二部の律法リストは、主に浄不浄の問題と神殿における犠牲の問題を中心とした20の事柄を扱っている。つまり、神学的な問題というよりも、ユダヤ法の適切な実行こそが問題となっているのである。ここで取り上げられている律法議論のいくつかは、ミシュナー・ヤダイムでも見られるものであり、そこではサドカイ派の教説として知られている考え方になっている。通常サドカイ派の律法はパリサイ派あるいはラビたちよりも厳格なものである。

第三部の結論部では、二人称単数と複数で名宛人が言及されている。おそらく単数形は、エルサレムの大祭司のような指導者を指しているのであろう。また、このクムラン・セクトの敵対者は、後代のラビ文学においてパリサイ派あるいはタナイームに帰せられる者たちと考えられる。

以上のことから考えられるのは、以下のようなストーリーである。すなわち、クムラン・セクトの初期のメンバーとは、マカベア戦争(前168-前164)の後に、エルサレムの祭司階級から分離した、現状に不満を持ったサドカイ派であり、自分たちを「ツァドクの子ら」と呼んでいた。一方でエルサレムに残ったサドカイ派の同僚たちは、のちにパリサイ派的な規範となる考え方を採用し、サドカイ派的な考え方を捨てていった。当初、クムラン・セクトはエルサレムの祭司たちと折り合いをつけるつもりだったが、そのうちにそんな望みはなくなり、より過激化して外部を遮断するようになった。さらに死海文書をめぐるエッセネ派説を考慮に入れると、『律法』から分かるとおり、もともとはサドカイ派だった者たちが、エルサレム主流派との軋轢の中で過激化し、独自のセクトとしてのエッセネ派になったと考えるのが自然である。そしてこの分離の理由は、神学的な問題ではなく、浄不浄に関する規則の相違である。

『律法』と他の死海文書との関係としては、暦法と犠牲については『神殿巻物』と、それ以外のさまざまな律法については『ダマスコ文書』や『詞華集』との類似が指摘されている。それぞれの文書は、直接『律法』と影響関係にあるわけではないが、同じソースを持っていると考えられる。ただし、『共同体の規則』との並行箇所は見られないのが特徴である。これらの中では、特に『神殿巻物』と『ダマスコ文書』との比較は重要で、『律法』と『神殿巻物』とは共にセクト的な敵愾心が希薄なのに対し、『ダマスコ文書』にはそうした雰囲気が濃厚である。これを先のストーリーに則して言い換えると、『律法』と『神殿巻物』とは、まだセクトがエルサレムとの和解の希望を持っていたときの文書であるのに対し、『ダマスコ文書』はそうした望みが絶たれたあとの文書であると考えられる。

2015年3月10日火曜日

『律法儀礼遵守論』研究のまとめ Hempel, "The Context of 4QMMT and Comfortable Theoris"

  • Charlotte Hempel, "The Context of 4QMMT and Comfortable Theories," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 275-92.
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)研究における重要トピックをまとめたものである。三部に分けられる『律法』において、第一部には、もともと同書の一部だったか議論がある暦がある。第二部には、「私たち」グループが「あなたがた」グループに対して説明する律法のリストがあり、かつ「私たち」グループが看過できない「彼ら」グループの存在が示される。そして第三部は、政治的指導者である個人に宛てられており、また「私たち」グループが多数派から分離したことが言及されている。

著者は、これまでの研究史で『律法』がどのように読まれてきたかをまとめ、撤回されるべき通説であると著者が考える点を列挙している。第一に、『律法』は義の教師から悪の祭司に向けて書かれたという説。例えばJohn Kampenはこの説はまったくの憶測に過ぎないと述べている。第二に、『律法』のジャンルは手紙であるという説。手紙なのか論文なのかについての議論と、仮に手紙であった場合、外部に対するものなのか内部に対するものなのかという議論がある。第三に、『律法』において正典の三部構成が言及されているという説。これについてさまざまな異論が述べられている。以上のことを確認したあと、著者は『律法』をめぐる議論の中で最もよく参照される、エピローグにおける大多数からの分離に関する言及に話すを移す。

第三部のエピローグは4Q397(MMDd)と4Q398(MMTe)によい状態で残されている。著者はこれらの写本の置き所を問題としている。Hanne von Weissenbergによると、分離について言及されている一節を、従来のように第三部の冒頭ではなく、その内部に置かれるべきであるという。また場所を変えないまでも、同箇所が第三部の冒頭にあると考えるのか(Perez Fernandez)、むしろ第二部の終わりにあると考えるのか(Bernstein)でも解釈は異なってくる。

この分離についての箇所の内容についてもさまざまな議論がある。これを素直にクムラン共同体に関する言及だと取る者たちもいれば、むしろクムラン以前のグループあるいは初期クムラン共同体に関する言及だと考える者たちもいる。解釈をより広げて、Perez Fernandezは、実はこの箇所は祭司とイスラエル人との結婚に関する問題を取り上げていると考えた。Sharpは、イスラエル人と非ユダヤ人との結婚に関する問題であるとする。著者はこれらの諸説を紹介したあと、彼女自身の見解としては、『律法』のこの箇所にクムラン共同体の分裂とその成立のことが書いていると考えるのは、同書が義の教師から悪の祭司に宛てた手紙だと考える旧説の名残にすぎないと述べている。いうなれば、分裂からこの共同体が始まったという考え方自体に再考の余地があるということである。これについて、著者は4Q397 14-21 7を例に挙げている。

『律法』の「私たち」「あなたがた」「彼ら」の議論に関しては、著者は、同書の律法部分でもエピローグ部分でも、「彼ら」に当たる者たちは「私たち」によって肯定的に評価されていると指摘する。むしろ批判の対象は「あなたがた」で表される祭司たちである。そして「私たち」は「彼ら」を守ろうとしている節さえあるという。法的議論については、『律法』はミシュナー以前の証言を与えてくれるという点で貴重である。のちにハラハーの用語として発展していくような事柄は、すでにここに現れているといっても過言ではない。

最後に原文より重要な指摘を引用しておく。
MMT, perhaps more than any other text from Qumran, was read in light of a number of preconceptions with scholars not infrequently pouncing on a phrase and building a case on their reading of it. (p. 289)

2015年3月9日月曜日

『律法儀礼遵守論』と新約聖書の比較 Reinhartz, "We, You, They"

  • Adele Reinhartz, "We, You, They: Boundary Language in 4QMMT and the New Testament Epistles," in Text, Thought, and Practice in Qumran and Early Christianity, ed. Ruth A. Clements and Daniel R. Schwartz (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 84; Leiden: Brill, 2009), pp. 89-105.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)を新約聖書の書簡と比較することで、前者の特徴を明らかにしたものである。『律法』の第三部7行目には、以下のような文章がある。
あなたがたは知っていることだが、私たちは大多数の人々とその不浄から自分たちを引き離した。
ここから明らかなのは、著者が「私たち」で相手が「あなたがた」であること、そして「私たち」と「大多数の人々」との線引きがあることである。このとき、「私たち」と「あなたがた」は同じグループなのだろうか、それとも違うグループなのだろうか。前者の場合、ここには2つのグループがいることになり、後者の場合、3つのグループがいることになる。2グループ説を取った研究者には、John Kampen, George Brooke, Steven Fraadeがいる。彼らによると、「あなたがた」は「私たち」と同じ運動の中にいるが、地理的・神学的要因により距離がある者たちと考えられる。いうなれば、『律法』は外部に対する文書ではなく、共同体内のあるグループに対する文書であるということである。

一方で、大多数の研究者たちは3グループ説を取っている。Elisha Qimronは、「私たち」はクムラン・セクト(義の教師)、「あなたがた」は当時のハスモン家の指導者に共感する人々(悪の祭司)、そして「彼ら」はパリサイ派であると考えている。特に、「私たち」と「あなたがた」の間に敵意が感じられないので、義の教師と悪の祭司とはもともとサドカイ派的思想を共有していたということになる。そしてこの文書の目的は、ハスモン家の指導者をクムラン・グループがよしとする法的解釈に従うように説得するものだった。John Strugnell, Larry Schiffmanも同様の見解を述べる。Hana EshelやDaniel Schwartzは、これとは異なり、「私たち」はクムラン・セクトだが「あなたがた」はハスモン家の祭司ではなくパリサイ派であり、「彼ら」はハスモン家以前の神殿祭司でのちにサドカイ派となる者たちであるという。そしてこの文書の目的は、自分たちのグループが他の祭司グループと異なることを政治的指導者に説明するものだという。

これらの3グループ説の研究者たちは、『律法』の背景を、ハスモン家の君主制とパリサイ・サドカイ派グループとの関係の中で捉えており、同書とクムラン共同体の成立を前2世紀中盤と考える。そしてこのハスモン朝時代にパリサイ派とサドカイ派のハラハー的差異が形成されていったと考える。3つのグループ説の内的根拠は、二人称に単数形と複数形があることが挙げられ、そして外的根拠としては、第一に、他の死海文書との比較、第二に、ヨセフス著作との比較、そして第三に、ミシュナーなどラビ文学との比較が挙げられる。

さて、ここで著者は、ある文書の中で「私たち」「あなたがた」「彼ら」がどのような関係性の中で語られているかを確認するために新約聖書との比較を試みる。これは明らかにアナクロニズムではあるが、比較対象として考えられる他のもの(ヨセフス、ラビ文学)なども同様にアナクロニズムには変わりないので、あえて新約聖書と比較している。これまで、J. Kampen, R. Bauckham, G.J. Brookeらによって、福音書や使徒行伝との比較はなされてきたが、新約聖書の書簡との比較はなかった。そこで著者は、ガラテヤ書、第二ペトロ、第一ヨハネを例に挙げる。ガラテヤ書における「私」はパウロ、「あなたがた」はガラテヤの異邦人キリスト教徒、そして「彼ら」は福音に反するユダヤ主義者たちである。第二ペトロにおける「私」はペトロに帰される共同体の指導者、「あなたがた」はその共同体の成員、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」との間に亀裂をもたらそうとする者たちのことである。第一ヨハネにおける「私」はヨハネに帰される筆者、「あなたがた」は「私」の共同体の内部の人間たち、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」の両者から離れようとする分離主義者たちのことである。すなわち、どの文書においても、著者である「私」は、同じ集団の中にいる「あなたがた」が、「彼ら」のやり方に従ってしまい、「私たち」から離れていってしまうことを恐れている。それを防ぐために、「私たち」は「あなたがた」の信仰を強めることを目的として文書を書いているのである。

こうした新約聖書の例に照らして『律法』の構造を再考すると、3グループ説よりも2グループ説の方が少なくとも新約聖書では一般的だということが分かる。一箇所だけ「あなたとあなたのグループ」という記述があり(C 26-27)、あたかも3グループ説を支持するようだが、著者はさまざまな理由により、これは必ずしも3グループ説を支持する例ではないと断言する。フィロンやヨセフスのエッセネ派に関する証言も、2グループ説の方とより親和性が高い。

2015年3月8日日曜日

『律法儀礼遵守論』における神殿の重要性 Von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT"

  • Hanne von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 293-305.
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)において、いかに神殿が中心的な役割を果たしているかを検証したものである。『律法』の背景には、クムラン共同体とエルサレム神殿の祭司たちとの議論がある。多くの初期の研究者たちの解釈では、この書物はクムラン共同体が自らのセクト的な離反を正当化するためのものであり、そこにはいかなる和解の努力もなかったということになっている。Eyal Regevは同書の成立をクムラン共同体成立後のごく初期に設定し、彼らはエルサレムの神殿祭儀から自らを引き離したと考えた。Stephan Hultgrenは、同書の成立をクムラン共同体以前に設定し、最初から同書はエルサレムの神殿祭儀をボイコットしたと主張した。いずれにせよ、初期の学説では、クムラン共同体はエルサレム神殿を完全に拒絶し、その代わりに新たな礼拝の形式を作り上げようとしたということになっている。

しかしながら、1990年以降になると、クムラン共同体のエルサレム神殿に対する態度には多様性があることが分かってきた。Geroge Brookeは、クムラン共同体は神殿に対し、少なくとも10通りの顔を持っていると考えている。そしてそれは究極的には3通りになるという:第一に、地上の神殿、第二に、神殿としての天上の礼拝、そして第三に、未来の終末的な神殿に代わる一時的な共同体である。特に、『律法』においては神殿の完全な拒絶という説明は見られない。Steven FraadeとMaxine Grossmanは初期の通説に反して新しい『律法』の解釈を提供したが、クムラン共同体が神殿祭儀の純粋性に関して強い関心を示していることについては見落としている。そこで著者は、『律法』において、エルサレム神殿がいかに重要な意味を持っているか、そしてそこでの祭儀の純粋性にいかに関心を持っているかに注目した。

『律法』における法的部分(第二部)では、祭儀の清浄さや神殿に関わる議論がなされているが、それだけでなく、申命記12章に基づく、祭儀の中央集権化についても二箇所において語られている(B 27-33, B 58-62)。申命記の発明のひとつは、動物犠牲をエルサレムだけに制限したことである。またレビ記17:3-7では、犠牲は神殿で集中的になされるものとされている。そこで、B 27-33では、レビ記17章と申命記12章をもとにして、エルサレム神殿における祭儀の中央集権化が語られている。その際には、レビ17:3の「キャンプ」を申命記12章の「神が選んだ場所」と同一視し、しかもそれらは共にエルサレムを指すと解釈している。B 58-62では、神殿の犠牲を横取りするかもしれない犬をエルサレムに入れないようにすることで、エルサレム神殿における祭儀の清浄さを保つべきとされている。すなわち、神殿と聖なる町の清浄さ、祭儀の中央集権化、エルサレムを神が選んだ土地として見なすことなどから、『律法』は明らかにエルサレムとその神殿の聖性と重要性を認識しているといえる。

『律法』の説教的結論部分(第三部)では、神殿とその祭儀に関する契約への忠実さへの関心が伺われる。著者によると、『律法』は、ヘブライ語聖書や古代近東の法的テクストから知られる契約パターンに合わせるような構成になっているという。第三部は、第一に、歴史に基づいた奨励(祝福や呪いにも言及)、第二に、祭儀の清浄さを維持するための訓戒(分離を前提とする)、第三に、改悛と回帰への奨励(祝福と呪いにも言及)、そして第四に、ハラハー的解釈に関する結論である。この中で、歴史への言及は申命記的な改悛(3:1-2; 31:29; 4:29-30)と結びつき、契約への回帰へとたどりつく。『律法』の著者が申命記的な言葉遣いをしているのは、そうすることで聴衆が、清浄さを回復するために、エルサレム神殿の改革と、神との契約を守ることとが必要であることを認識できるようにするためである。『律法』は、申命記と自らの時代の問題とを結び付けているのである。

以上より、『律法』は神殿、祭儀、清浄などについて強い関心を持っていることが分かる。そしてその解釈は、神殿の祭司たちとは異なっており、自分たちをエルサレム神殿から離していることは確かである。しかし、それは完全な分離ではなく、『律法』もまた、現状に問題はあれどエルサレム神殿こそが本来の正当な聖地であると認めている。彼らにとっても依然として、正しい祭儀はエルサレムに中央集権化されなければならないのである。

2015年3月7日土曜日

『律法儀礼遵守論』の立ち位置 Schiffman, "The Place of 4QMMT in the Corpus of Qumran Manuscripts"

  • Lawrence H. Schiffman, "The Place of 4QMMT in the Corpus of Qumran Manuscripts," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 81-98.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(以下、『律法』)の三部構成に従って、それぞれが他の死海文書と比べてどのような特徴があるかを比較したものである。同書は、第一部が暦、第二部が律法リスト、そして第三部が説教的結論から構成されている。

第一部の中では、一年を364日とする暦法が用いられている。これは死海文書の中では、ミシュマロットと呼ばれる一群、『神殿巻物』、『ヨベル書』、そして『エノク書』などにも見られるものである。第二部と第三部が似たような言い回しで始まっていることから、一つのユニットと見なされているのに対し、この第一部はあとから写字生が写してきたセクト主義的暦を冒頭に付加したものと考えられる。それは、第二部と第三部において第一部の内容がまったく言及されていないことからも分かる。特に『神殿巻物』との共通性が高く、両者はユダヤ法におけるサドカイ派の特徴を備えている。

第二部に関しては、『律法』と、『神殿巻物』、『ダマスコ文書』、そして『詞華集(Florilegium)』(4Q174)とを比較つつ、共通点を挙げている。まず『律法』と『神殿巻物』とは、犠牲の捧げ方や食べ方、また捧げるときに体が浄化されていなければならないこと、神殿の外で殺した動物を聖域に持って入ることの禁止、そして妊娠した動物を殺すことの禁止などに関して明らかにアイデアを共有している。しかもそれは、後代のラビ文学におけるサドカイ派の見解であり、明確に反パリサイ派的あるいは反ラビ的である。ただし、『神殿巻物』が神殿の中庭を聖性に従って三分類したときに「庭」という語を使うのに対し、『律法』とタナイーム資料は「野営地」という言葉を用いている。すなわち、『律法』は『神殿巻物』と相当の共通点として反パリサイ派的な特徴を持っているが、ときに両者は異なった観点も持っているということである。

『律法』と『ダマスコ文書』ともかなり似ている。女性の月経でない血を浄化すること、植栽の方法、目が見えない人や耳が聞こえない人を共同体に入れないこと、法的に禁じられた違法な結婚の規定、非ユダヤ人からの犠牲の拒否や非ユダヤ人が偶像に用いていた金属の再利用の拒否、神殿へ入れてはいけない不浄物の規定、犠牲は神殿自体ではなく祭司に属すること、そして妊娠した動物を殺すことの禁止などについて、両者は似た見解を持っている。これは翻ると、パリサイ派的・ラビ的アプローチの反対であり、サドカイ派的といえる。

『律法』と『詞華集』とは、異邦人や改宗者が終末のときに神殿に入ることを禁じている。ただしこれは神殿に入ることと同時に結婚のことも意味しているとも考えられる。これについて、『詞華集』と『神殿巻物』とは神殿へ入ることを禁じており、パリサイ派的・ラビ的伝統は結婚を禁じている。そして『律法』は両方の意味で取っている。共通のハラハー的問題を扱っているのは明らかだが、それぞれの文書が直接の影響関係を持っているわけではなさそうである。

第三部に関して。第二部では語りかける対象が複数形だったのに対し、第三部では単数形になっている。ここから論文著者は、複数形の呼びかけのときは、この文書の著者のかつてのサドカイ派の同僚で神殿に残った者たちを指しており、単数形の呼びかけのときは、第一神殿時代のイスラエルの王たちと比べられる当時の特定の支配者を指していると考えた。第三部は、主として申命記を下敷きにして、イスラエルによる神の裏切りや、その改悛による神からの救いなどについて説明されている。ここからは明らかに『神殿巻物』との類似性が指摘される。両者は共通のサドカイ派の法的・神学的伝統を受け継いでいる。ただし、直接の影響関係があるかどうかは分からない。

こうしたことから、『律法』は明らかに『神殿巻物』、『ダマスコ文書』、そして『詞華集』などとの共通点を持っており、それらは明らかにサドカイ派的伝統に立脚しているといえる。ただし、『律法』と『神殿巻物』にセクト的敵対心が希薄なのに対し、エルサレムからの分離のあとの文書である『ダマスコ文書』には濃厚である。つまり、『律法』は比較的初期のセクト的律法であるといえる。

2015年3月4日水曜日

『律法儀礼遵守論』(4QMMT)の概論 Kampen and Bernstein, "Introduction"

  • John Kampen and Moshe J. Bernstein, "Introduction," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 1-7.
本論文は、『律法儀礼遵守論(ミクツァット・マアセー・ハトーラー)』(4QMMT)研究の概論を示したものである。同書は、4Q394-399の六つの写本から構成されており、John StrugnellとElisha Qimronによって校訂され、DJDの第10巻として出版された。古文書学の分析によって、前75-後50年までに作成されたと考えられる。同書は三つの部分から成り立っており、第一に、冒頭の暦、第二に、律法のリスト、第三に、説教的結論である。

冒頭の暦部分に関しては、残りの部分との関係性が議論されている。この暦は、写本上ではA写本、すなわち4Q394にのみ見出される。Lawrence Schiffmanはこの暦は写字生によって写本作成の途中で挿入されたものだと考えている。

中盤の律法リストに関しては、ハラハー的観点からの議論がなされている。この箇所において特に興味深いのは、律法遵守の原則と共に、著者の敵対者の見解が想定されていることである。文書の著者自身は、Lawrence Schiffmanによって、ラビ伝承に現れるサドカイ派と似た傾向があると指摘されている。またこの部分から、『律法儀礼遵守論』の全体のジャンルを「ハラハー的な手紙」とする説があるが、手紙らしい挨拶などが欠けている。また結論部分の激励も事態を複雑にしている。Strugnellは、それゆえに、この部分は手紙や論文というより、申命記をモデルとした律法のコレクションとみなすべきと主張する。

最後の説教的な結論部分は、奨励的なエピローグ(hortatory epilogue)と考えられている。この箇所に関する研究が最も薄く、さらなる研究が待たれている。Hana Eshelなどは、この箇所をもとにハスモン朝時代の歴史の再構成を試みた。

こうしたテクストの部分に関する研究のほかに、『律法儀礼遵守論』全体の議論をもとに、新約聖書との関係を研究する向きもある。

以上のように、『律法儀礼遵守論』をめぐって、第二神殿時代およびラビ時代に対する同書の律法理解について、同書の聖書利用について、聖書の律法と同書のハラハーについて、そのタイトルやジャンルについて、といったさまざまな研究トピックが考えられる。

2015年2月9日月曜日

クムランと周辺地域との交流 Schofield, "Between Center and Periphery"

  • Alison Schofield, "Between Center and Periphery: The Yahad in Context," Dead Sea Discoveries 16 (2009): 330-50.

本論文の中で、著者はクムランにおけるセクトとしてのヤハッドを、エルサレムなどの都市との関係の中で相対化する試みをしている。すなわち、ヤハッドとは、クムラン遺跡そのものだけに留まらない現象なのである。そのために、セクト的共同体の新しい理解をもたらす社会人類学的なモデルと、そうしたダイナミックなパラダイム中でその共同体の刑法がいかに新しい理解を得られるかを提示している。

そのために、著者はRobert Redfieldによる「大伝統と小伝統の相克論(great and little traditions)」というモデルにヒントを得ている。すなわち、文化の中心地で体系化された伝統と、それを周辺地域の非エリートが日々の生活に合うものにするために受容・再解釈する伝統との相互関係である。彼によれば、いかなる小伝統も大伝統における文化的・宗教的文化から分離して発展することはないという。小伝統は、大伝統で生まれた普遍的な遺産や知識を、自分たちのローカルな遺産や知識に混ぜるのである。これを当てはめると、クムラン共同体の自己理解も、エルサレムのエリートによって体系化された大伝統と、それに対する自分たちの多様な小伝統との相互作用を通して捉えることができる。すなわち、彼らの自己理解は、ユダヤ教の大伝統との同一性とそれに対して境界を引く異質性とを併せ持っているのである。

著者はRedfieldのモデルを敷衍しつつ、クムラン共同体の特徴を「伝統の放射的・対話的交換(radial-dialogic exchange of traditions)」というモデルで説明する。『律法儀礼遵守論』(4QMMT)の中では、この文書の著者グループが自分たちのことを中心的な権威を通じ、あるいはそれに反発することで定義している様子を見ることができる。彼らは暦法に関して太陽暦を採用したが、これは太陰暦を採用していたエルサレムとの対話の中から出てきたことだと理解できる。すなわち、ヤハッドは常にユダヤ的な中心地に照らして自分たちを理解していたのである。こうしたエルサレムに代表される文化的中心地とクムランとの交流の様子は、考古学的にも証明されている。死海文書が入っていた壺はエリコからもたらされたものだとされている。

刑法もまたセクト共同体の新しいパラダイムを示す好例である。『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、そして4Q265など比べると、三つのことが分かる。第一に、それぞれの規則に合致しないことがあることから、クムランの刑法はクムランのみで出来上がったものではない。第二に、これら三つの法規は順番に時系列的に発展したものではない。第三に、それぞれが独自の法規を持っていることから、4Q265の作成者がほか二つの抜粋をつなげたわけではない。著者は他にも5Q13と4Q504も比較対象にしている。すなわち、クムランの刑法は決してその場所だけでできあがったものではなく、同様の刑法を持つさまざまなオーディエンスとの交流の中でできあがってきたものといえる。

Redfieldの「大伝統・小伝統」モデルに準じると、『共同体の規則』は周辺的な特徴を備えた文書であり、また『ダマスコ文書』は統一的な中心地の文書であるということができる。確かにクムラン共同体はエルサレムの権威や神殿とのコンタクトを通じてできあがっていった。しかし本論文の著者が提唱する「放射的・対話的」モデルは、この二項対立的な「大伝統と小伝統」モデルと異なり、クムラン共同体がよりミクロのレベルではもっとさまざまな影響関係の中にあったことを説明できる。

2015年1月27日火曜日

エッセネ派とクムラン共同体の起源 Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect"

  • Florentino Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect," in The People of the Dead Sea Scrolls: Their Writings, Beliefs and Practice, ed. Florentino Garcia Martinez and Julio Trebolle Barrera (Leiden: Brill, 1995), pp. 77-96.
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著者はこの論文の中で、著者独自の新仮説として、エッセネ派運動をパレスチナのヘレニズム化およびマカバイ戦争よりも以前に起きた、黙示的な伝統であると主張している。これは既存の二つの仮説、すなわち、1)クムラン共同体とエッセネ派運動を同一視し、エッセネ派運動の起源をマカバイ王朝時代のハシディームに求める説と、2)エッセネ派とクムラン共同体とを区別し、エッセネ派をバビロニア起源であるとする説とに対する異論である。

著者によれば、1)の仮説は、第一に、エッセネ派運動をクムランのような周辺的な運動に矮小化しており、第二に、エッセネ派運動に対してもクムラン共同体に対しても、マカバイ戦争が何らかの重要な意味を持つことを証明する文書は存在しないことから、説得的ではない。一方で、2)の仮説は、『ダマスコ文書』に見られる「シェヴィ・イスラエル」を「イスラエルへの帰還者たち」と訳すことを基にして、J. Murphy-O'Connerによって主張されているが、著者はこの表現はむしろ「イスラエルの改悛者たち」と訳すべきなので、説得的ではないと述べている。

これらのよく知られる仮説に対し、著者は四つの方法論的予想を述べる。第一に、クムラン共同体の起源はヨハネ・ヒルカノスが大祭司だった時代(前134-前104年)より前のことであるという。「悪の祭司」は集合的な名称で、何人もの大祭司たちがこの名で呼ばれたが、ヨハネ・ヒルカノスは最後の「悪の祭司」に当たる。第二に、クムラン共同体とそのもとであるエッセネ派運動との間には時間的な隔たりがある。第三に、クムランで見つかった多くの非聖書文書は、クムラン共同体のみならず、それに起因するイデオロギー的運動にも関係している。クムランで見つかった文書は必ずしもクムラン共同体そのものによる文書とは限らないが、少なくとも自分たちのイデオロギーに抵触しない内容であることは間違いない。第四に、クムランの文書はいくつかの理念が混合した文書であるため、ある文書に書かれていることはさまざまな時空を異にする要素から成り立っている場合がある。

以上のような方法論的予想をもとに、著者はエッセネ派とクムラン共同体との起源を峻別する。エッセネ派運動の起源に関する情報は、エッセネ派に言及した古典的テキストや、クムランに保存されたエッセネ派的文書から得られるが、クムラン共同体の起源に関する情報は、クムランが出来上がる以前の時代の文書から得られる。

エッセネ派運動の起源については、まずヨセフスの記述が挙げられる。ヨセフスによると、エッセネ派運動は典型的なパレスチナ的現象であり、マカバイ王朝より以前から存在するものだったという。これは『夢の書』あるいは『動物の黙示録』などからも分かることである。さらに、フィロンの著作などから、エッセネ派運動は、パレスチナの黙示的伝統に属するものでもあるともいえる。エッセネ派運動は天使の世界との交わりという特徴もある。そして『神殿巻物』(11QTemple)からは、終末的な神殿の概念も見られる。これらはみな前3世紀の黙示的伝統に連なるものであり、明らかにマカバイ戦争より以前の観念である。

一方でクムラン共同体の起源については、義の教師によるハラハー解釈と終末への期待が特徴として挙げられる。終末論は『ヨベル書』や『夢の書』における黙示的伝統と軌を一にするものである。ハラハー解釈については、『神殿巻物』(11QTemple、クムラン共同体の設立前の成立)と『律法儀礼遵守論』(4QMMT、クムラン共同体設立後の成立)の中で、祭日、犠牲、暦、神殿、清め、十分の一税、結婚などが語られている。中でも特に暦法についての議論は、クムラン共同体がエッセネ派運動から離脱する大きな要因になっていると考えられる。エッセネ派が他のユダヤ教諸派と同じ暦法を採用したのに対し、クムラン共同体はフィロンが描くテラペウタイと同じ暦法を採用したのである。暦法の違いは終末がいつ訪れるかの計算にも影響を及ぼすものだった。さらに、義の教師による「正しい」律法解釈(「嘘の人」とは異なる解釈)は、義の教師の支持者と、残りのエッセネ派たちとの分離を招いた。

2015年1月26日月曜日

クムラン共同体を超えて Collins, Beyond the Qumran Community, Introduction

  • John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 1-11.
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本書は死海文書におけるいわゆる宗派的巻物から、クムラン共同体の姿を抽出しようとする試みである。しかし、ここで言う「クムラン共同体」という表現には問題がある。なぜならば、『共同体の規則(セレク・ハヤハド)』(1QS)の描写からは、複数の共同体が予測されるからである。さらに、クムランから出土した共同体の文書としては、他にも『ダマスコ文書』(CD)があり、両者には共通点も見られるが、大きな差異も認められるからである。一般的には、『ダマスコ文書』が既婚のエッセネ派のための規則であるのに対し、『共同体の規則』はクムランに住んでいた独身の男性の共同体のための規則であると説明されている。著者は、『ダマスコ文書』の方がより古く、元来の共同体規則を反映しており、そこから『共同体の規則』が派生してきたと考えている。

著者は両文書で描かれている共同体を、「セクト」と表現する。すなわち、他の大きな共同体に対する「差異」「敵視」「孤立」を特徴とするグループである。このセクトは、祭司の継承に関する議論を発端として分離したと一般的には説明される。しかし、クムランから出土した別の文書である『律法儀礼遵守論(ミクツァット・マアセ・ハトーラー)』(4QMMT)には、宗教法ハラハーの解釈や暦法に関する議論は見られるが、祭司の継承問題は見られない。ゆえに著者は、クムランのセクト運動は祭司の継承問題とは無関係だと考える。さらには、死海文書から知られるようなセクト運動は、単純にクムラン共同体のものと同一視することはできないとも述べる。本書における著者の目的は、死海文書に描かれた共同体の本姓を描き出すことである。