ページ

ラベル ラテン語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ラテン語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。

2019年3月12日火曜日

ヒエロニュムスとギリシア語 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #1: Jerome and the Greek Language"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 48-58.

Late Latin Writers and Their Greek Sources
Pierre Courcelle
Harvard University Press
売り上げランキング: 634,172

ヒエロニュムスはドナトゥスの学塾にいた頃に、当時の慣例に沿って、ギリシア文法家のもとでも学んでいたはずである。また修辞学を学び始めるに当たって、古典ギリシア文学の手ほどきを受けたと思われる。とはいえ、ギリシア語が母語の人たちの間で暮らしたのは、373年にアンティオキアに移ってからだった。ヒエロニュムスは語学の才能があったが、アンティオキアで6年を過ごしてもギリシア語をそれほど流暢には話さなかった。ここではポルフュリオスの著作を通してアリストテレスの弁証法などを学んだり、ラオディキアのアポリナリオスに師事した。カルキス砂漠滞在を挟んで、コンスタンティノポリスに移ると、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするギリシア教父と交流した。キプロスではエピファニオスに、エジプトではディデュモスに会った。ベツレヘムではラテン語のみならずギリシア語でも説教をした。

ヒエロニュムスの霊的な成長には二段階あった。第一に、異教的なラテン文化のみを享受していた時代と、第二に、教会の召命によってギリシア語を話す国に行った時代である。

ヒエロニュムスはラテン語で相当する語が見つからないときにはそのままギリシア語で書くほど、この言語に習熟した。それは比喩表現や言葉の調子に関するものの場合もあれば、哲学用語の場合もあった。

ヒエロニュムスにとっては、特定のギリシア語テクストはラテン語訳よりも明晰であった。ラテン語はギリシア語をきちんとした言い回しで翻訳することができないときがある。もしあるギリシア語の訳し方に複数の可能性がある場合、ヒエロニュムスは両方を学んだ。

翻訳技法については、『書簡57』が詳しい。しかし、自身の翻訳原理については、エウセビオス『年代記』翻訳序文においてすでにはっきりと述べていた。『書簡57』では聖書翻訳のみは例外的に原典に忠実であるべきと述べていたが、聖書翻訳を扱った『書簡106』では、逐語的でありすぎる翻訳者の弊害を非難している。ヒエロニュムスはラテン語翻訳の先達の方法論を保とうとした。『書簡57』での聖書の逐語訳への志向は、古ラテン語訳の信奉者に対し最も辛辣でないやり方で、ギリシア語写本の聖書テクストを改訂するための方便に過ぎなかったのだろう。実際、古ラテン語訳があまりに逐語的であったりラテン語として悪文になっているとき、彼はそれを躊躇なく修正した。

重要な要素はテクストの意味を保存し、それが訳される目標言語への敬意を失わないことである。『書簡106』ではエウフォニアという語を用いているが、これは「調和」ではなく、ラテン語としての「いい響き」を意味している。ヒエロニュムスは原典のリズムもまた保存されるべきと述べる。

聖書という最も原典に対する忠実性が求められる書物の翻訳に際しても、ヒエロニュムスは逐語訳と格闘することをやめなかった。ただし、その非逐語訳への志向はキケローほど大胆なものでもなかった。またキケローを範としていたので、新造語をキケローの権威に拠らずして用いることはなかった。

ヒエロニュムスの説教にはギリシア語的な言い回しが出てくるが、彼が完全にヘレニズム化されたのかというと、そういうことはなく、やはりラテン語としての純粋性を保存しようという意思の方が強い。彼のギリシア文化への通暁とギリシア教父文学の読書は、ヒエロニュムスのうちにあるラテン文化や異教文化を消すには至らなかった。

古代末期ラテン作家のギリシア知識 Courcelle, "Introduction"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 1-9.

Late Latin Writers and Their Greek Sources
Pierre Courcelle
Harvard University Press
売り上げランキング: 634,172

一般的には5世紀から6世紀にかけてはデカダンスの時代と言われているが、この時代の文化がギリシア的であり続けたのか、あるいはギリシア化したのかと本書は問うている。ギリシア文学がキケローを生み、ギリシア・ローマ文化はその頂点に達したが、2世紀にもなるとギリシア語は下火になり、ラテン語が東方においても公式言語となった。ギリシア語が復権するのはユスティニアヌス帝の登場を待たねばならないが、それ以降はもはやビザンツ帝国の時代が始まっている。

これが一般的な理解だが、あまりに要約的である。実際には、Henri Pirenneが主張するように、東方と西方は7世紀のアラブ侵攻まで通常の交流を持っていたはずである。そこには、著者が言うように、ギリシア文学とラテン文学との密接な関係も含まれていた。なぜなら、多くの素材がギリシア思想と文化が生き延びていたことを示しているからである。こうした観点は、実はこれまであまりなかった。研究者たちのうちには、わずかに触れる者たち(F. Craemer, E. Renan)、一般書で触れる者たち(E. Egger, C. Gidel, J.E. Sandys)、古典期の教育分野のみ分析した者たち(E. Jullien, A. Gwynn)、異教の学校に対する教会の姿勢を研究した者たち(G. Bardy)などがいた。しかし、いずれもラテン教会の教父たちのギリシア文化レベルがいったいどの程度のものだったのかに真正面から取り組んだ研究はほとんどなかった。

興味深いことに、研究者たちはラテン新プラトン主義の歴史について誰も注目してこなかった。そもそもギリシア新プラトン主義についてもほとんど知られていないので、これは当然といえば当然かもしれない。3つの例外のひとつが、W. Theilerのもので、この中で彼はアウグスティヌスのプロティヌス知識はポルフュリオス経由だと主張した。P. Henryは、アウグスティヌスをはじめとする西方世界に深い影響を与えたのはポルフュリオスではなくプロティヌスその人だったと結論付ける。F. Boemerは、クラウディアヌス・マメルトゥスの言語とスタイルを研究することで、ラテン新プラトン主義と新ピタゴラス主義を知ることができると述べた。

著者はというと、研究の方法論として、教義論は信頼に足らず、文法は危険であるので、ただ文献学的方法論のみが最も説得的であるという。つまり、頻繁にギリシア語テクストとラテン語テクストの平行箇所を比較することで、ラテン新プラトン主義のギリシア・ソースを明らかにすることができるのである。問題は、特定の概念、信仰、方法論はどのようなギリシア・グループからローマ人に伝えられたのか、またそれはどのようにか、である。ただし、しばしばギリシア語原典は失われているので、研究は純粋に推測的にならざるを得ないことがある。またギリシア語原典が原典のまま読まれたのか、それともラテン語訳で読まれたのか、という点も重要である。

2019年2月11日月曜日

西方の人ヒエロニュムス Bardy, "St. Jerome and Greek Thought"

  • Gustav Bardy, "St. Jerome and Greek Thought," in A Monument to Saint Jerome: Essays on Some Aspects of his Life, Works and Influence, ed. Francis X. Murphy (New York: Sheed & Ward, 1952), 85-112.

ヒエロニュムスは長く東方世界で暮らしたが、ギリシアの神学思想からの影響を受けたのだろうか。彼の東方滞在は神学思想が栄えた時期と符合している。アレイオス主義をめぐって、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス、ラオディケイアのアポリナリオスら、多くの思想家が自らの思想を深化させた。

アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。

ベツレヘムの修道院に移ってからも、ヒエロニュムスの周りにはラテン人ばかりだった。彼らが修道院を離れて赴いたのも、西方世界である。彼らを通じて、ヒエロニュムスは西方の友人たちと手紙を取り交わした。また多くのラテン人の巡礼者たちがエルサレムとベツレヘムを訪れ、ヒエロニュムスの修道院にもやってきた。西方世界と聖地には常に人の行き来があったのである。ローマが蛮族の侵入によって壊滅すると、そこを逃れてくる者たちがパレスチナに押し寄せた。「我々は彼らすべてを助けることはできないが、少なくとも彼らの被害を気の毒に思い、ともに涙しよう」とヒエロニュムスは語っている。

ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。

ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。

ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。

ヒエロニュムスの聖書翻訳はラテン教会のための仕事である。彼はヘブライ語テクストには誤りは少しも含まれていない一方で、ギリシア語テクストには本文の損傷を意味する多様性があると考えていた。彼はラテン語世界に向けた翻訳を作ったつもりだったが、実際には支持者よりも敵対者の方が多かった。そうした構図はずっと変わらず、ラテン世界が彼の翻訳を重視したのは彼の死後のことだった。ヒエロニュムスの聖書注解もまた西方世界に向けられていた。彼はまずオリゲネスの説教の翻訳から始め、『コヘレト書注解』のような過渡期の作品(ヘブライ人教師やキリスト教聖書解釈者や古典文学からの引用が多い)、パウロ書簡の注解のような自身の釈義法を確立した作品、預言書の注解のようなさらにそれを推し進めた作品などがある。彼の注解の方法論は西方の読者を満足させた。

三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。

オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。

ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。

2019年2月8日金曜日

文化資本としてのバイリンガリズム Jacobs, "What Has Rome to do with Bethlehem?"

  • Andrew S. Jacobs, "'What Has Rome to do with Bethlehem?' Cultural Capital(s) and Religious Imperialism in Late Ancient Christianity," Classical Receptions Journal 3 (2011): 29-45.

キリスト者が社会における公的な役割を果たすようになった4世紀、ローマの古典的なパイデイアは道具ともなれば危険ともなった。洗練された神学議論はギリシア文化に由来する哲学的言語なしには不可能だったが、それは同時に非キリスト教的・異教的な考えを蓄えてしまうことにもなった。パイデイアのキリスト教的な翻訳をめぐる緊張関係は、ヒエロニュムスとルフィヌスの論争からも分かる。両者の互いへの敵意にはさまざな理由があり、個人的なものと宗教的なものが指摘されることが多いが、論文著者は文化的かつ政治的な理由もあるという。

こうした学識の政治学を明らかにするために、論文著者はピエール・ブルデューの「文化資本(cultural capital)」という概念を援用している。教育や文化といった知識獲得の制度化は、階級の権力を先導し維持するための保守的な手段なのである。ホメロスも、プラトンも、ウェルギリウスも、キケローも、支配階級に属する世襲財産である。

ルフィヌスとヒエロニュムスの論争は、オリゲネスに関する神学的なものだけではなく、「翻訳」に関わるものだった。この「翻訳」という一見機械的な手続きこそが、文化資本の再生産に一役買っているのである。初期ローマ帝国において、ギリシア語からラテン語への翻訳能力は文化資本の源だった。貴族たちは、自分たちの文化的な優越を、知的・政治的な統制を証明するギリシア語の知識、すなわちバイリンガリズムという枠組みで保持したのである。

ヒエロニュムスの時代には、こうした二言語使用の学識はそれほど一般的ではなかった。アウグスティヌスがギリシア語をほとんど解さなかったことからそれは分かる。しかしながら、それでもなおギリシア語の知識はラテン語教育の中に文化的価値の名残を留めていた。ヒエロニュムスはこのギリシア語の知識という文化資本をもとに、翻訳を通じてキリスト教的パイデイアを豊かにする知識人に仕立て上げたのである。このように、翻訳は確かにヒエロニュムスやルフィヌスに文化資本を獲得する手段を授けたが、それは同時に社会的な摩擦も生んだ。両者は翻訳を価値あるプロジェクトだと考えてはいたが、異なった価値観を持っていたからである。

ヒエロニュムスは、ローマ定刻特有の多言語の文化資本の伝統にキリスト教的フレーバーを与えようとした。ローマの文化経済は、その領域内の異質さ(heterogeneity)を保存しようとする。翻訳を通じて他者の知識を吸収することは、ローマの統制を知らせている。ヒエロニュムスはこうした統制モデルが有用であることに気づいた。そこで、シリアとコンスタンティノポリスに住んでいた380年以降、ギリシア語のキリスト教文学をラテン語に翻訳し始めたのだった。翻訳という文化資本は、ヒエロニュムス自身のみならず、キリスト教の知識を生み出すことにも権威を与えた。さらに、ヒエロニュムスは聖地に移ってからもこうしたローマ式の文化資本を追及したことで、翻訳のモデルを拡張することにも成功した。A. Kamesarが言うように、彼の鋭敏な「ラテン語性」や「ラテン語的な感受性」が新たな聖書翻訳に彼を導いたのだった。論文著者はそこにローマのキリスト教の文化的帝国主義を見出している。

ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。

ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。

ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。

結論。ヒエロニュムスはローマの文化経済をキリスト教化しようとした。その際に、他者(異端、異教徒、ユダヤ人)の知識はすべてキリスト教にとっての潜在的な資本であった。一方でルフィヌスにとって翻訳とは慎ましい営為であって、ヒエロニュムスの理解のように統制と関わるものではなかった。他者の知識がキリスト教サークルに入るには、翻訳というプロセスの中で浄化されて「洗礼」を受けなければならなかった。ヒエロニュムスの帝国主義的な考え方とルフィヌスの禁欲主義的な考え方は、対極にあるというよりは、パイデイアをめぐって補完的な関係にある。

2019年1月17日木曜日

ルフィヌスの翻訳技法 Brooks, "The Translation Techniques of Rufinus of Aquileia"

  • E.C. Brooks, "The Translation Techniques of Rufinus of Aquileia (343-411)," in Studia Patristica 17, ed. Elizabeth A. Livingstone (Oxford: Pergamon Press, 1982), 357-64.

Studia Patristica: v. 17
Studia Patristica: v. 17
posted with amazlet at 19.01.17

Pergamon Press

現代の研究者たち(Gruetzmacher, Hoppe, Bardenhewerら)は、ルフィヌスの翻訳の方法論が恣意的だと批判するのが常である。Kimmelはルフィヌスによるエウセビオス『教会史』の翻訳に見られる次のような点について批判している:
  1. 原典では直接話法になっているところを間接話法に変える(逆も)。
  2. 原典で、不快、不必要な反復、事実に反する、不適切だと考えるところを訳さない。
  3. 語の付加、説明、スタイルの優雅化、補足的な情報、明確化といった改変。
  4. 訳す必要がないと考えたところのパラフレーズ。
Koetschauも、オリゲネス『諸原理について』のルフィヌス訳には特にこうした点が見られるとして批判している。

しかしながら、古代におけるルフィヌス評価はこのようではなかった。ヒエロニュムスですら、ルフィヌスの翻訳技法については疑問視していなかった。彼が非難していた主として教義的な問題だったのである。他にもカッシオドルスやゲンナディウスらは、ルフィヌスの翻訳のエレガンスを称賛している。Gustave Bardyは、ルフィヌスを彼自身の言葉で検証すべきだと主張する。なぜなら、ルフィヌスは字義通りの翻訳を作ろうとしていたわけではなく、仮にそうしたところがあっても、それは彼の主たる関心事ではなかったからである。ルフィヌスの著者への共感と理解が重要である。Bardyにとってルフィヌスの仕事は翻訳というよりもパラフレーズに近いが、それはテクストの意味を伝えてくれる。

ルフィヌスの翻訳の目的は、ラテン語世界の人々に情報を提供することだった。読者は倫理的、修辞的、教義的、修道的な問題を議論するためにちょうどいいくらいの分かりやすい翻訳を求めていた。『ヒエロニュムス駁論』において、彼はヒエロニュムス自身の方法に従って、ギリシア語の意味をラテン語に与えるように翻訳したと述べている。つまり、原典をパラフレーズするような翻訳を強く望んでいたのである。

ルフィヌスは399年に、『クレメンスの手紙』、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの説教、シクストゥスの著作、アダマンティオスの著作を皆訳したことになっているが、これらを本当にすべての一人で訳したのだろうか。正式なプロの翻訳家集団ではなくとも、ルフィヌスをサポートする修道者たちのグループなどがいたのではないだろうか。翻訳は財政的にも成功したはずである。またルフィヌスは句読点を用いたと考えられる。

論文著者は、『ヤコブに宛てたクレメンスの手紙』を例に、ルフィヌスの翻訳技法を14個指摘している(Monica Wagnerがルフィヌス訳のナジアンゾスのグレゴリオスの演説に基づいて分析したルフィヌスの翻訳技法と比較せよ。(1)考えが拡張されている。(2)ある語を訳すのに二つ以上の可能性を挙げる。(3)二語のフレーズを訳すときに、1つ目の語が2つ目の語の結果となるようにする。(4)異なった観点を持っている。(5)イメージを形作る。(6)不必要あるいは不適切な一節を削除する。(7)付加によって、ある言及を個人的なものに変える。(8)時間への言及を変更する。(9)冗長な接続詞の使用。(10)肯定を否定に変える。(11)テクストの修正。(12)テクストの保持。(13)オリゲネスのギリシア語の無愛想さを和らげる。(14)テクストを入念に変更する。

聖書の引用に関しては、細心の注意を払って正確に行っている。古ラテン語訳に従うときもあれば、自分で訳す場合もある。『諸原理について』における聖書引用については、オリゲネスのギリシア語本文から直接引用している。おそらくルフィヌスはラテン語訳聖書は一様であるという考えを持っていた。また聖書でない引用箇所に聖書の引用を当てはめることもあった。聖書箇所を暗示するよりは、直接引用することを好んだ。

オリゲネスのテクストは、ルフィヌスがそれを手に入れる以前にすでに改竄されていた。失われた部分があったり、省略されている箇所もあった。ルフィヌスは、写字生によってギリシア語テクストに入れられてしまった誤りに対処しなければならなかった。

ルフィヌスは文学的な天才ではなかったが、彼の人格の誠実さや勤勉さは称賛されるべきものであった。そして彼の仕事の重要さは言うまでもない。ウェルギリウス、ホラティウス、キケローからの影響を受けた彼のラテン語の優雅さは、ヒエロニュムスも渋々認めるところであった。さらに、ルフィヌスは歴史的および神学的な観点を持っていた。

2015年2月7日土曜日

ギリシア語パピルスの手紙 Luiselli, "Greek Letters on Papyrus"

  • Raffaele Luiselli, "Greek Letters on Papyrus: First to Eighth Centuries: A Survey," Asiatische Studien/Études Asiatiques 3 (2008): 677-737.
本論文は、後一世紀から八世紀にかけて、主としてギリシア語で書かれた手紙について、書く道具、字体、前書き、本文、末尾、宛名書き、封印の仕方、保存方法、バイリンガリズム、定型文などの観点から概観したものである。

書簡は、コミュニケーションの道具であると同時に、哲学や文学のフォーマットとしても用いられていた。著者は手紙の種類を三つに分けている。
  1. documentary: 古代に住んでいたごく普通の個人によって書かれた手紙。しばしばパピルスなど壊れやすいものに書かれている。
  2. literary: 歴史上の人物によって書かれ、のちに広い読者層のためにコレクションされたもの。しばしば羊皮紙や紙のコーデックスに書かれている。
  3. fictitious: 架空の人物によって書かれた手紙。物語の中などに挿入されている場合もある。知的に洗練された著者によって書かれることが多い。
本論文で扱われているのは、このうちの一つ目のdocumentaryな手紙である。こうした手紙は、パピルス、陶器、羊皮紙、木の皮などに書かれた。パピルスの場合、20シートの巻物を小分けにして使った。ローマ時代になると特に、シートを縦長にして使うことが多かったが、さらに時代が下がると横長にする場合もあった。基本的には、別の要件には新しいパピルスを使うことが原則だったが、裏紙として再利用することも多々あった。人々はパピルスのリサイクルをあまり気にしなかったようである。文学テクストに比べ、手紙では語の間にスペースを取ることが多かった。アクセント記号や気息記号、さらに行下げなども用いられた。

手紙は口頭で述べられたことをプロが書き留めることもあれば、本人が書くこともあった。公的な手紙の場合、スタイルや草書体の度合いなどは、TPOに応じて自ずと決まっていった。これに対し、個人の手紙は読みやすさが重視された。

前書きでは、送り主の名前と宛名が示される。その方法は4種類ほどにまとめられるが、組み合わされる場合も多かった。アラブ時代のエジプトの手紙では、ギリシア語で書かれていても、ヘブライ語的な挨拶やアラビア語のバスマラのような書き方が見られる。「万能の主の名において」という書き出しは、ユダヤからキリスト教を通じ、イスラーム期でも用いられるようになった。本文では多種多様なことが語られたので、ここでは割愛。末尾の挨拶は5種類の書き方があったが、これも組み合わされることが多かった。仕事の手紙では省略されることもあった。

新しいパピルスに手紙を書く場合は、相手の住所は、パピルスを巻いた外側に書いたが、裏紙の再利用の場合は、さまざまに工夫して住所を書いた。巻き方としては二種類あり、横に巻く場合、開いて読みやすいように左側の縁が上になるように巻いた。縦に巻く場合、上側の縁が上になるように巻いた。保存するときは、公的な手紙は、来た手紙と送った手紙とをくっつけて長い巻物にして保存した。個人の場合はさまざまだが、壺などに丸めて入れることが多かった。

多くのエジプト人は、エジプト語が母語であってもギリシア語で手紙を書くことが多かった。ローマ時代にはラテン語で書くこともあったが、依然としてギリシア語は共通言語として用いられていた。しかし、書き手の言語習得のレベルによって、母語からのさまざまな影響が見られる。とはいっても、十分にギリシア語で書ける人物が、本文はギリシア語で書いて前書きや住所をラテン語で書く場合や、本文はコプト語で書いてその他はギリシア語で書く場合などもあり、どのような基準で言語を変えているのか不明な場合も多々ある。ラテン文字で書かれたギリシア語の手紙やその逆も見つかっている。

2012年1月12日木曜日

ギリシア語からのラテン語翻訳2000年小史



ギリシア語からラテン語の翻訳史をまとめた論文を読みました。2000年に渡る歴史を20頁弱で語ろうというわけですから、もちろんかなり駆け足ですが、通史としてさらっと読むのに適した論文です。リンクから全文を読むことができるので、ご興味ある方は御参照ください。


著者は翻訳史の時代区分を7つに分けています。①前3世紀ローマ(リーウィウス・アンドロニークスの『オデュッセイア』翻訳)、②前2世紀-後3世紀ローマ(キケロー、マティウス、ニンニウス・クラッススなど)、③4世紀-6世紀の教父時代(ルフィヌス、ヒエロニュムス、ボエティウスなど)、④暗黒時代-12世紀(ディオニュシオス、スコットのジョンなど)、⑤12世紀-13世紀のアラビア語経由のアリストテレス翻訳、⑥14世紀-15世紀のイタリア・ルネサンス(ペトラルカ、ピラトゥスなど)、⑦16世紀-18世紀の近代翻訳(ヴィクトリウス、ステファヌス、エラスムスなど)。

個人的に興味を持っている時代を説明した①-③は、簡潔で分かりやすかったです(少々物足りないですが)。ローマの知識人は、そもそもギリシア文学の翻訳をほとんど必要としていませんでした(ここでの「翻訳」とは、改作や翻案を含まない、本来的な意味での翻訳です)。なぜならローマの知識人は十分にギリシア語に精通していたため、別にわざわざラテン語訳する必要がなかったのです。確かに、マティウスやニンニウス・クラッススは『イーリアス』の翻訳を作っていますし、とりわけキケローによる、アイスキネースとデーモステネースの弁論の翻訳はよく知られていますが、ローマの翻訳は概してパラフレーズに偏っていました。著者はこうしたローマ時代の翻訳を、Imitation was constant, paraphrase frequent, genuine translation rare (p. 119)と評しています。また、Rome derived her intellectual life from Greece, and from Greece alone (p. 117)という指摘は、当然のことのようにも思いますが、大事な指摘です。教父時代になると、基本的にローマ時代とさほど変わらぬパラフレーズが続けられましたが、神学的な論争のために、文言の正確さが要求されるようにもなっていました。しかし、ギリシア語の知識の低下は否めず、ヒエロニュムスの翻訳論に代表されるように、理論は整っても、実践が伴うことはなかったようです。

以降の翻訳史の中では、個人的に、アリストテレスの著作がシリア経由でアラビア語から翻訳されていたことを説明している部分を興味深く読みました。このことについては、日本語で思いつく参考図書として次の一冊があります。

ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動
ディミトリ グタス Dimitri Gutas

勁草書房 2002-12
売り上げランキング : 625533

Amazonで詳しく見る by G-Tools

2011年12月1日木曜日

4世紀のラテン語再生運動について


  • A. Cameron, "The Latin Revival of the Fourth Century," in Renaissances before the Renaissance: Cultural Revival of Late Antiquity and the Middle Ages, ed. W. Treadgold (Stanford: Stanford University Press, 1984), 42-58, 182-84.

0804711984Renaissances Before the Renaissance: Cultural Revivals of Late Antiquity and the Middle Ages
Warren Treadgold
Univ Microfilms Intl 1985-01
by G-Tools

4世紀におけるラテン語およびラテン文学の再生運動に関する論文を読みました。Alan Cameronはコロンビア大学の古典学教授です。かなり専門的なラテン文学の研究史に即した論文だったので、私には少々難しかったですが、分かる範囲で以下まとめてみます。

黄金時代→白銀時代と衰退していたラテン語が、4世紀に再生したことの理由としては、これまで1)ローマ帝国の経済・軍事の衰退に伴う文化的衰退への抵抗、2)キリスト教徒や野蛮人の脅威に対する異教の貴族たちの抵抗、といった理由が挙げられてきました。特に2)の見解はH. BlochやP. Levineによって主張されているものだそうです。これに対し、Cameronは新しい見解を示します。アンミアヌス(Ammianus Marcellinus)やクラウディアヌス(Claudianus)といったギリシア生まれの歴史家、詩人たちが、ギリシア語でなくラテン語で著作をものしたのは、競争の激しいギリシア文学と違って、ラテン語で書けば容易に名を残す作品を書くことができたからであり、文化的衰退やキリスト教文学への抵抗といった通説はまるで関係ないようです。ここで注目すべきは、彼らラテン語ネイティブでない者たちがラテン語で著作を残したのは、ラテン語の方が文化における支配的な言語だったからではなく、あくまで競争相手が少なかったからだったということです。これは当時のギリシア語とラテン語との関係を考えるうえで重要な指摘だと思います。

また2)の理由を支持する意見として、異教の貴族がラテン語写本の作成において果たした役割を重視するものがあります。つまり、彼らの働きがなければラテン文学の多くが失われてしまったはずだという意見ですが、Cameronは4つの理由からこれに反対します。①残っている写本の多くは学校の教本や一般書の類いであって、希少なものではなかった。②写本の製作者は異教徒ではなく、実際はキリスト教徒だった。③写本作者たちは宗教的実践の一環として写本製作をしていた。④異教の貴族たちも確かに写本製作を行っていたが、それは個人の図書館に本を保存するためであって、ラテン文学の再生を引き起こすような大々的な運動には成り得なかった。という4つの理由です。

さらに、4世紀終わりのスュンマクス(Q. Aurelius Symmachus)なる人物が異教の祭壇を再建するように皇帝に嘆願書を出していたことを根拠として、通説ではラテン語再生の理由が2)キリスト教に対する異教の抵抗であったことが示されますが、これに対しCameronは、ガリアとローマの具体例を挙げて、スュンマクスよりずっと以前からラテン語の再生運動が行われていたことを示します。まずガリアでは、3世紀の戦火の復興のためにローマより優秀なラテン語学者が集まっており、そこで学んだアウソニウス(Ausonius)なる人物の証言によると、すでに4世紀序盤には、キケローや小プリーニウスらをモデルとした学校があり、当地がラテン語再生の只中にあったことが分かります。しかもアウソニウスはキリスト者でもありました。一方ローマでは、ヒエロニュムスの証言によると、4世紀中盤には彼の師匠であったラテン文法学者ドナトゥス(Donatus)とウィクトリヌス(Marius Victorinus)の学校が繁盛していたようです。以上より、ラテン語の再生運動がキリスト教に対する異教の抵抗運動であったことを示すはずのスュンマクスの証言よりはるか以前から、キリスト教徒を含む者たちによって各地で同様の運動が起きていたことが分かります。それゆえに、この通説は根拠を失ってしまうわけです。

Cameronの主張も興味深いものでしたが、個人的にはヒエロニュムスの師匠ドナトゥスと、その後継に当たるセルウィウスとの著作上の類似の問題が面白かったです。セルウィウスによるウェルギリウス注解書は、ドナトゥスのパッチワークのようなものだと考えられているそうですが、Cameronによると、ドナトゥスの注解書にはない白銀時代の詩人の引用がセルウィウスの注解にはたくさんあるそうです。ドナトゥスが知っていた白銀時代の詩人はルカヌスしかおらず、それゆえに弟子のヒエロニュムスが知っていたのもルカヌスやペルシウスなどに限られていましたが、セルウィウスはユウェナリスなども引用しています。確かに言われてみると、これまでヒエロニュムスの著作の中でユウェナリスが引用されているのを見たことはないように思います。ちなみにヒエロニュムスの古典文学の知識に関しては、Cameronも引用しているように、やはりHagendahlの研究が詳しいようで、私もこの本は持っていますが未読なので、いずれ腰をすえて読まなければなりません。

  • H. Hagendahl, Latin Fathers and the Classics: A Study on the Apologists, Jerome and Other Christian Writers (Studia Graeca et Latina Gothoburgensia VI; Göteborg: Elanders Boktryckeri Aktiebolag, 1958).

B001NX2ZU6LATIN FATHERS AND THE CLASSICS - A STUDY OF THE APOLOGISTS, JEROME AND OTHER CHRISTIAN WRITERS
Harald Hagendahl
Goteborgs Universitets 1958
by G-Tools

2011年10月26日水曜日

ラテン語訳聖書

  • H. F. D. Sparks, "The Latin Bible," in The Bible in Its Ancient and English Versions, ed. H. W. Robinson (Oxford: Clarendon, 1940), 100-27.

Bible in Its Ancient and English VersionBible in Its Ancient and English Version
H. W. Robinson

Greenwood Pub Group 1970-08
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る by G-Tools

このSparksという人は、どうやら旧約聖書外典の英訳のエディターとして知られている聖書学者のようで(The Apocryphal Old Testament, Oxford 1984)、ドイツ聖書協会版のウルガータ(Biblia Sacra iuxta Vulgatam Versionem)の編集協力者にも名前を連ねています。

この論文では、ラテン語訳聖書の歴史を、(1)ヒエロニュムス以前、(2)ヒエロニュムスのラテン語訳、(3)ヒエロニュムス以後に分けて概観し、(4)最後に本文批評の分野などでラテン語訳聖書をいかに活用するかについて書かれています。正直なところ、(2)にはさほど目新しいことは書いてなかったのですが、(1)と(3)をおもしろく読みました。(1)では古ラテン語訳が扱われており、2世紀のキリスト教徒による訳業であること、原テクストの複数説と単数説があることなどが説明されます。そしてこの翻訳がなされた場所として、シリア、アフリカ、ローマを挙げたうえで、Sparksはアフリカ説を取っています。また古ラテン語訳はあくまで「翻訳」なので権威がなく、改訂も躊躇なくされていたというのは大事な指摘だと思います。

(3)では古代末期から中世にかけてウルガータがどのように受容されていったか、そしてそのとき古ラテン語訳はどのように扱われていたかといったことが説明されます。中でも少し調べなければならないのは、ウルガータを最初に校訂したカッシオドルスの役割です。カトリックの聖書の現在の姿を作ったのはこの人といっても過言ではないほどの人物のようですが、いかんせん私に知識がありませんので、いずれ調べてみたいと思います。カッシオドルスは、北イタリア版および南イタリア版の二つの写本群が一致した読みのみをテクストに採用するなど、かなりの文献学的な客観性を持った人物であったようです。

(4)では、Sparksは、ウルガータが底本としたヘブライ語テクストは、結局七十人訳よりも新しいものなので、原テクスト復元のツールとしては七十人訳の方が上であること、それゆえにウルガータの役割は、シリア語訳やタルグムなどと同様に、マソラーと七十人訳とが一致しないところのチェック用にしかならないことなどを述べています。とはいえ彼は、古ラテン語訳が七十人訳および新約聖書の本文批評に役立つことを高く評価しており、いくつか具体例を挙げて説明しています。こうしてみると、やはりウルガータは本文批評に適さないというのが大方の見解であるようです。先日読んだKedar-Kopfsteinなどは、こうした通説に対して反論しようとしていたのだと思われます。

ちなみにSparksの論文で他に読んだことがあるものとしては、次の一作があります。少し古いですが、必要な情報がバランスよく含まれた論文だと思います。

  • H. F. D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome, vol. 1, ed. P. R. Ackroyd and C. F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 510-41.

The Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to JeromeThe Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to Jerome
P. R. Ackroyd

Cambridge University Press 1975-10-31
Sales Rank : 746672

See details at Amazon by G-Tools