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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #6

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.


本章においては、全体の結論が論じられている。マソラ本文のサラには複雑さと一貫性が見られる。サラの強張った軌道は彼女の道具としての性質に貢献する。アブラハムとの類似は彼女が固く強張るに連れて増える。サラは自分の見た目が他人の目にどう映るかに意識的であるが、マソラ本文以外の伝承にはそうした特徴はない。所有と喪失のモチーフも他の伝承からは消えている。

七十人訳のサラはより極端で突飛である。またアブラハムの人物像の派生としての特徴をより色濃く持っており、神的な約束の成就においてよりプログラム的な役割を演じている。彼女の存在の薄さや活気のなさ、また縮減などは彼女の有用性に貢献している。彼女は神の目的に合致している。彼女の美しさは特に彼女の顔に結びついている。七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりもアブラハムに似ている。その類似は神の約束の達成のための彼女の有用性を強調する。

『創世記アポクリュフォン』はやや外れものである。というのもアブラハムが語り手の役だからである。GNのサラは知りたがりで、発言力があり、感情的で、行動力やイニシアチブを示す。他の伝承同様に美しさを備えているが、他に知恵と手先の器用さをも持っている。サラに知恵があるというのはGNの新奇なアイデアである。サラの有用性は機械的な性的受容性にあり、そのとき彼女は性的な不可侵性を持つ対象になっている。GNでもサラはアブラハムに類似しているが、同一の根を持つ植物のメタフォリックで斬新なイメージのもとで表現されている。

『古代誌』のサラはアブラハムとの類似があるが、本当の血縁関係にすることで、この古いテーマを新しい切り口で表している。またサラはアブラハム同様に説得力を持った人物として描かれる。サラのイシュマエルに対する関係は、アブラハムのイサクに対する関係に比すことができる。『古代誌』においては、ハガルとイシュマエルに対するサラの態度は、アブラハム同様、神に命じられたものだった。語り手はサラやアブラハムの人物像を洗練させ、過ちを正当化しようとしているが、その試みが中途半端なため別の問題を引き起こしてしまっている。

以上のことから、著者は本書の発見を次の2つであるとしている。第一に、サラの深いところの特徴あるいはその原型的な特徴はアブラハムに類似している。これはサラがアブラハムの影になっているというわけではない。この特徴は諸物語を横断して見られるリンクになっているが、物語によってその機能は異なっている。第二に、サラのキャラクターは複雑で、展開したり、競合したり、矛盾したりする特徴を含んでいる。彼女の有用性がアブラハムや神の約束を成就させることにあるのは否定できないが、単純にその機能だけに縛り付けられているわけではない。サラはときに語り手たちの男性中心的・家父長的な伝承の狭隘さを免れている。

また著者は本書の貢献として以下の3点を挙げている。第一に、著者は創世記やその語り直しにおいて自分に明らかにされたサラを認め、再発見しようとした。聖書における女性を対象とした同様の検証はまだ手薄なので、これからそれが続くことが期待される。第二に、周辺的で無視されてきたキャラクターに光を当てるような、理論的でキャラクター主体の詩学を作り上げ、使おうとした。本書で扱った諸文書に物語論的な視点でアプローチした研究はほとんどなかった。そして第三に、語り直し聖書物語を絶え間なくその源泉に盲従させたり比較したりすることなく読む方法を見つけようとした。語り直しを独自の統一性をもった作品と見なすことで、当然与えられるべき解釈の配当を配分したわけである。本書で扱われたテクストはどれも現在最上の状態に置かれており、それらは聖書学や人文学が使えるあらゆる方法論的ツールによって探求されるべきである。

第二神殿時代のサラ #5

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.

本部分においては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(以下『古代誌』)におけるサラのキャラクター性が論じられている。『古代誌』において、著者はサラのキャラクター性には3つの中心点があると主張する。第一に、サラはしばしば役割やイニシアティヴにおいて減じられている。第二に、サラのイメージはしばしばアブラハムのそれに一致している。そして第三に、サラの描写は、語り手が主要登場人物をポジティヴに改善させて描こうとするあまり、複雑化してしまっている。ちなみに著者は、『古代誌』の語り手は必ずしも著者であるヨセフスと同一ではないため、「語り手」という言葉を使っている。

『古代誌』1.148-160:父であるハランの死によってサラは孤児になってしまったが、ハランの兄弟の一人であるアブラハムがサラと結婚し、その兄弟であるナホルがロトを引き取った。著者によれば、ここには叔父としての思いやりと共に性的・生殖的な目的がはっきりとあるという。いずれにせよ、『古代誌』はサラとアブラハムが本当の血縁関係であることを示している。他の伝承でも多くの場合サラはアブラハムによく似ているとされているが、『古代誌』は両者を血縁関係にすることで、この類似を「深い特徴」にしているのだ。ただしこうした血縁関係はもともとアブラハムを定義するためのものであり、それを介してサラを描いているため、サラの説明としては間接的である。

『古代誌』1.161-168:エジプトにおいて、アブラハムはエジプト人たちに教育を施すことができるほどの説得の能力を示している。しかし、女性に対して熱狂的な欲望を持つエジプト人たちの目に、肉体的な美しさを持つサラが留まってしまうと、自分も危うくなるかもしれないため、アブラハムはサラを妻ではなく妹だとごまかすことにした。そこでアブラハムはこのごまかしによって自分もサラも利益を得るのだとサラに説明したわけだが、結局大金を得たのもエジプト人の知識人と交流できたのもアブラハムだけであり、サラは誘拐され強姦されかけた。つまり語り手はアブラハムの先見の明を強調しようとしたが、アブラハムはサラの危険に考えを予想できていなかったことになってしまった。同様に、語り手はサラをポジティヴに描こうとして失敗しているところもある。語り手によれば、ファラオはサラがアプラハムを連れてきたように述べており(1.165)、またファラオは最初はサラの見た目に惹かれたが彼女から真理を学んだという(1.165)。つまりここでサラは比較的独立性を保っており、語りの中で主導権を握りさえしているわけだが、彼女の主体性は長くは続かず、結局また元の役割に戻っている。

『古代誌』1.169-185:サラの存在についてのヒントなし。

『古代誌』1.186-190:サラに子供ができないことにアブラハムが苛立っている。これは子供がいないことについてサラの役割に触れた最初である。そこでサラはハガルをアブラハムにあてがうわけだが、『古代誌』においてはそれが神に命じられてしたことだと明言されている。神に命じられてサラがハガルにしたことと、神に命じられてアブラハムがカナンに移住したことが同等視されている。つまりサラは神からの直接の交信を受け、それに従順に応じている。この従順さとはアブラハムの主たる特質だった。このようにアブラハムに似ていることはサラのキャラクターの根本的な点になっている。ここでのサラは奴隷所有者である。語り手は、サラがハガルを「横にならせた」(1.187)と婉曲表現を使っているが、これは「性交させた」という意味である。いかに遠回しに表現してもサラの残酷さは隠せない。また語り手はサラをよく見せるために、サラはイシュマエルを自分の子のように可愛がったが、ハガルは驕り高ぶっていたと述べる。つまりハガルの反応を蔑むかのように描いているが、妊婦に対して死に至るような虐待(aikia)をしたのはサラである。このようなサラによるハガル虐待は、他の伝承ではエジプトにおけるサラのひどい扱いと関連付けられていた。『古代誌』においてもそれはそうだが、語り手がアブラハムやサラに直接セリフを言わせないため、主として心理的な要素に留まっている。

『古代誌』1.191-193:特にサラの描写なし。

『古代誌』1.194-206:三人の天使の訪問を受け、アブラハムが歓待している。これは天使たちを温かく迎えなかったソドムの市民たちとの対比になっている。サラはそのとき近くにいたので、天使たちはサラの「笑い」を見たに違いない。ただし、この個所ではアブラハムやサラたちのシーンよりもソドムの破壊の方が強い印象を与えてしまっている。アブラハム自身がサラの妊娠の可能性よりもソドムの破壊に気を取られている(1.199-206)。ここではサラの高齢について初めて明確な言及がある。またサラが天使たちの言葉を信じずに笑ったことで天使たちが変装を解いたので、サラはここでわずかな力を示したと言える。ただしいずれの特徴もバラバラで、このエピソード全体があまりうまくまとまっていない。

『古代誌』1.207-212:ゲラルの滞在はエジプト滞在とさまざまなかたちでリンクしている。ここでも語り手はアブラハムをよく描こうとして失敗している。洞察力に優れているはずのアブラハムがサラの陥りかねない危険をなぜ予期できないのか。マソラ本文や七十人訳ではエジプトよりもゲラルにおけるサラの方が主体性や行動力を持っていたが、『古代誌』においてはエジプトのときの方がましである。『古代誌』におけるゲラルのサラは自分の正体を明かすことも知恵の言葉を語ることもない。誘拐と強姦未遂に遭ったサラのゲラルにおける動きははっきりしない(彼女が自分の正体をアビメレクに明かすシーンもない)。『古代誌』のようにアブラハムとサラが叔父と姪の関係であれば結婚は可能だが、マソラ本文や七十人訳のように兄妹関係であれば結婚は不可能である。これは『古代誌』の語り手が二人の血縁関係を強調しつつ、二人が律法違反を犯していないことを示すことで、二人をよく描こうとしているのである。しかし結局こうした策を弄そうとしたアブラハムを肯定的に描くことには失敗している。

『古代誌』1.213-221:イサクの命名は「老齢での出産を予言されたサラが笑った」ことに由来するが、イサクの名前説明にはゲロース、サラが笑った時にはメイディアオーという別の単語が使われているので語源説明になっていない。『古代誌』は「子供が両者から生まれた」と説明することで、イサクがアブラハムだけでなくサラの子供でもあることを示している(マソラ本文はアブラハムのみ)。サラはイシュマエルが生まれたときに最初は愛情を示していたとされるが(1.215)、これは語り手による下手な正当化である。サラが最初は愛情を示したにもかかわらずイシュマエルに辛く当たったことは、アブラハムがイサクに愛情をかけたにもかかわらず献げ物にしかけたことと並行関係になっている。サラはイシュマエルがイサクを害するかもしれぬと考え、かつては愛情をかけたイシュマエルとその母ハガルをアブラハムに「植民地(アポイキア)」へと追放させたとされている。この個所の解釈としては、第一に、「どこか別の場所に行かせた」という一般的な解釈と、第二に、「植民地を設立させた」という解釈がある。いずれもサラの非道さを和らげて暗い話を何とか明るくしようとする語り手の試みであるが、実際のところこの追放は死刑に等しかった。そしてその決定はサラのイニシアチブのもとでなされたのである。

『古代誌』1.222-236:イサクの奉献の場面においてサラはほとんど登場しないが、まったくいないわけではない。ここでアブラハムがイサクに向けている「好意(エウノイア)」はサラがかつてイシュマエルに向けたの(1.215)と同じ単語である。つまり、サラはイシュマエルに母のような愛情を持っていたにもかかわらず、神の干渉によって助かったとはいえ彼を死出の旅に送った。一方アブラハムはイサクに父親としての愛情を持っていたにもかかわらず、イサクを死に追いやるところで神の干渉を受けた。ここでサラははっきりとアブラハムのイメージと一致している。イサクの奉献のエピソードにおいてアブラハムが彼の目的をサラに明かさなかったことからは、サラの力が透けて見える。ただし結局のところサラはアブラハムの計画に気付かなかったので、状況に置いてけぼりを食らったともいえる。

『古代誌』1.237:サラの死はアブラハムとイサクが戻ってわずかのちのことだったというが、実際には十年以上経っている。サラはアブラハムが受けたような敬意(1.256)を受けていない。カナン人たちが公共の英雄を称えるのと同じように、サラの葬儀を公費で賄おうとしたところ、何の説明もないままアブラハムがそれを断り、自分で土地を購入したのである。語り手がサラをよく描こうとして「公費」の設定を加えたが、もともと創世記にアブラハムが土地を購入したくだりがあるため、両方残しておかしな筋になったのであろう。とはいえ、アブラハムは、カナン人が考えたような価値がサラにはないと判断したともいえる。結局語り手はアブラハムの品格を貶める結果になっている。

結論:著者は『古代誌』におけるサラの特徴を次の3つにまとめている。第一に、『古代誌』のサラは、たとえばマソラ本文のサラと比べて減じられ、縮められている。サラが直接話をすることはなく、彼女の動きに語り手が興味を持つこともない。またサラが何か行動を起こそうとするとすぐになかったことにされている。サラが何かする場合も、それは結局すでにアブラハムがしたことになっている。

第二に、『古代誌』のサラはさまざまなやり方でアブラハムに似せられている。何よりサラはアブラハムの姪として血縁関係がある。サラはアブラハムがそうしたように、エジプトでファラオに真理を教授している。ゲラルにおいてアブラハムは説得力がある人物として描かれているが、サラもまたイシュマエルとハガルを追放することについてアブラハムを説得し、そればかりか神までをも説得している。またサラがイシュマエルに愛情を持っていたにもかかわらず彼を追放したことは、アブラハムがイサクを愛しながら犠牲にしようとしたことに似ている。語り手はアブラハムもサラもよりよい人間として描こうとしているが、結局中心はアブラハムであり、サラは偉大な彼に相応しい妻でしかない。

第三に、『古代誌』の語り手はサラを含め主要人物をよく描こうとしているが、やり方が不注意なので新たな問題を生み出してしまっている。アブラハムは先見の明があるはずなのに、サラが直面するであろう危険を予測できていない。サラが死に際し受けるはずだった名誉もアブラハムが取り去ってしまっている。サラのハガルに対する酷い仕打ちは、ハガルが傲慢だったという設定により和らげられ、またサラがハガルとイシュマエルを追放した件は
、サラがもともとイシュマエルに愛情を持っていたという設定により和らげられている。つまり、『古代誌』におけるサラの肖像は好意的なトーンで再度色付けされているが、その仕事は完成されないまま、ときに彼女のイメージを曇らせ、前からある瑕疵はそのままになっている。

2021年7月1日木曜日

第二神殿時代のサラ #4

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 139-85.

本章においては、『創世記アポクリュフォン』(以下GA)におけるサラのキャラクター性が論じられている。S.W. CrawfordらはGAにおけるサラに「力強い女性キャラクター」を見ている。実際にGAのサラは、知識を求め、賢く、意見を述べ、感情を持った女性であり、アブラハムの相棒という感じである。エジプトの廷臣たちも彼女の美しさ、深い知恵、そして驚くべき手先の技術をファラオに報告している。ところがファラオがサラを誘拐し、自分の妻にするや、彼女は単なるモノとしての役割しかなくなってしまう(Sarai's objectification)。アブラハムはサラを性的に独占することに執心し、彼女の自由は顧慮しない。彼にとってのサラの価値はあくまで「機械的(mechanical)」なものでしかないのである。GAではこうした彼女の主体性の消失が起こる。ここにはGAが語り手としてのアブラハムの一人称で書かれたテクストであることも関係しているだろう。すべての描写は「アブラハムによれば」という括弧づけの上でなされていることを忘れてはいけない。著者はこの章でGAのうち第19欄から20欄にかけてを取り扱っている。

GA 19.7-10:サラがはっきりと登場するわけではないが、それを引き出すことができる。アブラハムは夢を見ているが、それは神からのコミュニケーションにおいて、のちにサラに「彼は私の兄です」と言わせることのお墨付きをもらうという意味がある。

GA 19.10-13:アブラハムは誰か聞き手に向かって語っているが、それは誰か。19.12においてアブラハムは「我々は」と複数の代名詞を主語とすることで、旅の連れがいたことを示す。彼らの間にはある程度の相互関係(mutuality)が見える。むろんここにはサラだけではなくロトもいた可能性もある。しかし、物語のこの後の進行を考慮すると、アブラハムの聞き手にサラがいた可能性は非常に高い。

GA 19.14-23:エジプトに入る前のアブラハムの夢の中に、杉とナツメヤシの木が出てくる。杉はアブラハム、ナツメヤシはサラの象徴である(GA中でノアも杉と描写されている)。これは樹木のシンボルを使った予言と警告になっている。同様の表現としては、詩92:13の「義人がヤシのように芽を出し、杉のように育つ」という表現、雅5:15および7:8-9において男性の見た目が杉と、女性の見た目がナツメヤシと比されている部分がある。そして、古代近東において「木が倒れる」ということは災害や死を、また「木や植物が話をする」ということは金言を語ることを意味した。アブラハムの夢はこうしたイメージを集めて新たな方法で表現している。サラとナツメヤシに関する著者の解釈では、ナツメヤシが美しさと有用性を持っていることが大きく関係しているという。有用性とはつまり多産さということである。ただし、夢の内容はこれからアブラハムやサラたちに起こる出来事とはあまり一致していない。夢の中では杉(=アブラハム)が根こそぎにされそうになっているが、実際にはサラ(=ナツメヤシ)が王によって連れ去られる。そもそもアブラハムとサラは「一つの根から生えている」とは言えないだろう。

こうしたアブラハムの語り手としての信頼性に問題があるのは、彼がほとんどの出来事に関与しているからである。つまり彼は語り手であると共に登場人物でもある。物語に深く関係している語り手の言うことは信頼し得ないのは、言うまでもない。それはその語りが事実そのものではなく語り手の視点からなされたものだからである。またアブラハムは自分が直接知らないはずのことも自信たっぷりに語っているが(エジプトの宮廷内の出来事など)、これも信頼できない所以である。

GAはこの場面でサラに直接アブラハムに語りかけさせている。同様の発明はシリア・キリスト教の説教などに見られる。ここでのサラの発言には相互関係のトーンが感じられる。パートナーとしてアブラハムの恐怖心を取ったり、少なくとも共有したりして救ってあげたいという主体的な気持ちである。これでアブラハムは幸せな結末を迎えるわけだが、ここ(19.21)でテクスト上の欠損がある。本来であればここにサラの反応が描かれていたのかもしれないが、それは失われている。分かっていることは、アブラハムの描写によれば、「彼女はその夜私の言葉ゆえに泣いた」という。そしてサラは「5年間」人前から姿を消したとされている(19.23)。並行個所を保存している可能性のあるシリア教父の説教は、サラがアブラハムのアドバイスを無視して、ぼろ切れやホコリの下に自分の美しさを隠したと述べている。以上のように、アブラハムに直接語り掛けるサラには行為者としての主体性を感じられるし、アブラハムのために泣くサラからもある程度の働きかけを見出すことができる。

GA19.23-31:ここでの描写のすべてはアブラハムのフィルターがかかっているが、はっきりしているのは、第一に、サラは何年か自分の美しさを隠すことができたということである。それゆえに三人の廷臣は彼女の美しさの噂を聞きつけてではなく、知恵を求めてやってきたと描写される。第二に、ヒルカノスら廷臣たちはサラに会った。そして彼女の顔や体だけではなく、その「深い知恵」(20.7)を見ることができた。

「知恵」とそれにまつわる技術を示したのはアブラハムで、彼はエノクの言葉の書を読んだとされている。著者は、アブラハムもそうしたかもしれないが、むしろサラこそが知恵を示したと考える。なぜかというと、29行目のואמרתという語は、Machielaのように「私は言った」(一人称・両性・単数)とも訳せるが、「彼女は言った」(三人称・女性・単数)とも訳せるからである。前者であれば、知恵を示したのは語り手であるアブラハムだったことになるが、著者は後者の読みは文法的にも可能だし、物語上も妥当であると考える。そうすると、知恵を示したのもエノクの言葉の書を読んだのも「彼女」すなわちサラだったことになる。実際、後代の伝承(『出エジプト記ラバー』1.1やバビロニア・タルムード『メギラー』14aなど)によるとサラは特別な洞察力を持っており、それはアブラハムをしのいだとされている。つまり、サラは三人の廷臣たちの質問に、口頭で答えることでその知恵を示したのだと考えられる。

GA 20.2-8:ここでは比較的長いサラの描写がある。「美(שפר)」に関するさまざまな形容詞や名詞を連ねた反復的な表現は、しかし著者にとっては単調なものだという。他にもいくつかの表現が出てきているが、それらの過剰なまでの同義的な語の反復は、総じて彼女のキャラクターの定義を追加するようなものにはなっていない。ヒルカノスらによるサラの描写はさらに、彼女の知恵と手の業の巧みさをも讃えているが、これらは「価値のある女性」のステレオタイプな理想像に対する大げさな賛辞にすぎない。同様の表現は、雅歌、箴言(31:13, 19, 31)、『ベン・シラ』(26:13-18)にも見られる。

GAにおける最も目立つ特徴であり、また重要な発展としては、エジプトにおけるサラの饒舌さが挙げられる。他にもこの個所は、当時の人相学の影響を受けた近東の詩をヘレニズム化させたものとも理解される。つまり、彼女の特別な美しさは、知恵と技術という彼女の特筆すべき精神的あるいは倫理的な才能の象徴だという理解である。「美しい(カロス)」が七十人訳やフィロンなどにおいて肉体的な性質と倫理的な性質の両方を受け継いでいることとも、この理解は一致する。しかし著者の読みでは、サラの知恵は肉体の美と相互に関連付けられていない。彼女は美しいだけでなく賢いとも描写されているのである。しかしその賢さの描写がそれ以上ないのは、物語のフィルターである語り手としての男性の価値観によるものであって、サラに知恵や技術が不足しているからではない。

GA 20.8-11:ファラオは廷臣たちの話を聞き、暴力的にサラを連れ去ったわけだが、そのあとでサラを見てその美しさに打たれ、妻として彼女を娶っている。ここでの「娶る」は明らかに性的な意味を含意すると同時に、「購入による獲得」をも意味する。このあたりのアブラハムの語りは混乱している。またその後もファラオはアブラハムを殺そうとするが、彼はサラの取りなしにより助かり、しかも彼女に関してファラオと交渉しているという。この部分の順序も奇妙である。いずれにせよ、この個所で明らかなのは、サラの価値が極めて狭いものに限定されていることである。すなわち、ファラオやアブラハムにとっての彼女価値が肉体的な美しさだけになっている。アブラハムが「泣いた」のも連れ去られた妻への共感ではなく、より実務的で機械的な理由による。

GA 20.12-16:アブラハムが泣き、神の裁きを期待したのはあくまで自分のため、すなわち自己言及(self-referentiality)にすぎない。というのも、サラの清浄さの如何が自分の影響するからである。ファラオによる性交渉があった後ではアブラハムはサラと夫婦関係を続けることができなくなるため、彼女の清浄さを求めているだけである。そうした祈りを向けられる神もまた虐げられた妻の味方ではない。この場面は法律用語を使えば、裁判官としての神のもと原告アブラハムがサラの返還を求めて被告ファラオと争っているということである。つまりここでのサラは財産にすぎない。ここにおいてサラは物語の登場人物ではなくなり、意思も主体もないほぼ無生物のモノと化している。いわば物言わぬ売買の対象、さしずめちょっといいタンスかトランクほどの扱いである。

GA 20.16-21:ここでは地上の王たちを統べる、王たちの王としての神のイメージが出てくるが、その強大な力は囚われのサラを救うわけではない。あいかわらず目立った問題は彼女の性的な不可侵性である。彼女は不活発で、代名詞でのみ言及されている。

GA 20.21-23:サラがアブラハムとファラオのどちらの妻なのかが問題となっている。サラはアブラハムの祈りの霊的な妨げになっている。

GA 20.24-21.4:サラは音もなく物語から消えている。ハガルをファラオから得たことになっている。サラは活力のない穢れていない容器のようなものであって、アブラハムも彼女が性的にきれいかどうかにしか関心がない。

以上から、GAにおけるサラは、もともとはおしゃべりで才覚があり美しく賢くまた手先の器用な女性で、時に感情をあらわに泣いたり、深い知恵を示したりもすることがあった。しかしヒルカノスらエジプトの廷臣たちとの出会いの場面を転換点として、彼女の特質は非常に狭い意味での美しさだけになり、その機械的な性的受容性のみに関心が払われるようになった。先にはあったアブラハムとの相互関係は消え失せた。このようなサラの急激な変化からは、アブラハムの語り手としての信頼性への疑いが生じる。サラが囚われの身となったことにより自分が不適切に利益を得たことの印象を弱めようとしているといえる。というのも、アブラハムの一連の行動の動機が金銭的なものだったからである。彼はサラを人間として扱わず、心配もしていない。言い換えると、研究者たちがGAのサラに「強い」女性像を見ている点について、ある部分ではそうと言えるが、別の部分では再考の余地がある。ファラオによる誘拐以降のサラの主体性は弱まり、その役割も貴重な箱ほどのものに成り下がっている。アブラハム、ファラオ、神にとってのサラの本当の価値は、究極的にはその魅力的な体にあった。

2021年6月14日月曜日

第二神殿時代のサラ #3

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 88-138.

本章においては、創世記の七十人訳におけるサラのキャラクター性が論じられている。七十人訳におけるサラは複雑で(complex)だが一貫性のない(erratic)人物で、彼女の個性を制限する(limit her individuation)ようなさまざまなプレッシャーに常に直面している。それゆえに物語の初期段階ではサラは受け身(passive)で、不活発(inert)で、力なく(powerless)、ときに生命力すらない(inanimate)人物として描かれている。ハガルを虐待するときに力(agency)を得ることで、サラの不活発さは一時解消されるが、その不名誉な能動的な力は結局のところアブラハムのイミテーション、あるいはその派生にすぎなかった。結局サラはアブラハムに対する神の約束の成就における便利な道具(instrument)として役立っていたのだった。つまり、七十人訳におけるサラは、洗いざらしにされ(washed out )衰えた(faded)人物であり、自分の意志ゆえでなく、神とアブラハムの関係性の確立のために、一貫性を欠く行動を取るようになった。

七十人訳のサラに関する研究は、S. SchorchやJ. Dinesによるわずかな分量のテクストに基づくものと、S.A. Brayfordによる浩瀚なものの他にはほとんどない。Brayfordによると、サラは、翻訳者たちの社会環境にとって適切な性的な羞恥心を示すヘレニズム的貴婦人として描かれているというが、著者は、七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりも受け身の人物で、わずかにある彼女自身の行為もアブラハムのそれからの派生として描かれていると主張する。                                                                                                                                                                                                                                        

七十人訳のテクストはしばしばマソラ本文と、テーマ、モチーフ、キャラクターの特徴などについて、本質的な一致を示すことがある。これは前者が後者の翻訳であることから当然である。すると、それらを最初から最後まで繰り返すことは読者の忍耐を試すようなことになってしまう。そのような状況下で取れる選択肢としては、第一に、マソラ本文での分析の繰り返しになろうとも、サラのキャラクターに関するすべての分析を完全に引き出すこと、そして第二に、両バージョンの連続性を、それらが関連するときに、ある程度濃縮したかたちで喚起することが挙げられる。著者は読者の利便性を考慮して、後者を選択したという。とはいえ、あるエピソードやシーンは時に異なり、時に一致するので、それらに図式的・均一的なアプローチをすることは有害である。そこで著者は連続性や矛盾への考察から議論を始めるときもあれば、連続性や矛盾を論じる前に両バージョンの衝突を論じることもある。そして何よりも物語の統一性(integrity)を重視している。

創11:26-12:9:ここでのサラは主として否定的な受け身の人物として描かれている。先祖や子孫などの肉親関係も示されていないため、サラが持っているのはアブラハムとの性的な社会婚姻関係だけである。マソラ本文との違いはわずかなものである。たとえば、七十人訳の方がサラの不妊がより永続的になっている。サラの名前の言葉遊びがない。能動的な力がなく受け身の姿勢がより強い(11:31のマソラ本文が「彼らは皆で出た」に対し、七十人訳は「彼(テラ)は彼らを出した」)。つまり、彼女は彼女が持っているものではなく、持っていないことやできなかったことによって定義されている。生殖能力が永続的でないことで、のちの神の計画に対する彼女の利用価値を一層高めているのである。また受け身の姿勢を強めることで、のちに起こるエジプトでの事件でサラの意志がよりなかったことになる。

創12:10-13:2:やはりここでもサラはまるで意思を持った人物として描かれていない。エジプトの王のもとにアブラハムの「妹」として行く件で、アブラハムの口調はほとんどビジネスライクであり、説得ではなく命令を下している。アブラハムはサラのことを「顔がいい(エウプロソーポス)」と外見についてのみ描写する。サラはアブラハムの詐欺の美的な構成成分だけを強めている。サラの美しい顔は戦略的に有利な点となり、彼女のおかげでアブラハムは生き続けることができる。こうしたアブラハムの話に対してサラは沈黙したままである。サラはただアブラハムとファラオという二人の男によって肉体的・性的に代わる代わる所有された価値ある物体であった。彼女は美しさを持っていたが、それは彼女にとって不利益しか生まなかった。いわば彼女は人身売買され取引された犠牲者であり、安全も自由も力の意志も、さらには子供も欠いていた。マソラ本文と比べると、七十人訳ではサラは説得の対象ではなく、無遠慮で命令的な強制の対象になっている。意思がないので説得の必要があると見なされていないのである。サラはここでほぼ完全に受け身である。

創13:2-15:21:サラは登場しない。

創16:1-16:サラの重要な転換点となる部分である。サラはこれまでの無気力状態から脱し、意思らしきものを示すが、それはアブラハムの模倣においてであった。すなわち、ハガルからアブラハムの子孫を得ようとするサラのアイデアはアブラハム自身に端を発するものであった。さらにこの一連の話の中で主語の性がはっきりしないために、サラとアブラハムの区別が曖昧になっている。七十人訳がマソラ本文から大きく違うのは、ハガルがアブラハムの後継者を得るための代理母として最初に提案された奴隷ではないことである。すなわち15:2-3におけるアブラハムのセリフは、マソラ本文では「私の家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルである」となっているが、七十人訳では「私の家の女奴隷マセクの子、この者はダマスコのエリエゼル」となっている。つまり「マセク」を人名と捉え、また「私の家」を「私の家の者」すなわち「女奴隷」と捉えている。こうしてアブラハムの息子かつ後継者として奴隷の子供を用いるというテーマが15章においてアブラハム自身によって先取りされているのである。つまり、ハガルの件でようやくサラが意志を示せそうになった機会が奪われ、アブラハムの受け売りのようになっているのである。

マソラ本文においてはエジプトでの詐欺とサラによるハガル代理母の件の繋がりが、アブラハムとサラそれぞれのセリフ構造の類似の中に示されていたが(ヒネ・ナで始まるなど)、七十人訳ではそれがなくなっている。オープニング・フレーズの形式的な一致がないので、読者にはセリフの類似に関するヒントがないのである。それゆえに、サラのエジプトでのひどい体験とサラによるハガルの処分との繋がりが薄まってしまっている。七十人訳の「マセクの子」の解釈もこの繋がりを弱めることになっている。またマソラ本文ではハガルの体によって「私が立てられる=私が息子を得る」というサラ自身への恩恵もあったが、七十人訳では「あなたが子を得る」という表現になっている。つまりサラのセリフはアブラハムの利益のみを述べているのである。こうして意志の力がさらに失われ、より限定的な個性しか発揮されなくなり、物語におけるサラの役割が小さくなる。

この個所ではジェンダー・アイデンティティの曖昧さが見られる。サラがアブラハムに「あなたが子を得る」と言っているギリシア語テクノポイエオーは、通常女性が子供を産む力を指すときの言葉である。また5節で「あなたのコルポスに私の奴隷を私が与えました」というサラのセリフも、本来であればいかにも男が言いそうなセリフである。そしてアブラハムの「コルポス」は「膝」とも訳せるが、もとは「穴」という意味なので、しばしば「女性器」を示す言葉である。6節でアブラハムがハガルを「好きなように使いなさい」と言っている際の「使う」が人を目的語に取るときは性的なニュアンスが伴うが、ここでハガル「使う」のはサラの役割である。すまりサラに男性の視点が与えられている。9節の神の使いのハガルでのセリフ「女主人のもとに帰ってその手に身を委ねよ」の動詞タペイノオーもしばしばレイプを示す語である。以上のような性の曖昧さは、サラとアブラハムの間のパワーバランスを再調整し、その役割を曖昧にするのに役立っている。これ以前の意志のないサラが突然ハガルに対して暴力的な意思を示すという急激な変化を和らげているのである。

4節でハガルが妊娠したことで、サラがハガルの目に重要でなくなったが、ここでのギリシア語アティマゾーはヘブライ語よりも強い言葉である。しかし「彼女の目において」という部分が「彼女の目の前で(エナンティオン)」と変わることで、サラが面目を失ったのはハガルの前だけということになっている。Brayfordはここでハガルの地位がやや上がったとするが、著者はサラが「女主人(キューリア)」と呼ばれていることから、やはりハガルは依然としてサラの所有物にすぎないと主張する。しかも神はサラによるハガルの虐待の積極的な協力者になっている。サラのこれまでの受け身で無気力な状態は、ハガルの虐待によって終わり、新たに意思を持ちオープンに話をしているが、その実彼女の行為はアブラハムのそれの反響にすぎない。12章で強調されていた「顔の良さ」も、内面の真意との格差を示していることがはっきりとする。

創17:1-27:この部分での七十人訳とマソラ本文の違いは大きくない。

創18:1-15:ハガル虐待以来サラは読者の目から隠れている。ここでもサラは天幕の中にいるせいで、せっかく出かけていた意思が制限されてしまっている。ただし、アブラハムにパンを作るように言われたにもかかわらず、おそらく何も行動を起こしていないところからは、サラのイニシアチブ、サラに言えば反抗の様子を見て取れる。さらに、神の使いがサラの将来の出産について語ると、サラはそれをもっともなことに疑う。ただしそれは自分自身の老齢ゆえに無理だと考えているわけではなく(サラ自身の状態についての言及は一切ない)、アブラハムが老いたからである。この疑いやそれに伴う笑いはサラの意志の表れのはずだが、すぐにアブラハムが同じようなことをするため、その意味が薄れている。マソラ本文ではアブラハムとサラの行動が相似形になるような言葉が使われているが、七十人訳は異なっており、その結果サラのイニシアチブは骨抜きとなり、精彩や生命力を示す機会がなくなった。

12節のサラの独白も、マソラ本文においてはアブラハムとの実りのない性関係への怒りと性行為そのものの悦びがないことに関する不信といったたくましいイメージが表現されていたが、七十人訳では妊娠の不可能性に関する冷静な考えが表現されている。ここからBrayfordは、七十人訳のサラは翻訳者のアレクサンドリアの環境の感覚により適切な「恥」のヘレニズム的女性として描かれていると主張しており、著者もそれにある程度同意している。ただし著者によれば、そうした社会的な規範に沿うことで、サラの文学的なキャラクターは後退しているという。

15節の「笑っていません」というごまかしと、その理由としての「恐れ」との繋がりは、マソラ本文でも七十人訳でもはっきりしていない。そこで著者は、「サラが恐れゆえにごまかした」という語り手の説明そのものを退ける。サラが笑いをごまかしたのは、彼女の意志とイニシアチブの表れである。しかしそれは神の反駁と語り手の不明瞭化によって制限されてしまっている。

無気力で見た目のよいモノというイメージは、ハガルへの残酷な仕打ちというかたちにしろ、意思を持った人間としてのサラの定義へと転換された。しかしその切っ先は、続くサラの提案を派生的なものにしたり、動詞のジェンダーを曖昧にしたりすることで鈍ってしまった。こうして七十人訳のサラはより青ざめた、活力を垂れ流しにするキャラクターになってしまった。サラは依然として神のアブラハムへの約束を成就させるための利用価値を認められているが、その知らせも直接聞いたわけではなく、そこにおけるいかなる自発性や話すことさえ認められていない。

20:1-18:ゲラルにおけるアビメレクとの物語においても、七十人訳の発展が見られる。アビメレクはアブラハムに金を支払っているが、それについてサラに「あなたの顔の名誉(ティメー)のために」と述べている。このティメーという語は「名誉」や「尊厳」といった意味と共に、「値段」や「価値」といった意味も持っている。つまりここには、サラの顔の美しさを商品と見なす意識が現れている。またマソラ本文ではエジプトのときと異なり、ゲラルではサラもまた詐欺の片棒を担ぐことである程度の意志を示していたが、七十人訳ではゲラルでも沈黙し、意思を放棄しており、ほとんど無気力のままである。こうして七十人訳のサラの態度は極めて一貫性を欠いた(erratic)なものとなっている。ただし、登場人物のmimeticな理解は、その人物に統一性だけを見るのではなく、こうした人間的な非一貫性や矛盾をも考慮に入れるべきである。

21:1-14:イサク誕生に関して、マソラ本文はサラの笑いについてアンビバレントな評価を下していたが、七十人訳における彼女の笑いは本当に幸せであることを示している。6節は「主は私のために笑いを作ってくれた。このことを聞く者は皆私と共に喜ぶだろう」となっている。つまり、これはサラが他の者たちと共有することを期待する幸せな笑いなのである。8節の「(イシュマエルが)イサクと遊んでいる」というところのパイゾーはしばしば性的なニュアンスを含む語だが、ここではそれは問題となっていない。むしろ問題は「イサク『と』」のメタという前置詞である。なぜなら9-10節で「私の息子イサク『と』財産を相続することはできない」にも同じ前置詞が使われているからである。イサク誕生の喜びのすぐあとにハガルとイシュマエルを追放させるサラは、子を持つ母親のステレオタイプを叩き切っている。これは語り手がサラの複雑な気持ちに寄り添いつつ真に人間的に扱うというよりも、単に神の約束の成就の道具として扱っているということである。こうしてわずかに見えたサラのイニシアチブはまたしても弱められてしまっている。

創23:1-20:サラの無気力と受け身は、サラの死において完全なものとなっている。つまりここでサラは完全にアブラハムのモノになっている。

結論としては、マソラ本文におけるサラは複雑ではあっても一貫していたが(coherent)、七十人訳のサラは複雑でしかも一貫しておらず(erratic)、ギクシャクしていてたどたどしい。またマソラ本文にはあった獲得と喪失、所有と欠如のテーマは七十人訳には見られない。またマソラ本文のようにサラが人の目を気にする様子もない。七十人訳はサラの個人性を損なうほど、彼女の行動をアブラハムのそれの派生として描こうとしている。そのようにしてサラの個人性を洗い落として色あせさせているのは語り手である。彼女のイニシアチブは、それを行使しようとする前に奪われ、行為しようとする意志は制限を課されてしまう。このようにサラの主体性が狭く制限されるのは、語り手がアブラハムに訳された神の約束の成就の道具としてサラを見なしているからである。それゆえに、マソラ本文に比べて七十人訳のサラが他者への共感を欠いているという理解はフェアではない。ここでのサラはそもそも知識や理解というものを持っていないのである。わずかな救いとしては、アブラハムとサラの死後、イサクはアブラハムに対しては悲しみを見せないが、サラについては、リヴカとの結婚を経てようやくその死への慰めを得たという記述があることである(24:67; 25:20)。

2021年6月3日木曜日

第二神殿時代のサラ #2

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.

本章においては、創世記のマソラ本文におけるサラのキャラクター性が論じられている。著者はサラが実在の人物であるかのように、自分自身の経験というフィルターを通じてmimetic readingで創世記を読み解く。

創11:26-12:9:サラはまず女性および妻(つまり性的に成熟した女性)として定義されている。サラはアブラハムによって妻として「取られた」のであり、それゆえにアブラハム「の女」と呼ばれる。主導権ははっきりとアブラハムにあるので、彼よりも力は弱い。「サラ」という名前の語源は「支配、優越、所有」といった意味を持つが、実際には「所有される者」(「所有する者」ではなく)として描かれている。たとえばサラは「子供がいない」と説明されている。その原因はアブラハムではなくサラに帰されている。アブラハムの妻、ロトの叔母、テラの義理の娘といったかたちで家族関係を得るが、テラの死によってそれを失う。しかしアブラハム一行がある程度財産を得ると、それは家族間で共有されるので、サラもわずかながら「所有する者」となる。こうした「所有」と「喪失」のパターンが繰り返される。

創12:10-13:2:エジプトで起こったこの事件はサラのキャラクターづけに重要な意味を持っている。サラはここで「見た目が美しい」とされている。つまり彼女は美しく人目を惹くわけだが、これは単にいい意味だけではなく、「モノ化(objectification)」され、高価な品のように扱われてしまうという悪い意味も持つ。実際エジプトでの出来事においてもサラは貿易の品のようにやり取りされるのみで何一つ自分で決めることがない。神からの助けも、サラがアブラハムの妻だから差し出されたものだった。それどころか神は、サラを売り飛ばした張本人であるアブラハムのもとに彼女を返している。つまりここでサラは明らかに人身売買の被害者である。彼女には価値があるが、それは家畜や奴隷のような意味での価値である。しかし、一連のエジプトでの事件の結果、アブラハム一家は巨額の富を築くことに成功した。こうしてサラもアブラハムの親族としてある程度の力を手に入れたのである。

創13:2-15:21:この部分ではサラは登場しない。しかしこの間のエピソードにおける人間関係から、サラのキャラクターについても学ぶことができる。たとえばサラは甥のロトを失っている。二人は何年も共に旅し、共にアブラハム以外の家族関係がないという共通点を持っていたが、ロトがいなくなったことでサラが大きな失意を味わったことは想像に難くない。エジプトでのトラウマとロトの喪失はサラの人間性を硬化させ、所有物への執着心を強めたのだった。また神がアブラハムの子孫を「星の数ほど」増やすと約束したことに対しアブラハムが実現可能か懸念を表明していることは、サラもまた同様の心配をしていたことを示唆している。

創16:1-16:サラのキャラクターは、アブラハム、ハガル、そして神との関係の中で理解される。対アブラハム:16:2でサラは初めてセリフを言うが(「見てください、ヤハウェは私に子を授けません。わが使え女のところに入ってください。きっと彼女によって私は立てられましょう」)、これは12:11-13のエジプトでのアブラハムの最初のセリフ(「見なさい、あなたが姿の美しい女性と私は知っている。……私の妹だ、と言ってくれ。私が厚遇されるように」)と同じ文章構造になっている。ヒネ・ナという同じ言葉から始まる両セリフからは、サラがアブラハムから甘言の弄し方を学んだことが分かる。アブラハムが自分に下謀略や虐待を学び、彼のようになったのである。サラはアブラハムに呪いの言葉すらかけている(16:5)。対ハガル:サラは子供を持っていないが、ハガルという奴隷を得た。サラは女主人としてハガルの性能力と生殖能力をいかようにもできたのでアブラハムに与えた。つまりサラはエジプトでアブラハムにされたのと同じような仕打ちをハガルにしたのである。また自分の見た目について自覚的なサラは、ハガルが自分を軽視するという「酷な仕打ち」(16:5)ゆえに、身重の彼女を「苦しめた」(16:6)という。「酷な仕打ち(ハマス)」をしたのはハガルというよりサラである。また「苦しめる(アナー)」は相当残忍な行為(女性が目的語になる場合しばしば性的含意を有する)を指す。対神:さらに神的存在がこうした残虐さを是認し、ひどいことをした張本人のもとに被害者を返しているのもエジプトの時と同様である。以上のことから、この16章には12章のエジプトでの出来事との類似と反響があり、結果として、エジプトで人間扱いされなかったサラがここでハガルを人間扱いしないことにより、虐待された者が今度は虐待する者になってしまった。

創17:1-27:この間にサラは登場しない。ただアブラムはアブラハムに、サライはサラに名前が変わっている。この名前の変化を契機に、サライの不妊はサラの多産へと切り替わる。ただしこれはアブラハムだけに与えられた啓示なので、サラ自身はその変化を知らない。

創18:1-15:この個所ではサラが実際にテントの中にいるさまが描かれている点が他と異なっている。アブラハムはサラにパンを焼くように言いつけるが、アブラハムを呪いハガルを虐待したサラが唯々諾々と従ったとは思えない。神の使者たちがサラの出産を予言すると、サラはそれを鼻で笑った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか」(18:12)という部分は閉経、すなわち不妊を指すが、それだけでなく、アブラハムとの性的関係への悦びを失ったことをも指している。つまり「鼻で笑った」のは「性的に不能であるアブラハムに失望している自分が彼と子供を作ることなどあり得ない」という意味であったわけだが、神はそれをサラが「老いた自分に子供産ませるのは神でも不可能だ」と考えたのだと誤解した。そこで唯一この個所でのみサラに直接神が語りかけている。17章ではアブラハムも神に対して疑義を呈していたが、神はアブラハムよりもサラに対してより強く怒っている。16章におけるサラは不妊だが性的な積極性を持ち、奴隷を虐待する女主人だったが、18章では閉経し、性行為をやめてしまっている。子供への関心があるかどうかも曖昧である。対アブラハム:18章においてはアブラハムとの力関係は微妙に変わっており、サラは彼の言いつけを無視し、その性的不能を笑っている。対神:神との関係はより個人的なものとなっている。ハガルの事件において神はサラを肯定することで彼女のキャラクターを硬化させたが、ここではサラの笑いを誤って解釈し、あまつさえ脅すような物言いをすることで、やはり彼女を硬化させている。

創18:16-19:38:サラは登場しない。

創20:1-18:ゲラル寄留は12章のエジプト寄留と密接な並行関係にある。サラ自身についても、いずれの個所でもセリフはなく、外国の支配者に「取られ」ているとおり、男性の所有物であり、最終的に大きな報酬を受けている。しかしながら、12章と20章は一見似ていても、その間にサラが大きく変容している。まず20章にはアブラハムによるサラの説得の会話がない。12章の行いはアブラハムをポン引きとする売春行為であったが、20章のそれは美人局に近い。そうした意味ではサラは単なる売春の商品ではなく、詐欺行為に加担している。それはサラ自身がアビメレクに対して「彼は私の兄です」(20:5)と述べていることからも分かる。12章のエジプトでのサラはアブラハムによる性的人身売買の犠牲者であり、人間扱いされないことに慣れ、神の共謀を受けて自分を虐待する者に加わった。しかし、20章のサラは自分の虐待と喪失をより力のない性的代替者に向け、アブラハムを呪い、その性的不能を陰で笑い、奴隷とその腹の中の子を暴力に曝した。これだけの変化を経て、20章のサラ(older, harder Sarah)が12章でのサラと同じように声なき被害者であったはずがない。20:12においてアブラハムは、サラが実際に義理の妹である旨を説明しているが、これは明らかに一連の詐欺行為における策略の一部であろう。20章における本当の被害者はサラではなく、サラゆえに子供を産めなくなった王宮の女たちである(20:17-18)。サラはアブラハム同様、他の人たちの生命に対する配慮を欠いている。

創21:1-14:イサク誕生とハガルとイシュマエルの追放の物語からは、サラのキャラクターとしての硬化が残酷さを伴って固定されているのが分かる。サラの妊娠には神が関与しているが、イサクは神の血統というわけではなく、神の配慮のたまものである。サラはイサクの誕生によって柔和な人間になったわけではない。21:6には、「神は私に笑いをくれた。これを聞いた者たちは皆私と笑うでしょう」という肯定的な解釈のみならず、「神は私を笑い者にした。これを聞いた者たちは皆私を嘲笑うでしょう」という否定的な解釈も可能である。後者の場合、サラは子供の誕生という幸福の中でさえ他人の目を気にしていたことになる。イサクの乳離れの祝宴において、サラはイシュマエルが「戯れる」のを見たが、これは単に「戯れ」ているとも取れるし、誰かを「笑い者にする」とも取れる。後者だとすると、他人に笑われることを最も気にするサラを刺激したことだろう。酒宴の酔いも手伝い、サラはかつてないほど無慈悲な行動、すなわちハガルとイシュマエルをアブラハムに追放させることを決めた。アブラハムは躊躇したが、神がサラを後押ししたのだった。興味深いことに、これ以降サラも物語から消えてしまう。こうした無慈悲で残酷で弱さに基づく行為について、著者は怒りよりも哀れみを感じたと述べている。

創23:1-20:サラは127歳で死んだという。サラが死んだのはキルヤット・アルバであり、アブラハムはベエル・シェバで暮らしていたと書いてあるので、二人が一緒に暮らしていたかどうかは不明である。イサクの奉献の顛末も知らなかった可能性がある。サラは死してなお都合のいい道具として扱われている。というのも、アブラハムはサラを埋葬することを口実にマムレの近くの土地をヘト人から購入することに成功したからである。つまりサラの死体はカナンの地の獲得という最終目標の第一歩のために、あたかも道具のように用いられたのだった。

結論:対アブラハム:エジプトでアブラハムはサラを動物や奴隷のように売り買いの道具として用いた。このトラウマはサラ自身によるハガルの虐待を導いた。そのようにしてアブラハムそっくりになっていったサラはゲラルにおいて詐欺行為に加担する。このようにアブラハムはサラが使えるうちに使いつくし、最後には遺体までをも自分の利益のために利用した。対神:神はサラを自分の目的のために使っている。エジプトにおいてサラを救ったのはサラ自身のためではなく、サラをアブラハムのもとに返すためだった。神はサラが虐待者へと変貌することも後押しした。サラは神にとって、約束を成就させるための道具として重要だったのである。神は自分の目的を達成するためにサラの人間性を引き下げることすら厭わなかった。対ハガル:サラとハガルの関係は、アブラハムとサラの関係に似ている。サラはハガルの肉体を自分の目的のために用い、彼女を暴力的に虐待した。そして最終的にはハガルとイシュマエルの放逐に一役買った。こうした一連のひどい行為はアブラハムと神によって是認されていた。

以上のようにサラの周りには獲得と喪失、所有と欠如といったお題目が付いて回った。著者はそんなサラに共感や哀れみを抱いている。サラは搾取と残酷さという気の毒なサイクルの中で、ときに犠牲者に、ときに加害者になった。サラが次第に残酷さを受け入れていくのは、その方が神の計画を実行するために都合がよかったからである。ただしわずかな救いとして、著者はイサクの人間的に高潔な態度にサラとイサクとが意義深い関係性を築くことができたことが伺われると考えている。

2021年5月26日水曜日

第二神殿時代のサラ #1

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.

聖書研究において、たとえばアブラハムの研究が無数にあるのに対し、女性の登場人物への関心は必ずしも高かったとはいえない。そこで著者は、サラを主題に、ヘブライ語聖書、七十人訳、『創世記アポクリュフォン』、ヨセフス『古代誌』を物語批評の方法論で読んでいる。その結果、サラの「深い特性(deep traits)」はアブラハムのキャラクターへの度重なる類似性だといえるという。と同時にそれだけに留まらず、複雑でときに相反するキャラクターでもある。

この研究で著者は3つの目標を掲げている。第一に、比較的無視されてきた女性の登場人物を認知し、再発見することへの貢献、第二に、理論的で登場人物主導の物語批評的アプローチを取ること、そして第三に、第二神殿時代の文学の幅広く代表的なサラ理解を提供するのみならず、いわゆる再話聖書への有益なアプローチ方法を示すことである。そこで、これまでの多くの研究が「比較(comparative)」アプローチを取ってきたのに対し、本研究は「対照(contrastive)」アプローチを取る。このアプローチにおいてはテクストを機械的に並置することがあるが、そのときに要素の相互作用を見落とさないように気を付ける必要がある。また基準テクストとそこからの派生テクストという構図を取ることで、後者を十全に読み込まないという事態にも注意しなければならない。

第二神殿時代のサラの物語は、『ヨベル書』とフィロンの著作にも出てくるが、前者はサラへの無関心ゆえに、後者は過度の抽象化ゆえに、本書では扱わない。

マソラー本文のサラ研究は、エピソード的、テーマ・類型論的、そして概論的なものに大別される。マソラ―本文のサラに関する研究は、古代近東の文脈からサラを解釈するSavina TeubalとTammi Schneiderをはじめ数多い。七十人訳、『創アポ』、『古代誌』、第二神殿時代文学のサラ研究はそれほど多くない。これら先行研究に対し、著者は、こうした諸文学においてサラがどんな登場人物なのか、そしてそうした人物像はどのようにして作られたのか、という理解から議論を始めようとする。

「キャラクター」とは何か。キャラクターは架空の存在でありながら、時に現実の人間よりも生き生きとした実体を持つ。この二極について、Marvin Mudrickは、架空の性質をpurist、現実感のある性質をrealisticと呼んだ。著者は後者をrealisticだけでなくmimeticと呼んでいる。つまり、自分が知っている人間との人間的な類比として、文学上の登場人物の作られた現実感に注目するのである。こうしたアプローチはWilliam Harvey, Seymour Chatman, Baruch Hochmanらに見られる。架空のキャラクターと生身の人間は同じではないが、キャラクターを知るために使う方法論や道具は生身の人間との経験の中から作られるのである。

Chatmanはstoryとdiscourseを区別する。storyは出来事や行為や人物が「何」なのかを語る。一方でdiscourseは内容が伝えられる表現や手段が「どのように」なされるかを語る。これらは互いに関係しあっている。なぜなら、discourseを通じてstoryへのアクセスが得られるからである。またstoryは、劇、映画、小説と異なったメディアにおいても同じものとして伝えられるという転移能力(transposability)を持っている。これはstoryの構成要素であるキャラクターの持っている力でもある。

さらにChatmanはキャラクターとプロットを区別する。アリストテレスは悲劇においてキャラクターをプロットの下位に置いた。構造主義者はさらに進んで、キャラクターとは純粋に機能的なものであり、物語のアクションのために使えるものだと考えた。Chatmanは「特性のパラダイム」としてのキャラクターという考えを打ち出している。Chatmanによると、キャラクターの「特性」とは形容詞で表せる類のもので、キャラクターのある程度持続的な側面を描写する。またキャラクターはプロットを含む時系列に縛られない。

著者のキャラクターへの関心は、他の人々への人間的な関心という側面を持っている。それゆえに、キャラクターを知るために、著者は実在の人物との具体的な類似に注目する。すなわち、実在の人物に対してするように、矛盾した行動や発話を説明し、精神的・感情的な行動の動機を探ろうとするのである。すなわち著者のmimeticなアプローチは、puristアプローチがそうであるように、表現されたテクストであるdiscourseと格闘しなければならない。

読者の役割:我々がそうしたdiscourseを読むとき、それが作り出された言語や世界についてできる限り学ぶことは確かに重要である。しかし、結局のところ我々がそこから引き出すことができるのは、キャラクターやその行為の動機についての我々自身の理解にすぎない。つまり、そうしたテクストやキャラクターの「他者性」を認識しつつも、自分自身の知識と経験についてそのイメージを構築するほかないのである。

実際Wolfgang Iserによれば、意味がテクストの背後に隠れているという近代的感覚は正しくなく、むしろ意味は読むという行為の中で生み出されるものだという。つまり、文学テクストは、実在物の世界と読者自身の経験世界の間にある特異な中道に存在するわけである。そして読むという行為は振り子のように振れるテクスト構造にピンを刺そうとするプロセスなのである。それゆえにテクストには常に間隙や空白を残すような「不確定性(indeterminary)」が不可避的に付きまとう。そうした間隙を埋めることはdiscourseには無理で、ただ読者のみがそれをできる。逆に言えば、不確定性は読者の参加に対する前提条件、すなわちテクストと読者を橋渡しするものでもある。ただし、テクストの意味が読者の読むという行為に委ねられているのだとすると、その意味は読者の出来栄えにかかってくることになる。サラのようなキャラクターもまた、discourse構造と読者の意識の結節点において構築される。

しかしながら、サラが出てくる聖書の物語は、我々とはかなり異なる文化の人々により、そうした人々のために書かれたものである。こうした状況に対し、聖書学者は第一に、「非歴史的(ahistorical)」なアプローチを取った。すなわち構造主義的に「テクストそのもの(text-in-itself)」を強調した。それは結局のところ現在の「私にとってのテクスト(text-to-me)」を意味した。第二の立場は、そうした非歴史的立場への反動による「歴史的・文脈的(historical-contextual)」なアプローチである。この立場で問題とされているのは、テクストの成立した時代の聴衆や読者である。

確かにこの「非歴史」と「歴史・文脈」の2つの立場があるが、これらはきれいに切り離せるものではない。著者はその中間を行こうとする。すなわち、キャラクターにきっかけとして動く物語批評が、サラにまつわる古代の受容や再話に出会うところである。いわば、著者の関心は文学的なものだが、それをするために基礎的な歴史や影響についても考慮するということである。

また著者は、サラ物語の受容を扱うに際し、「菌糸状(rhizomorphous)」モデル(C.V. Stichele < G. Deleuze and F. Guattari)を採用する。すなわち中心となる幹から枝が伸びていくような「樹木状(arborescent)」モデルではなく、菌糸状モデルには中心もヒエラルキーもなく、確固とした始まりも終わりもない。受容の歴史とは動的に開かれたものであり、いくつもの始まりや終わりがあるはずである。それゆえに、受容史の中で取り上げられるテクストはそれ自体の統合性および生成能力を持っているのだから、他の特権的なテクストとの比較のためだけにあるのではない。

また古代の受容史を語るに際しても、「受容(reception)」というきわめて受動的な概念ではなく、むしろもっと能動的に干渉する(active intervention)ような「再話(retelling)」などという表現の方が適切であろう。何となれば、あるテクストを「読む」ことはとりもなおさずそれらを「書き換える(rewrite)」することといっていい。

以上のことから、著者はテクストの原語や表現を重視し、また歴史的文脈に目を配りながらも、遠く時空を隔てたテクストの理解の困難さ(すなわち「他者性(otherness)」)を自覚するので、歴史上の著者や読者には必ずしも関係のない著者自身の社会的位置や個人的関心に基づき、現在生きている人間を理解するようやり方でサラを理解しようとする。すなわち、男性、四十代、ローマ・カトリック、北部ヨーロッパ人の子孫、北アメリカ生まれ、文化横断的な経験のある、古い言語と物語を愛する、異性愛者、健常者、既婚の父親としての著者から見たサラを描く。

著者はサラの人物描写(characterization)を判断するに当たり、Chatmanによる「特性の枠組み(paradigm of traits)」という概念を用いる。キャラクターの特性とは、ある程度持続的な個々人の性質を指すが、物語の進展に伴ってそれは互いに衝突したり、浮き沈みを経たり、変容したり、消えてしまったりする(優しかった人物が残忍になるなど)。こうしたキャラクターの特性を読者が理解するのは、現実世界の人間との交わりの経験に基づく。Shlomith Rimmon-KenanやHochmanはこうしたChatmanの見解を「静的にすぎる」とし、キャラクターの志向的次元の議論をも取り入れるべきと主張する。著者としては、キャラクターの特性の衝突や成長を受け入れつつ、ある程度の構造や一貫性を要求している。

こうした人物描写の判断基準として、Robert Alterは計量スケールを提案した。すなわち、行為、容姿、他の人物のコメント、セリフ、思考、地の文の説明の順で、その人物の特徴づけの明示性や確証性が表現されるというものである。Alterによれば、行為や容姿は読者に推論させるだけであり、コメントやセリフはそうした主張を判断させ、思考や内面的なセリフは比較的確かであり、そして語り手の説明が最も信頼できるという。このスケールは影響力が大きかったが、むろんその曖昧さに対する反対意見も多い。とりわけAlice Bachは、物語の語り手はある意味ではキャラクターの一人であり、その中立性を安心して信じるわけにはいかないと主張する。そして本研究のように女性の姿を明らかにするためには、語り手が語ること以外にも目を向けなければならない。それゆえに、われわれ読者は語り手も含めて、語られていることの軽重を判断しなければならないのである。

Rimmon-Kenanはキャラクターの「直接的定義(direct definition)」と「間接的定義(indirect definition)」を区別する。前者は形容詞や名詞で語られるものであり、後者は体格、社会的位置、倫理的嗜好、感情などのことである。この2つの定義の区別はやや曖昧で、その線引きについて意見が一致しないことがある。直接的定義の方が間接的定義によりも上に来ることもあるが、それは永続するものではない(直接的定義でダビデは「若い」が、いずれ年を取る)。

とにかくキャラクターの構築や読みの自由度は直接的カテゴリーと間接的カテゴリーの間で異なっており、またカテゴリーの内部でも異なっている。つまり人生と同じように、文学的な状況を評価する機械的な方法はない。経験に照らして語られていることの軽重を量ることによって判断されるのみである。

そこで著者はHarveyにならいつつ、「関係性(relationality)」に注目する。すなわちキャラクターと別のキャラクターとのつながりの中で、関係性が人物描写に影響するという理解である。キャラクターは個人で直線的に存在するのではなく、人間というクロスロードの上にいるのである。それゆえに、誰かとの衝突、ジェンダーなどに注目する必要がある。当然ながら物語の語り手もまた、関係性の中にあると考えるべきである。発話が行為とぶつかることも、初期の行為があとの行為とぶつかることもある。そしてそうした結果に至るまでの「プロセス」という「直線性の概念(concept of linearity)」も忘れてはならない。

以上より、サラのようなキャラクターの構築は、特性(traits)という有機的な付着物によって影響されるが、それはdiscourseによってきっかけを与えられ、読者の精神において判断され、集められ、分離され、また集められる。読むというプロセスは、勘を使って仮説を立てていく連続的なプロセスであり、また初期の証言や現在の証拠を統合し、キャラクターの過去と未来を検証するプロセスでもある。

2019年10月21日月曜日

『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"

  • Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.

『エノク書』研究はクムランにおけるアラム語断片の発見によって飛躍的に進展した。研究史の初期に、G.H. Dixはエチオピア語訳の『エノク書』は五つの文書からなるが、それらをひとつのコーパスとして見ることの重要性を訴えた。そしてエノク五書をトーラーの五書に関連付け、それらの似ている点を主張した。

クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。

Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。

そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。

論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。

一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。

「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。

以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。

2018年7月27日金曜日

父祖の系譜としての『4Q創世記注解』 Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection"

  • Juhana M. Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection: Interpretation of Genesis in 4Q252," in Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006, ed. Anders K. Petersen, Torleif Elgvin, Cecilia Wassen, Hanne von Weissenberg, and Mikael Winninge (Studies on the Texts of the Desert of Judah 80; Leiden: Brill, 2010), 63-81.
Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)
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論文著者は『4Q創世記注解』で博士論文を書いただけあって、たいへん説得的な論文である。
  • The Story behind the Text: Scriptural Interpretation in 4Q252 (Diss.; University of Helsinki, 2005).
全体として読むと、4Q252は困惑するような文書である。テクストのセクションをつなぐリンクや、全体を統合するはっきりとしたテーマのようなものを見つけることは困難である。聖書解釈のテクニックや方法論は、箇所によって大きく異なっている。文学的ジャンルへの分類や文学様式の同定も困難である。

このテクストの性質と目的については、とりわけGeorge BrookeとMoshe Bernsteinによって議論が交わされてきた。Bernsteinは4Q252を「シンプルな意味の釈義(simple-sense exegesis)」あるいは、主題的な統一性や特定のセクト的神学やイデオロギーを求めない創世記の釈義セレクションと見なしている(Niccumも同様の主張)。一方で、Brookeはテクストの背後に神学的・クムラン的なアジェンダがあると考える。

そこで、論文著者は4Q252を、形式、焦点、解釈テクニックに注目して検証する。まず文学形式について、論文著者は、再話聖書(rewritten scriptural text)、釈義的敷衍(exegetical paraphrase)、注解(commentary)、抜粋釈義(anthological exegesis)に分けている。これらのうち最初の3つは4Q252の中に見られる形式である。3つのうちでは、再話聖書と釈義的敷衍はより古い時代からあったが、注解形式が用いられるようになってからも、ヨセフスの聖書解釈に見られるように再話と敷衍は行われ続けた。

再話聖書とは、第一に、宗教的権威を持つベース・テクストに従い敷衍するものであり、第二に、ベース・テクストに織り込まれた付加的な編纂的、改訂的、解釈的な素材を含むものであり、そして第三に、独立したものである。4Q252でこの定義を完全に満たすのは洪水前の120年の解釈である。部分的には、洪水物語やアブラムの時系列などもこの形式の特徴を有しているが、これらはソースの物語から独立していない。

洪水物語やアブラムの時系列は、むしろ釈義的敷衍と呼ぶことができる。こちらはソースの物語から独立しておらず、また聖書テクストの代替的あるいは付加的な版を示そうともしていない。釈義的敷衍は聖書で語られている物語の筋や構造よりも、釈義上の問題に関心を持つ。

注解は、引用と解釈という形式で定義される。引用は省略されることもあるが、多くの場合にはある。引用と解釈とがはっきりとそれと分かるように、何らかの定式が置かれることもある。注解の代表例はラビ的なミドラッシュである。第二神殿時代には、クムランのテクスト以外にはあまり見られない。4Q252ではカナンの呪い、アマレクの物語、ルベンの祝福がこれに当たる。とりわけルベンの祝福には「ピシュロ・アシェル」という定式がある。ところで、実はペシェル定式は多くの場合預言テクストか詩篇で使われているので、それが五書で使われている4Q252は珍しい例である。

解釈の焦点を分類すると、「シンプルな意味の釈義」(Berstein)と「実現の釈義」(Vermes)に分けられる。シンプルな意味の釈義とは、テクストの難解なところや不明瞭なところを明らかにし、矛盾を解決するものである。この場合の矛盾とは、内的、間テクスト的、外的なものがあり得る。代表例は再話聖書やラビ的なミドラッシュ。一方で、実現の釈義とは、テクストのメッセージを正当化したり適応させたりして、新しい歴史的な状況の中で理解する試みである。その性質上、実現の釈義にはイデオロギーの要素がつきまとう。その最たる例が終末論的解釈である。代表例はクムランのペシェルである。興味深いことに、4Q252にはこのシンプルな意味の釈義と実現の釈義が両方見出される。

解釈テクニックについて、紙幅の都合から論文著者は詳述していないが、同定、時系列の計算、引用や暗示の使用などが認められるという。

さて、こうした4Q252の形式面を確認した後、論文著者はそのテーマの検証へと移る。著者はいくつかのテーマが繰り返されていると主張する。創世記のテーマは4Q252と当然共通しているが、創世記のすべてのテーマが扱われているわけではない。研究史においては、4Q252のテーマとして、「祝福と呪い」「性的な罪」「土地」「時系列」などさまざまに提案されてきたが、どれも十分ではない。「性的な罪」は、編纂者の目的にとっては偶然扱われているのであって、必然的ではない。それは創6章におけるネフィリムの問題を扱っていないことから明らかである。「祝福と呪い」についても、神によるノアの祝福が扱われていないことから、比較的重要ではないといえる。「土地」と「時系列」はより重要なものとして扱われているが、やはりすべてではない。

そこで論文著者は、「継続的な父祖の系譜」という観点を導入する。編纂者は意図的な神学的かつイデオロギー的なアジェンダに合致するような節を選んでいる。つまり、4Q252は創世記のコンピレーションではあるが、ランダムではなく意図的な選択に基づいているのである。この「継続的な父祖の系譜」は、歴史における選出と拒絶の繰り返しである。これはそもそも創世記そのものから4Q252が受け継いだ特徴である。

このように、4Q252は、世代を通じた前進のようなものと見なすことができる。その中には、イスラエルの祖先のつながりにおける重要なときが描かれている。ノアから始まるのは、新たな始まりとしての洪水は、新鮮な出発点だからである。そして多くの父祖の系譜は絶たれ、ただノアの系譜のみが続いていく。洪水物語は土地の再生でもある。ここで、父祖の系譜が土地の問題とつながっていく。

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の扱われ方を分析すると、父祖の系譜を受け継いでいるのは長男ではないことが分かる。アブラハムの長男イシュマエルとイサクの長男エサウは言及すらされず、ヤコブの長男ルベンは否定的に扱われている(「性的な罪」がここで少し扱われる)。つまり息子たちは年功序列で系譜を受け継ぐのではなく、選出されたり拒絶されたりしているのである。また、たとえばイサクはヤコブに対し、カナン人の女性と結婚するのではなく、レベッカの家族、すなわちテラの子孫から誰かをめとるように言っていることから、父祖の系譜を純粋なものに保つ傾向が見られる。アマレクについても同様である。アマレクの父親エリファズは、エサウとヘト人の妻アダの息子なので、アマレクはカナン人である。そうしたイメージから、アマレクは編纂者の同時代の敵を表している。

4Q252では、ヨセフの物語がまったく言及されていないことが特徴的である。論文著者はその理由を二つ挙げる。第一に、クムラン文書の中には、ヨセフやその子孫エフライムとマナセに対して、神学的あるいはイデオロギー的な嫌悪を持っているものがあるから。彼らの名前は共同体の敵として用いられるのである。第二に、ヨセフ物語の主な舞台はエジプトであるが、4Q252の主たる関心はカナンの土地のそこで起きた出来事だから。

いずれにせよ、祖父の特定の系譜(カナン、イシュマエル?、エサウ?、アマレク、ルベン)は、道徳的な失敗や不明瞭な出自ゆえに、はっきりと拒絶されている。また別の系譜(ヤペテ、アブラハムの兄弟、おそらくルベンやユダの兄弟たちも)は、無視されたりより中立的に扱われている。そして選ばれた者たちは、創世記での扱いよりも積極的に扱われている。そして長男が特権を奪われ、下の兄弟がそれを得ることが多い。つまり、4Q252は創世記を、ある子孫の選出、そして別の子孫の拒絶の物語として読んでいる。そのとき、拒絶され、のちに敵となる子孫もまた同じ系譜にいた者だったという事実は、敵は外側から来るものではないという考えがあるともいえる。ただし、この父祖の系譜の選出と拒絶とは、全体を覆うテーマというよりは、編纂者の視点の問題と捉えた方がよい。

4Q252は一見その構造が分かりづらい。個々のセクションだけでは、その神学的かつイデオロギー的な実体に厚みがない。しかしながら、全体として読むと、より強いメッセージが浮かび上がるのである。この意味で、Brookeの研究は核心を突いている。文書全体のジャンルの特定は不可能である。再話聖書と釈義的敷衍と注解の形式が同居する文書は、4Q252の他にはない。しいて言えば、「選択的な主題別の注解(selective thematic commentary)」であろうか。

4Q252は、ペシェル形式、太陽暦、アマレクへの言及などクムラン写本の特徴となる要素を用いている。ただし、注解の対象である創世記は、必ずしもクムランでは主要な聖書文書ではない。クムランでは申命記、イザヤ書、詩篇などの方がより重視されていた。おそらく編纂者は、あえて創世記を扱うことで、共同体の歴史と立場に異なった視座を与えようとしたのだろう。

以上より、4Q252の目的は、それをイスラエルの系譜の遡りとして、そして父祖の歴史における一連の選出と拒絶の連続的な語りなおしとして読んだときに、よく理解できる。編纂者は共同体の立場を神の選びとして正当化し、構成員の自信を強めようとしたのである。

2018年7月23日月曜日

クムランにおける聖書解釈 Vermes, "Bible Interpretation at Qumran"

  • Geza Vermes, "Bible Interpretation at Qumran" Eretz-Israel: Archaeological, Historical and Geographical Studies (Yigael Yadin Memorial Volume) 20 (1989): 184*-91*; repr. in Vermes, Scrolls, Scriptures and Early Christianity (The Library of Second Temple Studies 56; London: T & T Clark, 2005), ?
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クムラン聖書解釈の見取り図を描く古典的な論文である。本論文より以前に同様の試みをした研究には、F.F. Bruce, Otto Betz, Vermes, M.P. Horgan, Herve Gabrion, George J. Brooke, Devorah Dimantなどがあるが、本論文は聖書解釈の便宜的な分類をしている。

それに先立ち、論文著者はいくつかの用語の定義を行っている。まず「聖書」とは、後100年か少し前から、ラビ集団の中で認められたヘブライ語文書のまとまりを指す。死海文書が成立した時代にこれがどのようなものだったのかはよく分かっていないが、少なくともエステル記以外のすべての現在で言うところの聖書文書がクムランで見つかっている。死海文書中の聖書引用からも当時の正典を導き出すのは難しい。というのも、引用されているのは、「前の預言者」のうちではヨシュア記とサムエル記のみであり、諸書の中では詩篇と箴言のみだからである。

「解釈」について、論文著者はこれを3つのタイプに区分する:
  1. 編集タイプの暗示的解釈(『神殿巻物』)
  2. 聖書の個々の文書の解釈(再話聖書とペシェル)
  3. 主題別に集められたさまざまな文書からの抜粋の解釈
まず第一の「編集タイプの暗示的解釈」は、調和、合成、補足といった方法で聖書テクストを再構成するものである。代表例である『神殿巻物』は聖書そのものの改訂版といっていい。ここからは、第二神殿時代のソフェリームが、タルムード時代のラビたちよりも自由にテクストを扱っていたことが判る。

論文著者は第一の解釈の実例を4つ挙げている。第一に、「平行テクストの分類と照合」の例である『神殿巻物』51:19-52:3は、申16:21-22とレビ26:1でそれぞれやや異なって言及されている偶像崇拝の禁止をひとつにまとめ、両者が相互に解釈し合うようにしている。第二に、「調和的展開」の例である『神殿巻物』52:11-12は、レビ17:13で説明されている、殺した動物の血を地面に注がなければならないという規定の詳細を、申12:23-24に盛り込んでいる。第三に、「明確化するための付加」としては、申14:24で述べられている十分の一税を神殿に納めるには遠すぎる場所の距離が、『神殿巻物』43:12-15で「三日間歩くほどの距離」と定義されている。第四に、「改変と補足」では、申21:12-13で述べられている捕虜の女性と結婚するための決まりに対し、『神殿巻物』53:12-15では、その女性の花嫁支度を夫が世話すること、また完全に妻とするために7年かかること(それ以前はその女性は清浄規定に抵触する)が決められている。

第二の解釈タイプである「聖書の個々の文書の解釈」は、さらに下位区分として「再話聖書」と「ペシェル」に分けられる。「再話聖書」の代表例は『外典創世記』であり、これは聖書物語の明確化、装飾、完全化、更新のためにさまざまな説明的工夫を物語に盛り込むことで、論文著者は実例を3つ挙げている。第一に、「明確化するための付加」としては、創12:11-13でアブラハムが妻サラに自分の妹だと偽ってもらう箇所で、なぜアブラハムが命の危険を感じたかの説明が『外典創世記』19:13-16に付加されている。第二に、「装飾のための付加」としては、創12:15でわずかに語られているのみのサラの美しさを、『外典創世記』20:2-8は長々と説明している。第三に、「弁明的な置き換え」としては、創12:16でアブラハムがサラをエジプトの王に差し出したことで多くの家畜を得たことに対し、『外典創世記』20:10-11, 14, 29-32ではアブラハムがサラを失ったことを一晩中嘆いたあとに贈り物を得たことが説明される。

このように、「再話聖書」の目的は解説的なものであって、歴史的あるいは神学的なものではない。聖書の地名をアップデートするといった、一見歴史的な改変も、物語を判りやすくするための解説的な措置なのである。

ペシェル」は形式と内容によって定義される。形式的には、聖書テクストの引用(通常3節以下の長さ)から始まり、導入的な語が続いたあと、引用テクストの解説となる。『ハバクク書ペシェル』などが代表例である。内容的には、預言として理解される聖書テクストを(注解者の)同時代あるいはほぼ同時代の出来事に関係付ける。これは「成就の解釈」と呼ぶことができる。ペシェルの解釈者は歴史記述をしようとしていたのではなく、あくまで聖書解釈を目的としていた。もし歴史を書こうとしていたのなら、必要な部分だけを選んでいただろうが、実際には一節ずつ、一章ずつ解釈している。

論文著者はペシェルの4つの実例を挙げている。第一に、「秘密の歴史的解釈」。預言書には、聖書の預言者が感じていた終末、すなわちクムラン共同体にとっての現在が書かれているわけだが、ペシェル解釈者はそれを外部に知られないように専門用語(「ユダの家」「裁きの家」「義の教師」)を多用した難解なかたちで示す(『ハバクク書ペシェル』8:1-3)。第二に、「判りやすい歴史的解釈」としては、ナホ2:11の「ライオン」をセレウコス王のデメトリオスやアンティオコスと見なす(同時に「滑らかなものを探す者」「キッティーム」といった専門用語も用いる)。第三に、「神学的解釈」では聖書テクストに党派的な原理を読み込み、義の教師の役割などを強調する(『ハバクク書ペシェル』6:14-7:8)。第四に、「中立的解釈」では、歴史的あるいは教義的な暗示をまったく含まない解釈が扱われる(『ハバクク書ペシェル』12:13-13:4)。

第三の解釈タイプである「主題別の解釈」は、複数の文書からの抜粋を扱うこともあれば、同一文書からの連続的でない箇所を扱うこともある。論文著者は3つの実例を挙げる。第一に、「テスティモニア」の実例である4Q175は、3つのメシア的な預言の集成である(申5:28-9, 18:18-19; 民24:15-17; 申33:8-11)。第二に、「主題別の選集」の実例は、イザ40-55章に基づく『慰めの言葉(4Q176)』と、詩6-16篇に基づく『詩篇カテーナ(4Q177)』である。第三に、「クムラン・ミドラッシュ」では、注解者が異なった聖書箇所を用いて特定の主題に関する自らの教えを展開する。代表例は『フロリレギウム(4Q174)』である。

論文著者は、結論として、本論文ではカバーしなかった2点を挙げている。第一に、聖書解釈本は論文で扱った釈義的文書のみならず、神学的、論争的、説教的な文書にもあるが、スペース上の問題から取り扱わなかった。第二に、ポスト聖書的ユダヤ教における聖書解釈のコーパスに死海文書を入れ込んでみることは重要である。すなわち、外典、偽典、新約聖書、ヨセフス、タルグム、ミドラッシュにおける並行現象を調査するのである。

2018年7月15日日曜日

再話聖書から聖書注解へ Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary"

  • Moshe J. Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary" Journal of Jewish Studies 45 (1994): 1-27; repr. in Bernstein, Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013) 1:92-125.
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論文著者はまず、古代における字義的解釈(Simple-sense exegesis)を定義する。字義的解釈とは、理性的な読者が直面する言語、文法、文脈、問題における難点によって引き起こされる問題に注目するものであり、そしてそうした問題をある一定程度まで聖書テクストの条件や境界の中でのみ解決することを試みる解釈である。字義的解釈をしばしば含む古代の文学は、たとえば、古代の翻訳聖書再話聖書(『ヨベル書』『外典創世記』)である。これらの解釈は、歴史的観点や神学的観点からではなく、専ら解説的(expository)観点から、テクストのぎこちない構造をなめらかにし、明らかな矛盾を調和させた。

これに対し、注解(commentaries)は、翻訳のようにテクストの単語や文章に縛られないし、再話聖書のように原点の物語構造にそれほど密接に従属していない。むしろ、問題がある箇所や注解者の関心を引いた箇所を、選択的に次々に進んでいく。それは例えば、フィロンの寓意的解釈やクムランのぺシェルであるが、両者共に字義的解釈を超えたところをゴールにしている。

G. Vermesは、クムランにおける聖書解釈は、再話聖書とぺシェルに二分されるとしたが、この区別においては、クムランの字義的解釈は再話聖書(とある種のハラハー的著作)の方に見られることになる。ぺシェルは聖書テクストの字義的解釈よりも、その歴史的あるいは終末論的な実現を目指している。

論文著者によれば、『4Q創世記注解A』は、クムランで見つかったテクストの中で、その解釈方法の幅広さとテクストの範囲のまばらさに関して、著しく他と異なっている。それは、秘儀的でなくまた偏向的でない字義的解釈の「注解」の最初の一歩を体現しているからである。『創世記詞華集』と呼ばれたこともあるが、注解を加える箇所の選択に基準がなさそうに見えることから、この名称は当たらない。形式的にも概念的にも、古代にはこのようなテクストはなかった。

『4Q創世記注解A』の特徴を列挙すると、(1)それは党派的あるいは終末論的なペシェル聖書解釈ではない(わずかな例外を除いて)。(2)その解釈は暗示的でない。(3)同時代の出来事や当時の歴史を反映していない。(4)聖書を預言的に読まない。(5)中立的でも文脈的でもない。(6)再話聖書ではなく、引用+釈義を持つ「注解」である。(7)特定の問題を選択し、その問題だけが注解の対象になっている。(8)再話聖書と注解が同居していることから、新しいジャンルへの過渡的かつ暫定的な性質を持っている。

カレンダーやメシアニズムといった要素は、確かにクムランの党派的テクストの特徴ではあるが、これらは多かれ少なかれ当時のユダヤ人が共有していた感覚でもあった。『4Q創世記注解A』の個々のコメントのどこにも、党派的なメッセージは見出されない。それらのコメントは、ヘブライ語聖書の解釈上の問題に解答を与えているだけである。

もしこのテクストがクムランで発見されたのでなければ、われわれはそれがクムラン由来であるかもしれないと疑うかもしれないが、典型的なクムラン的テーマの欠如を訝しく思うことだろう。個々の解釈はあまりに多様なので、統一的なテクストとして読むべきではない。そうした意味で、このテクストはより早い時代に書かれた作品の抜粋なのかもしれない。

2018年7月5日木曜日

初期ユダヤ教注解の問題 Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary"

  • George J. Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary," Revue de Qumran 17 (1996), pp. 385-401.

4Q252の各セクションの多様性をどのように説明するかは難問である。この多様性の説明方法としては、3つ挙げられる。第一に、写本のテクストの再構成をした者が間違えたと考えることである。H. Stegemannは、1から3欄目の途中までと、そこから6欄目までとは別のテクストだったと考えた。しかし、写本の観察や、4Q252を通して創世記のテクストが選択的かつ多様に扱われていることから、これを2つの別のテクストと考えるのは難しい。

第二に、個別のセクションの解釈を詳細に扱い、それらが一体であるかどうかについては触れないという方法である。M. Bernsteinの基本的な考えは、ユダヤ教の注解は聖書箇所における問題点を解決することというものである。しかし、4Q252はテクスト上に問題がないところも扱っているので、この方法は適切でない。

第三に、実は統一的な目的があると考えるという方法である。R.H. EisenmanとM.O. Wiseによれば、編纂者は性的事柄や姦淫の非難と共に、逃避と救済の物語に関心を持っているという。M. Kisterによれば、ユダヤ民族の父祖たちへの約束と祝福、そして他民族の殲滅の正当性の議論が問題だという。論文著者は、土地の贈与、祝福と呪い、性的事柄などが編纂者の関心だとする。

これらの三つの方法は、いずれも不十分である。論文著者は、4Q252を表現するに最適な用語は「注解」だと述べる。ぺシェルやミドラッシュという用語は不適切である。ミドラッシュは通常はっきりと聖書が引用され、それと独立した解釈が付されるような明示的解釈(explicit interpretation)であるのに対し、4Q252にはいわゆる再話聖書(rewritten Bible)のような暗示的解釈(implicit interpretation)が含まれているし、そもそもクムランの解釈を後代の方法論であるミドラッシュと呼ぶことはアナクロニズムである。

E. Tovは、4Q252は第1欄から第3欄に反映している再話聖書と、第4欄から第6欄までのぺシェルの「中道(middle course)」にあると評価している。論文著者はこの議論をさらに進め、4Q252の中では暗示的解釈(再話聖書)と言えるセクションの中にも明示的解釈があるし、明示的解釈と言えるセクションの中にも他の聖書箇所への暗示的解釈があるという。

論文著者は、4Q252を「注解」と呼ぶが、それには3つの基準がある。第一に、注解はテーマではなく聖書のシークエンスに沿って解釈する。テーマに沿う形式は、ミドラッシュに顕著である。第二に、注解は相当程度の聖書テクストをカバーする。この点で、4Q252は限られた量しかカバーしていないので、より正確には、「抜粋されたあるいは選択的な注解(excepted or selective commentary)」と呼ばれるべきかもしれない。第三に、注解は、質的にベース・テクストに取って代わらない。『神殿巻物』はこの点で不明瞭である。4Q252は、ある程度これら3つの基準を満たしている。ただし、ヨセフ物語が欠如していることや、釈義が6章から始まっていることなど、例外的な部分もあるので、単なる注解というより、抜粋された注解である。

4Q252の特質を明らかにするためには、明示的解釈と暗示的解釈のコンビネーションと、その成立年代が重要である。明示的解釈の代表例は『ハバクク書ぺシェル』である。ただしこの注解は、テクスト上の問題以上に、解釈者の共同体にとってのハバクク書の重要性に関心を持っている。暗示的解釈は、明示的解釈よりも広範な読者層を期待できる。そうした観点からみると、『神殿巻物』はクムラン共同体を超えたオーディエンスを意図していたと考えられる。

また論文著者は、4Q252の統一性は、時間的なスキームにおいて表される主題的な関心のコンビネーションにかかっているとも指摘する。著者によると、最初のセクションは「現在を決定する過去のこと」(大洪水、カナンの呪い、アブラハムの時系列)を、真ん中のセクションは「現在の状況」(イシュマエルよりイサク、ソドムとゴモラ、イサクの奉献、イサクによるヤコブ祝福)を、そして最後のセクションは「共同体の希望の成就」(アマレクの殲滅、ヤコブの祝福)を解釈しているという。

成立年代に関しては、おそらく再話聖書の年代記の部分は、第4欄や第5欄の個別主義的な解釈よりも古い。4Q252の成立自体は、初期ヘロデ時代、すなわち前1世紀の後半と見なされている。

こうしたことをまとめると、共同体での生活は、次のような二極の間にある。一方では、主として通時的に書かれている再話聖書のセクションの読みには、さらにより広い読者層の期待がこめられている。他方では、主として共時的に書かれている明示的解釈のセクションを読みつつ、共同体の終末論的観点に注目する。

後1世紀の終わりまで、聖書の再話、パラフレーズなどがしばしば行われていた。一方で、前1世紀の後半くらいから、ぺシェルのような明示的な解釈も登場した。すなわち、両方の解釈法は重なっている時期があるのである。聖書の正典化に伴い、次第に明示的な解釈法が主流となり、暗示的な解釈法はタルグムが代表するようになった。4Q252の特徴は、明示的な釈義の要素を含むような暗示的な解釈と、他の聖書文書への暗示を用いるような明示的な釈義の両方を持っていることである。この点で、4Q252は、初期ユダヤ教の聖書解釈のよりよい理解のために、またクムランの聖書解釈の評価のために、極めて重要なテクストであるといえる。それは聖書の「注解」形式であり、ユダヤの聖書解釈が過渡期にあったことを我々に教えてくれる。

2017年3月27日月曜日

神殿巻物について Crawford, "The Temple Scroll"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 5: The Temple Scroll," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 84-104.
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Sidnie White Crawford

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『神殿巻物』の写本としては、11QTemple-a, 11QTemple-b, 11QTemple-c?, 4QRouleau du Temple, 4Q365aなどがある。このうち11QTemple-aは、クムラン洞窟で発見された文書の中で最も長い巻物である。

カテゴリー。『神殿巻物』は、そのもととなる聖書テクストと同じ権威を持つものとして自らを位置づけている。そういう点では、『ヨベル書』と同じように、偽典のカテゴリーに入れることができる。ただし、『神殿巻物』は『ヨベル書』よりも大胆なことに、神がシナイ山の上のモーセに直接一人称で語っている体で書かれている。それゆえに、もとの聖書テクストで三人称で書かれているところが、『神殿巻物』では一人称になる。

『ヨベル書』と同じように、『神殿巻物』は、別物と言うに十分なほど五書の基礎テクストからかけ離れている。また両者は共にシナイ山におけるモーセへの啓示の間のことと設定されている。一方で、『神殿巻物』は『ヨベル書』と異なり、物語部分が一切なく、全体が律法の書になっている。すなわち、再説聖書を拡張された聖書物語だと定義したG. Vermesの定義を、『神殿巻物』は広げることになった。

『神殿巻物』の作者/編者は、混合(conflation)、調和(harmonization)、修正(modification)、付加(addition)といったテクニックを用いて、この新しい律法書に五書以外の伝承を加えた。ただし、『神殿巻物』はすでに存在しているトーラーに取って代わるものではなく、その横に寄り添いつつ補完するものと見なされていた。

権威の有無。『神殿巻物』が共同体において権威ある文書と見なされていたかどうかははっきりとは分からない。ある文書が権威を持っていたことは、第一に、自らを権威あるものとして語っていること、第二に、他の宗派的テクストの中で権威あるものとして引用・暗示されていること、そして第三に、複数の写本が写されていることなどによって証明されるが、『神殿巻物』に関してはこのうち第一の基準しか満たしていない。そこで、『神殿巻物』は権威ある書物だった可能性があるとしか言えないのである。

成立年代。見つかっている写本の中で、4QRouleau du Templeが前150-前125年のものだとすると、『神殿巻物』の原型はクムラン共同体の成立以前に存在したことになる。つまり、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『アラム語レビ文書』などと同様に、『神殿巻物』も祭司的・レビ的サークルによって第二神殿時代に書かれ、クムラン共同体によって保存されていたと考えられる。保存といっても、4QRT以降しばらく共同体は『神殿巻物』に関心を示さず、おそらくヘロデ王による神殿再建やパリサイ派の台頭などといった同時代の出来事を受けて、同書を再評価し、11QTemple-a(前25年-後25年)と-b(後20-50年)を作成したと考えられる。

資料と内容。『神殿巻物』は合成テクストだと考えられる。Andrew WilsonとLawrence Willsは5つのソースを想定し、Michael Wiseは4つのソースを想定している。著者は4つのソース――神殿資料(3-13, 30-47欄)、祭暦(13-30欄)、清浄規定集成(48-51欄)、申命記的パラフレーズ(51-66欄)――に序文を加えた5セクションを想定している。『神殿巻物』は出34における、モーセがシナイ山の上で二つ目の契約を受け取るところから始まる。その理由は、第一に、同箇所で神がモーセに一人称で語っているからであり、第二に、二つ目の契約から始めることで、それ以降のすべての律法が永遠に有効になるからである。さらにここには申7:25-26もまた織り込まれている。このように、文書作者は、混合、調和、修正、付加といったテクニックを活用している。

神殿資料。この部分では、巨大な神殿の見取り図が示される。これは、幕屋(出25-27)、ソロモン神殿(王上6)、そしてエゼキエル神殿(エゼ40-48)を基にしている。その後、神殿にある中庭の描写に移る。ここで『神殿巻物』は、通常であれば二つあると説明される中庭が三つある(祭司とレビ人のみ入る内庭、二十歳以上のイスラエル人が入る中庭、イスラエル人の女性、子供、改宗者が入る外庭)と述べている。非イスラエル人のための庭はない。

祭暦。この部分では、神殿祭儀とさまざまな祭礼について説明されている。その基本テクストである民28-29とレビ23とに、作者は二つの発明を加えている。第一に、祭司の任命のための祭りと、第二に、初物の収穫祭(大麦、小麦、葡萄酒、油)である。こうした祭りを加えることにより、作者はレビ記の暦と民数記の暦とを調和させている。『神殿巻物』の暦は、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『律法儀礼遵守論(4QMMT)』などと同じ364日の太陽暦である。

清浄規定。この部分について、Andrew WilsonとLawrence Willsは別の資料であると指摘したが、Michael Wiseは作者がいくつかの清浄規定を引いてきて、神殿資料の間に入れたのだと説明した。ここで文書作者はmaximalistのアプローチを取り、既存の清浄規定を極めて広い範囲に当てはめて解釈している。たとえば、出18:14-15で「女性のそばによってはならない」とされていることを、妻と性交して射精した者は三日間神殿の町へと入ってはならない(45:11-12欄)と拡大解釈している。同様の解釈は『ダマスコ文書』(12:1-2)にも見られる。これは、4QMMTを含む、祭司的・レビ的な解釈伝統の特徴である。

申命記的パラフレーズ。Lawrence Schiffmanによると、この部分で申命記が基本テクストとして機能しているが、文書作者は五書の他の文書や他の聖書文書からの素材を織り込んで、自らの神学的目的に合うような申命記の解釈を作り出したという。作者は単純に申命記を引用したり、他の五書テクストと調和させたり、解釈を付け加えたり、さらに法的資料を付け加えたりしている。ただし、作者が用いた申命記が現在のマソラー本文と同じものだとは言えないことには注意すべきである。またここでのパラフレーズは、『神殿巻物』が申命記に取って代わることを意図しているのではなく、それに寄り添い、同程度の権威を持って、シナイ山におけるモーセへの神の顕現を示すことを意図している。

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2017年2月20日月曜日

クムラン文書の再吟味 Bernstein, Reading and Re-reading Scripture at Qumran

  • Moshe J. Bernstein, Reading and Re-reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013).
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Moshe J. Bernstein

Brill Academic Pub 2013-06-21
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本書は著者の死海文書に関する論文集である。本書で扱われている問題は広い範囲に渡る。たとえば、「再説聖書(Rewritten Bible)」という用語は、Geza Vermesによって用いられてから、さまざまな研究者たちによって極めてルーズに使わてきた結果、文学ジャンルを指す用語というよりは、むしろそのプロセスとして理解されているが、著者はVermes当時のより狭義の意味合いに戻すべきだと指摘する。

『創世記注解A』とも呼ばれる4Q252について、著者はそれを、テクストにおける謎を解決しようとするシンプルな意味での「注解」と見なされるべきであるという。そして単純にある人物/たちによって著された書物というより、さまざまな文書から素材を抜粋して編集されたものであるという。

『外典創世記』については、しばしば研究者たちは同書に見られるアラム語での聖書引用から当時アラム語タルグムがあったことを示そうとするが、著者はこの見解を否定している。しかし、『外典創世記』のようなアラム語「再説聖書」の存在がタルグム的な聖書解釈アプローチに影響を与えた可能性は否定していない。

ラビ文学との関係については、アケダーにおける天使の記述に関するなどを検証した結果、ラビ文学に保存されている解釈伝統は、『ヨベル書』などにすでに表されていることを指摘している。

以上のような細々とした検証とは別に、著者の研究の大きな特徴は、死海文書を扱う際にある文書をどう分類し、そのデータを解釈するかという点を重視することである。著者は読者に対し、常にまずデータを分類し、基本的な分析のカテゴリーを作成することを思い出させる。

この姿勢は、著者の「ジャンル(genre)」の問題への関心と結びついている。著者は、ある文書をどのジャンルに分類するかをひとつのゴールに設定しており、そうした方法論が生産的であることを認めつつも、そうしたジャンルの理論というものが古代における文書の作者自身の問題ではなく、結局のところ現代の読者の学問的な分析の道具に過ぎないことも意識している。このことは、著者が重視する他の用語である「様式(form)」と「方法論(method)」にも言えることである。

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2016年10月7日金曜日

外典・偽典における聖書解釈 Dimant, "Use and Interpretation of Mikra in the Apocrypha and Pseudepigrapha"

  • Devorah Dimant, "Use and Interpretation of Mikra in the Apocrypha and Pseudepigrapha," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 379-419.
本論文は、外典と偽典における聖書解釈がどのようなものであるかをまとめたものであるが、それ以上に、聖書解釈一般の方法論の概観にもなっている優れた一作である。著者によれば、これまでの研究の弱点は、特定の個々の場合の分析によって一般化していくという、帰納法的なアプローチを取っていたため、限定的かつ断片的な方法論に終始していたことにあったという。すなわち、ある箇所で聖書的要素が何を含意しているのか、ということのみに注目してきたわけだが、論文著者はそれがどのように、またなぜそうしたことを示しているのか、という機能的な部分にまで論点を広げようとする。著者はこれを「機能的・構造的な分析形態(the functional-structural form of analysis)」と呼んでいる。

この分析において大きな支柱となるのが、外典・偽典における二つの形式的なカテゴリーである:すなわち、「構成的(compositional)」と「解説的(expositional)」な文書である。前者において、聖書的要素は、外的なマーカーなしにテクストに織り込まれつつ含意されるが、後者において、それらははっきりとした外的なマーカーと共に詳細に説明されている。

こうした形式の違いは、むろん目的の違いによるものである。解説的文章の目的は聖書テクストを説明することであるため、しばしば聖書テクストを見出し(レンマ)に掲げることで、解説部分と区別している。こうした形式の代表的なものは、ミドラッシュ、クムランのペシェル、フィロンの律法注解、そして新約聖書における旧約引用などである。

一方で、構成的文章は聖書からは独立した新しいテクストを創造することを目的としているため、聖書的要素を自身の一部にしている。構成的文章の例としては、物語(narrative)、詩篇、遺訓、知恵、そして論説(discourse)などのジャンルが挙げられる。構成的文章は、解説的文章と異なり、聖書的要素を特定の様式のもとで導いたりはせず、それらを自らの記事の中に織り込んでいく。これは外典や偽典によく見られるジャンルである。

論文著者は、解説的文章における解釈のことを「釈義(exegesis/hermeneutics)」、そして構成的文章における解釈のことを「解釈(interpretation)」と呼んでいる。

解説的文章における聖書の明示的な使用方法(explicit use of Mikra in exposition)を論文著者は二つ挙げている。第一に、引用である。しかしながら、外典や偽典においては聖書の明示的な引用は比較的少ない。少ない中で際立っているのが、論説ジャンルにおける五書から引用である。また祈りが神の行為と神の言葉とに言及する際に、行為は暗黙的な方法で、そして言葉は明示的で正確な引用によって示されている。聖書を引用することで、解釈者たちは、自分たちの時代を引用元の時代と「同一視(equation)」し、また引用で言われていることが自分たちの時代に「実現(actualization)」したことを示している。これはクムランのペシェルの特徴でもある。

第二に、人物や状況への明示的な言及である。こうした言及には二通りある:第一に、聖書の登場人物のカタログ、そして第二に、人物や状況への個別の言及である。登場人物のカタログは、多くの場合、論説の中でも奨励の箇所に出てくる。登場人物たちは時系列に並べられ、その役割を冠されている。注目すべきは、そうしたカタログには、善人のみならず悪人も登場していることである。第二の個別の言及は、論説や祈りの箇所に出てくる。たとえば、ディナの強姦のエピソード(創34)は、『ユディト記』、『レビの遺訓』、そして『ヨベル書』に出てくる。

では、構成的文章における聖書の暗黙的な使用方法(implicit use of Mikra in composition)とはどのようなものか。それらは、解説的文章のように、解釈のために秩序だっているわけではなく、神の言葉や行為を表現しているわけでもない。はっきりとしたマーカーによって、それが聖書に基づいていることが示されることもない。読者の読解力がそこに聖書的要素を読み取るのである。この方法には、以下の三種類がある:第一に、暗黙的な引用、第二に、暗示、そして第三に、モティーフとモデルである。

暗黙的な引用は、外典や偽典の最も特徴的な点のひとつである。これらのジャンルにおいて、引用は明示されないままテクストに織り込まれている。特に、「自由な物語(free narrative)」、「聖書の拡張(biblical expansion)」(たとえば再説聖書[Rewritten Bible])、そして「偽典的伝記(pseudepigraphic biography)」に、そうした特徴が見られる。「自由な物語」における暗黙的な引用は、聖書のスタイルや形式を模倣することが多い。著者は、自分の語る物語と聖書の物語とのアナロジーを期待しているのである。「再説聖書」において暗黙的な引用がなされる場合、もとのテクストにあった要素の解釈的な入れ替え(exegetical substitutions)や、編集的な改変(slight editorial alterations)がなされることが多い。

第二の暗示は、定義することが困難なため、研究が進んでいない。ただし、暗示には、独立した外部のテクストに言及する特別なシグナルが用いられている。そのシグナルとなる、聖書の特定の箇所に基づいたモティーフ、鍵語、そしてフレーズなどに注目するべきである。こうした暗示は、特に偽典的な枠組みにおいて鍛えられてきた。

そして第三のモティーフとモデルは、特定の用語やフレーズによって示される。『トビト記』は、明らかにヨブ記をモティーフとして、またモデルとして書かれているが、『トビト記』にはそのことを明示的に示す言及のようなものはない。そもそも物語のプロットがヨブ記から取られているわけではなく、独立した別の物語である。しかしそこに見られる類似性は、新旧の作品を比較することを可能にする。そのとき、旧作品は真作品に統合されるわけではない。

2015年10月5日月曜日

ヨベル書について Crawford, "The Book of Jubilees"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 4: The Book of Jubilees," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 60-83.
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アビュシニアン教会(エチオピア教会)でのみ正典とされる『ヨベル書』の諸特徴を述べた一章を読んだ。著者は同書のジャンルを次のように述べる:
Rewritten Scripture, located at the point on our spectrum where the act of scribal intervention into a base text(s) becomes so extensive that a new, distinctive composition is created. (p.62)
このように、ベース・テクスト(創1-出14)とは別の新たな作品として書かれた書物ではあるが、トーラーに取って代わるものとして書かれたわけではない。第一の律法たるトーラーの横に並ぶものとして書かれたといえる。ベース・テクストからの引用は、引用元が分かる程度にされているが、短いフレーズに限られ、引用というより暗示というべきである。聖書文書以外にも、4QReworked Pentateuchやアラム語レビ文書、そして『エノク書』といった第二神殿時代の文学をもソースに用いている。書かれた時期としては前170-150年、場所はパレスチナであると考えられる。

著者は『ヨベル書』の特徴を4つに分けて説明している:
  1. 時間感覚(chronology)
  2. 律法と倫理(law and ethics)
  3. 義人の例としてのイスラエルの父祖たち(elevation of Israel's ancestors as righteous examples)
  4. 祭司制(priestly line)
  5. 終末論(eschatology)
1.時間感覚。364日の太陽暦を用いている。のみならず、月に依拠する太陰暦を拒絶している。数字7に基づいた時間システムを持っている。レビ記25:8-12では、ヨベルの年について、50年目の年のことだと説明しているが、『ヨベル書』では、49年の期間のことを指している。そしてすべての重要な出来事がこの49年のサイクルから算出されることにより、すべての人間の歴史は神のプランによって予め定められているという考え方をする。こうした考え方は、『第一エノク書』、『レビの遺訓』、ダニエル書、死海文書のいくつかなどにも見出されるものであるが、『ヨベル書』において最も発達したといえる。

2.律法と倫理。シナイ山においてモーセに与えられた律法は、実はそのとき初めて明らかにされたのではなく、すでに父祖たちの時代から実践されていたと考える。安息日は特に強調されており、出35:2同様、これを破った者は死罪であるとされている。安息日の戦闘行為や性行為も禁止されている。ラビ文学では性行為は禁止されていないので、これは特徴的である。『ヨベル書』は律法遵守の範囲を広く取り、さらに強調している。

3.イスラエルの父祖たちを称えること。さまざまな祭りはモーセに端を発するのではなく、父祖たちの時代から続いているものである。たとえば、週の祭り(ノア)、スッコート(アブラハム)、ヨム・キプール(ヤコブ)といった具合である。また、創世記に書かれている父祖たちの「ふさわしくない行為」は『ヨベル書』では削られ、彼らがあたかも完全な義人であったかのように描かれている。

4.祭司制。ノアを祭司制のはじめとして、特にレビに名誉を付している。創世記においてレビは重要な登場人物とはいえないが、『ヨベル書』は工夫してレビの重要度を上げている。レビが出てくるエピソードは、34章、31章、32章などがあるが、いずれもレビがいかに重要な人物であるかを説明するために、ベース・テクストに解釈を加えている。また祭司は、書かれた律法の守護者としての役割を果たしており、彼らによって律法の学習や遵守、そして伝統の保持が守られている。

5.終末論。臨在の天使などを登場させることにより、黙示的な改変を加えている。こうした改変は、巣として第二神殿時代の諸文学との影響関係が濃厚で、多くは創世記や出エジプト記には出てこない話である。

以上のように、『ヨベル書』は聖書解釈を著述活動として見なす伝統(Enoch, pre-Samaritan texts, Reworked Pentateuch)に属しており、新しい文書を著すというこのグループの自由の伝統を十全に活用している。これはラビ的伝統とは一線を画しているといえる。しかし、この著述活動は、聖書を乗り越えることを意図してはいない。第一に、『ヨベル書』はトーラーをFirst Lawと考えており、その権威を認めている。第二に、『ヨベル書』はトーラーを横に置いて読むように書かれている。ただし、クムランのエッセネ派などにおいては、『ヨベル書』は神的な権威を持つ文書と見なされており、これは初期キリスト教徒たちにも見られる現象である。しかしキリスト教においては、エチオピア教会以外では正典とはされなかった。

2015年8月27日木曜日

「再説聖書(Rewritten Bible)」再考 Crawford, "Introduction"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 1. Introduction" in id., Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2008), pp. 1-18.
Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature)Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature)
Sidnie White Crawford

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いわゆる「再説聖書(Rewritten Bible)」研究のまとめ。本書の中で、Crawfordは、ヘブライ語聖書テクストの伝承の歴史と、そのテクストの解釈の方法とを扱っている。第二神殿時代あるいはギリシア・ローマ時代の独特の解釈形態を、「Rewritten Bible」と名付けたのはGeza Vermesだった。彼はこのジャンルを、「現在の聖書のユダヤ的な正典の中に含まれる書物に対して、物語やテーマにおいて密接に関わっているもの、および現在の正典テクストの再整理、合成、補足など再加工したもの」と定義づけている。

しかしながら、著者はVermesの用語のRewrittenとBibleとを共に再考の必要ありと考えている。Rewrittenという語は、すでにある書物の存在を前提としている。しかし、すでに存在する書物を解釈するという営為自体は、第二神殿時代より前から行われていた。Michael Fishbaneの言う「聖書内聖書解釈(Inner biblical exegesis)」がそれである。聖書内聖書解釈は、写字生によって行われる。彼らは単に写本を写していただけではなく、受容されていたテクストにたえず干渉していたのである。それは彼らの役割が、正しいテクストを伝えることと共に、聖書テクストを同時代の状況にふさわしいものにすることだったからである。

またBibleという語にも問題がある。なぜなら、第二神殿時代には正典化された聖書など存在しなかったからである。あったのは、ユダヤ人によって一般的に権威ありと考えられていた文書群のみである。そこで著者はBibleの代わりにScriptureという語を用いることを提案している。すなわち、五書と、ほぼすべての預言書、そしてコーパスの不明な諸書の総称である。当時の聖書に含まれる文書を少しでも伝えているものとしては、ベン・シラ、ルカ、第四エズラ記、ヨセフス、そしてクムラン文書(4QMMT)などがある。

ある書物が権威ありと認められていると判断するには、四つの基準が考えられる:第一に、別の書物の中で権威あるものとして引用・暗示されていること。第二に、注解の対象になっていること。第三に、自身が権威あるものを宣言していること。そして第四に、ある共同体内でたくさんコピーされていることである。しかし、クムラン共同体では、たとえば申命記が上の基準をすべて満たすが、エステル記のコピーは見つかっていない。

こうしたことから、著者はVermesの言う、「ジャンルとしてのRewritten Bible」という用法を問題ありとし、むしろ「カテゴリーとしてのRewritten Scripture」という考え方をするべきだと述べている。著者がこのように考えるに至ったのは、Vermes以降の研究史(Philip Alexander, Moshe Bernstein, George Brooke, Emanuel Tov)に沿って、自然な帰結として導かれている。著者は特に、語の定義をより広くしようとしたBernsteinと、ジャンルではなくカテゴリーとして考えるべきと述べたBrookeに多くを負っているという。

著者自身の意見は、Rewritten Scriptureをジャンルではなくカテゴリーとして考えるというものである。そのとき、このカテゴリーの中に入るテクストは、すでに権威ありと見なされているテクストへの執着と同時に、解釈を目的とした写字生の干渉とを共に示すことになる。そこから、著者はRewritten Scriptureを4つのスペクトルに分ける。
  1. グループを超えて権威ありと認められる文書で、既存のテクスト内のみでharmonizationが行われるもの。
  2. 既存のベース・テクストの外部の材料を用いた干渉をするが、それによって新しい著作を生み出そうとするわけではないもの:Reworked Pentateuchとも呼ぶ。
  3. 既存テクストへの干渉が激しく、もはや新しい著作と呼べるもの:ヨベル書、神殿巻物など。
  4. 上の定義に周辺的に関わるだけのもの:外典創世記、レンマ型注解など。
これに加えて、上の定義に入らないものを著者はparabiblical textsと呼んで区別する。これには、第一エノク書、偽エゼキエル、アダムとイブの生涯、ヨセフとアセナトなどがある。

上の4つのものに共通する特徴としては、多くが特に祭司制度に強く関心を持っていることが挙げられる。これはパリサイ派的・ラビ的な解釈とは相反する特徴である。