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2016年11月7日月曜日

1-2世紀の教会における聖書 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #1

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp.1-33.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
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本章では、1世紀から2世紀にかけての聖書解釈の概要を扱っている。

ユダヤ人とギリシア人の聖書解釈は、それぞれ字義的解釈と寓意的解釈とを特徴としている。キリスト教会において、字義的解釈は、とりもなおさずユダヤ人の聖書解釈のことだと同一視されていた。初期のユダヤ的聖書解釈としては、タルグム、ミドラッシュ、そして死海文書のペシェルが挙げられる。いずれも、聖書を現実的(actualizing)に解釈しようとする点が共通している。

ギリシア人は、文学的・哲学的テクストを読み解くテクニックの伝統を持っていた。彼らは注解形式で詩や哲学書に注釈を加えた。ギリシア人の解釈テクニックである寓意的解釈には、二つのレベルがあった。第一に、著者自身が意図していた深い意味を探るというもの、そして第二に、著者自身さえ意図しなかった深い意味を探るというものである。ギリシア人は、特にホメロスのような権威ある作品を解釈する際には、それを寓意的に捉えることで、ホメロスが馬鹿げた神話に言及していても、そこには別の意味があったに違いないと考えてホメロスを正当化したのだった。

ヘレニズム化したユダヤ教アレクサンドリアのフィロンは、注解形式と問答形式の聖書解釈を残している。彼は、ギリシア人がホメロスの解釈に用いてきた寓意的解釈を聖書に用いることによって、神人同型説を解決しようとした。これは、ギリシア人にユダヤ教を紹介することでもあった。フィロンは、字義的解釈を完全に否定したわけではないが、あくまで寓意的解釈に対して副次的なものとして理解していた。フィロンの寓意的解釈として特筆すべきは、聖書に出てくるものや場所や人の名前を、語源学的に解釈することで、寓意的な意味を引き出したことである。

新約聖書は、当時のユダヤ教の聖書解釈の方法論に従って、旧約聖書を解釈している。それは、新約聖書における旧約引用やミドラッシュ風の部分、またペシェル風の部分に見ることができる。新約聖書は、旧約聖書をメシア的に読解することで、イエスのメシア性を証明しようとした。

初期キリスト教の保守的なグループは、イエスへの信仰とユダヤ法の順守とを結びつけたが、パウロを始めとするグループは、隠された霊的な使信にこそ価値を認めた。彼らは、本当の割礼ではなく心の割礼を求めた。彼らの聖書解釈の特徴は、予型論(typology)的解釈である。彼らは、旧約聖書の出来事を、キリストと教会の予型として寓意的に解釈したのである。

初期キリスト教ローマのクレメンスは、旧約聖書を主として字義的に解釈した。ただし、パウロのように、旧約聖書の登場人物のことを、キリスト教信仰の好個の例として重視した。『イグナティオスの手紙』にはあまり旧約聖書は使われていないが、『偽バルナバの手紙』は旧約聖書をほとんどミドラッシュ的に解釈している。偽バルナバは、ユダヤ人が律法を字義的に解釈するあまり、その霊的な意味を逸してしまったのだと主張した。そこで、特に数字をシンボリックに解釈することで、旧約聖書から寓意的解釈を引き出した。

グノーシス主義。上のように、キリスト教は旧約聖書を予型論的に解釈することで、教会において旧約聖書が占める位置を確保したわけだが、キリスト教グノーシス主義者たちは、至高神の啓示としての新約聖書に対し、旧約聖書は創造神(デミウルゴス)の啓示であるとして、これを否定した。ただし、ウァレンティノス派のプトレマイオスのように、律法をある程度認める中葉の立場の者もいた。『ヨハネのアポクリファ』は、律法に書かれていることはモーセの能力を超えるものだったために、律法は事実と異なることを含んでいるのだと主張した。それゆえに、キリスト教グノーシス主義者は、旧約聖書を寓意的に解釈したのである。

グノーシス主義者の新約聖書の解釈もまた、キリストの啓示を明らかにするための寓意的なものだった。ウァレンティノス派は数字のシンボリズムに注目し、プトレマイオスやヘラクレオンはヨハネ福音書を念入りに解釈し、一節毎の組織的な注解書を著した。

アジア学派の反ユダヤ的・反グノーシス主義ユスティノスは、律法を完全に否定するのではなく、その価値を認めていた。しかし、律法はあくまでもキリストと教会の予型(typoi)であり、ユダヤ人にとっての預言(logoi)ではないと主張した。彼によれば、ユダヤ人は預言はすでにキリストによって成就していることを認めようとしないので、依然として予型をその表面的な部分でしか捉えていないのだという。アジア学派の特徴としては、予型論を重視するが、それをあくまでキリストや教会の具体的な出来事と結びつけることである。すなわち、アレクサンドリア学派のように霊的な応用をあまりしなかった。

もう一人のアジア学派であるエイレナイオスは、旧約と新約とを連続的に捉えようとした。彼もまた、ユスティノスのように、予型(typoi)と預言(logoi)との区別を重視した。彼はレビ記における、反芻とひづめによる動物の区別を用い、反芻とは律法を咀嚼すること、そしてひづめとは父と子に対する硬い信仰のこととすることで、キリスト者、異教徒、ユダヤ人を比較した。すなわち、キリスト者は反芻しひづめがある者、異教徒は反芻もひづめもない者、そしてユダヤ人は反芻するばかりでひづめがない者だと言うのである。

ユスティノスもエイレナイオスも、アジア学派の物質主義的な特徴どおり、基本的には字義的解釈を重視した。その際には、聖書の神人同型説的な記述にも違和感を覚えなかったようである。しかし、律法の予型論的解釈を用いることで、寓意的解釈をも認めていたと言える。彼らは旧約聖書の出来事をキリストの予型と捉えるという意味では反ユダヤ的であり、一方で、旧約聖書を認め、過度な寓意的解釈を否定したという意味では反グノーシス主義的であった。こうした傾向は、テルトゥリアヌスのような教父にも見られることである。

ここからも分かるように、字義的解釈と寓意的解釈との違いは、聖書解釈のテクニック的な問題というよりも、さまざまな立場間の論争上の問題であると言えるだろう。

ヒッポリュトスもまた、新約聖書のみならず旧約聖書をも積極的に解釈することで、反グノーシス主義的姿勢を明らかにしている。彼の注解は教義的には一貫しているが、解釈テクニックにおいてあまり優れているとは言えない。彼はダニエル書における殉教の記述に注目し、反ローマ的な解釈を加えている。ほとんど予型論的解釈は用いていないが、唯一用いているのがスザンナのエピソードに対してである。彼の解釈は、ユスティノスやエイレナイオスもエピソードに基づく解釈に比して、より組織的なものだったが、聖書の文献学的な事実には無頓着だった。彼は旧約聖書をキリスト論的に解釈したが、はっきりとした原理は持たなかった。

2016年11月2日水曜日

オリゲネスとアガダー De Lange, Origen and the Jews #10

  • Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 123-35.
オリゲネスの聖書解釈とユダヤ教のアガダーとの比較研究はすでに存在しているが、しばしばそうした研究は、両者の共通点をカタログ風にまとめただけで満足してしまっていることが多い。またラビ文学と教父文学とに共通点を見つけたからといって、それを直ちに前者から後者への直接の影響と考えるのは早計である。なぜなら、教父たちは、ラビ文学にある伝承とソースを同じくする伝承を、外典文学やフィロンなどのヘレニズム期ユダヤ文学から知ったかもしれないからである。教父たちと同時代のユダヤ人との直接的な影響関係がどの程度のものだったのかは、まだよく分かっていない。それゆえに、教父文学とラビ文学とに並行箇所があっても、他のソースの可能性を捨て去ってはいけないのである。

論文著者は、こうした前提をもとに、オリゲネスがユダヤ人から聞いたものであると明言しており、かつラビ文学に並行箇所が見られるような聖書解釈を5つ検証している。すなわち、創造、ノア、ヨセフ、出エジプト記、そして民数記である。

検証の結果、論文著者は以下のように結論している。第一に、オリゲネスは、ヘレニズム期ユダヤ人作家の著作には見られないようなアガダー的材料を保存している。第二に、ただしそれはすべてではなく、オリゲネスが言及している伝承のいくつかは、ラビ文学以外にも、たとえばフィロンに見られる。またフィロンになくとも、別の非ラビ的資料にはある可能性はある。第三に、オリゲネスが言及する伝承のソースである「ヘブライ人」は、ラビ的な性質を持っているが、非ラビ的な解釈をもオリゲネスに教えている。この「ヘブライ人」の正体について、論文著者次のように述べている:
The problem of the identity of 'the Hebrew' must remain one of the great enigmas connected with name of Origen. (p. 132)
さて、論文著者は、本書のまとめとして以下のように述べている:オリゲネスは聖書を真剣に学んだ最初のキリスト教教父である。当時の教会はシナゴーグと敵対的な関係であったが、キリスト者たちは、ユダヤ人から教えを請わずに聖書について学ぶことはできなかった。オリゲネスは、こうしたキリスト教的な聖書の学びからユダヤ教からの影響を払拭しようとしたが、それをするにはまず彼自身がユダヤ的伝統に通暁せねばならないというジレンマを抱えていた。ユダヤ人との接触時代は容易であり、何となれば教会内にもユダヤ・キリスト者がいた。

まずオリゲネスはギリシア語聖書のテクストを定め、それとヘブライ語テクストとの関係を検証しようとした。そのために彼が作ったのが『ヘクサプラ』である。ただし、彼自身はヘブライ語を読むことができなかったので、ヘブライ語テクストを知るために、代わりにアクィラ訳を読んだ。彼はこうしてテクストを定めたうえで、聖書解釈の理論や方法論を学んでいった。そのときの彼の教師となったのが、フィロン、パウロ、そしてラビたちであった。特に、生きたユダヤ教を継承するラビたちへの依拠は、オリゲネスの聖書解釈の最も特別な点であった。

こうして、オリゲネスは教会における学術的な聖書解釈の創始者となった。彼の影響は、ルフィヌスやヒエロニュムスを通じて、西方教会へも及んだ。言い換えれば、3世紀のカイサリアのラビたちは、オリゲネスを通してキリスト教世界全体の聖書解釈の伝統に影響を与えることがになったのである。

オリゲネスは、しばしば自身がユダヤ人に依拠していることを明言しないこともあったが、かといってユダヤ人を完全に敵に回すようなことはなかった。むしろ、異教徒によってユダヤ人が批判されると、ユダヤ人を擁護して反論する立場に回った。

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2016年10月31日月曜日

オリゲネスの聖書解釈 De Lange, Origen and the Jews #9

  • Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 103-21.
オリゲネスの聖書解釈に関する該博さは、ヒエロニュムスも認めるところだった。本章は、そのオリゲネスの聖書解釈のユダヤ教に由来する側面を検証したものである。オリゲネスはどの程度、同時代のユダヤ教聖書解釈に依拠していたのだろうか。論文著者はこの問いに、オリゲネス自身がユダヤ教聖書解釈について語っている箇所と、この点に関する研究から得られる印象とから応えようとした。

オリゲネス自身が言っているように、ユダヤ教の聖書解釈はあまりに「字義的」であると見なされていた。しばしば「ユダヤ的な」という形容詞は、「字義的な」という意味で用いられた。ただし、オリゲネスは、そう考えるキリスト者の中でも、最も鋭くユダヤ教聖書解釈の多様性に気づいていた人物であった。そもそも、ここで言う「字義的」とは、現代的な意味としての、テクストが最初に書かれたときの意図を指してはいない。彼は決して聖書の統一性や、それが永遠の神託的な価値を持っていることを疑わなかった。

これはラビたちの「字義的」という言葉の理解とも一致している。ラビ・アキバはトーラーの一字一句にも深い意味があると考えていた。一方で、ラビ・イシュマエルはトーラーは神ではなく人間の言葉で書かれており、また語ではなく文の意味について解釈するべきと考えていた。両者は自分たちのアイデアを文章の中に読み込むことを目的としており、違いはその方法の違いにすぎなかった。

ただし、ラビ・アキバとラビ・イシュマエルの解釈法は、ラビたちが「字義的」な解釈と「法的・説教的」な解釈とを区別できなかったことを意味しない。ラビ・ユダヤ教にはそれぞれ、プシャットとミドラッシュという区別が存在する。この区別は、現代的な意味での「字義的」と「非字義的」とはやや異なっている。

フィロンは、聖書解釈の方法として、「ヘー・レーテー・アポドシス」と「アレゴリア」を区別した。また、字義的解釈では説明しきれないものを、パラドクサなどと呼んだ。彼の聖書解釈は、聖書の物語を、自身の宗教的・哲学的なアイデアのテクストとして使うものだった。彼は律法を寓意的に解釈することで、聖書の法の不適切なところを取り除いたが、決して律法遵守を廃止することを目指していたわけではなかった。

これに対し、パウロはモーセの律法に異議を唱え、文字の法ではなく霊の法を守るように求めた。パウロによれば、キリスト者は法を無効にするのではなく、それを制定するのである。ラビやフィロンの律法理解とは異なるパウロのそれは、キリスト者の律法理解となっていった。フィロンは、律法にはより深い意味があり、それを捨て去ることはできないと述べた。ラビたちは、律法は永遠に有効であるが、解釈のために変更してもよいと見なした。これらに対し、パウロやキリスト者は、ユダヤ法に「文学的(literalistic)」に相対した。すなわち、彼らの「字義性(literalism)」は、盲目的に律法を受け取ることではなく、日常生活の中で意味あるものとして律法を受け入れるということであった。ただし、聖書の歴史部分については、永遠の真理の予型として、正確なものと見なした。

オリゲネスの聖書解釈は、しばしば3種(肉的、魂的、霊的)あると考えられてきたが、この区分をきちんと応用している解釈は珍しい。実際には、伝統的な字義的(肉的)解釈と霊的解釈の二区分が多い。これは、神が二つのアイデアを一度に語ることができるという詩篇62:12の句を拡大的に取ったラビたちの理解とも軌を一にするものである。ラビたちはさらにこのアイデアを敷衍して、トーラーには70の顔がある、とまで主張するに至った。

オリゲネスの解釈スタイルは、ラビ・アキバの特異な解釈と、アクィラの聖書翻訳とに似ていると言える。オリゲネスは、アキバと同じく、聖書の一字一句に深い意味が隠れていると考えていたので、特に不定法を用いた繰り返し表現などに意味を見出した。こうした寓意的解釈がラビからの直接の影響なのか、それともアレクサンドリアの伝統からの影響なのかは、判別し難い。

従来では、ラビたちの聖書解釈における寓意性を等閑に付されてきたので、オリゲネスとラビたちの影響関係は詳しくは検証されなかったが、ラビたちの例え話である「マシャール」は寓意的解釈に近い。似た用語としては、「リシュム」と「ホメル」とが挙げられる。こうした方法は、雅歌やエゼキエル書の解釈に適用された。オリゲネスもラビたちも、トーラーを水、木、マナ、力、真理、善、地、火などと同一視した。

オリゲネスや、彼より前の教父であるユスティノスらは、こうしたトーラーと何かとの同一視を、そのままキリストへと繋げた。すなわち、トーラーを表わしていた木は、そのままキリストとも解釈されるのである。オリゲネスの時代には、キリスト教のシンボリズムはすでに高度なものとなっていたが、まだあるシンボル(十字架など)が完全にユダヤ教から切り離されてはいない、中間的な時期でもあった。こうしたシンボリズムにおける一致を、単純にフィロンや新約聖書のみとの関係で捉えることはできない。

こうしたシンボリックな聖書解釈としては、特に聖書の登場人物の名前の解釈が挙げられる。名前の語源学的な解釈は、フィロンより古く、ホメロスを解釈したアレクサンドリアの伝統に属するものである。こうした解釈に関するオリゲネスのソースとしては、フィロン、名前語彙集(のちにヒエロニュムスがラテン語訳するハンドブック)、そして同時代のユダヤ伝承があった。三つ目のユダヤ伝承とは、現在では『メヒルタ』やタルムードなどに残されているような解釈である。オリゲネスによるこれらの名前解釈のうち、ヘレニズム期ユダヤ作家に共通のものが見つからず、あまりに明白に語源が想像できるもの以外は、ユダヤ伝承から採用されたものである可能性がある。

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2015年11月26日木曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #1 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本論文は、ブリル書店から発行されているヨセフスの翻訳と注解シリーズの編者による長尺論文である。同シリーズにおいて「ユダヤ人」と書くに際し、Masonは一般的なJewsではなくJudaeansを採用したのだが、本論文はこの方針への批判に対する弁明にもなっている。このエントリーでは、pp. 457-80の序章および第1章をまとめたい。

歴史学においては、古代の文脈から離れ、今日的な視点から対象を研究する、主として社会科学で用いられるエティックな方法論(統計学、人類学、経済学など)と、古代の文脈に即しつつ、その内的な思考パターン、カテゴリー、そして言語を研究するエミックな方法論とがあるが、本論文は、「ユダヤ」や「ユダヤ人」という用語をエミックな観点から探究したものである。

論文著者は、まず3つの文献学的事実を指摘する:
  1. 古代におけるヘブライ語およびアラム語テクストには、我々にとっての「ユダヤ教」を意味する言葉はない。「ユダヤ人(יהודים)」や地名としての「ユダヤ(יהודה)」はあるが、「ユダヤ教(יהדות)」は存在しないのである。
  2. ギリシア語やラテン語において、「ユダヤ人(Ioudaioi)」という語は頻出するにも関わらず、「ユダヤ教」に相当するἸουδαισμός / Iudaismusは、第二マカベア書で4回および第四マカベア書で1回使われている以外は存在しない。
  3. パウロとアンティオキアのイグナティオスでは限定的な用法に限られるが、後200年から500年にかけてのキリスト教作家は、「ユダヤ教(Ἰουδαισμός / Iudaismus)」という語を気前よく使っている。
「ユダヤ教(Judaism)」における-ismとは、思想や実践が体系化されたものを指すが、キリスト教作家以前のギリシア語やラテン語の用法は、そのような意味ではないということである。むしろ-ismのもととなる-izoという語尾を含む動詞は、自分以外の民族や文化へと渡ったり、それを採用したり、またそれと提携したりすることを指すことが多かった。こうした民族的な-izoは通常、別の潜在的な交友関係、運動、あるいは傾向とのコントラスト(それが明確であれ暗示的であれ)をつける際に用いられた。それゆえに、Ἑλληνισμόςはβαρβαρισμόςとのコントラストの中で用いられ、またἸουδαισμόςもἙλληνισμόςへのリアクションとして用いられたのである(Ἑλληνισμόςは、第二マカベア書においてἸουδαισμόςとの対比の中で初めて出てくる)。

論文著者は、第二マカベア書(2:21, 8:1, 14:38×2)、第四マカベア書(4:26)、パウロ(ガラ1:13-14)、アンティオキアのイグナティオスにおけるユダイスモスの用法をつぶさに検証する。それによると、ユダイスモスという語は、システムとしての「ユダヤ教」という意味ではなく、むしろヘレニスモスへの対抗策として新たに作り出された「ユダヤ化(Judaizing/Judaization)」という意味で取るべきであるという。つまり、ユダイスモスとは、単に信仰によって「ユダヤ人」である状態を保っている状態、すなわち「ユダヤ教」という意味ではなく、脱ユダヤ化(κατάλυσις)した他のユダヤ人を元に戻し、父祖の律法を復権させるという「ユダヤ化」という意味なのである。反対に、パウロやイグナティオスによるΧριστιανισμόςという語は、信徒が「ユダヤ化」(ユダイスモス)する危険に対して、キリストへ戻るという「キリスト化(Christianizing)」を意味していた。いわば、第二マカベア書はヘレニスモスの脅威に対してユダイスモスを擁護していたが、パウロやイグナティオスはユダイスモスの脅威に対する救済策としてクリスティアニスモスという語を作ったのである。

このように2世紀末までは、ユダイスモスという語は、包括的なシステムや生活の規範としての「ユダヤ教」の意味では用いられなかったが、3世紀になると多くのキリスト教作家が過去にさかのぼってユダヤ人の歴史全体をユダイスモスと呼ぶようになった。そのような作家としては、テルトゥリアヌス、オリゲネス、エウセビオス、エピファニオス、ヨアンネス・クリュソストモス、ウィクトリヌス、偽アンブロシウス、アウグスティヌスなどがいる。エウセビオスの時代になるまでには、ユダイスモスという語はユダヤの地における生活から切り離され、明らかに思想のシステムという意味で神学的に用いられるようになった。エウセビオスは、クリスティアニスモスはユダイスモスでもヘレニスモスでもなく、新しい真の神的な哲学であると述べている。自己規定に躍起になっていた教会は、既存のカテゴリーである「ユダヤ人」に自らの信仰を当てはめるのをやめ、キリストへの献身を独立したものとして見なそうとした。そうした対比の中で、ユダイスモスという語がシステマティックに抽象化されていったのである。論文著者によると、3世紀から4世紀のギリシア語で書かれた碑文の中にも同様の変化が見られるという。