ページ

ラベル 予型論的解釈 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 予型論的解釈 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年5月23日水曜日

七十人訳とヘブライ語テクスト、寓意的・霊的解釈と字義的・歴史的解釈  Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis"

  • Josef Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis: Hebrew Clarity and Historical Verity in Augustine, Jerome, Julian of Aeclanum and Theodore of Mospuestia," Augustinian Studies 32.2 (2001), pp. 157-75.

本論文は、旧約聖書の解釈に際して、基準となるテクストを七十人訳とヘブライ語テクストのどちらにするのか、そしてその解釈法はどのようなものであるべきか、といった問題について、4人の教父たち、すなわち、アウグスティヌス、ヒエロニュムス、エクラヌムのユリアヌス、そしてモプスエスティアのテオドロスの特徴を明らかにしたものである。

アウグスティヌスはヒエロニュムスに対し、七十人訳のラテン語訳(=七十人訳版)を作成するようにと繰り返し進言していた。なぜなら、アウグスティヌスにとって、七十人訳は霊感を受けた権威あるテクストだったからである。彼は結局それを得ることは叶わなかったが、ヒエロニュムスによるヘブライ語テクストのラテン語訳(=ヘブライ語版)は手に入れた。そのヘブライ語版を、彼は『神の国』の中で少なくとも6回七十人訳と比較している。ただし、それは異読を知るためであって、あくまでも基礎となるのは七十人訳である(ただし、例外として『キリスト教の教え』4.7.15-21でアモス書の一節を七十人訳なしでヘブライ語版のみを引用している)。ヘブライ語版を引用するのは、文学的・修辞的分析をするためだけである。ただし、その修辞的分析は、神学へと繋がってもいる。なぜなら、預言者たちは雄弁であると同時に神的な知恵を持っていもいるからである。

ヒエロニュムスは、ヘブライ語テクストに基づいたラテン語訳聖書を作成したわけだが、ヘブライ語やヘブライ語聖書の学びは、当時ユダヤ人の専売特許と考えられていたので、彼は親ユダヤと考えられていた。しかしながら、彼の学びは、実際には反ユダヤ・プロパガンダのために行われていた。『創世記におけるヘブライ語研究』において、彼はラビ的教えがギリシア聖書学を凌ぐと述べているが、彼の基本的な考え方によると、「ヘブライ的真理」はギリシア・ラテン聖書学の文献学的・歴史的な誤りを明らかにはするが、より深い霊的なレベルでは、そうした誤りはむしろより高次の真理として明かされるという。それゆえにこそ、彼の注解の「二重見出し」において、ヘブライ語版による引用は歴史的・文献学的解釈を、七十人訳版による引用は霊的・寓意的・予型論的解釈を導く。

アウグスティヌスとヒエロニュムスは結局のところ七十人訳を重視していたが、エクラヌムのユリアヌスはヒエロニュムスのヘブライ的傾向をさらに推し進め、ヘブライ語版のみを重視した。なぜなら、そこに明晰さ、統合性、信頼性があるからである。ユリアヌスにとっての七十人訳版は二次的なものにすぎなかった。ヘブライ語版に依拠して、厳格に修辞的・文学的分析に終始することで、ユリアヌスはテクストの「一貫性(consequentia)」を提示しようとした。この一貫性には、歴史的意味の一貫性のみならず、ときに予型論的意味や寓意的意味の一貫性をも意味する。ユリアヌスにとってのテクストの意味とは、アウグスティヌスよりもヒエロニュムスよりも厳格に、シンプルな字義的なものを指すのだった。ただし、彼の議論の土台はヒエロニュムスのヘブライ語版であり、彼の注解もヒエロニュムスに多くを負っている。

ユリアヌスの字義的・歴史的アプローチは、一方ではヒエロニュムスに由来するものだが、他方ではモプスエスティアのテオドロスにも由来する。ユリアヌスはテオドロスの注解を訳したことが知られているが、ことによるとある時期テオドロスのもとで学んでいた可能性すらある。テオドロスはオリゲネスやディデュモスの寓意的解釈を拒絶し、歴史的解釈に集中した。彼は、七十人訳にあいまいなところがあるのは、それが翻訳だからだと考えていたが、それを明らかにするために、ヒエロニュムスのように後代のギリシア語役者たち、すなわち、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを参照することはなかった。彼にとってテクストが正しいか否かは、その物語の真実味にかかっていた。彼はそれにこだわるあまり、アンティオキア学派において重要なテオーリアすら無視することもあった(テオーリアとは、寓意のように第二段階の意味を導くのではなく、意味の強度を示すことにある)。

関連記事

2016年12月4日日曜日

教父と旧約聖書 Horbury, "Old Testament Interpretation in the Writing of the Church Fathers"

  • William Horbury, "Old Testament Interpretation in the Writing of the Church Fathers," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 727-87.
Mikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early ChristianityMikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early Christianity
Martin Jan Mulder

Baker Academic 2004-03
売り上げランキング : 1545234

Amazonで詳しく見る by G-Tools

教父の時代の通して、ユダヤ人から受け継いだ聖書は、キリスト者にとっての主要文書であり続けた。霊と物質との強いコントラストを強調する同時代の哲学は、物質的な響きをする旧約聖書は批判の的になっていた。そうした観点から、グノーシス主義者や特にマルキオンは旧約聖書を否定し、その影響はマニ教にも及んだ。一方で、旧約聖書は異教徒をシナゴーグに引き寄せるほどに魅力的なものとしても捉えられていた。論文著者は、教父が旧約聖書を解釈した舞台として、説教、注解、要理教育、護教論、教会法、典礼、詩歌、美術を挙げている。

説教はもともとシナゴーグにおける文化だったが、教会もそれを採用した。説教には、内部向けも外部向けもあった。初期の説教はあまり新約を扱わず、むしろ旧約を扱った。説教の主題は、論争的、教義的、祈り的、倫理的、そして霊的なものだった。説教の名手としては、オリゲネス、アウグスティヌス、クリュソストモス、バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、グレゴリウス1世、アンブロシウスなどがいる。

注解において、ギリシア語で旧約聖書を扱ったものは、フィロンなど少数を除いて、皆キリスト者によるものであった。アレクサンドリア学派とアンティオキア学派とは、単純に言えば、それぞれ寓意的解釈の擁護者と批判者と言うことができる。シリア教父は、広義のアンティオキア学派に属する。個人の注解は4世紀に興隆したが、5世紀になると、さまざまな著者の抜粋を集めたカテーナが作られた。レンマを引用するなど注解に特徴的な点もあるが、説教と区別しすぎるべきではない。

要理教育(カテキズム)とは、信仰と倫理に関する教育のことである。これは、通常の説教において、またキリスト教教育の場において、特に洗礼前の候補者に対して行なわれた。第一に、創造神話から聖書が語りなおされ、第二に、聖書の証言の解説がなされる。

護教論において、キリスト者は最初フィロンの『ヒュポテティカ』やヨセフス『アピオーンへの反論』をモデルにしたが、その相手はユダヤ人であった。ユダヤ人に対しては、イエスがメシアであること、儀式的な律法は廃されたこと、異邦人の教会がイスラエルに取って代わったことを証明しようとした。異教徒に対しては、第一に、ヨセフスがしたように聖書の古代性を強調し、第二に、預言の正しさを主張し、そして第三に、モーセを哲学者たちに匹敵する者として描いた。

教会法においては、レビ記における祭司の決まりを取り入れたテルトゥリアヌスやアンモニオスのようなケースの他にも、再婚、祭司と信徒との結婚、信徒の維持、高利貸し、そして占いなど、旧約聖書に実際に書かれていないこともまた法規として取り入れられた。

典礼においては、3つないし2つのレッスンが語られるようになったが、前者の場合2つが旧約に関するものであり、後者の場合1つがそうであった。ただし、こうしたレッスンは聴衆が親しんでいる旧約物語に関するものであることが前提条件だったので、西方教会においてヒエロニュムスがヨナ書中の植物をヒョウタンからツタに変えるようなことは、聴衆には受け入れられなかった。

詩歌は、キリスト教においては、ヘブライ詩とギリシア詩の伝統の中で発展した。2世紀の『シビュラの託宣』のように六脚韻で書かれたものもある。内容的には、ヘブライ詩同様に教訓的なものが多かった。代表的な詩人としては、ギリシア世界ではメトディオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、シュネシオス、シリア世界ではエフレム(同時代のピユートとの関係にも注目される)、ラテン世界ではアンブロシウス、プルデンティウス、ノラのパウリヌスがいる。

芸術としては、カタコンベ、壁画、写本などがある。それらは、一つの描写が旧新約における複数の場面を表わしたり、旧約の場面が新約の場面と共に表現されたり、また旧新約の場面が予型として表現されたりする。

旧約聖書と新約聖書との関係においては、旧約の否定や、旧新約との調和など、さまざまな折衷案が試された。旧約を否定したのはマルキオンである。彼は、旧約聖書の非一貫性に基づき、キリスト者をユダヤ人の上に置いたのだった。ただし、それでもユダヤ人は異教徒よりは上に置いた。同様に、プトレマイオスや偽クレメンスは律法には誤りが含まれていると主張した。

エイレナイオスは、キリスト教の法に繋がる十戒と、モーセの律法とを区別することで、旧新約との調和をも目指した。テルトゥリアヌスもまた、十戒における倫理的な法と、モーセによる一時的な儀式的な法とを区別した。オリゲネス、アンブロシウス、アレクサンドリアのキュリロスなど、多くの教父たちも、旧新約の調和を目指した。

教父たちの聖書解釈の背景は三つあり、第一に、聖書テクストの独特の特徴、第二に、アリストテレス論理学、そして第三に、キリスト教以前の予型論と寓意的解釈である。アレクサンドリアのクレメンスは、「モーセの哲学」を、倫理学、自然学、形而上学の三分野に分けた。オリゲネスは、聖書には肉体(歴史)、魂(倫理)、そして霊(神秘)の三重の意味があると主張した。その後、聖書解釈はさまざまに変遷を遂げたが、クレメンスとオリゲネスによる字義的意味と霊的意味との二分法こそが最も大きな影響を与えた。

予型論寓意的解釈との違いは、前者が旧約の歴史的な舞台を深刻に捉えるのに対し、後者が聖書における無時間的な真理を引き出すことである。とはいえ、教父たちは両者を繰り返し混同してはいる。予型論とは、原型の意味における「予型」に由来しており、預言とその成就と近しい関係にある。教父たちの予型論は、要理教育、護教論、礼拝、そして芸術にも見られる。

寓意は、旧約聖書と古典文学に根差している。特にストア派によるホメロスの哲学的解釈からは強い影響を受けている。フィロンとヨセフスを通して受け継いだ寓意的解釈という方法を、教父たちは自身の関心に従って、聖書的律法や物語に当てはめた。ただし、それぞれが自身の関心に従うために、同じ箇所に基づいてまるで真逆のことを示すこともある。またこうした寓意の説教的かつ倫理的な用い方は、フィロンのようなアレクサンドリアの伝統のみならず、ラビ・ユダヤ教のミドラッシュとも近しいものである。

字義的解釈は、予型論や寓意的解釈が猛威を振るう中でも、常に重要なものとしてあった。千年王国説を主張するネポスや、歴史性を問題にするアフリカノスや、寓意的解釈に批判的なポルフュリオスは、字義的解釈を重視した。寓意的解釈の代表者であるオリゲネスは、霊的解釈であるテオーリアを奉じるアンティオキア学派――エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、ヨアンネス・クリュソストモス、モプスエスティアのテオドロス、テオドレトスら――によって批判された。また字義的解釈は、とりもなおさずユダヤ的解釈のことと見なされた。

ヘブライ語テクストとユダヤの聖書解釈。ヒエロニュムス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスなどは、しばしば「ヘブライ人が次のように言った」という決まり文句で、ユダヤの聖書解釈を紹介している。ヒエロニュムス以外は、必ずしもヘブライ語を知らなかったが、ユダヤ人教師とはギリシア語で会話したものと思われる。ただし、教父たちがユダヤの聖書解釈を引用するのは、必ずしも肯定的な意図ではなく、否定するためにすることもあった。教父たちは、シナゴーグにおいてや家庭教師としてのラビから直接聞いたのかもしれないし、フィロンやヨセフスのような前段階の伝承を知っていたのかもしれない。ユダヤ・キリスト者の同胞から聞いたとも考えられる。

代表的な教父の歴史は、以下のように分類される。

ニカイア公会議(325年)以前の教父:『クレメンスの第一の手紙』、ローマのクレメンス、『バルナバの手紙』、ユスティノス、サルディスのメリトー、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、マルキオン、キュプリアヌス、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、カイサリアのエウセビオス

アレクサンドリア学派:アタナシオス、盲目のディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス

アンティオキア学派:エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロス、キュロスのテオドレトス

シリア教父:アフラハト、エフレム

カッパドキア教父:カイサリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス

ラテン教父:ポワティエのヒラリウス、アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アンブロシウス、アウグスティヌス

5-6世紀の教父:エルサレムのヘシュキオス、ガザのプロコピオス、カッシオドルス、グレゴリオス一世

2016年11月9日水曜日

アレクサンドリア学派の聖書 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #2

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 34-52.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
売り上げランキング : 511434

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本章では、アレクサンドリアにおける聖書解釈の伝統を扱っている。アレクサンドリア学派は、フィロンを始めとするヘレニズム化したユダヤ人の影響を受けつつ、グノーシスの聖書理解に対抗しようとした。アレクサンドリアの聖書解釈の特徴は、伝統的な予型論的解釈を軸に、天文学的・人間学的な解釈や、ときには黙示的な解釈を聖書に加えることである。端的に言えば、寓意的解釈と言える。

アレクサンドリアのクレメンス。クレメンスは、福音書を律法の現実化および成就と見なしており、旧約聖書はキリストに照らして解釈されるべきだと考えていた。彼は、聖書にはありきたりなところなどなく、すべての言葉は何らかの意図に従って書かれていると主張した。そしてその意図は、必ずしも明らかになっておらず、しばしば隠されているのである。聖書にはすぐに理解できるところと、隠された方法で表現されているところがあるのである。後者はすべての人が理解できるわけではない。またその隠されたところを理解するためには、寓意的解釈が必要になる。クレメンスは、こうした表面の意味と隠された意味とを、エジプトの表意文字を例に説明している(『ストロマテイス』5.4.20以下)。ただし、一方でクレメンスは過度な寓意的解釈がグノーシス的な極論を招くことにも気づいていた。

クレメンスは、律法を4つの部分、すなわち、歴史的部分、法的部分、宗教祭儀に関わる部分、そして神学的部分(エポプテイア)に分けて理解した。これらは当時の学問の三分野である倫理学(歴史と法)、自然科学(祭儀)、そして神学に対応している。クレメンスは、このうち特に神学に注目し、寓意的解釈によってのみ明らかにすることのできる隠された秘密の意味を、神学として探ったのだった。彼の寓意的解釈は、より率直なアジア学派のそれとは違い、より複雑だった。これはフィロンに由来するものだったが、キリスト論を中心に据える点でフィロンとは異なる。

オリゲネス。オリゲネスの解釈法自体は、その先行者たちにも見られるものだったが、その知識の深さにおいて段違いであった。オリゲネスは聖書解釈を学術へと引き上げたのである。それは、解釈の対象の広さに関してもそうだった。先行者たちが聖書のいくつかの文書しか解釈しなかったのに対し、オリゲネスはすべての文書に目を向けた。彼の聖書解釈の形式は、スコリア、説教、そして注解の三種であった。彼は文献学にも造詣が深く、聖書の底本の必要性を感じ、『ヘクサプラ』を作成した。

オリゲネスの聖書解釈の理論は、『諸原理について』の中に見出すことができる。彼は神の言葉である聖書は、ロゴスたるキリストそのものであり、言い換えれば聖書とはロゴスの永遠の受肉であると考えた。そうした聖書に見られる難解さは行き当たりばったりではなく最初から意図されたものであり、きちんと理解しようとしない者には理解できないようになっているのだった。聖書の真の意味は隠されているので、そもそも聖書の字義的な意味は、その真の意味へと到達するための出発点にすぎないのである。オリゲネスに言わせれば、聖書の字義的意味を受け入れているユダヤ人も、字義的意味に反発するばかりのグノーシス主義者も、共に真の意味が見えていないのである。

オリゲネスは『諸原理について』の第4巻において、有名な聖書の三種の意味――字義的意味(肉体)、倫理的意味(魂)、神秘的意味(霊)――について言及しているが、通常ではより単純な二種の意味――字義的意味(人間としてのキリスト)と霊的意味(神としてのキリスト)――に留まっている。オリゲネスによれば、聖書は通常の人間には理解できるものではなく、解釈者がいかに深く神の言葉に沈潜できるかが鍵なのであった。オリゲネスによれば、神自身が旧約聖書にあえて恥ずべき一節を含むことで、解釈者がより深い意味へと到達できるようにしたのだという。それが、明らかな神人同型説やありえない状況が聖書中に見られる理由である。すべては霊的な読解への移行のためなのだった。

とはいえ、オリゲネスは字義的意味にも目配りが行き届いている。彼は字義的解釈を自身の解釈システムの中に組み込んでいるのである。なぜなら、彼は聖書には感知可能な現実(字義的意味)と感知不可能な現実(霊的意味)との両方があることを知っていたからである。彼は、グノーシスのように恣意的な寓意的解釈に陥ることのないように、霊的解釈といえども字義的解釈に則り、また他の聖書の一節によって確証されるようになされるべきであると考えた。すなわち、神秘主義者としてのオリゲネスは、いつも聖書に基づいていたのである。

アジア学派が寓意を用いる際には、常に聖書の具体的なエピソードに従うかたちだったが、オリゲネスの寓意はより霊的だった。彼の聖書理解は、旧約聖書を新約聖書の影として認めた上で、真理は新約聖書においてより明らかにされたと考えた。その点で、旧約を否定したグノーシスと異なり、旧約聖書と新約聖書とのバランスを取ろうとしたのである。彼は寓意的な予型論的解釈を、ただ旧約に対して用いたのではなく、新約を天的現実の予型と見なすことにも用いた。

アレクサンドリア学派の聖書解釈の普及。この時期、黙示録を字義的に解釈することで抽出される「千年王国説」を唱える者たちが出てきたが、彼らはアレクサンドリアの寓意的解釈の伝統と真っ向からぶつかることになった。たとえば、千年王国説論者のネポスに対し、アレクサンドリアのディオニュシオスは、黙示録に隠れているより深い意味をの存在を強調した。そのためには、黙示録のスタイルと言語に注目し、黙示録の作者とヨハネ伝の作者は異なることをも文献学的に示してみせた。オリュンポスのメトディオスのような折衷的な千年王国論者は、千年王国説を信じる意味では字義的解釈に傾いていたが、それを寓意的に解釈しようとも試みた。

2016年11月7日月曜日

1-2世紀の教会における聖書 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #1

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp.1-33.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

T&T Clark Ltd 2002-02
売り上げランキング : 511434

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本章では、1世紀から2世紀にかけての聖書解釈の概要を扱っている。

ユダヤ人とギリシア人の聖書解釈は、それぞれ字義的解釈と寓意的解釈とを特徴としている。キリスト教会において、字義的解釈は、とりもなおさずユダヤ人の聖書解釈のことだと同一視されていた。初期のユダヤ的聖書解釈としては、タルグム、ミドラッシュ、そして死海文書のペシェルが挙げられる。いずれも、聖書を現実的(actualizing)に解釈しようとする点が共通している。

ギリシア人は、文学的・哲学的テクストを読み解くテクニックの伝統を持っていた。彼らは注解形式で詩や哲学書に注釈を加えた。ギリシア人の解釈テクニックである寓意的解釈には、二つのレベルがあった。第一に、著者自身が意図していた深い意味を探るというもの、そして第二に、著者自身さえ意図しなかった深い意味を探るというものである。ギリシア人は、特にホメロスのような権威ある作品を解釈する際には、それを寓意的に捉えることで、ホメロスが馬鹿げた神話に言及していても、そこには別の意味があったに違いないと考えてホメロスを正当化したのだった。

ヘレニズム化したユダヤ教アレクサンドリアのフィロンは、注解形式と問答形式の聖書解釈を残している。彼は、ギリシア人がホメロスの解釈に用いてきた寓意的解釈を聖書に用いることによって、神人同型説を解決しようとした。これは、ギリシア人にユダヤ教を紹介することでもあった。フィロンは、字義的解釈を完全に否定したわけではないが、あくまで寓意的解釈に対して副次的なものとして理解していた。フィロンの寓意的解釈として特筆すべきは、聖書に出てくるものや場所や人の名前を、語源学的に解釈することで、寓意的な意味を引き出したことである。

新約聖書は、当時のユダヤ教の聖書解釈の方法論に従って、旧約聖書を解釈している。それは、新約聖書における旧約引用やミドラッシュ風の部分、またペシェル風の部分に見ることができる。新約聖書は、旧約聖書をメシア的に読解することで、イエスのメシア性を証明しようとした。

初期キリスト教の保守的なグループは、イエスへの信仰とユダヤ法の順守とを結びつけたが、パウロを始めとするグループは、隠された霊的な使信にこそ価値を認めた。彼らは、本当の割礼ではなく心の割礼を求めた。彼らの聖書解釈の特徴は、予型論(typology)的解釈である。彼らは、旧約聖書の出来事を、キリストと教会の予型として寓意的に解釈したのである。

初期キリスト教ローマのクレメンスは、旧約聖書を主として字義的に解釈した。ただし、パウロのように、旧約聖書の登場人物のことを、キリスト教信仰の好個の例として重視した。『イグナティオスの手紙』にはあまり旧約聖書は使われていないが、『偽バルナバの手紙』は旧約聖書をほとんどミドラッシュ的に解釈している。偽バルナバは、ユダヤ人が律法を字義的に解釈するあまり、その霊的な意味を逸してしまったのだと主張した。そこで、特に数字をシンボリックに解釈することで、旧約聖書から寓意的解釈を引き出した。

グノーシス主義。上のように、キリスト教は旧約聖書を予型論的に解釈することで、教会において旧約聖書が占める位置を確保したわけだが、キリスト教グノーシス主義者たちは、至高神の啓示としての新約聖書に対し、旧約聖書は創造神(デミウルゴス)の啓示であるとして、これを否定した。ただし、ウァレンティノス派のプトレマイオスのように、律法をある程度認める中葉の立場の者もいた。『ヨハネのアポクリファ』は、律法に書かれていることはモーセの能力を超えるものだったために、律法は事実と異なることを含んでいるのだと主張した。それゆえに、キリスト教グノーシス主義者は、旧約聖書を寓意的に解釈したのである。

グノーシス主義者の新約聖書の解釈もまた、キリストの啓示を明らかにするための寓意的なものだった。ウァレンティノス派は数字のシンボリズムに注目し、プトレマイオスやヘラクレオンはヨハネ福音書を念入りに解釈し、一節毎の組織的な注解書を著した。

アジア学派の反ユダヤ的・反グノーシス主義ユスティノスは、律法を完全に否定するのではなく、その価値を認めていた。しかし、律法はあくまでもキリストと教会の予型(typoi)であり、ユダヤ人にとっての預言(logoi)ではないと主張した。彼によれば、ユダヤ人は預言はすでにキリストによって成就していることを認めようとしないので、依然として予型をその表面的な部分でしか捉えていないのだという。アジア学派の特徴としては、予型論を重視するが、それをあくまでキリストや教会の具体的な出来事と結びつけることである。すなわち、アレクサンドリア学派のように霊的な応用をあまりしなかった。

もう一人のアジア学派であるエイレナイオスは、旧約と新約とを連続的に捉えようとした。彼もまた、ユスティノスのように、予型(typoi)と預言(logoi)との区別を重視した。彼はレビ記における、反芻とひづめによる動物の区別を用い、反芻とは律法を咀嚼すること、そしてひづめとは父と子に対する硬い信仰のこととすることで、キリスト者、異教徒、ユダヤ人を比較した。すなわち、キリスト者は反芻しひづめがある者、異教徒は反芻もひづめもない者、そしてユダヤ人は反芻するばかりでひづめがない者だと言うのである。

ユスティノスもエイレナイオスも、アジア学派の物質主義的な特徴どおり、基本的には字義的解釈を重視した。その際には、聖書の神人同型説的な記述にも違和感を覚えなかったようである。しかし、律法の予型論的解釈を用いることで、寓意的解釈をも認めていたと言える。彼らは旧約聖書の出来事をキリストの予型と捉えるという意味では反ユダヤ的であり、一方で、旧約聖書を認め、過度な寓意的解釈を否定したという意味では反グノーシス主義的であった。こうした傾向は、テルトゥリアヌスのような教父にも見られることである。

ここからも分かるように、字義的解釈と寓意的解釈との違いは、聖書解釈のテクニック的な問題というよりも、さまざまな立場間の論争上の問題であると言えるだろう。

ヒッポリュトスもまた、新約聖書のみならず旧約聖書をも積極的に解釈することで、反グノーシス主義的姿勢を明らかにしている。彼の注解は教義的には一貫しているが、解釈テクニックにおいてあまり優れているとは言えない。彼はダニエル書における殉教の記述に注目し、反ローマ的な解釈を加えている。ほとんど予型論的解釈は用いていないが、唯一用いているのがスザンナのエピソードに対してである。彼の解釈は、ユスティノスやエイレナイオスもエピソードに基づく解釈に比して、より組織的なものだったが、聖書の文献学的な事実には無頓着だった。彼は旧約聖書をキリスト論的に解釈したが、はっきりとした原理は持たなかった。

2016年10月15日土曜日

アウグスティヌスの聖書学 Harrison, "Augustine"

  • Carol Harrison, "Augustine," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 676-96.
The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600
James Carleton Paget

Cambridge University Press 2013-05-09
売り上げランキング : 325079

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本章は、アウグスティヌスにとって聖書がどのようなものであるかを検証したものである。聖書解釈者としてのアウグスティヌスは、独自性を持ちつつも、西洋キリスト教聖書解釈者の伝統――キュプリアヌス、ヒラリウス、アンブロシアステル、アンブロシウス、ヒエロニュムス――に属している。彼が受けてきた教育はいわゆるリベラル・アーツであり、いかにしてテクストを読み、正し、解釈し、そして判断するかを学んできた。当時の教育は文法に始まり、修辞学で終わる。修辞学は、高度に熟練した雄弁の力で聴衆を説得するための方法である。

こうした異教の教育を受けたアウグスティヌスは、聖書の文学的なスタイルの欠落を感じていた。聖書は文学として低級であるだけにとどまらず、一貫していないこと(たとえば共観福音書間で)も問題だった。アウグスティヌスは、この点を唯物主義的哲学の観点から批判していたマニ教にもともと属していたが、386年にキリスト教に改宗したあとは、アンブロシウス流の寓意的(allegorical)・比喩的(figurative)解釈を受け入れ、聖書には字義的な表層の意味の下に、より深い霊的な意味があると考えるようになった。彼によれば、聖書にある非一貫性は、罪でくもっている人間の理性が、本来そこにある真理を見出すことができないからあるように思えるにすぎない。聖霊は、読者をその非一貫性で刺激することにより謙遜を引き出すのであった。いわば、聖書は神的に霊感を受けたものであるにも関わらず、人間のレベルに下がってくることによって、読者が段階的にその真理を理解していけるようになっているのである。

395年にヒッポの司教になると、アウグスティヌスはほぼ毎日の説教をすることが求められた。すなわち、彼の聖書の学びは、純粋に学術的・批判的・理性的・分析的なものであるというより、信仰の立場に立った牧会的・神学的・護教論的なのである。彼の説教は、おそらく先に文章を用意したものではなく、その場で語ったものであり、書記によって記録されていたものだと思われる。その中で、彼はかつて学んだ絢爛豪華な修辞の力をふんだんに発揮したが、同時にそうした技巧に頼ることに注意を払っていた。技巧はパフォーマンスに堕してしまうおそれがあるからである。修辞は聖書テクストの真理の教育に従属すべきであり、また聴衆を効果的に説得して聖書の理解を深められる限りにおいて用いられるべきである。

こうしたことを組織的に議論している『キリスト教の教え』の中で、アウグスティヌスは指示するものである「しるし(signa)」と、指示されるものである「もの(res)」を区別している。解釈者の仕事とは、聖書の表層にある「しるし」が示している、より深いところにある真理である「もの」を、読者に示し、教えることなのである。そして、アウグスティヌスにとって、聖書が究極的に示していることとは、「隣人への愛」と「神への愛」であった。これを探し、示すためにのみ、異教の古典文化は有効である。つまり、異教文化が副次的な人間の制度のみを請け負っているのに対し、キリスト教文化はさらに神的な権威と究極の真理をも請け負っているのである。

アウグスティヌスは、『キリスト教の教え』において、解釈者の心得として、何よりも神への愛を持つことを挙げている。何か他のものを愛するにしても、それは神の代わりに、また神に関連してそれを愛するということである。すべての被造物に対する解釈者の姿勢は、それらを通じて、それらを作りたもうた主へと向けられるべきなのである。こうした神への愛と、隣人への愛とがある限りにおいて、解釈者は、聖書の表面に拙く書かれている特定の言葉や表現(verba/signa)に拘泥するべきではなく、自由に本来の真理(veritas)、意図(voluntas)、意味(sententia)を解釈するべきである。すなわち、「言葉(verba)」ではなく「もの(res)」を探さなければならない。こうした「比喩的解釈(figurative exegesis)」によって、テクストは幾層にも読まれることができるようになった。

このように、アウグスティヌスは基本的に、歴史書も含めて聖書の全体は預言的であると考えていたが、決して字義的解釈をないがしろにしたわけではない。まず最初に字義的に捉えることは前提であり、すべてはそれから始まるのである。また特に主自身が字義的に意味を説明しているところは、そのまま読まれるべきである。

共観福音書には、明らかに相互の矛盾が見られるが、アウグスティヌスはそれらすべてが同じ霊によって霊感を得ていると考えていた。表面的には矛盾していても、より重要なレベルにおいては統一されているのである。これをアウグスティヌスは「調和的な多様性」と呼んだ(『福音書記者たちの調和について』)。

アウグスティヌスは、解釈者が聖書から読み取らなければならない四つの異なった意味を挙げている:第一に、何かが書かれたという事実である「歴史(hisotria)」、第二に、旧新約聖書の調和という「相似(anagogia)」、第三に、なぜ何かが書かれたのかの「原因(aetiologia)」、そして第四に、聖書のすべてが字義的に受け取られるべきではなく霊的かつ比喩的にも受け取られるべきであるという「寓意(analogia)」である。このうち彼が特によく用いたのが寓意的解釈である。これによって、歴史的な人物、出来事、物語も、未来のものとして解釈することができるようになる。

キリスト教の説教者が聖書を解釈するときのアプローチは、「キリスト教的美学(Chrisitian aestetic)」と呼ぶことができる。キリスト者として聖書の単純さや明晰さや真理を評価すべきであることは当然であるが、読者がその真理を理解したいという欲求を刺激し、神への愛を呼び起こすために、解釈者は異教の古典文学由来の雄弁な修辞の力を用いて、聖書にある真理の美を示すべきなのである。なぜなら、真理とは美しいものだからである。ここにおいて、アウグスティヌスはかつて学んだ古典文学の力を否定することなしに、聖書の美を示すことに成功したのだった。

2016年10月14日金曜日

オリゲネス研究の最前線 Dorival, "Origen"

  • Gilles Dorival, "Origen," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 605-28.
The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600
James Carleton Paget

Cambridge University Press 2013-05-09
売り上げランキング : 325079

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文は、新ケンブリッジ版『聖書の歴史』第1巻に収録された、2013年時点でのオリゲネス研究の成果をまとめたものである。1970年代くらいまで、オリゲネスはどちらかというと組織神学者として見なされていたが、Marguerite Harl, Manlio Simonetti, Herman Josef Vogt, R.P. Hansonらの研究により、オリゲネスは何よりもまず聖書神学者であることが強調されるようになった。

オリゲネスの聖書学的な業績といえば、今では四つの断片が残るだけである『ヘクサプラ』が挙げられる。論文著者は、このカイサリアで完成した『ヘクサプラ』に関する議論を9つにまとめている:
  1. ヘブライ語テクストである第一欄は存在したのか。現存する断片には含まれていないが、『アフリカノスの手紙』やヒエロニュムスの証言によると存在したと考えられる。
  2. なぜ第二欄でヘブライ語テクストがギリシア語音訳されているのか。キリスト者のヘブライ語学習のため、母音のないヘブライ語の読みを助けるためなど、さまざまな理由が考えられるが、オリゲネスはそれをアレクサンドリアのユダヤ人用の共観聖書で見つけた。
  3. 第五欄の七十人訳は共通版なのかオリゲネス校訂版なのか。語順などヘブライ化が見られるので、第五欄はオリゲネス校訂版である。
  4. 第六欄はテオドティオンだけだったのか。テオドティオンを含む「カイゲ」グループの翻訳も収録されたはずである。
  5. 『ヘクサプラ』以前に共観聖書はあったのか。Pierre Nautinは、キリスト者たるオリゲネスが七十人訳を第五欄に入れていること、そして音訳はヘブライ語が分かるユダヤ人だけに有用であることから、オリゲネス以前にユダヤ共観聖書があったとする。
  6. 翻訳の掲載順をどのように説明するのか。アクィラ訳やシュンマコス訳はヘブライ語からの翻訳なので先に来て、テオドティオンは七十人訳の改訂なので最後に来る、という説明と、ヘブライ語テクストにより忠実な順になっているという説明がある。
  7. 『テトラプラ』や『テトラッサ』とは何か。『テトラプラ』はオリゲネスの試作品であるという説明、『ヘクサプラ』完成後に作った簡略版という説明があり、『テトラッサ』は四巻本のオリゲネス改訂版だという説明がある。
  8. なぜオリゲネスは『ヘクサプラ』を作成したのか。第一に、ユダヤ人との論争に役立てるためという論争的理由(『アフリカノスへの手紙』9)、第二に、混乱した七十人訳写本の状況を解決するためという文献学的理由(『マタイ書注解』15.14)、そして第三に、自身の聖書解釈の可能性を広げるため、という理由が考えられる。
  9. 『ヘクサプラ』には複数の版があったのか。アレクサンドリアで最初の版を作って、カイサリアで第二版を作った可能性はある。
オリゲネスの聖書観は、基本的には七十人訳を重視するものである。彼にとって、七十人訳こそが教会の旧約聖書であって、ヘブライ語テクストが取って代わることはできない。ただし、次の三つの場合は、必ずしも七十人訳ばかりを優先するわけではない。第一に、ユダヤ人との論争においては、ヘブライ語テクストをベースにするべきである。第二に、明らかにヘブライ語テクストに基づく読みが正しい場合、それを優先するべきである。ただし、そのときでも七十人訳に注釈を加える必要がある。第三に、明らかにアクィラやシュンマコスなどの読みが正しい場合、それを優先するべきである。

オリゲネスは新約聖書に関して、ヨハネ黙示録を正典に入れるべきと考えていた。当時、ナジアンゾスのグレゴリオスなど、黙示録の正典性を疑問視している者もいたが、オリゲネスはそうではなかった。

霊感と一貫性。オリゲネスの聖書解釈は、霊感を受けたテクストを解釈することだった。彼はアリスタルコスなどアレクサンドリア文献学の伝統に則って、聖書から聖書を解釈しようとした。そのためには、聖書には一貫性があることを前提としなければならない。こうした「一貫した連続性」は「アコルーシア(akolouthia)」と呼ばれる。このアコルーシアを明らかにするために、オリゲネスはまず広いコンテクストからある聖書箇所を解釈し、それから一語ずつ、一句ずつの説明に移った。その際に彼が注意したのは、第一に、テクストの目的、第二に、複数の文書があるときにはその順序、第三に、文書の題名、そして第四に、誰が誰に語っているかという点であった。これは、聖書をあたかも劇のようにして読むということである。

聖書の意味。オリゲネスは、聖書の真の(true)・霊的な(spiritual)意味は救済の神秘を表わすことであるが、聖霊はそれを多くの者が理解できるように、より単純な歴史的(historical)・法的(legal)なテクストにして隠している、と考えていた。そして、聖書の見える部分である歴史や律法は、見えない部分である霊的な真理の予型(typoi)として、互いに血縁関係(syngeneia)を持っている。また仮に聖書の表面に非一貫性(adynata)が見えたとしても、それは読者をより深い理解へと誘うためのフックなのである。

オリゲネスは、この表面上の字義的な意味を「肉的(corporeal)」、そして隠れた深い意味を「魂的(pneumatic)」あるいは「霊的(spiritual)」と区別した。後者の高次の意味(anagoge)あるいは知的な意味(noesis)には、予型(typos)、象徴(symbolon)、像(eikon)、そして謎(ainigma)が隠されている。そして、こうした深い意味を探し出すためのテクニックが、寓意的解釈(allegoria)と予型論的解釈(tropologia)であった。

『諸原理について』4において、オリゲネスはさらに高次の意味を区別し、全部で三種類――肉的、魂的、霊的――な意味があると述べている。これらはそれぞれ、キリスト教の初心者、進歩者、そして完全者のためのものであった。同様のことは、『民数記注解』9.7における、クルミの皮たる肉的意味、その殻たる倫理的意味、そしてその内部たる神的な神秘という比喩でも語られている(『フィロカリア』1.21の『レビ記説教』にも似たような記述あり)。そして、この三層構造は、フィロンの解釈に従って、哲学の三分野――自然学、倫理学、論理学――にも比されている(『マタイ書注解』17.7)。オリゲネスにとって、聖書は哲学に等しいものだった。

論争の役割。オリゲネスの聖書解釈の論争相手は、ユダヤ人、異教徒、異端、そして単純すぎるキリスト者たちであった。オリゲネスにとってユダヤ人は、聖書の字義的解釈に拘泥するあまり、キリスト者のような予型論的・寓意的な解釈を見失っている者たちであった。

異教徒であるケルソスは、寓意的解釈は通常神話にのみ適用されるものなのに、歴史や法を含む聖書にそれを適用するのはおかしいと批判した。これに対しオリゲネスは、異教の神話はあまりに馬鹿げているので字義的に読むことができず、寓意的解釈をせざるを得ないが、聖書は寓意的解釈のみならず、字義的にも読めるのだ、と反論した。

異端であるグノーシス主義者は旧約聖書を否定したが、オリゲネスは、旧約聖書と新約聖書とは神の霊感を受けて一体となっているのだと反論した。

単純なキリスト者たちは、質料的・神人同型的な神理解をしがちであるが、オリゲネスは、神の摂理を人間の生の基準に沿って解釈してはいけないと反論した。

聖書に関する著作。オリゲネスの聖書著作といえば、説教と注解である。説教とはユダヤ教由来の文学ジャンルである。2世紀には、シナゴーグではトーラーの割り当て箇所が読まれたあとに預言書からそれに関する箇所が読まれ、それから説教が行われていた。キリスト者の説教で最古のものは、メリトーのサルディス、アレクサンドリアのクレメンス、そしてローマのヒッポリュトスらのものである。オリゲネスは、カイサリアとエルサレムで、毎日旧約聖書の、そして水曜日、金曜日、土曜日に新約聖書の説教をしていたという。旧約は300篇、新約は100篇以上ものした。彼の説教の多くは、ルフィヌスとヒエロニュムスのラテン語訳で読むことができる。

注解とは異教由来の文学ジャンルである。ホメロス、プラトン、アリストテレスの注解が書かれてきた。キリスト者による最古の聖書注解は、ヒッポリュトスの『ダニエル書注解』である。オリゲネスは、注解に関して、旧約は160巻、新約は100巻以上ものした。現在では、エウセビオスの引用、『フィロカリア』、カテーナ、ラテン語訳などを通して注解を読むことができる。オリゲネスは、フル注解を書く代わりにスコリアやストロマテイスの形式で注解を書くこともあった。

オリゲネスの遺産。4世紀になると、オリゲネスの寓意的解釈に対して、真の予型論を同定しようとする理論(theory)を持ったアンティオキア学派が出てきた。タルソスのディオドロスやモプスエスティアのテオドロスらは、旧約聖書は実際にはキリストについて数えるほどしか触れていないと主張した。異教の遺産である寓意的解釈は疑われ、アレクサンドリアのキュリロスはそれを避けるようになった。

予型論的解釈と寓意的解釈について、Jean Danielouは前者が教会の、後者がヘレニズムの伝統と見なした。Henri de Lubacは、これに対し、アンティオキア学派の勃興以前には両者の区別はなかったと考えた。Manlio Simonettiは、予型論的解釈とは内容の問題で、寓意的解釈とは方法論の問題なので、それぞれが寓意的なのであると述べた。

関連記事