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2019年10月9日水曜日

「エノク派ユダヤ教」への批判 Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism'"

  • Anette Yoshiko Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism': 1 Enoch as Evidence for Intellectual History, Social Realities, and Literary Tradition," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 336-44.

本論文はGabriele Boccacciniの「エッセネ=エノク派仮説」に対する建設的な反論である。第二神殿時代のユダヤ教の多様性の核にあるは『エノク書』である、という理解が、エノク派文学、エッセネ派運動、クムラン共同体の関係性に関するBoccacciniの仮説の中心にある。とりわけ彼は「寝ずの番人の書」に見られる「堕天使が人間の罪と苦しみの原因である」という神話的な理解を重視する。この天使の堕落の神話は、伝統的な聖書の原罪理解からのラディカルな出発であり、ここに「エノク派ユダヤ教」が成立する。

エノク派ユダヤ教は前4~3世紀に祭司たちの中でできあがり、神殿の権威であるいわゆる「ツァドク派ユダヤ教」に相対した。Boccacciniによれば、以後数世紀に亘るユダヤ教の発展史は、このエノク派ユダヤ教とツァドク派ユダヤ教の抗争の物語といえるという。これはマージナルな黙示的思想の一派と一枚岩の主流派ユダヤ教の二項対立という従来の理解とは異なる。むしろエノク派ユダヤ教は祭司内部の反対運動に起因するのである。

方法論としてBoccacciniは、『エノク書』を中心に旧約偽典や死海文書などを渉猟した。これらを用いて悪の概念の発展と多様化を描いてみせたのである。正確には、(1)エノク派ユダヤ教は広くアピールされた運動であり、(2)この運動はエッセネ派に対する古代の言及を支持し、(3)クムラン共同体はこれらエッセネ派/エノク派の過激派であった。いわばエノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流派の現代的な名称であり、そこからラディカルでマージナルな子孫としてクムラン共同体が生まれたのである。

さらにBoccacciniは、過激派としてのクムラン共同体を生んだエノク派ユダヤ教の主流派は、そのままキリスト教のユダヤ的ルーツを構成することになり、同時にツァドク派ユダヤ教の主流派はそのままラビ・ユダヤ教を構成することになったと主張した。

論文著者は、こうしたBoccacciniのアプローチは、第二神殿時代のユダヤ教とラビ・ユダヤ教の関係や、新約聖書と初期キリスト教のユダヤ的背景の研究が大幅に進展する中で、それらのデータを総合的な理解へと統合することに成功していると評価する(一方で、古代のユダヤ教の主流派を理解するための資料としての『エノク書』など非正典テクストの重要性を低めることにつながってしまっていると批判してもいる)。

Boccacciniは『エノク書』に保存されるエノク的なテーマの統一性や思想的連続性を最初に指摘したわけではなく、彼の前にはSacchiやSchwartzらの研究が存在する。Boccacciniに独特なのは、彼の『エノク書』の利用が、思想史から社会史を描きうるという信念に基づいていることである。しかし、論文著者によれば、文学資料における思想的・テーマ的類似から社会史的な現実を再構成しようとする試みには、いくつもの方法論的な問題点があるという。

たとえば、Boccacciniは悪の起源の問題に注目したが、他の問題に注目したら別の結果が出るかもしれない。また「寝ずの番人の書」を検証の対象としたが、『エノク書』はひとつの声だけを持った文書とは到底いえない。悪の超自然的な原因や神義論をエノク派ユダヤ教とその他の諸ユダヤ教を区別するための基準に用いていることは、Boccacciniの議論に疑いを抱かせるものである。『エノク書』は、確かに一定の連続性や共通性を持ってはいるものの、そもそもはさまざまな資料のよせあつめであることを忘れてはならない。また文学的・テーマ的・思想的なつながりから社会史的な現実へと急いで飛び移ることにも注意しなければならない。

Boccacciniは、ツァドク派ユダヤ教から区別されるエノク派ユダヤ教を再構成することで、ラビ・ユダヤ教とキリスト教を共に等しく第二神殿時代のユダヤ教の後継として扱うためのモデルを提供した。しかし、これは第二神殿時代のユダヤ教をプロト・キリスト教的部分とプロト・ラビ的部分に分けることに他ならない。それゆえに、Boccaccini自身はユダヤ教とキリスト教を単一の知的システムに包摂しようとしていたにもかかわらず、実際のところ彼はそうした分岐がイエスの誕生以前からユダヤ教に存在していたことを示してしまっている。

Boccacciniの仮説が成功するか否かは歴史のみぞ知るところであろう。

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