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2020年8月2日日曜日

アブラハムとロトの別れ(5) Rickett, Separating Abram and Lot #5

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 123-57.

Rowan Greerによると、教父の聖書解釈はキリスト者がいかに生きるべきかの指針となるものであり、信者の倫理的・霊的発展を可能にさせるリソースであるという。james Papandreaは教父の聖書解釈の9つの特徴を挙げている。第一に、聖書の神的霊感、第二に、啓示は継続的である、第三に、あるテクストはいくつもの意味を持っている、第四に、矛盾は避けられるべきものではなく織り込み済みのものである、第五に、教父の解釈は使徒の解釈に従う、第六に、聖書が聖書を解釈する、第七に、一般的に旧約聖書の解釈は非字義的、第八に、一般的に新約聖書の解釈は字義的、そして第九に、解釈は祈りの文脈でなされる。これらを踏まえた上で、著者は教父の解釈とキリスト教美術を分析している。

ユダヤ教の聖書解釈同様に、初期キリスト教の解釈もアブラムを守り、彼の正しい行いを強調している。ただし、ユダヤ教がロトを不敬虔な者として描くのに対し、キリスト教はより肯定的なトーンで解釈する。キリスト教的解釈はロトを救済というレンズを通して読むのである。たとえばユリウス・アフリカヌスはアブラムとロトの別離を両者が同意できるものだったとする。

オリゲネスによると、ロトは敬虔さについてアブラムに劣るので、アブラムがロトに別れを告げたのは正当なことだったという。つまり、ロトはアブラムほど敬虔ではなく、ソドムの人たちほど悪でもない、中間の人だったのである。

シリア教父エフレムは、羊飼い同士の争いにおいてロトは完全に無実であり、ソドムへの移住も悪い決断からではなく神の義とその救済を証するためだったとする。一方でアブラムについては、ロトがソドムを選ぶことを許した点で、気前がよかったと評価する。すべての土地はアブラムに訳されたものだったが、アブラムは気前よくソドムにそれを分け与えたというのである。

ヒエロニュムスは創世記13章を兄弟性という言葉で総括している。ロトはアブラムの本当の兄弟ではなく甥だが、創世記では兄弟と表現されている。つまり、創世記の表現を字義的に取るのではなく、親族関係を表すより広い意味で取るべきである。そしてそれゆえに、論敵ヘルウィディウスのように、福音書においてイエスに「兄弟姉妹」がいたと書かれているところをマリアに他にも子供がいた(=マリアは処女ではなかった)と取るのは誤っているという。ただし、ヒエロニュムスはロトが平野を選んだことについては倣うべき行為ではないとする。その上パレスチナの平野は聖書で書かれているほど風光明媚ではなく、ヨルダン川や死海などで汚染されていると主張する。

アンブロシウスは、創13:5「アブラムと共に行ったロト」という表現から、あたかも「アブラムと共にいかなかったロト」もいる可能性があると感じて困惑する者たちがいると報告する。しかし、彼によれば、ここには二人のロトがいるのではなく、一人のロトに二つの問題があるのだという。ロトという名には「回避」という意味があるが(この解釈はフィロンやヒエロニュムスと同じ)、それは善の回避の場合と悪の回避の場合があるのである。羊飼い同士の争いについて、アンブロシウスはアブラムに責任はなかったとする。アブラムはこの争いがロトとの人間関係に波及することを恐れて、別れようとしたのである。一方でアブラムは別れないという選択肢をも与えたが、ロトは別離を選んだのだった。アンブロシウスは兄弟関係の切り離せなさを、魂の理性的部分と非理性的部分にたとえてもいる。それぞれが司る徳と悪徳は兄弟的な必要性によって互いに固く結ばれているのである。それゆえに、アブラムとロトは徳と悪徳が擬人化したものといえる。

ヨアンネス・クリュソストモスの解釈は、アブラムの問題を解決し、ロトにより肯定的な評価を与える解釈の典型例である。彼によればロトはアブラムの養子であり、したがってアブラム同様に裕福な義人である。ただし、土地を選ばせてくれたアブラムに何のお返しもせず、最終的にソドムに住むという間違いをしでかしたことは確かであり、その点はアブラムにではなくロト自身に責がある。つまり、ロトは不敬虔なのではなく間違った選択をしたのである。彼はソドムに蔓延する悪を見抜くことができなかった。クリュソストモスの解釈で興味深いのは、羊飼い同士の争いは、アブラムはもちろん、ロトとその羊飼いにせいでもなく、アブラムの羊飼いたちのせいだとしている点である。ここでクリュソストモスはアブラムのみならずロトをも非難から守ろうとしている。アブラムがロトを兄弟と呼ぶのは、彼の慎み深さゆえである。これはⅠコリ6:7-8におけるパウロの慎み深さに通ずるものである。

アウグスティヌスは、別離の後もアブラムとロトは大きな愛で結ばれていたとする。平和的な関係を維持するために働きかけていたのはアブラムのみならずロトもそうだったのである。

著者はここで教父たちの解釈からキリスト教美術に筆を移す。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ・バシリカにある5世紀のモザイク画から、同時代の解釈が反映している部分と、聖書からは引き出せない付加的な独自の解釈を明らかにしている。そもそもモザイク画は礼拝のためにより神聖な舞台を用意し、聖書物語やキリスト教教義を信徒に教えるためのものである。このモザイク画では、アブラムとロトが同年代に描かれている。別離や争いの原因を示唆するものは何もない。古代の語り部たちは、羊飼いの争いやアブラムによる別離の命令から、ロトによるアブラムからの別離の決意への焦点をずらしていたが、このモザイク画でも同様である。同時に、アブラムは賞賛の対象となっている。ロトの行為はキリスト者が倣うべからざるものなのである。

付加的な解釈としては、第一に、アブラムとロトの子どもたちを描きこんでいる。そうすることで創世記19章のソドムの終焉と物語をつなげ、またいかにロトの移動が大規模なものだったかを示している。またアブラムの血筋とロトの血筋が別れていることを視覚的に表してもいる。メシアへと至るキリスト論的な要素はアブラムの血筋のみに伝わっていくのである。第二の付加は、それぞれの最終的な目的地を描いている。ロトにとってはソドムが、アブラムにとってはカナンがそれに当たる。とりわけカナンはキリスト教の教会のように聖なる場所として描かれている。

以上より、初期キリスト教聖書解釈による創世記13章の理解は、第一に、ロトのアブラム同行を問題視する、第二に、アブラムに関する潜在的な問題からロトによる選択へと問題の焦点を移す(アブラムによる土地提供の申し出は彼の気前の良さと、ロトは完全に不敬虔ではないが欲張りと解釈される)、そして第三に、聖書本文はロトについて曖昧な書き方をしているが、否定的な解釈の余地が残っている。要するに、キリスト教の解釈はユダヤ教の解釈ほどに決定的に否定的な解釈ではないといえる。ロトは徳と悪徳を両方持った人物として描かれる。

新約聖書中にはロトへの言及は2箇所見られる。いずれも神によるロトの救出を審判からのキリスト者の救済と見なしている。第一の箇所はルカ17:20-37で、イエスがパリサイ派からの問いに答えて人の子の到来について語る場面でロトにも言及している。イエスによれば、ロトはノア同様、他の者たちと異なり、審判の前に救済されたという。第二の箇所はⅡペトロ2:6-9である。ここでロトは、義人であるがゆえに救済されたこと、悪徳の人々により悩まされていたこと(つまりあちら側ではなくこちら側の人間である)、そして審判より救済されるというキリスト教徒の原型として見なされていることが語られている。いずれの例も、ロトは確かに敬虔な人物であるというメッセージを伝えているといえる。

著者は中世におけるロトの解釈について簡単に紹介している。ロト養子説については、ラシ、リラのニコラス、ペトルス・コメストル、ジャン・カルヴァン、マルティン・ルターらが触れている。ラダクは、ロトを連れていくことについてアブラムが神の命に従わなかったのではなく、ロトが行きたがったのだと述べる。ロトはアブラムの相続者だという解釈は、カルヴァン、ニコラス、ラシが紹介している。概してロトは肯定的に描かれるが、アブラムほどではない。中世の解釈は、ヨセフスや教父、さらにはラビ文学からの影響が顕著である。

この章の目的は、ユダヤ教とキリスト教の解釈者たちの潜在的なつながりを単に辿ることではなく、こうした伝承が早くから解釈史の一部を担ってきたことを強調することである。それゆえに、それらが中世から近代までも続いていることは不思議ではない。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。

2019年3月17日日曜日

ヒエロニュムスとギリシア教父 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #3: Jerome and Greek Patristics"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 90-127.

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ヒエロニュムスのギリシア異教文化の知識の特徴は、それを彼が教会作家を通じて得たことである。伝統的にヒエロニュムスはギリシアについて深い知識を持っているとされてきたが、St. SychowskiやC.A. Bernoulliらによると、『著名者列伝』における記述の多くがエウセビオス『教会史』や『年代記』に依拠しているという。A.von Harnack曰く、エウセビオスがカイサリアの図書館を使うように、ヒエロニュムスはエウセビオスの『教会史』を使ったわけである。

著者はこうした評価を正当ではないと主張する。なぜなら、ヒエロニュムスは確かに『著名者列伝』でエウセビオスに頼ってはいるが、彼自身フィロンのいくつかの論文やヨセフスの全著作を読んだからである。また『著名者列伝』を書いてからさらに28年間執筆活動を続けた人物を、その著作だけで評価するのは公平でない。よりバランスの取れた評価をするために、ヒエロニュムスのすべてのアウトプットを調べなければならない。

使徒教父についてヒエロニュムスはあまりよく知らず、彼らに関する『著名者列伝』の記述はエウセビオスに拠っている。イグナティオスとポリュカルポスを知っていると述べているが、前者については誤った情報を紹介しているし、後者については著作の中で一度も引用していない。ローマのクレメンスの著作は、既存のラテン語訳には従っていないため、ギリシア語で読んだと考えられる。『ヘルマスの牧者』についても原典を読んだわけではなく、オリゲネスの影響でこれを批判することもあれば、エウセビオスに従ってこれを賞賛することもあった。以上から分かるように、2世紀のキリスト教文学についてのヒエロニュムスの知識は不十分であり、エウセビオスに拠らなければ、オリゲネス以前のキリスト教作家についてはほとんど知らなかった。

ユスティノスアンティオキアのクレメンスついてもエウセビオス経由のわずかな知識しなかった。同じくエウセビオスに依拠しつつも、エイレナイオスについてはもう少し詳しく知っていた。エピファニオスからの引用も読んでいた形跡がある。最初の2世紀の教父たちについて、ヒエロニュムスは散漫な知識しか持っていなかった。

オリゲネスの著作は実際に読み、利用していた。F. Cavalleraによれば、ヒエロニュムスがオリゲネスについて最も辛辣だったオリゲネス主義論争の前、その最中、そしてその後も、ヒエロニュムスはオリゲネスの聖書解釈者としての科学的な価値に一片の疑問も持たなかったという。しかし、ヒエロニュムスはオリゲネスのすべての著作に等しく関心を持っていたわけではない。オリゲネスの著作群は、ヒエロニュムスによれば、スコリア(excerpta, enchiridion, scholia, semeioseis)、ホミリア(homilia)、トモイ(volumina, tomoi)の3つに分けられる。ヒエロニュムスはオリゲネスの著作の翻訳をたびたび依頼され、一時は全著作を訳すことを約束したこともあったが、結局は聖書の翻訳など他の仕事が忙しくなり、それは果たされなかった。そこで、オリゲネスの翻訳については、もっぱらホミリアを扱ったのである。オリゲネス主義論争に巻き込まれてから、ヒエロニュムスは、ホミリアは訳しても、教義的な内容を含むトモイは訳さなかったとして、自らを正当化した。しかしオリゲネスの聖書解釈はずっと読み続け、それを自らの注解の中でも採用していた。それは、E. Klostermannによれば、最後の注解作品である『エレミヤ書注解』でも同じだった。しばしばヒエロニュムスはオリゲネスに一字一句従うあまり、オリゲネスがヘブライ人教師から聞いた見解を自分自身の教師から聞いたかのように引用している。

ヒエロニュムスの『書簡33』には、オリゲネスの著作カタログが収録されている。もともと彼の全著作はカイサリア図書館に収蔵され、パンフィロスによってカタログ化されていた。そのカタログはエウセビオス『パンフィロス伝』の第3巻に収録されていたようだが、現在では失われている。パンフィロスおよびエウセビオスのカタログではオリゲネスの著作は2000巻あったとヒエロニュムスが報告しているが、彼自身のカタログには800巻しか載っていないし、収録順にもやや違和感がある。おそらく当時すでにオリゲネスの多くの著作は、アカキオスやエウゾイオスによる写本保存よりも前に、散逸してしまっていたために、ヒエロニュムスは入手できた作品だけを挙げているのだろう。ヒエロニュムスは、説教、教義的著作、注解、往復書簡など幅広く読んでいる。少なくともカタログに挙げている著作はすべて目を通しているし、それ以外にも『ケルソス駁論』、『ヘブライ語の名前について』、『マタイ福音書スコリア』、『ガラテヤ書スコリア』なども読んだ。

ここから、ヒエロニュムスのオリゲネス読書経験は広範囲であり、その知識は我々よりも深い。ヒエロニュムスにとって彼は情報の宝庫だった。ヒエロニュムスは、ある聖書文書やある一節について注解を書くとき、それに対応するオリゲネスの説教を探した。そうした説教が見つからないときには、文中でその旨を断り、その消失を惜しんだ。オリゲネスがたまたまその文書や箇所に関する注解を書いていないことが明らかなとき(たとえばダニエル書の注解はない)、ヒエロニュムスは、オリゲネスの他の著作に該当箇所への説明がないか探した。敵対者たちは、ヒエロニュムスが単にオリゲネス著作をまとめているとして批判したが、彼自身はそれを否定しないばかりか、むしろ誇っていた。

ヒエロニュムスは西方世界でヒッポリュトスを読んでいた唯一の人物でもあった。彼は、当時知られていた19作品すべてではなく、釈義的な作品のみに関心を持っていた。

オリゲネスの論敵たち、たとえば、アレクサンドリアのディオニュシオスオリュンピアのメトディオスの著作にはあまり通じていなかった。

エウセビオスからの影響は極めて大きい。特に『著名者列伝』では、『教会史』、『年代記』、『ヘブライ語の場所の名前について』などへの依拠がはなはだしい。おそらくヒエロニュムスはエウセビオスの全著作を所有していた。エウセビオスはヒエロニュムスにとって、ラテン世界において欠くことのできない情報源だった。ただし、歴史的な情報についてはエウセビオスに負っていても、エウセビオスがひとたび事実関係の記述から外れると、まるで彼を信用していなかった。エウセビオスからの強い影響は、ヒエロニュムスがカイサリアの図書館と密接に結びついていたことを示している。

ラオディケアのアポリナリオスは、ヒエロニュムスが最も読んだ同時代人の一人である。彼の名前を挙げることは稀だが、ヒエロニュムスは彼を最も有益な聖書注解者であると見なし、頻繁に用いている。注解書以外では、『ポルフュリオス駁論』をよく読んでいる。アンティオキアにおいてアポリナリオスを通じて、ヒエロニュムスは、エウスタティオス、エメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヘラクレアのテオドロスなどに親しんだ。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするカッパドキア教父(ニュッサのグレゴリオス、バシレイオス、イコニオンのアンフィロキオスら)と親交を結んだ。

アレクサンドリアのディデュモスからは三位一体論、特に聖霊論について多くを学んだ。また彼の著作を翻訳することで、アンブロシウスの盗作を暴こうとした。彼の元には一月ほどしか滞在しなかったにもかかわらず、ヒエロニュムスは彼を師と呼んで慕った。一方で、ルフィヌスとの論争が始まると、そのオリゲネスを重んじる姿勢を非難した。

ギリシア文化についてヒエロニュムスが学んだのは、コンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリア、カイサリアにおいてだったが、例外がキプロスのエピファニオスからの影響である。ベツレヘムでも、エルサレムのキュリロスソフロニオスからの影響を受けた。

西方世界においてヒエロニュムスは偉大なヘレニストだと考えられており、事実彼は東方で長い時間を過ごしたが、彼のギリシア文化の知識にはそれでもなお深刻な欠落がある。彼は古典の異教文学をほとんど読んでいない。古典ギリシア文学への知識は、キケローに代表される西方のギリシア研究を通じたものでしかない。あるいはプルタルコスやポルフュリオスなどを通じた二次的なものである。それも自分の聖書釈義に直接的に有益なものしか読んでいない。しかし、ヒエロニュムス多くの場合自分の情報源を明らかにしていない。キリスト教作家についても、オリゲネス以前の者たちについては、ローマのクレメンスやアレクサンドリアのクレメンスを除いてまるで読んでいない。アポリナリオス、ディデュモス、オリゲネス、エウセビオスからは多大な影響を受けている。ヘレニストとしてのヒエロニュムスの目的は、西方世界にギリシア聖書釈義を知らしめることだった。それゆえに、ギリシア聖書釈義を参照せずに注解を書くラテン釈義家を強く批判した。アウグスティヌスには、ペンを取る前に読むべきギリシア作家をリストアップして送っているほどである。一方で、ヒエロニュムスの弱点は、一部のギリシアの異教文化への侮りとその人間中心的な思想への無関心である。彼はキリスト教思想と相反するような異教ヘレニズム思想を危険視した。それゆえに、聖書釈義については大いに参照していたオリゲネスの哲学には攻撃を仕掛けたのである。ここから分かるように、ヒエロニュムスの異教文学への愛好を批判していたルフィヌスは間違っていたと考えられる。ヒエロニュムスはある種の劣等感から、異教文学に詳しいと見せかけることで、その自分がさらに愛するキリスト教文学の卓越性を示そうとしたのである。異教ヘレニズムとキリスト教ヘレニズムは、ヒエロニュムスにとっては永遠に相互に結び合わないものだった。

2018年5月31日木曜日

教父学概論の定番 小高『古代キリスト教思想家の世界』

  • 小高毅『古代キリスト教思想家の世界:教父学序説』創文社、1984年。
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本書はいわゆる教父学(Patristic Studies)の入門書として定評のある一書である(ちなみに、本書によると「教父学(Patrologia)」という名称は、1653年、ルター派の神学者J. Gerhardによって確立された)。今から30年以上も前に、さまざまな教父の引用を豊富に紹介しつつも、不必要に難しすぎない入門書を書き上げた著者には、深い敬意を覚える。本書は現在でも、古代キリスト教思想家という「果てしない森」に分け入るための最適の一書であろう。

第1章で、著者は「教父」とはいかなる人を指すのかについて説明する。初期教会において、教師、特に司教が「父」という名で呼ばれていた。さらに、325年のニカイア公会議に参集した司教たちが、特別な意味で「父」と呼ばれるようになった。以降、公会議に参集し、信経を正しく解釈した司教たちが「父たち」すなわち「教父たち」と呼ばれた。しかし、後代になると、ヒエロニュムスのように司教ではなく司祭であっても、教父と呼ばれるようになる。このようにして基準を明確化していった結果、教父の定義としては、以下の4点が挙げられる:
  1. 教理の面で正統信仰を保持していること(doctrinae orthodoxia)
  2. 聖なる生涯(sanctitas vitae)
  3. 教会の承認(approbatio ecclesiae)
  4. 古代教会に属すること(antiquitas)
これらの基準を満たす教父としては、東方教会では、ダマスコのヨアンネス(749年没)、西方教会では、大グレゴリオス教皇(604年没)あるいはセビリアのイシドルス(636年没)が最後とされる。基準をひとつでも満たさない著作家は、教父ではなく教会著作家と呼ばれる。

第2章では、教父と聖書との関係が論じられる。すべての教父たちは、その信仰や思想を聖書のうちに培った。教父たちは、聖書を神によって書かれた一つの書と考え、新約はもとより旧約聖書の中にもキリストを見出している。ただし、彼らの旧約聖書は「七十人訳」と呼ばれるギリシア語訳であり、その翻訳は神感によるものだと考えられていた。ユダヤ人がヘブライ語原点を重視し、キリスト者が七十人訳を読むことによって、正典論が問題となった。使徒教父たちは外典からも多く引用したが、サルディスのメリトン、ユリウス・アフリカヌス、ヒエロニュムスらは、ユダヤ人の正典目録を重視した。これに対し、オリゲネスやアウグスティヌスらは、キリスト者の正典は教会の伝承に従うべきだと考えた。

第3章では、教父と伝承の問題が取り上げられる。伝承とは、もともとは父なる神に発し、使徒たちを通して教会のうちに伝えられたものである。エイレナイオスやバシレイオスらが生きた時代になると、グノーシス主義をはじめとする異端が現れたため、教会は正統信仰の確立を迫られていた。エイレナイオスは、教会のうちに保持されている伝承が唯一のものであり、その伝達は人間的な力によるものではないと主張した。すなわち、普遍性、古さ、同意性こそが伝承の特徴である。また聖書に基づく信仰は、個人の任意ではなく、伝承を伝える教会の中にあって初めて正しく理解される。つまり、伝承は、聖書と共に信仰の拠り所なのである。

第4章では、教父がどのように哲学と対峙したかが描かれる。ユスティノスは、キリスト教を哲学と見なし、自らを哲学者と呼んでいる。こうした考え方はユスティノスだけのものではなく、異教徒のガレノスもユダヤ人とキリスト教徒を哲学者と呼んでいる。事実、ユダヤ教からの自立と、断続的に襲ってくる迫害から身を守るために、キリスト教知識人が必要とされていた。ユスティノスはストア派のロゴス論をキリスト教的に解釈している。彼の先達者であるアレクサンドリアのフィロンによれば、理性によってギリシアの哲学者たちが習得したことは、啓示によってモーセが習得したこと類似性が認められるが、それは哲学者たちが聖書に負っているからであるという。ユスティノス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンスらは、この考え方を引き継いでいる。一方で、哲学に対して不信を抱く者たちもいた。その代表者がタティアノスやテルトゥリアヌスであるが、異端との論争において、彼らもまた哲学的な語彙を用いるのであった。

第5章では、教父と異端との関係が語られる。異端とは、キリスト教の教理において、洗礼を受けた人物によって保持された教説であり、それが教会によって退けられ、教会から排斥すると宣言された偽りの教説である。異端の思想は、その原典が残っていないことが多いため、論争相手だった教父たちの著作を通して知ることができる。異端とは、ギリシア語の「選択する」に由来し、ある教説や生き方を選択することである。言い換えれば、使徒たちの伝承と権威を否定し、自分の選択によって偽造の教えを奉じるということである。それゆえに異端はしばしば、ラディカルな理想主義や英雄的なリゴリズムを必要とし、その信徒は少数になる。またラディカルに反社会的であることも、社会に対してまったく無関心であることもある。そして終末論的ラディカリズムに向かう傾向がある。教会は、教会会議によってこれらの異端に対処した。

第6章では教父と神学である。神学という言葉は、ウァッローの「三種の神学」に端を発することからも分かるように、もともとは異教の神々について述べる合理的な説明のことを指していた。これをキリスト教に適用したのはオリゲネスであった。彼は父と子の神性に関する考察を神学的考察(theologia)と呼んだ。これをエウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが踏襲した。西方教会では、同様の用法は12世紀のアベラルドゥスまで待たなければならなかった(中世においては、聖なる教え(sacra doctrina)という言葉が支配的であった)。また教父たちの「神学」は、トマス・アクィナスの神学大全のような体系的な思想ではなく、実践的動機や外的状況、すなわち異郷や異端に対して信仰を擁護するためのものだった。体系化の動きは、オリゲネス『諸原理について』、ニュッサのグレゴリオス『大信仰教育講話』、エルサレムのキュリロス『信仰教育講話』などにわずかに見られるのみである。

第7章では司牧としての教父の姿が語られる。教父たちは司教として、典礼儀式の充実を図った。東方教会で行われていた詩篇や賛美歌の詠唱は、ミラノのアンブロシウスによって西方教会に取り入れられた。説教の名手としては、アウグスティヌス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが挙げられる。説教の中でも特に聖書講話は、オリゲネスやヨアンネス・クリュソストモスらが得意とした。

第8章では、信仰の人としての教父が論じられる。教父といえども人間であり、欠点がある。とりわけヒエロニュムスやアレクサンドリアのキュリロスらは性格的に問題があった。教父たちの信仰の発露として、隠遁生活や修道生活がある。これはアントニオスによって始められた習慣だが、迫害の世から逃れるための生活ではない。むしろ、砂漠で悪魔との戦いに赴くことだった。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、修道生活を共にしながら、オリゲネスの『フィロカリア』を編んだ。

本書には、教父からの引用が豊富だが、それぞれの教父の生涯などについてはほとんど触れられていない。そうした情報については、同じ著者の『父の肖像』(ドン・ボスコ社、2002年)がある。

父の肖像―古代教会の信仰の証し人父の肖像―古代教会の信仰の証し人
小高毅

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