ページ

ラベル 物語批評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 物語批評 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月7日金曜日

アブラハムとロトの別れ(6) Rickett, Separating Abram and Lot #6

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 158-88.

本書は次の3つの問題を扱っているものだった。第一に、ロトがアブラムの潜在的な後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な相手という読みは妥当なのか。第二に、こうした読みはどこから来るのか。そして第三に、こうした読みが適切でないなら、では創世記13章とロトの目的や機能はどのように理解されるべきなのか。

第一と第二の問いに対しては回答済みなので、第6章はこの第三の問いに答えている。著者は、創世記における他の「兄弟」物語と比較することで、アブラハム物語全体や創世記13章におけるロトの機能を分析している。後継者としてのロトの問題は、アブラムの息子探しに関係している。15章に出てくるダマスコのエリエゼルや17章に出てくるイシュマエルははっきりと「後継者」として明言されているが、ロトはそうではなく「兄弟」と呼ばれている。そしてこの「兄弟」性は「別離」と分かちがたく結び合っているというのが著者の見立てである。というのも、神の約束は兄弟たち皆のためのものではなく、兄弟たちのうち一人と、その後継者たちのものだからである。つまり、ある者と別の者が「兄弟」である限り、その者たちは一緒に住むことはできず、必ず「別れ」なければならない。

創世記における「兄弟」物語として、著者はカインとアベル、ノアとその子たち、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ、ヤコブとラバン、ヨセフとその兄弟たちなどを取り上げる。これらとアブラムとロトの挿話の共通点としては、どれも「兄弟(アハ)」という親族関係を表す語を用いつつ、関係上の「繋がり」と共に、そのあとに来る「別れ」を示しているという。つまり、「兄弟性」と「別離」という二重のテーマがどの挿話にも含まれているわけである。兄弟たちは一緒に住むことはできない。彼らは別れなければならない。

著者によれば、これらの中でもアブラムとロトの挿話との最も明確な並行関係は、ヤコブとエサウの挿話(創世記36章)にあるという。どちらの挿話でも、第一に、土地は二つの家族を支えることができないと言われており、第二に、エサウもロトも非常に裕福であり、第三に、両者はそれぞれの「兄弟」から離れたところに住み、そして第四に、両者はその兄弟から別れた。エサウはヤコブと兄弟関係のつながりを持っているが、神の約束を継ぐのはヤコブとその子孫だけなので、エサウは去らねばならない。その後ヤコブはエサウと友好的な再会を果たすが(33章)、ロトもまたアブラムに救われ、彼との再会を果たす(14章)。しかしこの再会も長くは続かない。兄弟たちは一緒にいることはできないからである。兄弟であることは、子孫であることに比べれば他人である。このように創世記の他の「兄弟」物語と比較することで、アブラムとロトの挿話で真に問われているのは「兄弟」性であることが分かる。それと同時に、エサウやロトらのような「選ばれなかった兄弟たち」は、必ずしも悪の存在ではない。彼らはヤコブやアブラムと異なり、肯定的な性質も問題のある性質も併せ持つ曖昧な存在なのである。

そしてロトは、実際にはアブラム甥であるにもかかわらず、亡くなった父ハランの代わりにこのような「兄弟」の役割を担わされている。創世記によれば、アブラムにはハランとナホルという兄弟がいたことになっている。アラム人の系譜の父祖であるナホルは、ミルカの夫であることしか知られず、おそらくはカナンへの移住時にも付いてきていない。ハランは、神の約束がアブラムと結ばれるより先に「父テラの前で死んだ」(11:28)。ロトが父ハランの代わりとされていることは、ハランではなくロトこそがモアブ人とアンモン人の父祖とされていることからも見て取れる。

以上より、創世記13章におけるロトは、アブラムの潜在的な後継者でもなければ、彼の倫理的な対応相手でもない。ロトの主要な役割は「選ばれなかった兄弟」である。「後継者=子孫」ではなく「兄弟」であるがゆえに、ロトはアブラムと神の約束の対象者ではなく、関係的にも地理的にもいわば「外部の者」となる。そしてロトは、創世記の「兄弟」物語の例に漏れず、アブラムと共に同じ土地に住むことはできず、「別離」を選ばざるを得ないのである。

2020年7月5日日曜日

アブラハムとロトの別れ(2) Rickett, Separating Abram and Lot #2

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 29-68.

第2章:兄弟愛、分離、定住

この章で著者は、アブラハムの倫理的な対比としてのロトという概念を分析するために、「兄弟愛」「分離」「定住」というテーマを掘り下げている。実質的には創世記13:6-18のコメンタリーになっている。まず「兄弟愛」については8節で触れられているが、すぐそのあとに9節でアブラムはロトに対し「分離」を提案している。アブラムがロトに対しどこに行くかを先に選ばせていることから、この提案はアブラムの寛大さを表していると多くの注解者は評価するが、著者は「分かれよう」というアブラムの台詞の中にある命令形に注目し、実際にはアブラムがロトに「分離」以外の選択肢を与えていないことを指摘する。

そう言われたロトは10節で「目を上げ」てヨルダン平和を見渡す。注解者たちの中にはこの行為がロトの利己的な性格を表していると見る向きもあるが、著者は創世記における「目を上げる」の用例をチェックした上で、このフレーズは否定的なものではなく、中立的なものだと指摘する。

11節でロトはヨルダン平野を選び、東に移動して、アブラムと「分離」するわけだが、著者はこの箇所を創世記13章のクライマックスであると考える。ロトに先に選択させたアブラムが「融和的」であるのに対し、自分のために最善の選択をしたロトのことは「自己中心的」であると注解者たちは解釈する傾向がある。とりわけ11節における「自分のために選ぶ」という一節がこの解釈を支えている。しかしながら、著者はここでもこのフレーズの用例をサムエル記上などに求めた上で、必ずしも自己中心的な意味を含んではいないことを示す。そして、純粋に現実的な判断を下したからといって、ロトを自己中心的であると見なすことはない、と主張するのだった。

11節では「ロトは東に移動した」という記述がある。この「東」に注目するHelyerの注解を著者は紹介している。それによると、ヘブライ的方向感覚は東向きだという。それは「東」を意味するケデムが「前方」をも意味することから分かる。となると、その方向から見て右は南、左は北、そして後方は西ということになる。こうしたことを踏まえると、「ロトが東に移動した」のはアブラムにとって計算外の行動だったといえる。アブラムは西を見ながらカナンの地の北と南のどちらを取るかとロトに尋ねていたのに、当のロトは東に移動してソドムにテントを張り、アブラムがカナンの地に定住するという事態になってしまったのである。こうして12節において、アブラムとロトの「分離」が完成する。

13節ではソドムの町の悪徳が説明されている。著者は、ソドムへの言及が多くある13章と19章を、14章と18章が橋渡ししていると考えている。14章ではロトがソドムに住み着き、アブラムとの間には思想的・地理的に継続的な分離があることが描かれている。また18章は13章と似た用語や似た構造を用い、共にロトを主要人物としている。こうして14章と18章に橋渡しされて、ようやく19章が始まる。

19章はロトの「定住」の進展における最終段階を提示している。19章にはロトによる使者のもてなしと、その使者たちを引き出そうとするソドムの者たちへの対応の挿話がある。ロトは「兄弟たちよ」と語りかけ、「悪を行うな」と命じるが、ソドムの者たちはロトを異邦人と見なす。ここにはアブラムとロトとの「分離」のみならず、ロトとソドムの者たちとの「分離」も描かれている。ロトはソドムの者たちに対し、使者の代わりに自分の娘を差し出そうという提案をする。解釈者の中にはこれを許されざる行為として激しく批判する者もいるが、著者によれば、これはあえて莫迦げた提案をしてソドムの者たちの興奮を収めようとしたロトの「皮肉の間接的なリクエスト(sarcastic indirect request)」だったのだという。

19:14では、使者たちが町を滅ぼすために遣わされたと知ったロトが、婿たちに町から逃げるように言うが無視されたとされている。このことから、ロトのキャラクターは道化役や愚か者といった無視されるべき役回りなのだと解釈する向きもあるが、著者はこのことを否定的に捉える必要はなく、むしろ使者たちの話にすぐに反応したロトと、それを見くびった婿たちとの対比を強調してると捉えている。また16節におけるロトのためらいも、ロトの不敬虔の証とされることがあるが(テクストからはその理由は自明でない)、これも逃げようとしない家族をロトが見捨てられないからだと肯定的に解釈できる。同じ理由から、18節でロトが「山へ逃げろ」と言う使者の助言を受け付けていないことも説明できる。つまり、自分勝手に見えるロトの行動は、その実彼の他者への配慮によるものだったのである。

19:29では、ロトは神がアブラムのことを「忘れず」にいたために助けられたと述べられている。このことは、ノアの動物たちがノアと共にいたために助かったことが想起される。つまり、神がロトに示した慈悲心は、ロト自身に固有の何かによるものであると同時に、ロトの外側の何か、すなわちアブラムとのつながりによるものでもあった。

以上のように創世記19章を詳しく見た上で13章と比較すると、物語はロトを「異邦人」として描いていることが分かる。それゆえにロトは「東」へと移り、モアブとアンモンというイスラエルから分離した者たちの父となったのである。ロトの倫理について、テクストから確かなことは言えない。ロトは敬虔であるかもしれないし不敬虔であるかもしれない。いずれにせよ、19章からロトが自分勝手であったり、悪の民のそばにいたがったりといった解釈はできない。

13章のつづき(14節から最後)においても、ロトはもはやアブラムの「子孫」には入っておらず、神を崇める祭壇での礼拝にも関わっていない。以上の分析から、ロトがアブラムの後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な対照者であるという一般的な理解は正しくないと言える。創世記13章は、ロトをアブラムから「分離」させ、アブラムを「定住」させているが、この「分離」は本来連れて行けないはずのロトを解決するための手段であり、「定住」はアブラムからの無理のある提案が発端だった。ロトはアブラムの後継者ではなく、「兄弟」として描かれている。

以上から、ロトを否定的に捉える一般的な理解は本文から出てきたものではないことが分かる。ではこれが本文に固有のものでないなら、その起源はどこからなのか。これを検証するために、著者は第二神殿時代の文学、初期ユダヤ教文学、教父文学にさかのぼっていく。

2020年6月10日水曜日

アブラハムとロトの別れ(1) Rickett, Separating Abram and Lot #1

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 1-28.

導入

創世記13章はアブラムとロトの別れの物語を伝えている。創世記13章はいかに機能し、またロトは個人として、そしてアブラムとの関係に関していかに特徴付けられるのか。これらの問いに対し、現代の釈義家たちは、創世記13章は潜在的な相続人としてのロトを取り除く機能を持っており、またロトはアブラムに対する倫理的な対比として特徴付けられていると答える。しかし、この答えは正しいのだろうか。

こうした問題を扱うために、著者は研究の方法論として、文芸学的(literary)/物語的(narrative)方法を採る。すなわち、テクストの成立史や歴史学的な問題はひとまず脇に置き、テクストをすでに完成した統一的なものとして、またホリスティックな物語ユニットとして捉えるのである。こうした方法論によるテクスト読解は、共時的なものとなる。

これまで、アブラムとロトの別れは、モアブとアンモンに対するイスラエルの衝突であるとされてきた。また多くの研究者は、創世記13章の機能とはアブラムの潜在的な相続人としてのロトを排除し、また彼をアブラムとの倫理的な対比として描くことだと考えてきた。つまり、アブラムは正しく敬虔な人物であるのに対し、ロトは自分勝手な愚か者とされているという解釈である。

こうした通説に対し、著者は3つの問いを立てる。第一に、ロトをアブラムの相続人であると同時にその倫理的な対応相手であると理解することは、テクストが表していることを最もよく反映しているだろうか。第二に、もしそうした理解がテクスト固有のものでないとすると、そうした読みの起源は何だろうか。そして第三に、そうした理解がベストでないとすると、創世記13章はどのように理解されるべきだろうか。

著者は創世記13章のテクストと初期の受容に目を向ける。すると言えるのは、第一に、上のような現代の釈義家たちの理解は物語の中心テーマを最もよく反映してはいない。第二に、そうした読みはもともと古代のユダヤ・キリスト教釈義家たちがアブラムを守るために発展させたものである。そして第三に、著者はアブラハム物語や創世記全体における創世記13章の位置と機能について、新しい読みを提案する。

ユダヤ・キリスト教釈義家たちは、この箇所をめぐるさまざまな問題に気づいていた。ユダヤ人釈義家はロトをトーラー否定の例として捉え、キリスト教釈義家はのちに彼がソドムから救われることを通して見た。どちらかというと、ユダヤ教の解釈でロトは否定的に描かれている。こうした伝統的な解釈を見ると、現代の釈義家による、アブラムのネガティブな対象相手としてのロトという理解は、テクストそのものが持っているものではなく、アブラムの立場を守ろうとする古代の釈義家の関心を反映したものだと言える。

著者は、創世記13章の新たな読みを提案することで、アブラムに対するロトの関係性を父子関係ではなく兄弟関係(brotherhood)の中に見出すことができると主張する。


第1章

著者は創世記12:4におけるアブラムの召命と13章の冒頭を精読することで、次のようなことを明らかにした。第一に、アブラムが「父の家」、すなわち家族の最小単位を離れるように命じられていること。第二に、ロトはその「父の家」の成員として描かれていること。第三に、アブラムがロトを養子にしたり、自分の相続人となり得ると見なしたりということは言明されていないこと。そして第四に、ロトがアブラムの「家」とは別の「家」の成員であるという描写は、創世記12章にはじまり、13章に続いていることである。

ロトがアブラムの「家」の者であるならば、ロトを連れて行ったことは問題ないが、別の「家」の者であるならば、それは主の命令に反したことになる。創世記12章の家計図によれば、ロトはあくまでアブラムの兄弟ハランの子、またアブラムの父テラの孫として説明されている。つまり、テラの「家」の者であって、アブラムの息子ではない。それゆえに、本来であればロトはアブラムの旅に付いていくべきではない。

13章では、アブラムのみが主の名を呼んで賛美したことや、アブラムとロトがそれぞれに裕福であることなどが語られる。ロトの財産への言及は、彼がアブラムと独立して裕福であり、別の「家」の成員であることを示している。