ページ

ラベル エピクロス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル エピクロス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年5月9日月曜日

コルヌートスとヘラクリトスの語源学と寓意的解釈 Dawson, "Ch. 1: Pagan Etymology and Allegory"

  • David Dowson, Allegorical Readers and Cultural Revision in Ancient Alexandria (Berkeley: University of California Press, 1992), pp. 23-52, 258-64.
Allegorical Readers and Cultural Revision in Ancient AlexandriaAllegorical Readers and Cultural Revision in Ancient Alexandria
David Dawson

Univ of California Pr on Demand 1992-02
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
本書の第一章は、ストア派哲学者のコルヌートスとヘレニズム期文法家のヘラクリトスとを題材に、寓意的解釈の発展を概観している。コルヌートスは、語源学的分析を通して、ホメロスが保存した古代の神話の中で表現されている科学的な知恵を明らかにしようとした。対するヘラクリトスは、そもそも詩人自身が寓意的解釈をしていたと考えることで、ホメロスが被っていた非倫理性の批判に反論しようとした。いわば、コルヌートスにとっての語源学は、古代のテクストから科学的な知識を抽出するための手段であったわけだが、一方でヘラクリトスにとっての寓意的解釈は、哲学者の元祖であるホメロス自身の解釈を見つけることだったのである。

コルヌートスによれば、古代の神話は自らの哲学的・宇宙論的な知恵を英雄や神々の名前の中に表現しており、のちにそれらをホメロスやヘシオドスが詩の中で伝達したのだという。それゆえに、コルヌートスは、文学の中に埋め込まれたそうした神話の断片を同定し、彼らの哲学的・宇宙論的な真理を解釈しようとしたのである。ただし、詩人たちはもともとの神話が意図するところを誤解したり、詩的装飾を加えることによって曲解したりしている。そこで、解釈者は語源学的な解釈を用いることで、そこにもともとあった哲学や宇宙論を見つけなければならない。そしてそのときに見つかるであろう哲学とは、当然ストア哲学と一致する。こうした語源学的な解釈は、ヘラクリトスのようなストア派の専有物というわけではないが、やはりストア派の特徴のひとつであるといえる。

ストア派は、「概念(エンノイアイ)」を二つに分けることで、神話作者たちが描いた神話と、その中に含まれている彼らの哲学との差を説明した。その二つとは、第一に、文化的に規定され、教育によって導き出されるもの(conception);そして第二に、人間の直接的な経験によって生み出されるもの(preconception)である。神話作者は世界を知覚することで得たpreconceptionを、神話というconceptionに定式化したのだった。コルヌートスはこのconceptionを把握するために、擬音など語源学的な要素に注目し、「真の」意味を見つけ出そうとした。

ストア派の語源学は言葉の「意味」に関する議論を深めた。彼らによれば、意味には、「命名的な(nominal)」意味と「提示的な(propositional)」意味との二つがあるという。「命名的な意味」とは、名前とそれによって示されるものとの物理的な関係性のことを指す。対象の本質や内容こそが、言葉の意味だと考えたわけである。語源学的解釈はこの「命名的な意味」に属する。一方で、「提示的な意味」とは、オウムでもできるような単なる言語表現(lexis)ではなく、意味を持った理性的な発話(logos)のことを指す。このようにしてストア派は、名前とそれによって表される対象(nominal meaning)とを区別し、それと同時に、文章とそれが意味する意味(propositional meaning)とを区別したのだった。

コルヌートスの語源学的解釈は、このうち命名的な意味を扱うものであった。彼は擬人化された神々の名前を語源学的に解釈することで、そこに隠されているであろうストア派的な宇宙論を「解読」しようとしたのである。彼が寓意的解釈を用いたのは、こうしたストア派哲学を高めるための比較神話学的「研究」のためであり、詩人の非倫理性や神人同型説への非難に対して反論するためではなかった。
一方で、ヘラクリトスは、主としてプラトンとエピクロスによって投げかけられていた詩人の非倫理性と神人同型説への非難に対し、彼を擁護しようとした。ヘラクリトスは、コルヌートスのように、古代の神話作者と彼らをソースとする詩人という二段構えにはせず、詩人をコルヌートスの神話作者と同列に置いた。またコルヌートスにおいては神話という言葉は価値ある寓意哲学であったが、ヘラクリトスにおいては否定的な意味合いしか持たなかった。すなわち、ヘラクリトスによれば、ホメロスを文字通り読むならば、確かに彼の詩は下らない不敬虔な神話とけなされても仕方がないが、寓意的に読むならば、それは深遠な哲学的な知恵の間接的な表現なのである。

ヘラクリトスはコルヌートスのように、もとになる神話と詩人による装飾とを分けず、ホメロスの詩を倫理的かつ科学的真理の寓意として意図的に書かれたものと見なしたので、その一貫性が重要な点であった。ホメロスは一貫して寓意的に詩を書いたのであるから、それを文字通り読んで非倫理的な描写をあげつらうのはお門違いだと言うのである。なぜなら、ホメロスは詩人であると同時に哲学者として、古代の神話を寓意的に表現することで、自らの倫理的あるいは科学的真理を明らかにしているのだから。そしてヘラクリトスは、そうした自身の寓意的なホメロス解釈は、恣意的なものではなく、ホメロス自身が実はそう読まれることを求めていた解釈だと主張するのだった。

ヘラクリトスによれば、ホメロスの批判者たちはジャンルを誤っているのだという。彼らはホメロスの詩を額面通りに受け取って、「不敬虔(アセベイス)」であるとか「不適切(アプレペイス)」であるとか述べている。しかし、ホメロスの物語には二つの階層があるのである:第一に、神話的な詩という文字通りの表面的なレベル。第二に、より深い哲学的真理という寓意的なレベルである。ホメロスが表面的なレベルにおいて書いていることは、実はより深い真理のほのめかしだったのである。

ヘラクリトス自身は、ホメロスの表面的なプロットに従い、しかもそれを寓意的に読むときには一貫した解釈を心掛けていた。それゆえに、一見コルヌートスの解釈法とそれほど変わらないように見えても、ヘラクリトスは解釈の放縦を慎み、相互に抵触するような解釈は採用しなかった。なおかつ、たとえば「アポロがアカイア人に死をもたらした」という箇所において、アポロを太陽と解釈しても、「死をもたらした」という部分まで寓意的に解釈して、「アポロがアカイア人に死をもたらした」を「太陽が輝いた」と読み替えることはしなかった。あくまで寓意的解釈は特定の主語にのみ適用し、動詞には適用しなかったのである。そのようにして、ホメロスの表面的な物語を解き切ってしまわずに、一貫した寓意的な意図を保持したのだった。

このようにしてヘラクリトスは、まずホメロス自身を寓意的解釈の作家であると述べることで彼を擁護し、同時に自らの寓意的解釈を提供することによって、ホメロスの元来の意図を回復させることを目指したのだった。ヘラクリトスによれば、ホメロスを批判する者たちはホメロスが表面上の物語の下に潜ませている哲学を理解しそこなっているにすぎない。それゆえに、一旦それを了解すれば、表面上の物語に見られる非倫理性や神人同型説は、本来ホメロスが意図した哲学や科学的な真理として正しく理解できるのである。そのホメロスの哲学というのは真に独創的なものであり、のちの哲学者たちの見解というのは実はホメロスから引き出したものである。ヘラクリトスの語源学的な分析は、この真理へと読者が引き返すことを可能にする。

2016年2月6日土曜日

偽プルタルコス『ホメロスについて』概説 Lamberton, "Introduction"

  • Robert Lamberton, "Introduction," in Plutarch: Essay on the Life and Poetry of Homer, ed. J.J. Keaney and Robert Lamberton (American Philological Association American Classical Studies 40; Atlanta: Scholars Press, 1996), pp. 1-31.
Plutarch: Essay on the Life and Poetry (American Philological Association American Classical Studies Series)Plutarch: Essay on the Life and Poetry (American Philological Association American Classical Studies Series)
Plutarch

Oxford University Press, U.S.A. 1996-05
売り上げランキング : 1066453

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
偽プルタルコスの『ホメロスについて』は、ホメロスを諸学の祖として称揚しつつ、その言語、思想、世界観、そして作品の内容を分かりやすく説明した、初学者向けの古代のハンドブックである。本書は13世紀のマクシモス・プラヌデスによってプルタルコスに帰され、『モラリア』と共に保存されていたが、現在では明らかに著者はプルタルコスではないと考えられている(これを最初に主張したのはDaniel Wyttenbach)。というのも、4世紀に作成されたプルタルコスの著作リストである「ランプリアス・リスト」の中に本書は挙げられていないのである。とはいえ、本書の一部が3世紀のパピルスに残っていることから、プルタルコスと同時代から2世紀末頃までに書かれたものではあるとされている。このterminus ad quemの算定は、2世紀に発達したピタゴラス神秘主義的な寓意が本書のどこにも含まれていないことからくるもので、やや曖昧なものである。著者がプルタルコスを知っていた可能性も高いが、プルタルコス本人の主張と明確に異なることも述べられている。

偽プルタルコスの目的は、ホメロスを諸学の祖として証明することで、彼を称揚することであった。プラトンは、ソクラテスがしきりにホメロスを否定していたと書き残しているが、偽プルタルコスはこのプラトン的伝統には無関心であった。かといって、ストア派哲学に完全に依拠しているわけでもない。ただし、はっきりと反エピクロス派ではあった。また、彼は後代の思想家のアイデアをホメロスの記述の中に「発見」することもあった。

偽プルタルコスがホメロスの真作と考えていたのは『イーリアス』と『オデュッセイア』だけであり、それぞれ肉体の強さと魂の気高さとを象徴しているとした。ホメロスの作品に悪徳が登場することについて、彼は、ホメロスが徳と悪徳との両方を登場させたのは、読者が自分自身で倫理的感覚を磨き、自ら徳を選ぶように期待しているからだと説明した。すなわち読者の積極的な役割が求められているのである。

ホメロスの言葉遣いを、偽プルタルコスは寓意と定義している。彼によると、この寓意はあるものを別のもので言い換えることだが、そのとき皮肉や風刺が関係してくるという。寓意は、ヒント(ヒュポノイア)と言い換えることも可能である。こうした、表面上の意味以上の意味は、謎(アイノス、アイニグマ)という言葉でも表されている。

偽プルタルコスはホメロスが発明した人間の議論を、歴史的(ヒストリコス)、理論的(セオレティコス)、そして政治的(ポリティコス)とに分けている。歴史的議論は、過去の出来事の物語を扱うものである。理論的議論は、自然学(physics)、倫理学(ethics)、そして弁証法(dialectic)に分けられる。

理論的議論中の自然学の中では、宇宙論、神論、霊魂論などが扱われる。偽プルタルコスは、ホメロスが神を非肉体的、非物質的なものと考えていたと述べている。言い換えれば、ホメロスが肉体的な神を描いたのは、詩を書くにあたって必要に迫られたからだというのである。ホメロスの神々は、実際にはプラトン、アリストテレス、テオフラストスが考える神だったのである。霊魂に関しては、偽プルタルコスは特にピタゴラス主義的な考え方を持っていた(霊魂移入など)。プラトン『クラテュロス』からの影響も見られるが、それもピタゴラス主義的に変えられている。オデュッセウスの冥府下りも、魂の肉体からの分離と理解された。こうした物質的な魂理解はピタゴラスに依拠しているが、非物質的な魂というプラトンとアリストテレスからの影響も見られるという。倫理学に関しては、偽プルタルコスはストア派的というよりも、逍遥学派的であるという。とはいっても、オデュッセウスの英雄的行為のプラトン主義的理解とストア派的理解とを並置することもあり、こうした諸学派間の矛盾に関してはあまり興味を持っていないようである。

政治的議論は、実際にはホメロスの修辞学的側面、すなわち彼の演説の修辞学的力と弁論家のテクニックに関する彼の知識を扱っている。

興味深いのは、ホメロスの詩を占いに用いる観点である。偽プルタルコス以前にホメロスのテクストに魔術的目的のために言及しているものはないようである。こうした叙事詩を占いに用いるという方法は、ハドリアヌス帝の時代にウェルギリウスの『アエネーイス』を寓意的解釈することで始められたことなので、ローマで生まれた実践法がギリシアに輸入された好例であるといえる。

2015年10月14日水曜日

エピクロス派とストア派 Long, "Epicureans and Stoics"

  • A.A. Long, "Epicureans and Stoics," in Classical Mediterranean Spirituality, ed. A.H. Armstrong (London: SCM Press, 1986), pp. 135-53.
Classical Mediterranean Spirituality: Egyptian, Greek, Roman (World spirituality series)Classical Mediterranean Spirituality: Egyptian, Greek, Roman (World spirituality series)
Arthur Hilary Armstrong

Alban Books Ltd 1989-07
売り上げランキング : 2447043

Amazonで詳しく見る by G-Tools

本論文の中で著者はエピクロス派とストア派とを対比的に説明している。ストア派にとっての神は最高神のゼウスであるが、自然の全体に内在し、人間の倫理的な幸福に関心を持っている。一方で、エピクロス派の神は人間のかたちをしているが、この世界の者ではなく、人間界の出来事といかなる因果関係も持っていない。両者共に、ギリシアの伝統的な神理解を用いて自身の哲学を説明しようとしている。

前341年にアテーナイで生まれたエピクロスは、永続する幸福を獲得することを目標とした。彼の教えは哲学と宗教の両方にまたがり、すべての原理を空間の中にあるアトムに帰した。彼のシステムの全体は、ものごとの正しい理解を通して、いかにして精神的な健康と幸福とを獲得するかということであった。彼の作った共同体では、当時としては異例なことに、女性もまた男性と同等に扱われていた。

さまざまな人間界の欲望に対し、エピクロスは人間が必要な基本的な幸福は実はシンプルなものだと説明した。彼によれば、人間の欲望には、「自然な」ものと「無駄な」ものとがあり、「自然な」ものの中には「必要な」ものと「ただ自然な」ものとがあるという。さらに、「必要な」もののうちには、「幸福のために必要な」もの、「肉体の自由のために必要な」もの、そして「人生そのもののために必要な」ものとがあるという。

エピクロス派の神学としては、否定的なものと肯定的なものとがある。否定的な神学において説かれているのは、世界は神々によって作られたものではなく、人間のふるまいを含めたすべての出来事は神々を喜ばせたり悲しませたりはしないということである。世界は神々によって作られたにしてはあまりに不完全だというのが彼の考え方であった。一方で肯定的な神学において説かれているのは、神の存在は疑いなく、その像を正しく受け取れば人間にとってよいことになるということである。ただし、神の像は原子的なイメージによって作られているので、それを人間が誤って受け取ってしまうと、ときに人間を傷つけるということもあり得る。エピクロスは神々が人間の姿をしていると考えたが、それは人々の間で共通のイメージを用いて自身の神学を説明するためであった。エピクロスの神々は客観的な存在として生きているのではなく、人間の生の理想化されたものであるともいえる。

エピクロスは、神々が世界と人間の運命をコントロールとしていることを否定することによって、宗教信仰の中心にあると考えられていたことを取り除いたのである。

ストア派は、キティウムのゼノン、クレアンテス、クリュシッポスらから始まり、キケロー、セネカ、プルタルコス、エピクテトス、そしてマルクス・アウレリウスらの思想にも大きく影響を及ぼしている。ストア派は、多くの点に関して、プラトン、アリストテレス、キリスト教と歩調を合わせ、エピクロス派を否定することを述べている。たとえば、第一に、神的な事柄は世界の存在や我々自身の基礎であり、第二に、世界は秩序とシステムを示すことで、神的な原理の存在を証ししており、第三に、人間は神の似姿をしている、といったストア派的な言説のうち、第一と第二はエピクロス派と真っ向から対立する。一方で、プラトンやアリストテレスと大きく異なる点として、人間の魂や最高神ゼウスを肉体的(corporeal)なものとして捉えていることと、世界が創造され、のちに破壊されることとを説いている。またストア派は理性の概念を広げ、欲望やよい感情(エウパテイアイ)などをも含めつつ、情念や精神的な動揺などといった魂の無秩序な状態に対比させている。

ストア派は伝統的な宗教的アイデアや言説を基にして自分たちの神概念を形成した。ゼウスをはじめとする神々をそのまま受け継ぎつつ、それらに世界の特定の特徴を付与したのである。ストア派はこのようにして一貫したシステムを築き上げ、第一に、神はすべてのものの設計者であり作成者であること、第二に、人間は神々の枝分かれでありパートナーであること、そして第三に、人間の機能は神々と調和して生きることを強調した。

第一と第二の点に関して、ゼウスはすべての存在を創造し、自然法(natural law)を活動させる者として、その力の代理者である雷を持っている。この自然法によって出来事の不可避的な秩序が保たれ、さらには倫理的な秩序も保たれる。この世で起きるすべての出来事は正しいという理解から、出来事の秩序と倫理的な秩序とは同一視されている。ストア派によれば、人間の精神活動のすべては、神の一部でありパートナーなのだと理解される。

第三の点に関して、神は自然のすべてを構築したが、人間の理性(ロゴス)のみは神の属性でもあり、それによって人間は神と特別に関係していると考えられる。正しい理性には、内面的な側面と外面的な側面とがある。内面的な側面は、いわゆるストア派的な倫理の原理を作っている。外面的な側面は実際の出来事の中で自らを明らかにする。しかもそれはもはや神の領域でもあるので、人間の倫理的な価値観では測れない。ストア派的な神学とは、倫理的な掟と、世界は神々が我々に提供した最良のものであるという主張とを和解させる試みであるといえる。