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2020年3月1日日曜日

党派の分裂 Boccaccini, "The Schism between Qumran and Enochic Judaism"

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 119-62.


『ダマスコ文書』はクムラン共同体の起源を理解するために重要な文書である。同書はエノク派運動の内部で、義の教師の支持者による特別な党派の存在を前提としている。とはいえ、これ自体はクムラン以前の文書なので、実際には初期エノク派文書とクムランの党派的テクストの橋渡し役と言える。というのも、同書は党派的テクストの特徴を持ちつつも、人間の自由意志をある程度認め、予定説をあまり強調せず、二元論も秀でていない。社会学的観点からいうと、それまでのエノク派伝統よりも厳格な、他のユダヤ人口からの分離を求めつつも、イスラエルの公共の宗教的機関から完全に分離するには至っていないといえる。

『ダマスコ文書』が「ツァドクの子ら」(4:2-4)に言及していることから、クムラン共同体が、分離したツァドク派祭司によって設立されたと説明されることがあるが、著者によれば、これはエノク派ユダヤ教がツァドク派と同じ祭司的環境にあったことによる。

『ダマスコ文書』は、エノク派ユダヤ教のエリートによって、より広いエノク派運動に向けて書かれたものである。彼らはマカベア戦争以後に徐々に自分たちが選ばれた別のグループであるという意識を強めていき、全イスラエルに代わって神の約束を成就させるという使命を担っていると考えるようになった。

クムランではどのテクストが見つからないのかを考えることも重要である:パリサイ派的なテクスト(『ソロモンの詩篇』)、ハスモン朝的なテクスト(『第一マカベア書』、『ユディト記』)、ヘレニズム・ユダヤ教的なテクスト(『アリステアスの手紙』、『第三マカベア書』、『ソロモンの知恵』、フィロンの著作など)、キリスト教的なテクスト(新約聖書など)は見つかっていない。

これら以上に特筆すべきは、後期エノク派文学の不在である。『寝ずの番人の書』、『天文の書』、『夢幻の書』、『プロト・エノク書簡』などは、死海文書のうちでも中心的な存在であったが、『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』のような、前1世紀頃に書かれたエノク派ユダヤ教の重要文書は、クムランには見られない。党派的テクストも、エノクに関する伝承に関心を失っていることが見て取れる。

クムランでは知られていなかったエノク派文書としては、まず『エノク書簡』がある。『プロト・エノク書簡』はプレ党派的文書だったが、『エノク書簡』は、クムラン共同体以外のグループによって書かれたポスト党派的な文書である。クムランで見つかっている『エノク書簡』断片は『プロト・エノク書簡』の部分のみであり、より長く後代の94:6-104:6部分はない。さらに106-7章が『ノアの書』から採られ、『エノク書』全体のサマリーのようなものとして編纂者によって付け加えられている。

さらに、『プロト・エノク書簡』の思想と違い、『エノク書簡』は神殿、神殿祭儀、祭司制に反対の立場を取っている。とりわけ98:4には、人間は自分の犯した罪の責任があるという、反クムラン的な考え方が見られる。「罪」は人間に責任があるという考えは、『エノク書』全体で言われている、悪は天使に由来するという考えと矛盾しない。なぜなら、罪を「発明」したのは個人なので、個人に責任があるからである。このようにして、『エノク書』全体としては、人間の責任と人間の犠牲という相矛盾する考えが同居することになる。どちらかだけを取ると、神が悪の源になってしまうからである。罪はこの世に輸入されたものなので人間にその責任はないというラディカルな立場は、クムランだけに見られる。

このように、『エノク書簡』の研究は、いかに『プロト・エノク書簡』が修正されたかを見極めることといえる。修正者の目的は、クムランの党派的な神学思想に沿って『プロト・エノク書』を発展させることであった。『エノク書簡』は「選ばれた者」と「悪人」を区別しつつ、それぞれを「貧者」と「富者」と同一視している。このときの「貧者」は個人を重視する『ダマスコ文書』と異なり、社会学的なレベルで包括的な意味を持っている。これは、クムラン的な「分離」の思想とはかけ離れている。「選ばれた者」=「貧者」は、救済されているのではなく、救済の候補者である。

『十二族長の遺訓』は、クムランで見つかっていない。現在の状態がキリスト教的であるがゆえに、その起源からキリスト教文書であった可能性を指摘する研究者もいるが、非ラビ・ユダヤ教的であるからといって、非ユダヤ的であるとはいえない。『十二族長』の非ラビ・ユダヤ教的な要素は「中期ユダヤ教」の多層性に由来する。『十二族長』は、悪が人間以上の存在に起源を持つこと、モーセ以前の祭司伝統、エノクの権威、イスラエルが依然として捕囚の身であること、神殿の回復は終末に実現することなどから、エノク派ユダヤ教の伝統に位置する。

『十二族長』は、クムランの党派的文書とアイデアを共有している。しかし、悪の存在を人間の責任にも帰するという考え方において、非常に異なっている。人間は単なる天使的な罪の被害者ではなく、天使同様に責任ある立場である。善と悪の内的な戦いという、人間に共通するイメージを持つ『十二族長』は、エノク派的伝統よりもさらに普遍主義的なアプローチを取る。

『たとえの書』は最後のエノク派ユダヤ教テクストというわけではないが、クムランの文書と起源を同じくしない最初のテクストである。非クムラン的、さらに言えば、反クムラン的文書といえる。同書の断片はクムランからは見つかっていない。その理由を研究者たちはさまざまに語るが、著者によれば、それは『たとえの書』がクムランとエノク派が分裂したあとに書かれた文書だからであるという。

同書においては、世界は善悪の二元論で説明される。個人の予定論は否定され、『エノク書簡』のように、義人と罪人は貧者と富者と同一視される。堕天使による原罪は、アダムの原罪に取って代わられる。『たとえの書』はJ.C. VanderKamによれば「反転の概念(notion of reversal)」を中心としているという。現世では富者が貧者を虐げているが、終末においてはそれが反転する。

クムランでは予定論的な考え方をするために、メシア待望は中心的ではなかったが、『たとえの書』はダニエル的な「人の子」を悪のエノク的教義における中心人物とみなしている。人の子が先在することで、天使や人の自由を否定しない形で、神がこの世を予見し、支配しているということができる。

このように、クムラン共同体はエノク派文学に関心を失ったわけだが、それはクムランが黙示的でなくなったのではなく、エノク派的でなくなったのである。その結果が『たとえの書』に現れている分裂であった。

『たとえの書』以降のさまざまな党派的テクストも、分裂以後のものである。ペシャリーム、『共同体の規則』、『戦いの巻物』、『会衆規定』などがそれに当たる。そこでは、義の教師、悪の祭司、敵対グループ、内部の反発者グループの存在が示されている。敵対者は、外部の者も内部の者も同様に否定的に描かれる。他のユダヤ教グループからの分離を正当化するために、二元論と予定論が組み合わされる。エノク派から分裂したことで終末論も変化し、終末においてはすべての民がクムラン共同体に統一されることになるという。『共同体の規則』はヤハドのみの規則ではなく、すべての民の規則である。こうして、クムラン党派テクストは、キリスト教に受け継がれる「交替の神学(theology of supersession)」を初めて示した。これらの考え方は、クムラン共同体を外界から完全に分離させたのだった(dualism, individual predestination, and self-segregation)。

クムランの党派的テクストで中期ユダヤ思想の発展において重要な影響を与えたものはない。クムラン外部の党派的テクストは、マサダとカイロ・ゲニザで見つかっている。マサダでは、ヘブライ語『ベン・シラ』と『ヨベル書』断片意外に、党派的テクストとしては『安息日犠牲の歌』が見つかっている。一方で、カイロ・ゲニザでは2つの『ダマスコ文書』写本が見つかっている。この理由は、マサダに関しては、おそらくクムランからマサダにやってきた避難民がこれらの写本を携えていたから、そしてカイロ・ゲニザに関しては、クムラン周辺で見つかった写本をカライ派が書き写し、保存していたからであろう。このように、エノク派文学は、キリスト教徒やラビたちを含め、クムラン外部でも読まれていたが、最もよく読まれていたであろう『ヨベル書』は、最も非党派的なテクストである。エノク派が外界との接触を保っていたのに対し、クムラン共同体は内にこもったのだった。

まとめ:以上のように、エノク派文学からクムラン文学にはひとつの鎖が続いている。『寝ずの番人の書』『アラム語レビの遺訓』『天文の書』(前4-3世紀)から、『夢幻の書』(マカベア戦争)、『ヨベル書』『神殿の巻物』(戦争直後)、『プロト・エノク書簡』『ハラハー書簡』(前2世紀中盤)、『ダマスコ文書』と党派的文書(前2世紀後半から後1世紀)。悪が人間の責任ではないという考えを共有しつつ、『ダマスコ文書』以降は義の教師のもとでエノク派ユダヤ教から独立したグループが生じ、党派的文書の時代にクムランに定住した。

『ヨベル書』および『神殿の巻物』の時代には、クムランにはツァドク派文学からの影響も入った。エゼキエル書を共有しつつ、エノク派とツァドク派はそれぞれの道を歩んだ。しかし、マカベア戦争とともにツァドク派の力は衰え、その文学はユダヤ教の遺産として共有されるようになった。

エノク派の鎖は、クムラン共同体の設立の直前で分離している。クムランの文学をつぶさに観察すると、自分たちの世界観に合致しないテクストを注意深く排除しつつ、合致するものだけを集めていることが分かる。つまり、クムラン文書は偶然の産物ではない。『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』を持つグループは、そのままエノク派の遺産を受け継いでいった。一方で、クムランの流れはより予定論的な思想を発展させ、過激な少数派となっていった。

2020年2月14日金曜日

クムラン・セクトの形成期 Boccaccini, "The Formative Age"

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 81-.117


マカベア戦争期に書かれたダニエル書『夢幻の書』は、クムランの図書館でも権威あるものとして扱われていた。両者は共にジャンルとしては黙示文学(apocalypse)であり、同じ世界観である黙示思想(apocalypticism)を共有している。

エノクが登場する『夢幻の書』は反抗的な天使の罪に起因する悪と不浄の拡散についても言及しているので、明らかにエノク派文書だが、歴史的な観点も持っている。それゆえに、マカベア危機は天使の罪にはじまる劣化プロセス(degenerative process)の帰結と見なされている。同書の核心をなす「動物の黙示録」(エノク85:1-90:42)は、モーセのトーラーについて言及せず、無視している。

ダニエル書も同様の劣化(degeneration)の歴史観を持っている。ただし、劣化は歴史全体ではなくある一時代のことだけと考えている。またエノク派的な悪の教義は共有していない。またダニエル書は、モーセのトーラーと第二神殿の正当性を主張している点で、ツァドク派ユダヤ教の教義に同調している(ただし、ツァドク派の祭司制には批判的なので、クムランでも人気があった)。

こうした違いから、ダニエル書はラビ・ユダヤ教で正典とされ、『夢幻の書』のようなエノク派文学はそうされなかった。またここからダニエル書は黙示的(apocalyptic)でないと見なされることもある。確かに、P. Sacchiのように「黙示的」を「エノク派的」と捉えるならば、ダニエル書はエノク派でないがゆえに「非黙示的(nonapocalyptic)」あるいは「反黙示的(antiapocalyptic)」になってしまう。しかし、J.J. Collinsによると、「黙示思想(apocalypticism)」は単一の派閥ではなく世界観なので、エノク派にもツァドク派にも、さらにはキリスト教徒にも影響を与えたと言える。

『ヨベル書』(4:17-19)は、『寝ずの番人の書』『天文の書』『夢幻の書』に暗示的に言及しているので、マカベア危機のあとに書かれたものである。一方で、『ダマスコ文書』(16:2-4)で引用されているので、前党派的テクストである。思想的には、エノク派ユダヤ教の悪の概念、人間の歴史が反抗的な悪魔的力の影響下にあるという考え、劣化の歴史観を共有している。社会学的にも、ツァドク派ユダヤ教とは異なる祭司制を唱えている点で、エノク派的である。

ただし、以下の2点において、通常のエノク派文書とは異なる。第一に、ツァドク派伝統の主役であるモーセに与えられた書という自己認識がある点である。どのようにエノク派的伝統とツァドク派的伝統を混ぜ合わせるかというと、『ヨベル書』は、人間の行いがすべて書かれた天の書字板があるとする。そして、ノア、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセなど、エノク以降の啓示者たちは皆その書字板を見ることで、神の啓示を受け取っていたと説明するのである。それゆえに、父祖たちがのちにモーセに顕かにされた律法を知っていたとしても、それはラビ・ユダヤ教が説明するように律法が先在していたからではなく、彼らが天の書字版へのアクセスを持っていたからだということになる。また完全な啓示はその天の書字版にしかないので、ツァドク派のトーラーはあくまでもその不完全なコピーのひとつにすぎない。そういう意味で、『ヨベル書』はエノク派的伝統とツァドク派的伝統を調和させてはいるが、前者が後者に優越していると見なしている。こうしてツァドク派のトーラーはツァドクの家だけのものではなくなった。

第二に、神の予定論に基づく独特の選びの教義である。『夢幻の書』においては、悪や不浄はユダヤ人も含め、すべての人類に影響するし、逆に救済は非ユダヤ人も含め、すべての人類にもたらされるものとされていた。ここでは「選び」はあいまいである。ところが、『ヨベル書』においては、ユダヤ民族ははっきりと特権的に選ばれた者たちとして描かれている。エノク派的な悪の概念とユダヤ民族の選びを調和させるために、『ヨベル書』はまず神の予定論を強調する。ユダヤ民族は最初から神に選ばれた聖なる民族であった。堕天使は天国と地上の領域を侵犯したことで創造の秩序を汚染したが、ユダヤ民族は選ばれたことで、そうした不浄の世界から切り離されたのである。しかし、ユダヤ民族は常に安全なのではなく、不浄をもたらす倫理的な罪を犯せば、その特権は失われる。このように、『ヨベル書』は浄と不浄、聖と冒涜に取り付かれている。

『ヨベル書』は他にも、太陰暦に対するはっきりとした論争をユダヤ思想の中で初めて表している。『天文の書』でも太陽暦が好まれているが、太陰暦を批判しているわけではなかった。太陽暦はツァドク派とエノク派が共有する第二神殿時代の伝統的な祭司的暦であるが、太陰暦はマカベア危機の時代にギリシアから導入されたヘレニズム的暦である。太陽暦の回復は、選ばれた民を悪の諸民族から切り離すために、『ヨベル書』にとって急務だった。

『神殿の巻物』をY. Yadinは党派的文書と説明したが、多くの現代の研究者は前党派的文書と見ている。『神殿の巻物』は、『ヨベル書』のように、ツァドク派のトーラーと並行するモーセ的啓示として、エルサレム祭司制に反対する祭司グループによって書かれた。共に太陽暦を用いている。しかし、『神殿の巻物』は『ヨベル書』よりも厳格な清浄規定を持っている。神殿の不浄規定と都市としてのエルサレムの不浄規定には差があるのが普通だが、『神殿の巻物』はエルサレムにも神殿並みの清浄さを要求する。ただし、『神殿の巻物』は党派的な分離を目指しているのではなく、イスラエル全体が等しく清浄であることを求めている。

『エノク書簡』(『エノク書』91-105章)の成立は複雑だが、前2世紀にクムラン共同体は、「週の黙示録」(93:1-10; 91:11-92:1)を含むプロト『エノク書簡』とでもいうべきものを持っていたはずである。成立時代にはさまざまな議論があるが、おそらくマカベア以降と考えられる。この文書は、エノクが息子たちに送った3つの語りでできている。このうちの第二の語りが「週の黙示録」に当たる。

そこにおいて『ヨベル書』や『神殿の巻物』の伝統と大きく異なるのは、多数派が忘れた知恵を受け継ぐことになる小数の選ばれたグループという考え方である。彼らは完全にイスラエルから分離したわけではないが、いわば選ばれた者たちのうちからさらに選ばれた者たちである。彼らの時代には、第一に、イスラエルが回復して新しい神殿が建設され、第二に、人類が回復し、第三に、最後の審判と共に原始の時代に戻り、新たなる創造がなされる。

イスラエルの民への忠誠心を裏切ることなく、エノク派は、神の意思と真の解釈と彼らが考えることを実行するために、イスラエルの改心を待つ必要はなくなった。選ばれた者たちからさらに選ばれた者たちとして、ユダヤ教の内部で分離したアイデンティティを持った。

『ハラハー書簡』は、分離したグループ(われわれグループ)が権威を持つ者(あなたグループ)に対し、多数派(彼らグループ)からの分離の理由を説明する文書である。律法解釈については、『神殿の巻物』のそれと比較可能である。『ハラハー書簡』によれば、ユダヤ民族はいまだ捕囚の状態にあり、現在は新しい創造へと導く最後の出来事の始まりであるという。L.H. Schiffmanは、『ハラハー書簡』にはのちのラビ・ユダヤ教がサドカイ派に帰するハラハー理解があるが、それはツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教が共に祭司的なルーツを持つからである。「われわれグループ」が多数派である「彼らグループ」から分離したのは、自ら課した分離であって、孤立ではない。「われわれグループ」はいまだに自分たちをイスラエルの一部と考えている。これらはクムラン・グループそのものではなく、クムランの親グループである。

2020年2月7日金曜日

歴史記述的分析と系統的分析 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis, Chs 2-3

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 21-79.

第2章:歴史記述的分析(hisotriographical analysis)

ユダヤ人作家であるフィロンおよびヨセフスが語るのは、パレスチナ地方におけるエッセネ派共同体のネットワークであり、非ユダヤ人作家であるプリニウスおよびディオン・クリュソストモスが語るのは、死海近くの単一のエッセネ派共同体である。これらは、エッセネ派運動の歴史における二つの異なる段階というわけではなく、同時代の別の共同体である。つまり、エッセネ派とはパレスチナにおける諸共同体の幅広い運動であり、その複雑さはユダヤ人作家には知られていた。一方で、死海近くに住む特定のエッセネ派共同体は、プリニウスやディオンのような非ユダヤ人作家の興味を引いたのだった。

ユダヤ人作家と非ユダヤ人作家の描写を比較すると、いくつかの興味深い要素が浮かび上がる。第一に、ユダヤ人作家は死海近くの特定の共同体について触れず、非ユダヤ人作家はパレスチナ全体のネットワークについて触れていないが、両者は共にエッセネ派という名前を使っている。第二に、非ユダヤ人作家によって記録された死海の共同体に関する要素のすべてには、ユダヤ人作家によって記録されたパレスチナの諸共同体にも並行する記述が見られる(逆はそうではない)。第三に、死海近くの共同体は、パレスチナの諸共同体よりも過激化しており、他者からの孤立化、特殊化を示している。そして第四に、非ユダヤ人作家は外部の視点からなるべくセンセーショナルな事柄を求めて死海近くの共同体のことを記述しているのに対し、ユダヤ人作家はユダヤ思想を最もよく体現するものを描くという目的に合致するものとしてパレスチナの諸共同体のことを説明している。

短く言えば、歴史記述的分析により分かることは、プリニウスやディオンによって描かれた死海の共同体とは、フィロンやヨセフスによって描かれたより広いエッセネ派運動の内部にいる、過激で少数派のグループである。


第3章:党派以前の歴史の系統的分析(systemic analysis)

クムランの図書館は、世俗的・非ユダヤ的文書がない(のでヘレニズム的な知の集成ではない)こと、また同じ文書が複数所蔵されている(ので個人の所有ではない)ことから、クムランに住む単一のグループに属するユダヤ教宗教文書のコレクションと言える。ただし、単一のグループの持ち物であるからといって、単一の神学を示すとは限らない。それは書物の持ち主であること(ownership)と著者であること(authorship)を混同している。クムラン共同体は書物の持ち主であって、必ずしも著者ではないので、複数の神学を反映していても不思議ではない。

これを分類するのに、(1)聖書文書、(2)外典・偽典、(3)これまで知られていなかったテクスト、という区分を用いるのはアナクロニズムである。『エノク書』と『神殿の巻物』は現代では、その存在が前から知られていたかどうかという基準の下に、前者が第二の区分に、後者が第三の区分に分類されるが、これはクムランの住民にとってまるで意味を成さない。より中立的な区分は以下のように言える:

(1)同種のテクストのグループで、独自のアイデンティティをもった単一の共同体の産物であり、ownershipとauthorshipが重なるテクスト
(2)党派性はわずかで、時系列的にも思想的にも「死海文書の共同体」の形成期に属し、ownershipが必ずしもauthorshipと重ならないテクスト
(3)党派性がなく、聖書に代表されるテクストで、ownershipがauthorshipと重ならないテクスト

これらのテクストを系統的に分析すると、通時的に見て、より古いテクストはより党派性が薄いことが分かる。時を経るにしたがって、共同体は注意深く所有するテクストを選定し、自分たちの考えを代表するものを意図的に残したのだった。つまり、死海文書は党派的グループの組織立った図書館の残りなのである。

死海文書とその他の第二神殿時代の文学を分けるのは、宇宙論的二元論、個人の予定論、不浄と悪の同一視に基づく独特の悪理解である。宇宙的二元論(cosmic dualism)はこの世を、「光の王子」率いる善玉と「闇の天使」率いる悪玉に二分する。ただし、クムランの二元論では、神ははっきりと善玉の味方であり、悪玉は神から離れた自主性はないので、二元論は最終的に善が悪を倒すことになる。死海文書は、宇宙はすべて神の制御下にあると考えている。

予定論(predeterminism)は神の全能性を強調し、人間の自主性を否定的に捉える。ただし、個人の運命は、個人の中にある悪に対し、善がどのくらいの割合があるか(善6:悪3、善1:悪8、善8:悪1など)で決まる(4Q561)。人間に自由がないことは、共同体のメンバーにとっては、神との絆が強まることとして喜ばれた。

不浄と悪の同一視。祭儀的な「不浄」が道徳上の「悪」と同一視される。つまり、罪ある人間は存在論的に不浄であり、不浄さは人間を罪ある状態にする。すべての人間はその本性から不浄であり、それゆえに、彼らはその本性から悪なのである。神の選びによって義とされない限りは。悪と不浄の同一視は、一方で、贖罪と浄化の同一視にもつながる。こうした清浄な状態は、共同体が他の人間たちから孤立することによって保たれる。その外部では神の義が不可能になるからである。

クムランから出たマカベア戦争前の文書を、時代錯誤的でなく分類するためには、「ツァドク派的」「エノク派的」という用語を使う必要がある。「ツァドク派的文学(Zadokite literature)」は、エステル記やダニエル書以外のほとんどの聖書文書や、外典文学などを含む。聖書文書はさまざまな時代に作成されたが、それらはペルシア時代や初期ヘレニズム時代にエルサレム神殿の権威(=ツァドクの家の大祭司)によって集められ編纂された。クムランのツァドク派文学には、『シラ書』15:14bを除いて、党派的な編集などはなされておらず、権威あるものとして引用されたり暗示されたしている。

「エノク派文学(Enochic literature)」である『エノク書』は、クムランでアラム語断片が発見されるまでは、マカベア戦争後の文学と考えられていたが、最初期の部分である「寝ずの番人の書」(6-36章)と「天文の書」(73-82章)はマカベア戦争以前にさかのぼることが明らかになった。エノク派文学の重要性は、ツァドクの時代にあっても園権威に従わない祭司の伝統があったと知らせてくれる点である。

ツァドクの祭司たちは、自分たちが神の領域であるエルサレムの神殿を不浄な世界から清浄に保つことで、善なる神の秩序を守っていると考えていた。これに対し、エノク派文学は、反抗的な天使たちが悪や不浄の伝播の原因であり、彼らが人類に秘密の知識を明らかにするという違反を犯したために、神の創造が汚されたと考えた。この罪は大洪水の後にも消えず、悪霊としてこの世をさまよっている。そして悪の伝播は天使に起因するものなので、人間の手には負えない。つまり、ツァドクの祭司たちが持っている清浄化の力などは幻想であり、悪や不浄には人間の力は及ばないのである。またツァドクの祭司がアロンを祖とし、またモーセに権威を見ることに対し、エノク派文学はより古いエノクに権威を帰している。

ではツァドク派とエノク派の分裂はいつのことだったか。それはエノク派文学が文書として成立するより前に違いない。Ben Zion Wacholderは、エゼキエルこそが反ツァドクの最初であるとする。「寝ずの番人の書」はエゼキエル書にきわめて似た内容を持っている。ただし、エゼキエルの影響は、エノク派ユダヤ教だけでなく、ツァドク派ユダヤ教にも同程度見られる。ツァドク派が神の秩序が第二神殿の完成によって回復されたと考えるのに対し、エノク派は回復はいまだなされていないと考える。「寝ずの番人の書」の分析により、Paolo Sacchiは両派の分裂は前4世紀のこと、Michael E. StoneおよびDaivd W. Suterは前3世紀のことだったと主張している。いずれにせよ、エノク派ユダヤ教は反ツァドク派的な祭司のサークルから生じたといえる。エノク派は、サマリア人と異なり、分離派のグループではなく、神殿エリート内部の反対派だったのである。

2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。

2019年11月10日日曜日

第七洞窟のギリシア語断片 Muro, "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7"

  • Ernest A. Muro, Jr., "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7 (7Q4, 7Q8 & 7Q12 = 7QEn gr = Enoch 103:3-4, 7-8)," Revue de Qumran 18.2 (1997): 307-12.

1955年に発見された第七洞窟から24の巻物が発見された。すべてパピルスに書かれたギリシア語写本である。1972年にO'Callaghanは7Q4 1&2をテモテⅠ3:16-4:3、また7Q8をヤコブ1:23-24だと同定した。これに対し、1988年にNebeは、7Q4 1が『エノク書』103:3-4、7Q4 2が同98:11、そして7Q8が同103:7-8であると同定した。O'Callaghanを支持するThiedeはNebeの説に反対したが、PuechがNebeを擁護した。

これらの説はどれも決定的ではないが、7Q4, 7Q8, 7Q12を個別の写本として検証している点では共通している。これに対し論文著者は、3断片を同じ写本に由来するものとして統一的に検証することが必要と主張した。そうすることで、論文著者はNebeのエノク書説を支持しようとしている。

写本に書かれた方眼や繊維の方向、あるいはパピルスの端の曲がり方といった物的な証拠から、3断片は同じ写本に由来するだけでなく、もともとひとつながりであったことが分かる。文字の形や内容などのテクスト的な証拠からは、このテクストが『エノク書』からのものだということが分かる。

物的な証拠とテクスト的な証拠から、7Q4, 7Q8, 7Q12はひとまとまりであり、『エノク書』103章のギリシア語テクストであることが判明した。ゆえにNebeの同定は正しい。7QEn grのような新しい表記法が必要である。

関連記事

2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。

2019年10月26日土曜日

「たとえの書」とクムラン党派テクスト Dimant, "The Book of Parables and the Qumran Community Worldview"

  • Devorah Dimant, "The Book of Parables (1 Enoch 37-71) and the Qumran Community Worldview," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 139-55.

「たとえの書」は唯一クムランから出てきていないエノク文書である。同書はメシア的存在に関する描写や「人の子」表現など、他のエノク文書と異なっている。これらは福音書のイエスの表現に近いので、初期キリスト教の研究者からの注目を引いてきた。Jozef Milikは「たとえの書」がキリスト教由来であると主張したが、それは研究者たちからは受け入れられず、今日では一般にユダヤ教由来であると見なされている。またもともとセム語で書かれていたことも明らかである。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、セム語原典が直接エチオピア語に訳されたと主張するが、多くの研究者はセム語原典からギリシア語に訳され、それからエチオピア語に訳されたと考えている。

「たとえの書」がユダヤ教由来であるとすると、それはイエスが「人の子」と見なされるようになる前に書かれたと考えるのが自然である。「人の子」概念がすでにキリスト教化されていたら、ユダヤ教作家はそうした表現を避けたはずだからである。同時に、エルサレム神殿の崩壊にまったく言及していないことから、同書はそれより前に書かれたとも考えられる。それゆえに、後1世紀の前半に書かれたと考えるのが適当である。さらに、56:5-7におけるパルティア人の侵攻と67:5-13のヘロデ王の湯治に関する記述にも基づくと、「たとえの書」は紀元後すぐか少しあとに書かれたといえる。ユダヤ教黙示文学やエノク諸書との近さから、同書はイスラエルの地で書かれた。

Jonas Greenfieldは、「たとえの書」が太陽と月を同価値と見なしていることや、太陽暦との不調和から、同書とクムラン共同体との関係の可能性を除外した。しかし、死海文書研究が進み、クムランの暦がさらに出版されると、クムラン共同体が月の重要性も認め、1年を364日とする太陰太陽暦にも従っていることが明らかになった(Jonathan Ben-Dov)。それゆえに、「たとえの書」とクムラン共同体との関係性を否定する必要はない。

「たとえの書」がクムランから発見されないことの理由は、共同体の文学活動の最盛期が前2世紀から前1世紀であるため、後1世紀に書かれた同書が筆写されなかったのだろうと考えられる。しかしながら、「たとえの書」の著者が党派的な世界観や文学に精通していたことははっきりしている。それはたとえば、「たとえの書」に頻出する「諸霊の神(エル・ハルホット)」という表現と、「すべての霊の主(アドーン・レコール・ルーアハ)」(感謝の詩篇)や「諸霊(ルホット)」という表現の類似から見て取れる。メシアたる「人の子」という像も「たとえの書」の独創ではなく、第二神殿時代のユダヤ文学に根ざしたものである(「ベラホット」、「メルキツェデク・ペシェル」、「メシア的黙示」など)。

論文著者は、こうした成果を受けて、さらに「たとえの書」と死海文書を詳細に比較する。たとえば、エノクの祈り(39:10-13)を他のエノク文書や、『ダマスコ文書』、『感謝の詩篇』などの定式と比較する。すると、エノクの祈りでは、神の全知全能が空間的なものでなく、時間的なものとして描かれていることが分かる。またエノクの祈りでは神の予定説的な計画ははっきりとは表現されていないが、その概念は神の根源的かつ包括的な知識という観念にすでに埋め込まれている。

また神への賛美の祈りは、寝ずの番人たる天使によって述べられるケドゥシャーの祈りで締めくくられる。エノクのケドゥシャーはイザ6:3の「聖なる、聖なる、聖なるかな」の呼びかけを含むが、のちにヨツェルの祝祷やアミダーの祈りに組み込まれるユダヤ祈祷の一部分であるエゼ3:12による応答は欠いている。またヨツェルの祝祷にある朝の光とのつながりはなく、アミダーの祈りにおける日課にもなっていない。それゆえに、エノクの祈りは「たとえの書」が書かれたときのユダヤ祈祷にケドゥシャーが使われていたことの証拠を提供するわけではない。とはいえ、エノクの祈りと党派的な祈りの形式は第二神殿時代の共通の伝承の反映であって、前者の後者への依拠を示さない。しかし、類似点は確かに見受けられる。

義人の未来(58:2-6)についての記述は、永遠の生、永遠の光の中での存在、神の前での義といった要素を含む。義人への報いとしての永遠の生の概念は、ダニ12:2や『共同体の規則』などにも見られるこの時代の一般的なものである。義人には未来における至福が待っているという概念も、ダニエル書や『ソロモンの知恵』などに見られる。ただし、「たとえの書」は光に対して闇の存在を対置させているところに特徴がある。悪と善の時代、闇と光における実現といった対比がはっきりと打ち出されている。乾いた土地に朝の光が昇り、闇を取り去るという類比も多用されている。また「真実(エメト)」こそが光の子らを特徴付けるというのも、クムラン共同体と似た点である。

「たとえの書」にはクムランの用語はまったく見られないが、さまざまな点で近い関係にあることが明らかになった。それゆえに、「たとえの書」はクムラン共同体とは異なるが近いサークルによって作られたものと見なすべきである。

2019年10月24日木曜日

「たとえの書」の成立時期 Knibb, "The Date of the Parables of Enoch"

  • Michael A. Knibb, "The Date of the Parables of Enoch: A Critical Review," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 143-60.

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J.T. Milikが提起した諸問題のうち、「たとえの書」の成立時期に関するものは最も重要なもののひとつである。多くの研究者は「たとえの書」を後70年以前のユダヤ教由来の文書と考えるが、Milikはそれをキリスト教由来でありかつ後270年の成立と考える。

この主張の根拠には否定的な側面と肯定的な側面がある。否定的な側面としては、クムランから「たとえの書」が発見されなかったのはキリスト教時代より前には存在しなかったから、とMilikは考えた。またMilikによれば、1世紀から4世紀のキリスト教作家が「たとえの書」をまったく引用していないのは、それがキリスト教初期の作品ではないからだという。ここからMilikは、5世紀にはギリシア語訳のエノク伝承はクムランと同じように2巻本として回覧されていたが、「たとえの書」ではなく「巨人の書」が入っていたと主張する(「巨人の書」はビザンツ歴史家シュンケッロスのソースも持っていた)。

しかし、論文著者によれば、ギリシア語訳のエノク伝承がクムランでのように2巻本で読まれていたというMilikの主張の証拠は弱い。また5世紀に「天文の書」が独立した文書として存在したかどうかについては、シュンケッロスの暗示的記述とオクシュリンコス・パピルスの断片が証拠として挙げられるが、確実でない。言い換えると、われわれは『エノク書』がどのようにして現在のエチオピア語訳のような形式を獲得したのかも、いつ「たとえの書」が挿入されたのかもよく分からない。また「たとえの書」がエッセネ派文書ではなさそうであるからといって、それがキリスト教文書であると結論付けることはできない。

一方で、Milikによる肯定的な側面からの説明としては、「たとえの書」の文学形式がキリスト教文書である『シビュラの託宣』に極めて近いことが明らかである。Milikは2つの類似点を挙げる。第一に、『エノク書』61:6は『シビュラ』2.233-7に依拠している。第二に、『シビュラ』5.104-10は「たとえの書」56:5-7について論者に影響を及ぼした。後者の箇所については、「パルティア人とメディア人」に関する記述は、Milikによると、実は260-70年に起こったパルティア人対ローマ人の戦争のことを示しているのだという。ここから「たとえの書」の成立もその頃とMilikは考えた。

ところが、論文著者はこれらの肯定的な側面からの証拠も確かではないと述べる。『エノク書』と『シビュラ』の間に存在する類似点は、前者が後者に依拠していることを示すために十分なものではない。そもそも論文著者は両者が文学的ジャンルにおいて近いということすら認めていない。そして「パルティア人とメディア人」の記述についても、まったく別の解釈が可能だと論じている。たとえば、『エノク書』56:7にある「右」という記述をMilikは「西」と読み、それゆえにこれはパルミラ人を指すと解釈するが、一般的な理解では「右」は「南」と読み替えるべきである(サム上23:19)。

以上から、「たとえの書」が270年頃に成立したキリスト教文書であるというMilikの主張は説得的であるとはいえない。キリスト教文書であるなら、キリストへの言及がないのは理解しがたい。むしろ同書ははっきりとユダヤ文書だと考えられる。その理由は、第一に、「たとえの書」はヘブライ語であるかアラム語であるかはともかく、はっきりとセム語で書かれている特徴があるからである(たとえば45:3、52:9)。そして第二に、内容的にユダヤ的な特徴があるからである。J. Theisohnによる「人の子」伝承に関する研究によると、この表現はイザ11:1や詩110など旧約聖書に基づくものであり、「たとえの書」もその延長線上にある。

上でも触れた『エノク書』56:5-8の「パルティア人とメディア人」への言及は、年代特定のために重要なものだが、これを基にして算定される「たとえの書」の成立は、Robert H. Charlesによると前64年以前、Erik Sjoebergによると前40-37年以前、そしてMilikによると後3世紀であるという。さらに、論文著者が長く紹介しているJohn C. Hindleyによると、113-17年のトラヤヌス帝のパルティア人遠征を指しているという。論文著者はHindleyの年代特定には同意しているが、その議論はあまり説得的でないと感じている。というのも、Hindleyが年代を特定する際に依拠している『シビュラ』の年代が不明だからである。しかし、それが間違っていると証明することもできない。すなわち、「たとえの書」の年代特定のために56:5-8の記述を用いることがそもそも間違っているのである。

研究者の中には、新約聖書の多くの表現が「たとえの書」に直接依拠したものだと考える者がいるが、論文著者はこのアプローチにも懐疑的である。Charlesはそうした影響関係のリストを作成しているが、思想や言語の一般的な類似がほとんどである。論じるに値するのは黙6:15-16(と『エノク書』62:3-5)である。両者は共通のテーマを持っているように見えるが、本当の接触があるとは言いがたい。Theisohnのように、直接的な影響関係を論じるのではなく、別の伝承の層を別々に検証するべきである。Theisohnはさらに、マタ19:28(と『エノク書』9:4)とマタ13:40-43(と『エノク書』54:6, 39:7, 58:3)などを比較している。しかし、論文著者はいずれも「たとえの書」との特定の影響関係を見出していない。

こうした議論をまとめたあと、論文著者は、「たとえの書」の成立時期を本当の意味で特定することは不可能だが、バランスを取って考えると、後1世紀の終わり頃と考えることができると主張する。第一に、Sjoebergのように、エルサレム陥落がその中に書かれていないから「たとえの書」は70年以前に成立したに違いないという主張は受け入れがたい。一方で、クムランから出てきていないという事実からは、「たとえの書」はクムランが放棄されたあとに書かれた可能性が高いといえる。第二に、「人の子」表現は後1世紀の終わり頃に用いられたと考えるのが自然である。それは、その頃に成立したことが分かっている『第二エズラ記』や『第二バルク書』から分かる。つまり、「たとえの書」はユダヤ戦争へのリアクションとして書かれたが、成立はそれよりあとのことだったということである。

2019年10月22日火曜日

エノク文学からエノク派ユダヤ教へ Boccaccini, "Introduction"

  • Gabriele Boccaccini, "Introduction: From the Enoch Literature to Enochic Judaism," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 1-14.

1773年、スコットランド人冒険家James Bruceが『エノク書』を再発見してから、研究者たちはその校訂版と近代語訳の出版に心血を注いできた。Richard Laurence, August Dillmann, Johannes Flemmingら19世紀の文献学者の仕事である。20世紀になると、Robert Henry Charlesが『エノク書』をより広いユダヤ黙示文学の文脈に位置づけた。外典・偽典に関心を持ったのが主としてキリスト教学者であったことから、『エノク書』研究も反ユダヤ主義や反セム主義に晒されたが、1947年にクムランで死海文書が発見されると、イエス運動がいかに第二神殿時代のユダヤ教に深く根付いたものだったかが認識されるようになった。

そして、死海文書中の『エノク書』断片を校訂したJosef Milikは、同書が複数の資料に基づく合成文書であり、また第二神殿時代のユダヤ教テクストと密接な関わりを持つことを強調した。これに触発されて、『エノク書』はたてつづけにイタリア語、スペイン語、ドイツ語、英語、フランス語に訳された。さらにJames VanderKamやJohn Collinsらの目視文学研究が発表された。

ここ20年ほどの間に起こった最も重要な発展は、『エノク書』研究がテクストそのものの分析から、テクストの背後のグループの知的・社会学的な特徴の分析へと強調点が移ったことである。『エノク書』は第二神殿時代における独特の思想運動の核となるテクストであることが明らかになった。こうした議論で特に重要な功績を挙げたのが、Paolo SacchiとGeorge Nickelsburgである。

Sacchiは『エノク書』が黙示文学ジャンルの原型であるばかりかユダヤ教の独特の多様性の核でもあることを指摘した。そしてエノク派運動を、第二神殿時代のユダヤ教や古代のユダヤ黙示主義というより広い文脈の中にある独特の黙示主義的な一派として描くという最初の試みをした。その際に、そうした知的運動のエッセンスが独特の悪の概念であると指摘したのもSacchiである。

Nickelsburgによれば、エノク派運動とはモーセのトーラーがまだ普遍的な規範ではなかったユダヤ教の一形態であるという。またエノク派的な思考システムでは、一方では、罪や悪の起源は、天上の争いの結果であり、人間はその犠牲者であるという完全な決定論に基づいたものであり(human victimization)、他方では、神の法を侵した人間にその原因があるという完全な非決定論に基づいたものでもある(human responsibility)という相矛盾した考え方が採られていた。Sacchiが知的な問題だけを取り上げていたのに対し、Nickelsburgはエノク派グループの社会学的な問題にも触れている。

我々はこのグループが実際にはどう呼ばれ、また自分たちをどう呼んでいたのか知らないが、エノク神話に関わる運動であることから、「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶのが適切であろう。Nickelsburgはこの伝統は上ガリラヤを起源とし、エルサレムの祭司制に不満を抱く集団だったと考えている。非協調主義、反ツァドク派、反祭司的などを特徴とする。

エノク派ユダヤ教は自律的であったが、一方で広い影響も及ぼしている。その影響は、特に『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『アダムとエバの生』『第二エノク書』『アブラハムの黙示録』『第四エズラ記』などに見られる。そしてもちろん新興のキリスト教をかたちづくるためにも大きなインパクトを与えた。同時にラビ的教師やその共同体とは相容れないものでもあった。このエノク派ユダヤ教の再発見こそが疑いもなく現代の研究の最大の功績のひとつである。

2019年10月21日月曜日

『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"

  • Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.

『エノク書』研究はクムランにおけるアラム語断片の発見によって飛躍的に進展した。研究史の初期に、G.H. Dixはエチオピア語訳の『エノク書』は五つの文書からなるが、それらをひとつのコーパスとして見ることの重要性を訴えた。そしてエノク五書をトーラーの五書に関連付け、それらの似ている点を主張した。

クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。

Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。

そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。

論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。

一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。

「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。

以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。

2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

2019年10月11日金曜日

エノク=エッセネ派仮説の提唱 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis #1

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 1-17.

クムラン共同体の思想的同定の議論は、依然として「エッセネ派仮説」が有力と見なされている。さまざまな修正案も出されているが、学術的なコンセンサスは得られていない。こうした議論は無駄ではなく、研究者たちがクムラン考古学を虚心坦懐に再考するのに役立っている。

クムラン共同体の起源と思想的なルーツに関して、Ben Zion WacholderやShemaryahu Talmonは反ツァドク派サークルであるとする。一方で、Lawrence H. Schiffmanは、派閥の分裂によって、もともと規範的なツァドク派的だった伝統が党派的な現象に変化したのだと考えた。

いずれにせよ、エッセネ派仮説は、第二神殿時代のユダヤ思想の複数的な発展に照らして、ラディカルな方向転換が図らなければならない。エッセネ派仮説の典型的な欠点は、クムランとエッセネ派を同一視してしまうことである。研究者たちはしばしばエッセネ派的姿勢を描くためにクムランのテクストを使用することがある。しかしクムランは、より大きく複雑なエッセネ派運動の一部に過ぎない。

さらに死海文書研究はコーパスを区切ることでタコツボ化していることも憂慮される。ちょうど新約学者がそうであるように、死海文書のスペシャリストも他の第二神殿時代の文学の研究者から切り離されてしまっている。いわば自己満足の幻想(an illusion of self-sufficiency)に陥っているのである。現代の死海文書研究の問題は方法論の弱さである。

そこで本書の著者は「体系的分析(systemic analysis)」をユダヤ文献に適用する。そうすることで、あるグループの思想的構造を基盤としてその文書を比較することができる。また思想的・時系列的につながった文書の鎖を形成することで、体系的分析は自立的にユダヤ教を特定し描写することができる。ここで重要なのは、体系的分析と「歴史記述的分析(historiographical analysis)」を区別することである。両者は必ずしも同じ分析結果をもたらさないからである。

歴史記述的分析はあるグループに関する後代の記録の歴史的信頼性を判定するもので、体系的分析はあるグループの思想的遺物を研究、分類、区分するものである。具体的に言えば、歴史記述的分析はヨセフスの記述に基づいて、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などについて分析し、体系的分析は死海文書に基づいてクムラン共同体について分析することである。つまり、歴史記述的分析は、名前が知られているが資料を残していないユダヤ教を特定し、体系的分析は資料を残しているが名前が知られていないユダヤ教を特定するための方法である。古代の歴史記述が述べていることとと、現存する文書が我々に言わせることとは食い違うことがあるが、それが一致するとき、特定のユダヤ教の包括的な議論が可能になる。

このような方法論を用いて、著者は、古代の歴史家が「エッセネ派」と呼ぶものはクムラン共同体のみならず、現代の歴史家が現存する資料に基づいて「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶものをも含むと主張する。そしてこれを「エノク=エッセネ派仮説(Enochic/Essene hypothesis)」と呼ぶ。著者によれば、『エノク書』は第二神殿時代のさまざまな多様性の核にあるという。こうした見解はPaolo Sacchiらの研究によって牽引されてきた。『エノク書』に見られる特異な悪の概念が、第二神殿時代に特定の派閥を作る力となっていた。重要なことは、我々は『エノク書』からこの派閥の存在を知ることができるが、それが古代においてどのように呼ばれていたかは知らないということである。そこで「エノク派ユダヤ教」と暫定的に呼ぶわけである。

エノク派ユダヤ教を扱う際の方法論的注意点は次である。第一に、『エノク書』はエノク派ユダヤ教の主要なソースだが、この派はエノクが出てこない文書も作成したし(『ヨベル書』、『十二族長の遺訓』、『第四エズラ記』など)、エノクが出てきてもこの派の文書ではないものもある(『シラ書』、フィロン、ヨセフスなど)。

第二に、『エノク書』は黙示文学だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示文学の歴史とは必ずしも一致しない。ユダヤ教黙示文学には、ダニエル書、ヨハネ黙示録、『第二バルク書』なども含まれるが、これはエノク派ユダヤ教の文書ではない。

第三に、『エノク書』は黙示思想の重要な証言だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示思想の歴史とは必ずしも一致しない。John J. Collinsは世界観としての黙示思想(apocalypticism)と文学形式としての黙示文学(apocalypse)の区別を提案している。黙示思想は黙示文学の世界観として規定できるが、黙示的世界観は黙示文学以外でも表現できるのである。Sacchiはさらに、世界観としての黙示思想(apocalypticism)と思想的派閥としての黙示派(apocalyptic)の区別も提案している。ある二つの文書が同じ黙示思想を共有していても、両者が同じ派閥であるとは限らないのである。

Collinsの考え方だと、『エノク書』とそれに反対するダニエル書やヨハネ黙示録は共にユダヤ教黙示思想の歴史に含まれる。両者は思想的違いにもかかわらず、同じ黙示的世界観を共有していたからである。Sacchiの考え方だと、特定のユダヤ教黙示派(たとえばエノク派ユダヤ教)の歴史にダニエル書やヨハネ黙示録は含まれない。

著者はエノク派ユダヤ教とクムラン共同体の関係性について明確な見解を持っている。彼によれば、エノク派ユダヤ教とは、エッセネ派の主流派の現代的な名前であり、そこからクムラン共同体が過激で反抗的で周辺的な子孫として別れたのだという。しかし、エノク派ユダヤ教はその後クムランのエッセネ派の考え方を拒絶し、むしろ洗礼者ヨハネやイエスの派閥の誕生に貢献したのだった。

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2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月9日水曜日

7Q5論争への新たな試み Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set"

  • M Victoria Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set in the Debate on the Identification of 7Q5?" Dead Sea Discoveries 6 (1999): 66-77.

本論文は、J. O'Callaghan(およびそのフォロワーであるC.P. Thiede)がパピルス断片の7Q5をマルコ福音書6:52-53だと断定していることに対して反論を試みたものである。もし本当にクムランからキリスト教文書が出てきたのなら、きわめて興味深いが、これはほとんどすべての研究者によって否定されている。しかし、O'Callaghanはインタビューの中で、自分が学術的でない個人攻撃に晒されていると主張している。論文著者によれば、彼は他の研究者たちから投げかけられた疑問や他の可能性の指摘に誠実に答えていない。そこで論文著者は、O'Callachanらよりも妥当性が高い説を提出しようとする。むろん論文著者はそうした自分の説も完全に正しいと証明することはできないことを理解している。

論文著者はまず古文書学的問いと文献学的問いを立てて、7Q5がマルコ福音書の引用ではありえないことを説明する。古文書学的、文献学的、歴史的な理由は、この断片がマルコであることを決して客観的に証明しないのである。

では、マルコ福音書ではないなら何のテクストなのか。論文著者は、まずゼカリヤ書7:3c-5である可能性を指摘する。残っている断片が欄のはじめである場合、欄の中である場合、欄の中央である場合を考慮している。次に『エノク書』15:9d-10である可能性を挙げる。第7洞窟から発見された7Q4と7Q8はすでにギリシア語訳の『エノク書』であると同定されているので、この読みは仮説ではあるが不可能ではない。

7Q5はゼカリヤ書でも『エノク書』でもないかもしれない。しかしマルコ福音書であるよりは蓋然性が高い。ゼカリヤ書であるという同定は、マルコ福音書であるよりもパピルス学的な問題が少ないし、文化的にも時系列的にも実現可能である。『エノク書』である可能性ですら、問題はあるとはいえ、クムランの文化的環境という点からいえばよりフィットする。われわれが利用可能な歴史的証拠や確たる証言を用いて、コントロールを欠いたような学問的創造性には制限をかける必要がある。

「エノク派ユダヤ教」への批判 Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism'"

  • Anette Yoshiko Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism': 1 Enoch as Evidence for Intellectual History, Social Realities, and Literary Tradition," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 336-44.

本論文はGabriele Boccacciniの「エッセネ=エノク派仮説」に対する建設的な反論である。第二神殿時代のユダヤ教の多様性の核にあるは『エノク書』である、という理解が、エノク派文学、エッセネ派運動、クムラン共同体の関係性に関するBoccacciniの仮説の中心にある。とりわけ彼は「寝ずの番人の書」に見られる「堕天使が人間の罪と苦しみの原因である」という神話的な理解を重視する。この天使の堕落の神話は、伝統的な聖書の原罪理解からのラディカルな出発であり、ここに「エノク派ユダヤ教」が成立する。

エノク派ユダヤ教は前4~3世紀に祭司たちの中でできあがり、神殿の権威であるいわゆる「ツァドク派ユダヤ教」に相対した。Boccacciniによれば、以後数世紀に亘るユダヤ教の発展史は、このエノク派ユダヤ教とツァドク派ユダヤ教の抗争の物語といえるという。これはマージナルな黙示的思想の一派と一枚岩の主流派ユダヤ教の二項対立という従来の理解とは異なる。むしろエノク派ユダヤ教は祭司内部の反対運動に起因するのである。

方法論としてBoccacciniは、『エノク書』を中心に旧約偽典や死海文書などを渉猟した。これらを用いて悪の概念の発展と多様化を描いてみせたのである。正確には、(1)エノク派ユダヤ教は広くアピールされた運動であり、(2)この運動はエッセネ派に対する古代の言及を支持し、(3)クムラン共同体はこれらエッセネ派/エノク派の過激派であった。いわばエノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流派の現代的な名称であり、そこからラディカルでマージナルな子孫としてクムラン共同体が生まれたのである。

さらにBoccacciniは、過激派としてのクムラン共同体を生んだエノク派ユダヤ教の主流派は、そのままキリスト教のユダヤ的ルーツを構成することになり、同時にツァドク派ユダヤ教の主流派はそのままラビ・ユダヤ教を構成することになったと主張した。

論文著者は、こうしたBoccacciniのアプローチは、第二神殿時代のユダヤ教とラビ・ユダヤ教の関係や、新約聖書と初期キリスト教のユダヤ的背景の研究が大幅に進展する中で、それらのデータを総合的な理解へと統合することに成功していると評価する(一方で、古代のユダヤ教の主流派を理解するための資料としての『エノク書』など非正典テクストの重要性を低めることにつながってしまっていると批判してもいる)。

Boccacciniは『エノク書』に保存されるエノク的なテーマの統一性や思想的連続性を最初に指摘したわけではなく、彼の前にはSacchiやSchwartzらの研究が存在する。Boccacciniに独特なのは、彼の『エノク書』の利用が、思想史から社会史を描きうるという信念に基づいていることである。しかし、論文著者によれば、文学資料における思想的・テーマ的類似から社会史的な現実を再構成しようとする試みには、いくつもの方法論的な問題点があるという。

たとえば、Boccacciniは悪の起源の問題に注目したが、他の問題に注目したら別の結果が出るかもしれない。また「寝ずの番人の書」を検証の対象としたが、『エノク書』はひとつの声だけを持った文書とは到底いえない。悪の超自然的な原因や神義論をエノク派ユダヤ教とその他の諸ユダヤ教を区別するための基準に用いていることは、Boccacciniの議論に疑いを抱かせるものである。『エノク書』は、確かに一定の連続性や共通性を持ってはいるものの、そもそもはさまざまな資料のよせあつめであることを忘れてはならない。また文学的・テーマ的・思想的なつながりから社会史的な現実へと急いで飛び移ることにも注意しなければならない。

Boccacciniは、ツァドク派ユダヤ教から区別されるエノク派ユダヤ教を再構成することで、ラビ・ユダヤ教とキリスト教を共に等しく第二神殿時代のユダヤ教の後継として扱うためのモデルを提供した。しかし、これは第二神殿時代のユダヤ教をプロト・キリスト教的部分とプロト・ラビ的部分に分けることに他ならない。それゆえに、Boccaccini自身はユダヤ教とキリスト教を単一の知的システムに包摂しようとしていたにもかかわらず、実際のところ彼はそうした分岐がイエスの誕生以前からユダヤ教に存在していたことを示してしまっている。

Boccacciniの仮説が成功するか否かは歴史のみぞ知るところであろう。

2019年10月5日土曜日

ミリク『エノク書』の書評 Barr, Ullendorff/Knibb, and VanderKam

  • James Barr, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, The Journal of Theological Studies 29 (1978): 517-30.

評者は同書の価値を高く評価しながらも、読者がそれを有効に活用し、適切に評価するためには、諸問題の完全な議論が必要であると述べている。本書の主たる問題は、校訂テクストに印刷されているアラム語テクストが実際には断片にはまるで見出されず、校訂者Milikによって書かれたものであるという点である。

Milikは確かに自分が再構成した部分については括弧に入れてそれと知れるようにしてはいる。しかしながら、読者はきわめて保存状態がいいように見える写本が、実際にはごくわずかな断片しか残していないことに気づいたら、驚くことだろう。再構成自体が問題なのではない。そのスケールがあまりに大きいことが問題なのである。

Milikがほとんど天才といえるほどの器用さと計り知れないほど長い時間をかけてこれを達成したことは疑いない。適当な文章をアラム語で作り上げるその能力は特筆すべきものである。またこうしたことはパピルス学では常套手段だが、問題はわれわれがこの時代のアラム語資料をあまり持っていないということである。

さらにMilikのテクストは、ギリシア語訳やエチオピア語訳からアラム語原典を導き出しているにもかかわらず、一方でギリシア語訳やエチオピア語訳は原典の意味を取り違えていると説明するという「大いなる仮説(gigantic hypothesis)」を表している。いわばわれわれは「純粋なる幻想の世界(the world of pure fantasy)」にいるのである。

論文著者は、Milikは再構成部分を他よりも小さいフォントにしたり、巻末の転写には再構成を加えないようにしたりすれば、まだマシだったと指摘する。Milikはアラム語テクストが「寝ずの番人の書」の50パーセントをカバーしていると主張するが(p. 5)、これは自分で付け加えた再構成テクストを含む数字のようである。

こうしたことから、本書の価値は断片の部分ではなく、きわめて幅広い事柄を論じた導入にある。ただし、ここでの議論もあまり整理されておらず、読者を困惑させるものになってしまっている。バビロニアの世界観とエノクのそれとを比較するなど、『エノク書』の完全なテクストへの導入であればよかったが、アラム語断片の導入としてはふさわしくない。

このような状態であるから、誰か別の人によって『エノク書』の完全な校訂版が出版されることが待たれるし、アラム語テクストに関してはDJDシリーズで出版されるべきである。エチオピア語訳を低く見積もっており、エチオピア語の転写も通常受け入れられているものではない。

またせっかくのアラム語訳の発見を生かしていない点もある。すなわち、ギリシア語訳やエチオピア語訳との比較による翻訳技法の研究である。そもそもこれをやって初めてMilikのように翻訳に基づく原典テクストの再構成という荒業ができるはずであるが、彼はこれをしていない。しかし、少し翻訳技法をチェックするだけでも興味深い結果が得られる。

このような批判的な書評は、本書の価値のなさゆえではなく、批判しないことには読者がきちんとこれを利用することができないからである。

  • Edward Ullendorff and Michael Knibb, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Bulletin of Oriental and African Studies 40 (1977): 601-2.
評者らは本書の問題点をまず3つ指摘する。第一に、実際に発見されたアラム語断片はとてもわずかだったにもかかわらず、Milikは7文字に対して56文字を付け加えるような大掛かりな再構成をしている。第二に、エチオピア語訳に対して信頼をまるで置いていない。第三に、ゲエズ語の知識が不十分である。

「寝ずの番人の書」のアラム語テクストが全体の50パーセントをカバーするというが、それはMilikが再構成したテクストを含めた数字であって、実態とかけ離れている。

  • James VanderKam, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Journal of the American Oriental Society 100 (1980): 360-62.
本書では「天文の書」は完全には扱われておらず、「巨人の書」はまだ初歩的な段階である。Milik以前は『エノク書』とは、「寝ずの番人の書」「たとえの書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」から成り、キリスト教以前の成立と考えられていた。しかしMilikはこうした構造はギリシア語訳成立(400 BCE)より後に成立したものであり、「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が入っている。

2019年10月3日木曜日

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン・エッセネ派 Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites"

  • Gabriele Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites: Three Social Groups, One Intellectual Movement," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 301-27.

論文著者は「エノク派=エッセネ派仮説」を唱えた論者である。これはクムラン共同体のエノク的ルーツという問題と、クムラン派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の分岐点という問題を再考する機縁となった。

第二神殿時代のユダヤ教の精神史を描写するために2つのアプローチがある。第一に、異なった文書からデータを統合し、ひとつの折衷的な主題(=第二神殿時代のユダヤ教神学)を作り上げるという「公分母型アプローチ」である。実際にそのような単一の主題は存在せず、統一性を乱すような個々の特性も無視することになる。第二に、多様な主題(=第二神殿時代のユダヤ教諸神学)を代表するものとして個々の文書を孤立的に扱う「多様性強調型アプローチ」である。この場合、我々が面しているのは単一の主題の異なった段階ではなく、別の主題ということになる。

後者のように多様性に注目する場合、知的運動(intellectual movements)と社会的グループ(social groups)とを方法論的に区別しなければならない。知的レベルと社会的レベルは同じではない。そこで論文著者が主張しているのは、死海文書の背後には少なくとも、エノク派、エッセネ派、クムラン(・エッセネ)派という3つの社会的グループが存在しているが、それらは1つの知的運動であるということである。

3つの社会的グループは確かにイニシエーション儀式、メンバーシップ規則、礼拝や儀礼、生活様式などを異にしている。J. Murphy-O'ConnorやPhilip Davies, Florentino Garcia Martinez, Adam van der Woudeらによれば、クムラン派とはエッセネ派のうちの過激なグループであるという。また近年ではDavid R. JacksonやGeorge Nickelsburgらが第二神殿時代のユダヤ教にエノク派ユダヤ教と呼ぶべき特定の党派性を持ったグループが存在していたことを明らかにしている。一方で、これらの3グループには思想的に多くのパラレルも認められる。つまり同じ知的運動なのである。

(1)クムランにおける党派的テクストはエノク派とツァドク派の思想の影響を受けている。一般的には、クムラン派が自らを「ツァドクの子」と称しており、モーセ律法を重視していることから、ツァドク派からの影響が指摘されてきた。しかし、もしクムラン派がツァドク派運動だというなら、なぜ彼らは非ツァドク派的、さらには反ツァドク派的な文学も保存しているのだろうか。Lawrence SchiffmanやDaniel Schwartzらは、クムランにおけるエノク派テクストの存在をユダヤ教グループに共通する特徴だと説明するが、論文著者によればこうした説明はエノク派文学の非協調的で革命的な特徴を見落としている。

エノク派の特徴は、「堕天使」を地上における悪と不浄の蔓延の原因とする、悪の起源に関するユニークな考え方である。エノク派によれば、人間は加害者ではなく被害者なのである。また慈愛あふれる神に悪の起源を帰することもない。エノク派の思考システムでは、悪の起源について被害者としての人間と責任ある人間という2つの矛盾する考え方を採用している。言い換えれば、決定論と非決定論である。どちらか一つだけではエノク派のシステムは崩壊する。

論文著者によれば、クムランの予定論的な神学はツァドク派の契約思想ではなく、このエノク派の決定論からの影響であるという。エノク派における決定論(悪の起源は堕天使のせいであって人間のせいではない)と非決定論(人間の自由意志を認める)の緊張関係を、クムラン派は、個々の人間の運命を予め決定しているのは神であるという「個人的な予定論(individual predestination)」として解消している。こうした主張は、Paolo SacchiやEyal Regev、さらにはJohn J. Collinsのような慎重な研究者すら受け入れている。

(2)Collinsは、しかし、クムラン派とエノク派が同じグループとは言えないと主張する。なぜなら、第一に、クムランの党派的テクストが中心的な価値をモーセのトーラーに置いているのに対し、エノク派文学はモーセ伝承を無視したからである。第二に、クムラン派が党派的グループであるのに対し、エノク派は改革運動だからである。論文著者によれば、これほど異なるクムラン派とエノク派を仲介したのが、両者の特徴を併せ持つ『ヨベル書』であったという。『ヨベル書』を書いたのは、フィロンやヨセフスが描くところの都市型エッセネ派と考えられる。

(3)ではクムラン派とエノク派のユダヤ教はどのように分離したのか。クムランでは「たとえの書」がまるで見つかっておらず、おそらくは「エノク書簡」もほとんどなかったと考えられる。これら後期のエノク派文学はクムランが持つ「個人の予定論」と相容れなかったからであろう。「たとえの書」が天の裁きに際して人間の自由と選択を強調するのに対し、クムランでは善悪は神の変わることのない決定に由来していると考える。それゆえにクムランは、『ダマスコ文書』での引用を最後に、エノク派文学への興味を失った。

エノク派運動は、クムランとの接点は失ったが、より大きなエッセネ派運動(都市型エッセネ派を含む)とは密接な関係を保ち続けた。それは次の4点に注目すると分かる。第一に、エノク派ユダヤ教と都市型エッセネ派の類似。第二に、非クムラン的・非エノク的でありながら、エノク派運動にもエッセネ派運動にも共通する特徴を持つ文学があること(『十二族長の遺訓』)。第三に、イエス運動はクムランについて直接的な知識を持たなかったにもかかわらず、エノク派ユダヤ教と非クムラン的エッセネ派の特徴を持っていること。そして第四に、クムラン派は自らを指導的なエリートと考えていたが、決してエッセネ派運動の中心だったわけではないこと、である。エノク派とエッセネ派は2つの異なった社会グループだが、社会的・思想的なつながりがあったのである。

(4)ただし、以上のようなエノク派とエッセネ派との関係について、古代の歴史的なソースが証言しているわけではない。ただ組織的な分析によって、エノク派、エッセネ派、そしてクムラン(・エッセネ)派が異なった社会的グループでありながら同じ知的運動に属することが分かる。さらに言えば、エノク派はクムラン派よりも、主流なエッセネ派に近い立場を取った。

こうしたクムラン派の特殊さゆえに、Sacchiは「エッセネ派」という名称を都市型エッセネ派のみに限定することを提案しているほどである。一方でCollinsは「エッセネ派」をヤハドおよびそれとネットワークを持つ都市型エッセネ派に用い、エノク派を含めた全体を「黙示主義」と呼ぶことを提案しているが、これは大きすぎる名称であろう。Jacksonは逆にエノク派やクムラン派を含む運動全体を「エノク派ユダヤ教」と呼ぶことを提案した。

これらに対して論文著者は、運動全体を「エッセネ派的」と呼ぶことは依然として有効であるが、エッセネ派主義はひとつの社会的グループではなくより大きく多様な知的運動と見なすべきだと主張する。つまり多様な社会的グループをカバーする傘として機能する用語なのである。それゆえに、エノク派はエッセネ派的であると定義できるが、彼らがエッセネ派そのものであるとは言えない。エノク派は都市型エッセネ派の親であり、クムラン派の祖父母である。

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン派はみな同じ知的運動に属している。社会的グループとしてはエノク派はクムラン派よりも都市型エッセネ派に近い。クムラン派は根本的にエノク派神学からかけ離れているため、都市型エッセネ派からのクムラン派の分離が考えられる。いずれにせよ、エノク派はエッセネ派とクムラン派の起源において欠くことのできない役割を演じた。

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2019年9月28日土曜日

エノク派とクムラン教団 Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls"

  • John J. Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 283-99.

『エノク書』の最古の写本は死海文書中からいくつか発見されている。それどころか初期のエノク的文書はクムランの党派的文書と類似性を持っている。超自然的な力への興味や選ばれたグループの歴史神学については、「週の黙示録」(『エノク書』93:1-10, 91:11-17)や『動物の黙示録』(『エノク書』85-90)に見られるが、これらは『ダマスコ文書』の冒頭と比較できよう。ここから、そしてクムランの党派的文書の著者たちはエノク的文書に親しみ、影響を受けていたと見なされている。Gabriele Boccacciniによれば、エノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流のことであり、クムラン共同体はそこから出た過激派だという。論文著者はこの見解に反対している。

死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。

死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。

Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。

Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。

Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。

Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。

論文著者の見解では、『共同体の規則』はクムラン共同体だけの規則ではなく、エッセネ派全体のためのものである。ヤハドは単一の共同体ではなくさまざまな共同体に住む人々の連合である。「完全な聖性の人々」の住むクムランはヤハドのうちでもエリートの住むところであった。クムランでは他の定住地と同じ律法と規則が遵守されていたが、より高次の完全さが求められたのである。『共同体の規則』がクムランの規則で、『ダマスコ文書』が非クムランのエッセネ派の規則、といったような区別はなく、どちらも諸共同体のネットワークを前提としていた。ここから、クムランと前クムランや、クムランと非クムランを区別することはあまり意味がないことが分かる。1QS 8にある一節を除いてクムランのみを前提とするような記述はない。

論文著者は、共同体生活の規則を含まない『ヨベル書』のようなエノク派文学に「エッセネ派」というラベルを用いるのは適当ではないと主張する。というのも、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』のような規則文書をエッセネ派に結びつける基礎として、ひとつの場所に限られないという特徴がある。エッセネ派運動はひとつ以上の生活スタイルを許容するのである。

エノク派文学も死海文書(『ダマスコ文書』)も、マカベア戦争前夜にある特定のグループができたことを描いている。エノク派文学に見られる黙示的世界観、天使と悪魔の戦い、裁き、性的な関係の存在しない天使的世界ゆえの結婚の否定などといった諸特徴は、死海文書にも見られる。Boccacciniによると、クムランとより大きなエッセネ派運動との違いは、天使や人間の自由意志の否定であるというが、論文著者はそうした黙示的な世界観はダニエル書にも共通することから、両者の違いの決定的なポイントではないと考える。それよりも重大な違いは、カレンダーと律法の問題である。

エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。

エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。

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2019年9月23日月曜日

『エノク書』のキリスト教への導入 Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha"

  • Michael A. Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha: The Case of 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 56-76.

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ユダヤ教の外典・偽典に関するわれわれの知識は、多くの部分をキリスト者による採用と保存に依拠している。ある文書のユダヤ教性とキリスト教性の間にはさまざまな段階がある。ユダヤ教テクストの間にキリスト教的語彙が入ってくるものとしては『第四エズラ記』や『第四バルク書』、ユダヤ伝承を多く用いたキリスト教文書としては『十二族長の遺訓』、旧約聖書の材料を使いつつキリスト教的暗示を加えないキリスト教文書としては『アダムとイヴの生涯』や『預言者伝』がある。いずれも、ユダヤ教文書ともキリスト教文書とも決めがたい。そもそもキリスト教的改変がまったくない文書でも、キリスト教的コンテクストで読まれてしまう場合がある(旧約聖書がそうであったように)。分類の方法論については、Robert KraftやMarinus de Jongeらの研究に詳しい。

この点、『エノク書』もまた明らかにユダヤ教起源でありながら、キリスト教徒によって伝達されたテクストである。論文著者は『エノク書』のテクスト、文書形式、エチオピアの文脈での解釈などについて論じている。

①テクスト。『エノク書』のアラム語テクストには、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む7写本と、「天文の書」を含む4写本がある。Josef Milikはこれらをギリシア語訳やエチオピア語訳に基づいて再構成したが、仮説的なものにとどまる。

ギリシア語訳もユダヤ人の手になるものである。断片がクムラン第7洞窟で見つかっているが、小さすぎて何のテクストかを同定するのは困難である。ギリシア語訳は、クムラン以外では、ギゼ写本(6世紀)とチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀から)から多く見つかっている。いずれの写本にも別のキリスト教文書が一緒に保存されていることから、『エノク書』がキリスト教徒の間でよく読まれていたことが分かる。他には、シュンケッロス『年代記』中の引用は比較的よいテクストを保存している。

ギリシア語訳の重訳であるエチオピア語訳は唯一全体を残すものであるが、これはもともと5~6世紀に聖書全体のエチオピア語訳の一環として作成された。テクストは、より古いグループ(15世紀の写本が残る)とより新しいグループに分かれる。

これらのうちどのテクストがよいのか。アラム語テクストは断片的である。ギリシア語訳は主要部分を含まず、コンディションもよくない。エチオピア語訳はキリスト教的要素を含み、写本も15世紀より前には遡れない。そこから、なるべくアラム語テクストに依拠しつつ、他の諸訳も最上の証言を混ぜて用いるべきと論文著者は述べる。

②文書形式。Josef Milikによると、クムランのアラム語『エノク書』は写本の長さの関係で2巻(「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む部分と「天文の書」のみを含む部分)に分かれていたが、実際にはエチオピア語訳のような五部構造を持っていたと主張した。Milikはさらに4Q204の状況から、「巨人の書」は独立してではなく他の3巻と一緒に読まれていたと主張したが、Stuckenbruckはこの議論は疑わしいと反論する。

またクムランからは「たとえの書」が出てきていないため、同書が他の書物と同様にアラム語で書かれていたのか、それともこれだけはヘブライ語で書かれていたのかも分からない。では、現在のエチオピア語訳のように、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」入りの五部構造のギリシア語訳成立はいつからなのだろうか。Milikによれば、おそらく4世紀になって「巨人の書」があまりにマニ教徒に人気だったために取り去られ、6世紀になって代わりに「たとえの書」が入り、それがエチオピア語訳されたという。Milikは「たとえの書」はキリスト教文書であったと主張したが、これはほとんど受け入れられていない。

George Nickelsburgはより詳細な議論を基に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む形態の写本がクムランには前1世紀にはあったと主張した。この見解は概ね受け入れられるが、論文著者は以下のように批判する。第一に、Nickelsburgは「巨人の書」がもともとも含まれていたのかそれともあとから取り去られたのかを説明していない。第二に、「天文の書」と「たとえの書」があとからどのようにコーパスの中に入ったのかを説明していない。またNickelsburgは、「たとえの書」が部分的に「寝ずの番人の書」における伝承の発展を代表していると主張したが、これは「たとえの書」が「寝ずの番人の書」のすぐ後ろにあることから妥当性が高い。

こうした研究史を受けてさらに指摘できるのは、第一に、アラム語テクスト、ギリシア語訳、エチオピア語訳は比較的似た本文を持っているが、ことに「天文の書」に関してはアラム語テクストとエチオピア語訳はかなり異なっている。そして第二に、エチオピア語訳にはかなりのキリスト教的な要素が入っている可能性があるが、それらはユダヤ教の文脈でも読めないわけではないので、そういった要素に関係なく一度キリスト教徒の手に渡ったら、キリスト教的に読まれたのであろう。

③エチオピア教会の文脈での解釈。『エノク書』はエチオピア教会では正典として読まれていた。エチオピア語訳の写本は15世紀をさかのぼらない。ちょうどその頃に、『エノク書』(特に「たとえの書」)からの引用を多数含んでいる説教集『マシャファ・ミラド(聖誕の書)』が作成された。引用はとりわけキリスト論的な解釈のもとでなされている。

2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。