- Azzan Yadin, Scripture as Logos: Rabbi Ishmael and the Origins of Midrash (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2004).
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本書は、イシュマエル学派の法的ミドラッシュとされている『メヒルタ・デ・ラビ・イシュマエル』と『民数記スィフレ』とを対象に、イシュマエル学派の解釈学を明らかにしたものである(一方で、『スィフラ』と『申命記スィフレ』とはアキバ学派に帰されている)。これらの帰属や二学派の存在などは、19世紀のDavid Hoffmanの見解(のちにJ.N. Epstein, Abraham J. Heshel)に依拠している。しかし著者は、それをポスト・モダン的な文学批評のもとで検証しようとしている点で、Daniel BoyarinやDavid Sternの系譜にも属している。
著者の根本的な主張は、イシュマエル学派の法的ミドラッシュにおいて、聖書は自らを解釈するのであり、そのとき読者による解釈は制限されている、というものである。著者によれば、これらのミドラッシュは人間の解釈者には「服従の解釈学(hermeneutic of submission)」を課し、必ずしも自由な解釈を読者に開いているわけではない。なぜなら聖書は自らを正しく解釈しているばかりか、正しく聖書を解釈することをも教えているからである。
こうした事を説明するために、著者は、イシュマエル学派では聖書は「トーラー」と「ハカトゥヴ」とに分けられていると主張する。前者は聖書の権威ある声で、かつシナイ山に由来するものあり、通常過去形で語る。一方で、後者は聖書の解釈であり、通常現在形で語る。イシュマエル学派の文書で「トーラー」と言うとき、それは自らの中に権威ある声を持っているために、人間の解釈を制限できるのである。しかし「ハカトゥヴ」と言うとき、それは編者であるラビ自身の声であり、あたかも自分たちの教えや解釈が聖書の節の中にすでに表れていたかのように表現するのである。それゆえに、「ハカトゥヴ」は誤った解釈を最初から想定しており、読者がそれを受け入れるのに警告しているとも言える。
イシュマエル学派というと、ラビ・イシュマエルの13の基準(ミドット)が有名であり、著者の分類ではこうした基準は「ハカトゥヴ」のモデルとして機能したわけだが、著者はこれは歴史的にラビ・イシュマエルに関係しているわけではないと述べる。イシュマエル学派の文書において、ミドットは聖書解釈の論理的な規則というよりも、聖書のふるまいの典型に言及しているものだと言える。
著者は、イシュマエル学派の「ハカトゥヴ」は、クムランを始めとする第二神殿時代のユダヤ教の伝統である「ロゴス」の概念に似ていると指摘する。「ロゴス」は、キリスト教教父の伝統では「教師としてのキリスト(クリストス・ディダスカロス)」として受容されている。クムランとの関係性が本当であれば、「ハカトゥヴ」を擁するイシュマエル学派は、パリサイ派=アキバ学派に反対する祭司の伝統に属していると言えるだろう。
イシュマエル学派はこれまで、聖書へのより逐語的なアプローチ(literal approach)をその特徴とすると考えられてきたが、実際には必ずしもアキバ学派よりも逐語的でないものも散見される。著者によれば、より正しくは、イシュマエル学派は聖書が自らをどのように解釈しているというテクストの文脈に、より繊細なのだという。
またこれまでは、イシュマエル学派の伝承があまり『ミシュナー』や『トセフタ』に言及されていないのは、それらが単純にアキバ学派に属するものであったからと説明されてきた。しかしながら、著者によれば、聖書そのものよりもラビ的な解釈、すなわち口伝律法の権威に基づく『ミシュナー』のスタイルは、イシュマエル学派のスタイルではないのだという。
著者の根本的な主張は、イシュマエル学派の法的ミドラッシュにおいて、聖書は自らを解釈するのであり、そのとき読者による解釈は制限されている、というものである。著者によれば、これらのミドラッシュは人間の解釈者には「服従の解釈学(hermeneutic of submission)」を課し、必ずしも自由な解釈を読者に開いているわけではない。なぜなら聖書は自らを正しく解釈しているばかりか、正しく聖書を解釈することをも教えているからである。
こうした事を説明するために、著者は、イシュマエル学派では聖書は「トーラー」と「ハカトゥヴ」とに分けられていると主張する。前者は聖書の権威ある声で、かつシナイ山に由来するものあり、通常過去形で語る。一方で、後者は聖書の解釈であり、通常現在形で語る。イシュマエル学派の文書で「トーラー」と言うとき、それは自らの中に権威ある声を持っているために、人間の解釈を制限できるのである。しかし「ハカトゥヴ」と言うとき、それは編者であるラビ自身の声であり、あたかも自分たちの教えや解釈が聖書の節の中にすでに表れていたかのように表現するのである。それゆえに、「ハカトゥヴ」は誤った解釈を最初から想定しており、読者がそれを受け入れるのに警告しているとも言える。
イシュマエル学派というと、ラビ・イシュマエルの13の基準(ミドット)が有名であり、著者の分類ではこうした基準は「ハカトゥヴ」のモデルとして機能したわけだが、著者はこれは歴史的にラビ・イシュマエルに関係しているわけではないと述べる。イシュマエル学派の文書において、ミドットは聖書解釈の論理的な規則というよりも、聖書のふるまいの典型に言及しているものだと言える。
著者は、イシュマエル学派の「ハカトゥヴ」は、クムランを始めとする第二神殿時代のユダヤ教の伝統である「ロゴス」の概念に似ていると指摘する。「ロゴス」は、キリスト教教父の伝統では「教師としてのキリスト(クリストス・ディダスカロス)」として受容されている。クムランとの関係性が本当であれば、「ハカトゥヴ」を擁するイシュマエル学派は、パリサイ派=アキバ学派に反対する祭司の伝統に属していると言えるだろう。
イシュマエル学派はこれまで、聖書へのより逐語的なアプローチ(literal approach)をその特徴とすると考えられてきたが、実際には必ずしもアキバ学派よりも逐語的でないものも散見される。著者によれば、より正しくは、イシュマエル学派は聖書が自らをどのように解釈しているというテクストの文脈に、より繊細なのだという。
またこれまでは、イシュマエル学派の伝承があまり『ミシュナー』や『トセフタ』に言及されていないのは、それらが単純にアキバ学派に属するものであったからと説明されてきた。しかしながら、著者によれば、聖書そのものよりもラビ的な解釈、すなわち口伝律法の権威に基づく『ミシュナー』のスタイルは、イシュマエル学派のスタイルではないのだという。
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