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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #5

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.

本部分においては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(以下『古代誌』)におけるサラのキャラクター性が論じられている。『古代誌』において、著者はサラのキャラクター性には3つの中心点があると主張する。第一に、サラはしばしば役割やイニシアティヴにおいて減じられている。第二に、サラのイメージはしばしばアブラハムのそれに一致している。そして第三に、サラの描写は、語り手が主要登場人物をポジティヴに改善させて描こうとするあまり、複雑化してしまっている。ちなみに著者は、『古代誌』の語り手は必ずしも著者であるヨセフスと同一ではないため、「語り手」という言葉を使っている。

『古代誌』1.148-160:父であるハランの死によってサラは孤児になってしまったが、ハランの兄弟の一人であるアブラハムがサラと結婚し、その兄弟であるナホルがロトを引き取った。著者によれば、ここには叔父としての思いやりと共に性的・生殖的な目的がはっきりとあるという。いずれにせよ、『古代誌』はサラとアブラハムが本当の血縁関係であることを示している。他の伝承でも多くの場合サラはアブラハムによく似ているとされているが、『古代誌』は両者を血縁関係にすることで、この類似を「深い特徴」にしているのだ。ただしこうした血縁関係はもともとアブラハムを定義するためのものであり、それを介してサラを描いているため、サラの説明としては間接的である。

『古代誌』1.161-168:エジプトにおいて、アブラハムはエジプト人たちに教育を施すことができるほどの説得の能力を示している。しかし、女性に対して熱狂的な欲望を持つエジプト人たちの目に、肉体的な美しさを持つサラが留まってしまうと、自分も危うくなるかもしれないため、アブラハムはサラを妻ではなく妹だとごまかすことにした。そこでアブラハムはこのごまかしによって自分もサラも利益を得るのだとサラに説明したわけだが、結局大金を得たのもエジプト人の知識人と交流できたのもアブラハムだけであり、サラは誘拐され強姦されかけた。つまり語り手はアブラハムの先見の明を強調しようとしたが、アブラハムはサラの危険に考えを予想できていなかったことになってしまった。同様に、語り手はサラをポジティヴに描こうとして失敗しているところもある。語り手によれば、ファラオはサラがアプラハムを連れてきたように述べており(1.165)、またファラオは最初はサラの見た目に惹かれたが彼女から真理を学んだという(1.165)。つまりここでサラは比較的独立性を保っており、語りの中で主導権を握りさえしているわけだが、彼女の主体性は長くは続かず、結局また元の役割に戻っている。

『古代誌』1.169-185:サラの存在についてのヒントなし。

『古代誌』1.186-190:サラに子供ができないことにアブラハムが苛立っている。これは子供がいないことについてサラの役割に触れた最初である。そこでサラはハガルをアブラハムにあてがうわけだが、『古代誌』においてはそれが神に命じられてしたことだと明言されている。神に命じられてサラがハガルにしたことと、神に命じられてアブラハムがカナンに移住したことが同等視されている。つまりサラは神からの直接の交信を受け、それに従順に応じている。この従順さとはアブラハムの主たる特質だった。このようにアブラハムに似ていることはサラのキャラクターの根本的な点になっている。ここでのサラは奴隷所有者である。語り手は、サラがハガルを「横にならせた」(1.187)と婉曲表現を使っているが、これは「性交させた」という意味である。いかに遠回しに表現してもサラの残酷さは隠せない。また語り手はサラをよく見せるために、サラはイシュマエルを自分の子のように可愛がったが、ハガルは驕り高ぶっていたと述べる。つまりハガルの反応を蔑むかのように描いているが、妊婦に対して死に至るような虐待(aikia)をしたのはサラである。このようなサラによるハガル虐待は、他の伝承ではエジプトにおけるサラのひどい扱いと関連付けられていた。『古代誌』においてもそれはそうだが、語り手がアブラハムやサラに直接セリフを言わせないため、主として心理的な要素に留まっている。

『古代誌』1.191-193:特にサラの描写なし。

『古代誌』1.194-206:三人の天使の訪問を受け、アブラハムが歓待している。これは天使たちを温かく迎えなかったソドムの市民たちとの対比になっている。サラはそのとき近くにいたので、天使たちはサラの「笑い」を見たに違いない。ただし、この個所ではアブラハムやサラたちのシーンよりもソドムの破壊の方が強い印象を与えてしまっている。アブラハム自身がサラの妊娠の可能性よりもソドムの破壊に気を取られている(1.199-206)。ここではサラの高齢について初めて明確な言及がある。またサラが天使たちの言葉を信じずに笑ったことで天使たちが変装を解いたので、サラはここでわずかな力を示したと言える。ただしいずれの特徴もバラバラで、このエピソード全体があまりうまくまとまっていない。

『古代誌』1.207-212:ゲラルの滞在はエジプト滞在とさまざまなかたちでリンクしている。ここでも語り手はアブラハムをよく描こうとして失敗している。洞察力に優れているはずのアブラハムがサラの陥りかねない危険をなぜ予期できないのか。マソラ本文や七十人訳ではエジプトよりもゲラルにおけるサラの方が主体性や行動力を持っていたが、『古代誌』においてはエジプトのときの方がましである。『古代誌』におけるゲラルのサラは自分の正体を明かすことも知恵の言葉を語ることもない。誘拐と強姦未遂に遭ったサラのゲラルにおける動きははっきりしない(彼女が自分の正体をアビメレクに明かすシーンもない)。『古代誌』のようにアブラハムとサラが叔父と姪の関係であれば結婚は可能だが、マソラ本文や七十人訳のように兄妹関係であれば結婚は不可能である。これは『古代誌』の語り手が二人の血縁関係を強調しつつ、二人が律法違反を犯していないことを示すことで、二人をよく描こうとしているのである。しかし結局こうした策を弄そうとしたアブラハムを肯定的に描くことには失敗している。

『古代誌』1.213-221:イサクの命名は「老齢での出産を予言されたサラが笑った」ことに由来するが、イサクの名前説明にはゲロース、サラが笑った時にはメイディアオーという別の単語が使われているので語源説明になっていない。『古代誌』は「子供が両者から生まれた」と説明することで、イサクがアブラハムだけでなくサラの子供でもあることを示している(マソラ本文はアブラハムのみ)。サラはイシュマエルが生まれたときに最初は愛情を示していたとされるが(1.215)、これは語り手による下手な正当化である。サラが最初は愛情を示したにもかかわらずイシュマエルに辛く当たったことは、アブラハムがイサクに愛情をかけたにもかかわらず献げ物にしかけたことと並行関係になっている。サラはイシュマエルがイサクを害するかもしれぬと考え、かつては愛情をかけたイシュマエルとその母ハガルをアブラハムに「植民地(アポイキア)」へと追放させたとされている。この個所の解釈としては、第一に、「どこか別の場所に行かせた」という一般的な解釈と、第二に、「植民地を設立させた」という解釈がある。いずれもサラの非道さを和らげて暗い話を何とか明るくしようとする語り手の試みであるが、実際のところこの追放は死刑に等しかった。そしてその決定はサラのイニシアチブのもとでなされたのである。

『古代誌』1.222-236:イサクの奉献の場面においてサラはほとんど登場しないが、まったくいないわけではない。ここでアブラハムがイサクに向けている「好意(エウノイア)」はサラがかつてイシュマエルに向けたの(1.215)と同じ単語である。つまり、サラはイシュマエルに母のような愛情を持っていたにもかかわらず、神の干渉によって助かったとはいえ彼を死出の旅に送った。一方アブラハムはイサクに父親としての愛情を持っていたにもかかわらず、イサクを死に追いやるところで神の干渉を受けた。ここでサラははっきりとアブラハムのイメージと一致している。イサクの奉献のエピソードにおいてアブラハムが彼の目的をサラに明かさなかったことからは、サラの力が透けて見える。ただし結局のところサラはアブラハムの計画に気付かなかったので、状況に置いてけぼりを食らったともいえる。

『古代誌』1.237:サラの死はアブラハムとイサクが戻ってわずかのちのことだったというが、実際には十年以上経っている。サラはアブラハムが受けたような敬意(1.256)を受けていない。カナン人たちが公共の英雄を称えるのと同じように、サラの葬儀を公費で賄おうとしたところ、何の説明もないままアブラハムがそれを断り、自分で土地を購入したのである。語り手がサラをよく描こうとして「公費」の設定を加えたが、もともと創世記にアブラハムが土地を購入したくだりがあるため、両方残しておかしな筋になったのであろう。とはいえ、アブラハムは、カナン人が考えたような価値がサラにはないと判断したともいえる。結局語り手はアブラハムの品格を貶める結果になっている。

結論:著者は『古代誌』におけるサラの特徴を次の3つにまとめている。第一に、『古代誌』のサラは、たとえばマソラ本文のサラと比べて減じられ、縮められている。サラが直接話をすることはなく、彼女の動きに語り手が興味を持つこともない。またサラが何か行動を起こそうとするとすぐになかったことにされている。サラが何かする場合も、それは結局すでにアブラハムがしたことになっている。

第二に、『古代誌』のサラはさまざまなやり方でアブラハムに似せられている。何よりサラはアブラハムの姪として血縁関係がある。サラはアブラハムがそうしたように、エジプトでファラオに真理を教授している。ゲラルにおいてアブラハムは説得力がある人物として描かれているが、サラもまたイシュマエルとハガルを追放することについてアブラハムを説得し、そればかりか神までをも説得している。またサラがイシュマエルに愛情を持っていたにもかかわらず彼を追放したことは、アブラハムがイサクを愛しながら犠牲にしようとしたことに似ている。語り手はアブラハムもサラもよりよい人間として描こうとしているが、結局中心はアブラハムであり、サラは偉大な彼に相応しい妻でしかない。

第三に、『古代誌』の語り手はサラを含め主要人物をよく描こうとしているが、やり方が不注意なので新たな問題を生み出してしまっている。アブラハムは先見の明があるはずなのに、サラが直面するであろう危険を予測できていない。サラが死に際し受けるはずだった名誉もアブラハムが取り去ってしまっている。サラのハガルに対する酷い仕打ちは、ハガルが傲慢だったという設定により和らげられ、またサラがハガルとイシュマエルを追放した件は
、サラがもともとイシュマエルに愛情を持っていたという設定により和らげられている。つまり、『古代誌』におけるサラの肖像は好意的なトーンで再度色付けされているが、その仕事は完成されないまま、ときに彼女のイメージを曇らせ、前からある瑕疵はそのままになっている。

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