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2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。

2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。

2019年10月21日月曜日

『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"

  • Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.

『エノク書』研究はクムランにおけるアラム語断片の発見によって飛躍的に進展した。研究史の初期に、G.H. Dixはエチオピア語訳の『エノク書』は五つの文書からなるが、それらをひとつのコーパスとして見ることの重要性を訴えた。そしてエノク五書をトーラーの五書に関連付け、それらの似ている点を主張した。

クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。

Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。

そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。

論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。

一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。

「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。

以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。

2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月5日土曜日

ミリク『エノク書』の書評 Barr, Ullendorff/Knibb, and VanderKam

  • James Barr, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, The Journal of Theological Studies 29 (1978): 517-30.

評者は同書の価値を高く評価しながらも、読者がそれを有効に活用し、適切に評価するためには、諸問題の完全な議論が必要であると述べている。本書の主たる問題は、校訂テクストに印刷されているアラム語テクストが実際には断片にはまるで見出されず、校訂者Milikによって書かれたものであるという点である。

Milikは確かに自分が再構成した部分については括弧に入れてそれと知れるようにしてはいる。しかしながら、読者はきわめて保存状態がいいように見える写本が、実際にはごくわずかな断片しか残していないことに気づいたら、驚くことだろう。再構成自体が問題なのではない。そのスケールがあまりに大きいことが問題なのである。

Milikがほとんど天才といえるほどの器用さと計り知れないほど長い時間をかけてこれを達成したことは疑いない。適当な文章をアラム語で作り上げるその能力は特筆すべきものである。またこうしたことはパピルス学では常套手段だが、問題はわれわれがこの時代のアラム語資料をあまり持っていないということである。

さらにMilikのテクストは、ギリシア語訳やエチオピア語訳からアラム語原典を導き出しているにもかかわらず、一方でギリシア語訳やエチオピア語訳は原典の意味を取り違えていると説明するという「大いなる仮説(gigantic hypothesis)」を表している。いわばわれわれは「純粋なる幻想の世界(the world of pure fantasy)」にいるのである。

論文著者は、Milikは再構成部分を他よりも小さいフォントにしたり、巻末の転写には再構成を加えないようにしたりすれば、まだマシだったと指摘する。Milikはアラム語テクストが「寝ずの番人の書」の50パーセントをカバーしていると主張するが(p. 5)、これは自分で付け加えた再構成テクストを含む数字のようである。

こうしたことから、本書の価値は断片の部分ではなく、きわめて幅広い事柄を論じた導入にある。ただし、ここでの議論もあまり整理されておらず、読者を困惑させるものになってしまっている。バビロニアの世界観とエノクのそれとを比較するなど、『エノク書』の完全なテクストへの導入であればよかったが、アラム語断片の導入としてはふさわしくない。

このような状態であるから、誰か別の人によって『エノク書』の完全な校訂版が出版されることが待たれるし、アラム語テクストに関してはDJDシリーズで出版されるべきである。エチオピア語訳を低く見積もっており、エチオピア語の転写も通常受け入れられているものではない。

またせっかくのアラム語訳の発見を生かしていない点もある。すなわち、ギリシア語訳やエチオピア語訳との比較による翻訳技法の研究である。そもそもこれをやって初めてMilikのように翻訳に基づく原典テクストの再構成という荒業ができるはずであるが、彼はこれをしていない。しかし、少し翻訳技法をチェックするだけでも興味深い結果が得られる。

このような批判的な書評は、本書の価値のなさゆえではなく、批判しないことには読者がきちんとこれを利用することができないからである。

  • Edward Ullendorff and Michael Knibb, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Bulletin of Oriental and African Studies 40 (1977): 601-2.
評者らは本書の問題点をまず3つ指摘する。第一に、実際に発見されたアラム語断片はとてもわずかだったにもかかわらず、Milikは7文字に対して56文字を付け加えるような大掛かりな再構成をしている。第二に、エチオピア語訳に対して信頼をまるで置いていない。第三に、ゲエズ語の知識が不十分である。

「寝ずの番人の書」のアラム語テクストが全体の50パーセントをカバーするというが、それはMilikが再構成したテクストを含めた数字であって、実態とかけ離れている。

  • James VanderKam, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Journal of the American Oriental Society 100 (1980): 360-62.
本書では「天文の書」は完全には扱われておらず、「巨人の書」はまだ初歩的な段階である。Milik以前は『エノク書』とは、「寝ずの番人の書」「たとえの書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」から成り、キリスト教以前の成立と考えられていた。しかしMilikはこうした構造はギリシア語訳成立(400 BCE)より後に成立したものであり、「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が入っている。

2019年9月23日月曜日

『エノク書』のキリスト教への導入 Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha"

  • Michael A. Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha: The Case of 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 56-76.

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ユダヤ教の外典・偽典に関するわれわれの知識は、多くの部分をキリスト者による採用と保存に依拠している。ある文書のユダヤ教性とキリスト教性の間にはさまざまな段階がある。ユダヤ教テクストの間にキリスト教的語彙が入ってくるものとしては『第四エズラ記』や『第四バルク書』、ユダヤ伝承を多く用いたキリスト教文書としては『十二族長の遺訓』、旧約聖書の材料を使いつつキリスト教的暗示を加えないキリスト教文書としては『アダムとイヴの生涯』や『預言者伝』がある。いずれも、ユダヤ教文書ともキリスト教文書とも決めがたい。そもそもキリスト教的改変がまったくない文書でも、キリスト教的コンテクストで読まれてしまう場合がある(旧約聖書がそうであったように)。分類の方法論については、Robert KraftやMarinus de Jongeらの研究に詳しい。

この点、『エノク書』もまた明らかにユダヤ教起源でありながら、キリスト教徒によって伝達されたテクストである。論文著者は『エノク書』のテクスト、文書形式、エチオピアの文脈での解釈などについて論じている。

①テクスト。『エノク書』のアラム語テクストには、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む7写本と、「天文の書」を含む4写本がある。Josef Milikはこれらをギリシア語訳やエチオピア語訳に基づいて再構成したが、仮説的なものにとどまる。

ギリシア語訳もユダヤ人の手になるものである。断片がクムラン第7洞窟で見つかっているが、小さすぎて何のテクストかを同定するのは困難である。ギリシア語訳は、クムラン以外では、ギゼ写本(6世紀)とチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀から)から多く見つかっている。いずれの写本にも別のキリスト教文書が一緒に保存されていることから、『エノク書』がキリスト教徒の間でよく読まれていたことが分かる。他には、シュンケッロス『年代記』中の引用は比較的よいテクストを保存している。

ギリシア語訳の重訳であるエチオピア語訳は唯一全体を残すものであるが、これはもともと5~6世紀に聖書全体のエチオピア語訳の一環として作成された。テクストは、より古いグループ(15世紀の写本が残る)とより新しいグループに分かれる。

これらのうちどのテクストがよいのか。アラム語テクストは断片的である。ギリシア語訳は主要部分を含まず、コンディションもよくない。エチオピア語訳はキリスト教的要素を含み、写本も15世紀より前には遡れない。そこから、なるべくアラム語テクストに依拠しつつ、他の諸訳も最上の証言を混ぜて用いるべきと論文著者は述べる。

②文書形式。Josef Milikによると、クムランのアラム語『エノク書』は写本の長さの関係で2巻(「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む部分と「天文の書」のみを含む部分)に分かれていたが、実際にはエチオピア語訳のような五部構造を持っていたと主張した。Milikはさらに4Q204の状況から、「巨人の書」は独立してではなく他の3巻と一緒に読まれていたと主張したが、Stuckenbruckはこの議論は疑わしいと反論する。

またクムランからは「たとえの書」が出てきていないため、同書が他の書物と同様にアラム語で書かれていたのか、それともこれだけはヘブライ語で書かれていたのかも分からない。では、現在のエチオピア語訳のように、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」入りの五部構造のギリシア語訳成立はいつからなのだろうか。Milikによれば、おそらく4世紀になって「巨人の書」があまりにマニ教徒に人気だったために取り去られ、6世紀になって代わりに「たとえの書」が入り、それがエチオピア語訳されたという。Milikは「たとえの書」はキリスト教文書であったと主張したが、これはほとんど受け入れられていない。

George Nickelsburgはより詳細な議論を基に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む形態の写本がクムランには前1世紀にはあったと主張した。この見解は概ね受け入れられるが、論文著者は以下のように批判する。第一に、Nickelsburgは「巨人の書」がもともとも含まれていたのかそれともあとから取り去られたのかを説明していない。第二に、「天文の書」と「たとえの書」があとからどのようにコーパスの中に入ったのかを説明していない。またNickelsburgは、「たとえの書」が部分的に「寝ずの番人の書」における伝承の発展を代表していると主張したが、これは「たとえの書」が「寝ずの番人の書」のすぐ後ろにあることから妥当性が高い。

こうした研究史を受けてさらに指摘できるのは、第一に、アラム語テクスト、ギリシア語訳、エチオピア語訳は比較的似た本文を持っているが、ことに「天文の書」に関してはアラム語テクストとエチオピア語訳はかなり異なっている。そして第二に、エチオピア語訳にはかなりのキリスト教的な要素が入っている可能性があるが、それらはユダヤ教の文脈でも読めないわけではないので、そういった要素に関係なく一度キリスト教徒の手に渡ったら、キリスト教的に読まれたのであろう。

③エチオピア教会の文脈での解釈。『エノク書』はエチオピア教会では正典として読まれていた。エチオピア語訳の写本は15世紀をさかのぼらない。ちょうどその頃に、『エノク書』(特に「たとえの書」)からの引用を多数含んでいる説教集『マシャファ・ミラド(聖誕の書)』が作成された。引用はとりわけキリスト論的な解釈のもとでなされている。

2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。

2019年9月16日月曜日

『エノク書』の研究状況 Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research"

  • Michael A. Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 17-35.
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『第一エノク書』はユダヤ教の発展に関する情報を提供してくれることと、黙示文学の最上の例であることから重要なテクストである。現在では5~6世紀に作成されたエチオピア語訳でのみ全体が残るが、もともとは前3世紀終わりにアラム語で書かれた。エチオピア語訳は、次の五部から構成される:

  1. 「寝ずの番人の書」(前3世紀後半)
  2. 「たとえの書」(前1世紀後半)
  3. 「天文の書」(前3世紀後半)
  4. 「夢幻の書」(前165年すぐあと)
  5. 「エノク書簡」(前2世紀前半)

「たとえの書」は「人の子」という表現を含むので新約聖書学者の興味を引いたが、アラム語断片はそれを含まず、代わりに「巨人の書」を含む。

アラム語断片は11もの写本から成るため、クムランでの『エノク書』の権威のほどが知られるが、党派的文書ではなく、クムラン意外でも広く読まれていた。その証拠に、『ヨベル書』4:16-25には『エノク書』への言及がある。アラム語の『エノク書』はディアスポラのユダヤ人のためにギリシア語訳されたが、その状況は不明である。「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」のギリシア語訳は前2世紀頃に作成されたと考える研究者もいる(J. Barr)。第七洞窟から発見されたギリシア語断片(7Q4, 7Q8, 7Q11-14)は「エノク書簡」と見なされている。「たとえの書」と「天文の書」が「寝ずの番人の書」と「夢幻の書」の間に挿入されたのは、ギリシア語訳された段階でのことと考えられる。

『エノク書』のギリシア語訳はキリスト教徒の間でよく読まれた。「寝ずの番人の書」については、アクミーム写本(6世紀)と、シュンケッルス『年代記』の抜粋(9世紀)が、「エノク書簡」については、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀)が重要な証言である。これらの書以外のギリシア語訳はほとんどない。

『エノク書』は次第に東西教会での重要性を失ったが、エチオピア正教会では例外的に権威を認められていた。エチオピア語訳はギリシア語訳からの重訳である。「たとえの書」はイエスに言及していると解釈された。『エノク書』に関するわれわれの知識はこのエチオピア語訳に負うところ大であるが、最古の写本でも15世紀のものである。。

近代になると、まずJoseph Scaliger(1606)やJohann Fabricius(1713)らによってギリシア語訳が注目され、次いでNicholas PeirescやJames Bruce(1773)らによってエチオピア語訳が紹介された。エチオピア語訳の英訳と校訂本はRichard Laurenceが出版した(1821, 1838)。ドイツ語訳と校訂本はAugust Dillmanの手による(1851, 1853)。1886/7年のアクミーム写本の発見は研究を進展させた。このあとさらに英語圏ではRobert H. Charlesが英訳と校訂本を出版した(1893, 1906)。これはのちのThe Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament in English (1931)に結実する。

クムランで1952年に発見されたアラム語断片は、Josef Milikによって1976年に出版された。このThe Books of Enochは非常に強い影響力を持ったが、「たとえの書」をキリスト教徒の手になるものと主張するなど、批判されるべき点も多く含む。このアラム語断片の研究成果を受けて、Michael Knibbは新たなエチオピア語訳校訂本を出版した(1978)。Milikが除外していた「天文の書」のアラム語断片は、DJD 36に収録された(2000)。『エノク書』の包括的な注解書は、George Nickelsburgによって2001年に発表された(Hermeneiaシリーズ)。

前3世紀後半に書かれた「寝ずの番人の書」はユダヤ史上最古の黙示文学である。これは正典に含まれるダニエル書よりも古い。黙示文学のルーツはヘブライ語聖書の預言文学(エゼキエル書やゼカリア書)であるとされる。ただし、エノク自身はあくまで「見る者」であって、預言者としては描かれない。

『エノク書』はさらに、ヨブ記や箴言などの知恵文学と比較されることもある。とはいえ、『ソロモンの知恵』を除いて、知恵文学は終末論的な議論を含まないことにも注意が払われるべきである。『シラ書』との比較は興味深い。というのも、Benjamin Wrightによれば、「寝ずの番人の書」を書いたサークルと『シラ書』を書いたサークルには緊張関係(敵対関係まではいかない)があるというのである。クムランの知恵文学(4QMysteriesと4QInstruction)との比較もなされてきた。どちらも黙示的な文学ではないが、知恵に対するエノク的伝統との関係性を有している。エノクは「秘儀」である特別な啓示の受け取り手として描かれている。そして彼はそれをノアへと伝えるのである。こうした意味で、『エノク書』は「明らかにされた知恵(revealed wisdom)」であるといえる。

『エノク書』をより広い第二神殿地代のユダヤ教の枠組みで捉えようとした研究としては、Gabriele Boccacciniのものがある(Roots of Rabbinic Judaism, 2002)。Boccacciniは前6世紀から前2世紀のユダヤ教を、神殿体制を代表する「ツァドク派ユダヤ教(Zadokite Judaism)」と、もともとは祭司だったが派閥闘争に負けた「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」の対立として説明する。これにさらに「知恵的ユダヤ教(sapiential Judaism)」もあったが、これとエノク派ユダヤ教との対立はすぐに中立化した。またツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の中間に位置したダニエル書は、プロト・ラビ的テクストと呼べるという。

ツァドク派ユダヤ教は、エゼ40-48章、ネヘミヤ記、エズラ記、五書の祭司資料、歴代誌に現れ、知恵的ユダヤ教はアヒカル(『トビト記』)、箴言、ヨブ記、ヨナ書、コヘレト書に現れ、そしてエノク派ユダヤ教は「寝ずの番人の書」、アラム語レビ資料、「天文の書」、「動物の黙示録」などに現れる。

ツァドク派は、Boccacciniによるとエリート層の祭司で、エゼ40-48章で示される改革をユダの共同体に適用しようとした。それにより、大祭司の独占的な権利が保証される。エノク派は、捕囚後に権力を失い、のちにエッセネ派となった祭司たちである。彼らは「寝ずの番人」、すなわち天使たちが天から落ちてきたという信仰を持っている。「寝ずの番人の書」には2つの墜落伝承が残されている。第一に、シェミハザに関わるものは、創世記の記述に従い、人間の女性への欲望に負けてこれと交わり、巨人を生んだ物語である。第二に、アザエルに関わるものは、プロメテウス伝承のように、人間にさまざまな知恵を授けるために落ちてきたという物語である。いずれも、この世になぜ罪が存在するかを説明するための物語である。

Boccacciniは、このように、第二神殿時代のユダヤ教にさまざまなシャープな対立を描いてみせるが、論文著者は、実際のユダヤ教はもっと複雑だったに違いないと主張する。

2019年6月29日土曜日

タルグムについて  Le Déaut, "The Targumim"

  • Loger le Déaut "The Targumim," in Cambridge History of Judaism, volume 2: The Hellenistic Age, ed. W.D. Davies and Louis Finkelstein (Cambridge: Cambridge University Press, 1990), 563-90.


タルグムという言葉は一般にアッカド語起源とされるが、Ch. Rabinはヒッタイト語起源を主張する。ティルゲムはヘブライ語から他の何らかの言語に翻訳することを意味するが、タルグムというとアラム語訳を意味する。エズラ記、ネヘミヤ記、ダニエル書以外のすべての文書のアラム語訳が存在する。かつては、「タルグムは文書化が禁じられていたので、その成立自体はキリスト教以前にさかのぼるが、文書化はラビ文学の初期(後200年)をさかのぼらない」と考えられていたが、クムランでの発見によって、文書化もキリスト教以前であったことが分かっている。

捕囚時にユダヤ人は主要言語であるアラム語を学ぶように強いられたが、ヘブライ語は礼拝と聖なる文学の言語として使われ続けた。捕囚後になるとアラム語使用は増えていき、反対にヘブライ語は人々の話し言葉ではなくなった。とはいえ、ユダヤ地方で発見された諸文書は、ユダヤ地方に限っては、バルコフバの乱の頃までヘブライ語が生きていたことを示している。

ではヘブライ語が生きていたのに、なぜタルグムが必要になったのか。ヘブライ語が次第に読まれなくなったから、というのが伝統的な回答だが、実際にはヘブライ語を読める人もタルグムを必要としたのだった。なぜなら、難解な聖書テクストは「解釈」を必要としたからである。それゆえに、エズラが律法を読んだときに、「翻訳し(メフォラシュ)、その意味を提供した」のである(ネヘ8:8-9)。

口伝タルグムはシナゴーグでの朗誦の礼拝とともに発展した。新約聖書の時代には、律法と預言書を安息日に朗誦する習慣は出来上がっていたが、その内容はよく分かっていない。ミシュナー(メギラー4)には詳細が残っている。ヘブライ語テクストの朗誦者が律法なら一節ごとに、預言書なら三節ごとに読むと、翻訳者(メトゥルゲマン)が「記憶から」その翻訳を提供するのである。すでに律法を最高とするヒエラルキーができあがっていた。「記憶から」というのは「書いてはいけない」ということだが、それは現実には守られていなかった。

1832年L. Zunzはすでに、ハスモン朝時代には文書化されたアラム語訳があったに違いないと指摘していたが、クムラン文書の発見によってそれは証明された。ヨブ記のアラム語訳(11QtgJob)は、外典創世記よりもダニエル書のアラム語に近い。クムランで発見されたという以外にはクムラン的な特徴はないので、アラム語訳の文書化はクムランの特殊事情ではないだろう(見つかったのがヨブ記であることを、エッセネ派的な現象と解釈する研究者はいるが)。パレスチナ・タルグム的な過度な付加はなく、シンプルなスタイルである。第四洞窟でもヨブ記のアラム語訳は見つかっている(4QtgJob)が、こちらは小さな断片である。ヨム・キプールには大祭司の前でヨブ記を読む習慣があったが(ヨマー1.6)、難解なヨブ記を読むためには翻訳が必要だったのであろう(A. Berliner)。第四洞窟からはレビ記のアラム語訳(4QtgLev)も発見されているが、これも断片である。基本的に、クムラン文書自体の膨大さに比して、タルグム資料の収穫はわずかであったが、それはJ.Y. Milikによれば、高度に知的なエッセネ派共同体がアラム語訳を必要としなかったからだという。初期のタルグムは一般向けだったのである。クムランのタルグム資料はすべて帝国アラム語で書かれている。

創世記4:8において、タルグム、七十人訳、ペシッタ、サマリア五書には挿入句が見られることから、これらはマソラー以前の似たVorlageに依拠しているという議論がある(S.R. Isenberg)。またヨセフスは『ユダヤ戦記』をもともとアラム語で書いたので、タルグムを用いていたと考えられている。新約聖書中にもタルグムに依拠していると見られる箇所がある(エフェ4:8、マタ27:46、Ⅱテモ3:8、ルカ6:36、同11:27など)。こうしたことからパレスチナ・タルグムと新約聖書の直接的な依存関係を議論する研究者はいる。とはいえ、こうした一致は同じテクストに依拠しているというよりは、たまたま同じ口伝解釈の伝承に依拠したと考える方がよいだろう。

五書のタルグム。タルグム・オンケロスはパレスチナ・タルムードではアクィラと混同されている。オンケロスは帝国アラム語で書かれており、パレスチナを起源とするが(プロト・オンケロス)、その編纂はバビロニアで4-5世紀に行われ、スーパーリニア母音が付された。それゆえに、アキバ学派をはじめとするタナイームの教えが反映する直解主義的な方法論を取る。つまり、パレスチナの教師たちが、彼らよりも直解主義的なバビロニアの伝統に出会って生まれたのがオンケロスである。

パレスチナの諸タルグムにUrtextを求めることはできない。口伝の枝分かれが複雑だからである。完全な訳としては、偽ヨナタン(エルサレム・タルグムⅠ)とネオフィティがあり、不完全なものとしては、フラグメント(エルサレム・タルグムⅡ)とカイロ・ゲニザがある。偽ヨナタンは、翻訳というよりは敷衍である。その最終的な編纂はタルムード後である。というのも、出26:9にはミシュナーについて、創21:21にはムハンマドの妻アディシャと娘ファーティマについての言及があるからである。ただし、申33:11にはヨアンネス・ヒュルカノスへの祈りもあり、伝承の中にはかなり古いものも含まれていることが分かる。ゲニザ・フラグメントは、最も古い形を残しており、オンケロスからの影響が皆無である。アラム語を日常的に話していた写字生によって書かれている。ネオフィティは、しばしばマソラー以前のVorlageや、タナイームのミドラッシュ以前のハラハーを反映している。また、しばしばゲニザ・フラグメントとの驚くべき一致を見せる。

預言書のタルグム。預言書はシナゴーグの礼拝においてかなり初期から読まれていた。ヨナタンは、ヒレルの弟子であるヨナタン・ベン・ウジエルに帰されるが、これはテオドティオンとの混同であろう。オンケロスと平行関係にあり、パレスチナを起源とするがのちにバビロニアで編纂された。ただし、オンケロスよりは逐語的でない。

諸書のタルグム。諸書はどの文書も公認版のタルグムを持っていない。メギロット以外にはシナゴーグでの朗誦がされなかったからだろう。諸書のタルグムはすべてパレスチナ起源であるが、バビロニアからの影響も大きく受けている。箴言タルグムはシリア語訳との類似が認められる。

すべての翻訳は解釈を前提としている。タルグムもしばしば、テクストの意味を明らかにすることを躊躇なく超えることがある。またテクスト本来の意味よりも、同時代の解釈を優先することもしばしばである。タルグムのテクニックを2つにまとめると、第一に、テクストを一見して理解できるようにすること、すなわち「説明(explanation)」であり、第二に、テクストをシナゴーグの会衆に関係あるものとすること、すなわち「実現(actualization)」である。

「説明」の例は以下のようなものである。タルグムは原文のシンタックスを変え、疑問文を平叙文に変え、間接話法を直接話法に変える。二つの別のエピソードをつなげる。不明瞭な語や表現は解釈を加え、一般的でない語はより簡単な語に代える。一語をたくさんの語によって説明することもある。メタファーやアレゴリーの本来の意味を伝える。イメージを具体的なものに置き換える。聖書は無謬の書のなので、空白や矛盾は排除する。

「実現」の例は以下のようなものである。神人同型的表現を避け、神の超越性を前提とするために、神の名を呼ぶことを避ける(代わりに、メムラ、カヴォード、シェヒナーを用いる)。聖書の登場人物(アブラハム、モーセ、アロンら)の不適切な行動の描写をリタッチする。メシアニズム、終末論、天使論、トーラー祭儀などを含む。「社会学的」な翻案、すなわち地理や歴史的な事柄を同時代のものに代えることもある(イザ9:11のアラムとペリシテがシリアとギリシアになる)。ただし、タルグム作者は恣意的な方法でこうしたことをするのではなく、聖書の一体性を重視する。

タルグムは古代のユダヤ人の聖書解釈である。聖書を理解するために作られたものである。現在の研究においては、本文批評や言語学的研究に寄与するために、正確な校訂版を作成することが求められている。また文法や辞書の整備も求められる。ミドラッシュ研究との協力も必要とされている。

2019年6月26日水曜日

ヒエロニュムスとタルグム Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim"

  • Robert Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim," Journal of Semitic Studies 32/1 (1987): 105-23.

近年のタルグム研究は、ある伝承の古さや新約聖書への影響に関心を持つことが多く(特に、R. le Deaut, M. McNamara, L. Diez Merinoらカトリックの研究者)、タルグムと教父の著作の関係はあまり話題に上がらない。本論文は、小預言書、とりわけゼカリヤ書、マラキ書、ナホム書のタルグムに残されているユダヤ伝承をヒエロニュムスがどのように用いたかを明らかにするものである。小預言書のタルグムが作られたのは、ヒエロニュムスが生きた4世紀から5世紀頃のことである。ちょうどパレスチナ・タルムードの成立時期でもある。

ヒエロニュムスがタルグムに由来する伝承を保存しているといえるのは、それが次のような伝承と同じでないことが明らかなときである。すなわち、七十人訳、聖書の諸訳、ラビ文学以前のユダヤ文学、ヒエロニュムスより古いラビ文学、オリゲネスらキリスト教文書である。ヒエロニュムスは、こうした前提のもとで、ヒエロニュムスの解釈のソースがタルグム伝承に由来することを裏付ける9つの例を挙げている。

そこから明らかなのは、ヒエロニュムスの時代は反ユダヤ的な法律が次々に施行された時代であったにもかかわらず、この教父がユダヤ人との付き合いを妨げなかったことである。またヒエロニュムスは、タルグムやラビ伝承が現存する写本よりももっと前の時代にどのように発展したのかを見せてくれる。ヒエロニュムスはユダヤ教の内部の人間ではないので、4世紀から5世紀にかけての非聖書的な伝承の状態を述べ伝えるのに最適の人物である。ヒエロニュムスにとっても、一節ごとになっているタルグムは、ハラハーやアガダーのポイントに沿って再編成されているミドラッシュやタルムードよりも便利だったに違いない。またハラハー的な議論についてはあまり知識を持っていないヒエロニュムスは、一般向けの聖書解釈を扱うタルグムの方が使いやすかった。

2019年6月24日月曜日

タルグム概論 Hayward, "The Aramaic Targums"

  • C.T.R. Hayward, "The Aramaic Targums," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 218-41.

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ヘブライ語聖書のアラム語訳を指す「タルグム」の語は、ヒッタイト語起源ではないかとされている。五書には三種類の完全なタルグムがある。第一は、タルグム・オンケロス。オンケロスはユダヤ人改宗者で、ラビ・エリエゼルとラビ・ヨシュアの二人のパレスチナの賢者たちから教えを受けた。一般的にオンケロスはバビロニア由来とされており、確かにバビロニア・タルムードと同様に東部アラム語の特徴も持っているが、パレスチナで成立した死海文書のアラム語と似ているところもある。そのため多くの研究者たちは、もともとパレスチナで成立したあとに(プロト・オンケロス)、バビロニアにもたらされ、ラビの学塾で最終的に編纂されて公認版となったと考えている。

第二は、タルグム・ネオフィティ(MS Neophyti 1)。パレスチナのタルグムで、アレハンドロ・ディエズ・マチョによって、1956年にヴァチカン図書館で発見された(オンケロスと誤認されていた)。エルサレム・タルムードと似たアラム語である。欄外注や行間注があることが特徴的である。長い挿入がありつつも、基本的にはヘブライ語テクストに忠実である。11世紀のナタン・ベン・イェヒエルが引用している。ミシュナーと矛盾するような律法解釈を含んでいる。成立はおそらく4世紀頃か。

第三は、タルグム・偽ヨナタン。多くの拡張的な解釈を含むため、ヘブライ語の五書の二倍の長さになっている。言語的にはオンケロスと似ているが、拡張的な解釈についてはネオフィティ、フラグメント、その他のラビ文学と共通したものを持っている。他のラビ文学にはない解釈も保存している。創21:21の解釈で、ムハンマドの妻と娘に言及していることから、最終的な編纂は少なくともイスラーム期と見られる。ただし原型はラビ的権威が明確に拒絶した解釈を多く保存していることから、タルムード期以前と考えられる。

これらの完全な五書のアラム語訳に加えて、部分的な翻訳もある。第一は、フラグメント。これは西部アラム語で書かれたパレスチナ・タルグムである。解釈を穏当に付加するネオフィティと拡大解釈を含む偽ヨナタンの中間くらいの自由度である。第二は、カイロ・ゲニザの7つの断片。これもパレスチナ・タルグムである。断片は7世紀から14世紀のもの。そして第三は、タルグムのトセフトット。オンケロスとパレスチナ・タルグムの両方の要素を持った言語的特徴を持っている。

預言者については、完全なタルグムはひとつだけである。すなわち、タルグム・ヨナタンである。ヨナタン・ベン・ウジエルに帰される。バビロニア・タルムードでしばしば引用される。オンケロスと同様に、もともとイスラエルの地で成立したが、のちにバビロニアで最終的に編纂されたと考えられる。オンケロスよりも長く、またより詳細な解釈的付加が見られる。そうした解釈は他のラビ文学でもおなじみのものが多い。

諸書については、公認版のタルグムは存在しない。しかし、箴言、歴代誌、ヨブ記、詩篇、5つのメギロットなどはアラム語に訳されている。エステル記には2つか3つの訳があり、特にその二つ目は原文からかけ離れた長い解釈を含んでいる。

これら各種タルグムの共通した関心は、彼らが思うヘブライ語テクストの正しい意味である。翻訳者たちにとって聖書は無謬の書である。それゆえに、聖書にある矛盾、不明瞭さ、不合理さは、読者が表層の意味をこえて聖書の完全な意味を知るためのシグナルの役割を果たしていると理解される。そこで、タルグムは次のような操作を図る。たとえば、明らかな矛盾の排除、聖書の一貫性への関心、聖書に見られる反復表現への意味づけ(associative or complementary translation)、イスラエルや聖書の偉大の人物への批判の最小化、現在の問題解決を図るためにテクストを反転させた翻訳(converse translation)などである。

神の表現においては、神聖四文字は使われない。タルグムは神人同型的な表現を和らげ、何事も神自身ではなく「神の面前で現された」とする。こうした婉曲表現はもともとペルシアの宮廷で使われたものである。詩的表現を散文化することも多い。シェヒナーをはじめとする神の呼び名はほとんどが他のラビ文学にも出てくるが、タルグム独特のものとして「メムラ(言葉・発話)」がある。

タルグムは複数の解釈を紹介することがあるが、そうした解釈は別個に現れるのではなく、テクストの表面にシームレスにひとつの解釈のように現れる。それが複数の解釈であることは、もとのヘブライ語テクストの知識がないとわからない。一方で、律法解釈に関してはどのタルグムもひとつの解釈を提示する。タルグム・オンケロスの律法解釈はラビ・アキバのハラハー的ミドラッシュと一致しており、それはとりもなおさずバビロニア・タルムードと一致しているということである。

タルグムのジャンルの可能性としては、ミドラッシュ、再話聖書、翻訳が挙げられる。ミドラッシュと似たところを持っているが、次の3点に関して大きく異なっている。第一に、タルグムはヘブライ語テクストを翻訳したものだが、ミドラッシュはそうではない。最も敷衍が見られる雅歌タルグムやエステル記のタルグム・シェニですら、翻訳という枠組みを失っていない。第二に、タルグムはラビの名を挙げて引用することは決してないが、ミドラッシュはしばしばする。タルグムには引用を示す「ダヴァル・アヘル」のような定型句は出てこない。そして第三に、タルグムは底本のヘブライ語テクストの全体を提供するのに対し、ミドラッシュは特定のレンマだけを挙げる。

再話聖書の代表例は、ヨベル書、外典創世記、聖書古代誌、ヨセフス『ユダヤ古代誌』などであるが、タルグムとはやはり次の3点で異なっている。第一に、再話聖書はしばしば聖書のエピソードの一部分を完全に削除するが、タルグムはそうではない。第二に、再話聖書は聖書の話の順番を大きく再編成することがあるが、タルグムはそうではない。そして第三に、タルグムが底本のヘブライ語テクストのすべての語に注意を払うのに対し、再話聖書は必ずしもそうしない。

ではタルグムは翻訳なのだろうか。タルグムには翻訳に加えてエクストラの情報を組み込むことがあるし、敷衍することもある。そこでSamelyは、タルグムとはan Aramaic narrative paraphrase of the biblical text in exegetical dependence on its wordingだと定義している。

タルグムの社会的な場所はシナゴーグである。ミシュナー(メギラー4.10)には、読まれるべき(あるいは読まれるべきでない)聖書箇所や解釈されるべき(あるいは解釈されるべきでない)聖書箇所が挙げられているが、それはシナゴーグにおける問題である。タルグムは教育的あるいは説教的な目的のもとで、ヘブライ語を解さない者から解す者まですべてを対象としている。申命記シフレ(161)によると、タルグムが学塾で用いられていた可能性が示唆されている。神への崇敬が聖書に、聖書がタルグムに、タルグムがミシュナーに、ミシュナーがタルムードに、タルムードが行為に、行為が畏れに人々を導く。つまり、ミシュナーはタルグムによる前知識を必要としているというのである。このように、タルグムは個人にも共同体にも宛てられているが、非ラビ的解釈を含むことから、ラビの世界の外で生じたものではないかと考えられる。それがのちにバビロニアでラビたちに公認されたということである。

タルグムの成立時期を特定するのは難しい。最終的な編纂の時期と、文書として成立した時期も異なる可能性がある。成立時期の議論については、Renee BlochとGeza Vermesらによる先駆的な研究がある。すなわち、タルグム中の個々の解釈と、年代特定が可能な文書中の平行箇所を比較するという方法論である。他にも、聖書の地名を同時代のものに勝手に変えること、ギリシア語やラテン語からの借用語、アラム語の形態などを見ることで、年代を特定することができる。こうした分析の結果、オンケロスは後1世紀から2世紀初期に成立し、最終的な編纂はバビロニアで5世紀以前になされたと考えられる。ヨナタンも同様。ネオフィティは4世紀初期。偽ヨナタンは7世紀初期。フラグメントはネオフィティと偽ヨナタンの中間くらい。トセフトットは特定不可能。諸書のタルグムは6世紀以降。

しかし、これら以前にも、クムランには聖書のアラム語訳が存在した証拠がある。レビ記(4QTgLev = 4Q16)とヨブ記(4QTgJob = 4Q157, 11QTgJob = 11Q10)である。これらは、既存のタルグムよりもシリア語のペシッタにより近いという見解がある。ヨブ記に関しては、ヘブライ語のヨブ記以外からも影響を受けている。つまりクムランのアラム語訳ヨブ記は初期の非ラビ的タルグムを代表している。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。

2017年3月25日土曜日

クムラン・ヘブライ語の特徴 Reymond, Qumran Hebrew

  • Eric D. Reymond, Qumran Hebrew: An Overview or Orthography, Phonology, and Morphology (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2014).
Qumran Hebrew: An Overview of Orthography, Phonology, and Morphology (Society of Biblical Literature Resourses for Biblical Study)Qumran Hebrew: An Overview of Orthography, Phonology, and Morphology (Society of Biblical Literature Resourses for Biblical Study)
Eric D. Reymond

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クムランで発見された写本群のヘブライ語に関しては、これまで代表的なものとして、Elisha Qimron, Hebrew of the Dead Sea Scrolls (1986)と、E.Y. Kutscher, The Language and Linguistic Background of the Complete Isaiah Scroll (1974)などが挙げられるが、本書はこれらを批判的に乗り越えようとした一冊である。ここでは、General Remarks (pp. 13-21)とConclusions (pp. 225-34)をまとめておく。

死海文書のヘブライ語は、マソラー本文に見られる標準聖書ヘブライ語、後期聖書ヘブライ語、ミシュナー・ヘブライ語、サマリア・ヘブライ語、そしてバビロニア伝統のヘブライ語などとの関係がある。むろん一方では、クムラン・ヘブライ語にしか見られないような特徴もある。

自然言語か人工言語か。研究者たちは、クムラン・ヘブライ語の特徴をさまざまに描こうとしている。Kutcher, Qimron, Shelomo Moragらによれば、クムラン・ヘブライ語は、文書の著者たちの自然言語(日常の意思疎通のために自然と発展した言語)だとされている。同様のアプローチで、Joshua Blauは、クムラン・ヘブライ語を後期聖書ヘブライ語に基づいた文学的イディオムだと説明した。一方で、Chaim Rabinをはじめ、William M. Schniedewind, Gary A. Rendsburg, James H. Charlesworthらは、クムラン・ヘブライ語は人工的かつ擬古的な言語と見なされるべきだと考えた。すなわち、彼らはクムラン・ヘブライ語は文書を書いた者たちの話し言葉ではなく、anti-languageだと見なしているのである。

話し言葉か書き言葉か。クムラン・ヘブライ語に見られる特異な正書法の中に、ある研究者たちは話し言葉と書き言葉の併存、すなわちダイグロシアを見る場合もあるが、Jacobus A. Naudeは、こうした二極化は単純すぎる説明であり、言語的なバリエーションにはさまざまな要因が影響すると反論した。

アラム語の影響か。クムラン・ヘブライ語に見られるいくつかの特徴をもとに、ある研究者たちは、文書の著者たちがアラム語の知識を持っていたこと指摘しようとする。ただし、同じことは、アラム語とヘブライ語との間でそもそも共有されている、通常の言語的発展の結果からも説明することができる。

こうした問題点を意識した上で、Joshua Blauによれば、クムラン・ヘブライ語は、人工的な聖書ヘブライ語の最終段階を反映しており、同時にアラム語やミシュナー・ヘブライ語といった話し言葉の影響にも曝されているのだという。

本書の著者は、クムラン・ヘブライ語における、自然言語の部分と人工言語の部分の併存、文書の著者の話し言葉の影響、アラム語化の傾向、擬古文的な傾向、標準聖書ヘブライ語の正書法の模倣と、それからの逸脱、写字生の正書法の異なった伝統などを認めつつも、いくつかの独自の見解を披露している。

まず、明らかに写字生の誤りと思われる箇所が多数あるので、ある一か所に独特の表現が出てきているからといって、それを基にしてクムラン・ヘブライ語の文法の特徴を一般化することは不適切であるという。

次に、1QIsaa, IQS, 4Q107などといった例外を除いて、アラム語の影響はわずかだという指摘である。むろんまったくないわけではないが、それはおそらく文書作者や写字生がバイリンガルだったことに起因するものであり、死海文書全体に普及しているわけではない。

そして、マソラー本文との親和性である。著者によれば、クムラン・ヘブライ語は、後期聖書ヘブライ語やマソラー本文のヘブライ語と共通の遺産を引き継いでおり、頻繁に見られる類似した特徴からは、クムラン・ヘブライ語とマソラー本文のそれとの通時的な発展が予想される。