ページ

ラベル アレクサンドリア学派 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アレクサンドリア学派 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年3月13日月曜日

小高訳オリゲネス『諸原理について』第4巻抜粋

  • 小高毅訳『オリゲネス:「諸原理について」』(キリスト教古典叢書9)創文社、1978年。
諸原理について (キリスト教古典叢書 9)諸原理について (キリスト教古典叢書 9)
オリゲネス 小高毅

創文社 1995-10
売り上げランキング : 953506

Amazonで詳しく見る by G-Tools

オリゲネス『諸原理について』第4巻における聖書解釈に関する記述を抜粋しておく。

4.1.7 (pp. 283-84)
我々の弱い理解力が個々の言葉の下に秘められ、隠されている意味を見きわめ得ないからといって、聖書がその全体にわたって霊感によるものであるのを否認してはならない。なぜなら、〔聖書の〕粗末な言葉という器のうちい神的知恵の宝が隠されているからである。……実際、我々の書物〔聖書〕が、修辞学の手法とか哲学的明敏さをもって記述されることで人々を信ずべく誘引したのであったなら、疑いもなく、我々の信仰は、神の力に基づかず、言葉の巧妙さ及び人間的知恵に基づくものとみなされるだろう。

4.2.4 (p. 289)
各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。それは、まず単純な人々が、いわば聖書のからだそのもの――聖書の普通の歴史的意味を、ここで聖書のからだと呼んでいる――によって教化されるためであり、次にある程度進歩し始め、より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂そのものによって教化されるためであり、ついに完全な人々、使徒〔パウロ〕が「しかし我々は完全な人々の間では知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ我々が語るのは、隠された秘儀としての神の知恵である。それは神が、我々の受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれあものである」と言っているような人々が、「来るべき良いことの陰影をやどす」霊的律法によって、いわば霊によって教化されるためである。したがって、人間が身体と魂と霊によって構成されていると言われるように、人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も〔同様に構成されているのである〕。

4.2.5 (p. 290)
しかしながら、聖書のある箇所においては、「からだ」と言った〔意味〕、すなわち適切な歴史的な意味が存在しない場合があるのを知っておかねばならない。……そのような箇所には、先に聖書の「魂」及び「霊」と呼んだ意味のみが求められるべきである。

4.2.9 (pp. 294-95)
神の知恵は、不可能なことや辻褄の合わないことに関する話を途中に挿入して、文字通りの理解の上で、妨げあるいは中断ともなるものを〔聖書に〕挿入した。それは、叙述の中断が、障害物のように、読者の行く手をさえぎるためである。この障害物は、通俗的な理解の道を進むのをはばみ、〔この道を進むのを〕拒絶され引き返すのを余儀なくされた我々を、別の道の入り口に呼びもどし、こうして狭い小径の入り口を潜り抜け、一層高度な卓抜した道を通って神的知識の測り難い広がりへと導くためである。

4.2.9 (p. 295)
聖霊は、歴史上起こったある出来事が霊的意味を伝えるのに適しているのを見たときに、常により深い秘められた意味を隠しつつ、両者〔つまり歴史的意味と霊的意味〕を一つの叙述の中に含ませた。しかし歴史上の出来事の記述が霊的〔意味〕の一貫性に適合し得ない場合には、時として聖霊は、実際に起こらなかったこと、つまりあるいは全く起こり得ない出来事、あるいは起こりうるが実際には起こらなかったこと出来事の話をも聖書に挿入した。時としては、文字通りの意味では真理として認められ得ないと思われる若干の表現を挿入し、またある時には、そのような表現を数多く挿入した。……聖霊がこれらすべてのことを挿入したのは、我々が、一見真実でも有益でもあり得ないと思われることから、繰り返し、入念に、徹底的に、より深い真理を見きわめるべく導かれ、神からの霊感によって書かれたものと信じられている聖書のうちに、神にふさわしい意味を探究するよう刺激されるためである。

4.3.4 (pp. 299-300)
しかしながら、聖書の記述のあるものは実際の出来事ではあるまいと見なしているからといって、聖書の記述は何一つとして実際の出来事を述べていないと、私が主張しているとはとらないでほしい。また、不条理で遵守不能であるから、ある戒めは文字通りに遵守するのは不可能であると言ったからといって、律法の戒めは何一つとして価値がないと主張しているととらないでほしい。また救い主に関して書かれた事柄が、感覚的な形でも起こったということを私が否定したり、彼の戒めを文字通りに遵守する必要がないと考えたりしているととらないでほしい。大部分の場合、歴史的な意味を真実として認めうるし、認めねばならないというのが、私の意見であるとはっきり言っておこう。……単に霊的な意味のみを有している〔記述〕よりも、歴史的な意味をも固辞している〔記述〕の方が、遙かに多いのである。

関連記事

2016年11月21日月曜日

西方の聖書解釈史 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #4

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 86-109.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
売り上げランキング : 511434

Amazonで詳しく見る by G-Tools

西方の聖書学は、2世紀のアフリカで聖書が部分的にラテン語訳されると、次第にラテン世界で広まっていった。初期の注解者としてはローマのヒッポリュトゥスがおり、彼は詩篇を寓意的に解釈した。ノウァティアヌスは、ユダヤ人の字義的解釈を批判した。ペッタウのウィクトリヌスは聖書に出てくる数字を神秘主義的に解釈した。ただし、こうしたラテン世界の解釈は、同時代のギリシア世界でエウセビオスらによってなされていた解釈にはまるで匹敵しないものだった。

西方の聖書学もまた、東方のモデルを受けついで、説教、組織的な注解、そして問答の三形式で行なわれた。ラテン教父たちは、ヒエロニュムスを除いて、聖書の文献学的・歴史的な側面に関心を持たず、概して寓意的解釈にいそしんだ。ヒラリウスもアンブロシウスも、オリゲネスとフィロンの影響下で典型的なアレクサンドリア的解釈を行なった。とりわけアンブロシウスは、字義的・倫理的・神秘主義的な意味を区別した上で、オリゲネス同様に神秘主義的な意味を最も重視した。またヒエロニュムスやルフィヌスによるオリゲネス説教のラテン語訳も、ラテン世界にアレクサンドリア的な聖書解釈を広める一助となった。

一方で、アンティオキア学派からの影響は大きくはなかった。ただし、ウィクトリヌスやエクラヌムのユリアヌスらは、モプスエスティアのテオドロスらの影響で、字義的解釈を多用している。といっても、彼らも雅歌における恋人たちを、キリストと教会の比喩において理解していた。いうなれば、多くのラテン教父は、あるときは寓意的解釈をやめて字義的に解釈するようになるし、またあるときはアレクサンドリア風の寓意的解釈を求めたのだった。

4世紀のマリウス・ウィクトリヌスは、文献学や文学の知識を持った異教徒の文法学者だったが、長じてからキリスト教に改宗した。彼はギリシア語に堪能だったために、オリゲネスらのギリシア教父の聖書解釈を自分で学ぶことができた。彼はさまざまなラテン語テクストを手元におきつつ、パウロ書簡の字義的な解釈を基にした注解を書いた。彼のパウロ書簡注解には二つの特徴がある:第一に、旧約聖書に関する知識が乏しいこと、そして第二に、同時代のパウロ書簡への関心の高まりと軌を一にしていることである。事実、ウィクトリヌスの時代には、アンブロシアステル、ペラギウス、ブダペスト写本、ヒエロニュムス、ルフィヌス、そしてアウグスティヌスといった教父たちがパウロ書簡の注解を発表している。

ドナティストであったアフリカ人ティコニウスは、聖書解釈の7つのルールをもうけた。第一に、聖書は、キリストに言及するときに、キリストとその体である教会とを分けていない。第二に、聖書が言及する教会とは、よき人々と悪しき人々という二つの部分からできている。第三に、ローマ書とガラテヤ書とで矛盾している一節は、律法から信仰へと移ったためである。第四に、聖書はしばしば部分から全体へ、また全体から部分へと移る。第五に、聖書の時系列の矛盾は換喩法によって解決である。第六に、聖書はしばしば、より広い範囲をカバーするはずの概念を、あえて一つの重要なときに配置する。第七に、聖書は、悪魔に言及するときに、悪魔とその体である悪に属する人々とを分けていない。

ティコニウスは黙示録に関する注解を書いたが、これは同時代のペッタウのウィクトリヌスのものに比べると、より寓意的で霊的な解釈であった。ウィクトリヌスは千年王国説が基づいている箇所については字義的に解釈していたが、ティコニウスはそれすらも寓意的に解釈することで、実質的には千年王国説を成立しないものにしてしまったのである。

ヒエロニュムスの聖書解釈は、特に初期においては、オリゲネス、ディデュモス、そしてアポリナリオスらのそれをパラフレーズしたものにすぎなかった。彼はそのことを批判されると、自分の注解はラテン語読者に東方の異なった聖書解釈を示すことにあるのだと反論した。しかし、ヒエロニュムスは文法学者ドナトゥスに鍛えられ、オリゲネスの文献学に触れたことで、ヘブライ語テクストからの聖書翻訳を始めるに至った。

ヒエロニュムスは、オリゲネス論争が始まると、反オリゲネス派にまわる。そのときに、彼はアンティオキア学派の文献学的・言語学的な解釈という新しい尺度を自身の聖書解釈に取り入れた。彼はこうして、アンティオキア学派に従って、アレクサンドリア学派の恣意的な寓意的解釈への批判をする一方で、オリゲネス由来の聖書の三重の意味(歴史的、倫理的、霊的)をも認めるようになり、その注解は一貫性を欠くようになった。ヒエロニュムスの聖書解釈は、中庸であるゆえにとりとめがなく、その寓意的解釈には必然性がない。いうなれば、ヒエロニュムスの素晴らしさは、聖書解釈の方法論の一貫性や独創性ではなく、文献学的な視点や素材の豊富さにあるといえる。

若い頃には聖書に感心していなかったアウグスティヌスは、アンブロシウスの影響下で寓意的解釈を強く押し進めた人物である。彼は極めて修辞学的な繊細さを持ち合わせており、それを教会における説教で、比較的学問のない信徒たちを霊的に励ますために発揮した。これは、学問的かつ文献学的な性格のヒエロニュムスとは大きく異なる点であった。彼の基本的な解釈法は、アレクサンドリアの伝統に則った強い寓意的解釈だが、生涯の中で複数回行なっている創世記注解を比較すると、後期には寓意的でない解釈にも理解を示している。彼はひとつの聖書箇所に複数の解釈があることを認め、それを神意として受け入れた。彼の理解では、それは神が聖書テクストをより豊かにするために施した工夫だったのである。

2016年11月17日木曜日

東方の聖書解釈史 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #3

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 53-85.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
売り上げランキング : 511434

Amazonで詳しく見る by G-Tools

4世紀から5世紀にかけて、説教と注解の二大ジャンルによる聖書解釈の伝統が花開いた。これには当時の神学論争における、アレイオス主義とマニ教の脅威への対抗意識も働いている。オリゲネスに代表される寓意的解釈の影響は絶大だったが、その方法論の恣意性は、たとえば新プラトン主義哲学者であるポルフュリオスらによって、批判の対象にもなっていた。また、歴史的、科学的、考古学的な聖書の読み、すなわち世俗的な関心に基づく聖書の読み方も、寓意的解釈よりは字義的解釈を引き寄せることになった。

カイサリアのエウセビオスは、オリゲネスの崇拝者ではあったが、その文献学的な側面に注目した。事実、彼はオリゲネスの『テトラプラ』を筆写している。エウセビオスの聖書解釈の特徴は、歴史的・考古学的な関心を持っていたことである。ただし、そうした関心は予型論的な解釈と結びついていた。確かにエウセビオスは歴史的な人物としての父祖たちに大いに関心があったが、それはキリストの予型としての彼への関心であった。ヒエロニュムスは、エウセビオスがイザヤ書を歴史的に解釈すると言いながら、実際にはオリゲネス的な寓意的解釈をしている点を批判している。エウセビオスによれば、預言者たちはときに字義的に、またときに寓意的にそのメッセージを伝えてくるのである。この点で、聖書全体と通して霊的な解釈が可能だと考えていたオリゲネスとは異なる。エウセビオスは特に詩篇を重視した。というのも、詩篇は旧約聖書全体の要約であると考えたからである。

アンティオキア学派の黎明。シリア・パレスティナを中心とするアンティオキア学派は、七十人訳の校訂版を作成したルキアノスによって始められたと考えられているが、彼の聖書解釈は知られていない。アンティオキア学派の聖書解釈の特徴は、伝統的な予型論的解釈を伴った、字義的解釈である。ここには、ユスティノスやエイレナイオスらのアジア学派とオリゲネスのアレクサンドリア学派との両方からの影響が見られるが、それだけでなく、エウセビオスからの影響も見られる。すなわち、寓意的解釈の再考と、文献学・歴史学への目配りである。

4世紀のシリア・パレスティナ地方で、上のような影響下で字義的解釈を押し進めた者たちとしては、カイサリアのアカキオスエメサのエウセビオス、そしてラオディケイアのアポリナリスがいる。彼らは字義的解釈を中心に、倫理的に応用された予型論的解釈をも用いた。言い換えれば、彼らは寓意的解釈を否定することはなかったが、そのすべてを受け入れることもなかったのである。寓意的解釈は一見魅力的だが、テクストの問題点を解決することからの逃げでもあったからである。他にも、ニシビスのエフライムは、基本的に字義的解釈にこだわり、ごくたまにだけキリスト論的解釈をしている。これは、学術的、歴史的、そして科学的な当時の傾向をよく表している。

カッパドキア教父もまた字義的解釈を好んだ。カッパドキアはもともと、アステリオスなどアレイオス主義者が多くいた土地柄だった。バシレイオスはオリゲネスの称揚者だったが、現存する著作の中では主として字義的解釈を好み、奨励的・倫理的な説教をした。また彼は動物学など当時の科学的な知識をも活用した。ニュッサのグレゴリオスは、初期には寓意的解釈を批判したが、次第に神秘主義的な性格を強め、寓意的解釈に傾いた。グレゴリオスによれば、雅歌を始めとする聖書の語りは謎めいており、また寓話になっており、より高次の解釈を必要としている。『モーセの生涯』においては、グレゴリオスは歴史的な解釈と寓意的解釈を同じテクストに対して行なっている。後者の部分には、フィロンからの強い影響が見られる。

アンティオキア学派は、学問的な組織であったアレクサンドリア学派と比べて、組織性は低い。アンティオキア学派とアレクサンドリア学派とは、しばしばそれぞれが字義的解釈と寓意的解釈を方法論としていたという点で比較されることがあるが、近年では再考が問われている。なぜなら、アンティオキア学派の字義的解釈はそう単純なものではないからである。彼らの「テオーリア」という解釈、すなわち字義的解釈を前提とした上で、その上部にあるより高次の意味を探る解釈は特筆に値する。さらに、アンティオキア学派と一口に言っても、さまざまな注解者がいるので、一枚岩とは言えないのである。

アンティオキア学派の創始者とされるディオドロスは、寓意的解釈とテオーリアとを区別している。彼の著作は字義的解釈に終始しており、それぞれが一貫するように書かれている。

モプスエスティアのテオドロスは、旧約聖書の出来事を新約聖書の予型として解釈したこともあったが、基本的には字義的解釈を旨とした。たとえば詩篇については、はっきりと新約聖書でキリストに応用されている例のみを予型論的に解釈した。雅歌については、キリストと教会の比喩ではなく、単純な愛の歌として解釈している。またテオドロスは誰よりも旧約と新約との差を強調した。そして彼の歴史観である、異教、ユダヤ教、キリスト教の三部構造を、多神教、一神教、三位一体に当てはめた。テオドロスによれば、聖書解釈とは過度に脱線することなく、聖書の難しいところを説明することであった。テオドロスは、象徴的にもなり得る比喩的言語を否定することなく、しかし何よりも字義的解釈に拘ったのである。

ヨアンネス・クリュソストモスはアンティオキア学派でも随一の雄弁家であった。彼は字義的解釈を旨としつつも、その意図としては、聴衆を教化し、倫理的にさせようとしていた。

テオドレトスは、ディオドロスやテオドロスの厳格な字義的解釈に、伝統的なキリスト論的解釈を加えた。すなわち、アンティオキア学派特有の字義的解釈を緩め、アレクサンドリア学派の聖書解釈と和解したのである。そのためには、しばしばオリゲネスに依拠することさえあった。ただし、彼の注解は読者の便宜を図るために、極めて短いものであった。その代わり、ほとんどすべての律法と歴史書に関する注解を残している。

4世紀のアレクサンドリア学派であるアタナシオスは旧約聖書にキリスト論的な解釈を施した。盲目のディデュモスは忠実なオリゲネスの追随者ではあったが、オリゲネスの持っていた文献学的な関心はあまりなかった。ディデュモスは、字義的(歴史的)な意味はあくまで神秘的かつ寓意的な解釈へ至るための手段として考えていた。ディデュモスの『創世記注解』は、ギリシア教父によって書かれた、全体が残っている創世記注解としては最古のものであるが、ここからオリゲネスの解釈を再構成できる。またハガルとサラの物語の解釈については、フィロンのものに依拠している。

アレクサンドリアのキュリロスは、一見するとアレクサンドリア学派的な寓意的解釈を旨としたように見えるが、実際には寓意的解釈と字義的解釈の中和を図ったと見なし得る。彼の注解は、アレクサンドリア学派の誰よりも字義的であり、過度な寓意的解釈に走らず、節度を持ったものであった。キュリロスによれば、モーセはキリストの予型ではあるが、それはモーセが出てくるすべての場面でそうなのではない。すなわち、旧約聖書を常にキリスト論的に読むことはできないということである。こうした寓意的解釈への節度は、同時代におけるオリゲネスの異端論争が影響していると考えられる。一方で、アレクサンドリア学派による寓意的解釈の全体性は、キュリロスの注解では失われ、コンパクトなものになっている。

2016年11月9日水曜日

アレクサンドリア学派の聖書 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #2

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 34-52.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
売り上げランキング : 511434

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本章では、アレクサンドリアにおける聖書解釈の伝統を扱っている。アレクサンドリア学派は、フィロンを始めとするヘレニズム化したユダヤ人の影響を受けつつ、グノーシスの聖書理解に対抗しようとした。アレクサンドリアの聖書解釈の特徴は、伝統的な予型論的解釈を軸に、天文学的・人間学的な解釈や、ときには黙示的な解釈を聖書に加えることである。端的に言えば、寓意的解釈と言える。

アレクサンドリアのクレメンス。クレメンスは、福音書を律法の現実化および成就と見なしており、旧約聖書はキリストに照らして解釈されるべきだと考えていた。彼は、聖書にはありきたりなところなどなく、すべての言葉は何らかの意図に従って書かれていると主張した。そしてその意図は、必ずしも明らかになっておらず、しばしば隠されているのである。聖書にはすぐに理解できるところと、隠された方法で表現されているところがあるのである。後者はすべての人が理解できるわけではない。またその隠されたところを理解するためには、寓意的解釈が必要になる。クレメンスは、こうした表面の意味と隠された意味とを、エジプトの表意文字を例に説明している(『ストロマテイス』5.4.20以下)。ただし、一方でクレメンスは過度な寓意的解釈がグノーシス的な極論を招くことにも気づいていた。

クレメンスは、律法を4つの部分、すなわち、歴史的部分、法的部分、宗教祭儀に関わる部分、そして神学的部分(エポプテイア)に分けて理解した。これらは当時の学問の三分野である倫理学(歴史と法)、自然科学(祭儀)、そして神学に対応している。クレメンスは、このうち特に神学に注目し、寓意的解釈によってのみ明らかにすることのできる隠された秘密の意味を、神学として探ったのだった。彼の寓意的解釈は、より率直なアジア学派のそれとは違い、より複雑だった。これはフィロンに由来するものだったが、キリスト論を中心に据える点でフィロンとは異なる。

オリゲネス。オリゲネスの解釈法自体は、その先行者たちにも見られるものだったが、その知識の深さにおいて段違いであった。オリゲネスは聖書解釈を学術へと引き上げたのである。それは、解釈の対象の広さに関してもそうだった。先行者たちが聖書のいくつかの文書しか解釈しなかったのに対し、オリゲネスはすべての文書に目を向けた。彼の聖書解釈の形式は、スコリア、説教、そして注解の三種であった。彼は文献学にも造詣が深く、聖書の底本の必要性を感じ、『ヘクサプラ』を作成した。

オリゲネスの聖書解釈の理論は、『諸原理について』の中に見出すことができる。彼は神の言葉である聖書は、ロゴスたるキリストそのものであり、言い換えれば聖書とはロゴスの永遠の受肉であると考えた。そうした聖書に見られる難解さは行き当たりばったりではなく最初から意図されたものであり、きちんと理解しようとしない者には理解できないようになっているのだった。聖書の真の意味は隠されているので、そもそも聖書の字義的な意味は、その真の意味へと到達するための出発点にすぎないのである。オリゲネスに言わせれば、聖書の字義的意味を受け入れているユダヤ人も、字義的意味に反発するばかりのグノーシス主義者も、共に真の意味が見えていないのである。

オリゲネスは『諸原理について』の第4巻において、有名な聖書の三種の意味――字義的意味(肉体)、倫理的意味(魂)、神秘的意味(霊)――について言及しているが、通常ではより単純な二種の意味――字義的意味(人間としてのキリスト)と霊的意味(神としてのキリスト)――に留まっている。オリゲネスによれば、聖書は通常の人間には理解できるものではなく、解釈者がいかに深く神の言葉に沈潜できるかが鍵なのであった。オリゲネスによれば、神自身が旧約聖書にあえて恥ずべき一節を含むことで、解釈者がより深い意味へと到達できるようにしたのだという。それが、明らかな神人同型説やありえない状況が聖書中に見られる理由である。すべては霊的な読解への移行のためなのだった。

とはいえ、オリゲネスは字義的意味にも目配りが行き届いている。彼は字義的解釈を自身の解釈システムの中に組み込んでいるのである。なぜなら、彼は聖書には感知可能な現実(字義的意味)と感知不可能な現実(霊的意味)との両方があることを知っていたからである。彼は、グノーシスのように恣意的な寓意的解釈に陥ることのないように、霊的解釈といえども字義的解釈に則り、また他の聖書の一節によって確証されるようになされるべきであると考えた。すなわち、神秘主義者としてのオリゲネスは、いつも聖書に基づいていたのである。

アジア学派が寓意を用いる際には、常に聖書の具体的なエピソードに従うかたちだったが、オリゲネスの寓意はより霊的だった。彼の聖書理解は、旧約聖書を新約聖書の影として認めた上で、真理は新約聖書においてより明らかにされたと考えた。その点で、旧約を否定したグノーシスと異なり、旧約聖書と新約聖書とのバランスを取ろうとしたのである。彼は寓意的な予型論的解釈を、ただ旧約に対して用いたのではなく、新約を天的現実の予型と見なすことにも用いた。

アレクサンドリア学派の聖書解釈の普及。この時期、黙示録を字義的に解釈することで抽出される「千年王国説」を唱える者たちが出てきたが、彼らはアレクサンドリアの寓意的解釈の伝統と真っ向からぶつかることになった。たとえば、千年王国説論者のネポスに対し、アレクサンドリアのディオニュシオスは、黙示録に隠れているより深い意味をの存在を強調した。そのためには、黙示録のスタイルと言語に注目し、黙示録の作者とヨハネ伝の作者は異なることをも文献学的に示してみせた。オリュンポスのメトディオスのような折衷的な千年王国論者は、千年王国説を信じる意味では字義的解釈に傾いていたが、それを寓意的に解釈しようとも試みた。

2016年10月14日金曜日

オリゲネス研究の最前線 Dorival, "Origen"

  • Gilles Dorival, "Origen," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 605-28.
The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600
James Carleton Paget

Cambridge University Press 2013-05-09
売り上げランキング : 325079

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、新ケンブリッジ版『聖書の歴史』第1巻に収録された、2013年時点でのオリゲネス研究の成果をまとめたものである。1970年代くらいまで、オリゲネスはどちらかというと組織神学者として見なされていたが、Marguerite Harl, Manlio Simonetti, Herman Josef Vogt, R.P. Hansonらの研究により、オリゲネスは何よりもまず聖書神学者であることが強調されるようになった。

オリゲネスの聖書学的な業績といえば、今では四つの断片が残るだけである『ヘクサプラ』が挙げられる。論文著者は、このカイサリアで完成した『ヘクサプラ』に関する議論を9つにまとめている:
  1. ヘブライ語テクストである第一欄は存在したのか。現存する断片には含まれていないが、『アフリカノスの手紙』やヒエロニュムスの証言によると存在したと考えられる。
  2. なぜ第二欄でヘブライ語テクストがギリシア語音訳されているのか。キリスト者のヘブライ語学習のため、母音のないヘブライ語の読みを助けるためなど、さまざまな理由が考えられるが、オリゲネスはそれをアレクサンドリアのユダヤ人用の共観聖書で見つけた。
  3. 第五欄の七十人訳は共通版なのかオリゲネス校訂版なのか。語順などヘブライ化が見られるので、第五欄はオリゲネス校訂版である。
  4. 第六欄はテオドティオンだけだったのか。テオドティオンを含む「カイゲ」グループの翻訳も収録されたはずである。
  5. 『ヘクサプラ』以前に共観聖書はあったのか。Pierre Nautinは、キリスト者たるオリゲネスが七十人訳を第五欄に入れていること、そして音訳はヘブライ語が分かるユダヤ人だけに有用であることから、オリゲネス以前にユダヤ共観聖書があったとする。
  6. 翻訳の掲載順をどのように説明するのか。アクィラ訳やシュンマコス訳はヘブライ語からの翻訳なので先に来て、テオドティオンは七十人訳の改訂なので最後に来る、という説明と、ヘブライ語テクストにより忠実な順になっているという説明がある。
  7. 『テトラプラ』や『テトラッサ』とは何か。『テトラプラ』はオリゲネスの試作品であるという説明、『ヘクサプラ』完成後に作った簡略版という説明があり、『テトラッサ』は四巻本のオリゲネス改訂版だという説明がある。
  8. なぜオリゲネスは『ヘクサプラ』を作成したのか。第一に、ユダヤ人との論争に役立てるためという論争的理由(『アフリカノスへの手紙』9)、第二に、混乱した七十人訳写本の状況を解決するためという文献学的理由(『マタイ書注解』15.14)、そして第三に、自身の聖書解釈の可能性を広げるため、という理由が考えられる。
  9. 『ヘクサプラ』には複数の版があったのか。アレクサンドリアで最初の版を作って、カイサリアで第二版を作った可能性はある。
オリゲネスの聖書観は、基本的には七十人訳を重視するものである。彼にとって、七十人訳こそが教会の旧約聖書であって、ヘブライ語テクストが取って代わることはできない。ただし、次の三つの場合は、必ずしも七十人訳ばかりを優先するわけではない。第一に、ユダヤ人との論争においては、ヘブライ語テクストをベースにするべきである。第二に、明らかにヘブライ語テクストに基づく読みが正しい場合、それを優先するべきである。ただし、そのときでも七十人訳に注釈を加える必要がある。第三に、明らかにアクィラやシュンマコスなどの読みが正しい場合、それを優先するべきである。

オリゲネスは新約聖書に関して、ヨハネ黙示録を正典に入れるべきと考えていた。当時、ナジアンゾスのグレゴリオスなど、黙示録の正典性を疑問視している者もいたが、オリゲネスはそうではなかった。

霊感と一貫性。オリゲネスの聖書解釈は、霊感を受けたテクストを解釈することだった。彼はアリスタルコスなどアレクサンドリア文献学の伝統に則って、聖書から聖書を解釈しようとした。そのためには、聖書には一貫性があることを前提としなければならない。こうした「一貫した連続性」は「アコルーシア(akolouthia)」と呼ばれる。このアコルーシアを明らかにするために、オリゲネスはまず広いコンテクストからある聖書箇所を解釈し、それから一語ずつ、一句ずつの説明に移った。その際に彼が注意したのは、第一に、テクストの目的、第二に、複数の文書があるときにはその順序、第三に、文書の題名、そして第四に、誰が誰に語っているかという点であった。これは、聖書をあたかも劇のようにして読むということである。

聖書の意味。オリゲネスは、聖書の真の(true)・霊的な(spiritual)意味は救済の神秘を表わすことであるが、聖霊はそれを多くの者が理解できるように、より単純な歴史的(historical)・法的(legal)なテクストにして隠している、と考えていた。そして、聖書の見える部分である歴史や律法は、見えない部分である霊的な真理の予型(typoi)として、互いに血縁関係(syngeneia)を持っている。また仮に聖書の表面に非一貫性(adynata)が見えたとしても、それは読者をより深い理解へと誘うためのフックなのである。

オリゲネスは、この表面上の字義的な意味を「肉的(corporeal)」、そして隠れた深い意味を「魂的(pneumatic)」あるいは「霊的(spiritual)」と区別した。後者の高次の意味(anagoge)あるいは知的な意味(noesis)には、予型(typos)、象徴(symbolon)、像(eikon)、そして謎(ainigma)が隠されている。そして、こうした深い意味を探し出すためのテクニックが、寓意的解釈(allegoria)と予型論的解釈(tropologia)であった。

『諸原理について』4において、オリゲネスはさらに高次の意味を区別し、全部で三種類――肉的、魂的、霊的――な意味があると述べている。これらはそれぞれ、キリスト教の初心者、進歩者、そして完全者のためのものであった。同様のことは、『民数記注解』9.7における、クルミの皮たる肉的意味、その殻たる倫理的意味、そしてその内部たる神的な神秘という比喩でも語られている(『フィロカリア』1.21の『レビ記説教』にも似たような記述あり)。そして、この三層構造は、フィロンの解釈に従って、哲学の三分野――自然学、倫理学、論理学――にも比されている(『マタイ書注解』17.7)。オリゲネスにとって、聖書は哲学に等しいものだった。

論争の役割。オリゲネスの聖書解釈の論争相手は、ユダヤ人、異教徒、異端、そして単純すぎるキリスト者たちであった。オリゲネスにとってユダヤ人は、聖書の字義的解釈に拘泥するあまり、キリスト者のような予型論的・寓意的な解釈を見失っている者たちであった。

異教徒であるケルソスは、寓意的解釈は通常神話にのみ適用されるものなのに、歴史や法を含む聖書にそれを適用するのはおかしいと批判した。これに対しオリゲネスは、異教の神話はあまりに馬鹿げているので字義的に読むことができず、寓意的解釈をせざるを得ないが、聖書は寓意的解釈のみならず、字義的にも読めるのだ、と反論した。

異端であるグノーシス主義者は旧約聖書を否定したが、オリゲネスは、旧約聖書と新約聖書とは神の霊感を受けて一体となっているのだと反論した。

単純なキリスト者たちは、質料的・神人同型的な神理解をしがちであるが、オリゲネスは、神の摂理を人間の生の基準に沿って解釈してはいけないと反論した。

聖書に関する著作。オリゲネスの聖書著作といえば、説教と注解である。説教とはユダヤ教由来の文学ジャンルである。2世紀には、シナゴーグではトーラーの割り当て箇所が読まれたあとに預言書からそれに関する箇所が読まれ、それから説教が行われていた。キリスト者の説教で最古のものは、メリトーのサルディス、アレクサンドリアのクレメンス、そしてローマのヒッポリュトスらのものである。オリゲネスは、カイサリアとエルサレムで、毎日旧約聖書の、そして水曜日、金曜日、土曜日に新約聖書の説教をしていたという。旧約は300篇、新約は100篇以上ものした。彼の説教の多くは、ルフィヌスとヒエロニュムスのラテン語訳で読むことができる。

注解とは異教由来の文学ジャンルである。ホメロス、プラトン、アリストテレスの注解が書かれてきた。キリスト者による最古の聖書注解は、ヒッポリュトスの『ダニエル書注解』である。オリゲネスは、注解に関して、旧約は160巻、新約は100巻以上ものした。現在では、エウセビオスの引用、『フィロカリア』、カテーナ、ラテン語訳などを通して注解を読むことができる。オリゲネスは、フル注解を書く代わりにスコリアやストロマテイスの形式で注解を書くこともあった。

オリゲネスの遺産。4世紀になると、オリゲネスの寓意的解釈に対して、真の予型論を同定しようとする理論(theory)を持ったアンティオキア学派が出てきた。タルソスのディオドロスやモプスエスティアのテオドロスらは、旧約聖書は実際にはキリストについて数えるほどしか触れていないと主張した。異教の遺産である寓意的解釈は疑われ、アレクサンドリアのキュリロスはそれを避けるようになった。

予型論的解釈と寓意的解釈について、Jean Danielouは前者が教会の、後者がヘレニズムの伝統と見なした。Henri de Lubacは、これに対し、アンティオキア学派の勃興以前には両者の区別はなかったと考えた。Manlio Simonettiは、予型論的解釈とは内容の問題で、寓意的解釈とは方法論の問題なので、それぞれが寓意的なのであると述べた。

関連記事

2016年9月30日金曜日

アンティオキア学派再考 Young, "Traditions of Exegesis"

  • Frances M. Young, "Traditions of Exegesis," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 734-51.
The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600
James Carleton Paget

Cambridge University Press 2013-05-09
売り上げランキング : 325079

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、特にアンティオキア学派に注目しながら、キリスト教の聖書解釈の諸特徴を明らかにしたものである。著者は、これまでの聖書解釈史の研究がアレクサンドリア学派やアンティオキア学派といった学派の方法論の違いに注目するあまり、共通する伝統の中にある議論の実際を等閑に付してしまっていると指摘している。

アンティオキア学派と見なされるのは、以下の教父たちである:ヨアンネス・クリュソストモス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロス、キュロスのテオドレトス、エメサのエウセビオス、そしてアドリアノスらである。

これまでの研究では、アレクサンドリア学派が霊的な寓意的(allegorical)解釈をその特徴とするのに対し、アンティオキア学派は字義的(literal)・歴史的な(historical)解釈をその特徴とすると考えられてきた。しかし、著者はそうした一貫した解釈伝統があると言い切っていいのかどうかを問うている。

アンティオキア学派は、少なくとも寓意的解釈を問題視している。ガラ4:24でパウロは明らかに寓意的解釈をしているが、これについてモプスエスティアのテオドロスは、パウロはここで歴史的解釈を退けているわけではなく、ただ過去と現在の出来事と比較するためのものとして寓意的解釈を用いているにすぎないと主張する。言い換えれば、アンティオキア学派が追及しているのは、ユダヤ教の字義的解釈とヘレニズムの寓意的解釈の中間の、予型論的解釈(typology)だということである(この用語自体は現代の研究者によるもの)。

タルソスのディオドロスによると、そもそもギリシア文学における寓意と聖書のそれとは異なるという。ギリシア文学における寓意とは、ある方法で言われている何かや出来事を別様に理解することである。一方で、聖書は歴史を捨て去ることなしに、「観想(テオーリア)」を展開することで、そうした出来事をより高次なレベルで理解するのだった。ディオドロスは、パウロが寓意と呼んでいるのは、この観想のことであると主張した。また彼は、寓意と「隠喩(トロポロギア)」あるいは「直喩(パラボレー)」との違いについても説明している。

テオドロスによれば、聖書解釈が聖書上に見られる文献学的・歴史的な問題の解決を目指すものであるのに対し、説教は明らかな言葉に関して語る教育的・倫理的なものであるという。しかしながら、一般に説教者として知られるクリュソストモスの著作にも問題解決的なものがあり、一方で聖書解釈者として知られるテオドロスの著作にも教育的なものがある。

アンティオキア学派の聖書解釈は、ただ文献学的・歴史的であるだけでなく、教育的・倫理的でもあるのである。倫理的な解釈をも含んでいる以上、アンティオキア学派の特徴である字義的・歴史的な解釈とは、現代の歴史批評家のそれとは大きく異なると言える。逆に、アレクサンドリア学派の代表格であるオリゲネスの聖書解釈にも、寓意的であると同時に、文献学的な方法論が用いられていることを忘れてはならない。

アンティオキア学派とアレクサンドリア学派との違いは、かつてホメロスやギリシア神話の解釈をめぐってなされた修辞的な学派と哲学的な学派との論争に比することができる。ただし、それぞれの学派の主張は、これまで考えられていたように一枚岩ではない。正確に言えば、寓意的解釈をめぐっては両学派は相対しているが、共に倫理的な解釈を重視している点では一致している。ただし、その倫理的な解釈をするための方法論として、アレクサンドリア学派が寓意的解釈を用いるのに対し、アンティオキア学派は説明的・予型論的な方法論である「観想(テオーリア)」を用いたのである。

アンティオキア学派の「観想(テオーリア)」は、人や出来事の類似性に注目し、人の意図や物語の連続における教義的な真理や倫理的な教えを見出すものである。一方で、アレクサンドリア学派の「寓意」は、テクスト上で言われていることとは別のことに隠れている、聖霊の意図を見つけるためのヒントを探し出すことである。アレクサンドリア学派が聖書テクストに地上的な領域と霊的な領域との二重のレベルを見るのに対し、アンティオキア学派はすべての聖書物語のうちに、神の人間愛の神的な働きを追求するのである。ただし、それぞれの特徴は相互に影響し合っている。

以上より、これまで言われてきたように、独立した異なる伝統というものは存在しないと言えるだろう。アンティオキア学派が寓意を否定したのは、それが救済の歴史を揺るがすかもしれないからだった。彼らはテクストの一つの意図に固執したが、歴史性や字義性はアンティオキア学派の主要な特徴とは言えない。