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2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。

2019年10月24日木曜日

「たとえの書」の成立時期 Knibb, "The Date of the Parables of Enoch"

  • Michael A. Knibb, "The Date of the Parables of Enoch: A Critical Review," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 143-60.

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J.T. Milikが提起した諸問題のうち、「たとえの書」の成立時期に関するものは最も重要なもののひとつである。多くの研究者は「たとえの書」を後70年以前のユダヤ教由来の文書と考えるが、Milikはそれをキリスト教由来でありかつ後270年の成立と考える。

この主張の根拠には否定的な側面と肯定的な側面がある。否定的な側面としては、クムランから「たとえの書」が発見されなかったのはキリスト教時代より前には存在しなかったから、とMilikは考えた。またMilikによれば、1世紀から4世紀のキリスト教作家が「たとえの書」をまったく引用していないのは、それがキリスト教初期の作品ではないからだという。ここからMilikは、5世紀にはギリシア語訳のエノク伝承はクムランと同じように2巻本として回覧されていたが、「たとえの書」ではなく「巨人の書」が入っていたと主張する(「巨人の書」はビザンツ歴史家シュンケッロスのソースも持っていた)。

しかし、論文著者によれば、ギリシア語訳のエノク伝承がクムランでのように2巻本で読まれていたというMilikの主張の証拠は弱い。また5世紀に「天文の書」が独立した文書として存在したかどうかについては、シュンケッロスの暗示的記述とオクシュリンコス・パピルスの断片が証拠として挙げられるが、確実でない。言い換えると、われわれは『エノク書』がどのようにして現在のエチオピア語訳のような形式を獲得したのかも、いつ「たとえの書」が挿入されたのかもよく分からない。また「たとえの書」がエッセネ派文書ではなさそうであるからといって、それがキリスト教文書であると結論付けることはできない。

一方で、Milikによる肯定的な側面からの説明としては、「たとえの書」の文学形式がキリスト教文書である『シビュラの託宣』に極めて近いことが明らかである。Milikは2つの類似点を挙げる。第一に、『エノク書』61:6は『シビュラ』2.233-7に依拠している。第二に、『シビュラ』5.104-10は「たとえの書」56:5-7について論者に影響を及ぼした。後者の箇所については、「パルティア人とメディア人」に関する記述は、Milikによると、実は260-70年に起こったパルティア人対ローマ人の戦争のことを示しているのだという。ここから「たとえの書」の成立もその頃とMilikは考えた。

ところが、論文著者はこれらの肯定的な側面からの証拠も確かではないと述べる。『エノク書』と『シビュラ』の間に存在する類似点は、前者が後者に依拠していることを示すために十分なものではない。そもそも論文著者は両者が文学的ジャンルにおいて近いということすら認めていない。そして「パルティア人とメディア人」の記述についても、まったく別の解釈が可能だと論じている。たとえば、『エノク書』56:7にある「右」という記述をMilikは「西」と読み、それゆえにこれはパルミラ人を指すと解釈するが、一般的な理解では「右」は「南」と読み替えるべきである(サム上23:19)。

以上から、「たとえの書」が270年頃に成立したキリスト教文書であるというMilikの主張は説得的であるとはいえない。キリスト教文書であるなら、キリストへの言及がないのは理解しがたい。むしろ同書ははっきりとユダヤ文書だと考えられる。その理由は、第一に、「たとえの書」はヘブライ語であるかアラム語であるかはともかく、はっきりとセム語で書かれている特徴があるからである(たとえば45:3、52:9)。そして第二に、内容的にユダヤ的な特徴があるからである。J. Theisohnによる「人の子」伝承に関する研究によると、この表現はイザ11:1や詩110など旧約聖書に基づくものであり、「たとえの書」もその延長線上にある。

上でも触れた『エノク書』56:5-8の「パルティア人とメディア人」への言及は、年代特定のために重要なものだが、これを基にして算定される「たとえの書」の成立は、Robert H. Charlesによると前64年以前、Erik Sjoebergによると前40-37年以前、そしてMilikによると後3世紀であるという。さらに、論文著者が長く紹介しているJohn C. Hindleyによると、113-17年のトラヤヌス帝のパルティア人遠征を指しているという。論文著者はHindleyの年代特定には同意しているが、その議論はあまり説得的でないと感じている。というのも、Hindleyが年代を特定する際に依拠している『シビュラ』の年代が不明だからである。しかし、それが間違っていると証明することもできない。すなわち、「たとえの書」の年代特定のために56:5-8の記述を用いることがそもそも間違っているのである。

研究者の中には、新約聖書の多くの表現が「たとえの書」に直接依拠したものだと考える者がいるが、論文著者はこのアプローチにも懐疑的である。Charlesはそうした影響関係のリストを作成しているが、思想や言語の一般的な類似がほとんどである。論じるに値するのは黙6:15-16(と『エノク書』62:3-5)である。両者は共通のテーマを持っているように見えるが、本当の接触があるとは言いがたい。Theisohnのように、直接的な影響関係を論じるのではなく、別の伝承の層を別々に検証するべきである。Theisohnはさらに、マタ19:28(と『エノク書』9:4)とマタ13:40-43(と『エノク書』54:6, 39:7, 58:3)などを比較している。しかし、論文著者はいずれも「たとえの書」との特定の影響関係を見出していない。

こうした議論をまとめたあと、論文著者は、「たとえの書」の成立時期を本当の意味で特定することは不可能だが、バランスを取って考えると、後1世紀の終わり頃と考えることができると主張する。第一に、Sjoebergのように、エルサレム陥落がその中に書かれていないから「たとえの書」は70年以前に成立したに違いないという主張は受け入れがたい。一方で、クムランから出てきていないという事実からは、「たとえの書」はクムランが放棄されたあとに書かれた可能性が高いといえる。第二に、「人の子」表現は後1世紀の終わり頃に用いられたと考えるのが自然である。それは、その頃に成立したことが分かっている『第二エズラ記』や『第二バルク書』から分かる。つまり、「たとえの書」はユダヤ戦争へのリアクションとして書かれたが、成立はそれよりあとのことだったということである。

2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。

2019年9月16日月曜日

『エノク書』の研究状況 Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research"

  • Michael A. Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 17-35.
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『第一エノク書』はユダヤ教の発展に関する情報を提供してくれることと、黙示文学の最上の例であることから重要なテクストである。現在では5~6世紀に作成されたエチオピア語訳でのみ全体が残るが、もともとは前3世紀終わりにアラム語で書かれた。エチオピア語訳は、次の五部から構成される:

  1. 「寝ずの番人の書」(前3世紀後半)
  2. 「たとえの書」(前1世紀後半)
  3. 「天文の書」(前3世紀後半)
  4. 「夢幻の書」(前165年すぐあと)
  5. 「エノク書簡」(前2世紀前半)

「たとえの書」は「人の子」という表現を含むので新約聖書学者の興味を引いたが、アラム語断片はそれを含まず、代わりに「巨人の書」を含む。

アラム語断片は11もの写本から成るため、クムランでの『エノク書』の権威のほどが知られるが、党派的文書ではなく、クムラン意外でも広く読まれていた。その証拠に、『ヨベル書』4:16-25には『エノク書』への言及がある。アラム語の『エノク書』はディアスポラのユダヤ人のためにギリシア語訳されたが、その状況は不明である。「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」のギリシア語訳は前2世紀頃に作成されたと考える研究者もいる(J. Barr)。第七洞窟から発見されたギリシア語断片(7Q4, 7Q8, 7Q11-14)は「エノク書簡」と見なされている。「たとえの書」と「天文の書」が「寝ずの番人の書」と「夢幻の書」の間に挿入されたのは、ギリシア語訳された段階でのことと考えられる。

『エノク書』のギリシア語訳はキリスト教徒の間でよく読まれた。「寝ずの番人の書」については、アクミーム写本(6世紀)と、シュンケッルス『年代記』の抜粋(9世紀)が、「エノク書簡」については、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀)が重要な証言である。これらの書以外のギリシア語訳はほとんどない。

『エノク書』は次第に東西教会での重要性を失ったが、エチオピア正教会では例外的に権威を認められていた。エチオピア語訳はギリシア語訳からの重訳である。「たとえの書」はイエスに言及していると解釈された。『エノク書』に関するわれわれの知識はこのエチオピア語訳に負うところ大であるが、最古の写本でも15世紀のものである。。

近代になると、まずJoseph Scaliger(1606)やJohann Fabricius(1713)らによってギリシア語訳が注目され、次いでNicholas PeirescやJames Bruce(1773)らによってエチオピア語訳が紹介された。エチオピア語訳の英訳と校訂本はRichard Laurenceが出版した(1821, 1838)。ドイツ語訳と校訂本はAugust Dillmanの手による(1851, 1853)。1886/7年のアクミーム写本の発見は研究を進展させた。このあとさらに英語圏ではRobert H. Charlesが英訳と校訂本を出版した(1893, 1906)。これはのちのThe Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament in English (1931)に結実する。

クムランで1952年に発見されたアラム語断片は、Josef Milikによって1976年に出版された。このThe Books of Enochは非常に強い影響力を持ったが、「たとえの書」をキリスト教徒の手になるものと主張するなど、批判されるべき点も多く含む。このアラム語断片の研究成果を受けて、Michael Knibbは新たなエチオピア語訳校訂本を出版した(1978)。Milikが除外していた「天文の書」のアラム語断片は、DJD 36に収録された(2000)。『エノク書』の包括的な注解書は、George Nickelsburgによって2001年に発表された(Hermeneiaシリーズ)。

前3世紀後半に書かれた「寝ずの番人の書」はユダヤ史上最古の黙示文学である。これは正典に含まれるダニエル書よりも古い。黙示文学のルーツはヘブライ語聖書の預言文学(エゼキエル書やゼカリア書)であるとされる。ただし、エノク自身はあくまで「見る者」であって、預言者としては描かれない。

『エノク書』はさらに、ヨブ記や箴言などの知恵文学と比較されることもある。とはいえ、『ソロモンの知恵』を除いて、知恵文学は終末論的な議論を含まないことにも注意が払われるべきである。『シラ書』との比較は興味深い。というのも、Benjamin Wrightによれば、「寝ずの番人の書」を書いたサークルと『シラ書』を書いたサークルには緊張関係(敵対関係まではいかない)があるというのである。クムランの知恵文学(4QMysteriesと4QInstruction)との比較もなされてきた。どちらも黙示的な文学ではないが、知恵に対するエノク的伝統との関係性を有している。エノクは「秘儀」である特別な啓示の受け取り手として描かれている。そして彼はそれをノアへと伝えるのである。こうした意味で、『エノク書』は「明らかにされた知恵(revealed wisdom)」であるといえる。

『エノク書』をより広い第二神殿地代のユダヤ教の枠組みで捉えようとした研究としては、Gabriele Boccacciniのものがある(Roots of Rabbinic Judaism, 2002)。Boccacciniは前6世紀から前2世紀のユダヤ教を、神殿体制を代表する「ツァドク派ユダヤ教(Zadokite Judaism)」と、もともとは祭司だったが派閥闘争に負けた「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」の対立として説明する。これにさらに「知恵的ユダヤ教(sapiential Judaism)」もあったが、これとエノク派ユダヤ教との対立はすぐに中立化した。またツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の中間に位置したダニエル書は、プロト・ラビ的テクストと呼べるという。

ツァドク派ユダヤ教は、エゼ40-48章、ネヘミヤ記、エズラ記、五書の祭司資料、歴代誌に現れ、知恵的ユダヤ教はアヒカル(『トビト記』)、箴言、ヨブ記、ヨナ書、コヘレト書に現れ、そしてエノク派ユダヤ教は「寝ずの番人の書」、アラム語レビ資料、「天文の書」、「動物の黙示録」などに現れる。

ツァドク派は、Boccacciniによるとエリート層の祭司で、エゼ40-48章で示される改革をユダの共同体に適用しようとした。それにより、大祭司の独占的な権利が保証される。エノク派は、捕囚後に権力を失い、のちにエッセネ派となった祭司たちである。彼らは「寝ずの番人」、すなわち天使たちが天から落ちてきたという信仰を持っている。「寝ずの番人の書」には2つの墜落伝承が残されている。第一に、シェミハザに関わるものは、創世記の記述に従い、人間の女性への欲望に負けてこれと交わり、巨人を生んだ物語である。第二に、アザエルに関わるものは、プロメテウス伝承のように、人間にさまざまな知恵を授けるために落ちてきたという物語である。いずれも、この世になぜ罪が存在するかを説明するための物語である。

Boccacciniは、このように、第二神殿時代のユダヤ教にさまざまなシャープな対立を描いてみせるが、論文著者は、実際のユダヤ教はもっと複雑だったに違いないと主張する。

2015年11月17日火曜日

アブラハム神殿放火物語に見るビザンツ・シリア・ユダヤの聖書解釈の関係性 Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols"

  • William Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols: Jubilees' Traditions in Christian Chronography," Jewish Quarterly Review 77 (1986), pp. 95-117.

本論文の中で著者は、エデッサのヤコブやバル・ヘブラエウスといったシリア語聖書解釈の中にある、アブラハムの偶像破壊に関するユダヤ教由来の聖書解釈が、『ヨベル書』のようなユダヤ文献に直接基づくものではなく、実はシュンケッロスらビザンツ時代の古代誌家たちが保存するより古代のギリシア語伝承(エウセビオス、アンドロニコス、アフリカノス、アンニアノスら)に基づくものであると論じている。

ビザンツの古代誌家たちは、アブラハムの偶像破壊やそれに続くハランからの脱出というユダヤ教ミドラッシュを知っており、それを『ヨベル書』から引用したとさえ主張しているが(ゲオルギオス・ケドレノス)、しばしばそれは現在残っているエチオピア語訳『ヨベル書』の内容とは異なっている。論文著者は、4種類の聖書解釈(何人かのロゴセテス古代誌家たちの要約、ゲオルギオス・シュンケッロス、ゲオルギオス・ケドレノス、修道士ゲオルギオス)をまず紹介する。それによると、ロゴセテス歴史家とシュンケッロスの解釈がより古いものであるという。しかし、修道士ゲオルギオスの解釈はエピファニオス『パナリオン』を翻訳し、かつヨアンネス・マララスの解釈を折衷したものであったり、ロゴセテス歴史家の解釈はユリオス・アフリカノスからのものであったりする。つまり、エチオピア語訳『ヨベル書』から直接引用したものではない。

シュンケッロスは、アブラハムとテラの年齢に関する時系列の矛盾を解決するための解釈を保存している。時系列ではハランでのテラの死の方がアブラハムのハラン出発より先に来ているが、それはテラが先に実際に死んだのではなく、アブラハム出発後のテラは精神的には死んだも同然だったからだという解釈である。これはユダヤ教文書である『創世記ラバー』に収録されている解釈である。『創世記ラバー』の解釈とはこうである:年齢だけを見ると、アブラハムは明らかにテラの死より先にハランを出発したことになっているが、聖書ではテラの死を先に書くことで、父を置いて出て行ったという罪状からアブラハムを解放し、同時に偶像崇拝者であるテラの生など死も同然だと指摘している。ただし、シュンケッロスと『創世記ラバー』では細部が異なるので、論文著者は、シュンケッロスのネタ元は、5世紀のアレクサンドリアの古代誌家であるアンニアノスとパノドロスではないかと述べている。

著者はさらに、アブラハムに関する同様の解釈を、なぜシリア語で著作した古代誌家たちも知っていたのかを検証する。そこで彼が議論の叩き台とするのが、次のSebastian Brockの論文である。
この中でBrockは、ヒエロニュムスが保存するアブラハムに関するユダヤ伝承と『ヨベル書』とをまず比較し、両者共に、アブラハムがウルを出発したのが60歳であったと言及していることに注目する。同時にこの60歳という数字は、シリア語伝承にも残されている。しかし、Brockは『ヨベル書』とシリア語伝承との相違も指摘している:アブラハムの神殿放火とウルからの出発を因果関係で結ぶシリア語伝承に対し、『ヨベル書』ではそれが薄く、神殿放火とウルからの出発との間に3年のブランクを置いているため、創世記の時系列と矛盾をきたしている。こうしたことから、Brockは、シリア語伝承は現在の『ヨベル書』に依拠しているのではなく、むしろ『ヨベル書』と共通のより古く純粋なソースに依拠していると論じている。

しかしながらAdlerは、このBrockの主張に対し、次の2点を反論する:第一に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承とシリア語伝承とは同じものではない。シリア語伝承は、時系列の矛盾に関する関心が薄いのである。第二に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承の時系列とシリア語伝承のそれとは異なっている。前者ではアブラハムがハランで75年過ごしたとされるのに対し、後者では14年である。ヒエロニュムス、シリア語伝承、『ヨベル書』が共有しているのは、アブラハムが偶像崇拝にはっきりと反対したのは60歳のときだったということである。

こうしたことから、Adlerは以下のように主張する:シリア語伝承は、Brockの言うように『ヨベル書』のプロトタイプからのものではなく、ビザンツ古代誌家に知られていたギリシア古代誌家たちの解釈からのものである。そもそもBrock自身が、シリア語伝承の中にギリシア語からの影響を認めているではないか。つまり、しばしばあるシリア語伝承がユダヤ伝承由来とされることがあるが、ことはそう単純ではない。その伝承は、直接ユダヤ教聖書解釈から来たものではなく、ビザンツ古代誌家がギリシア古代誌家から知り得た解釈を通して来たものなのである。