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2019年12月20日金曜日

ヒエロニュムスの聖地巡礼観 Bitton-Ashkelony, "Jerome's Position on Pilgrimage"

  • Brouria Bitton-Ashkelony, Encountering the Sacred: The Debate on Christian Pilgrimage in Late Antiquity (Berkeley: University of California Press, 2005), 65-105.


385年の冬に、ヒエロニュムスはローマを離れてパレスチナの地に到着した。ローマをあとにした理由は完全には分からないが、パウラとの関係を怪しまれて教会で弁明しなければならなかったことや、教皇ダマススの死などによって、ローマでの立場が危うくなったのであろう。自身はこの移動を、バビロン捕囚から逃れてエルサレムに帰還する、と表現している。ヒエロニュムスは最初から巡礼するだけではなく移住するつもりだったが、巡礼者としての情熱も併せ持っていた。

ヒエロニュムスの巡礼のメイン・ソースは、パウラの死を嘆くエウストキウムを慰めるために404年に書いた『書簡108』である。ここでは、キリスト教信仰のために、遺跡に実際に行くことが重要だと説いている。『ルフィヌス駁論』第3巻にもローマ出発の経緯や巡礼のあらまし、そしてベツレヘム定住までの状況が描かれている。他にも、聖地巡礼の重要性については、エウセビオス『オノマスティコン』翻訳、『書簡46』、『書簡76』、『歴代誌(七十人訳)序文』、『書簡46』などに言及がある。ところが、ヒエロニュムスはニュッサのグレゴリオスがそうであるように、『書簡58』では聖地巡礼を批判してもいる。本論文では、聖地巡礼を勧める『書簡46』と、それを批判する『書簡58』を中心的に論じている。さらに殉教者を祭る祭儀について『ウィギランティウス駁論』が取り上げられる。

『書簡46』は386年にマルケラ宛に書かれ、マルケラにベツレヘムや聖地に来るよう招く護教的な内容になっている。ここには明らかにヒエロニュムスの聖地巡礼に対する肯定的な態度を見ることができる。それは自分自身の聖地巡礼を正当化するためでもあった。ヒエロニュムスは、新約聖書の出来事が起き、預言者や聖人の誕生の地であり、またイエスが復活した地である(マタ27:52-53)エルサレムに特別な地位を与えている。すなわち、エルサレムのキュリロス同様に、地上のエルサレムに価値を見出している。これは、天上のエルサレムにしか価値を認めないオリゲネスやエウセビオスとは大きく異なる点である。『書簡47』でも「主の足がかつて立った場所で礼拝するのは信仰の一部」だと主張している。

ヒエロニュムスはこの自説に対する仮定の疑問を投げかける。エルサレムは選ばれた都市ではあるが、その特別な地位はイエスがその破滅を預言したことで失われたのではないか、と。これに対しヒエロニュムスはシンプルに、イエスが本当にエルサレムを愛していなかったら、その陥落を嘆いたりはしなかったろうと答えた。さらに、罪があるのは住人であって都市そのものではないというロジックも使った。

イエスの墓という特定の場所を訪れることはがキリスト者にとって宗教的な義務であるという、新約聖書に基づかない考え方は、他に類を見ないヒエロニュムスの発明といえる。これは天上のエルサレムこそが至上であると考えるパウロ書簡とは大きく対立するものである。ただし、彼は、全能であるはずの神の存在が、ある特定の場所にしか存在しないと言おうとしているのではない。このロジックはニュッサのグレゴリオスが巡礼を否定するときに用いたものである。ヒエロニュムスによれば、エルサレムは修道的な中心地であり、修道士の質も高いので、巡礼する価値があるという。

ベツレヘムに住んでしばらくすると、ヒエロニュムスの巡礼に対する情熱は弱まった。ノラのパウリヌスに宛てて395年に書かれた『書簡58』では、エルサレムを見たことがないからといって信仰が欠けているなどと思うべきではないと主張した。『書簡46』と『書簡58』に見られる相矛盾した見解について、J. Prawerは、大衆的な宗教の表現と正統派キリスト教の展望から説明している。F. Cardmanは、『書簡58』を巡礼に反対するキリスト教神学者の典型的な修辞法だと考えている。ただし、PrawerもCardmanもヒエロニュムスの見解が鍛えられた歴史的なコンテクストを論じておらず、非歴史的なアプローチに終始している。

これに対し、F.M. AbelやMaravalらはヒエロニュムスの当時の人間関係を考慮に入れている。『書簡58』は彼がオリゲネス主義論争に巻き込まれ、エルサレムのヨアンネスとの関係が悪化していた時期の著作である。ヒエロニュムスは自分が破門されていたエルサレム教会をパウリヌスに訪れてほしくなかった。そこで聖地巡礼の宗教的な重要性を最小化しなければならなかったのである。アントニオスやヒラリオンなど有名な修道士たちがエルサレムを特別視しなかったように、修道的生活を送っている者は聖地を訪れる必要がないのである(とはいえ、グレゴリオスのように、聖地巡礼によって霊的なダメージを受けるとまでは主張していない)。こうしたロジックは『書簡46』において自ら否定していたものであった。伝統的見解にオリジナルな議論で反論していた『書簡46』に対し、『書簡58』ではむしろそうした非オリジナルな教会の公式見解をただ代表している。すなわち、キリスト教の福音は全世界に知らされているので、イエスが生きた場所にこだわる必要はないし、そうした特別な場所は心の中に持てばよいという考え方である。

むろん、自分自身がすでに聖地を巡礼し、聖地のそばに住んでしまっているという矛盾にヒエロニュムスは自覚的であった。しかし、聖地巡礼を支持するにしても、修道士にとっては不必要だと主張するにしても、ある場所が聖なる場所であることと神的存在が特定の場所に限定されることとは無関係だと主張したのである。聖地巡礼を否定しようとしているわけではないが、積極的に支持しているわけでもない。『書簡58』の目的は、聖地巡礼を否定することでも、『書簡46』の立場を取り消すことでも、地上のエルサレムと天上のエルサレムに関する神学的議論を展開することでもなかった。修道士にとって修道的生活を追及するにはどのような場所がよいか、というのが論点であった。『書簡46』では、聖地としてのエルサレムはその目的に適しているとされていたが、『書簡58』では、エルサレムの教会との関係悪化もあり、エルサレムに巡礼する必要はないと主張したのである(ただし、『書簡58』で否定的に論じられているのはエルサレムについてのみで、ベツレヘムは依然として最も尊い場所とされている)。

エルサレム教会との確執が終わると、ヒエロニュムスはまた巡礼を推奨している(『書簡68』『書簡71』『書簡76』『書簡145』『書簡122』)。それが最もはっきりと現れているのがパウラの聖地巡礼を描いた『書簡108』である。このときには聖地巡礼はすでにノスタルジーになっていた。しかし、ここでもオリーブ山については言及を避けようとしている様子が見られる。ヒエロニュムスの中で、エルサレム教会との確執は許されてはいたが、決して忘れられてはいなかったのであろう。

殉教者の墓を詣でるについて、ヒエロニュムスは若い頃から積極的だった。特にローマでは、殉教者の墓参りは祭儀と密接に関係しており、4世紀の後半には幅広い地域で行われる習慣になっていた。このことについて、ヒエロニュムスは最も手ごわい敵対者の一人であったスペインのウィギランティウスと激しい議論を交わしている(ウィギランティウスは395年と396年にパレスチナを訪れ、ヒエロニュムスやルフィヌスに面会している)。その記録である『ウィギランティウス駁論』は神学的な議論というより、主として悪口雑言のよせあつめで、教父文学において最も生々しく攻撃的な文書である。

『ウィギランティウス駁論』を通じて知られる彼の主張は、殉教者の魂は墓に留まり、神には届かないので、殉教者が信仰者のための仲介者になることは不可能である、というものだった。そして殉教者の遺跡は不浄で無価値なものなので、それを崇拝することは偶像崇拝に等しいと言うのである。これに対し、ヒエロニュムスは「崇拝する(adorare)」ことと「尊敬する(honorare)」ことを区別した上で、殉教者の墓参りでは後者を行うのだと主張した。殉教者を崇拝するのではなく尊敬することは、偶像崇拝には当たらない。これはアウグスティヌスものちに用いたロジックである。

キリスト教徒の中には、殉教者の墓参りが異郷の祭儀と似ていることに危惧を覚える者がいたが、ヒエロニュムスはむしろそこにこそ護られるべきローマの伝統を見て取った。祭儀に関する異教的なコノテーションを恐れないというところに、ヒエロニュムスの特徴がある。死んだ人間である殉教者が信仰者を助けないという議論については、ヒエロニュムスは、殉教者は死んでいるのではなく眠っているのだと反論した。殉教者の墓が不浄であるという点については、多くの尊敬される人々を引き合いに出し、彼らが不浄なのかと問うた。ヒエロニュムスは純粋に神学的な議論をしているわけではないので、殉教者の墓参りに権威を付与できれば何でもよかったのである。

このように見てくると、ヒエロニュムスによるキリスト教的聖地に関する見解は、これまで考えられてきたよりも一貫している。

2019年12月18日水曜日

エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山のイメージ Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives"

  • Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.

メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。

『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。

エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。

ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。

オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。

『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。

2019年11月24日日曜日

パウラの墓碑銘 Cain, Jerome's Epitaph on Paula

  • Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.

本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。

382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。

文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。

ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。

ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。

ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。

4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。

15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。

聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。

神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。

古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。

ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。

結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。

2019年7月8日月曜日

ヒエロニュムスとパレスチナの聖地 Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem"

  • Hillel I. Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem: Jerome and the Holy Place of Palestine," in Sanctity of Time and Space in Tradition and Modernity, ed. A. Houtman, M.J.H.M. Poorthuis, and J. Schwartz (Jewish and Christian Perspectives Series 1; Leiden: Brill, 1998), 215-27.

教父による聖地巡礼への否定的評価の代表例が、ニュッサのグレゴリオス『書簡2』とヒエロニュムス『書簡58』である。グレゴリオスは、キリスト者は聖地巡礼の義務がないこと、エルサレムまでの道のりが危険なこと、聖地と呼ばれながら多くの罪にまみれていることなどを挙げ、本当の巡礼は聖地の重要性を霊的に内面化することだと主張した。

ヒエロニュムスは、395年に書いたノラのパウリヌス宛の『書簡58』の中で、エルサレムに来たことがあるだけでは意味がないこと、神の力には地理的な制限がないのだからむしろ天のエルサレムを探求するべきこと、神の国は信者の中に宿るのだからエルサレムであろうがイギリスであろうが変わりないこと、多くの聖者はエルサレムを訪れたことがないこと、現在のエルサレムは異教に汚染されていることなどに言及している。

ヒエロニュムスは実際にはエルサレムに聖地巡礼し、ベツレヘムに住んでいるのだから、こうした批判は直ちに自分に帰ってくるはずだが、それについては不問に付している。しかしながら、『書簡58』以外では、ヒエロニュムスは聖地巡礼や聖地そのものを賞賛している(『書簡5』1、『書簡22』30、『書簡45』2)。

中でも彼の聖地巡礼に対する見解の代表例が、『書簡46』(386年)である。これはパウラとエウストキウムによって書かれた体になっているが、実際にはヒエロニュムスの筆によるものである。聖地における聖書の奇跡や、そこで暮らす修道者たちの平和な生活、諍いや争いがないことなどを例に、ローマのマルケラに聖地に来るように促している。その後『書簡47』(393年)でも、『書簡53』(394年)でも、ヒエロニュムスは友人にベツレヘムに来るように誘っている。ところが、先に見たように、その数年後の395年の『書簡58』では一転して聖地巡礼に批判的な態度を取るわけである。しかし、そのあとはまた聖地巡礼を友人に勧めたり、肯定的に説明している(『書簡68』、『書簡71』、『書簡108』、『書簡122』、『書簡139』)。

ヒエロニュムスは『書簡58』ではなぜ聖地巡礼を否定したのか。主たる理由は、F.M. AbelやF. Cavalleraらの言うように、「オリゲネス主義論争」の勃発ゆえであろう。論敵ルフィヌスのパートナーであるメラニアの親族であるパウリヌスが聖地に来たら、敵方に与することは明らかであるし、そもそもヒエロニュムスは論敵ヨアンネスに破門されていたので、パウリヌスを迎える準備ができなかったのである。

確かに主たる理由はオリゲネス主義論争だが、かといって『書簡58』でのヒエロニュムスの主張を過小評価することはミスリーディングである。『書簡64』でエルサレムをソドムと呼んでいるように、地上のエルサレムへの批判は他にも見られる。またマタ27:52-53の描写を天上のエルサレムと捉えることもあれば(『書簡46』)、そうではないと捉えることもある(『書簡60』)。『詩篇96への説教』では、おそらくエルサレムに住む聴衆に対し、対立する地上の聖地と霊的な聖地のうち、後者の優越を主張した。

論文著者は、こうしたヒエロニュムスの変節の理由を、オリゲネス主義論争以外にも挙げている。第一に、まさにエルサレムが「都市」であるがゆえに、それと修道生活が相容れなかったからである。エルサレムに限らず都市一般に対する修道的な敵意は昔から表れている(『書簡2』、『書簡43』、『書簡46』、『ヒラリオン伝』、『書簡125』、『詩篇91への説教』など)。

第二に、ユダヤ的終末待望論への反発である。ユダヤ人は終末において、神殿祭儀と共に地上のエルサレムが救済されると考えていたが、ヒエロニュムスはそれを批判し、霊的な救済を説く(『詩篇96への説教』、『書簡129』)。また彼に言わせれば、廃墟となったエルサレムを見ることこそがキリスト教的に正しい巡礼であるといいう。なぜならば、エルサレムが廃墟であるさまを見ることで、救済が地上の問題ではないことを理解できるからである(『詩篇86への説教』)。おそらくこうした議論は、エウセビオスやミレウムのオプタトスらから取ってきたものだろう。

ヒエロニュムスはそもそもエルサレムに住むことは望まなかったが、ではなぜベツレヘムに住んだのか。それは、『書簡58』で述べているように、ベツレヘムに住めば、都市を避けることと、聖地に近くあることを両立させることができるからである。ついでに言えば、ベツレヘムは砂漠に近いが、ヒエロニュムスのコスモポリタン的な社会的・知的な交わりを途絶えさせずにおけるほどには都市に近い。シリアの砂漠でアラム語の野蛮な響きに囲まれていたときとは異なり、ベツレヘムでは周囲に文化的な言語を話す者たちがいるのである。ベツレヘムは大都市でも、オリゲネス主義論争の中心地でも、ユダヤ人の終末待望の地でもない。