- Philip A. Alexander, "Midrash," in A Dictionary of Biblical Interpretation (London: SCM Press, 1990), pp. 452-59.
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ミドラッシュの概説を読みました。Alexanderは、ミドラッシュ文学を以下の4種類に分けています。
- ハラハー的ミドラッシュ:『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル(出)』『スィフラ(レビ)』『民スィフレ』『申スィフレ』。別名タナイーム的ミドラッシュとも呼ばれる。これらの四書をさらに、学派の違いによって、①ラビ・イシュマエル学派の『メヒルタ』『民スィフレ』、②ラビ・アキバ学派の『スィフラ』『申スィフレ』に分けられる。
- 釈義的ミドラッシュ:『創世記ラバー』『哀歌ラバー』。現在の区分とは異なったパラシャーを持ち、プティハーと呼ばれる形式が取られている。
- 説教的ミドラッシュ:形式により、さらに3種類に分けられる。①『レビ記ラバー』、②『プスィクタ・デ・ラブ・カハナ』『プスィクタ・ラバティ』、③『タンフーマ・イェラムデーヌ』。
- アンソロジー、集成:形式により、さらに2種類に分けられる。①『ヤルクート・シムオニ』『ミドラッシュ・ハガドール』、②『ミドラッシュ・ラバー』(五書、5つのメギロット)。
こうしたミドラッシュは、ダルシャニームと呼ばれるラビたちによって、ミドラッシュの学院であるベート・ミドラッシュやシナゴーグで生み出されていきました。といっても、自らの独創性を誇るのではなく、むしろ自分たちが受け取ったものを正確に次の世代に伝えることを使命としていたようです。つまり、ミドラッシュの権威とは、個人がいかに独創的な新解釈を生み出したかではなく、モーセ以来の口伝律法の伝達の中で、いかに正統な賢者たちの連なりの中にあるかがカギなのです。
ミドラッシュをどう読むか、ということについては、「原子論的(atomistic)」と「全体論的(holistic)」や読み方があります。前者は、聖書の引用+解釈をひとつのユニットと見たときに、それぞれのユニットがバラバラだと考えるもので、いわば聖書引用を中心とした読み方といえます。一方後者は、それぞれのユニットの配置には一貫した意図があり、解釈の中に聖書の引用があると捉えます。後者の代表がJ. Neusnerで、特に『創世記ラバー』を分析した結果、解釈ユニットの背後に一貫している意図とは、4世紀におけるローマ帝国のキリスト教化に対するラビたちの対抗意識だと結論付けました。これに対して反論している研究者たちは、もし本当に首尾一貫した意図があるのなら、なぜ『創世記ラバー』の写本テクストに異動が多いのかと疑義を呈しています(正確な本文が保存されていないのに、なぜ背後の意図などを引き出せるのか、ということ)。現在では、やはりミドラッシュの連なりは「原子論的」であるという意見の方が強いようです。著者としては、両方の見方を弁証法的に用いるのが最も健全と述べています。
ミドラッシュ集成の成立時期は特定するのがほぼ不可能ですが、ひとつだけ言えるのは、すべてミシュナー以降のものだということです。すべてのテクストに、ミシュナーの存在を前提としている様子が伺われます。また個々の伝承の年代を特定するのはさらに難しいですが、少なくともある時期までにある伝承が存在したかどうかを調べることはできます。信頼できる外部資料に似たような解釈があるかを探せばよいのです。その対象となるのは、フィロン、ヨセフス、新約聖書などになります。こうした方法はR. Blochによってはじめられ、その後G. Vermesによって続けられています。
ミドラッシュを現代の視点から見るのと、ラビたち自身の視点から見るのとでは、その評価は大きく異なります。現代の視点から見れば、ミドラッシュとは聖書にもともとないアイデアを用いるので、聖書を都合よく使っているように思えますが、ラビたちの視点から見れば、ミドラッシュとは、聖書に潜在しているさまざまな意味を汲み出す方法だといえます。そうしたラビたちの視点から見ると、聖書とミドラッシュにまつわる大きな二つの原則が見えてきます。第一に、聖書は神の言葉である、という意識です。神の言葉である聖書には、汲めども尽きせぬ真理が隠されているので、聖書にはいくつもの読みがあり得ます。ラビたちには、唯一の正しい聖書の意味という発想はありません。一方で聖書は一貫しているともいえます。一見矛盾しているように見える箇所も、ラビたちに言わせれば、それは人間という限界のある存在が読んでいるからそうなるだけであって、神にとってはそれは矛盾でもなんでもないのです。ゆえに聖書に誤りはなく、また冗長さもないといえます。第二の原則は、神が与えた律法は、成文律法である聖書のみならず、口伝律法もあるということです。つまり、閉じた聖典としての聖書だけではなく、開かれた口伝律法の、つまりミドラッシュの世界が広がっているという捉え方になります。一方で、その口伝律法には、賢者たちによる伝統があります。この伝統こそが、あまりにも突飛な解釈などを防ぎ、聖書解釈にある種の規範を与えることにもなりました。
いつも楽しく拝読して勉強させていただいております。
返信削除一つお尋ねしますが、
>すべてのテクストに、ミシュナーの存在を前提としている様子が伺われます。
について、具体的にどういったものであるのか、著者は何か述べていますでしょうか?
また、僭越ながら、
>なぜ『創世記ラバー』の写本テクストに異動が多いのかと疑義を呈しています
の「異動」は「異同」ではないでしょうか。
Bar Kokhba 59/2様、コメントをどうもありがとうございます。ミドラッシュにおいてミシュナーが前提されていることについて、著者は具体的には述べていませんが、ミシュナーに対する2つの姿勢があると述べています。一つはミシュナーを解説するもので、これは2つのタルムードになりました。もう一つはミシュナーを聖書に結びつけるもので、これが各種ミドラッシュ集成になったと説明しています。「異動」と「異同」についてもご指摘ありがとうございました。また何かありましたら、ご遠慮なくご指摘ください。
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