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2016年11月23日水曜日

5-6世紀の聖書解釈 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #5

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 110-20.
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隆盛を誇ったアレクサンドリアの伝統も、4世紀の終わりから5世紀の始めにかけて、次第に衰退していった。それは、第一に、オリゲネス論争の影響ゆえであり、第二に、アンティオキア学派の来襲ゆえであった。すなわち、アレクサンドリア学派の没落は、アンティオキア学派の興隆と軌を一にしていたわけだが、5世紀中葉になると、もはや両学派とも往時の勢いを失っていた。学問の中心も、それに伴って、エデッサ、ニシビス、そしてガザに移っていったが、それらは皆かつてのアレクサンドリアやアンティオキアには匹敵しないものだった。

6世紀後半のアグリゲントゥムのグレゴリオスは、表面的な聖書解釈を乳に、またより深い聖書解釈をバターになぞらえつつ、寓意的解釈を行なった。ただし、予型論的解釈や、ときには字義的解釈をも用いたこともあった。

この時期になると、ギリシア語による黙示録注解が初めて書かれるようになった。6世紀から7世紀にかけて活躍したオイクメニトスは、極めて寓意的に黙示録を解釈した。彼はオリゲネスの強い影響下で、黙示録を単に終末論的にだけではなく、より広く教会的に解釈した。同時期のカイサリアのアンドレアスは、黙示録の権威を高めるために、アジア派的な千年王国論を強調した。

6世紀のガザのプロコピオスは、東方における聖書解釈の形式に関して、ターニング・ポイントとなった。彼は、聖書解釈において独自性を打ち出すことをやめ、一節毎に、多くの異なった既存の聖書解釈を抜粋することにしたのである。そうすることによって、読者は教父の聖書解釈を統合的に読むことができるようになった。こうした形式は、カテーナと呼ばれた。通常、カテーナにおいては、ページの中心にある聖書のテクストの周りの欄に、いくつかの聖書解釈が配置され、冒頭には属格でその解釈の著者の名前が書かれている(ただし、その著者名はしばしば間違えていることがある)。抜粋は文字通りの場合もあれば、要約されている場合もある。ディオドロスのように、カテーナでしか読むことのできない著者の作品があるので、現代の研究者にとってカテーナは重要なソースである。ただし、こうした形式が増えたために、きちんとした注解が廃れたことも否めない。

6世紀前半のハドリアノスは、聖書中のさまざまな非合理的な描写を正当化しようとした。たとえば、神人同型説は読者の便宜を図ったのである。

西方においては、蛮族の侵入によって、統一されたローマはなくなり、ローマ文化と蛮族文化とがさまざまに混ざり合う状況を呈していた。そこで、聖書解釈においても、いきなりヒエロニュムスやアウグスティヌスの注解に当たるというよりは、要約を読む方が好まれるようになった。たとえば、5世紀のリヨン司教エウケリウスは、寓意的解釈に基づく短い注解や、問答形式の注解を残している。

ヴァンダル族の支配下にあったアフリカにおいては、アリウス主義との神学的な戦いが行われていた。カルタゴ司教クオドウルトデウスは、倫理的な寓意的かつ予型論的な注解を残している。6世紀初頭のウェレクンドゥス・ユンケンシスもまた、アリウス主義の蛮族の排斥を意図した注解を残している。

西ゴート族支配下のスペインにおいては、セビーリャのイシドルスユリアヌスのように、編集を伴うコンピレーション形式の注解が流行した。6世紀中葉のウルジェイのユストゥスや、ベージャのアプリンギウスは、キリスト論的かつ教会的な解釈を展開した。

ガリアにおいては、4世紀の終わりから5世紀のはじめにかけて、ポワティエのヒラリウスに代表される聖書解釈の隆盛は最高潮を迎えたが、その後は衰えた。アクィタニアのプロスペルの聖書解釈は、師であるアウグスティヌスの要約だったし、サロニウスのそれは、ヒエロニュムス、アウグスティヌスらの聖書解釈を問答形式に再編集したものに過ぎなかった。問答形式への再編集は、ヴィエンヌのアヴィトゥスの注解にも見られる。アルルのカエサリウスは説教で有名だが、彼の説教は、教育を受けていない人々が分かるように、あえて低俗に書かれ、予型論的であれ倫理的であれ、寓意的な彩色が施されている。

ゴート族支配下のローマでは、まだある程度の聖書解釈の伝統が命脈を守っていた。ヴィヴァリウムの修道院にいたカッシオドルスは、アウグスティヌスを中心に、オリゲネス、ヒエロニュムス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらの聖書解釈をソースとして用いた大部の要約聖書解釈を著した。その多くは寓意的なものであったが、しばしば字義的解釈が横に並べられることもあった。この注解は、テーマを共通させつつ統合的であり、なおかつ文法的な解説をも含んでいた。

この時期における聖書解釈上の大きな進展は、5世紀に南仏で活躍したヨハネス・カッシアヌスによる、聖書解釈の四区分である。オリゲネスは、字義的・霊的・倫理的という聖書の三重の意味について言及したが、カッシアヌスはこの「霊的」解釈を「予型的」解釈と「神秘主義的」解釈とに分けることによって、聖書には四重の意味――字義的(historia)、倫理的(tropologia)、予型論的(allegoria)、神秘主義的(anagoge)――があることを示したのである。この四区分は中世に広く普及することになる。

2016年9月11日日曜日

レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』 #2

  • L.D. レイノルズ、N.G. ウィルソン「第二章:東のギリシア語圏」、『古典の継承者たち:ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(西村賀子、吉武純夫訳)国文社、1996年、75-124頁。
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帝政ローマの学問と文学。ローマの帝政期、ギリシアと東地中海のギリシア化された属州では、知的生活の衰退が見られた。文学研究に顕著な進歩はなく、力点は次第に修辞学の研究に移った。後二世紀になると、たとえもはや過去の偉大な時代に匹敵する活動を達成できないにしても、少なくとも文学上の技法において過去の偉大な時代に張り合おうとする動きはあった。そのひとつがアッティカ風文体の模倣であった。トゥキュディデスやアリアノスを模した、極めて人工的な文体の擬古主義がはるかビザンツ時代末期まで続いた。それに伴い、アテナイの文学が学校で盛んに読まれた。

キリスト教会と古典研究。多くのキリスト者は古典テクストを読もうとしなかったために、多くの作品が失われた。ただし、教養ある異教徒に訴えるキリスト教作品を書くために、ユスティノスやクレメンスは、ストア派やプラトンから借用した専門用語を用いた。オリゲネスは、テクスト批判の領域でも異教徒文化に学ぼうとして、『ヘクサプラ』を作成した。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、異教の作品にも有益なものがあることを認めた。アポリナリスは、学校カリキュラムを完全にキリスト教化するために、詩篇をヘクサメトロスに、あるいは福音書をプラトンの対話篇風にアレンジした。とはいえ、基本的には、学校では依然として古典作品が講義された。教会が敵対的だったのは、むしろ異端の書いた本だった。

ビザンツ時代初期。古代世界の大学においては、きちんとしたアッティカ風文体を書くことのできる行政官になるための訓練が施された。この修辞学とアッティカ風文体の興隆に伴い、「スコリア」、すなわち注を別冊の独立した本とせずに、テクストの欄外に書くことが発明された。四世紀から五世紀のことである。また、ガザのプロコピオスは、「カティーナ」、すなわち複数の解釈者たちの意見を一語一句引用しながら編集した、聖書のランニング・コメンタリーを発明した。この時期には、通常読まれる文献の範囲が次第に狭まった(ヴィラモーヴィッツ)。また六世紀の後半まで、古典教育と古典研究がほとんど行なわれなかった。

オリエントにおけるギリシア語テクスト。ニシビスとエデッサで、ギリシア語テクストがシリア語に翻訳された。四世紀から五世紀にかけて、新約聖書や教父文学のみならず、アリストテレス、テオフラストス、ルキアノス、ディオニュシオス・トラクスなどがその対象となった。これらにはアラビア語訳もあったが、すでにあるシリア語訳からの重訳だった。アラビア人は、ほとんど科学と哲学にのみ関心を持った。代表的な人物としては、フナイン・イブン・イスハークが挙げられる。また、アルメニア語訳の聖書、フィロン、エウセビオス、プラトン、ディオニュシオス・トラクス、カリマコス、そしてエウリピデスなどもあった。

九世紀の古典復興。ビザンツ時代の学問的偉業は、九世紀になって現れるようになった。羊皮紙の需要が増え、大文字ではなく小文字体で写本が作成された。もともとアンシャル字体で書かれていた写本を小文字に書き直す作業も行なわれた。ギリシア語テクストには同じ出所に由来すると見られる現存写本すべてに共通する誤りが多くあり、しかもこの出所はたいてい九世紀の写本だと考えられている。この時代の高名な学者としては、ポティオスがいる。彼はユダヤ人の魔法使いと取引をして、知識を手に入れたという伝説がある。彼はたくさんの書物を要約した『ビブリオテケ』を著し、書評を発明したとされている。その範囲は広く、ギリシアの小説家、異端の作家、そして反キリスト教の作家の著作まで読んだが、詩はほとんど扱わなかった。これはアレタスなども同様であった。

ビザンツ時代後期。10世紀になると、辞書と初歩的な百科事典を合わせたものである『スーダ』が編纂された。これはアルファベット順の配列を有する最も古い百科事典である。またギリシア詞華集や重要な写本類も、この時代に作成された。写字生の筆跡鑑定をすると、これらの写本がごく少数の学者と教師と専門的写字生の手によって作成されたことが分かる。この時代の代表的な人物はミカエル・プセロスである。彼は哲学、異教文学、そして教父文学にも強い関心を抱いた。特にナジアンゾスのグレゴリオスに傾倒したようである。12世紀には、テッサロニカ司教エウスタティオスが古典の注釈書を寓意的解釈によって著した。彼よりもやや格が落ちるが、ツェツェスやコルニテスといった注釈家たちも活躍した。

しかしながら、1204年の第四次十字軍によってコンスタンティノポリスが占領・略奪されたことによる被害は甚大だった。1261年にふたたびギリシア人皇帝が同市を統治できるようになると、ラテン語の知識を持つマクシモス・プラヌデスが、ラテン世界の学識をギリシア語に翻訳した。またデメトリオス・トリクリニオスは、ビザンツの学者にあって珍しく、詩の韻律に関する研究を残している。彼はまた、さまざまな作家へのスコリアを書き改めたことなどにより、近代の校訂者の先駆者と見なされている。

古典研究は非常に広く行なわれていた。つまり、文学が読まれていただけでなく、古代に書かれた技術書や科学書はなお十分注目に値し、読めばそれだけ見返りもあるほど最新情報を含んでいた。こうした古典研究の興隆は、パライオロゴス朝ルネサンスと呼ばれている。ビザンツ人の主な功績は、広い範囲に渡る古典のテクストに興味を抱き、他の国の学者たちがそれらを利用してその真価を認める立場に立つまでテクストを保存したことであった。