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2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。

2019年11月10日日曜日

第七洞窟のギリシア語断片 Muro, "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7"

  • Ernest A. Muro, Jr., "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7 (7Q4, 7Q8 & 7Q12 = 7QEn gr = Enoch 103:3-4, 7-8)," Revue de Qumran 18.2 (1997): 307-12.

1955年に発見された第七洞窟から24の巻物が発見された。すべてパピルスに書かれたギリシア語写本である。1972年にO'Callaghanは7Q4 1&2をテモテⅠ3:16-4:3、また7Q8をヤコブ1:23-24だと同定した。これに対し、1988年にNebeは、7Q4 1が『エノク書』103:3-4、7Q4 2が同98:11、そして7Q8が同103:7-8であると同定した。O'Callaghanを支持するThiedeはNebeの説に反対したが、PuechがNebeを擁護した。

これらの説はどれも決定的ではないが、7Q4, 7Q8, 7Q12を個別の写本として検証している点では共通している。これに対し論文著者は、3断片を同じ写本に由来するものとして統一的に検証することが必要と主張した。そうすることで、論文著者はNebeのエノク書説を支持しようとしている。

写本に書かれた方眼や繊維の方向、あるいはパピルスの端の曲がり方といった物的な証拠から、3断片は同じ写本に由来するだけでなく、もともとひとつながりであったことが分かる。文字の形や内容などのテクスト的な証拠からは、このテクストが『エノク書』からのものだということが分かる。

物的な証拠とテクスト的な証拠から、7Q4, 7Q8, 7Q12はひとまとまりであり、『エノク書』103章のギリシア語テクストであることが判明した。ゆえにNebeの同定は正しい。7QEn grのような新しい表記法が必要である。

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2019年11月3日日曜日

『エノク書』コメンタリー書評 Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch" Collins, "Review"

  • Annette Yoshiko Reed, "The Textual Identity, Literary History, and Social Setting of 1 Enoch: Reflections on George Nickelsburg's Commentary on 1 Enoch 1-36, 81-108," Archiv für Religionsgeschichte 5 (2003): 279-96.

本論文はGeorge Nickelsburgの『エノク書』コメンタリーの書評論文である。西洋近代における『エノク書』の研究のはじまりは、翻訳と注解の作成が中心だった。1773年にJames Bruceがゲエズ語写本を欧州に持ち込むと、研究者たちは同書と、新約聖書のユダの手紙、テルトゥリアヌス『女性のファッションについて』、ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記抜粋』での言及や引用とのつながりに気づいた。当時のプロテスタント聖書学に基づき、ソース・クリティカルな方法論が適用された。

20世紀初頭になると、新しいギリシア語訳断片が発見されたことでさらなる研究が続いた。R.H. Charlesはそのテクスト、文学構造、さらにはゲエズ語訳やギリシア語訳のもとになったセム語原典を探求した。その意味では、この時代の研究は文学的な分析よりも『エノク書』の編集過程の理論に偏っていた。そうした文献学的な研究は、プロテスタント聖書学のソース・クリティシズムへの盲信に基づいていたといえる。とはいえ、『エノク書』がより以前のユダヤ起源の5つの文書から成っていることがコンセンサスとなるだけの効果はあった。

ここまでを『エノク書』研究の第一のルネッサンスだとすると、第二はクムランでのアラム語断片の発見とJ.T. Milikによるその出版である。Nickelsburgはこの第二期の重要人物である。彼は折衷的なベーステクストを再構成してそこから翻訳している(Knibbの校訂本はdiplomatic)。書評対象のコメンタリーでは、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」および、「天文の書」の一部とされる81-82章を扱っているが、これは『エノク書』の核となる文学的ユニットが、1-36 + 81:1-82:4c + 91:1-10, 18-19 + 93:1-10; 91:11-17 + 93:11-94:5 + 104:10-105:2という構成の「エノクの遺訓(Enochic testament)」であるというNickelsburgの見解に基づく。

『エノク書』の編纂過程を再構成するために、「寝ずの番人の書」、「夢幻の書」、「エノク書簡」をすべて含む4QEn(c)は、鍵となる証言である。Milikはこの写本に基づき、クムラン共同体は「エノク五書」を所有していたと考えた。すなわち、上の3書と「巨人の書」が合わさった巻と、個別の「天文の書」の巻の2巻本である。Milikは4QGiants(a)は4QEn(c)の一部だったと考えている。さらに彼は「たとえの書」はキリスト教徒によって後3世紀に書かれ、のちに4世紀に「巨人の書」と入れ替わったのだと主張している。Milikのこの「エノク五書」理論はJonas GreenfieldとMichael E. Stoneによって、証拠不十分として否定されている。

Nickelsburgの見解は、4QEn(c)を出発点として用いるという点でMilikに従っている。ただし、Milikがそれを初期のエノク選集の証拠と考えるのに対し、Nickelsburgはそれを、遺訓構造によって統一された新しいエノク・テクストの成長におけるひとつの段階の証拠と考える。彼によれば、「寝ずの番人の書」がエノクの遺訓の核であり、それに他の付加的な材料がくっついたのだという。

Nickelsburgによる『エノク書』の編纂過程は次のようである。前3世紀の第一段階(プロト遺訓期)はもともと、6-36章と81:1-3だけだった。このプロト遺訓は81:5-82:3と91-94, 104-105のような「遺訓的材料」も含んでいたかもしれない。これに1-5があとから付け加わった。

前2世紀の第二段階(遺訓期)には、1-36 + 81:1-82:4 + 91 + 92-105の一部などが結びついた。次に85-90が付け加えられ、さらに92-105が完全になった。前1世紀の中盤にはノアの誕生に関する106-107が最後の部分につけられた。

第三段階(『エノク書』のアラム語アーキタイプ期)にはエチオピア語訳『エノク書』の原型が完成した。1-36のあとには「たとえの書」が挿入され、最後に108が結部に付加された。

論文著者はこうしたNickelsburgの主張はあまりに仮説的であると考える。4QEn(c)に重きを置いているが、この断片は彼の主張のすべてを支持していない。彼の再構成の多くは「物語のロジック(narrative logic)」に基づいている。また彼はこの著作が形式において遺訓的であることを前もって決めてしまっているが、ここでの「遺訓的な」というのはかなりルースな意味でしかない。そして最も問題ある主張は、『エノク書』の「オリジナルの」核が一貫した全体を持っており、それがのちに損なわれていったというものである。これは、論文著者によれば、プロテスタントの聖書学からの悪い影響であるという。J.J.Collinsが主張するように、一貫性という現代のわれわれの概念を『エノク書』に
当てはめるべきではない。Milikと同様に、Nickelsburgも、クムランのエノク資料の選集を『エノク書』のエチオピア語訳と結ぶ単一の発展がある(それゆえにギリシア語訳の証拠能力は低い)という思い込みを持っている。

Nickelsburgは「寝ずの番人の書」におけるエルサレムの中心性や聖性を低く評価している。論文著者によれば、この彼の考え方――エノクは神殿のないエルサレムを好むという考え方――は、同書における天的な神殿への言及はすべて地上の神殿や犠牲の否定を反映しているという問題ある憶測に基づいているという。確かに、「夢幻の書」や「エノク書簡」のような前2世紀の文書には、神殿の祭司から自らを切り離そうとするところが見受けられるが、前3世紀の文書である「寝ずの番人の書」には祭司的な含みがある。「寝ずの番人の書」は祭司制との近い関わりを持つ書記のサークルから生じたものだといえる。

さらにNickelsburgは、「寝ずの番人の書」にはトーラーの権威に対するはっきりとした見解が欠けていることから、この著者らにとってシナイ契約やトーラーは中心的な重要性を持たなかったと結論付けている。冒頭での申命記33章への暗示も、モーセの言葉をエノクに帰すことで、モーセの重要性を下げる試みだと見なしている。しかし論文著者は、これらのエノク文書の最初期の読者である『ヨベル書』の著者は明らかにエノクとモーセの啓示を同時に権威あるものとしている。またNickelsburgが『エノク書』でのトーラーや神殿の軽視をパウロやイエスに、そして初期キリスト教徒につなげて考えていることについては、慎重でなければならない。

Milikの研究が大きく受け入れられてはいないものの、触媒となってさまざまな研究を引き起こしたように、論文著者は、Nickelsburgのコメンタリーも同様の効果を生むことを期待している。このコメンタリーはさまざまな必要性を強調している。たとえば、新しい折衷的な校訂版、ギリシア語訳のさらなる精査、捕囚後のユダヤ教の預言的また知恵的な流れとの関係性の解明、そしてキリスト教の受容史の探求などである。


  • John J. Collins, "Review of Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1-36; 81-108 (Minneapolis: Fortress, 2001)," Dead Sea Discoveries 9 (2002): 265-68.

この巻では『エノク書』を構成する諸文書のうち、「たとえの書」と「天文の書」以外の文書が扱われている。正典外文書に対してこのような詳細なコメンタリーが出版されることはめずらしい。本文のテクストに関して、Nickelsburgは基本的にアラム語とギリシア語から折衷的なテクストを作り、英訳を作成しているが、それはアラム語とギリシア語がある場合、またギリシア語がエチオピア語訳よりも優れている場合である。この英訳は、M.A. KnibbやE. Isaacらのように単一の写本にのみ依拠したものよりも優れているといえる。Nickelsburgの英訳はこれからのスタンダードになるだろう。

文学作品としての『エノク書』の扱いについてが、本書が最も議論を呼ぶ点である。Nickelsburgによると、エチオピア語訳に照らした4QEn(c)の読みから分かるのは、『エノク書』の基本的な内容と文学的な形成は、「エノクの遺訓(Enochic testament)」として構成された文書群に由来しているという。Nickelsburgが考える仮説的な「遺訓」は、「寝ずの番人の書」、『エノク書』81:1-82:4、「夢幻の書」、「エノク書簡」から成っており、初期には「夢幻の書」と「エノク書簡」を欠いたものもあったとする。つまり、「巨人の書」はこの「遺訓」には入らない。

こうした説明は、すべてNickelsburgの想像である。『エノク書』1-36章にはわずかにモーセの祝福の暗示という遺訓的な部分があるが、ジャンルを確立するには至らないほどの量である。「書簡」や91章などは遺訓と見なすことができる。Nickelsburgは黙示的な特徴についてはあまり語らない。

Nickelsburgは、『エノク書』のユダヤ教史における重要性のひとつは、モーセのトーラーの中心的な権威を反映していないことである。その点では、4QInstructionに比すべきである。『エノク書』には前編に亘ってトーラーが暗示的に反映しているのだ、という説明も可能だが、はっきりと触れていない点が重要である。そもそもモーセではなくエノクを主人公にしていることがすでに特徴的である。「寝ずの番人の書」と、イスラエルの歴史を扱うマカベア期の黙示文学(「動物の黙示録」や「週の黙示録」)とは区別されるべきである。

エノク文学の社会状況について、Nickelsburgは、とりわけ堕天使が登場する6-11章からヘレニズム文化への反感を読み取っている。また成立した場所として、12-16章の記述からガリラヤ北部を想定しているが、これは議論の余地がある。

受容史については、『第三エノク書』、時系列の歴史家、アウグスティヌス、エチオピア教会などを詳しく取り上げている。近代の研究史は3期に分けている。第一に、R.H. Charlesが活躍した19世紀、第二に、死海文書の発見以降、そして第三に、1976年にJ.T. Milikがアラム語断片を出版して以降である。

まとめると、このコメンタリーの最大の貢献は、『エノク書』がモーセのトーラーを中心としたヘレニズム期におけるユダヤ教のかたちへの証言であると認めたことであり、一方で最大の問題は、テクストの文学史に関する極めて推測的な仮説を提示したことである。

2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月5日土曜日

ミリク『エノク書』の書評 Barr, Ullendorff/Knibb, and VanderKam

  • James Barr, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, The Journal of Theological Studies 29 (1978): 517-30.

評者は同書の価値を高く評価しながらも、読者がそれを有効に活用し、適切に評価するためには、諸問題の完全な議論が必要であると述べている。本書の主たる問題は、校訂テクストに印刷されているアラム語テクストが実際には断片にはまるで見出されず、校訂者Milikによって書かれたものであるという点である。

Milikは確かに自分が再構成した部分については括弧に入れてそれと知れるようにしてはいる。しかしながら、読者はきわめて保存状態がいいように見える写本が、実際にはごくわずかな断片しか残していないことに気づいたら、驚くことだろう。再構成自体が問題なのではない。そのスケールがあまりに大きいことが問題なのである。

Milikがほとんど天才といえるほどの器用さと計り知れないほど長い時間をかけてこれを達成したことは疑いない。適当な文章をアラム語で作り上げるその能力は特筆すべきものである。またこうしたことはパピルス学では常套手段だが、問題はわれわれがこの時代のアラム語資料をあまり持っていないということである。

さらにMilikのテクストは、ギリシア語訳やエチオピア語訳からアラム語原典を導き出しているにもかかわらず、一方でギリシア語訳やエチオピア語訳は原典の意味を取り違えていると説明するという「大いなる仮説(gigantic hypothesis)」を表している。いわばわれわれは「純粋なる幻想の世界(the world of pure fantasy)」にいるのである。

論文著者は、Milikは再構成部分を他よりも小さいフォントにしたり、巻末の転写には再構成を加えないようにしたりすれば、まだマシだったと指摘する。Milikはアラム語テクストが「寝ずの番人の書」の50パーセントをカバーしていると主張するが(p. 5)、これは自分で付け加えた再構成テクストを含む数字のようである。

こうしたことから、本書の価値は断片の部分ではなく、きわめて幅広い事柄を論じた導入にある。ただし、ここでの議論もあまり整理されておらず、読者を困惑させるものになってしまっている。バビロニアの世界観とエノクのそれとを比較するなど、『エノク書』の完全なテクストへの導入であればよかったが、アラム語断片の導入としてはふさわしくない。

このような状態であるから、誰か別の人によって『エノク書』の完全な校訂版が出版されることが待たれるし、アラム語テクストに関してはDJDシリーズで出版されるべきである。エチオピア語訳を低く見積もっており、エチオピア語の転写も通常受け入れられているものではない。

またせっかくのアラム語訳の発見を生かしていない点もある。すなわち、ギリシア語訳やエチオピア語訳との比較による翻訳技法の研究である。そもそもこれをやって初めてMilikのように翻訳に基づく原典テクストの再構成という荒業ができるはずであるが、彼はこれをしていない。しかし、少し翻訳技法をチェックするだけでも興味深い結果が得られる。

このような批判的な書評は、本書の価値のなさゆえではなく、批判しないことには読者がきちんとこれを利用することができないからである。

  • Edward Ullendorff and Michael Knibb, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Bulletin of Oriental and African Studies 40 (1977): 601-2.
評者らは本書の問題点をまず3つ指摘する。第一に、実際に発見されたアラム語断片はとてもわずかだったにもかかわらず、Milikは7文字に対して56文字を付け加えるような大掛かりな再構成をしている。第二に、エチオピア語訳に対して信頼をまるで置いていない。第三に、ゲエズ語の知識が不十分である。

「寝ずの番人の書」のアラム語テクストが全体の50パーセントをカバーするというが、それはMilikが再構成したテクストを含めた数字であって、実態とかけ離れている。

  • James VanderKam, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Journal of the American Oriental Society 100 (1980): 360-62.
本書では「天文の書」は完全には扱われておらず、「巨人の書」はまだ初歩的な段階である。Milik以前は『エノク書』とは、「寝ずの番人の書」「たとえの書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」から成り、キリスト教以前の成立と考えられていた。しかしMilikはこうした構造はギリシア語訳成立(400 BCE)より後に成立したものであり、「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が入っている。

2019年9月23日月曜日

『エノク書』のキリスト教への導入 Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha"

  • Michael A. Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha: The Case of 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 56-76.

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ユダヤ教の外典・偽典に関するわれわれの知識は、多くの部分をキリスト者による採用と保存に依拠している。ある文書のユダヤ教性とキリスト教性の間にはさまざまな段階がある。ユダヤ教テクストの間にキリスト教的語彙が入ってくるものとしては『第四エズラ記』や『第四バルク書』、ユダヤ伝承を多く用いたキリスト教文書としては『十二族長の遺訓』、旧約聖書の材料を使いつつキリスト教的暗示を加えないキリスト教文書としては『アダムとイヴの生涯』や『預言者伝』がある。いずれも、ユダヤ教文書ともキリスト教文書とも決めがたい。そもそもキリスト教的改変がまったくない文書でも、キリスト教的コンテクストで読まれてしまう場合がある(旧約聖書がそうであったように)。分類の方法論については、Robert KraftやMarinus de Jongeらの研究に詳しい。

この点、『エノク書』もまた明らかにユダヤ教起源でありながら、キリスト教徒によって伝達されたテクストである。論文著者は『エノク書』のテクスト、文書形式、エチオピアの文脈での解釈などについて論じている。

①テクスト。『エノク書』のアラム語テクストには、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む7写本と、「天文の書」を含む4写本がある。Josef Milikはこれらをギリシア語訳やエチオピア語訳に基づいて再構成したが、仮説的なものにとどまる。

ギリシア語訳もユダヤ人の手になるものである。断片がクムラン第7洞窟で見つかっているが、小さすぎて何のテクストかを同定するのは困難である。ギリシア語訳は、クムラン以外では、ギゼ写本(6世紀)とチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀から)から多く見つかっている。いずれの写本にも別のキリスト教文書が一緒に保存されていることから、『エノク書』がキリスト教徒の間でよく読まれていたことが分かる。他には、シュンケッロス『年代記』中の引用は比較的よいテクストを保存している。

ギリシア語訳の重訳であるエチオピア語訳は唯一全体を残すものであるが、これはもともと5~6世紀に聖書全体のエチオピア語訳の一環として作成された。テクストは、より古いグループ(15世紀の写本が残る)とより新しいグループに分かれる。

これらのうちどのテクストがよいのか。アラム語テクストは断片的である。ギリシア語訳は主要部分を含まず、コンディションもよくない。エチオピア語訳はキリスト教的要素を含み、写本も15世紀より前には遡れない。そこから、なるべくアラム語テクストに依拠しつつ、他の諸訳も最上の証言を混ぜて用いるべきと論文著者は述べる。

②文書形式。Josef Milikによると、クムランのアラム語『エノク書』は写本の長さの関係で2巻(「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む部分と「天文の書」のみを含む部分)に分かれていたが、実際にはエチオピア語訳のような五部構造を持っていたと主張した。Milikはさらに4Q204の状況から、「巨人の書」は独立してではなく他の3巻と一緒に読まれていたと主張したが、Stuckenbruckはこの議論は疑わしいと反論する。

またクムランからは「たとえの書」が出てきていないため、同書が他の書物と同様にアラム語で書かれていたのか、それともこれだけはヘブライ語で書かれていたのかも分からない。では、現在のエチオピア語訳のように、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」入りの五部構造のギリシア語訳成立はいつからなのだろうか。Milikによれば、おそらく4世紀になって「巨人の書」があまりにマニ教徒に人気だったために取り去られ、6世紀になって代わりに「たとえの書」が入り、それがエチオピア語訳されたという。Milikは「たとえの書」はキリスト教文書であったと主張したが、これはほとんど受け入れられていない。

George Nickelsburgはより詳細な議論を基に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む形態の写本がクムランには前1世紀にはあったと主張した。この見解は概ね受け入れられるが、論文著者は以下のように批判する。第一に、Nickelsburgは「巨人の書」がもともとも含まれていたのかそれともあとから取り去られたのかを説明していない。第二に、「天文の書」と「たとえの書」があとからどのようにコーパスの中に入ったのかを説明していない。またNickelsburgは、「たとえの書」が部分的に「寝ずの番人の書」における伝承の発展を代表していると主張したが、これは「たとえの書」が「寝ずの番人の書」のすぐ後ろにあることから妥当性が高い。

こうした研究史を受けてさらに指摘できるのは、第一に、アラム語テクスト、ギリシア語訳、エチオピア語訳は比較的似た本文を持っているが、ことに「天文の書」に関してはアラム語テクストとエチオピア語訳はかなり異なっている。そして第二に、エチオピア語訳にはかなりのキリスト教的な要素が入っている可能性があるが、それらはユダヤ教の文脈でも読めないわけではないので、そういった要素に関係なく一度キリスト教徒の手に渡ったら、キリスト教的に読まれたのであろう。

③エチオピア教会の文脈での解釈。『エノク書』はエチオピア教会では正典として読まれていた。エチオピア語訳の写本は15世紀をさかのぼらない。ちょうどその頃に、『エノク書』(特に「たとえの書」)からの引用を多数含んでいる説教集『マシャファ・ミラド(聖誕の書)』が作成された。引用はとりわけキリスト論的な解釈のもとでなされている。

2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。

2019年3月17日日曜日

ヒエロニュムスとギリシア教父 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #3: Jerome and Greek Patristics"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 90-127.

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ヒエロニュムスのギリシア異教文化の知識の特徴は、それを彼が教会作家を通じて得たことである。伝統的にヒエロニュムスはギリシアについて深い知識を持っているとされてきたが、St. SychowskiやC.A. Bernoulliらによると、『著名者列伝』における記述の多くがエウセビオス『教会史』や『年代記』に依拠しているという。A.von Harnack曰く、エウセビオスがカイサリアの図書館を使うように、ヒエロニュムスはエウセビオスの『教会史』を使ったわけである。

著者はこうした評価を正当ではないと主張する。なぜなら、ヒエロニュムスは確かに『著名者列伝』でエウセビオスに頼ってはいるが、彼自身フィロンのいくつかの論文やヨセフスの全著作を読んだからである。また『著名者列伝』を書いてからさらに28年間執筆活動を続けた人物を、その著作だけで評価するのは公平でない。よりバランスの取れた評価をするために、ヒエロニュムスのすべてのアウトプットを調べなければならない。

使徒教父についてヒエロニュムスはあまりよく知らず、彼らに関する『著名者列伝』の記述はエウセビオスに拠っている。イグナティオスとポリュカルポスを知っていると述べているが、前者については誤った情報を紹介しているし、後者については著作の中で一度も引用していない。ローマのクレメンスの著作は、既存のラテン語訳には従っていないため、ギリシア語で読んだと考えられる。『ヘルマスの牧者』についても原典を読んだわけではなく、オリゲネスの影響でこれを批判することもあれば、エウセビオスに従ってこれを賞賛することもあった。以上から分かるように、2世紀のキリスト教文学についてのヒエロニュムスの知識は不十分であり、エウセビオスに拠らなければ、オリゲネス以前のキリスト教作家についてはほとんど知らなかった。

ユスティノスアンティオキアのクレメンスついてもエウセビオス経由のわずかな知識しなかった。同じくエウセビオスに依拠しつつも、エイレナイオスについてはもう少し詳しく知っていた。エピファニオスからの引用も読んでいた形跡がある。最初の2世紀の教父たちについて、ヒエロニュムスは散漫な知識しか持っていなかった。

オリゲネスの著作は実際に読み、利用していた。F. Cavalleraによれば、ヒエロニュムスがオリゲネスについて最も辛辣だったオリゲネス主義論争の前、その最中、そしてその後も、ヒエロニュムスはオリゲネスの聖書解釈者としての科学的な価値に一片の疑問も持たなかったという。しかし、ヒエロニュムスはオリゲネスのすべての著作に等しく関心を持っていたわけではない。オリゲネスの著作群は、ヒエロニュムスによれば、スコリア(excerpta, enchiridion, scholia, semeioseis)、ホミリア(homilia)、トモイ(volumina, tomoi)の3つに分けられる。ヒエロニュムスはオリゲネスの著作の翻訳をたびたび依頼され、一時は全著作を訳すことを約束したこともあったが、結局は聖書の翻訳など他の仕事が忙しくなり、それは果たされなかった。そこで、オリゲネスの翻訳については、もっぱらホミリアを扱ったのである。オリゲネス主義論争に巻き込まれてから、ヒエロニュムスは、ホミリアは訳しても、教義的な内容を含むトモイは訳さなかったとして、自らを正当化した。しかしオリゲネスの聖書解釈はずっと読み続け、それを自らの注解の中でも採用していた。それは、E. Klostermannによれば、最後の注解作品である『エレミヤ書注解』でも同じだった。しばしばヒエロニュムスはオリゲネスに一字一句従うあまり、オリゲネスがヘブライ人教師から聞いた見解を自分自身の教師から聞いたかのように引用している。

ヒエロニュムスの『書簡33』には、オリゲネスの著作カタログが収録されている。もともと彼の全著作はカイサリア図書館に収蔵され、パンフィロスによってカタログ化されていた。そのカタログはエウセビオス『パンフィロス伝』の第3巻に収録されていたようだが、現在では失われている。パンフィロスおよびエウセビオスのカタログではオリゲネスの著作は2000巻あったとヒエロニュムスが報告しているが、彼自身のカタログには800巻しか載っていないし、収録順にもやや違和感がある。おそらく当時すでにオリゲネスの多くの著作は、アカキオスやエウゾイオスによる写本保存よりも前に、散逸してしまっていたために、ヒエロニュムスは入手できた作品だけを挙げているのだろう。ヒエロニュムスは、説教、教義的著作、注解、往復書簡など幅広く読んでいる。少なくともカタログに挙げている著作はすべて目を通しているし、それ以外にも『ケルソス駁論』、『ヘブライ語の名前について』、『マタイ福音書スコリア』、『ガラテヤ書スコリア』なども読んだ。

ここから、ヒエロニュムスのオリゲネス読書経験は広範囲であり、その知識は我々よりも深い。ヒエロニュムスにとって彼は情報の宝庫だった。ヒエロニュムスは、ある聖書文書やある一節について注解を書くとき、それに対応するオリゲネスの説教を探した。そうした説教が見つからないときには、文中でその旨を断り、その消失を惜しんだ。オリゲネスがたまたまその文書や箇所に関する注解を書いていないことが明らかなとき(たとえばダニエル書の注解はない)、ヒエロニュムスは、オリゲネスの他の著作に該当箇所への説明がないか探した。敵対者たちは、ヒエロニュムスが単にオリゲネス著作をまとめているとして批判したが、彼自身はそれを否定しないばかりか、むしろ誇っていた。

ヒエロニュムスは西方世界でヒッポリュトスを読んでいた唯一の人物でもあった。彼は、当時知られていた19作品すべてではなく、釈義的な作品のみに関心を持っていた。

オリゲネスの論敵たち、たとえば、アレクサンドリアのディオニュシオスオリュンピアのメトディオスの著作にはあまり通じていなかった。

エウセビオスからの影響は極めて大きい。特に『著名者列伝』では、『教会史』、『年代記』、『ヘブライ語の場所の名前について』などへの依拠がはなはだしい。おそらくヒエロニュムスはエウセビオスの全著作を所有していた。エウセビオスはヒエロニュムスにとって、ラテン世界において欠くことのできない情報源だった。ただし、歴史的な情報についてはエウセビオスに負っていても、エウセビオスがひとたび事実関係の記述から外れると、まるで彼を信用していなかった。エウセビオスからの強い影響は、ヒエロニュムスがカイサリアの図書館と密接に結びついていたことを示している。

ラオディケアのアポリナリオスは、ヒエロニュムスが最も読んだ同時代人の一人である。彼の名前を挙げることは稀だが、ヒエロニュムスは彼を最も有益な聖書注解者であると見なし、頻繁に用いている。注解書以外では、『ポルフュリオス駁論』をよく読んでいる。アンティオキアにおいてアポリナリオスを通じて、ヒエロニュムスは、エウスタティオス、エメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヘラクレアのテオドロスなどに親しんだ。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするカッパドキア教父(ニュッサのグレゴリオス、バシレイオス、イコニオンのアンフィロキオスら)と親交を結んだ。

アレクサンドリアのディデュモスからは三位一体論、特に聖霊論について多くを学んだ。また彼の著作を翻訳することで、アンブロシウスの盗作を暴こうとした。彼の元には一月ほどしか滞在しなかったにもかかわらず、ヒエロニュムスは彼を師と呼んで慕った。一方で、ルフィヌスとの論争が始まると、そのオリゲネスを重んじる姿勢を非難した。

ギリシア文化についてヒエロニュムスが学んだのは、コンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリア、カイサリアにおいてだったが、例外がキプロスのエピファニオスからの影響である。ベツレヘムでも、エルサレムのキュリロスソフロニオスからの影響を受けた。

西方世界においてヒエロニュムスは偉大なヘレニストだと考えられており、事実彼は東方で長い時間を過ごしたが、彼のギリシア文化の知識にはそれでもなお深刻な欠落がある。彼は古典の異教文学をほとんど読んでいない。古典ギリシア文学への知識は、キケローに代表される西方のギリシア研究を通じたものでしかない。あるいはプルタルコスやポルフュリオスなどを通じた二次的なものである。それも自分の聖書釈義に直接的に有益なものしか読んでいない。しかし、ヒエロニュムス多くの場合自分の情報源を明らかにしていない。キリスト教作家についても、オリゲネス以前の者たちについては、ローマのクレメンスやアレクサンドリアのクレメンスを除いてまるで読んでいない。アポリナリオス、ディデュモス、オリゲネス、エウセビオスからは多大な影響を受けている。ヘレニストとしてのヒエロニュムスの目的は、西方世界にギリシア聖書釈義を知らしめることだった。それゆえに、ギリシア聖書釈義を参照せずに注解を書くラテン釈義家を強く批判した。アウグスティヌスには、ペンを取る前に読むべきギリシア作家をリストアップして送っているほどである。一方で、ヒエロニュムスの弱点は、一部のギリシアの異教文化への侮りとその人間中心的な思想への無関心である。彼はキリスト教思想と相反するような異教ヘレニズム思想を危険視した。それゆえに、聖書釈義については大いに参照していたオリゲネスの哲学には攻撃を仕掛けたのである。ここから分かるように、ヒエロニュムスの異教文学への愛好を批判していたルフィヌスは間違っていたと考えられる。ヒエロニュムスはある種の劣等感から、異教文学に詳しいと見せかけることで、その自分がさらに愛するキリスト教文学の卓越性を示そうとしたのである。異教ヘレニズムとキリスト教ヘレニズムは、ヒエロニュムスにとっては永遠に相互に結び合わないものだった。

2019年3月12日火曜日

ヒエロニュムスとギリシア語 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #1: Jerome and the Greek Language"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 48-58.

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ヒエロニュムスはドナトゥスの学塾にいた頃に、当時の慣例に沿って、ギリシア文法家のもとでも学んでいたはずである。また修辞学を学び始めるに当たって、古典ギリシア文学の手ほどきを受けたと思われる。とはいえ、ギリシア語が母語の人たちの間で暮らしたのは、373年にアンティオキアに移ってからだった。ヒエロニュムスは語学の才能があったが、アンティオキアで6年を過ごしてもギリシア語をそれほど流暢には話さなかった。ここではポルフュリオスの著作を通してアリストテレスの弁証法などを学んだり、ラオディキアのアポリナリオスに師事した。カルキス砂漠滞在を挟んで、コンスタンティノポリスに移ると、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするギリシア教父と交流した。キプロスではエピファニオスに、エジプトではディデュモスに会った。ベツレヘムではラテン語のみならずギリシア語でも説教をした。

ヒエロニュムスの霊的な成長には二段階あった。第一に、異教的なラテン文化のみを享受していた時代と、第二に、教会の召命によってギリシア語を話す国に行った時代である。

ヒエロニュムスはラテン語で相当する語が見つからないときにはそのままギリシア語で書くほど、この言語に習熟した。それは比喩表現や言葉の調子に関するものの場合もあれば、哲学用語の場合もあった。

ヒエロニュムスにとっては、特定のギリシア語テクストはラテン語訳よりも明晰であった。ラテン語はギリシア語をきちんとした言い回しで翻訳することができないときがある。もしあるギリシア語の訳し方に複数の可能性がある場合、ヒエロニュムスは両方を学んだ。

翻訳技法については、『書簡57』が詳しい。しかし、自身の翻訳原理については、エウセビオス『年代記』翻訳序文においてすでにはっきりと述べていた。『書簡57』では聖書翻訳のみは例外的に原典に忠実であるべきと述べていたが、聖書翻訳を扱った『書簡106』では、逐語的でありすぎる翻訳者の弊害を非難している。ヒエロニュムスはラテン語翻訳の先達の方法論を保とうとした。『書簡57』での聖書の逐語訳への志向は、古ラテン語訳の信奉者に対し最も辛辣でないやり方で、ギリシア語写本の聖書テクストを改訂するための方便に過ぎなかったのだろう。実際、古ラテン語訳があまりに逐語的であったりラテン語として悪文になっているとき、彼はそれを躊躇なく修正した。

重要な要素はテクストの意味を保存し、それが訳される目標言語への敬意を失わないことである。『書簡106』ではエウフォニアという語を用いているが、これは「調和」ではなく、ラテン語としての「いい響き」を意味している。ヒエロニュムスは原典のリズムもまた保存されるべきと述べる。

聖書という最も原典に対する忠実性が求められる書物の翻訳に際しても、ヒエロニュムスは逐語訳と格闘することをやめなかった。ただし、その非逐語訳への志向はキケローほど大胆なものでもなかった。またキケローを範としていたので、新造語をキケローの権威に拠らずして用いることはなかった。

ヒエロニュムスの説教にはギリシア語的な言い回しが出てくるが、彼が完全にヘレニズム化されたのかというと、そういうことはなく、やはりラテン語としての純粋性を保存しようという意思の方が強い。彼のギリシア文化への通暁とギリシア教父文学の読書は、ヒエロニュムスのうちにあるラテン文化や異教文化を消すには至らなかった。

古代末期ラテン作家のギリシア知識 Courcelle, "Introduction"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 1-9.

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一般的には5世紀から6世紀にかけてはデカダンスの時代と言われているが、この時代の文化がギリシア的であり続けたのか、あるいはギリシア化したのかと本書は問うている。ギリシア文学がキケローを生み、ギリシア・ローマ文化はその頂点に達したが、2世紀にもなるとギリシア語は下火になり、ラテン語が東方においても公式言語となった。ギリシア語が復権するのはユスティニアヌス帝の登場を待たねばならないが、それ以降はもはやビザンツ帝国の時代が始まっている。

これが一般的な理解だが、あまりに要約的である。実際には、Henri Pirenneが主張するように、東方と西方は7世紀のアラブ侵攻まで通常の交流を持っていたはずである。そこには、著者が言うように、ギリシア文学とラテン文学との密接な関係も含まれていた。なぜなら、多くの素材がギリシア思想と文化が生き延びていたことを示しているからである。こうした観点は、実はこれまであまりなかった。研究者たちのうちには、わずかに触れる者たち(F. Craemer, E. Renan)、一般書で触れる者たち(E. Egger, C. Gidel, J.E. Sandys)、古典期の教育分野のみ分析した者たち(E. Jullien, A. Gwynn)、異教の学校に対する教会の姿勢を研究した者たち(G. Bardy)などがいた。しかし、いずれもラテン教会の教父たちのギリシア文化レベルがいったいどの程度のものだったのかに真正面から取り組んだ研究はほとんどなかった。

興味深いことに、研究者たちはラテン新プラトン主義の歴史について誰も注目してこなかった。そもそもギリシア新プラトン主義についてもほとんど知られていないので、これは当然といえば当然かもしれない。3つの例外のひとつが、W. Theilerのもので、この中で彼はアウグスティヌスのプロティヌス知識はポルフュリオス経由だと主張した。P. Henryは、アウグスティヌスをはじめとする西方世界に深い影響を与えたのはポルフュリオスではなくプロティヌスその人だったと結論付ける。F. Boemerは、クラウディアヌス・マメルトゥスの言語とスタイルを研究することで、ラテン新プラトン主義と新ピタゴラス主義を知ることができると述べた。

著者はというと、研究の方法論として、教義論は信頼に足らず、文法は危険であるので、ただ文献学的方法論のみが最も説得的であるという。つまり、頻繁にギリシア語テクストとラテン語テクストの平行箇所を比較することで、ラテン新プラトン主義のギリシア・ソースを明らかにすることができるのである。問題は、特定の概念、信仰、方法論はどのようなギリシア・グループからローマ人に伝えられたのか、またそれはどのようにか、である。ただし、しばしばギリシア語原典は失われているので、研究は純粋に推測的にならざるを得ないことがある。またギリシア語原典が原典のまま読まれたのか、それともラテン語訳で読まれたのか、という点も重要である。

2019年2月11日月曜日

西方の人ヒエロニュムス Bardy, "St. Jerome and Greek Thought"

  • Gustav Bardy, "St. Jerome and Greek Thought," in A Monument to Saint Jerome: Essays on Some Aspects of his Life, Works and Influence, ed. Francis X. Murphy (New York: Sheed & Ward, 1952), 85-112.

ヒエロニュムスは長く東方世界で暮らしたが、ギリシアの神学思想からの影響を受けたのだろうか。彼の東方滞在は神学思想が栄えた時期と符合している。アレイオス主義をめぐって、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス、ラオディケイアのアポリナリオスら、多くの思想家が自らの思想を深化させた。

アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。

ベツレヘムの修道院に移ってからも、ヒエロニュムスの周りにはラテン人ばかりだった。彼らが修道院を離れて赴いたのも、西方世界である。彼らを通じて、ヒエロニュムスは西方の友人たちと手紙を取り交わした。また多くのラテン人の巡礼者たちがエルサレムとベツレヘムを訪れ、ヒエロニュムスの修道院にもやってきた。西方世界と聖地には常に人の行き来があったのである。ローマが蛮族の侵入によって壊滅すると、そこを逃れてくる者たちがパレスチナに押し寄せた。「我々は彼らすべてを助けることはできないが、少なくとも彼らの被害を気の毒に思い、ともに涙しよう」とヒエロニュムスは語っている。

ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。

ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。

ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。

ヒエロニュムスの聖書翻訳はラテン教会のための仕事である。彼はヘブライ語テクストには誤りは少しも含まれていない一方で、ギリシア語テクストには本文の損傷を意味する多様性があると考えていた。彼はラテン語世界に向けた翻訳を作ったつもりだったが、実際には支持者よりも敵対者の方が多かった。そうした構図はずっと変わらず、ラテン世界が彼の翻訳を重視したのは彼の死後のことだった。ヒエロニュムスの聖書注解もまた西方世界に向けられていた。彼はまずオリゲネスの説教の翻訳から始め、『コヘレト書注解』のような過渡期の作品(ヘブライ人教師やキリスト教聖書解釈者や古典文学からの引用が多い)、パウロ書簡の注解のような自身の釈義法を確立した作品、預言書の注解のようなさらにそれを推し進めた作品などがある。彼の注解の方法論は西方の読者を満足させた。

三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。

オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。

ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。

2019年2月8日金曜日

文化資本としてのバイリンガリズム Jacobs, "What Has Rome to do with Bethlehem?"

  • Andrew S. Jacobs, "'What Has Rome to do with Bethlehem?' Cultural Capital(s) and Religious Imperialism in Late Ancient Christianity," Classical Receptions Journal 3 (2011): 29-45.

キリスト者が社会における公的な役割を果たすようになった4世紀、ローマの古典的なパイデイアは道具ともなれば危険ともなった。洗練された神学議論はギリシア文化に由来する哲学的言語なしには不可能だったが、それは同時に非キリスト教的・異教的な考えを蓄えてしまうことにもなった。パイデイアのキリスト教的な翻訳をめぐる緊張関係は、ヒエロニュムスとルフィヌスの論争からも分かる。両者の互いへの敵意にはさまざな理由があり、個人的なものと宗教的なものが指摘されることが多いが、論文著者は文化的かつ政治的な理由もあるという。

こうした学識の政治学を明らかにするために、論文著者はピエール・ブルデューの「文化資本(cultural capital)」という概念を援用している。教育や文化といった知識獲得の制度化は、階級の権力を先導し維持するための保守的な手段なのである。ホメロスも、プラトンも、ウェルギリウスも、キケローも、支配階級に属する世襲財産である。

ルフィヌスとヒエロニュムスの論争は、オリゲネスに関する神学的なものだけではなく、「翻訳」に関わるものだった。この「翻訳」という一見機械的な手続きこそが、文化資本の再生産に一役買っているのである。初期ローマ帝国において、ギリシア語からラテン語への翻訳能力は文化資本の源だった。貴族たちは、自分たちの文化的な優越を、知的・政治的な統制を証明するギリシア語の知識、すなわちバイリンガリズムという枠組みで保持したのである。

ヒエロニュムスの時代には、こうした二言語使用の学識はそれほど一般的ではなかった。アウグスティヌスがギリシア語をほとんど解さなかったことからそれは分かる。しかしながら、それでもなおギリシア語の知識はラテン語教育の中に文化的価値の名残を留めていた。ヒエロニュムスはこのギリシア語の知識という文化資本をもとに、翻訳を通じてキリスト教的パイデイアを豊かにする知識人に仕立て上げたのである。このように、翻訳は確かにヒエロニュムスやルフィヌスに文化資本を獲得する手段を授けたが、それは同時に社会的な摩擦も生んだ。両者は翻訳を価値あるプロジェクトだと考えてはいたが、異なった価値観を持っていたからである。

ヒエロニュムスは、ローマ定刻特有の多言語の文化資本の伝統にキリスト教的フレーバーを与えようとした。ローマの文化経済は、その領域内の異質さ(heterogeneity)を保存しようとする。翻訳を通じて他者の知識を吸収することは、ローマの統制を知らせている。ヒエロニュムスはこうした統制モデルが有用であることに気づいた。そこで、シリアとコンスタンティノポリスに住んでいた380年以降、ギリシア語のキリスト教文学をラテン語に翻訳し始めたのだった。翻訳という文化資本は、ヒエロニュムス自身のみならず、キリスト教の知識を生み出すことにも権威を与えた。さらに、ヒエロニュムスは聖地に移ってからもこうしたローマ式の文化資本を追及したことで、翻訳のモデルを拡張することにも成功した。A. Kamesarが言うように、彼の鋭敏な「ラテン語性」や「ラテン語的な感受性」が新たな聖書翻訳に彼を導いたのだった。論文著者はそこにローマのキリスト教の文化的帝国主義を見出している。

ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。

ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。

ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。

結論。ヒエロニュムスはローマの文化経済をキリスト教化しようとした。その際に、他者(異端、異教徒、ユダヤ人)の知識はすべてキリスト教にとっての潜在的な資本であった。一方でルフィヌスにとって翻訳とは慎ましい営為であって、ヒエロニュムスの理解のように統制と関わるものではなかった。他者の知識がキリスト教サークルに入るには、翻訳というプロセスの中で浄化されて「洗礼」を受けなければならなかった。ヒエロニュムスの帝国主義的な考え方とルフィヌスの禁欲主義的な考え方は、対極にあるというよりは、パイデイアをめぐって補完的な関係にある。

2016年9月25日日曜日

中世ユダヤ人とギリシア語訳聖書 De Lange, "Jewish Greek Bible Versions"

  • Nicholas de Lange, "Jewish Greek Bible Versions," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), pp. 56-68.
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本論文は、ギリシア語訳聖書のユダヤ教における使用の歴史を扱っている。Henry Barclay Sweteのようなギリシア語訳聖書の研究者たちは、次のような歴史観を持っていた:第一に、ユダヤ人は古いギリシア語訳聖書がキリスト者によって用いられるようになると、それを見捨てた。第二に、アクィラ訳は、キリスト教に対抗するという論争的な目的で作成された。そして第三に、アクィラ訳はあまりにもラビ的であり、なおかつ七十人訳に取って代わることを目的としていたために、キリスト者からは嫌われた。

この歴史観は、中世のユダヤ人がギリシア語聖書を継続して用いていた証拠があるにもかかわらず、長い間極めて支配的だった。そうした証拠としては、たとえばヴェネツィアで発見された14世紀の「ヴェネツィアのギリシア語写本(Graecus Venetus)」や、15世紀のギリシア語訳詩篇写本、そして16世紀にコンスタンティノープルでヘブライ文字で印刷されたギリシア語訳の五書などがある。

この情勢に風穴を開けたのが、D.S. Blondheimによる研究であった。彼は、中世から近世にかけてのユダヤ人が、継続的にギリシア語訳聖書――すなわち七十人訳と、それよりさらに強い影響力を持ったアクィラ訳――からの影響を受け続けてきたことを明らかにした。彼の研究はしばらく無視されていたが、Natalio Fernandez Marcosもまたヘレニズム期ユダヤ教と16世紀のコンスタンティノープルの新しいギリシア語訳聖書との間に大きな懸隔はないのだと主張した。

こうした、ユダヤ人によるギリシア語訳聖書の使用について、大きな証拠となるのが、カイロ・ゲニザからの写本群であった。このゲニザから見つかる写本の多くは10世紀から13世紀に作成されたものだが、中には6世紀のアクィラ訳の列王記や詩篇を含むパリンプセスト、ヘブライ語の横にギリシア語訳を付した9世紀の単語帳、アクィラ訳の特徴を持ったギリシア語訳コヘレト書の断片、またヘブライ文字で書かれたギリシア語の注釈付きのヘブライ語聖書なども見つかっている。

こうした証拠から、6世紀から16世紀にかけての長い期間に渡って、ビザンツ帝国のユダヤ人はギリシア語を用い続けてきたことが明らかとなった。その使用法としては、シナゴーグにおいて会衆の前で口頭で朗読されたと思われるアクィラ訳から、個人的な使用のために作成された非公式のよせあつめまで、さまざまなものがあった。特に後者のような写本を作成した者たちは、高度なギリシア語教育を受けたわけではなく、あくまでヘブライ的な学習の助けになるものとして、ギリシア語の単語長などを作成した。ただし、興味深いことに、そのときのギリシア語の使用は、単純に話し言葉のギリシア語だけではなく、アクィラ訳のような初期の高度な人工的なギリシア語の要素を含んでいた。

ビザンツ期のギリシア語訳聖書の写本には、聖書文書の全体を写したものよりも、断片的な引用が多いことから、論文著者は当時のユダヤ人はギリシア語の訳文を暗記しておいて、ヘブライ語原典を朗誦した後にその翻訳をも暗唱していた可能性を指摘している。中には、ギリシア語訳のみが朗誦されたシナゴーグもあったようである。

結論としては、以下のようなことが言える:中世のギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語訳聖書を極めて長い期間に渡って用い続けており、それは口頭の場合も書かれたテクストの場合もあった。それは同時代にキリスト者が用いていた、改訂された七十人訳とは異なり、話し言葉やアクィラ訳の要素を含むものだった。

2016年2月19日金曜日

ギリシア・ローマの教育におけるホメロスの役割 Hock, "Homer in Greco-Roman Education"

  • Ronald F. Hock, "Homer in Greco-Roman Education," in Mimesis and Intertextuality in Antiquity and Christianity, ed. Dennis R. MacDonald (Studies in Antiquity and Christianity; Harrisburg: Trinity Press International, 2001), pp. 56-77.
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本論文は、古代世界の教育において、ホメロス作品がいかに使われていたかを概観したものである。ギリシア・ローマ世界では、初級・中級・上級という三段階の教育方法が採られていた。初級学校においては、γραμματιστήςと呼ばれる教師のもとでのアルファベットの学習から始まり、音節、単語、文章、そして最終的には短い詩の一節を学ぶ。Raffaella Cribioreは、初級学校においては、読みの練習だけではなく、きれいに文字を書くための習字の練習もされていたと指摘している。中級学校においては、文法と文学について学び、教師はγραμματικόςと呼ばれていた。上級学校に行く者は限られていたが、行った者は修辞学か哲学を学んだ。多くの者は修辞学を選び、ῥήτωρやσοφιστήςのもとで弁論の技術を学んだ。Teresa Morganは、教育におけるリテラシーは、アイデンティティとステイタスの基準としても機能していたことを指摘している。

初級学校においては、アルファベット順に、ホメロス作品に登場する固有名詞のリストが用いられていた。このリストは音節数が徐々に増えていくようにもなっており、初学者がだんだんと文字を覚えていくことができるようになっていた。メナンドロス作品の固有名詞リストも見つかっているが、ホメロスは群を抜いて高頻度で使われていたことが知られている。このリストを正確に写すことで、正しい文字の書き方を学び、それを読むことで正しい発音も学ぶのである。さらに、Janine Debutによると、教師はリストの登場人物について説明することを通して、ギリシアの歴史と文化の基礎を教えていたのだという。このリストを学んだあと、生徒たちは短い文章を書き写しつつ、暗記した。

中級学校においては、文法と文学が講じられた。生徒たちは母音と子音を区別し、音節について学ぶ。そして単語を8つの品詞に分類し、最終的に長い文学作品を解釈することを学ぶことになる。このとき、こうした分析の実例としてのホメロス作品では、『オデュッセイア』よりも『イーリアス』の方が好まれた。この段階で生徒たちがホメロス作品を読むときには、古代の難解な詩的表現をコイネー・ギリシア語に改めた、スコリア・ミノラというアンチョコのようなものの助けを借りていたという。そして『イーリアス』をパラフレーズし、一問一答で内容理解を深めていった。

上級学校においては、修辞学と哲学が学ばれていた。修辞学においては、法廷弁論、審議弁論、演示弁論という3つの型があったが、これらを身に着けていることは成人の義務と見なされていた。これを練習するために、生徒たちはより短くて簡単な作文から始めていったが、そうした小弁論はπρογυμνάσματαと呼ばれた。この小弁論の例として用いられていたもので現存するものとしては、アレクサンドリアのテオン、タルソスのヘルモゲネス、アンティオケイアのアフトニオス、そしてミュラのニコラオスの作のものが残っている。

小弁論の中では、さまざまなジャンルが扱われたが、中でもδιήγημα, γνώμη, ἠθοποιίαにおいて、頻繁にホメロス作品が用いられた。διήγημαは物語の中の特定の出来事、διήγησιςは物語全体のことを指すが、ホメロス作品をもとにこの二つの用語の違いが説明された。γνώμηにおいては、ホメロス作品の中の金言が引用された。金言の中でも、奨励、諫止、混合、誇張を表すものに関してよく用いられたという。そしてἠθοποιίαにおいては、ある出来事の中で登場人物がいかにも言うであろうことを生徒が作文するときに、題材としてホメロスが用いられた。この仮想会話をうまくやるためには、その場面のみならず、その前後の場面をも知っていなければならないため、ホメロスのように皆が知っている題材を取ることは有効なのである。

以上より、ホメロスの叙事詩が教育の三段階のすべてにおいて重要な役割を持っていたことが分かる。いやしくも教育を受けた人であれば、ホメロスを諳んじていることが求められていたのである。

2015年2月7日土曜日

ギリシア語パピルスの手紙 Luiselli, "Greek Letters on Papyrus"

  • Raffaele Luiselli, "Greek Letters on Papyrus: First to Eighth Centuries: A Survey," Asiatische Studien/Études Asiatiques 3 (2008): 677-737.
本論文は、後一世紀から八世紀にかけて、主としてギリシア語で書かれた手紙について、書く道具、字体、前書き、本文、末尾、宛名書き、封印の仕方、保存方法、バイリンガリズム、定型文などの観点から概観したものである。

書簡は、コミュニケーションの道具であると同時に、哲学や文学のフォーマットとしても用いられていた。著者は手紙の種類を三つに分けている。
  1. documentary: 古代に住んでいたごく普通の個人によって書かれた手紙。しばしばパピルスなど壊れやすいものに書かれている。
  2. literary: 歴史上の人物によって書かれ、のちに広い読者層のためにコレクションされたもの。しばしば羊皮紙や紙のコーデックスに書かれている。
  3. fictitious: 架空の人物によって書かれた手紙。物語の中などに挿入されている場合もある。知的に洗練された著者によって書かれることが多い。
本論文で扱われているのは、このうちの一つ目のdocumentaryな手紙である。こうした手紙は、パピルス、陶器、羊皮紙、木の皮などに書かれた。パピルスの場合、20シートの巻物を小分けにして使った。ローマ時代になると特に、シートを縦長にして使うことが多かったが、さらに時代が下がると横長にする場合もあった。基本的には、別の要件には新しいパピルスを使うことが原則だったが、裏紙として再利用することも多々あった。人々はパピルスのリサイクルをあまり気にしなかったようである。文学テクストに比べ、手紙では語の間にスペースを取ることが多かった。アクセント記号や気息記号、さらに行下げなども用いられた。

手紙は口頭で述べられたことをプロが書き留めることもあれば、本人が書くこともあった。公的な手紙の場合、スタイルや草書体の度合いなどは、TPOに応じて自ずと決まっていった。これに対し、個人の手紙は読みやすさが重視された。

前書きでは、送り主の名前と宛名が示される。その方法は4種類ほどにまとめられるが、組み合わされる場合も多かった。アラブ時代のエジプトの手紙では、ギリシア語で書かれていても、ヘブライ語的な挨拶やアラビア語のバスマラのような書き方が見られる。「万能の主の名において」という書き出しは、ユダヤからキリスト教を通じ、イスラーム期でも用いられるようになった。本文では多種多様なことが語られたので、ここでは割愛。末尾の挨拶は5種類の書き方があったが、これも組み合わされることが多かった。仕事の手紙では省略されることもあった。

新しいパピルスに手紙を書く場合は、相手の住所は、パピルスを巻いた外側に書いたが、裏紙の再利用の場合は、さまざまに工夫して住所を書いた。巻き方としては二種類あり、横に巻く場合、開いて読みやすいように左側の縁が上になるように巻いた。縦に巻く場合、上側の縁が上になるように巻いた。保存するときは、公的な手紙は、来た手紙と送った手紙とをくっつけて長い巻物にして保存した。個人の場合はさまざまだが、壺などに丸めて入れることが多かった。

多くのエジプト人は、エジプト語が母語であってもギリシア語で手紙を書くことが多かった。ローマ時代にはラテン語で書くこともあったが、依然としてギリシア語は共通言語として用いられていた。しかし、書き手の言語習得のレベルによって、母語からのさまざまな影響が見られる。とはいっても、十分にギリシア語で書ける人物が、本文はギリシア語で書いて前書きや住所をラテン語で書く場合や、本文はコプト語で書いてその他はギリシア語で書く場合などもあり、どのような基準で言語を変えているのか不明な場合も多々ある。ラテン文字で書かれたギリシア語の手紙やその逆も見つかっている。

2012年1月12日木曜日

ギリシア語からのラテン語翻訳2000年小史



ギリシア語からラテン語の翻訳史をまとめた論文を読みました。2000年に渡る歴史を20頁弱で語ろうというわけですから、もちろんかなり駆け足ですが、通史としてさらっと読むのに適した論文です。リンクから全文を読むことができるので、ご興味ある方は御参照ください。


著者は翻訳史の時代区分を7つに分けています。①前3世紀ローマ(リーウィウス・アンドロニークスの『オデュッセイア』翻訳)、②前2世紀-後3世紀ローマ(キケロー、マティウス、ニンニウス・クラッススなど)、③4世紀-6世紀の教父時代(ルフィヌス、ヒエロニュムス、ボエティウスなど)、④暗黒時代-12世紀(ディオニュシオス、スコットのジョンなど)、⑤12世紀-13世紀のアラビア語経由のアリストテレス翻訳、⑥14世紀-15世紀のイタリア・ルネサンス(ペトラルカ、ピラトゥスなど)、⑦16世紀-18世紀の近代翻訳(ヴィクトリウス、ステファヌス、エラスムスなど)。

個人的に興味を持っている時代を説明した①-③は、簡潔で分かりやすかったです(少々物足りないですが)。ローマの知識人は、そもそもギリシア文学の翻訳をほとんど必要としていませんでした(ここでの「翻訳」とは、改作や翻案を含まない、本来的な意味での翻訳です)。なぜならローマの知識人は十分にギリシア語に精通していたため、別にわざわざラテン語訳する必要がなかったのです。確かに、マティウスやニンニウス・クラッススは『イーリアス』の翻訳を作っていますし、とりわけキケローによる、アイスキネースとデーモステネースの弁論の翻訳はよく知られていますが、ローマの翻訳は概してパラフレーズに偏っていました。著者はこうしたローマ時代の翻訳を、Imitation was constant, paraphrase frequent, genuine translation rare (p. 119)と評しています。また、Rome derived her intellectual life from Greece, and from Greece alone (p. 117)という指摘は、当然のことのようにも思いますが、大事な指摘です。教父時代になると、基本的にローマ時代とさほど変わらぬパラフレーズが続けられましたが、神学的な論争のために、文言の正確さが要求されるようにもなっていました。しかし、ギリシア語の知識の低下は否めず、ヒエロニュムスの翻訳論に代表されるように、理論は整っても、実践が伴うことはなかったようです。

以降の翻訳史の中では、個人的に、アリストテレスの著作がシリア経由でアラビア語から翻訳されていたことを説明している部分を興味深く読みました。このことについては、日本語で思いつく参考図書として次の一冊があります。

ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動
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