- John J. Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 283-99.
The Early Enoch Literature (SUPPLEMENTS TO THE JOURNAL FOR THE STUDY OF JUDAISM)
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Brill Academic Pub
『エノク書』の最古の写本は死海文書中からいくつか発見されている。それどころか初期のエノク的文書はクムランの党派的文書と類似性を持っている。超自然的な力への興味や選ばれたグループの歴史神学については、「週の黙示録」(『エノク書』93:1-10, 91:11-17)や『動物の黙示録』(『エノク書』85-90)に見られるが、これらは『ダマスコ文書』の冒頭と比較できよう。ここから、そしてクムランの党派的文書の著者たちはエノク的文書に親しみ、影響を受けていたと見なされている。Gabriele Boccacciniによれば、エノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流のことであり、クムラン共同体はそこから出た過激派だという。論文著者はこの見解に反対している。
死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。
死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。
Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。
Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。
Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。
Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。
死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。
死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。
Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。
Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。
Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。
Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。
論文著者の見解では、『共同体の規則』はクムラン共同体だけの規則ではなく、エッセネ派全体のためのものである。ヤハドは単一の共同体ではなくさまざまな共同体に住む人々の連合である。「完全な聖性の人々」の住むクムランはヤハドのうちでもエリートの住むところであった。クムランでは他の定住地と同じ律法と規則が遵守されていたが、より高次の完全さが求められたのである。『共同体の規則』がクムランの規則で、『ダマスコ文書』が非クムランのエッセネ派の規則、といったような区別はなく、どちらも諸共同体のネットワークを前提としていた。ここから、クムランと前クムランや、クムランと非クムランを区別することはあまり意味がないことが分かる。1QS 8にある一節を除いてクムランのみを前提とするような記述はない。
論文著者は、共同体生活の規則を含まない『ヨベル書』のようなエノク派文学に「エッセネ派」というラベルを用いるのは適当ではないと主張する。というのも、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』のような規則文書をエッセネ派に結びつける基礎として、ひとつの場所に限られないという特徴がある。エッセネ派運動はひとつ以上の生活スタイルを許容するのである。
エノク派文学も死海文書(『ダマスコ文書』)も、マカベア戦争前夜にある特定のグループができたことを描いている。エノク派文学に見られる黙示的世界観、天使と悪魔の戦い、裁き、性的な関係の存在しない天使的世界ゆえの結婚の否定などといった諸特徴は、死海文書にも見られる。Boccacciniによると、クムランとより大きなエッセネ派運動との違いは、天使や人間の自由意志の否定であるというが、論文著者はそうした黙示的な世界観はダニエル書にも共通することから、両者の違いの決定的なポイントではないと考える。それよりも重大な違いは、カレンダーと律法の問題である。
エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。
エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。
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エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。
エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。
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