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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #6

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.


本章においては、全体の結論が論じられている。マソラ本文のサラには複雑さと一貫性が見られる。サラの強張った軌道は彼女の道具としての性質に貢献する。アブラハムとの類似は彼女が固く強張るに連れて増える。サラは自分の見た目が他人の目にどう映るかに意識的であるが、マソラ本文以外の伝承にはそうした特徴はない。所有と喪失のモチーフも他の伝承からは消えている。

七十人訳のサラはより極端で突飛である。またアブラハムの人物像の派生としての特徴をより色濃く持っており、神的な約束の成就においてよりプログラム的な役割を演じている。彼女の存在の薄さや活気のなさ、また縮減などは彼女の有用性に貢献している。彼女は神の目的に合致している。彼女の美しさは特に彼女の顔に結びついている。七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりもアブラハムに似ている。その類似は神の約束の達成のための彼女の有用性を強調する。

『創世記アポクリュフォン』はやや外れものである。というのもアブラハムが語り手の役だからである。GNのサラは知りたがりで、発言力があり、感情的で、行動力やイニシアチブを示す。他の伝承同様に美しさを備えているが、他に知恵と手先の器用さをも持っている。サラに知恵があるというのはGNの新奇なアイデアである。サラの有用性は機械的な性的受容性にあり、そのとき彼女は性的な不可侵性を持つ対象になっている。GNでもサラはアブラハムに類似しているが、同一の根を持つ植物のメタフォリックで斬新なイメージのもとで表現されている。

『古代誌』のサラはアブラハムとの類似があるが、本当の血縁関係にすることで、この古いテーマを新しい切り口で表している。またサラはアブラハム同様に説得力を持った人物として描かれる。サラのイシュマエルに対する関係は、アブラハムのイサクに対する関係に比すことができる。『古代誌』においては、ハガルとイシュマエルに対するサラの態度は、アブラハム同様、神に命じられたものだった。語り手はサラやアブラハムの人物像を洗練させ、過ちを正当化しようとしているが、その試みが中途半端なため別の問題を引き起こしてしまっている。

以上のことから、著者は本書の発見を次の2つであるとしている。第一に、サラの深いところの特徴あるいはその原型的な特徴はアブラハムに類似している。これはサラがアブラハムの影になっているというわけではない。この特徴は諸物語を横断して見られるリンクになっているが、物語によってその機能は異なっている。第二に、サラのキャラクターは複雑で、展開したり、競合したり、矛盾したりする特徴を含んでいる。彼女の有用性がアブラハムや神の約束を成就させることにあるのは否定できないが、単純にその機能だけに縛り付けられているわけではない。サラはときに語り手たちの男性中心的・家父長的な伝承の狭隘さを免れている。

また著者は本書の貢献として以下の3点を挙げている。第一に、著者は創世記やその語り直しにおいて自分に明らかにされたサラを認め、再発見しようとした。聖書における女性を対象とした同様の検証はまだ手薄なので、これからそれが続くことが期待される。第二に、周辺的で無視されてきたキャラクターに光を当てるような、理論的でキャラクター主体の詩学を作り上げ、使おうとした。本書で扱った諸文書に物語論的な視点でアプローチした研究はほとんどなかった。そして第三に、語り直し聖書物語を絶え間なくその源泉に盲従させたり比較したりすることなく読む方法を見つけようとした。語り直しを独自の統一性をもった作品と見なすことで、当然与えられるべき解釈の配当を配分したわけである。本書で扱われたテクストはどれも現在最上の状態に置かれており、それらは聖書学や人文学が使えるあらゆる方法論的ツールによって探求されるべきである。

第二神殿時代のサラ #5

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.

本部分においては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(以下『古代誌』)におけるサラのキャラクター性が論じられている。『古代誌』において、著者はサラのキャラクター性には3つの中心点があると主張する。第一に、サラはしばしば役割やイニシアティヴにおいて減じられている。第二に、サラのイメージはしばしばアブラハムのそれに一致している。そして第三に、サラの描写は、語り手が主要登場人物をポジティヴに改善させて描こうとするあまり、複雑化してしまっている。ちなみに著者は、『古代誌』の語り手は必ずしも著者であるヨセフスと同一ではないため、「語り手」という言葉を使っている。

『古代誌』1.148-160:父であるハランの死によってサラは孤児になってしまったが、ハランの兄弟の一人であるアブラハムがサラと結婚し、その兄弟であるナホルがロトを引き取った。著者によれば、ここには叔父としての思いやりと共に性的・生殖的な目的がはっきりとあるという。いずれにせよ、『古代誌』はサラとアブラハムが本当の血縁関係であることを示している。他の伝承でも多くの場合サラはアブラハムによく似ているとされているが、『古代誌』は両者を血縁関係にすることで、この類似を「深い特徴」にしているのだ。ただしこうした血縁関係はもともとアブラハムを定義するためのものであり、それを介してサラを描いているため、サラの説明としては間接的である。

『古代誌』1.161-168:エジプトにおいて、アブラハムはエジプト人たちに教育を施すことができるほどの説得の能力を示している。しかし、女性に対して熱狂的な欲望を持つエジプト人たちの目に、肉体的な美しさを持つサラが留まってしまうと、自分も危うくなるかもしれないため、アブラハムはサラを妻ではなく妹だとごまかすことにした。そこでアブラハムはこのごまかしによって自分もサラも利益を得るのだとサラに説明したわけだが、結局大金を得たのもエジプト人の知識人と交流できたのもアブラハムだけであり、サラは誘拐され強姦されかけた。つまり語り手はアブラハムの先見の明を強調しようとしたが、アブラハムはサラの危険に考えを予想できていなかったことになってしまった。同様に、語り手はサラをポジティヴに描こうとして失敗しているところもある。語り手によれば、ファラオはサラがアプラハムを連れてきたように述べており(1.165)、またファラオは最初はサラの見た目に惹かれたが彼女から真理を学んだという(1.165)。つまりここでサラは比較的独立性を保っており、語りの中で主導権を握りさえしているわけだが、彼女の主体性は長くは続かず、結局また元の役割に戻っている。

『古代誌』1.169-185:サラの存在についてのヒントなし。

『古代誌』1.186-190:サラに子供ができないことにアブラハムが苛立っている。これは子供がいないことについてサラの役割に触れた最初である。そこでサラはハガルをアブラハムにあてがうわけだが、『古代誌』においてはそれが神に命じられてしたことだと明言されている。神に命じられてサラがハガルにしたことと、神に命じられてアブラハムがカナンに移住したことが同等視されている。つまりサラは神からの直接の交信を受け、それに従順に応じている。この従順さとはアブラハムの主たる特質だった。このようにアブラハムに似ていることはサラのキャラクターの根本的な点になっている。ここでのサラは奴隷所有者である。語り手は、サラがハガルを「横にならせた」(1.187)と婉曲表現を使っているが、これは「性交させた」という意味である。いかに遠回しに表現してもサラの残酷さは隠せない。また語り手はサラをよく見せるために、サラはイシュマエルを自分の子のように可愛がったが、ハガルは驕り高ぶっていたと述べる。つまりハガルの反応を蔑むかのように描いているが、妊婦に対して死に至るような虐待(aikia)をしたのはサラである。このようなサラによるハガル虐待は、他の伝承ではエジプトにおけるサラのひどい扱いと関連付けられていた。『古代誌』においてもそれはそうだが、語り手がアブラハムやサラに直接セリフを言わせないため、主として心理的な要素に留まっている。

『古代誌』1.191-193:特にサラの描写なし。

『古代誌』1.194-206:三人の天使の訪問を受け、アブラハムが歓待している。これは天使たちを温かく迎えなかったソドムの市民たちとの対比になっている。サラはそのとき近くにいたので、天使たちはサラの「笑い」を見たに違いない。ただし、この個所ではアブラハムやサラたちのシーンよりもソドムの破壊の方が強い印象を与えてしまっている。アブラハム自身がサラの妊娠の可能性よりもソドムの破壊に気を取られている(1.199-206)。ここではサラの高齢について初めて明確な言及がある。またサラが天使たちの言葉を信じずに笑ったことで天使たちが変装を解いたので、サラはここでわずかな力を示したと言える。ただしいずれの特徴もバラバラで、このエピソード全体があまりうまくまとまっていない。

『古代誌』1.207-212:ゲラルの滞在はエジプト滞在とさまざまなかたちでリンクしている。ここでも語り手はアブラハムをよく描こうとして失敗している。洞察力に優れているはずのアブラハムがサラの陥りかねない危険をなぜ予期できないのか。マソラ本文や七十人訳ではエジプトよりもゲラルにおけるサラの方が主体性や行動力を持っていたが、『古代誌』においてはエジプトのときの方がましである。『古代誌』におけるゲラルのサラは自分の正体を明かすことも知恵の言葉を語ることもない。誘拐と強姦未遂に遭ったサラのゲラルにおける動きははっきりしない(彼女が自分の正体をアビメレクに明かすシーンもない)。『古代誌』のようにアブラハムとサラが叔父と姪の関係であれば結婚は可能だが、マソラ本文や七十人訳のように兄妹関係であれば結婚は不可能である。これは『古代誌』の語り手が二人の血縁関係を強調しつつ、二人が律法違反を犯していないことを示すことで、二人をよく描こうとしているのである。しかし結局こうした策を弄そうとしたアブラハムを肯定的に描くことには失敗している。

『古代誌』1.213-221:イサクの命名は「老齢での出産を予言されたサラが笑った」ことに由来するが、イサクの名前説明にはゲロース、サラが笑った時にはメイディアオーという別の単語が使われているので語源説明になっていない。『古代誌』は「子供が両者から生まれた」と説明することで、イサクがアブラハムだけでなくサラの子供でもあることを示している(マソラ本文はアブラハムのみ)。サラはイシュマエルが生まれたときに最初は愛情を示していたとされるが(1.215)、これは語り手による下手な正当化である。サラが最初は愛情を示したにもかかわらずイシュマエルに辛く当たったことは、アブラハムがイサクに愛情をかけたにもかかわらず献げ物にしかけたことと並行関係になっている。サラはイシュマエルがイサクを害するかもしれぬと考え、かつては愛情をかけたイシュマエルとその母ハガルをアブラハムに「植民地(アポイキア)」へと追放させたとされている。この個所の解釈としては、第一に、「どこか別の場所に行かせた」という一般的な解釈と、第二に、「植民地を設立させた」という解釈がある。いずれもサラの非道さを和らげて暗い話を何とか明るくしようとする語り手の試みであるが、実際のところこの追放は死刑に等しかった。そしてその決定はサラのイニシアチブのもとでなされたのである。

『古代誌』1.222-236:イサクの奉献の場面においてサラはほとんど登場しないが、まったくいないわけではない。ここでアブラハムがイサクに向けている「好意(エウノイア)」はサラがかつてイシュマエルに向けたの(1.215)と同じ単語である。つまり、サラはイシュマエルに母のような愛情を持っていたにもかかわらず、神の干渉によって助かったとはいえ彼を死出の旅に送った。一方アブラハムはイサクに父親としての愛情を持っていたにもかかわらず、イサクを死に追いやるところで神の干渉を受けた。ここでサラははっきりとアブラハムのイメージと一致している。イサクの奉献のエピソードにおいてアブラハムが彼の目的をサラに明かさなかったことからは、サラの力が透けて見える。ただし結局のところサラはアブラハムの計画に気付かなかったので、状況に置いてけぼりを食らったともいえる。

『古代誌』1.237:サラの死はアブラハムとイサクが戻ってわずかのちのことだったというが、実際には十年以上経っている。サラはアブラハムが受けたような敬意(1.256)を受けていない。カナン人たちが公共の英雄を称えるのと同じように、サラの葬儀を公費で賄おうとしたところ、何の説明もないままアブラハムがそれを断り、自分で土地を購入したのである。語り手がサラをよく描こうとして「公費」の設定を加えたが、もともと創世記にアブラハムが土地を購入したくだりがあるため、両方残しておかしな筋になったのであろう。とはいえ、アブラハムは、カナン人が考えたような価値がサラにはないと判断したともいえる。結局語り手はアブラハムの品格を貶める結果になっている。

結論:著者は『古代誌』におけるサラの特徴を次の3つにまとめている。第一に、『古代誌』のサラは、たとえばマソラ本文のサラと比べて減じられ、縮められている。サラが直接話をすることはなく、彼女の動きに語り手が興味を持つこともない。またサラが何か行動を起こそうとするとすぐになかったことにされている。サラが何かする場合も、それは結局すでにアブラハムがしたことになっている。

第二に、『古代誌』のサラはさまざまなやり方でアブラハムに似せられている。何よりサラはアブラハムの姪として血縁関係がある。サラはアブラハムがそうしたように、エジプトでファラオに真理を教授している。ゲラルにおいてアブラハムは説得力がある人物として描かれているが、サラもまたイシュマエルとハガルを追放することについてアブラハムを説得し、そればかりか神までをも説得している。またサラがイシュマエルに愛情を持っていたにもかかわらず彼を追放したことは、アブラハムがイサクを愛しながら犠牲にしようとしたことに似ている。語り手はアブラハムもサラもよりよい人間として描こうとしているが、結局中心はアブラハムであり、サラは偉大な彼に相応しい妻でしかない。

第三に、『古代誌』の語り手はサラを含め主要人物をよく描こうとしているが、やり方が不注意なので新たな問題を生み出してしまっている。アブラハムは先見の明があるはずなのに、サラが直面するであろう危険を予測できていない。サラが死に際し受けるはずだった名誉もアブラハムが取り去ってしまっている。サラのハガルに対する酷い仕打ちは、ハガルが傲慢だったという設定により和らげられ、またサラがハガルとイシュマエルを追放した件は
、サラがもともとイシュマエルに愛情を持っていたという設定により和らげられている。つまり、『古代誌』におけるサラの肖像は好意的なトーンで再度色付けされているが、その仕事は完成されないまま、ときに彼女のイメージを曇らせ、前からある瑕疵はそのままになっている。

2021年7月1日木曜日

第二神殿時代のサラ #4

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 139-85.

本章においては、『創世記アポクリュフォン』(以下GA)におけるサラのキャラクター性が論じられている。S.W. CrawfordらはGAにおけるサラに「力強い女性キャラクター」を見ている。実際にGAのサラは、知識を求め、賢く、意見を述べ、感情を持った女性であり、アブラハムの相棒という感じである。エジプトの廷臣たちも彼女の美しさ、深い知恵、そして驚くべき手先の技術をファラオに報告している。ところがファラオがサラを誘拐し、自分の妻にするや、彼女は単なるモノとしての役割しかなくなってしまう(Sarai's objectification)。アブラハムはサラを性的に独占することに執心し、彼女の自由は顧慮しない。彼にとってのサラの価値はあくまで「機械的(mechanical)」なものでしかないのである。GAではこうした彼女の主体性の消失が起こる。ここにはGAが語り手としてのアブラハムの一人称で書かれたテクストであることも関係しているだろう。すべての描写は「アブラハムによれば」という括弧づけの上でなされていることを忘れてはいけない。著者はこの章でGAのうち第19欄から20欄にかけてを取り扱っている。

GA 19.7-10:サラがはっきりと登場するわけではないが、それを引き出すことができる。アブラハムは夢を見ているが、それは神からのコミュニケーションにおいて、のちにサラに「彼は私の兄です」と言わせることのお墨付きをもらうという意味がある。

GA 19.10-13:アブラハムは誰か聞き手に向かって語っているが、それは誰か。19.12においてアブラハムは「我々は」と複数の代名詞を主語とすることで、旅の連れがいたことを示す。彼らの間にはある程度の相互関係(mutuality)が見える。むろんここにはサラだけではなくロトもいた可能性もある。しかし、物語のこの後の進行を考慮すると、アブラハムの聞き手にサラがいた可能性は非常に高い。

GA 19.14-23:エジプトに入る前のアブラハムの夢の中に、杉とナツメヤシの木が出てくる。杉はアブラハム、ナツメヤシはサラの象徴である(GA中でノアも杉と描写されている)。これは樹木のシンボルを使った予言と警告になっている。同様の表現としては、詩92:13の「義人がヤシのように芽を出し、杉のように育つ」という表現、雅5:15および7:8-9において男性の見た目が杉と、女性の見た目がナツメヤシと比されている部分がある。そして、古代近東において「木が倒れる」ということは災害や死を、また「木や植物が話をする」ということは金言を語ることを意味した。アブラハムの夢はこうしたイメージを集めて新たな方法で表現している。サラとナツメヤシに関する著者の解釈では、ナツメヤシが美しさと有用性を持っていることが大きく関係しているという。有用性とはつまり多産さということである。ただし、夢の内容はこれからアブラハムやサラたちに起こる出来事とはあまり一致していない。夢の中では杉(=アブラハム)が根こそぎにされそうになっているが、実際にはサラ(=ナツメヤシ)が王によって連れ去られる。そもそもアブラハムとサラは「一つの根から生えている」とは言えないだろう。

こうしたアブラハムの語り手としての信頼性に問題があるのは、彼がほとんどの出来事に関与しているからである。つまり彼は語り手であると共に登場人物でもある。物語に深く関係している語り手の言うことは信頼し得ないのは、言うまでもない。それはその語りが事実そのものではなく語り手の視点からなされたものだからである。またアブラハムは自分が直接知らないはずのことも自信たっぷりに語っているが(エジプトの宮廷内の出来事など)、これも信頼できない所以である。

GAはこの場面でサラに直接アブラハムに語りかけさせている。同様の発明はシリア・キリスト教の説教などに見られる。ここでのサラの発言には相互関係のトーンが感じられる。パートナーとしてアブラハムの恐怖心を取ったり、少なくとも共有したりして救ってあげたいという主体的な気持ちである。これでアブラハムは幸せな結末を迎えるわけだが、ここ(19.21)でテクスト上の欠損がある。本来であればここにサラの反応が描かれていたのかもしれないが、それは失われている。分かっていることは、アブラハムの描写によれば、「彼女はその夜私の言葉ゆえに泣いた」という。そしてサラは「5年間」人前から姿を消したとされている(19.23)。並行個所を保存している可能性のあるシリア教父の説教は、サラがアブラハムのアドバイスを無視して、ぼろ切れやホコリの下に自分の美しさを隠したと述べている。以上のように、アブラハムに直接語り掛けるサラには行為者としての主体性を感じられるし、アブラハムのために泣くサラからもある程度の働きかけを見出すことができる。

GA19.23-31:ここでの描写のすべてはアブラハムのフィルターがかかっているが、はっきりしているのは、第一に、サラは何年か自分の美しさを隠すことができたということである。それゆえに三人の廷臣は彼女の美しさの噂を聞きつけてではなく、知恵を求めてやってきたと描写される。第二に、ヒルカノスら廷臣たちはサラに会った。そして彼女の顔や体だけではなく、その「深い知恵」(20.7)を見ることができた。

「知恵」とそれにまつわる技術を示したのはアブラハムで、彼はエノクの言葉の書を読んだとされている。著者は、アブラハムもそうしたかもしれないが、むしろサラこそが知恵を示したと考える。なぜかというと、29行目のואמרתという語は、Machielaのように「私は言った」(一人称・両性・単数)とも訳せるが、「彼女は言った」(三人称・女性・単数)とも訳せるからである。前者であれば、知恵を示したのは語り手であるアブラハムだったことになるが、著者は後者の読みは文法的にも可能だし、物語上も妥当であると考える。そうすると、知恵を示したのもエノクの言葉の書を読んだのも「彼女」すなわちサラだったことになる。実際、後代の伝承(『出エジプト記ラバー』1.1やバビロニア・タルムード『メギラー』14aなど)によるとサラは特別な洞察力を持っており、それはアブラハムをしのいだとされている。つまり、サラは三人の廷臣たちの質問に、口頭で答えることでその知恵を示したのだと考えられる。

GA 20.2-8:ここでは比較的長いサラの描写がある。「美(שפר)」に関するさまざまな形容詞や名詞を連ねた反復的な表現は、しかし著者にとっては単調なものだという。他にもいくつかの表現が出てきているが、それらの過剰なまでの同義的な語の反復は、総じて彼女のキャラクターの定義を追加するようなものにはなっていない。ヒルカノスらによるサラの描写はさらに、彼女の知恵と手の業の巧みさをも讃えているが、これらは「価値のある女性」のステレオタイプな理想像に対する大げさな賛辞にすぎない。同様の表現は、雅歌、箴言(31:13, 19, 31)、『ベン・シラ』(26:13-18)にも見られる。

GAにおける最も目立つ特徴であり、また重要な発展としては、エジプトにおけるサラの饒舌さが挙げられる。他にもこの個所は、当時の人相学の影響を受けた近東の詩をヘレニズム化させたものとも理解される。つまり、彼女の特別な美しさは、知恵と技術という彼女の特筆すべき精神的あるいは倫理的な才能の象徴だという理解である。「美しい(カロス)」が七十人訳やフィロンなどにおいて肉体的な性質と倫理的な性質の両方を受け継いでいることとも、この理解は一致する。しかし著者の読みでは、サラの知恵は肉体の美と相互に関連付けられていない。彼女は美しいだけでなく賢いとも描写されているのである。しかしその賢さの描写がそれ以上ないのは、物語のフィルターである語り手としての男性の価値観によるものであって、サラに知恵や技術が不足しているからではない。

GA 20.8-11:ファラオは廷臣たちの話を聞き、暴力的にサラを連れ去ったわけだが、そのあとでサラを見てその美しさに打たれ、妻として彼女を娶っている。ここでの「娶る」は明らかに性的な意味を含意すると同時に、「購入による獲得」をも意味する。このあたりのアブラハムの語りは混乱している。またその後もファラオはアブラハムを殺そうとするが、彼はサラの取りなしにより助かり、しかも彼女に関してファラオと交渉しているという。この部分の順序も奇妙である。いずれにせよ、この個所で明らかなのは、サラの価値が極めて狭いものに限定されていることである。すなわち、ファラオやアブラハムにとっての彼女価値が肉体的な美しさだけになっている。アブラハムが「泣いた」のも連れ去られた妻への共感ではなく、より実務的で機械的な理由による。

GA 20.12-16:アブラハムが泣き、神の裁きを期待したのはあくまで自分のため、すなわち自己言及(self-referentiality)にすぎない。というのも、サラの清浄さの如何が自分の影響するからである。ファラオによる性交渉があった後ではアブラハムはサラと夫婦関係を続けることができなくなるため、彼女の清浄さを求めているだけである。そうした祈りを向けられる神もまた虐げられた妻の味方ではない。この場面は法律用語を使えば、裁判官としての神のもと原告アブラハムがサラの返還を求めて被告ファラオと争っているということである。つまりここでのサラは財産にすぎない。ここにおいてサラは物語の登場人物ではなくなり、意思も主体もないほぼ無生物のモノと化している。いわば物言わぬ売買の対象、さしずめちょっといいタンスかトランクほどの扱いである。

GA 20.16-21:ここでは地上の王たちを統べる、王たちの王としての神のイメージが出てくるが、その強大な力は囚われのサラを救うわけではない。あいかわらず目立った問題は彼女の性的な不可侵性である。彼女は不活発で、代名詞でのみ言及されている。

GA 20.21-23:サラがアブラハムとファラオのどちらの妻なのかが問題となっている。サラはアブラハムの祈りの霊的な妨げになっている。

GA 20.24-21.4:サラは音もなく物語から消えている。ハガルをファラオから得たことになっている。サラは活力のない穢れていない容器のようなものであって、アブラハムも彼女が性的にきれいかどうかにしか関心がない。

以上から、GAにおけるサラは、もともとはおしゃべりで才覚があり美しく賢くまた手先の器用な女性で、時に感情をあらわに泣いたり、深い知恵を示したりもすることがあった。しかしヒルカノスらエジプトの廷臣たちとの出会いの場面を転換点として、彼女の特質は非常に狭い意味での美しさだけになり、その機械的な性的受容性のみに関心が払われるようになった。先にはあったアブラハムとの相互関係は消え失せた。このようなサラの急激な変化からは、アブラハムの語り手としての信頼性への疑いが生じる。サラが囚われの身となったことにより自分が不適切に利益を得たことの印象を弱めようとしているといえる。というのも、アブラハムの一連の行動の動機が金銭的なものだったからである。彼はサラを人間として扱わず、心配もしていない。言い換えると、研究者たちがGAのサラに「強い」女性像を見ている点について、ある部分ではそうと言えるが、別の部分では再考の余地がある。ファラオによる誘拐以降のサラの主体性は弱まり、その役割も貴重な箱ほどのものに成り下がっている。アブラハム、ファラオ、神にとってのサラの本当の価値は、究極的にはその魅力的な体にあった。

2021年6月14日月曜日

第二神殿時代のサラ #3

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 88-138.

本章においては、創世記の七十人訳におけるサラのキャラクター性が論じられている。七十人訳におけるサラは複雑で(complex)だが一貫性のない(erratic)人物で、彼女の個性を制限する(limit her individuation)ようなさまざまなプレッシャーに常に直面している。それゆえに物語の初期段階ではサラは受け身(passive)で、不活発(inert)で、力なく(powerless)、ときに生命力すらない(inanimate)人物として描かれている。ハガルを虐待するときに力(agency)を得ることで、サラの不活発さは一時解消されるが、その不名誉な能動的な力は結局のところアブラハムのイミテーション、あるいはその派生にすぎなかった。結局サラはアブラハムに対する神の約束の成就における便利な道具(instrument)として役立っていたのだった。つまり、七十人訳におけるサラは、洗いざらしにされ(washed out )衰えた(faded)人物であり、自分の意志ゆえでなく、神とアブラハムの関係性の確立のために、一貫性を欠く行動を取るようになった。

七十人訳のサラに関する研究は、S. SchorchやJ. Dinesによるわずかな分量のテクストに基づくものと、S.A. Brayfordによる浩瀚なものの他にはほとんどない。Brayfordによると、サラは、翻訳者たちの社会環境にとって適切な性的な羞恥心を示すヘレニズム的貴婦人として描かれているというが、著者は、七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりも受け身の人物で、わずかにある彼女自身の行為もアブラハムのそれからの派生として描かれていると主張する。                                                                                                                                                                                                                                        

七十人訳のテクストはしばしばマソラ本文と、テーマ、モチーフ、キャラクターの特徴などについて、本質的な一致を示すことがある。これは前者が後者の翻訳であることから当然である。すると、それらを最初から最後まで繰り返すことは読者の忍耐を試すようなことになってしまう。そのような状況下で取れる選択肢としては、第一に、マソラ本文での分析の繰り返しになろうとも、サラのキャラクターに関するすべての分析を完全に引き出すこと、そして第二に、両バージョンの連続性を、それらが関連するときに、ある程度濃縮したかたちで喚起することが挙げられる。著者は読者の利便性を考慮して、後者を選択したという。とはいえ、あるエピソードやシーンは時に異なり、時に一致するので、それらに図式的・均一的なアプローチをすることは有害である。そこで著者は連続性や矛盾への考察から議論を始めるときもあれば、連続性や矛盾を論じる前に両バージョンの衝突を論じることもある。そして何よりも物語の統一性(integrity)を重視している。

創11:26-12:9:ここでのサラは主として否定的な受け身の人物として描かれている。先祖や子孫などの肉親関係も示されていないため、サラが持っているのはアブラハムとの性的な社会婚姻関係だけである。マソラ本文との違いはわずかなものである。たとえば、七十人訳の方がサラの不妊がより永続的になっている。サラの名前の言葉遊びがない。能動的な力がなく受け身の姿勢がより強い(11:31のマソラ本文が「彼らは皆で出た」に対し、七十人訳は「彼(テラ)は彼らを出した」)。つまり、彼女は彼女が持っているものではなく、持っていないことやできなかったことによって定義されている。生殖能力が永続的でないことで、のちの神の計画に対する彼女の利用価値を一層高めているのである。また受け身の姿勢を強めることで、のちに起こるエジプトでの事件でサラの意志がよりなかったことになる。

創12:10-13:2:やはりここでもサラはまるで意思を持った人物として描かれていない。エジプトの王のもとにアブラハムの「妹」として行く件で、アブラハムの口調はほとんどビジネスライクであり、説得ではなく命令を下している。アブラハムはサラのことを「顔がいい(エウプロソーポス)」と外見についてのみ描写する。サラはアブラハムの詐欺の美的な構成成分だけを強めている。サラの美しい顔は戦略的に有利な点となり、彼女のおかげでアブラハムは生き続けることができる。こうしたアブラハムの話に対してサラは沈黙したままである。サラはただアブラハムとファラオという二人の男によって肉体的・性的に代わる代わる所有された価値ある物体であった。彼女は美しさを持っていたが、それは彼女にとって不利益しか生まなかった。いわば彼女は人身売買され取引された犠牲者であり、安全も自由も力の意志も、さらには子供も欠いていた。マソラ本文と比べると、七十人訳ではサラは説得の対象ではなく、無遠慮で命令的な強制の対象になっている。意思がないので説得の必要があると見なされていないのである。サラはここでほぼ完全に受け身である。

創13:2-15:21:サラは登場しない。

創16:1-16:サラの重要な転換点となる部分である。サラはこれまでの無気力状態から脱し、意思らしきものを示すが、それはアブラハムの模倣においてであった。すなわち、ハガルからアブラハムの子孫を得ようとするサラのアイデアはアブラハム自身に端を発するものであった。さらにこの一連の話の中で主語の性がはっきりしないために、サラとアブラハムの区別が曖昧になっている。七十人訳がマソラ本文から大きく違うのは、ハガルがアブラハムの後継者を得るための代理母として最初に提案された奴隷ではないことである。すなわち15:2-3におけるアブラハムのセリフは、マソラ本文では「私の家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルである」となっているが、七十人訳では「私の家の女奴隷マセクの子、この者はダマスコのエリエゼル」となっている。つまり「マセク」を人名と捉え、また「私の家」を「私の家の者」すなわち「女奴隷」と捉えている。こうしてアブラハムの息子かつ後継者として奴隷の子供を用いるというテーマが15章においてアブラハム自身によって先取りされているのである。つまり、ハガルの件でようやくサラが意志を示せそうになった機会が奪われ、アブラハムの受け売りのようになっているのである。

マソラ本文においてはエジプトでの詐欺とサラによるハガル代理母の件の繋がりが、アブラハムとサラそれぞれのセリフ構造の類似の中に示されていたが(ヒネ・ナで始まるなど)、七十人訳ではそれがなくなっている。オープニング・フレーズの形式的な一致がないので、読者にはセリフの類似に関するヒントがないのである。それゆえに、サラのエジプトでのひどい体験とサラによるハガルの処分との繋がりが薄まってしまっている。七十人訳の「マセクの子」の解釈もこの繋がりを弱めることになっている。またマソラ本文ではハガルの体によって「私が立てられる=私が息子を得る」というサラ自身への恩恵もあったが、七十人訳では「あなたが子を得る」という表現になっている。つまりサラのセリフはアブラハムの利益のみを述べているのである。こうして意志の力がさらに失われ、より限定的な個性しか発揮されなくなり、物語におけるサラの役割が小さくなる。

この個所ではジェンダー・アイデンティティの曖昧さが見られる。サラがアブラハムに「あなたが子を得る」と言っているギリシア語テクノポイエオーは、通常女性が子供を産む力を指すときの言葉である。また5節で「あなたのコルポスに私の奴隷を私が与えました」というサラのセリフも、本来であればいかにも男が言いそうなセリフである。そしてアブラハムの「コルポス」は「膝」とも訳せるが、もとは「穴」という意味なので、しばしば「女性器」を示す言葉である。6節でアブラハムがハガルを「好きなように使いなさい」と言っている際の「使う」が人を目的語に取るときは性的なニュアンスが伴うが、ここでハガル「使う」のはサラの役割である。すまりサラに男性の視点が与えられている。9節の神の使いのハガルでのセリフ「女主人のもとに帰ってその手に身を委ねよ」の動詞タペイノオーもしばしばレイプを示す語である。以上のような性の曖昧さは、サラとアブラハムの間のパワーバランスを再調整し、その役割を曖昧にするのに役立っている。これ以前の意志のないサラが突然ハガルに対して暴力的な意思を示すという急激な変化を和らげているのである。

4節でハガルが妊娠したことで、サラがハガルの目に重要でなくなったが、ここでのギリシア語アティマゾーはヘブライ語よりも強い言葉である。しかし「彼女の目において」という部分が「彼女の目の前で(エナンティオン)」と変わることで、サラが面目を失ったのはハガルの前だけということになっている。Brayfordはここでハガルの地位がやや上がったとするが、著者はサラが「女主人(キューリア)」と呼ばれていることから、やはりハガルは依然としてサラの所有物にすぎないと主張する。しかも神はサラによるハガルの虐待の積極的な協力者になっている。サラのこれまでの受け身で無気力な状態は、ハガルの虐待によって終わり、新たに意思を持ちオープンに話をしているが、その実彼女の行為はアブラハムのそれの反響にすぎない。12章で強調されていた「顔の良さ」も、内面の真意との格差を示していることがはっきりとする。

創17:1-27:この部分での七十人訳とマソラ本文の違いは大きくない。

創18:1-15:ハガル虐待以来サラは読者の目から隠れている。ここでもサラは天幕の中にいるせいで、せっかく出かけていた意思が制限されてしまっている。ただし、アブラハムにパンを作るように言われたにもかかわらず、おそらく何も行動を起こしていないところからは、サラのイニシアチブ、サラに言えば反抗の様子を見て取れる。さらに、神の使いがサラの将来の出産について語ると、サラはそれをもっともなことに疑う。ただしそれは自分自身の老齢ゆえに無理だと考えているわけではなく(サラ自身の状態についての言及は一切ない)、アブラハムが老いたからである。この疑いやそれに伴う笑いはサラの意志の表れのはずだが、すぐにアブラハムが同じようなことをするため、その意味が薄れている。マソラ本文ではアブラハムとサラの行動が相似形になるような言葉が使われているが、七十人訳は異なっており、その結果サラのイニシアチブは骨抜きとなり、精彩や生命力を示す機会がなくなった。

12節のサラの独白も、マソラ本文においてはアブラハムとの実りのない性関係への怒りと性行為そのものの悦びがないことに関する不信といったたくましいイメージが表現されていたが、七十人訳では妊娠の不可能性に関する冷静な考えが表現されている。ここからBrayfordは、七十人訳のサラは翻訳者のアレクサンドリアの環境の感覚により適切な「恥」のヘレニズム的女性として描かれていると主張しており、著者もそれにある程度同意している。ただし著者によれば、そうした社会的な規範に沿うことで、サラの文学的なキャラクターは後退しているという。

15節の「笑っていません」というごまかしと、その理由としての「恐れ」との繋がりは、マソラ本文でも七十人訳でもはっきりしていない。そこで著者は、「サラが恐れゆえにごまかした」という語り手の説明そのものを退ける。サラが笑いをごまかしたのは、彼女の意志とイニシアチブの表れである。しかしそれは神の反駁と語り手の不明瞭化によって制限されてしまっている。

無気力で見た目のよいモノというイメージは、ハガルへの残酷な仕打ちというかたちにしろ、意思を持った人間としてのサラの定義へと転換された。しかしその切っ先は、続くサラの提案を派生的なものにしたり、動詞のジェンダーを曖昧にしたりすることで鈍ってしまった。こうして七十人訳のサラはより青ざめた、活力を垂れ流しにするキャラクターになってしまった。サラは依然として神のアブラハムへの約束を成就させるための利用価値を認められているが、その知らせも直接聞いたわけではなく、そこにおけるいかなる自発性や話すことさえ認められていない。

20:1-18:ゲラルにおけるアビメレクとの物語においても、七十人訳の発展が見られる。アビメレクはアブラハムに金を支払っているが、それについてサラに「あなたの顔の名誉(ティメー)のために」と述べている。このティメーという語は「名誉」や「尊厳」といった意味と共に、「値段」や「価値」といった意味も持っている。つまりここには、サラの顔の美しさを商品と見なす意識が現れている。またマソラ本文ではエジプトのときと異なり、ゲラルではサラもまた詐欺の片棒を担ぐことである程度の意志を示していたが、七十人訳ではゲラルでも沈黙し、意思を放棄しており、ほとんど無気力のままである。こうして七十人訳のサラの態度は極めて一貫性を欠いた(erratic)なものとなっている。ただし、登場人物のmimeticな理解は、その人物に統一性だけを見るのではなく、こうした人間的な非一貫性や矛盾をも考慮に入れるべきである。

21:1-14:イサク誕生に関して、マソラ本文はサラの笑いについてアンビバレントな評価を下していたが、七十人訳における彼女の笑いは本当に幸せであることを示している。6節は「主は私のために笑いを作ってくれた。このことを聞く者は皆私と共に喜ぶだろう」となっている。つまり、これはサラが他の者たちと共有することを期待する幸せな笑いなのである。8節の「(イシュマエルが)イサクと遊んでいる」というところのパイゾーはしばしば性的なニュアンスを含む語だが、ここではそれは問題となっていない。むしろ問題は「イサク『と』」のメタという前置詞である。なぜなら9-10節で「私の息子イサク『と』財産を相続することはできない」にも同じ前置詞が使われているからである。イサク誕生の喜びのすぐあとにハガルとイシュマエルを追放させるサラは、子を持つ母親のステレオタイプを叩き切っている。これは語り手がサラの複雑な気持ちに寄り添いつつ真に人間的に扱うというよりも、単に神の約束の成就の道具として扱っているということである。こうしてわずかに見えたサラのイニシアチブはまたしても弱められてしまっている。

創23:1-20:サラの無気力と受け身は、サラの死において完全なものとなっている。つまりここでサラは完全にアブラハムのモノになっている。

結論としては、マソラ本文におけるサラは複雑ではあっても一貫していたが(coherent)、七十人訳のサラは複雑でしかも一貫しておらず(erratic)、ギクシャクしていてたどたどしい。またマソラ本文にはあった獲得と喪失、所有と欠如のテーマは七十人訳には見られない。またマソラ本文のようにサラが人の目を気にする様子もない。七十人訳はサラの個人性を損なうほど、彼女の行動をアブラハムのそれの派生として描こうとしている。そのようにしてサラの個人性を洗い落として色あせさせているのは語り手である。彼女のイニシアチブは、それを行使しようとする前に奪われ、行為しようとする意志は制限を課されてしまう。このようにサラの主体性が狭く制限されるのは、語り手がアブラハムに訳された神の約束の成就の道具としてサラを見なしているからである。それゆえに、マソラ本文に比べて七十人訳のサラが他者への共感を欠いているという理解はフェアではない。ここでのサラはそもそも知識や理解というものを持っていないのである。わずかな救いとしては、アブラハムとサラの死後、イサクはアブラハムに対しては悲しみを見せないが、サラについては、リヴカとの結婚を経てようやくその死への慰めを得たという記述があることである(24:67; 25:20)。

2021年6月3日木曜日

第二神殿時代のサラ #2

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.

本章においては、創世記のマソラ本文におけるサラのキャラクター性が論じられている。著者はサラが実在の人物であるかのように、自分自身の経験というフィルターを通じてmimetic readingで創世記を読み解く。

創11:26-12:9:サラはまず女性および妻(つまり性的に成熟した女性)として定義されている。サラはアブラハムによって妻として「取られた」のであり、それゆえにアブラハム「の女」と呼ばれる。主導権ははっきりとアブラハムにあるので、彼よりも力は弱い。「サラ」という名前の語源は「支配、優越、所有」といった意味を持つが、実際には「所有される者」(「所有する者」ではなく)として描かれている。たとえばサラは「子供がいない」と説明されている。その原因はアブラハムではなくサラに帰されている。アブラハムの妻、ロトの叔母、テラの義理の娘といったかたちで家族関係を得るが、テラの死によってそれを失う。しかしアブラハム一行がある程度財産を得ると、それは家族間で共有されるので、サラもわずかながら「所有する者」となる。こうした「所有」と「喪失」のパターンが繰り返される。

創12:10-13:2:エジプトで起こったこの事件はサラのキャラクターづけに重要な意味を持っている。サラはここで「見た目が美しい」とされている。つまり彼女は美しく人目を惹くわけだが、これは単にいい意味だけではなく、「モノ化(objectification)」され、高価な品のように扱われてしまうという悪い意味も持つ。実際エジプトでの出来事においてもサラは貿易の品のようにやり取りされるのみで何一つ自分で決めることがない。神からの助けも、サラがアブラハムの妻だから差し出されたものだった。それどころか神は、サラを売り飛ばした張本人であるアブラハムのもとに彼女を返している。つまりここでサラは明らかに人身売買の被害者である。彼女には価値があるが、それは家畜や奴隷のような意味での価値である。しかし、一連のエジプトでの事件の結果、アブラハム一家は巨額の富を築くことに成功した。こうしてサラもアブラハムの親族としてある程度の力を手に入れたのである。

創13:2-15:21:この部分ではサラは登場しない。しかしこの間のエピソードにおける人間関係から、サラのキャラクターについても学ぶことができる。たとえばサラは甥のロトを失っている。二人は何年も共に旅し、共にアブラハム以外の家族関係がないという共通点を持っていたが、ロトがいなくなったことでサラが大きな失意を味わったことは想像に難くない。エジプトでのトラウマとロトの喪失はサラの人間性を硬化させ、所有物への執着心を強めたのだった。また神がアブラハムの子孫を「星の数ほど」増やすと約束したことに対しアブラハムが実現可能か懸念を表明していることは、サラもまた同様の心配をしていたことを示唆している。

創16:1-16:サラのキャラクターは、アブラハム、ハガル、そして神との関係の中で理解される。対アブラハム:16:2でサラは初めてセリフを言うが(「見てください、ヤハウェは私に子を授けません。わが使え女のところに入ってください。きっと彼女によって私は立てられましょう」)、これは12:11-13のエジプトでのアブラハムの最初のセリフ(「見なさい、あなたが姿の美しい女性と私は知っている。……私の妹だ、と言ってくれ。私が厚遇されるように」)と同じ文章構造になっている。ヒネ・ナという同じ言葉から始まる両セリフからは、サラがアブラハムから甘言の弄し方を学んだことが分かる。アブラハムが自分に下謀略や虐待を学び、彼のようになったのである。サラはアブラハムに呪いの言葉すらかけている(16:5)。対ハガル:サラは子供を持っていないが、ハガルという奴隷を得た。サラは女主人としてハガルの性能力と生殖能力をいかようにもできたのでアブラハムに与えた。つまりサラはエジプトでアブラハムにされたのと同じような仕打ちをハガルにしたのである。また自分の見た目について自覚的なサラは、ハガルが自分を軽視するという「酷な仕打ち」(16:5)ゆえに、身重の彼女を「苦しめた」(16:6)という。「酷な仕打ち(ハマス)」をしたのはハガルというよりサラである。また「苦しめる(アナー)」は相当残忍な行為(女性が目的語になる場合しばしば性的含意を有する)を指す。対神:さらに神的存在がこうした残虐さを是認し、ひどいことをした張本人のもとに被害者を返しているのもエジプトの時と同様である。以上のことから、この16章には12章のエジプトでの出来事との類似と反響があり、結果として、エジプトで人間扱いされなかったサラがここでハガルを人間扱いしないことにより、虐待された者が今度は虐待する者になってしまった。

創17:1-27:この間にサラは登場しない。ただアブラムはアブラハムに、サライはサラに名前が変わっている。この名前の変化を契機に、サライの不妊はサラの多産へと切り替わる。ただしこれはアブラハムだけに与えられた啓示なので、サラ自身はその変化を知らない。

創18:1-15:この個所ではサラが実際にテントの中にいるさまが描かれている点が他と異なっている。アブラハムはサラにパンを焼くように言いつけるが、アブラハムを呪いハガルを虐待したサラが唯々諾々と従ったとは思えない。神の使者たちがサラの出産を予言すると、サラはそれを鼻で笑った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか」(18:12)という部分は閉経、すなわち不妊を指すが、それだけでなく、アブラハムとの性的関係への悦びを失ったことをも指している。つまり「鼻で笑った」のは「性的に不能であるアブラハムに失望している自分が彼と子供を作ることなどあり得ない」という意味であったわけだが、神はそれをサラが「老いた自分に子供産ませるのは神でも不可能だ」と考えたのだと誤解した。そこで唯一この個所でのみサラに直接神が語りかけている。17章ではアブラハムも神に対して疑義を呈していたが、神はアブラハムよりもサラに対してより強く怒っている。16章におけるサラは不妊だが性的な積極性を持ち、奴隷を虐待する女主人だったが、18章では閉経し、性行為をやめてしまっている。子供への関心があるかどうかも曖昧である。対アブラハム:18章においてはアブラハムとの力関係は微妙に変わっており、サラは彼の言いつけを無視し、その性的不能を笑っている。対神:神との関係はより個人的なものとなっている。ハガルの事件において神はサラを肯定することで彼女のキャラクターを硬化させたが、ここではサラの笑いを誤って解釈し、あまつさえ脅すような物言いをすることで、やはり彼女を硬化させている。

創18:16-19:38:サラは登場しない。

創20:1-18:ゲラル寄留は12章のエジプト寄留と密接な並行関係にある。サラ自身についても、いずれの個所でもセリフはなく、外国の支配者に「取られ」ているとおり、男性の所有物であり、最終的に大きな報酬を受けている。しかしながら、12章と20章は一見似ていても、その間にサラが大きく変容している。まず20章にはアブラハムによるサラの説得の会話がない。12章の行いはアブラハムをポン引きとする売春行為であったが、20章のそれは美人局に近い。そうした意味ではサラは単なる売春の商品ではなく、詐欺行為に加担している。それはサラ自身がアビメレクに対して「彼は私の兄です」(20:5)と述べていることからも分かる。12章のエジプトでのサラはアブラハムによる性的人身売買の犠牲者であり、人間扱いされないことに慣れ、神の共謀を受けて自分を虐待する者に加わった。しかし、20章のサラは自分の虐待と喪失をより力のない性的代替者に向け、アブラハムを呪い、その性的不能を陰で笑い、奴隷とその腹の中の子を暴力に曝した。これだけの変化を経て、20章のサラ(older, harder Sarah)が12章でのサラと同じように声なき被害者であったはずがない。20:12においてアブラハムは、サラが実際に義理の妹である旨を説明しているが、これは明らかに一連の詐欺行為における策略の一部であろう。20章における本当の被害者はサラではなく、サラゆえに子供を産めなくなった王宮の女たちである(20:17-18)。サラはアブラハム同様、他の人たちの生命に対する配慮を欠いている。

創21:1-14:イサク誕生とハガルとイシュマエルの追放の物語からは、サラのキャラクターとしての硬化が残酷さを伴って固定されているのが分かる。サラの妊娠には神が関与しているが、イサクは神の血統というわけではなく、神の配慮のたまものである。サラはイサクの誕生によって柔和な人間になったわけではない。21:6には、「神は私に笑いをくれた。これを聞いた者たちは皆私と笑うでしょう」という肯定的な解釈のみならず、「神は私を笑い者にした。これを聞いた者たちは皆私を嘲笑うでしょう」という否定的な解釈も可能である。後者の場合、サラは子供の誕生という幸福の中でさえ他人の目を気にしていたことになる。イサクの乳離れの祝宴において、サラはイシュマエルが「戯れる」のを見たが、これは単に「戯れ」ているとも取れるし、誰かを「笑い者にする」とも取れる。後者だとすると、他人に笑われることを最も気にするサラを刺激したことだろう。酒宴の酔いも手伝い、サラはかつてないほど無慈悲な行動、すなわちハガルとイシュマエルをアブラハムに追放させることを決めた。アブラハムは躊躇したが、神がサラを後押ししたのだった。興味深いことに、これ以降サラも物語から消えてしまう。こうした無慈悲で残酷で弱さに基づく行為について、著者は怒りよりも哀れみを感じたと述べている。

創23:1-20:サラは127歳で死んだという。サラが死んだのはキルヤット・アルバであり、アブラハムはベエル・シェバで暮らしていたと書いてあるので、二人が一緒に暮らしていたかどうかは不明である。イサクの奉献の顛末も知らなかった可能性がある。サラは死してなお都合のいい道具として扱われている。というのも、アブラハムはサラを埋葬することを口実にマムレの近くの土地をヘト人から購入することに成功したからである。つまりサラの死体はカナンの地の獲得という最終目標の第一歩のために、あたかも道具のように用いられたのだった。

結論:対アブラハム:エジプトでアブラハムはサラを動物や奴隷のように売り買いの道具として用いた。このトラウマはサラ自身によるハガルの虐待を導いた。そのようにしてアブラハムそっくりになっていったサラはゲラルにおいて詐欺行為に加担する。このようにアブラハムはサラが使えるうちに使いつくし、最後には遺体までをも自分の利益のために利用した。対神:神はサラを自分の目的のために使っている。エジプトにおいてサラを救ったのはサラ自身のためではなく、サラをアブラハムのもとに返すためだった。神はサラが虐待者へと変貌することも後押しした。サラは神にとって、約束を成就させるための道具として重要だったのである。神は自分の目的を達成するためにサラの人間性を引き下げることすら厭わなかった。対ハガル:サラとハガルの関係は、アブラハムとサラの関係に似ている。サラはハガルの肉体を自分の目的のために用い、彼女を暴力的に虐待した。そして最終的にはハガルとイシュマエルの放逐に一役買った。こうした一連のひどい行為はアブラハムと神によって是認されていた。

以上のようにサラの周りには獲得と喪失、所有と欠如といったお題目が付いて回った。著者はそんなサラに共感や哀れみを抱いている。サラは搾取と残酷さという気の毒なサイクルの中で、ときに犠牲者に、ときに加害者になった。サラが次第に残酷さを受け入れていくのは、その方が神の計画を実行するために都合がよかったからである。ただしわずかな救いとして、著者はイサクの人間的に高潔な態度にサラとイサクとが意義深い関係性を築くことができたことが伺われると考えている。

2021年5月26日水曜日

第二神殿時代のサラ #1

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.

聖書研究において、たとえばアブラハムの研究が無数にあるのに対し、女性の登場人物への関心は必ずしも高かったとはいえない。そこで著者は、サラを主題に、ヘブライ語聖書、七十人訳、『創世記アポクリュフォン』、ヨセフス『古代誌』を物語批評の方法論で読んでいる。その結果、サラの「深い特性(deep traits)」はアブラハムのキャラクターへの度重なる類似性だといえるという。と同時にそれだけに留まらず、複雑でときに相反するキャラクターでもある。

この研究で著者は3つの目標を掲げている。第一に、比較的無視されてきた女性の登場人物を認知し、再発見することへの貢献、第二に、理論的で登場人物主導の物語批評的アプローチを取ること、そして第三に、第二神殿時代の文学の幅広く代表的なサラ理解を提供するのみならず、いわゆる再話聖書への有益なアプローチ方法を示すことである。そこで、これまでの多くの研究が「比較(comparative)」アプローチを取ってきたのに対し、本研究は「対照(contrastive)」アプローチを取る。このアプローチにおいてはテクストを機械的に並置することがあるが、そのときに要素の相互作用を見落とさないように気を付ける必要がある。また基準テクストとそこからの派生テクストという構図を取ることで、後者を十全に読み込まないという事態にも注意しなければならない。

第二神殿時代のサラの物語は、『ヨベル書』とフィロンの著作にも出てくるが、前者はサラへの無関心ゆえに、後者は過度の抽象化ゆえに、本書では扱わない。

マソラー本文のサラ研究は、エピソード的、テーマ・類型論的、そして概論的なものに大別される。マソラ―本文のサラに関する研究は、古代近東の文脈からサラを解釈するSavina TeubalとTammi Schneiderをはじめ数多い。七十人訳、『創アポ』、『古代誌』、第二神殿時代文学のサラ研究はそれほど多くない。これら先行研究に対し、著者は、こうした諸文学においてサラがどんな登場人物なのか、そしてそうした人物像はどのようにして作られたのか、という理解から議論を始めようとする。

「キャラクター」とは何か。キャラクターは架空の存在でありながら、時に現実の人間よりも生き生きとした実体を持つ。この二極について、Marvin Mudrickは、架空の性質をpurist、現実感のある性質をrealisticと呼んだ。著者は後者をrealisticだけでなくmimeticと呼んでいる。つまり、自分が知っている人間との人間的な類比として、文学上の登場人物の作られた現実感に注目するのである。こうしたアプローチはWilliam Harvey, Seymour Chatman, Baruch Hochmanらに見られる。架空のキャラクターと生身の人間は同じではないが、キャラクターを知るために使う方法論や道具は生身の人間との経験の中から作られるのである。

Chatmanはstoryとdiscourseを区別する。storyは出来事や行為や人物が「何」なのかを語る。一方でdiscourseは内容が伝えられる表現や手段が「どのように」なされるかを語る。これらは互いに関係しあっている。なぜなら、discourseを通じてstoryへのアクセスが得られるからである。またstoryは、劇、映画、小説と異なったメディアにおいても同じものとして伝えられるという転移能力(transposability)を持っている。これはstoryの構成要素であるキャラクターの持っている力でもある。

さらにChatmanはキャラクターとプロットを区別する。アリストテレスは悲劇においてキャラクターをプロットの下位に置いた。構造主義者はさらに進んで、キャラクターとは純粋に機能的なものであり、物語のアクションのために使えるものだと考えた。Chatmanは「特性のパラダイム」としてのキャラクターという考えを打ち出している。Chatmanによると、キャラクターの「特性」とは形容詞で表せる類のもので、キャラクターのある程度持続的な側面を描写する。またキャラクターはプロットを含む時系列に縛られない。

著者のキャラクターへの関心は、他の人々への人間的な関心という側面を持っている。それゆえに、キャラクターを知るために、著者は実在の人物との具体的な類似に注目する。すなわち、実在の人物に対してするように、矛盾した行動や発話を説明し、精神的・感情的な行動の動機を探ろうとするのである。すなわち著者のmimeticなアプローチは、puristアプローチがそうであるように、表現されたテクストであるdiscourseと格闘しなければならない。

読者の役割:我々がそうしたdiscourseを読むとき、それが作り出された言語や世界についてできる限り学ぶことは確かに重要である。しかし、結局のところ我々がそこから引き出すことができるのは、キャラクターやその行為の動機についての我々自身の理解にすぎない。つまり、そうしたテクストやキャラクターの「他者性」を認識しつつも、自分自身の知識と経験についてそのイメージを構築するほかないのである。

実際Wolfgang Iserによれば、意味がテクストの背後に隠れているという近代的感覚は正しくなく、むしろ意味は読むという行為の中で生み出されるものだという。つまり、文学テクストは、実在物の世界と読者自身の経験世界の間にある特異な中道に存在するわけである。そして読むという行為は振り子のように振れるテクスト構造にピンを刺そうとするプロセスなのである。それゆえにテクストには常に間隙や空白を残すような「不確定性(indeterminary)」が不可避的に付きまとう。そうした間隙を埋めることはdiscourseには無理で、ただ読者のみがそれをできる。逆に言えば、不確定性は読者の参加に対する前提条件、すなわちテクストと読者を橋渡しするものでもある。ただし、テクストの意味が読者の読むという行為に委ねられているのだとすると、その意味は読者の出来栄えにかかってくることになる。サラのようなキャラクターもまた、discourse構造と読者の意識の結節点において構築される。

しかしながら、サラが出てくる聖書の物語は、我々とはかなり異なる文化の人々により、そうした人々のために書かれたものである。こうした状況に対し、聖書学者は第一に、「非歴史的(ahistorical)」なアプローチを取った。すなわち構造主義的に「テクストそのもの(text-in-itself)」を強調した。それは結局のところ現在の「私にとってのテクスト(text-to-me)」を意味した。第二の立場は、そうした非歴史的立場への反動による「歴史的・文脈的(historical-contextual)」なアプローチである。この立場で問題とされているのは、テクストの成立した時代の聴衆や読者である。

確かにこの「非歴史」と「歴史・文脈」の2つの立場があるが、これらはきれいに切り離せるものではない。著者はその中間を行こうとする。すなわち、キャラクターにきっかけとして動く物語批評が、サラにまつわる古代の受容や再話に出会うところである。いわば、著者の関心は文学的なものだが、それをするために基礎的な歴史や影響についても考慮するということである。

また著者は、サラ物語の受容を扱うに際し、「菌糸状(rhizomorphous)」モデル(C.V. Stichele < G. Deleuze and F. Guattari)を採用する。すなわち中心となる幹から枝が伸びていくような「樹木状(arborescent)」モデルではなく、菌糸状モデルには中心もヒエラルキーもなく、確固とした始まりも終わりもない。受容の歴史とは動的に開かれたものであり、いくつもの始まりや終わりがあるはずである。それゆえに、受容史の中で取り上げられるテクストはそれ自体の統合性および生成能力を持っているのだから、他の特権的なテクストとの比較のためだけにあるのではない。

また古代の受容史を語るに際しても、「受容(reception)」というきわめて受動的な概念ではなく、むしろもっと能動的に干渉する(active intervention)ような「再話(retelling)」などという表現の方が適切であろう。何となれば、あるテクストを「読む」ことはとりもなおさずそれらを「書き換える(rewrite)」することといっていい。

以上のことから、著者はテクストの原語や表現を重視し、また歴史的文脈に目を配りながらも、遠く時空を隔てたテクストの理解の困難さ(すなわち「他者性(otherness)」)を自覚するので、歴史上の著者や読者には必ずしも関係のない著者自身の社会的位置や個人的関心に基づき、現在生きている人間を理解するようやり方でサラを理解しようとする。すなわち、男性、四十代、ローマ・カトリック、北部ヨーロッパ人の子孫、北アメリカ生まれ、文化横断的な経験のある、古い言語と物語を愛する、異性愛者、健常者、既婚の父親としての著者から見たサラを描く。

著者はサラの人物描写(characterization)を判断するに当たり、Chatmanによる「特性の枠組み(paradigm of traits)」という概念を用いる。キャラクターの特性とは、ある程度持続的な個々人の性質を指すが、物語の進展に伴ってそれは互いに衝突したり、浮き沈みを経たり、変容したり、消えてしまったりする(優しかった人物が残忍になるなど)。こうしたキャラクターの特性を読者が理解するのは、現実世界の人間との交わりの経験に基づく。Shlomith Rimmon-KenanやHochmanはこうしたChatmanの見解を「静的にすぎる」とし、キャラクターの志向的次元の議論をも取り入れるべきと主張する。著者としては、キャラクターの特性の衝突や成長を受け入れつつ、ある程度の構造や一貫性を要求している。

こうした人物描写の判断基準として、Robert Alterは計量スケールを提案した。すなわち、行為、容姿、他の人物のコメント、セリフ、思考、地の文の説明の順で、その人物の特徴づけの明示性や確証性が表現されるというものである。Alterによれば、行為や容姿は読者に推論させるだけであり、コメントやセリフはそうした主張を判断させ、思考や内面的なセリフは比較的確かであり、そして語り手の説明が最も信頼できるという。このスケールは影響力が大きかったが、むろんその曖昧さに対する反対意見も多い。とりわけAlice Bachは、物語の語り手はある意味ではキャラクターの一人であり、その中立性を安心して信じるわけにはいかないと主張する。そして本研究のように女性の姿を明らかにするためには、語り手が語ること以外にも目を向けなければならない。それゆえに、われわれ読者は語り手も含めて、語られていることの軽重を判断しなければならないのである。

Rimmon-Kenanはキャラクターの「直接的定義(direct definition)」と「間接的定義(indirect definition)」を区別する。前者は形容詞や名詞で語られるものであり、後者は体格、社会的位置、倫理的嗜好、感情などのことである。この2つの定義の区別はやや曖昧で、その線引きについて意見が一致しないことがある。直接的定義の方が間接的定義によりも上に来ることもあるが、それは永続するものではない(直接的定義でダビデは「若い」が、いずれ年を取る)。

とにかくキャラクターの構築や読みの自由度は直接的カテゴリーと間接的カテゴリーの間で異なっており、またカテゴリーの内部でも異なっている。つまり人生と同じように、文学的な状況を評価する機械的な方法はない。経験に照らして語られていることの軽重を量ることによって判断されるのみである。

そこで著者はHarveyにならいつつ、「関係性(relationality)」に注目する。すなわちキャラクターと別のキャラクターとのつながりの中で、関係性が人物描写に影響するという理解である。キャラクターは個人で直線的に存在するのではなく、人間というクロスロードの上にいるのである。それゆえに、誰かとの衝突、ジェンダーなどに注目する必要がある。当然ながら物語の語り手もまた、関係性の中にあると考えるべきである。発話が行為とぶつかることも、初期の行為があとの行為とぶつかることもある。そしてそうした結果に至るまでの「プロセス」という「直線性の概念(concept of linearity)」も忘れてはならない。

以上より、サラのようなキャラクターの構築は、特性(traits)という有機的な付着物によって影響されるが、それはdiscourseによってきっかけを与えられ、読者の精神において判断され、集められ、分離され、また集められる。読むというプロセスは、勘を使って仮説を立てていく連続的なプロセスであり、また初期の証言や現在の証拠を統合し、キャラクターの過去と未来を検証するプロセスでもある。

2020年12月13日日曜日

書斎の中のオリゲネス Wright, "Origen in the Scholar's Den"

  • John Wright, "Origen in the Scholar's Den: A Rationale for the Hexapla," in Origen of Alexandria: His World and his Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 48-62.

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成したのはなぜか。この問いに対し、多くの研究者がさまざまな答えを提案してきた。H. Orlinskyは『ヘクサプラ』をヘブライ語への手引きとするため、P. Nautin(およびH. SweteやS. Jellicoeら)は七十人訳テクスト(マソラー伝統へと改訂された「純粋な」七十人訳)を回復するため、S.P. Brockは護教的理由のため、D. Barthelemyはデータの十全な収集のためと説明した。これらに対し論文著者は、聖書解釈的な著作のために容易に比較可能なテクストのコンピレーションを作るためと主張する。そしてこのことを、『ヘクサプラ』の構造と形式、オリゲネス自身の証言、そして『エレミヤ書説教』におけるベーステクストから明らかにしている。

構造と形式については、P. NautinとI. Soisalon-Soininenの研究が大きな貢献をなしている。Nautinによれば、『ヘクサプラ』にヘブライ語欄はなく、全体としては7欄構成(ヘブライ語テクストのギリシア文字転写、アクィラ訳、シュンマコス訳、校訂記号つき七十人訳、テオドティオン訳、クインタ、セクスタ)だったという。各欄は「コロン」(ヘブライ語単語に対応した意味の小さなユニット)で配置されていた。Soisalon-Soininenは校訂記号について特に注目し、Fieldが批判的に再構成した『ヘクサプラ』上の七十人訳欄は、これらの記号を極めて機械的に用いていることを見出した。つまり、ヘブライ語テクストと七十人訳を一対一対応で比較しようとしていたのである。

こうした分析から以下のことが分かる。第一に、コロンによる文章の分け方は『ヘクサプラ』を大部にしたので、スクロールではなくコーデックス形式を必要とした。そしてそれゆえに、『ヘクサプラ』は公の場での論争において手軽に参照されたのではなく、書斎でじっくりと説教や注解に取り組むときに用いられたはずである。第二に、『ヘクサプラ』の論拠は七十人訳の欄を純粋なマソラー本文に合わせて回復させることではない。なぜなら、この目的のためには諸訳を参照する必要はなかったはずである。また七十人訳の言い回しがヘブライ語テクストと異なるところでもオリゲネスは七十人訳を修正していない。むしろ、『ヘクサプラ』の構造と形式から分かるその論拠は、細部を容易に比較できるようなテクストのコンピレーションを作ることだったといえる。

オリゲネス自身の証言は、『マタイ福音書注解』と『アフリカヌスへの手紙』から引き出すことができる。前者では、校訂記号に編集上の重要性を付与し、七十人訳よりもヘブライ語テクストの権威を強調している。とはいえ、ヘブライ語テクストに対応しない七十人訳テクストも削除するのではなく、オベロス記号をつけて維持している。また『マタイ福音書注解』における説明は、特定の箇所の注解という文脈の中で解釈されるべきなので、安易に一般化すべきではない。

一方で『アフリカヌスへの手紙』からは対ユダヤ人の護教的意図が引き出される。ここでオリゲネスは『ヘクサプラ』の論拠を語ろうとしているのではなく、七十人訳をユダヤ人の攻撃から守ろうとしている。しかし、テクストの比較を目的とした護教の道具としての『ヘクサプラ』は、七十人訳を批判者から守るというオリゲネスの目的にも適っていた。こうした護教的意図をそのまま『ヘクサプラ』の論拠に転用するべきではない。論拠はもっと広いものだったはずである。

『アフリカヌスへの手紙』から引き出されるオリゲネスの『ヘクサプラ』作成論拠は、テクスト間の差異を発見するための比較を行うためであった。そうした比較から分かったことは、護教的意図も含めて幅広い目的に用いることができる。つまり、『ヘクサプラ』の基本的な目的は、旧約聖書のすべての入手可能な版の全般的な理解だったといえる。

オリゲネス『エレミヤ書説教』におけるエレミヤ書の扱いもまた、彼の『ヘクサプラ』作成の論拠を間接的に教えてくれる。P. Nautinによれば、エレ20:2-6についての説教において、オリゲネスの聖書は七十人訳ではなく、『ヘクサプラ』作成の際に他の諸訳のもとで改訂したテクストだったという。ただし、論文著者によればこの結果は常に一定ではない。むしろ、基本的にカイサリアの教会で流布していた七十人訳に従いつつも、マソラー本文への同化のしるしを示し、なおかつときに孤立した特異性をも含んでいるといえる。

オリゲネスは七十人訳とマソラー本文の相違を意識していた。そしてそうした違いを2つの異なった方法で扱った。第一に、異読を評価して、よりよい読みを確立しようとした。第二に、異読を両方保存し、それぞれに対する釈義を残した。とりわけ第二の方法からは、オリゲネスが七十人訳を純化させようとしていたわけではないことが分かる。むしろ釈義の利祖ソースの幅広い範囲のためのデータを残そうとしていたのである。

結論としては、オリゲネスの『ヘクサプラ』作成の論拠は、さまざまな版の理解を深め、幅広い釈義上のリソースを提供してくれる、比較分析のための聖書テクストのコンピレーションを得ることだった。ここから、オリゲネスは聖書テクストの歴史において過渡期の人物だったといえる。ヒエロニュムスのヘブライ的真理への完全な関心をオリゲネスに読み込むことはアナクロニズムである。というのも、一方で、オリゲネスはテクストに複数の可能性があるのであれば両方を保存しようとする古代の写字生の伝統の中にあったので、ヒエロニュムスのような厳格な標準化は目指さなかった。他方で、校訂記号を導入することで聖書テクストの完全な標準化への重要な第一歩を踏み出した。つまり、オリゲネスはヒエロニュムスの先行者として、ヘブライ語からラテン語への旧約聖書翻訳プロジェクトのための道を整えたのである。

2020年12月5日土曜日

オリゲネスのヘクサプラ Grafton and Williams, "Origen's Hexapla"

  •  Anthony Grafton and Megan Williams, "Origen's Hexapla: Scholarship, Culture, and Power," in Christianity and the Transformation of the Book: Origen, Eusebius, and the Library of Caesarea (Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2006), 86-132.

オリゲネスの『ヘクサプラ』について我々には3種の証言がある。第一はオリゲネス自身だが、彼は『ヘクサプラ』に直接言及しているわけではなく、2つのテクストで聖書の本文批評的な研究に触れており、そこからヒントを得ることができる。第二は4世紀のキリスト教作家たちの証言、そして第三は『ヘクサプラ』写本の2つの断片である。

第二のキリスト教作家たちとしては、エウセビオス、ヒエロニュムス、エピファニオス、ルフィヌスがいる。エウセビオスによると、彼はカイサリアの図書館で『ヘクサプラ』の実物を手にしたという。また彼はギリシア文字によるヘブライ語転写の欄の存在に言及しない。ヒエロニュムスはカイサリアで実物を見たばかりか、自分で『ヘクサプラ』の写しを持っていた。彼はヘブライ語の欄について言及している。エピファニオスとルフィヌスはヘブライ文字とギリシア文字で書かれた2つのヘブライ語欄を報告する。さらにエピファニオスは諸ギリシア語訳の並び順が成立順ではないことを断ってもいる。エウセビオスやヒエロニュムスは『ヘクサプラ』にサマリア人のテクストが入っていた可能性も指摘する。

第三の現存する2断片は共に詩篇に関するものだが、オリゲネスの時代からはかなり下る。またヘブライ文字によるヘブライ語テクストを欠いている。第一の断片は、1900年にCharles Taylorによって出版された、カイロ・ゲニザで発見された詩篇32の大文字パリンプセスト断片である。第二の断片は、1896年にGiovanni Mercatiによってその存在が発表され、1958年に出版された、ミラノのアンブロシウス図書館で発見された小文字写本である。これは諸ギリシア語訳の並べ方がカイロ・ゲニザ版とは異なっている。また小文字で書かれていることから、ゲニザよりもオリジナルとの距離が遠いと言える。一方で2つの断片にはオリゲネスのオリジナルに遡ると考えられる共通点もある。たとえば1行に1語のヘブライ語とそれに相当するギリシア語が配され、1ページにつき40行書かれている。

『ヘクサプラ』は同時代の書物から、形式においても大きく異なっている。3世紀においてはいまだスクロール形式の書物が優勢だった。一説では、スクロール形式とコーデックス形式は、それぞれ82%と18%の割合だったという。スクロール形式はパピルスに書かれていたのに対し、コーデックス形式は羊皮紙に書かれた。コーデックスのページに複数の欄が設けられることはあったが、見開きページに6欄も設けなければならない『ヘクサプラ』は例外的だった。キリスト教徒はコーデックス形式を比較的早くから受容していたが、『ヘクサプラ』はその傾向を加速させ、またその可能性を押し広げた。『ヘクサプラ』の全体はおそらく400葉(800ページ)のコーデックス40巻分に相当したと考えられる。

資金面はオリゲネスのパトロンだったアンブロシオスなどによって賄われた。『ヘクサプラ』作成のためには、書記の費用だけで75,000デナリ、羊皮紙などを含めると150,000デナリかかったとされる。ヘブライ文字の筆写のためには余計に費用がかかったであろう。オリゲネスの教師としての年収は7,000デナリほどだったようなので、彼自身にはとてもではないが無理だったが、年に6,000,000デナリは稼いでいたローマ司教コルネリウスなどにとっては出せる値段だっただろう。

オベロス記号やアステリスコス記号のような校訂記号については、『ヘクサプラ』の七十人訳の欄に書かれていたと考える者たちと、まったく別のプロジェクトだと考える者たちがいる。論文著者は、確かではないと断りながらも、後者に与している。

R. Clementsの研究によると、『ヘクサプラ』には2つの問題がある。第一に、ヘブライ語とギリシア語を両方読める者しかヘブライ語とギリシア語の欄を比較できないはずということである。この第一の問題について、Clementsは3つの可能性があり得るとする。第一に、オリゲネスはヘブライ語といくつかのギリシア語訳が載っている既存の梗概(シノプシス)を持っていたという可能性である。しかし、Clementsはこの説はありそうにないとする。なぜならば、ギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語で礼拝することを何ら問題としていなかったし、またこの議論はヘブライ語のギリシア語転写の必要性を説明できないからである。さらに言えば、こうした梗概はアレクサンドリアよりもカイサリアにこそ当てはまる。

第二の可能性は、オリゲネスはヘブライ語と諸ギリシア語訳を比較できるほどヘブライ語に習熟した助手を雇っていたというものである。Nicholas de LangeやRuth Clementsらが取る立場である。オリゲネス自身がユダヤ人の情報提供者の存在について数多く言及していることから、この見解は支持される。

第三の可能性は、オリゲネス自身がヘブライ語とギリシア語を校合できるほどにヘブライ語に習熟していたというものである。オリゲネスは多少ともなりヘブライ語を知っていたことは確実であるが、助手を必要としていたこともまた確かである。ユダヤ人の助手に大きく依拠していたことと、多少はヘブライ語を読めたことは矛盾することではなく、これらの2つの可能性が補い合っていたのである。Clementsは、もともとアレクサンドリアでオリゲネス自身が作成した『テトラプラ』に、カイサリアで雇ったユダヤ人助手がヘブライ語の欄を付け加え、『ヘクサプラ』になったと考えている(エウセビオスは『ヘクサプラ』の簡略版としてのちに『テトラプラ』が作成されたと報告している)。

Clementsが『ヘクサプラ』に見出す第二の問題は、七十人訳の底本のヘブライ語テクストと、オリゲネスの時代のヘブライ語テクストとは異なっていたはずという問題である。死海文書中の発見によって、七十人訳者が依拠したヘブライ語テクストは、後1世紀までにユダヤ人の間で基本となったプロト・マソラー本文と、さまざまな点で異なっていることが判明している(エレミヤ書に見られる時系列の差異など)。

『ヘクサプラ』の第5欄については、校訂記号が付されていたのかどうかという問題もある。多くの研究者は『ヘクサプラ』に校訂記号が付されていたと考えてきたが、実際には『ヘクサプラ』とは別の改訂七十人訳に付されていたものではなかったのか。実際ヒエロニュムスは校訂記号を『ヘクサプラ』ではなく独立した七十人訳テクストで見ていたようである。論文著者はPaul KahleやJennifer Dinesらと共に、『ヘクサプラ』に校訂記号を付すのは余分であり困惑するものだと判断する。余分というのは、七十人訳にはあるがヘブライ語や諸訳にはない部分が『ヘクサプラ』に出てくる場合、七十人訳の欄だけに文章があることは一目瞭然なので、記号をつけるまでもないからである。困惑するというのは、七十人訳にはない部分を『ヘクサプラ』上でわざわざ別の欄から埋めて、それにアステリスコス記号をつけることは、差異を曖昧にするだけだからである。

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成した目的については多くの議論がある。Henry Sweteによれば、オリゲネスは、よりヘブライ語テクストに近くなるように七十人訳を修正しようとしたと考えた。一方でPierre Nautinは、原典ヘブライ語テクストを再構成しようとしたのだと主張した。Sebastian Brockは、オリゲネスのテクスト研究は聖書解釈についてユダヤ人と論争するキリスト教徒のためになされたと述べた。Adam Kamesarは、聖書解釈の可能性を最大限に高めるために可能な限りの異読を集めたのだと論じた。Ruth Clementsは、キリスト教内の異端やユダヤ人に対する武器にするために、キリスト教信仰の領域内でヘブライ伝統を包摂しようとしたのだと見た。

論文著者はClementsに同意しつつ、『ヘクサプラ』に関する第一の証言であるオリゲネス自身の議論を分析する。すなわち『アフリカヌスへの手紙』と『マタイ福音書注解』である。アフリカヌスはダニエル書の付加部分にはギリシア語の言葉遊びがあることから、ヘブライ語テクストに元来存在したものではなく、ゆえに権威が劣るのではないかと、オリゲネスに手紙で尋ねた。これに対しオリゲネスは、そうした言葉遊びは失われたヘブライ語原典にも存在したのであり、それをギリシア語で再現しているにすぎないと反論した。七十人訳とユダヤ人の版の版との違いは、ユダヤ人による聖書の改変ゆえのことである。そこでオリゲネスは状況を現実的に判断した結果『ヘクサプラ』を作り、ユダヤ人との論争に備えたわけである。これは学識深いユダヤ人に対し生まれたばかりのキリスト教徒の主張を助けるためのツールだった。

『マタイ福音書注解』では、自分が七十人訳を「癒す」ことを試みたことを報告している。すなわち、七十人訳の諸写本(アンティグラファ)を比較し、また七十人訳を含めた諸訳(エクドセイス)を比較したのである。基準である諸訳やヘブライ語テクストに基づき、協会で受け入れられた霊感を受けたテクストである七十人訳の統一性を保存することを目指した。これこそが『アフリカヌスへの手紙』で述べられていた対ユダヤ人論争のためのツールという第一の目的に対し、第二のより中心的な目的であった。John Wrightは、オリゲネスがさまざまな諸訳を『ヘクサプラ』に集めたのは、テクストの意味をアンプリファイし、よりよい読みを決めようとしたのだと述べている。Adam Kamesarは同様の観点から、オリゲネスの試みを「釈義的マキシマリズム」と呼んでいる。

死海文書の発見によって、当時の聖書写本の状況がいかに複雑であるかが分かってくると、その複雑さを『ヘクサプラ』の特定の翻訳だけに絞り、意図しないまま権威付けてしまったオリゲネスの行いは早計だったとも言える。こうした際限のないテクスト的・翻訳的多様性の文脈においてこそ、『ヘクサプラ』の本質と機能は十全に理解できる。

『ヘクサプラ』はオリゲネスの時代の文献学における技術の状況を如実に伝える。これはローマ時代の学術の最も偉大な記念碑の一つであり、ギリシア文献学と文献批評をキリスト教文化に適用した最初の重要なプロジェクトだった。また当時の製本技術の限界を押し広げる役割も担った。いわばギリシア文化とヘレニズム・ユダヤ教文化のフュージョンの中で、生まれたばかりのキリスト教的学術を例証してみせたわけである。

2020年11月15日日曜日

聖書の校訂記号 Stein, "Kritische Zeichen"

  • Markus Stein, "Kritische Zeichen," in Reallexikon für Antike und Christentum 22 (Stuttgart: Anton Hiersemann, 2008), 133-63.

校訂記号とは、古代の編集者や釈義家たちによって単独あるいは組み合わせて用いられた線、点、文字のことで、通常は左の欄外の行の前に置かれた。記号は読者にテクストの本質やその理解、確かな特徴、内容の質などに関するヒントを与えるためのものだった。古代の文献学におけるδιόρθωσις, κρίσιςなどの領域で用いられた。

著者はこうした記号の非キリスト教的用法とキリスト教的用法を共に紹介する。そもそも校訂記号はキリスト教成立以前である前3世紀初頭に、アレクサンドリア文献学のホメロス解釈の伝統の中で生まれてきた。アレクサンドリア図書館の最初の館長エフェソスのゼノドトスはオベロス記号を発明し、彼が本物かどうか疑っている箇所に付した。疑わしい箇所を単に取り除くのではなくオベロス記号を付すことで、読者が自分で決定する可能性を奪うことなく校訂者が自分の決定を明らかにできる。続いてアリストファネスとアリスタルコスが新しい記号を発明し、校訂システムを修正・拡大した。ゼノドトスとアリストファネスは欄外の印をつけただけだったが、アリスタルコスは別個の注解に自分の見解を書き残した。アリスタルコスにとって校訂記号は、本文と注解を繋ぐものだった。

オベロス記号(−)は、真正性が疑われるテクストの目印のためにゼノドトスが開発した。アステリスコス記号(※)は、繰り返されている部分を示すためにアリストファネスが作った。アステリスコス記号はそのときどきの文脈で適切と思われる箇所にも使われ、一方で適切でない箇所にはオベロス付アステリスコス記号(※−)が付された。アステリスコス記号は他にも、Venetus Aにおいて神々や王たちに関する比喩や発言などの内容を特徴付けたり、叙情詩においては詩の終わりや始まりや、韻律の変化などを示したり、ヘルクラネウムのパピルスでは段落を終わりを指したり、プラトンのテクストではその教えの内的な一致を証明したりするためにも用いられた。

シグマ記号(Ϲ)は同じ内容を持つもともと連続する一節に、アンチシグマ記号(Ͻ)は節が置き換えられているところに、付点アンチシグマ記号(Ͽ)は疑わしい一節に付された。とはいえアリスタルコスをはじめ多くの場合、これらの記号について一貫した方法論は確立されていなかったようである。ホメロスや叙情詩の写本ではアンチシグマ記号は欄外に示された異読や本文に関するコメントを導入するために使われることが多く、節の置き換えを示すためにはめったに使われない。アンチシグマ記号と付点アンチシグマ記号の区別も明確でない。

ディプレー記号(>)はアリスタルコスが自身のホメロス注解で言語的・内容的なタイプをさまざまに解説するヒントとして役立った。とはいえ叙情詩や劇のテクストでは韻律の変化や段落の冒頭などを示すためにも用いられた。オベロス付ディプレー記号(>−)はテクストの内容の区分を示した。プラトンのテクストではディプレー記号がつくことで、それがプラトンの教説であることが分かるようになっている。付点ディプレー記号(>:)は、ゼノドトスが取り除くべきと判断したがアリスタリコスは別の判断を下した箇所に付された。また付点オベロス記号(÷)は先行者の恣意的な削除の批判を意味した。

めったに使われない記号としてケラウニオン記号がある。これはアリストファネスによる登場人物の倫理的評価を示すものではないかと考えられている。少なくともテクストの質や構造ではなく、物語の内容に関する記号と思われる。キー記号および付点キー記号は、ホメロス文献について口頭や注解で与えられる言語的・内容的なタイプの説明のためにアリストファネスが用いたが、のちの時代には完全に失われた。ホメロスのテクスト以外でも、さまざまな注解メモへの参照表示として用いられることがあった。プラトンのテクストでは、プラトンのスタイルの真正性をキー記号が、スタイル上の彩りを付点キー記号が示した。

パラグラフォス記号コローニス記号は、詩や散文での段落を表し、とりわけ対話篇では話者の交代を示した。コローニス記号はより強い境界区分のために用いられた。斜線は、間違い、脱落、変化、補足、段落分けなどのヒントになり、付点斜線は斜線に比べてめったに出てこないが、本文と注解の間の参照表示として役立つ。アンコラ記号は抜かされた一節を指摘し、ページの欄外で情報を捕捉することもあった。他にも、アロゴス(文章が壊れて回復不能な部分を示す)や句読点、また組み合わせである文字クレーシモン(読者に読む価値のあるところを示す)、ホーライオン(法的文書において注意を喚起する記号)、ゼーテイ(テクストの質への問いを指す記号)、グラフェタイ(別の写本での異読を指す記号)などがある。

ユダヤ的用法では、削除記号としてアンチシグマ記号とシグマ記号が使われている。これらは間違って配列された一節や欄外に付加された一節を指した。アンチシグマ記号はのちに「逆転のヌン」と間違われた。パラグラフォス記号は大イザヤ写本などの段落の冒頭に置かれている。

キリスト教的用法も、異教のそれと同様にテクストの解明と保全が出発点である。オリゲネスのヘクサプラの目的は、七十人訳や諸訳を比較することで可能な限り確実なテクストを手に入れるという文献学的意図によるものとされているが、ユダヤ・キリスト教双方が受入可能なテクストを作り論争に役立てるという護教的意図によるものでもあった。オリゲネスは七十人訳がヘブライ語テクストに対して余剰を示すときにオベロス記号をつけ、一方で七十人訳で単語が文章が欠けているときにはその部分を別の訳で埋めた上でアステリスコス記号を付し、両者の量的違いを表した。オリゲネスは記号の使用に関して異教の文献学に依拠したことを認めている(Ep. 1.7)。テクストに直接干渉せずに自分の批判的見解を明らかにできるこの方法はオリゲネスの意図にかなっていた。オリゲネスのオベロス記号は写本によって変化するが(−, ~, ÷, ⨪)、機能は同じである。

エピファニオスはおそらくヘクサプラそのものを見たことはないが、記号について報告している。エピファニオスによると、アステリスコス記号とは、繰り返しを避けるために七十人訳者によって言語的・スタイル的観点から抜き取られた言葉を指すという。彼はこれを星のイメージを使って説明している。一方でオベロス記号とは、七十人訳者がギリシア語文としてより明晰にするために付加した箇所を指す(そこに神の霊感が現れる)。エピファニオスは普段はオリゲネスの激しい敵だったが、これらの記号の使用については賞賛している。

エピファニオスは、オベロス記号やアステリスコス記号が付された箇所の終わりの印としてメトベロス記号ついても説明している。また七十人訳においてヘブライ語テクストや諸訳と異なる順序で言葉が並べられているとき、オベロス付アステリスコス記号が付されるという。エピファニオス(とエルサレムのヘシュキオス)はさらにレムニスコス記号(÷)とヒュポレムニスコス記号(⨪)をオリゲネスに帰している。エピファニオスによれば、レムニスコス記号は、聖書を互いに独立して訳した36の翻訳ペアのうち2つが大多数とは異なる表現を選んだところに付けられる(÷の真中の線が行を、また2つの点が二人の翻訳ペアを示す)。ヒュポレムニスコス記号はひとつのペアだけが異なるときに使われる。この報告はエピファニオスのでっち上げであるという解釈が支配的だが、Fieldらはこれが正しい可能性を排除しない立場を取る。実際はこれらの記号はオリゲネスには由来しない。

10世紀のCodex Patmiacus 270には、ポントスのエウァグリオスの著作に対するスコリアがあり、その冒頭には記号についての説明に3章が割かれている。第1章ではオベロス記号とアステリスコス記号について、ヘブライ語テクストに対する量的な違いの観点から説明される。さらにテクストの順序の相違を表すために両記号が一緒に用いられることも指摘される。第2章のその例を挙げる。第3章は写本の欄外にあった4種の書き込みについて説明される。第一は、エウァグリオスのスコリア。第二は、オリゲネスのスコリア。第三は、七十人訳と諸訳の異読を扱うスコリア。第四は、七十人訳テクストで欠けている言葉や異読。

オベロス記号とアステリスコス記号はヘクサプラ版七十人訳写本の外でも使われることがある。たとえばルキアノス改訂版写本である。ここではオベロス記号はルキアノスによる付加を表す可能性があるが、記号の付け方はしばしば完全に恣意的になっているので確証はない。たとえばアステリスコス記号の代わりにオベロス記号が付けられたり、逆のことが起こったりしている。

ヒエロニュムスは聖書テクストに関する著作の中で、しばしばオリゲネスの記号について言及している。さらにはこれらの記号を同じように自分の聖書翻訳(七十人訳に基づく)でも利用している。エピファニオス同様に、記号の説明に星の比喩も使っている。これに対し、アウグスティヌスはヒエロニュムスの方法を理解せず、記号が示すのは非ヘクサプラ版の七十人訳テクストに対し、ヘクサプラ版七十人訳に基づくヒエロニュムスのラテン語訳(ヨブ記)の違いだと考えた(Ep. 28.2)。ヒエロニュムスはこのアウグスティヌスの誤解を正している(Ep. 112.19.1)。中世になると、オベロス記号とアステリスコス記号はガリア詩篇の写本において、ヘブライ語詩篇との相違を表すためにも用いられるようになった。

以上のような文献学的な問題だけでなく、神学的・釈義的ヒントとして記号が使われることもあった。エピファニオスは、聖書の預言書において預言が成立する10種の条件を示す記号や、そのときどきの預言のテーマを読者に示す記号を説明している。またカッシオドルスは、教父の著作中の異端的思想にアルケーシモン記号を、また正統的思想にクレーシモン記号を付した。カッシオドルスはこの方法を他の修道士たちにも薦めつつ、自身の『詩篇注解』などでも一貫して使用している。こうした著作の冒頭では13種の記号のリストが与えられており、その意味や先行者が説明されている。ときに、すでに知られていた記号に新しい意味が与えられる場合もあった。たとえばアステリスコス記号は注解の中で天文学的なテーマが扱われている箇所を示すために用いられた。カッシオドルスのこうした努力は、教義学、倫理学、文法学を用いて聖書を注解するためのみならず、神学的学問や世俗的学問においてテクストを通して聖書を覚えていくような教科書を作ろうとしたためだった。

ナジアンゾスのグレゴリオスの説教へのスコリアと共に、一連の写本には欄外の記号がある。この記号はおそらく6世紀前半のスコリア作者に由来するものと考えられる。このスコリアはグレゴリオスの説教の教義上の内容説明やそうした箇所へのヒントを通して、異端者による利用から守るためのものだった。たとえばグレゴリオスが神について取り扱っているところにはヘーリアコン・セーメイオン記号が付された。アステリスコス記号は新しい意味を得て、キリストの受肉やそれと結びついた救済計画について論じていることを示した。組み合わせ文字のホーライオン記号はスタイル的・思想的に優れた箇所を、セーメイオーサイ記号は読者に内容的にも言語的にも何か奇妙なところを指す。オベロス記号は、テクスト削除という伝統的な用法を応用し、削除されるべき異端者の意見に付された。ディプレー記号は聖書からの引用を意味した。

他にも、ギリシア語やコプト語やシリア語の聖書写本およびパピルスでの用法についても触れられている。

2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月7日金曜日

アブラハムとロトの別れ(6) Rickett, Separating Abram and Lot #6

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 158-88.

本書は次の3つの問題を扱っているものだった。第一に、ロトがアブラムの潜在的な後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な相手という読みは妥当なのか。第二に、こうした読みはどこから来るのか。そして第三に、こうした読みが適切でないなら、では創世記13章とロトの目的や機能はどのように理解されるべきなのか。

第一と第二の問いに対しては回答済みなので、第6章はこの第三の問いに答えている。著者は、創世記における他の「兄弟」物語と比較することで、アブラハム物語全体や創世記13章におけるロトの機能を分析している。後継者としてのロトの問題は、アブラムの息子探しに関係している。15章に出てくるダマスコのエリエゼルや17章に出てくるイシュマエルははっきりと「後継者」として明言されているが、ロトはそうではなく「兄弟」と呼ばれている。そしてこの「兄弟」性は「別離」と分かちがたく結び合っているというのが著者の見立てである。というのも、神の約束は兄弟たち皆のためのものではなく、兄弟たちのうち一人と、その後継者たちのものだからである。つまり、ある者と別の者が「兄弟」である限り、その者たちは一緒に住むことはできず、必ず「別れ」なければならない。

創世記における「兄弟」物語として、著者はカインとアベル、ノアとその子たち、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ、ヤコブとラバン、ヨセフとその兄弟たちなどを取り上げる。これらとアブラムとロトの挿話の共通点としては、どれも「兄弟(アハ)」という親族関係を表す語を用いつつ、関係上の「繋がり」と共に、そのあとに来る「別れ」を示しているという。つまり、「兄弟性」と「別離」という二重のテーマがどの挿話にも含まれているわけである。兄弟たちは一緒に住むことはできない。彼らは別れなければならない。

著者によれば、これらの中でもアブラムとロトの挿話との最も明確な並行関係は、ヤコブとエサウの挿話(創世記36章)にあるという。どちらの挿話でも、第一に、土地は二つの家族を支えることができないと言われており、第二に、エサウもロトも非常に裕福であり、第三に、両者はそれぞれの「兄弟」から離れたところに住み、そして第四に、両者はその兄弟から別れた。エサウはヤコブと兄弟関係のつながりを持っているが、神の約束を継ぐのはヤコブとその子孫だけなので、エサウは去らねばならない。その後ヤコブはエサウと友好的な再会を果たすが(33章)、ロトもまたアブラムに救われ、彼との再会を果たす(14章)。しかしこの再会も長くは続かない。兄弟たちは一緒にいることはできないからである。兄弟であることは、子孫であることに比べれば他人である。このように創世記の他の「兄弟」物語と比較することで、アブラムとロトの挿話で真に問われているのは「兄弟」性であることが分かる。それと同時に、エサウやロトらのような「選ばれなかった兄弟たち」は、必ずしも悪の存在ではない。彼らはヤコブやアブラムと異なり、肯定的な性質も問題のある性質も併せ持つ曖昧な存在なのである。

そしてロトは、実際にはアブラム甥であるにもかかわらず、亡くなった父ハランの代わりにこのような「兄弟」の役割を担わされている。創世記によれば、アブラムにはハランとナホルという兄弟がいたことになっている。アラム人の系譜の父祖であるナホルは、ミルカの夫であることしか知られず、おそらくはカナンへの移住時にも付いてきていない。ハランは、神の約束がアブラムと結ばれるより先に「父テラの前で死んだ」(11:28)。ロトが父ハランの代わりとされていることは、ハランではなくロトこそがモアブ人とアンモン人の父祖とされていることからも見て取れる。

以上より、創世記13章におけるロトは、アブラムの潜在的な後継者でもなければ、彼の倫理的な対応相手でもない。ロトの主要な役割は「選ばれなかった兄弟」である。「後継者=子孫」ではなく「兄弟」であるがゆえに、ロトはアブラムと神の約束の対象者ではなく、関係的にも地理的にもいわば「外部の者」となる。そしてロトは、創世記の「兄弟」物語の例に漏れず、アブラムと共に同じ土地に住むことはできず、「別離」を選ばざるを得ないのである。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。

2020年8月2日日曜日

アブラハムとロトの別れ(5) Rickett, Separating Abram and Lot #5

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 123-57.

Rowan Greerによると、教父の聖書解釈はキリスト者がいかに生きるべきかの指針となるものであり、信者の倫理的・霊的発展を可能にさせるリソースであるという。james Papandreaは教父の聖書解釈の9つの特徴を挙げている。第一に、聖書の神的霊感、第二に、啓示は継続的である、第三に、あるテクストはいくつもの意味を持っている、第四に、矛盾は避けられるべきものではなく織り込み済みのものである、第五に、教父の解釈は使徒の解釈に従う、第六に、聖書が聖書を解釈する、第七に、一般的に旧約聖書の解釈は非字義的、第八に、一般的に新約聖書の解釈は字義的、そして第九に、解釈は祈りの文脈でなされる。これらを踏まえた上で、著者は教父の解釈とキリスト教美術を分析している。

ユダヤ教の聖書解釈同様に、初期キリスト教の解釈もアブラムを守り、彼の正しい行いを強調している。ただし、ユダヤ教がロトを不敬虔な者として描くのに対し、キリスト教はより肯定的なトーンで解釈する。キリスト教的解釈はロトを救済というレンズを通して読むのである。たとえばユリウス・アフリカヌスはアブラムとロトの別離を両者が同意できるものだったとする。

オリゲネスによると、ロトは敬虔さについてアブラムに劣るので、アブラムがロトに別れを告げたのは正当なことだったという。つまり、ロトはアブラムほど敬虔ではなく、ソドムの人たちほど悪でもない、中間の人だったのである。

シリア教父エフレムは、羊飼い同士の争いにおいてロトは完全に無実であり、ソドムへの移住も悪い決断からではなく神の義とその救済を証するためだったとする。一方でアブラムについては、ロトがソドムを選ぶことを許した点で、気前がよかったと評価する。すべての土地はアブラムに訳されたものだったが、アブラムは気前よくソドムにそれを分け与えたというのである。

ヒエロニュムスは創世記13章を兄弟性という言葉で総括している。ロトはアブラムの本当の兄弟ではなく甥だが、創世記では兄弟と表現されている。つまり、創世記の表現を字義的に取るのではなく、親族関係を表すより広い意味で取るべきである。そしてそれゆえに、論敵ヘルウィディウスのように、福音書においてイエスに「兄弟姉妹」がいたと書かれているところをマリアに他にも子供がいた(=マリアは処女ではなかった)と取るのは誤っているという。ただし、ヒエロニュムスはロトが平野を選んだことについては倣うべき行為ではないとする。その上パレスチナの平野は聖書で書かれているほど風光明媚ではなく、ヨルダン川や死海などで汚染されていると主張する。

アンブロシウスは、創13:5「アブラムと共に行ったロト」という表現から、あたかも「アブラムと共にいかなかったロト」もいる可能性があると感じて困惑する者たちがいると報告する。しかし、彼によれば、ここには二人のロトがいるのではなく、一人のロトに二つの問題があるのだという。ロトという名には「回避」という意味があるが(この解釈はフィロンやヒエロニュムスと同じ)、それは善の回避の場合と悪の回避の場合があるのである。羊飼い同士の争いについて、アンブロシウスはアブラムに責任はなかったとする。アブラムはこの争いがロトとの人間関係に波及することを恐れて、別れようとしたのである。一方でアブラムは別れないという選択肢をも与えたが、ロトは別離を選んだのだった。アンブロシウスは兄弟関係の切り離せなさを、魂の理性的部分と非理性的部分にたとえてもいる。それぞれが司る徳と悪徳は兄弟的な必要性によって互いに固く結ばれているのである。それゆえに、アブラムとロトは徳と悪徳が擬人化したものといえる。

ヨアンネス・クリュソストモスの解釈は、アブラムの問題を解決し、ロトにより肯定的な評価を与える解釈の典型例である。彼によればロトはアブラムの養子であり、したがってアブラム同様に裕福な義人である。ただし、土地を選ばせてくれたアブラムに何のお返しもせず、最終的にソドムに住むという間違いをしでかしたことは確かであり、その点はアブラムにではなくロト自身に責がある。つまり、ロトは不敬虔なのではなく間違った選択をしたのである。彼はソドムに蔓延する悪を見抜くことができなかった。クリュソストモスの解釈で興味深いのは、羊飼い同士の争いは、アブラムはもちろん、ロトとその羊飼いにせいでもなく、アブラムの羊飼いたちのせいだとしている点である。ここでクリュソストモスはアブラムのみならずロトをも非難から守ろうとしている。アブラムがロトを兄弟と呼ぶのは、彼の慎み深さゆえである。これはⅠコリ6:7-8におけるパウロの慎み深さに通ずるものである。

アウグスティヌスは、別離の後もアブラムとロトは大きな愛で結ばれていたとする。平和的な関係を維持するために働きかけていたのはアブラムのみならずロトもそうだったのである。

著者はここで教父たちの解釈からキリスト教美術に筆を移す。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ・バシリカにある5世紀のモザイク画から、同時代の解釈が反映している部分と、聖書からは引き出せない付加的な独自の解釈を明らかにしている。そもそもモザイク画は礼拝のためにより神聖な舞台を用意し、聖書物語やキリスト教教義を信徒に教えるためのものである。このモザイク画では、アブラムとロトが同年代に描かれている。別離や争いの原因を示唆するものは何もない。古代の語り部たちは、羊飼いの争いやアブラムによる別離の命令から、ロトによるアブラムからの別離の決意への焦点をずらしていたが、このモザイク画でも同様である。同時に、アブラムは賞賛の対象となっている。ロトの行為はキリスト者が倣うべからざるものなのである。

付加的な解釈としては、第一に、アブラムとロトの子どもたちを描きこんでいる。そうすることで創世記19章のソドムの終焉と物語をつなげ、またいかにロトの移動が大規模なものだったかを示している。またアブラムの血筋とロトの血筋が別れていることを視覚的に表してもいる。メシアへと至るキリスト論的な要素はアブラムの血筋のみに伝わっていくのである。第二の付加は、それぞれの最終的な目的地を描いている。ロトにとってはソドムが、アブラムにとってはカナンがそれに当たる。とりわけカナンはキリスト教の教会のように聖なる場所として描かれている。

以上より、初期キリスト教聖書解釈による創世記13章の理解は、第一に、ロトのアブラム同行を問題視する、第二に、アブラムに関する潜在的な問題からロトによる選択へと問題の焦点を移す(アブラムによる土地提供の申し出は彼の気前の良さと、ロトは完全に不敬虔ではないが欲張りと解釈される)、そして第三に、聖書本文はロトについて曖昧な書き方をしているが、否定的な解釈の余地が残っている。要するに、キリスト教の解釈はユダヤ教の解釈ほどに決定的に否定的な解釈ではないといえる。ロトは徳と悪徳を両方持った人物として描かれる。

新約聖書中にはロトへの言及は2箇所見られる。いずれも神によるロトの救出を審判からのキリスト者の救済と見なしている。第一の箇所はルカ17:20-37で、イエスがパリサイ派からの問いに答えて人の子の到来について語る場面でロトにも言及している。イエスによれば、ロトはノア同様、他の者たちと異なり、審判の前に救済されたという。第二の箇所はⅡペトロ2:6-9である。ここでロトは、義人であるがゆえに救済されたこと、悪徳の人々により悩まされていたこと(つまりあちら側ではなくこちら側の人間である)、そして審判より救済されるというキリスト教徒の原型として見なされていることが語られている。いずれの例も、ロトは確かに敬虔な人物であるというメッセージを伝えているといえる。

著者は中世におけるロトの解釈について簡単に紹介している。ロト養子説については、ラシ、リラのニコラス、ペトルス・コメストル、ジャン・カルヴァン、マルティン・ルターらが触れている。ラダクは、ロトを連れていくことについてアブラムが神の命に従わなかったのではなく、ロトが行きたがったのだと述べる。ロトはアブラムの相続者だという解釈は、カルヴァン、ニコラス、ラシが紹介している。概してロトは肯定的に描かれるが、アブラムほどではない。中世の解釈は、ヨセフスや教父、さらにはラビ文学からの影響が顕著である。

この章の目的は、ユダヤ教とキリスト教の解釈者たちの潜在的なつながりを単に辿ることではなく、こうした伝承が早くから解釈史の一部を担ってきたことを強調することである。それゆえに、それらが中世から近代までも続いていることは不思議ではない。

2020年7月25日土曜日

ユダヤ・キリスト教論争における聖書 Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue"

  • A. Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 616-37.

アウグスティヌスは、キリスト教徒にとってのユダヤ人および旧約聖書の役割を論じている。彼によれば、本来であればイエス・キリストに書かれている旧約聖書をユダヤ人は正確に読めてはいないが、それをキリスト教徒にもたらすことがその役割なのだという。つまりキリスト教社会におけるユダヤ人は、キリスト教がユダヤ教を更迭し、取って代わること(supersession)を具体化する存在である。またキリストを拒絶したことの罰として離散の憂き目にあっている。このアウグスティヌスの「証言者論」の核には、ユダヤ人は自分たちの聖典を理解できず、また理解しようともしないという逆説がある。

キリスト教徒がユダヤ教と対決する文学ジャンルとして「対ユダヤ人(Adversus Iudeos)」テクストがある。初期の例としては、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、セビーリャのイシドルスなどがある。12世紀になると「反ユダヤ人論(anti-Jewish polemics)」もまた盛んに論じられた。そこでキリスト教徒とユダヤ人の対話のかたちで描かれる議論は、実際の議論を文字通りに再現しているのではないが、ある程度は現実を反映してもいる(たとえば1240年のパリ討論や1263年のバルセロナ討論、1413-14年のトルトーサ討論など)。

一方で、12世紀の終わりの南フランスやスペインでは、中世のヘブライ語で書かれた「反キリスト教論(anti-Christian disputations)」が登場する。その代表が『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』である。これはドイツで編纂された、当時の反キリスト教的聖書解釈や新約聖書への攻撃などを収録した辞書的集成である。

これらユダヤ・キリスト教論争において常に中心となったのは聖書テクストとその解釈の問題である。聖書を読む解釈原理が論じられ、また根本的な神学問題を論じる際の証明のために聖書が引かれた。たとえば、モーセの律法の妥当性、メシアの到来、選民の真のアイデンティティ、三位一体の教え、受肉、処女懐胎などといった問題が俎上に挙げられた。

ユダヤ人との論争において、キリスト教学者たちはヘブライ語を読む必要はなかった。彼らはヒエロニュムス読めばよかったのである。イザヤ書7:14の「処女」論争において、シャティヨンのウォルター、ギルベルトゥス・クリスピヌス、ペトルス・アルフォンスィ、ブールジュのウィリアムらは、ヘブライ語のアルマーという語の訳について、ヒエロニュムスの解釈に依拠している。ギルベルトゥスはヒエロニュムスに従って、エゼキエル書44:2-3の閉じられた門のイメージ用いてマリアの処女性を論じている。これに対しヨセフ・キムヒは、アルマーの語についてキリスト教徒に謝った情報を与えているとして、ヒエロニュムスを非難している。

ギルベルトゥス・クリスピヌスは、聖書の翻訳の問題も論じている。彼によると、七十人訳はヘブライ語聖書の忠実な訳であり、またラテン語ウルガータはギリシア語およびヘブライ語聖書と言葉についても意味についても一致していると主張し、ウルガータを擁護した。

キリスト預言として知られている聖書箇所についても激しい議論が行われた。イザ53:1-10の「苦難の僕」の解釈については1263年のバルセロナ討論がある。この討論においてユダヤ側の代表者はナフマニデスであり、この箇所はイエスではなくイスラエルの民のことを指しているのだと主張した。創49:10の「シロ」は1413-14年のトルトーサ討論の主題であった。創22:28のアブラハムの祝福についても、ギルベルトゥスや『イサゴーゲー』著者、ドゥーツのルペルトらがメシア的解釈を展開している。

聖書解釈の方法として、ユダヤ人が字義的(literal)解釈をするのに対し、キリスト教徒たちは比喩的(figurative)解釈を得意とした。キリスト教徒に言わせれば、キリスト到来以後では、モーセの律法を字義的に解釈すると矛盾を来たすので、比喩的に解釈するほかないというのである。偽ウィリアムは木の実のたとえを用いて、果肉としての新たな法を味わうためには外側の硬い殻としての古い法を砕かなくてはならないと述べる。これに対しヨセフ・キムヒは、トーラーの解釈は字義的だけに取るのも比喩的だけに取るのも間違っていると反論する。聖書は素朴な人々でも理解できるように、ときに比喩を用いて語るからである。このように、ユダヤ人は字義的解釈だけに限られるわけではなかったが、一方で、比喩的解釈は字義的解釈に取って代わることはないというタルムードの大原則のもとにもあった。

キリスト教徒の中には、ユダヤ人の助けを借りて、ラテン語旧約聖書の本文を直そうとする者もいた。シトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人からヘブライ語聖書およびタルグムの情報をフランス語で仕入れていた。ニコラス・マニアコリアやサン・ヴィクトルのアンドリューも同様の方法を採り、聖書の歴史的意味を知るために、ラシなどのユダヤ教注解を引用している。これは、なるべく正確な字義的・歴史解釈を下敷きにして、比喩的解釈の確固とした基礎を築こうとしたのである。

ボシャムのヘルベルトゥスはヒエロニュムスのヘブライ語詩篇に関する注解をものしたが、ヘブライ語の知識やラシ注解に基づき、ヒエロニュムスの訳文を修正しようとした。ただし、このユダヤ教聖書解釈への依拠は、ヘルベルトゥスがキリスト教的視点を失ったからというわけではない。あくまで字義的解釈を通じて霊的理解を深めるためであった。他にもラルフ・ニゲル、アレクサンデル・ネッカム、ロジャー・ベーコン、リラのニコラら、多くのクリスチャン・ヘブライストがいる。

イザヤ書6:3には「聖なるかな」と3回書かれていることから、三位一体の証明に用いられることがある。これはキリスト教においては聖餐の祈りといった典礼に用いられる箇所である。一方で、ユダヤ教においても同箇所は典礼の重要句である。イェフダ・ハレヴィは、同箇所がユダヤ典礼における最も聖なる箇所のひとつであるケドゥシャーと関係していることを論じている。このように、同じテクストを神を称えるために用いながらも、ユダヤ人とキリスト教徒は異なった視点を持っていた。

2020年7月19日日曜日

ユダヤ教におけるフィロンの受容 Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library"

  • Naomi G. Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library," Tradition 41.3 (2008): 31-48.

フィロンはこれまでキリスト教神学、ギリシア文学、古代哲学といった枠内で読まれてきた。それはフィロン研究がそうした分野の研究者たちによって牽引されてきたからである。しかし、20世紀初頭になると、ユダヤ教にコミットし、ユダヤ教古典に通暁した研究者たち(Isaac Heinemann, Edmund Stein, H.A. Wolfson, Samuel Belkinら)の台頭により、フィロンをよりユダヤ的に理解しようとする試みが行われるようになった。

ただし、いかなる意味でもラビ・ユダヤ教的ではないフィロンが、ユダヤ世界で再び紹介されるのは、アザリヤ・デイ・ロッシの登場を待たなければならなかった。なぜフィロンがユダヤ世界で失われてしまったのかというと、様々な要因はあれど、大きな理由はフィロンが初期キリスト教によって熱狂的に受け入れられたからであろう。

フィロンが使うギリシア語にはユダヤ・ギリシア語的なコノテーションがある。ノモス、ソフィア、エウセベイア、ディカイオシュネなどといった重要な用語には、元来のギリシア語を超えたユダヤ的な意味が含まれている。しかしながら、読者がユダヤ人でなくキリスト教徒になると、そうした意味は失われてしまう。

アザリヤ・デイ・ロッシは16世紀イタリア・ルネサンス時代の博識家で、『メオール・エナイム』という著作がある。この著作の中でデイ・ロッシはフィロンを「イェディディヤ・ハ・アレクサンドロニ(アレクサンドリアの神の友)」と呼びつつ、現在のフィロン研究でも議論されているトピックを初めて提起した。すなわち、フィロンはヘブライ語の知識を持っているか、七十人訳を用いているという指摘、フィロンと口伝律法やユダヤ教セクトについて、その著作が非ユダヤ人向けである可能性、無からの創造という概念理解などである。

『メオール・エナイム』第5章によると、フィロンには4つの欠点があるという。第一に、フィロンはトーラーの原典を見たことがない。第二に、世界の創造時に原初の物質が存在していたと考えている。第三に、聖書の物語の本当の意味を単純に哲学的・知的な考えだと考えている。そして第四に、成文律法と共に口伝律法があると述べていない。他にもデイ・ロッシは、フィロンが聖書の引用や解釈に七十人訳を用いていることなどについてさらに追及しつつも、ときに擁護することもある。

デイ・ロッシのこのようなアンビヴァレントな態度の理由は、彼自身も当時異端の疑いをかけられていたからである。デイ・ロッシはタルムードのアガダーの歴史的価値について態度を保留しており、また創造から現在までの時間の伝統的な数え方も異なっていたので、ユダヤ教を破門はされないまでも、敵対者からも厳しく攻撃されていた。またその著書はイタリア各地で禁書に指定されていた。そこで、フィロンの思想を紹介しつつも、これ以上保守的な勢力から攻撃を受けないように、扱いが慎重だったのである。

しかし、上で見たデイ・ロッシからの4つの批判は、今日ではもはや大きな問題ではないだろう。唯一あるとすれば、それは原初の物質(primordial matter)に関する議論である。この問題は伝統的なユダヤ教徒がフィロンに躓いてしまう大きな理由であるが、元来は対グノーシスの議論の中で出てきたものである。タルムードの賢者たちは、創造時にいくつもの力(multiple creative powers)があったと主張するグノーシスの異端者たちを問題視している(ただし、これに対抗する「無からの創造」説がはっきりするのは後2世紀のキリスト教文学である)。ちなみにフィロンの著作にグノーシス的なところがあるかというと、それはグノーシスをどう定義するかによる。フィロンには二元論的なところや物質に対する否定的価値観などがあることは確かだが、それらはグノーシスの専売特許というわけではないので、フィロンをグノーシス主義者とは呼べない。

フィロンの思想はラビ・ユダヤ教とは確かに異なるところがある。とりわけ法的・ハラハー的議論が少ないことは明白である。しかし、一方でラビ・ユダヤ教を法的関心のみに制限することもまた誤りである。律法学者がユダヤ教において活躍してきたことは確かだが、イェフダ・ハレヴィ、ゲルソニデス、ヨセフ・アルボ、ベシュトらは律法の専門性ゆえに有名なわけではない。それにそもそもフィロンにも法的議論は現れている。

フィロンは、よく言われるように、プロト改革派のユダヤ人ではない。Alan MendelsonやYehoshua Amir(改革派ラビ養成校ヒブル・ユニオン・カレッジ教授David Neumarkの息子)などは、フィロンにフレキシブルでリベラルな精神を見出すが、論文著者はこれに反対する。フィロンは、テフィリンやメズザーの使用やトーラー学習の教え、口伝律法の遵守など、ユダヤ教の実践についてもかなり詳しく言及している。フィロンは自らをギリシア哲学者としてはではなく、敬虔な律法遵守のユダヤ人として示したかったのである。ユダヤ的なプリズムを通してみれば、フィロンの思想は現代の伝統はユダヤ教の精神とそれほどかけ離れてはいない。現在進行中のフィロン著作の現代ヘブライ語訳が、伝統的なユダヤ人読者の手に渡る日も近い。

2020年7月17日金曜日

アブラハムとロトの別れ(4) Rickett, Separating Abram and Lot #4

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 90-122.

より後代のユダヤ教聖書解釈においても、アブラハムに関する諸問題(ロトの帯同、争う羊飼いたち、土地の提供など)は明確に意識されている。その上で、トーラーを遵守する模範であるアブラムと、その好対照としての、トーラーを拒絶するロトという図式が出来上がっている。『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』と比較すると、後代のユダヤ教聖書解釈はロトに対してより否定的になっている。

フィロンは、アブラムの旅路にロトが同行していることに触れ、それをロトが言い出したことであると見なし、もってアブラムは犠牲者であるとした。羊飼いの争いに関しては、その原因はロトとその羊飼いにあるとし、一方でアブラムは争いのない静寂を求めてロトにより良い土地を譲ったのだと説明した。

ヨセフスは巧妙に説明をあいまいにし、話題の焦点を、アブラムによる問題ある申し出からロトによる出発の決断に移している。

各種タルグムはロトの財産について問題視した上で、それがアブラムに由来するものだと結論付ける。論争については、フィロン同様に、ロトとその羊飼いに責任があると論じている。アブラムの家畜は口輪をはめて他人の地所から勝手にものを食べないようにされているが、ロトの家畜はそうされず、どこにでも行ってよいとされていた。このようにアブラムとその羊飼いは肯定的に、ロトとその羊飼いは否定的に描かれている。

ミドラッシュ文学(『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』『バビロニア・タルムード』など)は、ロトがトーラーの拒絶者であることを強調する。その財産もアブラムのおかげで手にしたものであって、自分で得たものではない。羊飼いの争いは、そのままその主人たちの倫理的違いを反映している。つまり、悪なるロトの羊飼いもまた悪であり、善なるアブラムの羊飼いもまた善なのである。それゆえに、神もまたロトがアブラムの後継者には倫理的・関係性的に不適切だと断じている。つまり、ラビたちはアブラムやその羊飼いの問題からロトとその羊飼いの非道徳的な振る舞いに焦点を移しているのである。

ロトが「目を上げる」のは出エジプト記のポティファルが情欲を持ってヨセフに対して「目を上げる」のと同じであるし、「丸いヨルダン平野」を求めたのは箴言の言葉のように「売春婦を買う」のと同じであった。聖書テクストではロトがアブラムから離れようとしているとは書いていないが、ラビたちは、ロトはアブラムから離れようとしたことで、知恵とトーラーを拒絶したのだと解釈している。

『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』は、アブラムがロトに土地を提供しようとした件をなかったことにしているが、ラビたちはそれが必然だったと解釈する。すなわち、神とアブラムとの約束が履行されるためには(創13:14-17)、ロトがいなくなることを待たねばならなかったのである。それゆえに結果的にロトからのアブラムの別離は、倫理的にも宗教的にも必要性のあることだった。

ここまで論じた後、著者はアブラムとロトの別離をルツ記と比較する。こうした比較は上記のような伝統的な解釈に基づいているわけではないが、それ自体は興味深い。著者によれば、両方とも、イスラエル人による別離の要求に対するモアブ人の反応を扱っている。より具体的には、両物語は親戚関係を扱っており(ロトとアブラムは血統上の親戚関係であり、ルツ、オルパ、ナオミは結婚による親戚関係)、またある親族グループの構成員が別のグループからの別離を求めている。

とはいえ異なっている点もある。第一に、オルパやルツが最初はナオミとの同居を求めるのに対し、ロトはそのような素振りはなかった。第二に、ロトは住むための特定の場所を選んだが、オルパは自分たちの土地に戻っていった。第三に、確かにオルパとロトはイスラエル人から離れようという点で共通しているが、ルツはロトとは対照的に、イスラエル人と共にいることを選んだ。ここから、ルツ記におけるオルパはロトと比較可能な存在であり、一方でルツはロトと対照的な存在であることが分かる。ロトがオルパと同様にアブラムや神を受け入れることを拒んだのに対し、ルツはナオミが別離を求めてもそれを拒み、もって神やトーラーに従おうとした。ルツははっきりと、オルパやロトと対照をなしている。

さらにルツ記はイスラエルとモアブの関係性をめぐる問題にも関係している。ロトはイスラエルの先祖であるアブラハムと血統的につながっているが、ルツは上のようにイスラエル人のナオミを求め、その神を求めながらも、モアブ人である。申命記にはモアブ人が神の集まりに入ることは許されないと記されている(23:3)。ラビたちはしかし、神の集まりに入ることが許されないのは男性のモアブ人だけであり、女性はそれには当たらないと説明する。ルツがイスラエル人ボアズと結婚できたのは、このためである。

感想としては、ルツ記との比較は興味深いが、ミドラッシュの処理に問題を感じる。著者はテーマごとにさまざまなミドラッシュ文学を紹介している。たとえば、「アブラハムとの旅におけるロトの存在」というテーマのもとに『創世記ラバー』『バビロニア・タルムード』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』を、また「羊飼いたちの争い」というテーマについて『ペシクタ・ラバティ』『創世記ラバー』を、さらに「後継者としてのロト」というテーマに『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』を、といったように。ミドラッシュ文学は多様なので、あるテーマについてうまく説明している任意の箇所をどれかから引っ張ってくるのは簡単である。しかし、そうした紹介の仕方は恣意的になりかねない。そのようにテーマ毎にさまざまな文書から解釈を紹介するよりも、むしろ作品ごとに解釈を紹介し、各文書にそのテーマがあるかないかを示した方が恣意性を低めることができるのではないか。