ページ

ラベル パリサイ派 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル パリサイ派 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年2月9日木曜日

口伝律法の成立 Jaffee, Torah in the Mouth

  • Martin S. Jaffee, Torah in the Mouth: Writing and Oral Tradition in Palestinian Judaism, 200 B.C.E.-400 C.E. (New York: Oxford University Press, 2001).
Torah in the Mouth: Writing and Oral Tradition in Palestinian Judaism, 200 Bce-400 CeTorah in the Mouth: Writing and Oral Tradition in Palestinian Judaism, 200 Bce-400 Ce
Martin S. Jaffee

Oxford Univ Pr on Demand 2001-04-19
売り上げランキング : 2295328

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本書は、ユダヤ教における口伝律法がどのように成立したのかを検証したものである。著者はまず、口伝と成文とが二項対立であり、口伝の方が成文より先んじているのだという先入観を脱構築する。著者はむしろ、どんな伝承にも遂行的(performative)な解釈がああり、なおかつ口伝と成文とは互いに依存しあっていることを強調する。すなわち、口伝の文化においては、書かれたテクストとは、公の場で解釈され、朗誦されるために作られたのだといえる。

著者は、第1部では第二神殿時代の口伝伝承を、第二部ではラビ文学を扱っている。第二神殿時代に関してはクムラン共同体とパリサイ派共同体を検証しているが、著者はこの時代のユダヤ教には真の意味での口伝律法は存在しなかったと述べる。なぜなら、クムランでは過去から作用してくる進行中の啓示が重視されており、またパリサイ派でも権威ある伝承は過去からのみやってくるものだったからである。いずれも今現在の解釈行為という視点は欠けている。

しかしながら、ラビ時代になると状況は変わる。まず著者はタナイーム期の『ミシュナー』と『トセフタ』、そしてミドラッシュ集を扱いながら、特にミドラッシュの中に口伝律法の最初のはっきりとした表現を見出す。ミドラッシュは成文律法たる聖書と『ミシュナー』とを区別し、後者にシナイ山におけるモーセの権威を付しているのである。

しかしながら、口伝律法が理念的にも実践的にもテクストにはっきりと説明されたのは、アモライーム期であった。アモライーム期の特徴は、ラビたちの師弟関係が築かれたことである。師匠から口承で伝えられる伝統こそが(タルムード・トーラー)、まさに現在進行形の生きたトーラーとして、次の世代へと教育されていったのだった。

2016年10月3日月曜日

ユダヤ人とヘブライ人 De Lange, Origen and the Jews #3

  • Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 29-37.
オリゲネスの時代にユダヤ人を表わす言葉は、「イスラエル」、「ユダヤ人(ユダイオイ)」、そして「ヘブライ人(ヘブライオイ)」などさまざまあった。パレスティナのユダヤ人は、しばしば自分たちのことを「イスラエル」と呼び、「ユダヤ人」とは呼ばなかった。逆に、ディアスポラのユダヤ人が自分たちのことを「イスラエル」と呼ぶことは稀だった。オリゲネスが「イスラエル」という言葉を使うのは、聖書のイスラエルの民のことを指すときだけだった。

では「ユダヤ人」と「ヘブライ人」との違いは何か。論文著者は、ヨセフス、フィロン、新約聖書、テルトゥリアヌス、『第四マカベア書』、『ミシュナー』、そして各種碑文などの証拠から、基本的な使用法を次のようにまとめている:
  1. 「ヘブライ人」が古代イスラエル人を指すのに対し、「ユダヤ人」は同時代のユダヤ人を指す。
  2. 「ヘブライ人」が敬称であるのに対し、「ユダヤ人」は中立か敵対的な意味になる。
  3. 「ヘブライ人」は、特にヘブライ語かアラム語を話すユダヤ人を指し、ギリシア語を話すユダヤ人である「ヘレニスタイ」と対を成している。
こうした用法に対し、オリゲネスは「ヘブライ人」という言葉を文献学的な文脈で用い、「ユダヤ人」という言葉を論争的な文脈で用いているという。オリゲネスは、神学者としてユダヤ人を非難する立場にあったが、学者や聖書解釈者としてはユダヤ人に負っているというジレンマを持っていた。彼の「ヘブライ人」と「ユダヤ人」の用法には、このジレンマが表れているのである。

オリゲネス(やエウセビオス)にとって「ヘブライ人」という言葉が敬称的な意味を持つのは、古代イスラエル人と繋がっているヘブライ人たちが、キリスト教会の霊的な先祖を意味するとも見なされていたからである。言い換えれば、すべての「ヘブライ人」は、キリストより前に生きた者たちも含めて、「キリスト者」として数えられるのである。こうした理解から、「イスラエル」という言葉もまたキリスト者や教会を指すこともある。これに対し、「ユダヤ人」という語には依然として、聖書を逐語的に訳す者たちや割礼をする者たちといった、否定的な意味合いが含まれていた。

オリゲネスが持っている重要な情報としては、ラビ・ユダヤ教の長老制度(patriarchate)がある。ラビ・ユダの肩書である「ナスィー」は、ギリシア語ではエトナルケースあるいはパトリアルケースと訳されている。前者は古いヘレニズム期の用語であり、それがオリゲネスの時代に次第に後者に取って代わり、4世紀以降では完全に後者の訳語が定着した。オリゲネスはサンヘドリンに関しては何ら言及していないが、おそらくラビを指して「賢者(ソフォイ)」という語を用いている。

オリゲネスはユダヤ教のセクトにも言及している。パリサイ派については、逐語的な解釈者と見なしている。ヒエロニュムスが言及しているナザレ派については沈黙しているが、エビオン派、エルケサイ派、サマリヤ人についても言及がある。

関連記事

2015年11月16日月曜日

ヨセフスとパリサイ派 Neusner, "Josephus's Pherisees"

  • ジェイコブ・ノイズナー「ヨセフスとパリサイ派」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究2:ヨセフスとキリスト教』山本書店、1985年、117-60頁=Jacob Neusner, "Josephus's Pharisees: A Complete Repertoire," in Josephus, Judaism, and Christianity, ed. Louis H. Feldman and Gohei Hata (Detroit: Wayne State University Press, 1987), pp. 274-92.
ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)
秦 剛平

山本書店 1985-10
売り上げランキング : 2090078

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文で、著者は、ヨセフスによるパリサイ派に関する記述を比較検討することで、モートン・スミスによるパリサイ派理解が正しいことを論証しつつ、それまでの理解を批判している。そのスミスによるパリサイ派理解とは、要約すると以下のようなものである:
ヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』とを比較すると、前者においてヨセフスはパリサイ派についてさほど詳述していないし、描いたとしてもアレクサンドラ・サロメの迷信に付け込んで政治的権力を手に入れた偽善者として描写している。しかしながら後者において、ヨセフスはパリサイ派が民衆の間で人気がある者たちとして描いている。しかも、サロメの夫であるアレクサンドロス・ヤンナイオス(反パリサイ派)ですら、死ぬ間際にパリサイ派を認めていたという記述を付け加えている。いわば、『古代誌』においてヨセフスは、エルサレムを占領したローマに対する政治的配慮から、手を組むならパリサイ派にしろと推奨しているのである。
つまり、ヨセフスが『古代誌』で描くパリサイ派の姿は、ヨセフスのプロパガンダによる歪曲である。これまでの多くの研究者たちは、『古代誌』の記述をもとに、後70年以前におけるユダヤ教の規範的宗派はパリサイ派だったという「汎パリサイ・汎ラビ的」見解を持っていたが、スミスとノイズナーは、『古代誌』の記述はパリサイ派の実際を描いたものではないし、またおそらく後70年以前のパリサイ派は多くの諸派のうちの一つにすぎなかったと主張するのである。

論文著者はまず、『自伝』における記述から、ヨセフスが自分をパリサイ派であると見なしていたこと、そしてガリラヤで指揮官を務めていたときに、パリサイ派のシメオン・ベン・ガマリエルと対立したために解任されたことに触れている。

次に、著者は、『戦記』のパリサイ派について、アレクサンドラ・サロメとの関係、ヘロデの宮廷で賄賂を受け取っていたこと、そして哲学の学派の一つとして説明されていることなどから検証していく。ここではパリサイ派は、宗教の実践や律法の解釈では卓越しているが、マカベア王朝で政治的実権を握り、敵対者を殺害した者たちとして描かれている。しかしながら、彼はここでは、パリサイ派が最も人気がある宗派であるとか、民衆に支持があるなどとは述べていない。

一方で、『古代誌』のパリサイ派は目立つ存在として描かれている。それどころか、パリサイ派の協力なしではパレスチナ統治は成り立たないとさえ述べている。著者は、パリサイ派について、哲学の学派の一つ、ヨアネス・ヒュルカノスとの関係性、アレクサンドラ・サロメとの関係性、ヘロデの宮廷での出来事などから説明していく。それによると、パリサイ派は市井の人々によって支持されており、アレクサンドロス・ヤンナイオスにも最終的には認められ、アレクサンドラ・サロメの後ろ盾を得ている。さらには、『戦記』では描かれていた、パリサイ派による敵対勢力へのリンチも、『古代誌』では隠ぺいされている。

こうしたことから、著者は、パリサイ派を後70年以前のパレスチナ・ユダヤ教の中の規範的宗派として言及することはできないと結論付ける。歴史上のパリサイ派について我々が学ぶことができるのは、パリサイ派の影響力や権力ではなく、第一に、ハスモン王朝の政治に深くかかわる政治結社だったこと、第二に、ユダヤ社会の主流の民族哲学とは異なる特有の哲学を持った学派だったことである。そして政党としてのパリサイ派は前1世紀の最初の50年は有効に機能したが、それ以後は、個々人のパリサイ派は存在しても、派としてのグループはヒレル時代までには政治的活動を停止したのである。

参考エントリー

2015年3月31日火曜日

『律法儀礼遵守論』とミシュナー・ヤダイム Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period"

  • Lawrence H. Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period," in Temple Scroll Studies, ed. George J. Brooke (Journal for the Study of the Pseudepigrapha Supplement Series 7; Sheffield: Sheffield Academic Press, 1989), pp. 239-55.
Temple Scroll (JSP Supplements)Temple Scroll (JSP Supplements)
George J. Brooke

Sheffield Academic Pr 1989-06-01
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、『神殿巻物』の法規を『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)と比較しつつ明らかにしたものである。この論文の主題自体は『神殿巻物』だが、この論文の重要さはむしろ『律法』の分析にある。著者によると、『律法』のセクションBで扱われている20の法規のうちのいくつかが、ミシュナー・ヤダイム4.6-7の議論と一致しているという。著者は、ミシュナー中の5つの議論のうちの4つが『律法』と一致していると主張する。

第一に、すべての書物が手を汚すというミシュナー中のサドカイ派的見解は(m. Yad. 4.6)、神殿の外で屠られた動物の皮は神殿内に持ち込まれてはならず、その皮は運ぶ者の手も汚すという『律法』中の見解(B 17-20?、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者によるものである)に由来するものである(B 21-23、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者の判断によるもの)。

第二に、『律法』は不浄な動物の骨もまた不浄であると見なすので、それを使って取っ手などを作ってはならないという(m. Yad. 4.6および『律法』B 21-22)。

第三に、ナツォーク、すなわち水の流れに沿って不浄が流れてくることに関するサドカイ派的見解が『律法』にも見られる(m. Yad. 4.7および『律法』B 55-58)。

第四に、墓地を流れてくる水に関する議論もまた、ナツォークの議論中に見られる。

以上より、パリサイ派とサドカイ派との間にある4つの議論において、『律法』の著者はサドカイ派の主張と同じ主張を持っており、パリサイ派的な見解に反対している。もし『律法』がサドカイ派の文書であるならば、クムラン・セクトは、マカベア戦争以後にエルサレム神殿を去った、不満を抱いている祭司たちによって始められたものだと考えられる。なぜならば、ツァドクの系譜に属するものではなく、ハスモン家の者が祭司職を奪ってしまったからである。

『律法儀礼遵守論』とヨセフス著作から見るパリサイ派 Schwartz, "MMT, Josephus and Pharisees"

  • Daniel R. Schwartz, "MMT, Josephus and the Pharisees," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 67-80.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)とヨセフス著作から、パリサイ派の姿をどの程度復元できるか試みたものである。著者によると、パリサイ派研究に対して死海文書が果たした役割は、間接的でありながらも強烈であるが、一方で皮肉な結果になった。というのも、死海文書によって、パリサイ派のイメージは19世紀の研究が示したものへと戻ってしまったからである。

19世紀の研究者は、ヨセフス、新約聖書、そしてラビ文学での記述から、第二神殿時代のパリサイ派が神殿崩壊後のラビ・ユダヤ教と同一であると見なした。さらに、E. Schuererは福音書やミシュナーから、パリサイ派は人間の感情を度外視したケチな詭弁家であると考えた。R. Travers HerfordやGeorge Foot Mooreは、ラビ・ユダヤ教は倫理を重要視した多面的な宗教であるとした。すなわちこの時期の研究者たちは、肯定的であれ否定的であれ、パリサイ派をラビ・ユダヤ教と同一視することと、パリサイ派が第二神殿時代における主流派だったことを主張しているのである。

これに対し、20世紀になると、Morton Smithによって、ヨセフスの記述はプロパガンダであり、パリサイ派は神殿崩壊前は主流派ではなかったという反論が行われた。さらにSmithは、新約聖書における主流派としてのパリサイ派の描写も、神殿崩壊後の状況を反映したアナクロニズムであると主張した。この考え方はJacob Neusnerによって発展され、広く受け入れられるようになっていった。Neusnerによれば、後代のラビ文学を一世紀より前のパリサイ派の研究に用いることは無責任であるという。

この傾向は、ホロコーストとイスラエル国家の成立によって、さらに強められた。ホロコーストの反動としての、反セム主義への忌避から、一方では新約聖書におけるイエスのパリサイ派批判はイエス自身の思想の反映ではなく、他方ではそもそも攻撃されているパリサイ派もユダヤ教の主流派ではなかったという議論が展開された。

こうした第二神殿時代のパリサイ派=反主流派説に対して、さらなるリアクションが死海文書の発見によってなされるようになった。第一に、『神殿巻物』『律法』『ダマスコ文書』などから、クムラン共同体が律法に対し強い関心を持っていたことが分かった。第二神殿時代に極めて霊性を重んじたクムラン共同体でさえ、律法を重視していたのであれば、パリサイ派はいわずもがなである。そしてそうであれば、ラビ・ユダヤ教はパリサイ派からさほど隔たっていないといえる。第二に、死海文書がラビ文学とよく合致することから、第二神殿時代の研究に自信を持ってラビ文学を用いることができるようになった。

パリサイ派が本当に主流派であったのかどうかという問題に関して、著者はバランスを取ろうとする。ヨセフスの記述によると、ヨセフスはパリサイ派の支配に対し批判的な記述を残していることから、翻って、パリサイ派が主流派であったことが分かる。ただし、実際にパリサイ派が支配的でなくても、ヨセフスがパリサイ派に文句をつけていた可能性もあるので、これだけではSmith-Neusner説を覆したことにはならない。

そこで『律法』を見ると、「我々は民の大多数(ロブ・ハアム)から自分を引き離した(パラシュヌ)」という一節から、パリサイ派=主流派であった可能性を見て取ることができる(「引き離す」という言葉もパリサイ派を連想させる)。しかし、著者はロブ・ハアムは「民の多く」という意味のみであって、必ずしも「主流派」を意味しないと主張する。さらに、『律法』のセクションBでは神殿と祭司性について議論されていることと、ロブ・ハアムという語が敵対者とのセクト的な議論の中では用いられていないことから、著者は当時のパリサイ派は単独の主流派とはいえず、あくまで祭司グループに準ずる位置であったと述べる。『律法』が示しているのは、当時のユダヤ世界が、クムラン派、パリサイ派、そして神殿の支配階級(=サドカイ派)に分かれていることと、パリサイ派はその支配階級と同盟関係にあったことのみである。そしてこれらの結果はヨセフスの記述からすでに知られていることであった。

2015年3月30日月曜日

ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」

  • ジェームス・C・ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、99-117頁(James C. VanderKam, "The People of the Dead Sea Scrolls: Essenes or Sadducees," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 50-62)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

ミルトス 1997-09
売り上げランキング : 678072

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、クムラン共同体の正体をサドカイ派であるとするシフマンに対し、その正体はやはり従来の説どおりエッセネ派であるとするヴァンダーカムによる反論である。クムラン共同体をエッセネ派と同定するためには、主として二つのデータに基づいてきた。第一に、大プリニウスの証言、第二に、死海文書の内容と、エッセネ派の信仰と慣習に関するヨセフスらの記述のとの比較である。著者によれば、プリニウスはその報告をでっち上げる理由はないこと、また他のことに関する彼の証言が正確であることなどから考えて、プリニウスの証言は確かであるとしている。

第二の点に関して、ヨセフス『ユダヤ古代誌』におけるエッセネ派に関する記述と『共同体の規則』(1QS)とを比較すると、多くの類似点が見出される。著者は例として、運命について、所有物の共有について、唾を吐くことについてなどを挙げている。Todd Beallによると、ヨセフスの著作とエッセネ派に関する死海文書の間には、27の類似点、21の似通っているようにみえる点があり、同時に接点がない点が10あり、矛盾点が6あるという。死海文書自体が足並みがそろっていない点もあるが、それはそれぞれがエッセネ派内の異なるグループの文書であったからだと考えられる(『ダマスコ文書』は町や村に住むエッセネ派の文書、『共同体の規則』はクムランのエッセネ派の文書)。

著者によると、死海文書を読み解く4つの注意点がある。第一に、対象の文書が特に宗派的なテクストであるかどうかを確認すること。第二に、死海文書は現存する他の古代の著作とのみ比較であること。第三に、死海文書には、ヨセフスや他の古代の著作家が言及していない点があること。第四に、ヨセフスと死海文書とに違いがあるのは、彼が知っていたエッセネ派がクムラン共同体とは別のグループだったかもしれないこと、である。

通説では、クムラン共同体はエッセネ派であったと見なされているが、シフマンは『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)をもとにサドカイ派であったと考えている。シフマンが注目したのは、ミシュナー・ヤダイム4.6-7で議論されている4つの論争点と『律法』の記述との類似である。ヴァンダーカムは、シフマンが見出した4つの類似点のうち3つは確かに一致していると述べている。しかし、それでもヴァンダーカムはこの説は根拠が薄いと反論する(ちなみにシフマンもヴァンダーカムも、『律法』の第一部における暦法に関する記述ゆえに、同書が宗派テキストであると考えている)。

なぜなら、第一に、そもそもサドカイ派とエッセネ派とが互いに一致する領域はたくさんあると考えられるからである。第二に、ミシュナー中のサドカイ派対パリサイ派の論争の記述をどの程度信用できるかは疑問だからである。第三に、シフマンは、プリニウスやヨセフスにおけるエッセネ派に関する記述や、クムランの宗派テクストにおける非サドカイ派的記述を無視しているからである。こうしたことから、ヴァンダーカム曰く:
シフマンの論拠となる幾つかの法規上の詳細が、実際にエッセネ派の生活習慣や神学を目撃したヨセフスやプリニウス(あるいは彼の情報源)といった人々から得られる証拠や、クムラン・テキストの中心的な資料よりも大きな影響力をもつなど、到底ありえない。
と述べている。いうなれば、ヴァンダーカムは、シフマンが示している『律法』を基にした論拠よりも、より明らかな証拠がいくつもあるため、クムラン共同体=エッセネ派説はゆるがないと考えているのである(その際に、シフマンの論拠を覆すには至っていない)。ヴァンダーカムによれば、エッセネ派とサドカイ派が共にパリサイ派的な法規の改良に反対していたことは、すでに知られていたので、シフマン(とヨセフ・バウムガルテン)はそのすでに知られていたことをクムラン共同体から証明したに過ぎないのだという。

Josephus' Description of the Essenes Illustrated by the Dead Sea Scrolls (Society for New Testament Studies Monograph Series)Josephus' Description of the Essenes Illustrated by the Dead Sea Scrolls (Society for New Testament Studies Monograph Series)
Todd S. Beall

Cambridge University Press 2004-12-23
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る by G-Tools

2015年3月26日木曜日

シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」

  • ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Lawrence H. Schiffman, "The Sadducean Origins of the Dead Sea Scrolls Sect," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 35-49)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

ミルトス 1997-09
売り上げランキング : 678072

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、クムラン共同体の正体を、通常考えられているようにエッセネ派ではなく、サドカイ派に求めるものである。まず著者は、『ダマスコ文書』がソロモン・シェヒターによって発見されてツァドクの文書とされたことと、ルイス・ギンツベルクによってパリサイ派の文書とされたこととに言及する。一方で、死海写本の研究の発展と共に、共同体はエッセネ派であったという説が強くなる(ソロモン・ツァイトリンによるカライ派説など例外もあるが)。これを著者は、先入観に基づく循環論法であると断じている。つまり、クムラン共同体がエッセネ派であるならば、ギリシア語資料の情報が死海文書から読み取れ、また同時に死海文書の情報がギリシア語資料から読み取れることになる(著者のこうした慎重さは、死海文書と新約聖書とを無理やり結び付けようとするトンデモ研究に対する批判から来ているように思われる)。

そこで、著者は『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)に依拠つつ、クムラン共同体=サドカイ派説を唱える。彼は『律法』の法規と、ミシュナーやタルムードあどのラビ文献の記述とを比較したという。マカバイ家の反乱以降、ハスモン朝が神殿を手中に収め、彼らがパリサイ派と共同戦線を張ったため、サドカイ派の中には新しい状況に適応した者と、そこから逃げ出した者たちがいた。著者によれば、『律法』は、ハスモン朝の大祭司たちが宣言した法的支配を認めない者たちが書いた手紙であるという。

パリサイ派はしばしば宗派的テクストの中で、「エフライム」、「塀の建設者」、「ドレシェイ・ハラホット(間違った法規を述べる人々)」などと呼ばれている。著者によれば、『律法』の著者が反対する法規は、後のラビ文献がパリサイ派のものとする法規と同じであり、また『律法』の著者が支持する法規は、後のラビ文献がサドカイ派のものとする法規と同じであるという。ここから、第一に、パリサイ派の見解は、のちのタルムード時代の時代錯誤的な発明ではなく、ハスモン朝の大半の時期に広まっていたこと、そして第二に、ラビ文献に記された用語や法規も、実際パリサイ派が使用したものであったことが分かる。

サドカイ派はしばしば、エフライムの敵対者である「マナセ」と呼ばれる。著者によれば、『律法』内の22の法規は、タルムードがサドカイ派のものとする見解と一致するという。同時に、『律法』のサドカイ派的と考えられる法規は、『神殿巻物』の中にも見受けられる。特に『神殿巻物』は法規の出典となる聖書箇所も挙げることがあるので重要である。

著者の主たる主張は以上だが、さらにいくつかのポイントを述べている。まずノーマン・ゴルブのクムラン遺跡=軍事的要塞説は否定されるべきだという。また死海文書の中にキリスト教の教義に似たものを探求するのは二次的な仕事にとどめるべきであると戒める。そして、聖書テクスト研究における死海文書の貢献として、クムランの聖書写本は概してマソラー本文の原型タイプと似たものであった点を指摘している。

2015年3月18日水曜日

『律法儀礼遵守論』とクムラン・セクトの起源 Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect"

  • Lawrence H. Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect," The Biblical Archaeologist Vol. 53, No. 2 (June, 1990): 64-73.

本論文は、StrugnellとQimronによる『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)の校訂版が出版される直前に、校訂者たちの許可を得てその原稿を見ることができたSchiffmanによる同書の概論である。当時の興奮をよく伝えてくれると共に、現在へと至る研究史を方向付けた一編でもある。著者によれば、『律法』は分離したセクトの指導者がエルサレムの主流派に向けて書いた文書であり、ユダヤ法の問題を扱っているという。六つの写本からなる同書は、実際の手紙であるとも考えられるし、後代になってセクトの分裂を正当化するために書かれた偽書であるとも考えられる。

『律法』の第二部によると、分裂に至らしめた原因は、メシアニズムや神学論争ではなく、ユダヤ法の問題である。これは『律法』に限らず、第二神殿時代の主要な論争においても同様である。

第三部で語られている事項について、著者は以下のことを指摘している。まず、「私たち」が「人々の大多数」から分離したこと、そのときの宛名は「あなたがた」であること、聖書の三分割に言及するときには単数の「あなた」であること、その「あなた」に対する祝福と呪いとは申命記31:29および同30:1-2を用いていること、そうした祝福と呪いによって、「あなた」がイスラエルの王たちの時代を思い出すように諭されていること、などである。ここでの名宛人は、聖書時代の王たちと比較されるような者であることから、当時の状況からして、ハスモン家の大祭司であると考えられる。

論文著者による重要な指摘としては、『律法』と『神殿巻物』との並行箇所の存在が挙げられる。両者において、イスラエルの民について言及している五書の箇所が王に比されている。ちなみに、『律法』では義の教師への言及は一切ない。『ダマスコ文書』において、義の教師が来る20年前に最初のセクト的分離が起こったという記述があるが、『律法』はこうしたごく初期に書かれたものと思われる。

第二部の律法リストの議論から、論文著者は『律法』の著者の敵対者はラビ文学で言うところのパリサイ派あるいはタナイームであると考えており、一方で『律法』の著者はサドカイ派であると考えている。そこから著者が描き出すストーリーは以下のようなものである。セクトのごく初期のメンバーはサドカイ派だったが、彼らはマカベア戦争後のマカベア家の横暴(大祭司を自分たちから立てて、ツァドク派の権威を弱めた)を受け入れることを拒んでいた。そこでこれら不満を持つツァドクたちがエルサレムの主流派から分離し、「ツァドクの子ら」を名乗りつつ、自分たちこそが真のイスラエルであると考えるようになった。一方でエルサレムに残ったサドカイ派たちは、ハスモン家の祭司たちのもとでパリサイ派的な見解を持つに至った。当初メンバーは神殿に残った派閥との和解を希望していた(それゆえに、『律法』はクムランの発展の中で最初期のテクストであるといえる)。しかし、それは不可能と悟り、セクトとして発展していき、のちに義の教師が現れるに至った。

この仮説が正しいとすると、論文著者は4つのことが指摘できると述べる。第一に、このセクトはハシディームではない。第二に、セクトがパリサイ派の下位グループから出てきたと考えることはできない。第三に、クムラン=エッセネ派仮説に関して、エッセネ派はもともとサドカイ派のセクトを指す用語だったと考えなければならない。言い換えれば、サドカイ派が過激化して完全にセクト化したものがエッセネ派である。第四に、クムランの文書がセクト文書ではなく、当時の一般的なユダヤ教文書であるとはいえない。

『律法儀礼遵守論』の基本的事項について Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah"

  • Lawrence H. Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah," in Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls, ed. Lawrence H. Schiffman and James C. VanderKam (Oxford: Oxford University Press, 2000), 1: 558-60.
Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls (2 Volume Set)Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls (2 Volume Set)
Lawrence H. Schiffman

Oxford Univ Pr on Demand 2000-04-06
売り上げランキング : 1365277

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、『律法議論遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の基本的事項をまとめた辞典項目である。『律法』は、はっきりとエルサレムの権威に反対するクムラン・セクトの指導者たちから、エルサレムの祭司階級の指導者たちに向けて送られた文書と考えられる。テクストは第四洞窟から発見された六つの断片からなる。内容的に、自分たちのセクトがエルサレム主流派から分離することを正当化しているので、クムラン共同体のごく初期の作品と考えられる。

全体は三部に分けられる。第一部の暦は、『共同体の規則』の写本のうちのひとつにも載っているものなので、もともと『律法』についていたものかは分からない。太陽暦を採用しており、通常の祭りに加えて、新しいワインの祭り、オイルの祭り、木の祭りがある。こうした特徴は、『神殿巻物』にも見られる。

第二部の律法リストは、主に浄不浄の問題と神殿における犠牲の問題を中心とした20の事柄を扱っている。つまり、神学的な問題というよりも、ユダヤ法の適切な実行こそが問題となっているのである。ここで取り上げられている律法議論のいくつかは、ミシュナー・ヤダイムでも見られるものであり、そこではサドカイ派の教説として知られている考え方になっている。通常サドカイ派の律法はパリサイ派あるいはラビたちよりも厳格なものである。

第三部の結論部では、二人称単数と複数で名宛人が言及されている。おそらく単数形は、エルサレムの大祭司のような指導者を指しているのであろう。また、このクムラン・セクトの敵対者は、後代のラビ文学においてパリサイ派あるいはタナイームに帰せられる者たちと考えられる。

以上のことから考えられるのは、以下のようなストーリーである。すなわち、クムラン・セクトの初期のメンバーとは、マカベア戦争(前168-前164)の後に、エルサレムの祭司階級から分離した、現状に不満を持ったサドカイ派であり、自分たちを「ツァドクの子ら」と呼んでいた。一方でエルサレムに残ったサドカイ派の同僚たちは、のちにパリサイ派的な規範となる考え方を採用し、サドカイ派的な考え方を捨てていった。当初、クムラン・セクトはエルサレムの祭司たちと折り合いをつけるつもりだったが、そのうちにそんな望みはなくなり、より過激化して外部を遮断するようになった。さらに死海文書をめぐるエッセネ派説を考慮に入れると、『律法』から分かるとおり、もともとはサドカイ派だった者たちが、エルサレム主流派との軋轢の中で過激化し、独自のセクトとしてのエッセネ派になったと考えるのが自然である。そしてこの分離の理由は、神学的な問題ではなく、浄不浄に関する規則の相違である。

『律法』と他の死海文書との関係としては、暦法と犠牲については『神殿巻物』と、それ以外のさまざまな律法については『ダマスコ文書』や『詞華集』との類似が指摘されている。それぞれの文書は、直接『律法』と影響関係にあるわけではないが、同じソースを持っていると考えられる。ただし、『共同体の規則』との並行箇所は見られないのが特徴である。これらの中では、特に『神殿巻物』と『ダマスコ文書』との比較は重要で、『律法』と『神殿巻物』とは共にセクト的な敵愾心が希薄なのに対し、『ダマスコ文書』にはそうした雰囲気が濃厚である。これを先のストーリーに則して言い換えると、『律法』と『神殿巻物』とは、まだセクトがエルサレムとの和解の希望を持っていたときの文書であるのに対し、『ダマスコ文書』はそうした望みが絶たれたあとの文書であると考えられる。

2015年2月3日火曜日

死海文書とラビ文学における法 Shemesh, "Halakhah between the Dead Sea Scrolls and Rabbinic Literature"

  • Aharon Shemesh, "Halakhah between the Dead Sea Scrolls and Rabbinic Literature," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2012), pp. 595-616.
The Oxford Handbook of The Dead Sea Scrolls (Oxford Handbooks)The Oxford Handbook of The Dead Sea Scrolls (Oxford Handbooks)
Timothy H. Lim

Oxford Univ Pr (Txt) 2012-12-02
売り上げランキング : 340837

Amazonで詳しく見る by G-Tools
本論文は、死海文書の法的解釈について、特にミシュナーとミドラッシュを中心としたラビ文学との比較をしたものである。著者は死海文書の「エッセネ派仮説」を支持している。ただし、『律法儀礼遵守論』(4QMMT)などからは、サドカイ派的な特徴が見受けられる。そこでJacob Sussmannは、サドカイ派とエッセネ派とは別のグループだが、法的システムに関して共有する部分もあると考えた。そして両者は明らかにパリサイ派からは異なっている。

死海文書には、それ自体としては法テクストではないが法的部分を含むテクスト、まごうかたなき法的テクスト、さまざまな法的問題を広く収集しているテクストがあり、三つ目の代表例として、『神殿巻物』と『ダマスコ文書』がある。『神殿巻物』はいわゆるrewritten Bibleと呼ばれるもので、聖書テクストに依存しながら法解釈をするのではなく、自らをトーラーと同列のものと考えている。そのため、神は三人称ではなく一人称で直接語りかけてくる。また、研究者によっては、rewritten Bibleではなくalternative Pentateuchal textsと呼ぶ者もいる。一方で『ダマスコ文書』は聖書テクストと解釈とをはっきりと区別し、なおかつトピックに従って説明が加えられている。聖書引用はほとんどないが、ある場合にも、それは証明句ではなく、トピックの題名として機能しており、法的解釈がどのように聖書から証明されるのかについては明らかにされていない。すなわち、自らをトーラーと同じ権威があるものと考える『神殿巻物』に対し、『ダマスコ文書』はトーラーの権威に依拠しつつ、トーラーの正しい解釈を伝える権威者として振舞っているのである。

こうした死海文書とラビ文学とを比較すると、聖書の流れに従い、また一節ずつ互いに関係しているミドラッシュは、『神殿巻物』や他のrewritten Bibleと似ている。一方で、トピックに従って攻勢されているミシュナーは、『ダマスコ文書』と似ている。逆に、自らを権威と考えるという点では、ミシュナーは『神殿巻物』と似ており、自らをトーラーの解釈者と規定するという点では、ミドラッシュは『神殿巻物』と似ている。ただし、死海文書とラビ文学との決定的な違いは、ラビ文学はラビたちの議論や、棄却された解釈ですら保存している点である(マハロケット)。

死海文書では、法の権威として神の啓示の概念が共有されている。ただし、ここでも『神殿巻物』およびrewritten Bibleと『ダマスコ文書』とでは違いがある。『神殿巻物』は『ヨベル書』同様に、自らはモーセによってシナイ山で啓示されたものだと考えていた。一方で、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』(1QS)は、トーラーには「顕かにされた意味(niglot)」と「隠された意味(nistarot)」とがあるという理解をもとに(申29:28)、神への回帰と贖いとは全イスラエルではなく、一部のセクトにのみ課せられた課題であると考えた。両者は共に、法の権威を神の霊感に帰しているといえる。これらに対し、ラビ文学は人間の自主性を強調する。すなわち、預言と法解釈とにははっきりとした違いがあるのである。ハラハーは人間の営為であり、神的権威ではなく人間的な過程から引き出されるものである。

ヨセフスやタルムードの記事から見ると、パリサイ派は伝承に重きを置くのに対し、サドカイ派は聖書に書かれていることのみを議論する。この点で、死海文書はサドカイ派と共通している。一般的に、死海文書やサドカイ派はパリサイ派よりも厳格な法解釈をするという特徴がある。これを、もともとサドカイ派的厳格路線が主流だったのをパリサイ派が和らげたのだとする研究者がいるが、むしろ当時一般的に許されていたことをも、サドカイ派は聖書に照らして禁じたと考えるべきと著者は言う。こうした例として、『ダマスコ文書』における叔父と姪との結婚の禁止について論じている。レビ18:10, 17には、結婚が禁じられている近親関係が挙げられているが、ここにない関係(例えば叔父と姪)でも、同等のものが禁止されていれば(例えば祖母との結婚がダメなら祖父との結婚もダメであり、祖父の妻との結婚がダメなら孫の妻との結婚もダメ)、基本的に禁止されていた(ゆえに叔父と姪ともダメ)。しかし、これに対しパリサイ派は父祖の伝統に則り、不必要な禁止を加えないように努めた。

死海文書のハラハーの特徴を描き出したものとして、著者はJacob SussmanとDaniel Schwartzの研究を挙げている。前者はサドカイ派の厳格路線とパリサイ派の甘め路線とを指摘した。パリサイ派はしばしば「ドルシェ・ハハラコット」と呼ばれるが、これは「滑らかなものの探求者」が字義通りの意味だが、実際には「より容易な解釈の探求者」という意味であった。これはパリサイ派の自己理解である「ドルシェ・ハハラホット(律法の探求者)」のもじって揶揄したものである。サドカイ派にとってみれば、パリサイ派は律法遵守に関してより簡単で快適な生活をしているにもかかわらず、自分たちを敬虔な者と見なしている不届き者ということになる。Schwartzは、サドカイ派を「現実的」、パリサイ派を「規範的」と表現した。すなわち、サドカイ派が法を自然や現実に即したガイドラインと見なしたのに対し、パリサイ派は法を神によって作られた掟であると見なしたのである。この点で、死海文書も現実的といえる。

ユダヤ教の法文書を、著者は「発展的(developmental)」と「反映的(reflective)」というモデルに分けている。前者のモデルによれば、死海文書は古い法的伝承で、それが発展してラビ文学になったといえる。後者のモデルによれば、ラビ文学の法解釈は、死海文書の法的伝統の反映だと考えられる。シャマイ学派の法解釈は、しばしば死海文書のそれとの類似性が指摘されているが、これは発展的モデルから説明される。ラビ・アキバに代表される、高度に洗練されたミドラッシュ的テクニックは、反映的モデルから説明される。

2015年2月2日月曜日

カイロ・ゲニザからクムランへ Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran"

  • Lawrence H. Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran: The Influence of the Zadokide Fragments on the Study of the Qumran Scrolls," The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Text of the Desert of Judah, Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 451-66.
The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
Charlotte Hempel

Brill Academic Pub 2010-06-30
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る by G-Tools
本論文は、19世紀にカイロ・ゲニザから発見されていた『ダマスコ文書』(『ツァドク派断片』)が、さらにクムランからも発見されたことにより(以下クムラン断片)、『ダマスコ文書』理解がどのように進んだかを概観するものである。

文書の本質と文学的特徴。『ダマスコ文書』は、「訓戒(admonition)」と「法(laws)」の二つの部分に分かれている。クムラン断片は、第五洞窟、第六洞窟からそれぞれ1つずつ、そして第四洞窟から8つ、全部で10の写本が発見されている。J. Murphy O'ConnerやPhilip Daviesらによる「訓戒」部分の研究により、『ダマスコ文書』は複雑な文学的歴史を持った、合成された文書であることが明らかになった。さらに、J.T. Milikによる『ダマスコ文書』とクムラン断片との比較によると、第一に、S. Schechterによる『ダマスコ文書』の写本の頁振り分けは誤りであり、第二に、法部分は現存する『ダマスコ文書』より実際はもっと長く、第三に、『ダマスコ文書』のB写本はA写本を引き伸ばしたものであることが明らかになった。

文書の由来とセクトの正体。S. Schechterは、『ダマスコ文書』がツァドク派/サドカイ派の伝統と関わっていると考え、それゆえに、カライ派やドシテオス派によって書かれたものかもしれないと考えた。他にも、多くの研究者たちが『ダマスコ文書』の由来として、パリサイ派、初期キリスト者、熱心党、エビオン派キリスト者などを挙げてきた(エッセネ派説はほとんどない)。しかし、クムラン断片の発見により、パリサイ派説、キリスト者説、カライ派説は支持しがたいものとなった。またE. Sukenikによってエッセネ派説が主張され、現在でも支持されている。著者は同書をサドカイ派的伝統に連なるものと考えている。

法(ハラハー)的議論。L. GinzbergやCh. Rabinらは、『ダマスコ文書』に含まれる法的議論をラビ文学と比較することで、大きな成果を上げた(Ginzbergの唯一の間違いは、同書の由来をパリサイ派と考えたことである)。同様の試みは、フィロン、ヨセフス、カライ派、エチオピア語テクスト、外典、偽典などと対象を変えて続けられた。そして死海文書の発見後には、『ダマスコ文書』のクムラン断片、『神殿巻物』、『律法儀礼遵守論』などにも範囲が広げられた。その結果、第二神殿時代の法解釈は、ラビ文学に見られるそれに比較して、概してより厳格であると結論付けられた。ただし、この違いは時代の違いではなく、A. Geigerによると、第二神殿時代にすでに、ツァドク派・サドカイ派的な厳格路線とパリサイ派・ラビ的な甘め路線とが並存していたのだという。死海文書の発見はこの見解を裏付けている。

セクトの歴史の構築。訓戒部分には、クムラン共同体の歴史的背景を再構築する際にしばしば引き合いに出される、「390+20年」および「義の教師」に関する記述がある。研究者たちはこれらの記述を資料批判(source criticism)の方法で検証してきた。その代表例として挙げられるのは、「ダマスコ」の意味である。クムラン断片出土以前には、研究者たちはこれを文字通りシリアにあるダマスカスのことと捉えていた。しかし出土以降、これはクムランを指す暗号であるという意見が優勢になった。さらに、ダマスコをバビロニアのことと主張する者たちもおり、彼らは共同体の誕生をハスモン朝時代ではなくバビロニアに求めている。

ユダヤ教とキリスト教の歴史の再構築。ユダヤ教の歴史について、『ダマスコ文書』は第二神殿時代のユダヤ教のセクト主義やユダヤ法の歴史を明らかにしていた。キリスト教の歴史については、E. Wilson, J.M. Allegro, A. Dupont-Sommerらが取り組んだが、彼らの研究は死海文書の意味を引き出しすぎるものであったため、よりバランスの取れた研究が望まれている。

結論として、筆者は次のように述べている。『ダマスコ文書』の初期の研究はその祭司的な性格とセクト性を強調したが、クムラン断片出土後の研究の前半は祭司と法をあえて強調しないようになった。そしてすべてのテクストが出揃った現在は、祭司の法解釈やエッセネ派的イデオロギーが反映した書物として、『ダマスコ文書』を再文脈化しようとている。いずれにせよ、『ダマスコ文書』はクムラン断片を含む死海文書なしに語られることはなくなった。

2015年1月27日火曜日

「義の教師」運動とは何か Wise, "The Origins and History of the Teacher's Movement"

  • Michael O. Wise, "The Origins and History of the Teacher's Movement," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 92-122.
The Oxford Handbook of The Dead Sea Scrolls (Oxford Handbooks)The Oxford Handbook of The Dead Sea Scrolls (Oxford Handbooks)
Timothy H. Lim

Oxford Univ Pr (Txt) 2012-12-02
売り上げランキング : 335344

Amazonで詳しく見る by G-Tools
死海文書は、前161-135年のヨナタンあるいはシモン・マカバイの治世に、クムランの遺跡に住んでいたエッセネ派によって書かれたものだというのが、一般的な理解である。この共同体は、当時の大祭司に反対する「義の教師」に率いられ、エルサレムを自発的に離れた者たちから成り立っていたという。しかし著者は、そもそもクムラン遺跡は文書と関係あるのか、遺跡とその住民の本質はどのようなものだったのかという問いを立てる。そして、結論として、この一般的な理解は相当程度修正されるべきとしている。

遺跡と文書とを関係付ける証拠としては、遺跡で出土した壺と、大プリニウスによる記述とが挙げられるが、著者によれば、いずれも十分な証拠たり得ない。そしてさまざまな反証から、文書は遺跡とは無関係であり、どこか別のところで書かれたものであると結論付けている。

古代の文書から年代特定をするためには、古文書学的分析や文学的分析などが用いられるが、クムラン学においてFrank Moore Crossが提示した古文書学的な原理は多くの問題を含んでいるために現在では有効ではない。文学的分析においては、『ダマスコ文書』1:3-11における「バビロン捕囚から390年」という記述が重視されてきたが、これを字義通りに取ることはできない。また『ハバクク書注解』(1QpHab 8:8-13)における「悪の祭司」をヨナタン・マカバイと解釈すると、一般的な理解と同じような時代設定になるが、これも説得的ではない。

そこで著者は、むしろ義の教師自身が書いたと想定される『ホダヨット』ないし『感謝の詩篇』を中心に分析をするべきだと述べる。著者は『ホダヨット』は実際の歴史的状況を記録していると考える。著者によると、義の教師の敵対者であるドルシェ・ハラコットは実はパリサイ派を指している(「嘘の人」という描写もある)。両者は律法と神殿祭儀に関する問題で衝突していた。これは『律法儀礼遵守論』(4QMMT)との比較からも導き出される。すなわち、義の教師は、パリサイ派による宗教改革に反対した人物だと考えられるが、そうした解釈を裏付ける歴史的事実としては、アレクサンドロス・ヤンナイオスとその妻アレクサンドラの治世(前70年代)が挙げられる。

アレクサンドロスは当初は祭司グループと共にパリサイ派との対立路線を取っていたが、妻アレクサンドラに王位を譲るに際し、政治的理由からパリサイ派と協力するように助言した。アレクサンドラは息子のヨハネ・ヒルカノス二世を大祭司に任じ、パリサイ派的な法解釈を採用していった。「悪の祭司」はこのヨハネ・ヒルカノス二世のことを指していると考えられる。そして、権力を得たパリサイ派は、敵対していた義の教師を含む祭司グループをエルサレムから追放したのだった。つまり、一般的な理解のように、義の教師は自発的に砂漠へ逃げていった者ではなかった。さらに、逃げていった先はクムランではなかった。というのも、追放された者は国外にいかなければならなかったが、クムランは当時のハスモン王朝の区分では国内だからである。そこで、一般的な理解ではクムランを指しているとされている『ダマスコ文書』におけるダマスコは、字義通りの意味と解される。しかしその逃げていった先で義の教師は仲間たちの離反にあい、死ぬことになる。残された者たちはこの一連の出来事を再解釈し、ローマの侵攻を天恵と捉えた。そして自らの受難をモーセとイスラエルの民が砂漠を彷徨ったときの様子になぞらえたが、共同体としては一世紀初頭に消滅した。

以上より、著者は「義の教師」運動は前一世紀のことであり、一般的な理解は間違っていると主張している。