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2019年10月2日水曜日

フィロンの生涯、家族、その時代 Schwartz, "Philo, His Family, and His Times"

  • Daniel R. Schwartz, "Philo, His Family, and His Times," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 9-31.


人生に悲観的な哲学者にありがちなことであるが、フィロンの生涯についてはあまりわからない。彼は自分自身についてはあまり語らないので、ヨセフスや初期教父文学(エウセビオスやヒエロニュムス)らの証言が重要である。ヨセフスはフィロンの弟と甥の名前を伝えている。

フィロンは38/39年にアレクサンドリアのユダヤ人問題を陳情するために使節団を率いて皇帝ガイウス・カリグラに謁見している。そのとき自分のことを「老人」と表現しており、別のところで老人とは57歳以上と述べているので、逆算して前20-10年頃の生まれと考えられる。その死は、クラウディウス帝の催しを暗示していることから41年より前ではない。

ヨセフスと異なり自らの出自については語っていないが、ヒエロニュムスによると祭司の家系であるという。個人的なこともまるでわからない。都市への軽蔑を口にするが、これはおそらく貴族的な特権を持つ者のスノビッシュな発言であろう。

フィロンの弟アレクサンデルは輸入品の関税を徴税する役人であった。彼はその他にも貿易の仕事で成功し、巨額の富を築いた。ヨセフスによれば、アレクサンデルはその富をエルサレム神殿の建設のために寄進したという。皇帝やユダヤの王族の者たちとの関係も深かった。アグリッパの娘はアレクサンデルの息子マルクスと結婚した。アレクサンドリアのユダヤ人迫害のきっかけであるアグリッパ1世の同市訪問の際にはホストを務めた。

アレクサンデルの息子でありフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルはさらなる有名人だった。ローマ社会で成功するために、彼はユダヤ教的なアイデンティティを捨ててしまった。そのためフィロンは『動物論』などにユリウスを対話相手として登場させ、ユダヤ教への回帰を促した。ユリウスはテーバイ地方総督やユダヤ総督などを努めたあと、ネロ帝のもとではエジプト総督にまで登りつめた。そしてユダヤ戦争の際にはティトゥス帝の腹心としてエルサレム攻略に加担した。

フィロンの時代のユダヤ社会は、プトレマイオス朝期の平穏さからローマ時代の混乱への過渡期を迎えていた。その中でアレクサンドリアのユダヤ社会は繁栄し、市の5区画のうち2区画がユダヤ地区と呼ばれるほどの人口を誇った。ユダヤ人はそこで「ポリテウマ」と呼ばれる自治共同体を作った。そこでは先祖伝来の律法に基づいた生活が許され、ゲルーシアと呼ばれる自治的な議会が存在した。

アレクサンドリアの宗教生活の中心はシナゴーグであり、そこではユダヤ人の子弟に知恵や諸徳を教える教育が施されてもいた。一方で多くのユダヤ人はヘレニズム文化も受け入れていたので、市中のギュムナシオンで体育や教養諸学といった二次的な教育を受けた。フィロンの修辞的能力や運動イメージの好みはここで醸成されたものであろう。

このようにプトレマイオス朝期のアレクサンドリアのユダヤ人は平穏な生活を享受したが、ローマ時代になるとアピオーンのような反ユダヤ文学が書かれるようになり、それが38年の暴力的な事件や66年の反乱へとつながっていく。プトレマイオス朝期にはギリシア人、ユダヤ人、エジプト人という3つの社会的階層が秩序を作り、ユダヤ人は外国からの「客」としてギリシア人から大事にされていたのに対し、ローマ時代にはローマ人の下でその秩序が失われてしまったのである。その結果、ユダヤ人の多くがローマ支配を受け入れると、そのことがギリシア人からの反感を買った。そしてユダヤ人がそうしたギリシア人から守ってもらおうとさらにローマ人に近づくと、ギリシア人のさらなる反感を呼ぶという悪循環となった。

ローマに対するユダヤ人の態度には3つの方法があった。第一に、ローマ支配を受け入れ、同時にユダヤ人としての地位をあきらめるというもの。これはちょうどユリウスの態度である。彼はローマ軍のエルサレム攻略の際に神殿を保存するか破壊するかを投票で決める際に、破壊する方に票を投じたという。第二は、ローマ支配を拒否し、反乱を起こすというもの。しかしアレクサンドリアのユダヤ人がこの方法を採ったという証言は残されていない。第三は、ローマ支配を受け入れ、ユダヤ出身のユダヤ人であることはやめるが、超越的なユダヤ教を信奉するというもの。これは新約聖書やフィロンの立場である。

第三の立場はヘレニズム期のディアスポラのユダヤ人たちの特徴である。ここで重要なのは、ユダヤの地およびエルサレムの神殿の重要性を低く捉えるという視点である。この視点は『第二マカベア書』、『アリステアスの手紙』、偽ヘカタイオス、『ソロモンの知恵』に見られる。ユダヤの重要性が下がれば、ローマに反対する必要がなくなるのである。

ただし、フィロンはユダヤや神殿に対して肯定的に語ることもあれば否定的に語ることもある。結局フィロンの真の立場は、ガイウスが自分の彫像をエルサレム神殿に建立するという決定をあくまでローマ人の視点から冷静にロジカルに語っているところから分かるだろう。彼はこの出来事に対するユダヤ人の反応を正当化しようとはしない。結局のところあまりに多くのユダヤ人が第一の立場を取り、第三の立場のような非一貫した立場を取りたがらなかったばかりに悲劇が起こってしまった。しかしフィロンは「ユダヤ人であること」を場所と関わらせず、心の中の問題にすることで、ローマと生きる方法を模索したのだった。

2019年2月11日月曜日

西方の人ヒエロニュムス Bardy, "St. Jerome and Greek Thought"

  • Gustav Bardy, "St. Jerome and Greek Thought," in A Monument to Saint Jerome: Essays on Some Aspects of his Life, Works and Influence, ed. Francis X. Murphy (New York: Sheed & Ward, 1952), 85-112.

ヒエロニュムスは長く東方世界で暮らしたが、ギリシアの神学思想からの影響を受けたのだろうか。彼の東方滞在は神学思想が栄えた時期と符合している。アレイオス主義をめぐって、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス、ラオディケイアのアポリナリオスら、多くの思想家が自らの思想を深化させた。

アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。

ベツレヘムの修道院に移ってからも、ヒエロニュムスの周りにはラテン人ばかりだった。彼らが修道院を離れて赴いたのも、西方世界である。彼らを通じて、ヒエロニュムスは西方の友人たちと手紙を取り交わした。また多くのラテン人の巡礼者たちがエルサレムとベツレヘムを訪れ、ヒエロニュムスの修道院にもやってきた。西方世界と聖地には常に人の行き来があったのである。ローマが蛮族の侵入によって壊滅すると、そこを逃れてくる者たちがパレスチナに押し寄せた。「我々は彼らすべてを助けることはできないが、少なくとも彼らの被害を気の毒に思い、ともに涙しよう」とヒエロニュムスは語っている。

ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。

ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。

ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。

ヒエロニュムスの聖書翻訳はラテン教会のための仕事である。彼はヘブライ語テクストには誤りは少しも含まれていない一方で、ギリシア語テクストには本文の損傷を意味する多様性があると考えていた。彼はラテン語世界に向けた翻訳を作ったつもりだったが、実際には支持者よりも敵対者の方が多かった。そうした構図はずっと変わらず、ラテン世界が彼の翻訳を重視したのは彼の死後のことだった。ヒエロニュムスの聖書注解もまた西方世界に向けられていた。彼はまずオリゲネスの説教の翻訳から始め、『コヘレト書注解』のような過渡期の作品(ヘブライ人教師やキリスト教聖書解釈者や古典文学からの引用が多い)、パウロ書簡の注解のような自身の釈義法を確立した作品、預言書の注解のようなさらにそれを推し進めた作品などがある。彼の注解の方法論は西方の読者を満足させた。

三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。

オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。

ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。

2019年2月8日金曜日

文化資本としてのバイリンガリズム Jacobs, "What Has Rome to do with Bethlehem?"

  • Andrew S. Jacobs, "'What Has Rome to do with Bethlehem?' Cultural Capital(s) and Religious Imperialism in Late Ancient Christianity," Classical Receptions Journal 3 (2011): 29-45.

キリスト者が社会における公的な役割を果たすようになった4世紀、ローマの古典的なパイデイアは道具ともなれば危険ともなった。洗練された神学議論はギリシア文化に由来する哲学的言語なしには不可能だったが、それは同時に非キリスト教的・異教的な考えを蓄えてしまうことにもなった。パイデイアのキリスト教的な翻訳をめぐる緊張関係は、ヒエロニュムスとルフィヌスの論争からも分かる。両者の互いへの敵意にはさまざな理由があり、個人的なものと宗教的なものが指摘されることが多いが、論文著者は文化的かつ政治的な理由もあるという。

こうした学識の政治学を明らかにするために、論文著者はピエール・ブルデューの「文化資本(cultural capital)」という概念を援用している。教育や文化といった知識獲得の制度化は、階級の権力を先導し維持するための保守的な手段なのである。ホメロスも、プラトンも、ウェルギリウスも、キケローも、支配階級に属する世襲財産である。

ルフィヌスとヒエロニュムスの論争は、オリゲネスに関する神学的なものだけではなく、「翻訳」に関わるものだった。この「翻訳」という一見機械的な手続きこそが、文化資本の再生産に一役買っているのである。初期ローマ帝国において、ギリシア語からラテン語への翻訳能力は文化資本の源だった。貴族たちは、自分たちの文化的な優越を、知的・政治的な統制を証明するギリシア語の知識、すなわちバイリンガリズムという枠組みで保持したのである。

ヒエロニュムスの時代には、こうした二言語使用の学識はそれほど一般的ではなかった。アウグスティヌスがギリシア語をほとんど解さなかったことからそれは分かる。しかしながら、それでもなおギリシア語の知識はラテン語教育の中に文化的価値の名残を留めていた。ヒエロニュムスはこのギリシア語の知識という文化資本をもとに、翻訳を通じてキリスト教的パイデイアを豊かにする知識人に仕立て上げたのである。このように、翻訳は確かにヒエロニュムスやルフィヌスに文化資本を獲得する手段を授けたが、それは同時に社会的な摩擦も生んだ。両者は翻訳を価値あるプロジェクトだと考えてはいたが、異なった価値観を持っていたからである。

ヒエロニュムスは、ローマ定刻特有の多言語の文化資本の伝統にキリスト教的フレーバーを与えようとした。ローマの文化経済は、その領域内の異質さ(heterogeneity)を保存しようとする。翻訳を通じて他者の知識を吸収することは、ローマの統制を知らせている。ヒエロニュムスはこうした統制モデルが有用であることに気づいた。そこで、シリアとコンスタンティノポリスに住んでいた380年以降、ギリシア語のキリスト教文学をラテン語に翻訳し始めたのだった。翻訳という文化資本は、ヒエロニュムス自身のみならず、キリスト教の知識を生み出すことにも権威を与えた。さらに、ヒエロニュムスは聖地に移ってからもこうしたローマ式の文化資本を追及したことで、翻訳のモデルを拡張することにも成功した。A. Kamesarが言うように、彼の鋭敏な「ラテン語性」や「ラテン語的な感受性」が新たな聖書翻訳に彼を導いたのだった。論文著者はそこにローマのキリスト教の文化的帝国主義を見出している。

ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。

ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。

ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。

結論。ヒエロニュムスはローマの文化経済をキリスト教化しようとした。その際に、他者(異端、異教徒、ユダヤ人)の知識はすべてキリスト教にとっての潜在的な資本であった。一方でルフィヌスにとって翻訳とは慎ましい営為であって、ヒエロニュムスの理解のように統制と関わるものではなかった。他者の知識がキリスト教サークルに入るには、翻訳というプロセスの中で浄化されて「洗礼」を受けなければならなかった。ヒエロニュムスの帝国主義的な考え方とルフィヌスの禁欲主義的な考え方は、対極にあるというよりは、パイデイアをめぐって補完的な関係にある。

2018年5月20日日曜日

ヒエロニュムスのユダヤ人教師 Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers"

  • Megan Hale Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers: Exegesis and Cultural Interaction in Late Antique Palestine," in Jewish Biblical Interpretation and Cultural Exchange: Comparative Exegesis in Context, ed. Natalie B. Dohrmann and David Stern (Jewish Culture and Contexts; Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2008), pp.66-86, 258-63.
ヒエロニュムスはユダヤ人教師から、ユダヤ人、彼らの習慣、そして彼らの聖書解釈を学んでいた。彼の持っている情報は概ね良好である。ここからは、単にある聖書解釈の伝統が別の伝統に影響を与えたことだけでなく、ユダヤ人とキリスト者の直接のコンタクトがあったことを窺い知ることができる。

380年の中期にベツレヘムに移り住むと、ヒエロニュムスはヘブライ語聖書の翻訳と預言書の注解に力を傾注した。そのときに彼が参照したのが、東方教父とパレスチナのユダヤ人の持っていた伝統だった。東方キリスト教の伝統には、直接師事した教父たちや文書を通じてアクセスしたが、ユダヤ人の伝統には、フィロンやヨセフスを除いて文書でアクセスすることはほとんどできなかった。そこで、彼はユダヤ人情報提供者とのコンタクトを取ったのである。

ヒエロニュムスのユダヤ人に対する態度はアンビバレントである。一方で、ユダヤ人教師に師事し、ユダヤ的な聖書解釈に繰り返し従いながら、他方で、当のユダヤ人やその聖書解釈に敵対的なことも書いている。これを単に「ヒエロニュムスは分裂した人格を持っていた」(Benjamin Kedar)と説明するだけでは不十分であろう。ヒエロニュムスがユダヤ文化と西方世界との架け橋になったのは、単に不本意な結果だったのだろうか。

4-5世紀におけるユダヤ人とキリスト者との交流は、かつて考えられていたよりも活発で重要なことだったことが明らかになっている(John G. Gager)。また「ユダヤ人」と「キリスト者」、あるいは「ユダヤ教」と「キリスト教」というカテゴリーは不安定ではっきりしないものであり、完全な別物と考えることはできない。影響関係についても、どちらが影響を与え、どちらが与えられたかを問うことは難しく、むしろ創造的な相互のプロセスだったと考えるべきである(Peter Schaefer)。

とはいえ、論文著者は、両グループが敵対心を持って互いを見ていたことは否定できないし、影響関係にも完全な中立はあり得ないと述べる。とりわけヒエロニュムスの著作は、そうした敵対心があったという社会の現実の証拠を示している。それゆえに、彼の著作を読むために、よりホリスティックで洗練された読み方が必要とされる。

3世紀から4世紀にかけて、「異教」としてローマの伝統宗教は、文化や宗教のリソースとして潜在的な活力をまだ失っていなかった(Peter Brown)。しかしながら、4世紀にキリスト教は国教化する。これは、カルトや蛮族の侵入といった外的要因によって異教が力を失ったからではなく、帝国の内的変化によって起こったものと考えられる。この変化の理由は、司教たちがローマの市民生活のあらゆる領域で自分たちの権威を確立しようとしたことにあるという。こうした前提からミラノのアンブロシウスのキャリアを再解釈すると、彼が皇帝との関係性を強化して自らの司教としての生き残りを模索した様子が浮かび上がってくる(Neil McLynn)。

しかしながら、こうした司教たちの動きは、キリスト者と非キリスト者という明確な分離を生み出した。それまで未分化だったキリスト教と異教とが、355年以降になると、はっきりと分かれてしまった。つまり、キリスト教が確固とした社会的地位を獲得していくに従って、そうでないものとしての異教があらわにされていったのである(Robert Markus)。そしてヒエロニュムスの時代こそは、キリスト教が社会的・文化的に最もはっきりとしたアイデンティティを持っていた時代であった(その後キリスト教は成長を続け、一人勝ちした結果、キリスト教が他を吸収するかたちで再び未分化になる)。

ローマの伝統宗教がそうであったように、ユダヤ教もまたキリスト教にとっての他者であった(Daniel Boyarin)。テオドシウス1世以降のキリスト教皇帝たちがユダヤ人をキリスト教徒と別個のカテゴリーと見なし、「誤り」として区別したことは、ユダヤ人とキリスト教徒との間に法的権利上の大きな差異を生み出した(Seth Schwartz)。ただし、その差異は、キリスト教と異教との差異とは微妙に異なってもいた。異教徒や異端者がキリスト教への改宗を強制されたのに対し、ユダヤ人は社会の周縁に押しやられつつも、改宗を強制されなかったのである。というのも、アウグスティヌスのユダヤ人理解に見られるように、ユダヤ人を悲惨な運命のまま、生かさず殺さずの状況下に置くことで、キリスト教の正しさが証明されるからである。もしユダヤ人がいなくなってしまったら、キリストを拒絶し殺したものたちの後継者として、集合的な罪を一身に背負う存在がいなくなってしまう(Paula Fredriksen)。Schwartzはさらに、礼拝での詩歌であるピユートには、古代末期のキリスト教徒による反ユダヤ的な神学を取り込んだ内容のものが見られると述べる。ヤンナイなどの詩人は、ユダヤ人の衰亡とエドム(=キリスト教的ローマ)の繁栄を対照的に描いている。

さて、ヒエロニュムスが活動を始めた時期には、ユダヤ人とキリスト者の境界線は明確ではなかったが、彼自身がそれを越えてユダヤの聖書解釈を取り入れていくことによって、かえってその境界線は強まった。ヒエロニュムスの大きな業績は、預言書の注解と聖書の翻訳である。彼の注解は、テクストを字義的・歴史的意味と、寓意的・霊的意味に分ける。まずは字義的解釈によって、聖書の歴史的意味を明らかにした上で、それから寓意的解釈によって、聖書の霊的意味を明らかにする(そのときに前者は後者から独立しているのではなく、むしろそれを抑制する)。興味深いことに、彼は、字義的・歴史的解釈をユダヤ的、そして寓意的・霊的解釈をキリスト教的と呼ぶ。これは、それぞれの解釈法で依拠したソースを表しているのではない。なぜなら、彼の寓意的解釈には、明らかにユダヤ教のミドラッシュから取られたものもあるからである(逆もまた然り)。

ヒエロニュムスがユダヤの解釈伝統のカテゴリーに帰しているのは、本文批評、歴史的解釈、そして千年王国説的解釈である。第一に、本文批評に関して、ヒエロニュムスが実際に依拠しているのはオリゲネスの『ヘクサプラ』であるが、彼はそれを常にユダヤ人教師から習ったと主張する。第二に、歴史的解釈は、ヒエロニュムスがユダヤ資料から直接学んだものものあれば、オリゲネスが彼の教師から習ったものを間接的に学んだものもある。また、ユダヤ人のものともキリスト者のものとも限定されない、シリア・パレスチナで共有されていた聖書解釈も含まれていた。

そして第三に、千年王国説的解釈は、神の国が地上に到来することを予言するような解釈のことであるが、これをヒエロニュムスはユダヤ由来とした上で、無意味で不快なものとして紹介している。ただし、やはりこれも実際にはユダヤ的伝統のもののみならず、キリスト教的な黙示的解釈をも含んでいる(テルトゥリアヌス、エイレナイオス、ウィクトリヌス、ラクタンティウス、アポリナリオスなど)。この解釈においてヒエロニュムスが問題としているのは、メシアが到来した未来には、大いに食べたり飲んだり結婚したりすることが許される、といった色欲に関わる事柄が含まれていることだった。修道者である彼は、これらを唾棄すべきものだと考えた。以上のように、ヒエロニュムスは、キリスト教的解釈であっても、彼が同意しないものはユダヤ的と呼んだのだった。

このようにして、ヒエロニュムスがある特定の注解を「ユダヤ的」と呼んだことは、キリスト教とユダヤ教との分化が加速する一因となった。この不当表示は、不当ながら力強いものであり、単なる修辞を超えて、のちに司教や帝国の権力と結びつくことで、既成事実となったのである。