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2020年2月7日金曜日

歴史記述的分析と系統的分析 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis, Chs 2-3

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 21-79.

第2章:歴史記述的分析(hisotriographical analysis)

ユダヤ人作家であるフィロンおよびヨセフスが語るのは、パレスチナ地方におけるエッセネ派共同体のネットワークであり、非ユダヤ人作家であるプリニウスおよびディオン・クリュソストモスが語るのは、死海近くの単一のエッセネ派共同体である。これらは、エッセネ派運動の歴史における二つの異なる段階というわけではなく、同時代の別の共同体である。つまり、エッセネ派とはパレスチナにおける諸共同体の幅広い運動であり、その複雑さはユダヤ人作家には知られていた。一方で、死海近くに住む特定のエッセネ派共同体は、プリニウスやディオンのような非ユダヤ人作家の興味を引いたのだった。

ユダヤ人作家と非ユダヤ人作家の描写を比較すると、いくつかの興味深い要素が浮かび上がる。第一に、ユダヤ人作家は死海近くの特定の共同体について触れず、非ユダヤ人作家はパレスチナ全体のネットワークについて触れていないが、両者は共にエッセネ派という名前を使っている。第二に、非ユダヤ人作家によって記録された死海の共同体に関する要素のすべてには、ユダヤ人作家によって記録されたパレスチナの諸共同体にも並行する記述が見られる(逆はそうではない)。第三に、死海近くの共同体は、パレスチナの諸共同体よりも過激化しており、他者からの孤立化、特殊化を示している。そして第四に、非ユダヤ人作家は外部の視点からなるべくセンセーショナルな事柄を求めて死海近くの共同体のことを記述しているのに対し、ユダヤ人作家はユダヤ思想を最もよく体現するものを描くという目的に合致するものとしてパレスチナの諸共同体のことを説明している。

短く言えば、歴史記述的分析により分かることは、プリニウスやディオンによって描かれた死海の共同体とは、フィロンやヨセフスによって描かれたより広いエッセネ派運動の内部にいる、過激で少数派のグループである。


第3章:党派以前の歴史の系統的分析(systemic analysis)

クムランの図書館は、世俗的・非ユダヤ的文書がない(のでヘレニズム的な知の集成ではない)こと、また同じ文書が複数所蔵されている(ので個人の所有ではない)ことから、クムランに住む単一のグループに属するユダヤ教宗教文書のコレクションと言える。ただし、単一のグループの持ち物であるからといって、単一の神学を示すとは限らない。それは書物の持ち主であること(ownership)と著者であること(authorship)を混同している。クムラン共同体は書物の持ち主であって、必ずしも著者ではないので、複数の神学を反映していても不思議ではない。

これを分類するのに、(1)聖書文書、(2)外典・偽典、(3)これまで知られていなかったテクスト、という区分を用いるのはアナクロニズムである。『エノク書』と『神殿の巻物』は現代では、その存在が前から知られていたかどうかという基準の下に、前者が第二の区分に、後者が第三の区分に分類されるが、これはクムランの住民にとってまるで意味を成さない。より中立的な区分は以下のように言える:

(1)同種のテクストのグループで、独自のアイデンティティをもった単一の共同体の産物であり、ownershipとauthorshipが重なるテクスト
(2)党派性はわずかで、時系列的にも思想的にも「死海文書の共同体」の形成期に属し、ownershipが必ずしもauthorshipと重ならないテクスト
(3)党派性がなく、聖書に代表されるテクストで、ownershipがauthorshipと重ならないテクスト

これらのテクストを系統的に分析すると、通時的に見て、より古いテクストはより党派性が薄いことが分かる。時を経るにしたがって、共同体は注意深く所有するテクストを選定し、自分たちの考えを代表するものを意図的に残したのだった。つまり、死海文書は党派的グループの組織立った図書館の残りなのである。

死海文書とその他の第二神殿時代の文学を分けるのは、宇宙論的二元論、個人の予定論、不浄と悪の同一視に基づく独特の悪理解である。宇宙的二元論(cosmic dualism)はこの世を、「光の王子」率いる善玉と「闇の天使」率いる悪玉に二分する。ただし、クムランの二元論では、神ははっきりと善玉の味方であり、悪玉は神から離れた自主性はないので、二元論は最終的に善が悪を倒すことになる。死海文書は、宇宙はすべて神の制御下にあると考えている。

予定論(predeterminism)は神の全能性を強調し、人間の自主性を否定的に捉える。ただし、個人の運命は、個人の中にある悪に対し、善がどのくらいの割合があるか(善6:悪3、善1:悪8、善8:悪1など)で決まる(4Q561)。人間に自由がないことは、共同体のメンバーにとっては、神との絆が強まることとして喜ばれた。

不浄と悪の同一視。祭儀的な「不浄」が道徳上の「悪」と同一視される。つまり、罪ある人間は存在論的に不浄であり、不浄さは人間を罪ある状態にする。すべての人間はその本性から不浄であり、それゆえに、彼らはその本性から悪なのである。神の選びによって義とされない限りは。悪と不浄の同一視は、一方で、贖罪と浄化の同一視にもつながる。こうした清浄な状態は、共同体が他の人間たちから孤立することによって保たれる。その外部では神の義が不可能になるからである。

クムランから出たマカベア戦争前の文書を、時代錯誤的でなく分類するためには、「ツァドク派的」「エノク派的」という用語を使う必要がある。「ツァドク派的文学(Zadokite literature)」は、エステル記やダニエル書以外のほとんどの聖書文書や、外典文学などを含む。聖書文書はさまざまな時代に作成されたが、それらはペルシア時代や初期ヘレニズム時代にエルサレム神殿の権威(=ツァドクの家の大祭司)によって集められ編纂された。クムランのツァドク派文学には、『シラ書』15:14bを除いて、党派的な編集などはなされておらず、権威あるものとして引用されたり暗示されたしている。

「エノク派文学(Enochic literature)」である『エノク書』は、クムランでアラム語断片が発見されるまでは、マカベア戦争後の文学と考えられていたが、最初期の部分である「寝ずの番人の書」(6-36章)と「天文の書」(73-82章)はマカベア戦争以前にさかのぼることが明らかになった。エノク派文学の重要性は、ツァドクの時代にあっても園権威に従わない祭司の伝統があったと知らせてくれる点である。

ツァドクの祭司たちは、自分たちが神の領域であるエルサレムの神殿を不浄な世界から清浄に保つことで、善なる神の秩序を守っていると考えていた。これに対し、エノク派文学は、反抗的な天使たちが悪や不浄の伝播の原因であり、彼らが人類に秘密の知識を明らかにするという違反を犯したために、神の創造が汚されたと考えた。この罪は大洪水の後にも消えず、悪霊としてこの世をさまよっている。そして悪の伝播は天使に起因するものなので、人間の手には負えない。つまり、ツァドクの祭司たちが持っている清浄化の力などは幻想であり、悪や不浄には人間の力は及ばないのである。またツァドクの祭司がアロンを祖とし、またモーセに権威を見ることに対し、エノク派文学はより古いエノクに権威を帰している。

ではツァドク派とエノク派の分裂はいつのことだったか。それはエノク派文学が文書として成立するより前に違いない。Ben Zion Wacholderは、エゼキエルこそが反ツァドクの最初であるとする。「寝ずの番人の書」はエゼキエル書にきわめて似た内容を持っている。ただし、エゼキエルの影響は、エノク派ユダヤ教だけでなく、ツァドク派ユダヤ教にも同程度見られる。ツァドク派が神の秩序が第二神殿の完成によって回復されたと考えるのに対し、エノク派は回復はいまだなされていないと考える。「寝ずの番人の書」の分析により、Paolo Sacchiは両派の分裂は前4世紀のこと、Michael E. StoneおよびDaivd W. Suterは前3世紀のことだったと主張している。いずれにせよ、エノク派ユダヤ教は反ツァドク派的な祭司のサークルから生じたといえる。エノク派は、サマリア人と異なり、分離派のグループではなく、神殿エリート内部の反対派だったのである。

2019年10月11日金曜日

エノク=エッセネ派仮説の提唱 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis #1

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 1-17.

クムラン共同体の思想的同定の議論は、依然として「エッセネ派仮説」が有力と見なされている。さまざまな修正案も出されているが、学術的なコンセンサスは得られていない。こうした議論は無駄ではなく、研究者たちがクムラン考古学を虚心坦懐に再考するのに役立っている。

クムラン共同体の起源と思想的なルーツに関して、Ben Zion WacholderやShemaryahu Talmonは反ツァドク派サークルであるとする。一方で、Lawrence H. Schiffmanは、派閥の分裂によって、もともと規範的なツァドク派的だった伝統が党派的な現象に変化したのだと考えた。

いずれにせよ、エッセネ派仮説は、第二神殿時代のユダヤ思想の複数的な発展に照らして、ラディカルな方向転換が図らなければならない。エッセネ派仮説の典型的な欠点は、クムランとエッセネ派を同一視してしまうことである。研究者たちはしばしばエッセネ派的姿勢を描くためにクムランのテクストを使用することがある。しかしクムランは、より大きく複雑なエッセネ派運動の一部に過ぎない。

さらに死海文書研究はコーパスを区切ることでタコツボ化していることも憂慮される。ちょうど新約学者がそうであるように、死海文書のスペシャリストも他の第二神殿時代の文学の研究者から切り離されてしまっている。いわば自己満足の幻想(an illusion of self-sufficiency)に陥っているのである。現代の死海文書研究の問題は方法論の弱さである。

そこで本書の著者は「体系的分析(systemic analysis)」をユダヤ文献に適用する。そうすることで、あるグループの思想的構造を基盤としてその文書を比較することができる。また思想的・時系列的につながった文書の鎖を形成することで、体系的分析は自立的にユダヤ教を特定し描写することができる。ここで重要なのは、体系的分析と「歴史記述的分析(historiographical analysis)」を区別することである。両者は必ずしも同じ分析結果をもたらさないからである。

歴史記述的分析はあるグループに関する後代の記録の歴史的信頼性を判定するもので、体系的分析はあるグループの思想的遺物を研究、分類、区分するものである。具体的に言えば、歴史記述的分析はヨセフスの記述に基づいて、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などについて分析し、体系的分析は死海文書に基づいてクムラン共同体について分析することである。つまり、歴史記述的分析は、名前が知られているが資料を残していないユダヤ教を特定し、体系的分析は資料を残しているが名前が知られていないユダヤ教を特定するための方法である。古代の歴史記述が述べていることとと、現存する文書が我々に言わせることとは食い違うことがあるが、それが一致するとき、特定のユダヤ教の包括的な議論が可能になる。

このような方法論を用いて、著者は、古代の歴史家が「エッセネ派」と呼ぶものはクムラン共同体のみならず、現代の歴史家が現存する資料に基づいて「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶものをも含むと主張する。そしてこれを「エノク=エッセネ派仮説(Enochic/Essene hypothesis)」と呼ぶ。著者によれば、『エノク書』は第二神殿時代のさまざまな多様性の核にあるという。こうした見解はPaolo Sacchiらの研究によって牽引されてきた。『エノク書』に見られる特異な悪の概念が、第二神殿時代に特定の派閥を作る力となっていた。重要なことは、我々は『エノク書』からこの派閥の存在を知ることができるが、それが古代においてどのように呼ばれていたかは知らないということである。そこで「エノク派ユダヤ教」と暫定的に呼ぶわけである。

エノク派ユダヤ教を扱う際の方法論的注意点は次である。第一に、『エノク書』はエノク派ユダヤ教の主要なソースだが、この派はエノクが出てこない文書も作成したし(『ヨベル書』、『十二族長の遺訓』、『第四エズラ記』など)、エノクが出てきてもこの派の文書ではないものもある(『シラ書』、フィロン、ヨセフスなど)。

第二に、『エノク書』は黙示文学だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示文学の歴史とは必ずしも一致しない。ユダヤ教黙示文学には、ダニエル書、ヨハネ黙示録、『第二バルク書』なども含まれるが、これはエノク派ユダヤ教の文書ではない。

第三に、『エノク書』は黙示思想の重要な証言だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示思想の歴史とは必ずしも一致しない。John J. Collinsは世界観としての黙示思想(apocalypticism)と文学形式としての黙示文学(apocalypse)の区別を提案している。黙示思想は黙示文学の世界観として規定できるが、黙示的世界観は黙示文学以外でも表現できるのである。Sacchiはさらに、世界観としての黙示思想(apocalypticism)と思想的派閥としての黙示派(apocalyptic)の区別も提案している。ある二つの文書が同じ黙示思想を共有していても、両者が同じ派閥であるとは限らないのである。

Collinsの考え方だと、『エノク書』とそれに反対するダニエル書やヨハネ黙示録は共にユダヤ教黙示思想の歴史に含まれる。両者は思想的違いにもかかわらず、同じ黙示的世界観を共有していたからである。Sacchiの考え方だと、特定のユダヤ教黙示派(たとえばエノク派ユダヤ教)の歴史にダニエル書やヨハネ黙示録は含まれない。

著者はエノク派ユダヤ教とクムラン共同体の関係性について明確な見解を持っている。彼によれば、エノク派ユダヤ教とは、エッセネ派の主流派の現代的な名前であり、そこからクムラン共同体が過激で反抗的で周辺的な子孫として別れたのだという。しかし、エノク派ユダヤ教はその後クムランのエッセネ派の考え方を拒絶し、むしろ洗礼者ヨハネやイエスの派閥の誕生に貢献したのだった。

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2019年10月3日木曜日

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン・エッセネ派 Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites"

  • Gabriele Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites: Three Social Groups, One Intellectual Movement," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 301-27.

論文著者は「エノク派=エッセネ派仮説」を唱えた論者である。これはクムラン共同体のエノク的ルーツという問題と、クムラン派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の分岐点という問題を再考する機縁となった。

第二神殿時代のユダヤ教の精神史を描写するために2つのアプローチがある。第一に、異なった文書からデータを統合し、ひとつの折衷的な主題(=第二神殿時代のユダヤ教神学)を作り上げるという「公分母型アプローチ」である。実際にそのような単一の主題は存在せず、統一性を乱すような個々の特性も無視することになる。第二に、多様な主題(=第二神殿時代のユダヤ教諸神学)を代表するものとして個々の文書を孤立的に扱う「多様性強調型アプローチ」である。この場合、我々が面しているのは単一の主題の異なった段階ではなく、別の主題ということになる。

後者のように多様性に注目する場合、知的運動(intellectual movements)と社会的グループ(social groups)とを方法論的に区別しなければならない。知的レベルと社会的レベルは同じではない。そこで論文著者が主張しているのは、死海文書の背後には少なくとも、エノク派、エッセネ派、クムラン(・エッセネ)派という3つの社会的グループが存在しているが、それらは1つの知的運動であるということである。

3つの社会的グループは確かにイニシエーション儀式、メンバーシップ規則、礼拝や儀礼、生活様式などを異にしている。J. Murphy-O'ConnorやPhilip Davies, Florentino Garcia Martinez, Adam van der Woudeらによれば、クムラン派とはエッセネ派のうちの過激なグループであるという。また近年ではDavid R. JacksonやGeorge Nickelsburgらが第二神殿時代のユダヤ教にエノク派ユダヤ教と呼ぶべき特定の党派性を持ったグループが存在していたことを明らかにしている。一方で、これらの3グループには思想的に多くのパラレルも認められる。つまり同じ知的運動なのである。

(1)クムランにおける党派的テクストはエノク派とツァドク派の思想の影響を受けている。一般的には、クムラン派が自らを「ツァドクの子」と称しており、モーセ律法を重視していることから、ツァドク派からの影響が指摘されてきた。しかし、もしクムラン派がツァドク派運動だというなら、なぜ彼らは非ツァドク派的、さらには反ツァドク派的な文学も保存しているのだろうか。Lawrence SchiffmanやDaniel Schwartzらは、クムランにおけるエノク派テクストの存在をユダヤ教グループに共通する特徴だと説明するが、論文著者によればこうした説明はエノク派文学の非協調的で革命的な特徴を見落としている。

エノク派の特徴は、「堕天使」を地上における悪と不浄の蔓延の原因とする、悪の起源に関するユニークな考え方である。エノク派によれば、人間は加害者ではなく被害者なのである。また慈愛あふれる神に悪の起源を帰することもない。エノク派の思考システムでは、悪の起源について被害者としての人間と責任ある人間という2つの矛盾する考え方を採用している。言い換えれば、決定論と非決定論である。どちらか一つだけではエノク派のシステムは崩壊する。

論文著者によれば、クムランの予定論的な神学はツァドク派の契約思想ではなく、このエノク派の決定論からの影響であるという。エノク派における決定論(悪の起源は堕天使のせいであって人間のせいではない)と非決定論(人間の自由意志を認める)の緊張関係を、クムラン派は、個々の人間の運命を予め決定しているのは神であるという「個人的な予定論(individual predestination)」として解消している。こうした主張は、Paolo SacchiやEyal Regev、さらにはJohn J. Collinsのような慎重な研究者すら受け入れている。

(2)Collinsは、しかし、クムラン派とエノク派が同じグループとは言えないと主張する。なぜなら、第一に、クムランの党派的テクストが中心的な価値をモーセのトーラーに置いているのに対し、エノク派文学はモーセ伝承を無視したからである。第二に、クムラン派が党派的グループであるのに対し、エノク派は改革運動だからである。論文著者によれば、これほど異なるクムラン派とエノク派を仲介したのが、両者の特徴を併せ持つ『ヨベル書』であったという。『ヨベル書』を書いたのは、フィロンやヨセフスが描くところの都市型エッセネ派と考えられる。

(3)ではクムラン派とエノク派のユダヤ教はどのように分離したのか。クムランでは「たとえの書」がまるで見つかっておらず、おそらくは「エノク書簡」もほとんどなかったと考えられる。これら後期のエノク派文学はクムランが持つ「個人の予定論」と相容れなかったからであろう。「たとえの書」が天の裁きに際して人間の自由と選択を強調するのに対し、クムランでは善悪は神の変わることのない決定に由来していると考える。それゆえにクムランは、『ダマスコ文書』での引用を最後に、エノク派文学への興味を失った。

エノク派運動は、クムランとの接点は失ったが、より大きなエッセネ派運動(都市型エッセネ派を含む)とは密接な関係を保ち続けた。それは次の4点に注目すると分かる。第一に、エノク派ユダヤ教と都市型エッセネ派の類似。第二に、非クムラン的・非エノク的でありながら、エノク派運動にもエッセネ派運動にも共通する特徴を持つ文学があること(『十二族長の遺訓』)。第三に、イエス運動はクムランについて直接的な知識を持たなかったにもかかわらず、エノク派ユダヤ教と非クムラン的エッセネ派の特徴を持っていること。そして第四に、クムラン派は自らを指導的なエリートと考えていたが、決してエッセネ派運動の中心だったわけではないこと、である。エノク派とエッセネ派は2つの異なった社会グループだが、社会的・思想的なつながりがあったのである。

(4)ただし、以上のようなエノク派とエッセネ派との関係について、古代の歴史的なソースが証言しているわけではない。ただ組織的な分析によって、エノク派、エッセネ派、そしてクムラン(・エッセネ)派が異なった社会的グループでありながら同じ知的運動に属することが分かる。さらに言えば、エノク派はクムラン派よりも、主流なエッセネ派に近い立場を取った。

こうしたクムラン派の特殊さゆえに、Sacchiは「エッセネ派」という名称を都市型エッセネ派のみに限定することを提案しているほどである。一方でCollinsは「エッセネ派」をヤハドおよびそれとネットワークを持つ都市型エッセネ派に用い、エノク派を含めた全体を「黙示主義」と呼ぶことを提案しているが、これは大きすぎる名称であろう。Jacksonは逆にエノク派やクムラン派を含む運動全体を「エノク派ユダヤ教」と呼ぶことを提案した。

これらに対して論文著者は、運動全体を「エッセネ派的」と呼ぶことは依然として有効であるが、エッセネ派主義はひとつの社会的グループではなくより大きく多様な知的運動と見なすべきだと主張する。つまり多様な社会的グループをカバーする傘として機能する用語なのである。それゆえに、エノク派はエッセネ派的であると定義できるが、彼らがエッセネ派そのものであるとは言えない。エノク派は都市型エッセネ派の親であり、クムラン派の祖父母である。

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン派はみな同じ知的運動に属している。社会的グループとしてはエノク派はクムラン派よりも都市型エッセネ派に近い。クムラン派は根本的にエノク派神学からかけ離れているため、都市型エッセネ派からのクムラン派の分離が考えられる。いずれにせよ、エノク派はエッセネ派とクムラン派の起源において欠くことのできない役割を演じた。

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2019年9月28日土曜日

エノク派とクムラン教団 Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls"

  • John J. Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 283-99.

『エノク書』の最古の写本は死海文書中からいくつか発見されている。それどころか初期のエノク的文書はクムランの党派的文書と類似性を持っている。超自然的な力への興味や選ばれたグループの歴史神学については、「週の黙示録」(『エノク書』93:1-10, 91:11-17)や『動物の黙示録』(『エノク書』85-90)に見られるが、これらは『ダマスコ文書』の冒頭と比較できよう。ここから、そしてクムランの党派的文書の著者たちはエノク的文書に親しみ、影響を受けていたと見なされている。Gabriele Boccacciniによれば、エノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流のことであり、クムラン共同体はそこから出た過激派だという。論文著者はこの見解に反対している。

死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。

死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。

Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。

Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。

Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。

Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。

論文著者の見解では、『共同体の規則』はクムラン共同体だけの規則ではなく、エッセネ派全体のためのものである。ヤハドは単一の共同体ではなくさまざまな共同体に住む人々の連合である。「完全な聖性の人々」の住むクムランはヤハドのうちでもエリートの住むところであった。クムランでは他の定住地と同じ律法と規則が遵守されていたが、より高次の完全さが求められたのである。『共同体の規則』がクムランの規則で、『ダマスコ文書』が非クムランのエッセネ派の規則、といったような区別はなく、どちらも諸共同体のネットワークを前提としていた。ここから、クムランと前クムランや、クムランと非クムランを区別することはあまり意味がないことが分かる。1QS 8にある一節を除いてクムランのみを前提とするような記述はない。

論文著者は、共同体生活の規則を含まない『ヨベル書』のようなエノク派文学に「エッセネ派」というラベルを用いるのは適当ではないと主張する。というのも、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』のような規則文書をエッセネ派に結びつける基礎として、ひとつの場所に限られないという特徴がある。エッセネ派運動はひとつ以上の生活スタイルを許容するのである。

エノク派文学も死海文書(『ダマスコ文書』)も、マカベア戦争前夜にある特定のグループができたことを描いている。エノク派文学に見られる黙示的世界観、天使と悪魔の戦い、裁き、性的な関係の存在しない天使的世界ゆえの結婚の否定などといった諸特徴は、死海文書にも見られる。Boccacciniによると、クムランとより大きなエッセネ派運動との違いは、天使や人間の自由意志の否定であるというが、論文著者はそうした黙示的な世界観はダニエル書にも共通することから、両者の違いの決定的なポイントではないと考える。それよりも重大な違いは、カレンダーと律法の問題である。

エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。

エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。

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2017年8月21日月曜日

死海文書入門 Vermes, "Introduction"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 1-25.
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死海文書が発見されてすぐに、次の三つの点が一般的な合意となった。第一に、E.L. Sukenikが述べたように、クムラン共同体はエッセネ派だったこと。第二に、死海文書のほとんどは前2世紀から後1世紀に成立したこと。そして第三に、「義の教師」の敵としての「悪の祭司」はマカベア朝のヨナタンあるいはシモンであること、である。

死海文書の最初の主エディターであるR. De Vouxは、7人の若手から成る校訂版作成チームを作ったが、彼らが若すぎたことと、De Vouxの家父長的な権威主義ゆえに、期待ほどの成果を上げることができなかった。

第二の主エディターであるP. Benoitの時代の成果は貧しく、これを著者は「20世紀最大の学問的スキャンダル」と呼んでいる。組織の欠落や多忙のみならず、テクストをチームで独占する学問的帝国主義がこうした事態を招いたと言える。ハーバード大学のF.M. CrossとJ. Strugnellが写本を大学院生に割り当てて、その校訂を博士論文にさせたことも、作業の遅延を引き起こした。

第三の主エディターであるJ. Strugnellは33年間かけて一冊も出版することができなかった。また著者を含む周囲の者たちの序言を聞き入れようともしなかった。彼は結局、反ユダヤ主義的発言ゆえにエディター職を解雇された。

第四のエディターであるイマニュエル・トーヴは、チーム内のみでのテクストの独占という悪癖を抜け出せなかったが、Ben Zion WacholderとMartin Abeggによるコンピューターを用いたテクスト復元、そしてWilliam A. Moffettによる写真アーカイブの公開など、テクストの自由化を求める機運が高まった。以降は、こうした非公式での写本利用と同時に、公式の校訂版の出版が進められた。

死海文書のテクストは、エステル記以外の聖書文書、アポクリファ(アラム語およびヘブライ語のトビト記、ヘブライ語のシラ書など)、偽典(ヘブライ語ヨベル書、アラム語エノク書など)、セクト的文書(『ダマスコ文書』意外まったく新たに発見されたものばかり)などがある。

死海文書の年代の特定には、古文書学と放射性炭素測定とがある。両者共に、死海文書は一般に、前2世紀から後70年の間に成立したものだと見なしている。

洞窟で見つかった写本は、その近くにあった共同体の遺跡と関係していると一般に考えられている。またこの共同体はエッセネ派と同一視されている。このクムラン=エッセネ派説に反対する者たちは、古典テクスト(フィロン、ヨセフス、プリニウスら)の証言とクムランの実態とが微妙に食い違っている点を指摘するが、著者はやはりエッセネ派説が最も正しいと考えている。

死海文書の重要性としては、ヘブライ語およびアラム語で書かれた現存するユダヤ文献として最古のものだという点が挙げられる。アポクリファや偽典に関しては、これまでギリシア語訳のみで知られてきた文書のヘブライ語やアラム語テクストを保存している点が重要である。セクト的文書に関しては、『ダマスコ文書』以外すべての文書が新しく知られることになったものである点が重要である。

クムランでは冊子型の書物ではなく、いつも巻物型の書物が読まれていた。一点一画もゆるがせにしないマソラー本文の伝統と異なり、クムランにおける文書には流動性が見られる。文書の中では、五書、預言書、そして諸書の中で詩篇が多く引用されている。

新約学者たちはしばしば死海文書に出てくる義の教師や悪の祭司を新約聖書の登場人物と同一視した。しかしながら、著者に言わせれば、こうした議論はどれも信頼性が低いという。ただし、新約聖書と死海文書とを比較して、少なくとも次のことが言える:第一に、言語上の根本的な類似、第二に、イデオロギーの類似、第三に、ヘブライ語聖書への姿勢の類似、第四に、修道制や宗教的な晩餐、そして第五に、カリスマ的・終末論的側面などである。

2017年2月27日月曜日

『共同体の規則』について Metso, The Serekh Texts

  • Sarianna Metso, The Serekh Texts (Library of Second Temple Studies 62; Companion to the Qumran Scrolls 9; New York: T&T Clark, 2007).
The Serekh Texts (Companion to the Qumran Scrolls (T&t Clark))The Serekh Texts (Companion to the Qumran Scrolls (T&t Clark))
Sarianna Metso

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本書は『共同体の規則(セレク・ハヤハド)』のテクストの原典と翻訳に加えて、最新の研究成果を反映した概説書である。著者はまず『共同体の規則』の重要性として、実践や教えに関するその内容から、同書を持っていた集団がヨセフスが記しているエッセネ派であったと考えられることを指摘している。特に『共同体の規則』の最も保存状態のいい写本である1QSは、クムラン=エッセネ派説を維持する最良の証言だと言える。

『共同体の規則』にはさまざまなテクストが組み込まれている。たとえば、宇宙を善悪二元論で理解する「二つの霊の論文」(1QS 3.13-IV.26)、入信の取り決めなどを含む「共同生活の規則」(1QS 5.1-6.23)、そして聖書の引用(イザ40:3)を含む、エルサレム神殿の代わりとしてのクムラン共同体の立ち位置を言明する「初期規則のマニフェスト」(1QS 8.1-9.26a)などである。

『共同体の規則』の写本としては、1QSの他に、4QSa-j、5Q11、11Q29などがある。これらの写本を検証した結果、『共同体の規則』には長い版(1QS)と短い版(4QSb、4QSd)とが存在していることが分かった。二つの版が存在する理由としては、複数の文学的伝承があったから(G. Vermes)、あるいはツァドク派によって長い版が編纂され短い版ができたから(C. Hempel)、などと説明される。いずれにせよ、多くの研究者は長い版である1QSの方が古いテクストだと考えてきた(P.S. Alexander)。

これに対し、著者はむしろ第四洞窟で発見された短い版の方が古く、初期の形を保存しており、1QSはその短い版が後代に編集された結果出来上がったものだと主張した。その理由は、第一に、1QSにある聖書引用が第四洞窟の写本にはないこと、そして第二に、1QSにはあるが第四洞窟の写本にはないさまざまな編集要素があることである。『共同体の規則』のさまざまな版が存在するということは、クムランの共同体が新しい拡張版(1QS)を持っているときでも、古い版(4QSb、4QSd)を繰り返し筆写していたことを示している。

著者は『共同体の規則』に書かれていることがエッセネ派的であることは認めつつも、細部においてヨセフス『ユダヤ戦記』(2.137-139)のそれとは異なっていることを指摘している。

『共同体の規則』には聖書との関連性を伺わせる箇所がたくさんあるが、明確な聖書引用は、1QS 5.15(出23:7)、1QS 5.17(イザ2:22)、そして1QS 8.14(イザ40:3)の三か所のみである。第四洞窟の写本に聖書引用がなく、1QSに集中していることから、著者は1QSは後代の編集版であり、聖書引用を付け加えることで共同体の自己理解を強めようとしたのだと考えている。また荒野の預言者に関するイザ40:3の引用から、新約聖書との比較もなされている。

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2017年2月26日日曜日

クムランの考古学 Magness, The Archaeology of Qumran

  • Jodi Magness, The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2002).
The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Studies in the Dead Sea Scrolls & Related Literature)The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Studies in the Dead Sea Scrolls & Related Literature)
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本書は、テクスト上の証拠だけではなく考古学をも用いて、セクト的な居住区の正確な姿を描こうとしたものである。クムランの考古学というと、Roland de Vauxによるプレリミナリーな研究が知られているが、著者は、クムラン遺跡が死海写本の著者たちの居住区であったとするDe Vaux説を基本的には受け入れつつ、特に時系列に関して修正を施している。著者はさらに、クムランの居住者たちはエッセネ派であったという通説を受け入れている。

写本と遺跡とを同じ共同体の産物だと考えることができるのは、著者によれば、ボウル型の蓋のついた円筒形の壺や卵型広口の壺などが、洞窟からも遺跡からも見つかっているからだという。死海写本における法的議論に基づいて考えると、壺がこうした形をしている理由は、安息日や浄不浄の規則を守るためだと考えられるのである。ただし、著者のように、文書に関する知識から遺跡を解釈することは、その前提知識ゆえに視点を曇らせてしまう。つまり、文書から得た知識に合わせるかたちで遺跡を解釈する可能性があるのである。

実際に、写本が出土した洞窟とクムランの遺跡とを必ずしも同一の集団によるものだと見なしてはいけないと考える研究者たちも多くいる。Jürgen Zangenbergは、クムランから出土する壺など陶器の特徴は、クムランに限ったものではなく、地域的なものだとした上で、そうした状況証拠は、クムランにセクト的集団が住んでいたことを意味しないと批判している。

時系列に関して、著者はDe Vauxのそれに再構成を修正している。De Vauxによれば、クムランには第二神殿時代の後期の前135年頃から、共同生活を営むエッセネ派のユダヤ人(ほとんど男性)が住み着き、特殊な聖書解釈に従った律法学習を行ない、また厳格な浄不浄意識を持っていた(1A期)。前100年になると居住区は拡張され、人口も増えたが、前31年の地震で壊滅した(1B期)。しばらく遺跡は放置されていたが、同じグループによって前4年に再建された。この新生クムラン共同体は、しかし後68年にローマによって滅ぼされた(2期)。この後わずかな期間、遺跡はローマによって支配されていたが、ついには打ち捨てられてしまった(3期)。

これに対し、著者はDe Vauxの言う1A期は存在せず、エッセネ派の定住は上の1B期に当たる前100年から始まったと主張した。さらに地震による前31年の中断もなく、共同体は前8/9年の大火まで存続した。著者によれば、このあとしばらく遺跡は放置されたが、De Vauxの言う第2期同様に、前4年から再建され、後68年に滅びたという。

著者は他にも、考古学的観点から興味深い指摘をしている。まず、遺跡の施設の配置から、西側には正常なものが、そして東側には不浄なものが集められている。また墓地のデータから、クムランには確かに女性は存在したが、人口のうちのかなり少数だったと言える。さらに、クムランの住人が来ていた白い亜麻布の服は、エルサレムの神殿の祭司たちの服でもあったという。

クムラン考古学は現在進行中の知的営為であり、古い観点から新しい観点への移行期にある。その点で、著者のDe Vaux説への固執はやや時代遅れとも言えるが、それでも本書はクムラン考古学の各論点を網羅的に教えてくれるものである。

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2017年2月23日木曜日

フランク・ムーア・クロスの貢献 Crawford, "Frank Moore Cross's Contribution"

  • Sidnie White Crawford, "Frank Moore Cross's Contribution to the Study of the Dead Sea Scrolls," Bulletin of the American Schools of Oriental Research 372 (2014), pp. 183-87.

本論文は、死海文書の校訂チームに長くかかわったCrossの業績を、彼の弟子の一人であるCrawfordがまとめたものである。Crossと死海文書との関わりは、彼がジョンズ・ホプキンス大学の大学院生だった1948年に、師であるW.F. Albrightから、クムラン第一洞窟で発見されたイザヤ書巻物の写真を見せられたときから始まった。Crossはのちに死海文書の古文書学(paleography)で大きな業績を上げることになるが、彼の古文書学的なアプローチは、この最初の体験のときから始まったようである。

1952年に第四洞窟が発見されると、G. Lankester HardingとRoland de Vauxらは、パレスチナ考古学博物館にて巻物の研究をすることにした。Crossはアメリカ・オリエンタル研究所の代表として、国際チームの中で最初に現地に到着したために、第四洞窟の巻物を最初に手にした一人となった。

見つかったままの写本を検証することができたために、彼は次の二つの大きな発見をすることになった:第一に、巻物のいくつかは、おそらく洞窟に入れられたときからすでに劣化していた。第二に、比較的新しい巻物も古い巻物も同じ場所から見つかった。この二つの発見から、Crossは、巻物は秩序立てて保存されていたのではなく、むしろ洞窟の中に慌てて捨てられていたのだと考えた。これは第四洞窟の正確を考える上で大きな手掛かりになる発見であった。

さらに1953年にCrossが第四洞窟の巻物を調べていると、サムエル記に関係する写本を見つけた。しばらくは放っておいたのだが、ある日それを読んでいると、Crossはその写本がマソラー本文とは異なり、むしろサムエル記のギリシア語訳と共通する特徴を持っていることに気付いた。この写本は、ヘブライ語聖書の本文研究に大きな貢献をすることになる4QSamaであった。

Crossは、クムランに住んでいた共同体のアイデンティティの問題にも大きな関心を寄せていた。彼はこの共同体をエッセネ派だと考えていた。彼は大プリニウスのエッセネ派に関する証言(『自然史』5.73)がクムラン共同体の特徴に酷似していることに注目した。さらに、フィロン、ヨセフス、デュオン・クリュソストモス、ヒッポリュトスらによるエッセネ派に関する証言と、『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、『戦争巻物』、『会衆の規則』などの諸文書とを比較することで、クムランがエッセネ派の本拠地であったと結論付けた。Crossは次の有名な一節で、クムラン=エッセネ派説を強調した:
前2世紀に興隆したセクトで他に荒野の共同体と関係したものを〔クムランの〕他に我々は知らない。さらに、クムランの共同体は正確に新しいイスラエルとして編成されていた。すなわち、エルサレムの祭司制と祭儀を否定する真のセクトとしてである。パリサイ派もサドカイ派もこれに該当しないが、エッセネ派は完全に該当する。〔中略〕クムランをエッセネ派と同定することに疑義を唱える研究者は、自らを驚くべき立場に立たせることになる。彼が真剣にも示唆しているのはこういうことである。二つの大規模な共同体が死海の砂漠の同じ地域に共同の宗教共同体を作り、実際に二世紀にも渡り共に住み、似たような奇妙な見解を持ち、似ているというよりは同一の清めや儀式的な食事、そして祭儀を行なっていた、と。この研究者はまた次のように考えなければならない。片方の共同体は、古典作者らによって丁寧に描写されていたにもかかわらず、建築物の遺跡や陶器の破片さえあとに残さず消え、もう片方の共同体は、古典作者たちによって組織的に無視されたにもかかわらず、多くの遺跡や、偉大な図書館をも残したのだ、と。私だったら無謀でもきっぱりとクムランの人々を彼らの永遠のゲストであるエッセネ派と同一視したい。(Cross, Canaanite Myth and Hebrew Epic: Essays in the History of the Religion of Israel, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1973, pp. 331-32)
ただし、Crossは同時に古典資料に書かれたエッセネ派の姿と、巻物から浮かび上がる共同体とには違いが見られることにも気づいていた(結婚と独身主義など)。そこで、当時のユダヤ教には浄不浄を問題にする祭司的な伝統と、より後代に発展した終末論的な伝統とがあり、クムラン共同体ではその二つが祭司的な終末論として同居していたと説明しようとした。ここでのCrossの説明は十分ではなく、事実クムラン共同体をエッセネ派と考えることに疑義を挟む研究者もいる。Crossは他にも、ペシャリームに言及されている悪の教師をハスモン家のシモンと同定したが、この説はあまり広く受け入れられたわけではない。

Crossの死海文書研究に関する簡便な入門書としては以下がある。
The Ancient Library of QumranThe Ancient Library of Qumran
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2015年11月19日木曜日

エビオン派キリスト教徒について Schoeps, "Ebionite Christianity"

  • H.J. Schoeps, "Ebionite Christianity," Journal of Theological Studies 4 (1953), pp. 219-24.

エビオン派のキリスト教とは、ローマの偽クレメンス、シュンマコス、福音書系の黙示文学、ラビ文学や教父文学などによって知られる、2世紀のユダヤ・キリスト者の共同体である。彼らはエルサレムを離れてコイレ・シリアやトランス・ヨルダンに移住した、最初期のキリスト教徒たちであった。論文著者はこのエビオン派について、そのキリスト論、反パウロ主義、そしてユダヤ法への姿勢という3つの観点から説明する。

キリスト論。エビオン派はイエスのことを、律法を完全に遵守する預言者だと考えていた。すなわち、イエスは神の子ではなく、あくまで人の子と見なされたのである。イエスが神の力を得たのは、誕生のときや先在のときではなく、洗礼を受けたその日からであった。いわば、イエスは神の実の子ではなく、洗礼によって縁組した養子なのである(adoptionist Christology)。この人の子は、天へと上ったあとも、救済のときに最後の審判のために再臨することが期待されていたが、再臨の遅れによって、エビオン派の神学は次第に廃れ、カトリック教会の発展につながることになる。一方で、イエスはモーセのような「真の預言者」と見なされていた。モーセがユダヤ人にとっての世話役であったのと同様に、イエスは異邦人にとっての世話役であった。

反パウロ主義。エビオン派は教会におけるパウロの役割をまったく重視しなかった。パウロの使徒性がビジョンと啓示によってのみ担保されていたのに対し、真の使徒性はイエスとの直接の個人的な関わりこそが裏打ちするのだと彼らは考えたのである。それゆえにパウロは、真の使徒たちと共同する者といった役割にまで格下げされたのだった。この理由の一つとしては、回心前のパウロによるキリスト教への非道な行為もあったと考えられる。

エビオン派の律法理解。エビオン派は自他共に認める律法の熱狂的な支持者であり、それを厳格に守るあまり、菜食主義、清貧、そして清浄を旨としていた。一方で、モーセの律法を組織的に変更した点もある。彼らは律法の変更によって、以下のことを否定した:動物犠牲の血なまぐさい祭儀、イスラエルの王政、聖書の中で成就しなかった預言、そして神人同型説である。彼らにとって、イエスは律法の遵守者であると同時に、律法の改革者でもあったのである。中でも、動物祭儀の否定は、エビオン派による反パウロ主義とつながっていて重要である。というのも、パウロによるイエスの死の救済論的評価とは、まさにイエスを贖いの犠牲とすることに他ならなかったからである。いわば、イエスは洗礼の水によって、犠牲という火を鎮火したのだった。このように、一見矛盾する、律法の厳守と改革とは、律法と神の意志との乖離を埋めるためのものであった。

歴史の中でのエビオン派の位置。すでに見たように、エビオン派の考え方は、祭儀の場所としてのエルサレム神殿の否定であった。これと似た考え方は、エッセネ派にも見られる。論文著者は、アイン・フェシュカのツァドク派、ダマスカス教会、エッセネ派、そしてエビオン派が教義上の関連性を持っていると指摘する。

2015年10月5日月曜日

ヨベル書について Crawford, "The Book of Jubilees"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 4: The Book of Jubilees," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 60-83.
Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature)Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature)
Sidnie White Crawford

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アビュシニアン教会(エチオピア教会)でのみ正典とされる『ヨベル書』の諸特徴を述べた一章を読んだ。著者は同書のジャンルを次のように述べる:
Rewritten Scripture, located at the point on our spectrum where the act of scribal intervention into a base text(s) becomes so extensive that a new, distinctive composition is created. (p.62)
このように、ベース・テクスト(創1-出14)とは別の新たな作品として書かれた書物ではあるが、トーラーに取って代わるものとして書かれたわけではない。第一の律法たるトーラーの横に並ぶものとして書かれたといえる。ベース・テクストからの引用は、引用元が分かる程度にされているが、短いフレーズに限られ、引用というより暗示というべきである。聖書文書以外にも、4QReworked Pentateuchやアラム語レビ文書、そして『エノク書』といった第二神殿時代の文学をもソースに用いている。書かれた時期としては前170-150年、場所はパレスチナであると考えられる。

著者は『ヨベル書』の特徴を4つに分けて説明している:
  1. 時間感覚(chronology)
  2. 律法と倫理(law and ethics)
  3. 義人の例としてのイスラエルの父祖たち(elevation of Israel's ancestors as righteous examples)
  4. 祭司制(priestly line)
  5. 終末論(eschatology)
1.時間感覚。364日の太陽暦を用いている。のみならず、月に依拠する太陰暦を拒絶している。数字7に基づいた時間システムを持っている。レビ記25:8-12では、ヨベルの年について、50年目の年のことだと説明しているが、『ヨベル書』では、49年の期間のことを指している。そしてすべての重要な出来事がこの49年のサイクルから算出されることにより、すべての人間の歴史は神のプランによって予め定められているという考え方をする。こうした考え方は、『第一エノク書』、『レビの遺訓』、ダニエル書、死海文書のいくつかなどにも見出されるものであるが、『ヨベル書』において最も発達したといえる。

2.律法と倫理。シナイ山においてモーセに与えられた律法は、実はそのとき初めて明らかにされたのではなく、すでに父祖たちの時代から実践されていたと考える。安息日は特に強調されており、出35:2同様、これを破った者は死罪であるとされている。安息日の戦闘行為や性行為も禁止されている。ラビ文学では性行為は禁止されていないので、これは特徴的である。『ヨベル書』は律法遵守の範囲を広く取り、さらに強調している。

3.イスラエルの父祖たちを称えること。さまざまな祭りはモーセに端を発するのではなく、父祖たちの時代から続いているものである。たとえば、週の祭り(ノア)、スッコート(アブラハム)、ヨム・キプール(ヤコブ)といった具合である。また、創世記に書かれている父祖たちの「ふさわしくない行為」は『ヨベル書』では削られ、彼らがあたかも完全な義人であったかのように描かれている。

4.祭司制。ノアを祭司制のはじめとして、特にレビに名誉を付している。創世記においてレビは重要な登場人物とはいえないが、『ヨベル書』は工夫してレビの重要度を上げている。レビが出てくるエピソードは、34章、31章、32章などがあるが、いずれもレビがいかに重要な人物であるかを説明するために、ベース・テクストに解釈を加えている。また祭司は、書かれた律法の守護者としての役割を果たしており、彼らによって律法の学習や遵守、そして伝統の保持が守られている。

5.終末論。臨在の天使などを登場させることにより、黙示的な改変を加えている。こうした改変は、巣として第二神殿時代の諸文学との影響関係が濃厚で、多くは創世記や出エジプト記には出てこない話である。

以上のように、『ヨベル書』は聖書解釈を著述活動として見なす伝統(Enoch, pre-Samaritan texts, Reworked Pentateuch)に属しており、新しい文書を著すというこのグループの自由の伝統を十全に活用している。これはラビ的伝統とは一線を画しているといえる。しかし、この著述活動は、聖書を乗り越えることを意図してはいない。第一に、『ヨベル書』はトーラーをFirst Lawと考えており、その権威を認めている。第二に、『ヨベル書』はトーラーを横に置いて読むように書かれている。ただし、クムランのエッセネ派などにおいては、『ヨベル書』は神的な権威を持つ文書と見なされており、これは初期キリスト教徒たちにも見られる現象である。しかしキリスト教においては、エチオピア教会以外では正典とはされなかった。

2015年3月31日火曜日

『律法儀礼遵守論』とヨセフス著作から見るパリサイ派 Schwartz, "MMT, Josephus and Pharisees"

  • Daniel R. Schwartz, "MMT, Josephus and the Pharisees," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 67-80.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)とヨセフス著作から、パリサイ派の姿をどの程度復元できるか試みたものである。著者によると、パリサイ派研究に対して死海文書が果たした役割は、間接的でありながらも強烈であるが、一方で皮肉な結果になった。というのも、死海文書によって、パリサイ派のイメージは19世紀の研究が示したものへと戻ってしまったからである。

19世紀の研究者は、ヨセフス、新約聖書、そしてラビ文学での記述から、第二神殿時代のパリサイ派が神殿崩壊後のラビ・ユダヤ教と同一であると見なした。さらに、E. Schuererは福音書やミシュナーから、パリサイ派は人間の感情を度外視したケチな詭弁家であると考えた。R. Travers HerfordやGeorge Foot Mooreは、ラビ・ユダヤ教は倫理を重要視した多面的な宗教であるとした。すなわちこの時期の研究者たちは、肯定的であれ否定的であれ、パリサイ派をラビ・ユダヤ教と同一視することと、パリサイ派が第二神殿時代における主流派だったことを主張しているのである。

これに対し、20世紀になると、Morton Smithによって、ヨセフスの記述はプロパガンダであり、パリサイ派は神殿崩壊前は主流派ではなかったという反論が行われた。さらにSmithは、新約聖書における主流派としてのパリサイ派の描写も、神殿崩壊後の状況を反映したアナクロニズムであると主張した。この考え方はJacob Neusnerによって発展され、広く受け入れられるようになっていった。Neusnerによれば、後代のラビ文学を一世紀より前のパリサイ派の研究に用いることは無責任であるという。

この傾向は、ホロコーストとイスラエル国家の成立によって、さらに強められた。ホロコーストの反動としての、反セム主義への忌避から、一方では新約聖書におけるイエスのパリサイ派批判はイエス自身の思想の反映ではなく、他方ではそもそも攻撃されているパリサイ派もユダヤ教の主流派ではなかったという議論が展開された。

こうした第二神殿時代のパリサイ派=反主流派説に対して、さらなるリアクションが死海文書の発見によってなされるようになった。第一に、『神殿巻物』『律法』『ダマスコ文書』などから、クムラン共同体が律法に対し強い関心を持っていたことが分かった。第二神殿時代に極めて霊性を重んじたクムラン共同体でさえ、律法を重視していたのであれば、パリサイ派はいわずもがなである。そしてそうであれば、ラビ・ユダヤ教はパリサイ派からさほど隔たっていないといえる。第二に、死海文書がラビ文学とよく合致することから、第二神殿時代の研究に自信を持ってラビ文学を用いることができるようになった。

パリサイ派が本当に主流派であったのかどうかという問題に関して、著者はバランスを取ろうとする。ヨセフスの記述によると、ヨセフスはパリサイ派の支配に対し批判的な記述を残していることから、翻って、パリサイ派が主流派であったことが分かる。ただし、実際にパリサイ派が支配的でなくても、ヨセフスがパリサイ派に文句をつけていた可能性もあるので、これだけではSmith-Neusner説を覆したことにはならない。

そこで『律法』を見ると、「我々は民の大多数(ロブ・ハアム)から自分を引き離した(パラシュヌ)」という一節から、パリサイ派=主流派であった可能性を見て取ることができる(「引き離す」という言葉もパリサイ派を連想させる)。しかし、著者はロブ・ハアムは「民の多く」という意味のみであって、必ずしも「主流派」を意味しないと主張する。さらに、『律法』のセクションBでは神殿と祭司性について議論されていることと、ロブ・ハアムという語が敵対者とのセクト的な議論の中では用いられていないことから、著者は当時のパリサイ派は単独の主流派とはいえず、あくまで祭司グループに準ずる位置であったと述べる。『律法』が示しているのは、当時のユダヤ世界が、クムラン派、パリサイ派、そして神殿の支配階級(=サドカイ派)に分かれていることと、パリサイ派はその支配階級と同盟関係にあったことのみである。そしてこれらの結果はヨセフスの記述からすでに知られていることであった。

2015年3月30日月曜日

ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」

  • ジェームス・C・ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、99-117頁(James C. VanderKam, "The People of the Dead Sea Scrolls: Essenes or Sadducees," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 50-62)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

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本論文は、クムラン共同体の正体をサドカイ派であるとするシフマンに対し、その正体はやはり従来の説どおりエッセネ派であるとするヴァンダーカムによる反論である。クムラン共同体をエッセネ派と同定するためには、主として二つのデータに基づいてきた。第一に、大プリニウスの証言、第二に、死海文書の内容と、エッセネ派の信仰と慣習に関するヨセフスらの記述のとの比較である。著者によれば、プリニウスはその報告をでっち上げる理由はないこと、また他のことに関する彼の証言が正確であることなどから考えて、プリニウスの証言は確かであるとしている。

第二の点に関して、ヨセフス『ユダヤ古代誌』におけるエッセネ派に関する記述と『共同体の規則』(1QS)とを比較すると、多くの類似点が見出される。著者は例として、運命について、所有物の共有について、唾を吐くことについてなどを挙げている。Todd Beallによると、ヨセフスの著作とエッセネ派に関する死海文書の間には、27の類似点、21の似通っているようにみえる点があり、同時に接点がない点が10あり、矛盾点が6あるという。死海文書自体が足並みがそろっていない点もあるが、それはそれぞれがエッセネ派内の異なるグループの文書であったからだと考えられる(『ダマスコ文書』は町や村に住むエッセネ派の文書、『共同体の規則』はクムランのエッセネ派の文書)。

著者によると、死海文書を読み解く4つの注意点がある。第一に、対象の文書が特に宗派的なテクストであるかどうかを確認すること。第二に、死海文書は現存する他の古代の著作とのみ比較であること。第三に、死海文書には、ヨセフスや他の古代の著作家が言及していない点があること。第四に、ヨセフスと死海文書とに違いがあるのは、彼が知っていたエッセネ派がクムラン共同体とは別のグループだったかもしれないこと、である。

通説では、クムラン共同体はエッセネ派であったと見なされているが、シフマンは『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)をもとにサドカイ派であったと考えている。シフマンが注目したのは、ミシュナー・ヤダイム4.6-7で議論されている4つの論争点と『律法』の記述との類似である。ヴァンダーカムは、シフマンが見出した4つの類似点のうち3つは確かに一致していると述べている。しかし、それでもヴァンダーカムはこの説は根拠が薄いと反論する(ちなみにシフマンもヴァンダーカムも、『律法』の第一部における暦法に関する記述ゆえに、同書が宗派テキストであると考えている)。

なぜなら、第一に、そもそもサドカイ派とエッセネ派とが互いに一致する領域はたくさんあると考えられるからである。第二に、ミシュナー中のサドカイ派対パリサイ派の論争の記述をどの程度信用できるかは疑問だからである。第三に、シフマンは、プリニウスやヨセフスにおけるエッセネ派に関する記述や、クムランの宗派テクストにおける非サドカイ派的記述を無視しているからである。こうしたことから、ヴァンダーカム曰く:
シフマンの論拠となる幾つかの法規上の詳細が、実際にエッセネ派の生活習慣や神学を目撃したヨセフスやプリニウス(あるいは彼の情報源)といった人々から得られる証拠や、クムラン・テキストの中心的な資料よりも大きな影響力をもつなど、到底ありえない。
と述べている。いうなれば、ヴァンダーカムは、シフマンが示している『律法』を基にした論拠よりも、より明らかな証拠がいくつもあるため、クムラン共同体=エッセネ派説はゆるがないと考えているのである(その際に、シフマンの論拠を覆すには至っていない)。ヴァンダーカムによれば、エッセネ派とサドカイ派が共にパリサイ派的な法規の改良に反対していたことは、すでに知られていたので、シフマン(とヨセフ・バウムガルテン)はそのすでに知られていたことをクムラン共同体から証明したに過ぎないのだという。

Josephus' Description of the Essenes Illustrated by the Dead Sea Scrolls (Society for New Testament Studies Monograph Series)Josephus' Description of the Essenes Illustrated by the Dead Sea Scrolls (Society for New Testament Studies Monograph Series)
Todd S. Beall

Cambridge University Press 2004-12-23
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2015年3月26日木曜日

シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」

  • ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Lawrence H. Schiffman, "The Sadducean Origins of the Dead Sea Scrolls Sect," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 35-49)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

ミルトス 1997-09
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本論文は、クムラン共同体の正体を、通常考えられているようにエッセネ派ではなく、サドカイ派に求めるものである。まず著者は、『ダマスコ文書』がソロモン・シェヒターによって発見されてツァドクの文書とされたことと、ルイス・ギンツベルクによってパリサイ派の文書とされたこととに言及する。一方で、死海写本の研究の発展と共に、共同体はエッセネ派であったという説が強くなる(ソロモン・ツァイトリンによるカライ派説など例外もあるが)。これを著者は、先入観に基づく循環論法であると断じている。つまり、クムラン共同体がエッセネ派であるならば、ギリシア語資料の情報が死海文書から読み取れ、また同時に死海文書の情報がギリシア語資料から読み取れることになる(著者のこうした慎重さは、死海文書と新約聖書とを無理やり結び付けようとするトンデモ研究に対する批判から来ているように思われる)。

そこで、著者は『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)に依拠つつ、クムラン共同体=サドカイ派説を唱える。彼は『律法』の法規と、ミシュナーやタルムードあどのラビ文献の記述とを比較したという。マカバイ家の反乱以降、ハスモン朝が神殿を手中に収め、彼らがパリサイ派と共同戦線を張ったため、サドカイ派の中には新しい状況に適応した者と、そこから逃げ出した者たちがいた。著者によれば、『律法』は、ハスモン朝の大祭司たちが宣言した法的支配を認めない者たちが書いた手紙であるという。

パリサイ派はしばしば宗派的テクストの中で、「エフライム」、「塀の建設者」、「ドレシェイ・ハラホット(間違った法規を述べる人々)」などと呼ばれている。著者によれば、『律法』の著者が反対する法規は、後のラビ文献がパリサイ派のものとする法規と同じであり、また『律法』の著者が支持する法規は、後のラビ文献がサドカイ派のものとする法規と同じであるという。ここから、第一に、パリサイ派の見解は、のちのタルムード時代の時代錯誤的な発明ではなく、ハスモン朝の大半の時期に広まっていたこと、そして第二に、ラビ文献に記された用語や法規も、実際パリサイ派が使用したものであったことが分かる。

サドカイ派はしばしば、エフライムの敵対者である「マナセ」と呼ばれる。著者によれば、『律法』内の22の法規は、タルムードがサドカイ派のものとする見解と一致するという。同時に、『律法』のサドカイ派的と考えられる法規は、『神殿巻物』の中にも見受けられる。特に『神殿巻物』は法規の出典となる聖書箇所も挙げることがあるので重要である。

著者の主たる主張は以上だが、さらにいくつかのポイントを述べている。まずノーマン・ゴルブのクムラン遺跡=軍事的要塞説は否定されるべきだという。また死海文書の中にキリスト教の教義に似たものを探求するのは二次的な仕事にとどめるべきであると戒める。そして、聖書テクスト研究における死海文書の貢献として、クムランの聖書写本は概してマソラー本文の原型タイプと似たものであった点を指摘している。

クロス「第2章:死海文書の歴史的状況」

  • フランク・ムーア・クロス「第2章:死海文書の歴史的状況」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、61-76頁(Frank Moore Cross, "The Historical Context of the Scrolls," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 20-32)。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

ミルトス 1997-09
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本論文は、死海文書の歴史的状況について、なるべく研究者間のコンセンサスに基づいて説明したものである。まず考古学的観点から、クムラン共同体の遺跡が三つの層(Ia期、Ib期、第三期)に分かれているが、これは一つの連続した共同体であると説明する。著者によれば、このことは、彼らがクムランという特殊な場所に共同体を設けたこと自体から分かるのだという。

次に、著者の専門である古文書学からの年代決定について説明される。クムラン写本は古文書学から見て三つに分けられる。第一に前250-前150年の古代のスタイル。第二に前150-前30年のハスモン朝のスタイル。第三に前30-後70年のヘロデ朝のスタイルである。共同体の起源は、最も古い宗派的文書の成立年代と考えられるので、前100年頃とされる。それ以前の年代に成立されたと考えられる文書、特に聖書の写本は、共同体の成立時に外から運び込まれたものと考えられる。

著者はクムラン共同体の正体をエッセネ派であると考える。これはクロスのみならず、多くの研究者によって受け入れられている説である。これを支持する外部資料は、ヨセフスと大プリニウスである。プリニウスが証言する荒野のエッセネ派集団として、クムランの他に適切なものは考えにくい。著者によれば、クムラン=エッセネ派説に用心するとした学者は、クムラン共同体の他に、よく似た共同体が存在し、しかもそちらは一切の痕跡を残さず消えたと考えなければならず、そんなことはあり得ないので、クムラン=エッセネ派説は妥当だという。

著者は、クムランのエッセネ派は祭司の集団であるとし、死海文書の背景には、祭司同士の闘争があるとする。すなわち、「義の教師」に率いられた真のイスラエルたるクムラン共同体と、「悪の祭司」たちが司るエルサレム神殿との戦いである。クムラン共同体は、神が支配する新時代の生活への準備またはそれを前もって実行するという、黙示的信仰を持っていた。そしてそうした未来の謎を解くために、聖書の預言をペシャリームという方法で解釈した。彼らの自己理解の根底には、民数記のモーセの宿営(民2-4章、9:15-10:28)のイメージがあった。つまり、荒野のイスラエルが征服の戦いに備えていたように、クムラン共同体も来るべき終末的な戦闘に備えていたのである。

著者は、「悪しき祭司」の正体を、大祭司シモン・マカバイであると考えている。著者によれば、この理解は、第四洞窟の「証言集」において暗示されている、ヨシュア記6:26のイメージを用いた歴史的事柄とよく一致するのだという。シモンの兄弟であるヨナタンこそが「悪しき祭司」の正体だとする者もいるが、著者は、歴史的事実とクムラン共同体の書物に書かれた出来事との一致において、シモンに軍配が上がるとしている。

2015年2月2日月曜日

カイロ・ゲニザからクムランへ Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran"

  • Lawrence H. Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran: The Influence of the Zadokide Fragments on the Study of the Qumran Scrolls," The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Text of the Desert of Judah, Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 451-66.
The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)The Dead Sea Scrolls: Texts and Context (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
Charlotte Hempel

Brill Academic Pub 2010-06-30
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本論文は、19世紀にカイロ・ゲニザから発見されていた『ダマスコ文書』(『ツァドク派断片』)が、さらにクムランからも発見されたことにより(以下クムラン断片)、『ダマスコ文書』理解がどのように進んだかを概観するものである。

文書の本質と文学的特徴。『ダマスコ文書』は、「訓戒(admonition)」と「法(laws)」の二つの部分に分かれている。クムラン断片は、第五洞窟、第六洞窟からそれぞれ1つずつ、そして第四洞窟から8つ、全部で10の写本が発見されている。J. Murphy O'ConnerやPhilip Daviesらによる「訓戒」部分の研究により、『ダマスコ文書』は複雑な文学的歴史を持った、合成された文書であることが明らかになった。さらに、J.T. Milikによる『ダマスコ文書』とクムラン断片との比較によると、第一に、S. Schechterによる『ダマスコ文書』の写本の頁振り分けは誤りであり、第二に、法部分は現存する『ダマスコ文書』より実際はもっと長く、第三に、『ダマスコ文書』のB写本はA写本を引き伸ばしたものであることが明らかになった。

文書の由来とセクトの正体。S. Schechterは、『ダマスコ文書』がツァドク派/サドカイ派の伝統と関わっていると考え、それゆえに、カライ派やドシテオス派によって書かれたものかもしれないと考えた。他にも、多くの研究者たちが『ダマスコ文書』の由来として、パリサイ派、初期キリスト者、熱心党、エビオン派キリスト者などを挙げてきた(エッセネ派説はほとんどない)。しかし、クムラン断片の発見により、パリサイ派説、キリスト者説、カライ派説は支持しがたいものとなった。またE. Sukenikによってエッセネ派説が主張され、現在でも支持されている。著者は同書をサドカイ派的伝統に連なるものと考えている。

法(ハラハー)的議論。L. GinzbergやCh. Rabinらは、『ダマスコ文書』に含まれる法的議論をラビ文学と比較することで、大きな成果を上げた(Ginzbergの唯一の間違いは、同書の由来をパリサイ派と考えたことである)。同様の試みは、フィロン、ヨセフス、カライ派、エチオピア語テクスト、外典、偽典などと対象を変えて続けられた。そして死海文書の発見後には、『ダマスコ文書』のクムラン断片、『神殿巻物』、『律法儀礼遵守論』などにも範囲が広げられた。その結果、第二神殿時代の法解釈は、ラビ文学に見られるそれに比較して、概してより厳格であると結論付けられた。ただし、この違いは時代の違いではなく、A. Geigerによると、第二神殿時代にすでに、ツァドク派・サドカイ派的な厳格路線とパリサイ派・ラビ的な甘め路線とが並存していたのだという。死海文書の発見はこの見解を裏付けている。

セクトの歴史の構築。訓戒部分には、クムラン共同体の歴史的背景を再構築する際にしばしば引き合いに出される、「390+20年」および「義の教師」に関する記述がある。研究者たちはこれらの記述を資料批判(source criticism)の方法で検証してきた。その代表例として挙げられるのは、「ダマスコ」の意味である。クムラン断片出土以前には、研究者たちはこれを文字通りシリアにあるダマスカスのことと捉えていた。しかし出土以降、これはクムランを指す暗号であるという意見が優勢になった。さらに、ダマスコをバビロニアのことと主張する者たちもおり、彼らは共同体の誕生をハスモン朝時代ではなくバビロニアに求めている。

ユダヤ教とキリスト教の歴史の再構築。ユダヤ教の歴史について、『ダマスコ文書』は第二神殿時代のユダヤ教のセクト主義やユダヤ法の歴史を明らかにしていた。キリスト教の歴史については、E. Wilson, J.M. Allegro, A. Dupont-Sommerらが取り組んだが、彼らの研究は死海文書の意味を引き出しすぎるものであったため、よりバランスの取れた研究が望まれている。

結論として、筆者は次のように述べている。『ダマスコ文書』の初期の研究はその祭司的な性格とセクト性を強調したが、クムラン断片出土後の研究の前半は祭司と法をあえて強調しないようになった。そしてすべてのテクストが出揃った現在は、祭司の法解釈やエッセネ派的イデオロギーが反映した書物として、『ダマスコ文書』を再文脈化しようとている。いずれにせよ、『ダマスコ文書』はクムラン断片を含む死海文書なしに語られることはなくなった。

2015年1月27日火曜日

エッセネ派とクムラン共同体の起源 Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect"

  • Florentino Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect," in The People of the Dead Sea Scrolls: Their Writings, Beliefs and Practice, ed. Florentino Garcia Martinez and Julio Trebolle Barrera (Leiden: Brill, 1995), pp. 77-96.
The People of the Dead Sea Scrolls: Their Writings, Beliefs and PracticesThe People of the Dead Sea Scrolls: Their Writings, Beliefs and Practices
F. Garcia Martinez Julio Trebolle Barrera Florentino Garcia Martinez J. Trebolle Barrera Wilfred G. E. Watson

Brill Academic Pub 1995-09
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著者はこの論文の中で、著者独自の新仮説として、エッセネ派運動をパレスチナのヘレニズム化およびマカバイ戦争よりも以前に起きた、黙示的な伝統であると主張している。これは既存の二つの仮説、すなわち、1)クムラン共同体とエッセネ派運動を同一視し、エッセネ派運動の起源をマカバイ王朝時代のハシディームに求める説と、2)エッセネ派とクムラン共同体とを区別し、エッセネ派をバビロニア起源であるとする説とに対する異論である。

著者によれば、1)の仮説は、第一に、エッセネ派運動をクムランのような周辺的な運動に矮小化しており、第二に、エッセネ派運動に対してもクムラン共同体に対しても、マカバイ戦争が何らかの重要な意味を持つことを証明する文書は存在しないことから、説得的ではない。一方で、2)の仮説は、『ダマスコ文書』に見られる「シェヴィ・イスラエル」を「イスラエルへの帰還者たち」と訳すことを基にして、J. Murphy-O'Connerによって主張されているが、著者はこの表現はむしろ「イスラエルの改悛者たち」と訳すべきなので、説得的ではないと述べている。

これらのよく知られる仮説に対し、著者は四つの方法論的予想を述べる。第一に、クムラン共同体の起源はヨハネ・ヒルカノスが大祭司だった時代(前134-前104年)より前のことであるという。「悪の祭司」は集合的な名称で、何人もの大祭司たちがこの名で呼ばれたが、ヨハネ・ヒルカノスは最後の「悪の祭司」に当たる。第二に、クムラン共同体とそのもとであるエッセネ派運動との間には時間的な隔たりがある。第三に、クムランで見つかった多くの非聖書文書は、クムラン共同体のみならず、それに起因するイデオロギー的運動にも関係している。クムランで見つかった文書は必ずしもクムラン共同体そのものによる文書とは限らないが、少なくとも自分たちのイデオロギーに抵触しない内容であることは間違いない。第四に、クムランの文書はいくつかの理念が混合した文書であるため、ある文書に書かれていることはさまざまな時空を異にする要素から成り立っている場合がある。

以上のような方法論的予想をもとに、著者はエッセネ派とクムラン共同体との起源を峻別する。エッセネ派運動の起源に関する情報は、エッセネ派に言及した古典的テキストや、クムランに保存されたエッセネ派的文書から得られるが、クムラン共同体の起源に関する情報は、クムランが出来上がる以前の時代の文書から得られる。

エッセネ派運動の起源については、まずヨセフスの記述が挙げられる。ヨセフスによると、エッセネ派運動は典型的なパレスチナ的現象であり、マカバイ王朝より以前から存在するものだったという。これは『夢の書』あるいは『動物の黙示録』などからも分かることである。さらに、フィロンの著作などから、エッセネ派運動は、パレスチナの黙示的伝統に属するものでもあるともいえる。エッセネ派運動は天使の世界との交わりという特徴もある。そして『神殿巻物』(11QTemple)からは、終末的な神殿の概念も見られる。これらはみな前3世紀の黙示的伝統に連なるものであり、明らかにマカバイ戦争より以前の観念である。

一方でクムラン共同体の起源については、義の教師によるハラハー解釈と終末への期待が特徴として挙げられる。終末論は『ヨベル書』や『夢の書』における黙示的伝統と軌を一にするものである。ハラハー解釈については、『神殿巻物』(11QTemple、クムラン共同体の設立前の成立)と『律法儀礼遵守論』(4QMMT、クムラン共同体設立後の成立)の中で、祭日、犠牲、暦、神殿、清め、十分の一税、結婚などが語られている。中でも特に暦法についての議論は、クムラン共同体がエッセネ派運動から離脱する大きな要因になっていると考えられる。エッセネ派が他のユダヤ教諸派と同じ暦法を採用したのに対し、クムラン共同体はフィロンが描くテラペウタイと同じ暦法を採用したのである。暦法の違いは終末がいつ訪れるかの計算にも影響を及ぼすものだった。さらに、義の教師による「正しい」律法解釈(「嘘の人」とは異なる解釈)は、義の教師の支持者と、残りのエッセネ派たちとの分離を招いた。