- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.
2021年7月8日木曜日
第二神殿時代のサラ #6
第二神殿時代のサラ #5
- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.
2021年7月1日木曜日
第二神殿時代のサラ #4
- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 139-85.
GA 19.7-10:サラがはっきりと登場するわけではないが、それを引き出すことができる。アブラハムは夢を見ているが、それは神からのコミュニケーションにおいて、のちにサラに「彼は私の兄です」と言わせることのお墨付きをもらうという意味がある。
GAはこの場面でサラに直接アブラハムに語りかけさせている。同様の発明はシリア・キリスト教の説教などに見られる。ここでのサラの発言には相互関係のトーンが感じられる。パートナーとしてアブラハムの恐怖心を取ったり、少なくとも共有したりして救ってあげたいという主体的な気持ちである。これでアブラハムは幸せな結末を迎えるわけだが、ここ(19.21)でテクスト上の欠損がある。本来であればここにサラの反応が描かれていたのかもしれないが、それは失われている。分かっていることは、アブラハムの描写によれば、「彼女はその夜私の言葉ゆえに泣いた」という。そしてサラは「5年間」人前から姿を消したとされている(19.23)。並行個所を保存している可能性のあるシリア教父の説教は、サラがアブラハムのアドバイスを無視して、ぼろ切れやホコリの下に自分の美しさを隠したと述べている。以上のように、アブラハムに直接語り掛けるサラには行為者としての主体性を感じられるし、アブラハムのために泣くサラからもある程度の働きかけを見出すことができる。
2021年6月14日月曜日
第二神殿時代のサラ #3
- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 88-138.
創20:1-18:ゲラルにおけるアビメレクとの物語においても、七十人訳の発展が見られる。アビメレクはアブラハムに金を支払っているが、それについてサラに「あなたの顔の名誉(ティメー)のために」と述べている。このティメーという語は「名誉」や「尊厳」といった意味と共に、「値段」や「価値」といった意味も持っている。つまりここには、サラの顔の美しさを商品と見なす意識が現れている。またマソラ本文ではエジプトのときと異なり、ゲラルではサラもまた詐欺の片棒を担ぐことである程度の意志を示していたが、七十人訳ではゲラルでも沈黙し、意思を放棄しており、ほとんど無気力のままである。こうして七十人訳のサラの態度は極めて一貫性を欠いた(erratic)なものとなっている。ただし、登場人物のmimeticな理解は、その人物に統一性だけを見るのではなく、こうした人間的な非一貫性や矛盾をも考慮に入れるべきである。
創21:1-14:イサク誕生に関して、マソラ本文はサラの笑いについてアンビバレントな評価を下していたが、七十人訳における彼女の笑いは本当に幸せであることを示している。6節は「主は私のために笑いを作ってくれた。このことを聞く者は皆私と共に喜ぶだろう」となっている。つまり、これはサラが他の者たちと共有することを期待する幸せな笑いなのである。8節の「(イシュマエルが)イサクと遊んでいる」というところのパイゾーはしばしば性的なニュアンスを含む語だが、ここではそれは問題となっていない。むしろ問題は「イサク『と』」のメタという前置詞である。なぜなら9-10節で「私の息子イサク『と』財産を相続することはできない」にも同じ前置詞が使われているからである。イサク誕生の喜びのすぐあとにハガルとイシュマエルを追放させるサラは、子を持つ母親のステレオタイプを叩き切っている。これは語り手がサラの複雑な気持ちに寄り添いつつ真に人間的に扱うというよりも、単に神の約束の成就の道具として扱っているということである。こうしてわずかに見えたサラのイニシアチブはまたしても弱められてしまっている。
2021年6月3日木曜日
第二神殿時代のサラ #2
- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.
2021年5月26日水曜日
第二神殿時代のサラ #1
- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.
2019年10月21日月曜日
『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"
- Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.
Mohr Siebrek Ek
クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。
Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。
そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。
論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。
一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。
「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。
以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。
2018年7月27日金曜日
父祖の系譜としての『4Q創世記注解』 Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection"
- Juhana M. Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection: Interpretation of Genesis in 4Q252," in Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006, ed. Anders K. Petersen, Torleif Elgvin, Cecilia Wassen, Hanne von Weissenberg, and Mikael Winninge (Studies on the Texts of the Desert of Judah 80; Leiden: Brill, 2010), 63-81.
![]() | Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH) Aandres Klostergaard Petersen Brill Academic Pub 2009-05-15 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
- The Story behind the Text: Scriptural Interpretation in 4Q252 (Diss.; University of Helsinki, 2005).
洪水物語やアブラムの時系列は、むしろ釈義的敷衍と呼ぶことができる。こちらはソースの物語から独立しておらず、また聖書テクストの代替的あるいは付加的な版を示そうともしていない。釈義的敷衍は聖書で語られている物語の筋や構造よりも、釈義上の問題に関心を持つ。
注解は、引用と解釈という形式で定義される。引用は省略されることもあるが、多くの場合にはある。引用と解釈とがはっきりとそれと分かるように、何らかの定式が置かれることもある。注解の代表例はラビ的なミドラッシュである。第二神殿時代には、クムランのテクスト以外にはあまり見られない。4Q252ではカナンの呪い、アマレクの物語、ルベンの祝福がこれに当たる。とりわけルベンの祝福には「ピシュロ・アシェル」という定式がある。ところで、実はペシェル定式は多くの場合預言テクストか詩篇で使われているので、それが五書で使われている4Q252は珍しい例である。
解釈の焦点を分類すると、「シンプルな意味の釈義」(Berstein)と「実現の釈義」(Vermes)に分けられる。シンプルな意味の釈義とは、テクストの難解なところや不明瞭なところを明らかにし、矛盾を解決するものである。この場合の矛盾とは、内的、間テクスト的、外的なものがあり得る。代表例は再話聖書やラビ的なミドラッシュ。一方で、実現の釈義とは、テクストのメッセージを正当化したり適応させたりして、新しい歴史的な状況の中で理解する試みである。その性質上、実現の釈義にはイデオロギーの要素がつきまとう。その最たる例が終末論的解釈である。代表例はクムランのペシェルである。興味深いことに、4Q252にはこのシンプルな意味の釈義と実現の釈義が両方見出される。
解釈テクニックについて、紙幅の都合から論文著者は詳述していないが、同定、時系列の計算、引用や暗示の使用などが認められるという。
さて、こうした4Q252の形式面を確認した後、論文著者はそのテーマの検証へと移る。著者はいくつかのテーマが繰り返されていると主張する。創世記のテーマは4Q252と当然共通しているが、創世記のすべてのテーマが扱われているわけではない。研究史においては、4Q252のテーマとして、「祝福と呪い」「性的な罪」「土地」「時系列」などさまざまに提案されてきたが、どれも十分ではない。「性的な罪」は、編纂者の目的にとっては偶然扱われているのであって、必然的ではない。それは創6章におけるネフィリムの問題を扱っていないことから明らかである。「祝福と呪い」についても、神によるノアの祝福が扱われていないことから、比較的重要ではないといえる。「土地」と「時系列」はより重要なものとして扱われているが、やはりすべてではない。
そこで論文著者は、「継続的な父祖の系譜」という観点を導入する。編纂者は意図的な神学的かつイデオロギー的なアジェンダに合致するような節を選んでいる。つまり、4Q252は創世記のコンピレーションではあるが、ランダムではなく意図的な選択に基づいているのである。この「継続的な父祖の系譜」は、歴史における選出と拒絶の繰り返しである。これはそもそも創世記そのものから4Q252が受け継いだ特徴である。
このように、4Q252は、世代を通じた前進のようなものと見なすことができる。その中には、イスラエルの祖先のつながりにおける重要なときが描かれている。ノアから始まるのは、新たな始まりとしての洪水は、新鮮な出発点だからである。そして多くの父祖の系譜は絶たれ、ただノアの系譜のみが続いていく。洪水物語は土地の再生でもある。ここで、父祖の系譜が土地の問題とつながっていく。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の扱われ方を分析すると、父祖の系譜を受け継いでいるのは長男ではないことが分かる。アブラハムの長男イシュマエルとイサクの長男エサウは言及すらされず、ヤコブの長男ルベンは否定的に扱われている(「性的な罪」がここで少し扱われる)。つまり息子たちは年功序列で系譜を受け継ぐのではなく、選出されたり拒絶されたりしているのである。また、たとえばイサクはヤコブに対し、カナン人の女性と結婚するのではなく、レベッカの家族、すなわちテラの子孫から誰かをめとるように言っていることから、父祖の系譜を純粋なものに保つ傾向が見られる。アマレクについても同様である。アマレクの父親エリファズは、エサウとヘト人の妻アダの息子なので、アマレクはカナン人である。そうしたイメージから、アマレクは編纂者の同時代の敵を表している。
4Q252では、ヨセフの物語がまったく言及されていないことが特徴的である。論文著者はその理由を二つ挙げる。第一に、クムラン文書の中には、ヨセフやその子孫エフライムとマナセに対して、神学的あるいはイデオロギー的な嫌悪を持っているものがあるから。彼らの名前は共同体の敵として用いられるのである。第二に、ヨセフ物語の主な舞台はエジプトであるが、4Q252の主たる関心はカナンの土地のそこで起きた出来事だから。
いずれにせよ、祖父の特定の系譜(カナン、イシュマエル?、エサウ?、アマレク、ルベン)は、道徳的な失敗や不明瞭な出自ゆえに、はっきりと拒絶されている。また別の系譜(ヤペテ、アブラハムの兄弟、おそらくルベンやユダの兄弟たちも)は、無視されたりより中立的に扱われている。そして選ばれた者たちは、創世記での扱いよりも積極的に扱われている。そして長男が特権を奪われ、下の兄弟がそれを得ることが多い。つまり、4Q252は創世記を、ある子孫の選出、そして別の子孫の拒絶の物語として読んでいる。そのとき、拒絶され、のちに敵となる子孫もまた同じ系譜にいた者だったという事実は、敵は外側から来るものではないという考えがあるともいえる。ただし、この父祖の系譜の選出と拒絶とは、全体を覆うテーマというよりは、編纂者の視点の問題と捉えた方がよい。
4Q252は一見その構造が分かりづらい。個々のセクションだけでは、その神学的かつイデオロギー的な実体に厚みがない。しかしながら、全体として読むと、より強いメッセージが浮かび上がるのである。この意味で、Brookeの研究は核心を突いている。文書全体のジャンルの特定は不可能である。再話聖書と釈義的敷衍と注解の形式が同居する文書は、4Q252の他にはない。しいて言えば、「選択的な主題別の注解(selective thematic commentary)」であろうか。
4Q252は、ペシェル形式、太陽暦、アマレクへの言及などクムラン写本の特徴となる要素を用いている。ただし、注解の対象である創世記は、必ずしもクムランでは主要な聖書文書ではない。クムランでは申命記、イザヤ書、詩篇などの方がより重視されていた。おそらく編纂者は、あえて創世記を扱うことで、共同体の歴史と立場に異なった視座を与えようとしたのだろう。
以上より、4Q252の目的は、それをイスラエルの系譜の遡りとして、そして父祖の歴史における一連の選出と拒絶の連続的な語りなおしとして読んだときに、よく理解できる。編纂者は共同体の立場を神の選びとして正当化し、構成員の自信を強めようとしたのである。
2018年7月23日月曜日
クムランにおける聖書解釈 Vermes, "Bible Interpretation at Qumran"
- Geza Vermes, "Bible Interpretation at Qumran" Eretz-Israel: Archaeological, Historical and Geographical Studies (Yigael Yadin Memorial Volume) 20 (1989): 184*-91*; repr. in Vermes, Scrolls, Scriptures and Early Christianity (The Library of Second Temple Studies 56; London: T & T Clark, 2005), ?
![]() | Scrolls, Scriptures And Early Christianity (Library of Second Temple Studies) Geza Vermes Bloomsbury T & T Clark 2005-06-21 売り上げランキング : 2665242 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
それに先立ち、論文著者はいくつかの用語の定義を行っている。まず「聖書」とは、後100年か少し前から、ラビ集団の中で認められたヘブライ語文書のまとまりを指す。死海文書が成立した時代にこれがどのようなものだったのかはよく分かっていないが、少なくともエステル記以外のすべての現在で言うところの聖書文書がクムランで見つかっている。死海文書中の聖書引用からも当時の正典を導き出すのは難しい。というのも、引用されているのは、「前の預言者」のうちではヨシュア記とサムエル記のみであり、諸書の中では詩篇と箴言のみだからである。
「解釈」について、論文著者はこれを3つのタイプに区分する:
- 編集タイプの暗示的解釈(『神殿巻物』)
- 聖書の個々の文書の解釈(再話聖書とペシェル)
- 主題別に集められたさまざまな文書からの抜粋の解釈
論文著者は第一の解釈の実例を4つ挙げている。第一に、「平行テクストの分類と照合」の例である『神殿巻物』51:19-52:3は、申16:21-22とレビ26:1でそれぞれやや異なって言及されている偶像崇拝の禁止をひとつにまとめ、両者が相互に解釈し合うようにしている。第二に、「調和的展開」の例である『神殿巻物』52:11-12は、レビ17:13で説明されている、殺した動物の血を地面に注がなければならないという規定の詳細を、申12:23-24に盛り込んでいる。第三に、「明確化するための付加」としては、申14:24で述べられている十分の一税を神殿に納めるには遠すぎる場所の距離が、『神殿巻物』43:12-15で「三日間歩くほどの距離」と定義されている。第四に、「改変と補足」では、申21:12-13で述べられている捕虜の女性と結婚するための決まりに対し、『神殿巻物』53:12-15では、その女性の花嫁支度を夫が世話すること、また完全に妻とするために7年かかること(それ以前はその女性は清浄規定に抵触する)が決められている。
このように、「再話聖書」の目的は解説的なものであって、歴史的あるいは神学的なものではない。聖書の地名をアップデートするといった、一見歴史的な改変も、物語を判りやすくするための解説的な措置なのである。
「ペシェル」は形式と内容によって定義される。形式的には、聖書テクストの引用(通常3節以下の長さ)から始まり、導入的な語が続いたあと、引用テクストの解説となる。『ハバクク書ペシェル』などが代表例である。内容的には、預言として理解される聖書テクストを(注解者の)同時代あるいはほぼ同時代の出来事に関係付ける。これは「成就の解釈」と呼ぶことができる。ペシェルの解釈者は歴史記述をしようとしていたのではなく、あくまで聖書解釈を目的としていた。もし歴史を書こうとしていたのなら、必要な部分だけを選んでいただろうが、実際には一節ずつ、一章ずつ解釈している。
論文著者はペシェルの4つの実例を挙げている。第一に、「秘密の歴史的解釈」。預言書には、聖書の預言者が感じていた終末、すなわちクムラン共同体にとっての現在が書かれているわけだが、ペシェル解釈者はそれを外部に知られないように専門用語(「ユダの家」「裁きの家」「義の教師」)を多用した難解なかたちで示す(『ハバクク書ペシェル』8:1-3)。第二に、「判りやすい歴史的解釈」としては、ナホ2:11の「ライオン」をセレウコス王のデメトリオスやアンティオコスと見なす(同時に「滑らかなものを探す者」「キッティーム」といった専門用語も用いる)。第三に、「神学的解釈」では聖書テクストに党派的な原理を読み込み、義の教師の役割などを強調する(『ハバクク書ペシェル』6:14-7:8)。第四に、「中立的解釈」では、歴史的あるいは教義的な暗示をまったく含まない解釈が扱われる(『ハバクク書ペシェル』12:13-13:4)。
第三の解釈タイプである「主題別の解釈」は、複数の文書からの抜粋を扱うこともあれば、同一文書からの連続的でない箇所を扱うこともある。論文著者は3つの実例を挙げる。第一に、「テスティモニア」の実例である4Q175は、3つのメシア的な預言の集成である(申5:28-9, 18:18-19; 民24:15-17; 申33:8-11)。第二に、「主題別の選集」の実例は、イザ40-55章に基づく『慰めの言葉(4Q176)』と、詩6-16篇に基づく『詩篇カテーナ(4Q177)』である。第三に、「クムラン・ミドラッシュ」では、注解者が異なった聖書箇所を用いて特定の主題に関する自らの教えを展開する。代表例は『フロリレギウム(4Q174)』である。
論文著者は、結論として、本論文ではカバーしなかった2点を挙げている。第一に、聖書解釈本は論文で扱った釈義的文書のみならず、神学的、論争的、説教的な文書にもあるが、スペース上の問題から取り扱わなかった。第二に、ポスト聖書的ユダヤ教における聖書解釈のコーパスに死海文書を入れ込んでみることは重要である。すなわち、外典、偽典、新約聖書、ヨセフス、タルグム、ミドラッシュにおける並行現象を調査するのである。
2018年7月15日日曜日
再話聖書から聖書注解へ Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary"
- Moshe J. Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary" Journal of Jewish Studies 45 (1994): 1-27; repr. in Bernstein, Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013) 1:92-125.
![]() | Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies of the Texts of the Desert of Judah) Moshe J. Bernstein Brill Academic Pub 2013-06-21 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
これに対し、注解(commentaries)は、翻訳のようにテクストの単語や文章に縛られないし、再話聖書のように原点の物語構造にそれほど密接に従属していない。むしろ、問題がある箇所や注解者の関心を引いた箇所を、選択的に次々に進んでいく。それは例えば、フィロンの寓意的解釈やクムランのぺシェルであるが、両者共に字義的解釈を超えたところをゴールにしている。
G. Vermesは、クムランにおける聖書解釈は、再話聖書とぺシェルに二分されるとしたが、この区別においては、クムランの字義的解釈は再話聖書(とある種のハラハー的著作)の方に見られることになる。ぺシェルは聖書テクストの字義的解釈よりも、その歴史的あるいは終末論的な実現を目指している。
論文著者によれば、『4Q創世記注解A』は、クムランで見つかったテクストの中で、その解釈方法の幅広さとテクストの範囲のまばらさに関して、著しく他と異なっている。それは、秘儀的でなくまた偏向的でない字義的解釈の「注解」の最初の一歩を体現しているからである。『創世記詞華集』と呼ばれたこともあるが、注解を加える箇所の選択に基準がなさそうに見えることから、この名称は当たらない。形式的にも概念的にも、古代にはこのようなテクストはなかった。
『4Q創世記注解A』の特徴を列挙すると、(1)それは党派的あるいは終末論的なペシェル聖書解釈ではない(わずかな例外を除いて)。(2)その解釈は暗示的でない。(3)同時代の出来事や当時の歴史を反映していない。(4)聖書を預言的に読まない。(5)中立的でも文脈的でもない。(6)再話聖書ではなく、引用+釈義を持つ「注解」である。(7)特定の問題を選択し、その問題だけが注解の対象になっている。(8)再話聖書と注解が同居していることから、新しいジャンルへの過渡的かつ暫定的な性質を持っている。
カレンダーやメシアニズムといった要素は、確かにクムランの党派的テクストの特徴ではあるが、これらは多かれ少なかれ当時のユダヤ人が共有していた感覚でもあった。『4Q創世記注解A』の個々のコメントのどこにも、党派的なメッセージは見出されない。それらのコメントは、ヘブライ語聖書の解釈上の問題に解答を与えているだけである。
もしこのテクストがクムランで発見されたのでなければ、われわれはそれがクムラン由来であるかもしれないと疑うかもしれないが、典型的なクムラン的テーマの欠如を訝しく思うことだろう。個々の解釈はあまりに多様なので、統一的なテクストとして読むべきではない。そうした意味で、このテクストはより早い時代に書かれた作品の抜粋なのかもしれない。
2018年7月5日木曜日
初期ユダヤ教注解の問題 Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary"
- George J. Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary," Revue de Qumran 17 (1996), pp. 385-401.
第二に、個別のセクションの解釈を詳細に扱い、それらが一体であるかどうかについては触れないという方法である。M. Bernsteinの基本的な考えは、ユダヤ教の注解は聖書箇所における問題点を解決することというものである。しかし、4Q252はテクスト上に問題がないところも扱っているので、この方法は適切でない。
第三に、実は統一的な目的があると考えるという方法である。R.H. EisenmanとM.O. Wiseによれば、編纂者は性的事柄や姦淫の非難と共に、逃避と救済の物語に関心を持っているという。M. Kisterによれば、ユダヤ民族の父祖たちへの約束と祝福、そして他民族の殲滅の正当性の議論が問題だという。論文著者は、土地の贈与、祝福と呪い、性的事柄などが編纂者の関心だとする。
これらの三つの方法は、いずれも不十分である。論文著者は、4Q252を表現するに最適な用語は「注解」だと述べる。ぺシェルやミドラッシュという用語は不適切である。ミドラッシュは通常はっきりと聖書が引用され、それと独立した解釈が付されるような明示的解釈(explicit interpretation)であるのに対し、4Q252にはいわゆる再話聖書(rewritten Bible)のような暗示的解釈(implicit interpretation)が含まれているし、そもそもクムランの解釈を後代の方法論であるミドラッシュと呼ぶことはアナクロニズムである。
E. Tovは、4Q252は第1欄から第3欄に反映している再話聖書と、第4欄から第6欄までのぺシェルの「中道(middle course)」にあると評価している。論文著者はこの議論をさらに進め、4Q252の中では暗示的解釈(再話聖書)と言えるセクションの中にも明示的解釈があるし、明示的解釈と言えるセクションの中にも他の聖書箇所への暗示的解釈があるという。
論文著者は、4Q252を「注解」と呼ぶが、それには3つの基準がある。第一に、注解はテーマではなく聖書のシークエンスに沿って解釈する。テーマに沿う形式は、ミドラッシュに顕著である。第二に、注解は相当程度の聖書テクストをカバーする。この点で、4Q252は限られた量しかカバーしていないので、より正確には、「抜粋されたあるいは選択的な注解(excepted or selective commentary)」と呼ばれるべきかもしれない。第三に、注解は、質的にベース・テクストに取って代わらない。『神殿巻物』はこの点で不明瞭である。4Q252は、ある程度これら3つの基準を満たしている。ただし、ヨセフ物語が欠如していることや、釈義が6章から始まっていることなど、例外的な部分もあるので、単なる注解というより、抜粋された注解である。
4Q252の特質を明らかにするためには、明示的解釈と暗示的解釈のコンビネーションと、その成立年代が重要である。明示的解釈の代表例は『ハバクク書ぺシェル』である。ただしこの注解は、テクスト上の問題以上に、解釈者の共同体にとってのハバクク書の重要性に関心を持っている。暗示的解釈は、明示的解釈よりも広範な読者層を期待できる。そうした観点からみると、『神殿巻物』はクムラン共同体を超えたオーディエンスを意図していたと考えられる。
また論文著者は、4Q252の統一性は、時間的なスキームにおいて表される主題的な関心のコンビネーションにかかっているとも指摘する。著者によると、最初のセクションは「現在を決定する過去のこと」(大洪水、カナンの呪い、アブラハムの時系列)を、真ん中のセクションは「現在の状況」(イシュマエルよりイサク、ソドムとゴモラ、イサクの奉献、イサクによるヤコブ祝福)を、そして最後のセクションは「共同体の希望の成就」(アマレクの殲滅、ヤコブの祝福)を解釈しているという。
成立年代に関しては、おそらく再話聖書の年代記の部分は、第4欄や第5欄の個別主義的な解釈よりも古い。4Q252の成立自体は、初期ヘロデ時代、すなわち前1世紀の後半と見なされている。
こうしたことをまとめると、共同体での生活は、次のような二極の間にある。一方では、主として通時的に書かれている再話聖書のセクションの読みには、さらにより広い読者層の期待がこめられている。他方では、主として共時的に書かれている明示的解釈のセクションを読みつつ、共同体の終末論的観点に注目する。
後1世紀の終わりまで、聖書の再話、パラフレーズなどがしばしば行われていた。一方で、前1世紀の後半くらいから、ぺシェルのような明示的な解釈も登場した。すなわち、両方の解釈法は重なっている時期があるのである。聖書の正典化に伴い、次第に明示的な解釈法が主流となり、暗示的な解釈法はタルグムが代表するようになった。4Q252の特徴は、明示的な釈義の要素を含むような暗示的な解釈と、他の聖書文書への暗示を用いるような明示的な釈義の両方を持っていることである。この点で、4Q252は、初期ユダヤ教の聖書解釈のよりよい理解のために、またクムランの聖書解釈の評価のために、極めて重要なテクストであるといえる。それは聖書の「注解」形式であり、ユダヤの聖書解釈が過渡期にあったことを我々に教えてくれる。
2017年3月27日月曜日
神殿巻物について Crawford, "The Temple Scroll"
- Sidnie White Crawford, "Ch. 5: The Temple Scroll," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 84-104.
| Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature) Sidnie White Crawford Eerdmans Pub Co 2008-04-14 売り上げランキング : 551968 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
カテゴリー。『神殿巻物』は、そのもととなる聖書テクストと同じ権威を持つものとして自らを位置づけている。そういう点では、『ヨベル書』と同じように、偽典のカテゴリーに入れることができる。ただし、『神殿巻物』は『ヨベル書』よりも大胆なことに、神がシナイ山の上のモーセに直接一人称で語っている体で書かれている。それゆえに、もとの聖書テクストで三人称で書かれているところが、『神殿巻物』では一人称になる。
『ヨベル書』と同じように、『神殿巻物』は、別物と言うに十分なほど五書の基礎テクストからかけ離れている。また両者は共にシナイ山におけるモーセへの啓示の間のことと設定されている。一方で、『神殿巻物』は『ヨベル書』と異なり、物語部分が一切なく、全体が律法の書になっている。すなわち、再説聖書を拡張された聖書物語だと定義したG. Vermesの定義を、『神殿巻物』は広げることになった。
『神殿巻物』の作者/編者は、混合(conflation)、調和(harmonization)、修正(modification)、付加(addition)といったテクニックを用いて、この新しい律法書に五書以外の伝承を加えた。ただし、『神殿巻物』はすでに存在しているトーラーに取って代わるものではなく、その横に寄り添いつつ補完するものと見なされていた。
権威の有無。『神殿巻物』が共同体において権威ある文書と見なされていたかどうかははっきりとは分からない。ある文書が権威を持っていたことは、第一に、自らを権威あるものとして語っていること、第二に、他の宗派的テクストの中で権威あるものとして引用・暗示されていること、そして第三に、複数の写本が写されていることなどによって証明されるが、『神殿巻物』に関してはこのうち第一の基準しか満たしていない。そこで、『神殿巻物』は権威ある書物だった可能性があるとしか言えないのである。
成立年代。見つかっている写本の中で、4QRouleau du Templeが前150-前125年のものだとすると、『神殿巻物』の原型はクムラン共同体の成立以前に存在したことになる。つまり、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『アラム語レビ文書』などと同様に、『神殿巻物』も祭司的・レビ的サークルによって第二神殿時代に書かれ、クムラン共同体によって保存されていたと考えられる。保存といっても、4QRT以降しばらく共同体は『神殿巻物』に関心を示さず、おそらくヘロデ王による神殿再建やパリサイ派の台頭などといった同時代の出来事を受けて、同書を再評価し、11QTemple-a(前25年-後25年)と-b(後20-50年)を作成したと考えられる。
資料と内容。『神殿巻物』は合成テクストだと考えられる。Andrew WilsonとLawrence Willsは5つのソースを想定し、Michael Wiseは4つのソースを想定している。著者は4つのソース――神殿資料(3-13, 30-47欄)、祭暦(13-30欄)、清浄規定集成(48-51欄)、申命記的パラフレーズ(51-66欄)――に序文を加えた5セクションを想定している。『神殿巻物』は出34における、モーセがシナイ山の上で二つ目の契約を受け取るところから始まる。その理由は、第一に、同箇所で神がモーセに一人称で語っているからであり、第二に、二つ目の契約から始めることで、それ以降のすべての律法が永遠に有効になるからである。さらにここには申7:25-26もまた織り込まれている。このように、文書作者は、混合、調和、修正、付加といったテクニックを活用している。
神殿資料。この部分では、巨大な神殿の見取り図が示される。これは、幕屋(出25-27)、ソロモン神殿(王上6)、そしてエゼキエル神殿(エゼ40-48)を基にしている。その後、神殿にある中庭の描写に移る。ここで『神殿巻物』は、通常であれば二つあると説明される中庭が三つある(祭司とレビ人のみ入る内庭、二十歳以上のイスラエル人が入る中庭、イスラエル人の女性、子供、改宗者が入る外庭)と述べている。非イスラエル人のための庭はない。
祭暦。この部分では、神殿祭儀とさまざまな祭礼について説明されている。その基本テクストである民28-29とレビ23とに、作者は二つの発明を加えている。第一に、祭司の任命のための祭りと、第二に、初物の収穫祭(大麦、小麦、葡萄酒、油)である。こうした祭りを加えることにより、作者はレビ記の暦と民数記の暦とを調和させている。『神殿巻物』の暦は、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『律法儀礼遵守論(4QMMT)』などと同じ364日の太陽暦である。
清浄規定。この部分について、Andrew WilsonとLawrence Willsは別の資料であると指摘したが、Michael Wiseは作者がいくつかの清浄規定を引いてきて、神殿資料の間に入れたのだと説明した。ここで文書作者はmaximalistのアプローチを取り、既存の清浄規定を極めて広い範囲に当てはめて解釈している。たとえば、出18:14-15で「女性のそばによってはならない」とされていることを、妻と性交して射精した者は三日間神殿の町へと入ってはならない(45:11-12欄)と拡大解釈している。同様の解釈は『ダマスコ文書』(12:1-2)にも見られる。これは、4QMMTを含む、祭司的・レビ的な解釈伝統の特徴である。
申命記的パラフレーズ。Lawrence Schiffmanによると、この部分で申命記が基本テクストとして機能しているが、文書作者は五書の他の文書や他の聖書文書からの素材を織り込んで、自らの神学的目的に合うような申命記の解釈を作り出したという。作者は単純に申命記を引用したり、他の五書テクストと調和させたり、解釈を付け加えたり、さらに法的資料を付け加えたりしている。ただし、作者が用いた申命記が現在のマソラー本文と同じものだとは言えないことには注意すべきである。またここでのパラフレーズは、『神殿巻物』が申命記に取って代わることを意図しているのではなく、それに寄り添い、同程度の権威を持って、シナイ山におけるモーセへの神の顕現を示すことを意図している。
関連記事
2017年2月20日月曜日
クムラン文書の再吟味 Bernstein, Reading and Re-reading Scripture at Qumran
- Moshe J. Bernstein, Reading and Re-reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013).
![]() | Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies of the Texts of Thedesert of Judah) Moshe J. Bernstein Brill Academic Pub 2013-06-21 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
『創世記注解A』とも呼ばれる4Q252について、著者はそれを、テクストにおける謎を解決しようとするシンプルな意味での「注解」と見なされるべきであるという。そして単純にある人物/たちによって著された書物というより、さまざまな文書から素材を抜粋して編集されたものであるという。
『外典創世記』については、しばしば研究者たちは同書に見られるアラム語での聖書引用から当時アラム語タルグムがあったことを示そうとするが、著者はこの見解を否定している。しかし、『外典創世記』のようなアラム語「再説聖書」の存在がタルグム的な聖書解釈アプローチに影響を与えた可能性は否定していない。
ラビ文学との関係については、アケダーにおける天使の記述に関するなどを検証した結果、ラビ文学に保存されている解釈伝統は、『ヨベル書』などにすでに表されていることを指摘している。
以上のような細々とした検証とは別に、著者の研究の大きな特徴は、死海文書を扱う際にある文書をどう分類し、そのデータを解釈するかという点を重視することである。著者は読者に対し、常にまずデータを分類し、基本的な分析のカテゴリーを作成することを思い出させる。
この姿勢は、著者の「ジャンル(genre)」の問題への関心と結びついている。著者は、ある文書をどのジャンルに分類するかをひとつのゴールに設定しており、そうした方法論が生産的であることを認めつつも、そうしたジャンルの理論というものが古代における文書の作者自身の問題ではなく、結局のところ現代の読者の学問的な分析の道具に過ぎないことも意識している。このことは、著者が重視する他の用語である「様式(form)」と「方法論(method)」にも言えることである。
関連記事
2016年10月7日金曜日
外典・偽典における聖書解釈 Dimant, "Use and Interpretation of Mikra in the Apocrypha and Pseudepigrapha"
- Devorah Dimant, "Use and Interpretation of Mikra in the Apocrypha and Pseudepigrapha," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 379-419.
| Mikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early Christianity Martin Jan Mulder Baker Academic 2004-03 売り上げランキング : 1545234 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
この分析において大きな支柱となるのが、外典・偽典における二つの形式的なカテゴリーである:すなわち、「構成的(compositional)」と「解説的(expositional)」な文書である。前者において、聖書的要素は、外的なマーカーなしにテクストに織り込まれつつ含意されるが、後者において、それらははっきりとした外的なマーカーと共に詳細に説明されている。
こうした形式の違いは、むろん目的の違いによるものである。解説的文章の目的は聖書テクストを説明することであるため、しばしば聖書テクストを見出し(レンマ)に掲げることで、解説部分と区別している。こうした形式の代表的なものは、ミドラッシュ、クムランのペシェル、フィロンの律法注解、そして新約聖書における旧約引用などである。
一方で、構成的文章は聖書からは独立した新しいテクストを創造することを目的としているため、聖書的要素を自身の一部にしている。構成的文章の例としては、物語(narrative)、詩篇、遺訓、知恵、そして論説(discourse)などのジャンルが挙げられる。構成的文章は、解説的文章と異なり、聖書的要素を特定の様式のもとで導いたりはせず、それらを自らの記事の中に織り込んでいく。これは外典や偽典によく見られるジャンルである。
論文著者は、解説的文章における解釈のことを「釈義(exegesis/hermeneutics)」、そして構成的文章における解釈のことを「解釈(interpretation)」と呼んでいる。
解説的文章における聖書の明示的な使用方法(explicit use of Mikra in exposition)を論文著者は二つ挙げている。第一に、引用である。しかしながら、外典や偽典においては聖書の明示的な引用は比較的少ない。少ない中で際立っているのが、論説ジャンルにおける五書から引用である。また祈りが神の行為と神の言葉とに言及する際に、行為は暗黙的な方法で、そして言葉は明示的で正確な引用によって示されている。聖書を引用することで、解釈者たちは、自分たちの時代を引用元の時代と「同一視(equation)」し、また引用で言われていることが自分たちの時代に「実現(actualization)」したことを示している。これはクムランのペシェルの特徴でもある。
第二に、人物や状況への明示的な言及である。こうした言及には二通りある:第一に、聖書の登場人物のカタログ、そして第二に、人物や状況への個別の言及である。登場人物のカタログは、多くの場合、論説の中でも奨励の箇所に出てくる。登場人物たちは時系列に並べられ、その役割を冠されている。注目すべきは、そうしたカタログには、善人のみならず悪人も登場していることである。第二の個別の言及は、論説や祈りの箇所に出てくる。たとえば、ディナの強姦のエピソード(創34)は、『ユディト記』、『レビの遺訓』、そして『ヨベル書』に出てくる。
では、構成的文章における聖書の暗黙的な使用方法(implicit use of Mikra in composition)とはどのようなものか。それらは、解説的文章のように、解釈のために秩序だっているわけではなく、神の言葉や行為を表現しているわけでもない。はっきりとしたマーカーによって、それが聖書に基づいていることが示されることもない。読者の読解力がそこに聖書的要素を読み取るのである。この方法には、以下の三種類がある:第一に、暗黙的な引用、第二に、暗示、そして第三に、モティーフとモデルである。
暗黙的な引用は、外典や偽典の最も特徴的な点のひとつである。これらのジャンルにおいて、引用は明示されないままテクストに織り込まれている。特に、「自由な物語(free narrative)」、「聖書の拡張(biblical expansion)」(たとえば再説聖書[Rewritten Bible])、そして「偽典的伝記(pseudepigraphic biography)」に、そうした特徴が見られる。「自由な物語」における暗黙的な引用は、聖書のスタイルや形式を模倣することが多い。著者は、自分の語る物語と聖書の物語とのアナロジーを期待しているのである。「再説聖書」において暗黙的な引用がなされる場合、もとのテクストにあった要素の解釈的な入れ替え(exegetical substitutions)や、編集的な改変(slight editorial alterations)がなされることが多い。
第二の暗示は、定義することが困難なため、研究が進んでいない。ただし、暗示には、独立した外部のテクストに言及する特別なシグナルが用いられている。そのシグナルとなる、聖書の特定の箇所に基づいたモティーフ、鍵語、そしてフレーズなどに注目するべきである。こうした暗示は、特に偽典的な枠組みにおいて鍛えられてきた。
そして第三のモティーフとモデルは、特定の用語やフレーズによって示される。『トビト記』は、明らかにヨブ記をモティーフとして、またモデルとして書かれているが、『トビト記』にはそのことを明示的に示す言及のようなものはない。そもそも物語のプロットがヨブ記から取られているわけではなく、独立した別の物語である。しかしそこに見られる類似性は、新旧の作品を比較することを可能にする。そのとき、旧作品は真作品に統合されるわけではない。
2015年10月5日月曜日
ヨベル書について Crawford, "The Book of Jubilees"
- Sidnie White Crawford, "Ch. 4: The Book of Jubilees," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 60-83.
| Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature) Sidnie White Crawford Eerdmans Pub Co 2008-04-14 売り上げランキング : 551968 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
Rewritten Scripture, located at the point on our spectrum where the act of scribal intervention into a base text(s) becomes so extensive that a new, distinctive composition is created. (p.62)このように、ベース・テクスト(創1-出14)とは別の新たな作品として書かれた書物ではあるが、トーラーに取って代わるものとして書かれたわけではない。第一の律法たるトーラーの横に並ぶものとして書かれたといえる。ベース・テクストからの引用は、引用元が分かる程度にされているが、短いフレーズに限られ、引用というより暗示というべきである。聖書文書以外にも、4QReworked Pentateuchやアラム語レビ文書、そして『エノク書』といった第二神殿時代の文学をもソースに用いている。書かれた時期としては前170-150年、場所はパレスチナであると考えられる。
著者は『ヨベル書』の特徴を4つに分けて説明している:
- 時間感覚(chronology)
- 律法と倫理(law and ethics)
- 義人の例としてのイスラエルの父祖たち(elevation of Israel's ancestors as righteous examples)
- 祭司制(priestly line)
- 終末論(eschatology)
5.終末論。臨在の天使などを登場させることにより、黙示的な改変を加えている。こうした改変は、巣として第二神殿時代の諸文学との影響関係が濃厚で、多くは創世記や出エジプト記には出てこない話である。
以上のように、『ヨベル書』は聖書解釈を著述活動として見なす伝統(Enoch, pre-Samaritan texts, Reworked Pentateuch)に属しており、新しい文書を著すというこのグループの自由の伝統を十全に活用している。これはラビ的伝統とは一線を画しているといえる。しかし、この著述活動は、聖書を乗り越えることを意図してはいない。第一に、『ヨベル書』はトーラーをFirst Lawと考えており、その権威を認めている。第二に、『ヨベル書』はトーラーを横に置いて読むように書かれている。ただし、クムランのエッセネ派などにおいては、『ヨベル書』は神的な権威を持つ文書と見なされており、これは初期キリスト教徒たちにも見られる現象である。しかしキリスト教においては、エチオピア教会以外では正典とはされなかった。
2015年8月27日木曜日
「再説聖書(Rewritten Bible)」再考 Crawford, "Introduction"
- Sidnie White Crawford, "Ch. 1. Introduction" in id., Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2008), pp. 1-18.
| Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature) Sidnie White Crawford Eerdmans Pub Co 2008-04-14 売り上げランキング : 513693 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
しかしながら、著者はVermesの用語のRewrittenとBibleとを共に再考の必要ありと考えている。Rewrittenという語は、すでにある書物の存在を前提としている。しかし、すでに存在する書物を解釈するという営為自体は、第二神殿時代より前から行われていた。Michael Fishbaneの言う「聖書内聖書解釈(Inner biblical exegesis)」がそれである。聖書内聖書解釈は、写字生によって行われる。彼らは単に写本を写していただけではなく、受容されていたテクストにたえず干渉していたのである。それは彼らの役割が、正しいテクストを伝えることと共に、聖書テクストを同時代の状況にふさわしいものにすることだったからである。
またBibleという語にも問題がある。なぜなら、第二神殿時代には正典化された聖書など存在しなかったからである。あったのは、ユダヤ人によって一般的に権威ありと考えられていた文書群のみである。そこで著者はBibleの代わりにScriptureという語を用いることを提案している。すなわち、五書と、ほぼすべての預言書、そしてコーパスの不明な諸書の総称である。当時の聖書に含まれる文書を少しでも伝えているものとしては、ベン・シラ、ルカ、第四エズラ記、ヨセフス、そしてクムラン文書(4QMMT)などがある。
ある書物が権威ありと認められていると判断するには、四つの基準が考えられる:第一に、別の書物の中で権威あるものとして引用・暗示されていること。第二に、注解の対象になっていること。第三に、自身が権威あるものを宣言していること。そして第四に、ある共同体内でたくさんコピーされていることである。しかし、クムラン共同体では、たとえば申命記が上の基準をすべて満たすが、エステル記のコピーは見つかっていない。
こうしたことから、著者はVermesの言う、「ジャンルとしてのRewritten Bible」という用法を問題ありとし、むしろ「カテゴリーとしてのRewritten Scripture」という考え方をするべきだと述べている。著者がこのように考えるに至ったのは、Vermes以降の研究史(Philip Alexander, Moshe Bernstein, George Brooke, Emanuel Tov)に沿って、自然な帰結として導かれている。著者は特に、語の定義をより広くしようとしたBernsteinと、ジャンルではなくカテゴリーとして考えるべきと述べたBrookeに多くを負っているという。
著者自身の意見は、Rewritten Scriptureをジャンルではなくカテゴリーとして考えるというものである。そのとき、このカテゴリーの中に入るテクストは、すでに権威ありと見なされているテクストへの執着と同時に、解釈を目的とした写字生の干渉とを共に示すことになる。そこから、著者はRewritten Scriptureを4つのスペクトルに分ける。
- グループを超えて権威ありと認められる文書で、既存のテクスト内のみでharmonizationが行われるもの。
- 既存のベース・テクストの外部の材料を用いた干渉をするが、それによって新しい著作を生み出そうとするわけではないもの:Reworked Pentateuchとも呼ぶ。
- 既存テクストへの干渉が激しく、もはや新しい著作と呼べるもの:ヨベル書、神殿巻物など。
- 上の定義に周辺的に関わるだけのもの:外典創世記、レンマ型注解など。



