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2011年6月22日水曜日

エウセビオス『教会史』3. 24. 1-3

エウセビオス『教会史』3. 24では、福音書の文体について述べられています。エウセビオスによれば、福音書の文体は確かに稚拙ではあるが、福音書記者は「神の霊」と「キリストの奇跡を行う力」だけをもって福音書を書いたのだといいます。E. NordenやA. Kamesarらによると、聖書が文体において稚拙だと批判されたとき、文体じゃなくて内容が素晴らしいんだと言い返すのは、教父がよく用いた反論方法だったようです(A. Kamesar, Jerome, Greek Scholarship, and the Hebrew Bible, Oxford 1993, p.46)。エウセビオスはまさにその典型だったといえるでしょう。

なお、エウセビオスの『教会史』は邦訳があります。
秦剛平訳『エウセビオス「教会史」』(上下)、講談社学術文庫、2010年。

底本はR. A. Whitacre, A Patristic Greek Readerに採録されたPG 20, col. 264-65。
以下の原文は、次のサイトから。

Hist. eccl. 3. 24. 1-3
Φέρε δέ, καὶ τοῦδε τοῦ ἀποστόλου τὰς ἀναντιρρήτους ἐπισημηνώμεθα γραφάς. καὶ δὴ τὸ κατ᾿ αὐτὸν εὐαγγέλιον ταῖς ὑπὸ τὸν οὐρανὸν διεγνωσμένον ἐκκλησίαις, πρῶτον ἀνωμολογήσθω· ὅτι γε μὴν εὐλόγως πρὸς τῶν ἀρχαίων ἐν τετάρτῃ μοίρᾳ τῶν ἄλλων τριῶν κατείλεκται, ταύτῃ ἂν γένοιτο δῆλον. οἱ θεσπέσιοι καὶ ὡς ἀληθῶς θεοπρεπεῖς, φημὶ δὲ τοῦ Χριστοῦ τοὺς ἀποστόλους, τὸν βίον ἄκρως κεκαθαρμένοι καὶ ἀρετῇ πάσῃ τὰς ψυχὰς κεκοσμημένοι, τὴν δὲ γλῶτταν ἰδιωτεύοντες, τῇ γε μὴν πρὸς τοῦ σωτῆρος αὐτοῖς δεδωρημένῃ θείᾳ καὶ παραδοξοποιῷ δυνάμει θαρσοῦντες, τὸ μὲν ἐν πειθοῖ καὶ τέχνῃ λόγων τὰ τοῦ διδασκάλου μαθήματα πρεσβεύειν οὔτε ᾔδεσαν οὔτε ἐνεχείρουν, τῇ δὲ τοῦ θείου πνεύματος τοῦ συνεργοῦντος αὐτοῖς ἀποδείξει καὶ τῇ δι᾿ αὐτῶν συντελουμένῃ θαυματουργῷ τοῦ Χριστοῦ δυνάμει μόνῃ χρώμενοι, τῆς τῶν οὐρανῶν βασιλείας τὴν γνῶσιν ἐπὶ πᾶσαν κατήγγελλον τὴν οἰκουμένην, σπουδῆς τῆς περὶ τὸ λογογραφεῖν μικρὰν ποιούμενοι φροντίδα.

さて、この使徒〔ヨハネ〕のまぎれもない書物をも示そう。彼による福音書は、天の下にある教会で認められたものとして*1、まず承認されるべきである。〔ヨハネ福音書が〕もっともなことに昔の人々によって*2他の3つの〔福音書〕の4番目に並べられていることは、次のことによって明らかとなるだろう。聖なる者たちや真に神にふさわしい者たち――私はキリストの使徒たち〔福音書記者〕のことを言っているわけだが――は、生において*3完全に浄化され、すべての徳によって魂において飾られているが、語りにおいては未熟であり、救い主から彼らに与えられた聖なる奇跡を行う力を信頼していたものの、小賢しい達者な言葉で先生〔イエス〕の教えを表現することなど知りもしなかったし、試みようともしなかった。むしろ、彼らと共に働く神の霊の証し、そして彼らを通して完成されるキリストの奇跡を行う力のみを用いて、天の国の知識を全世界に宣べ伝えていたのである。彼らは書物を書くということについての関心をあまり示さなかった。

*1 秦訳(p.181)では、「読まれている」としてるが、διαγιγνώσκωは「認める」の方がよいか。ἀναγιγνώσκωならば「読む」という意味になる。

*2 Whitacreの注では(p.111)、πρόςの意味はリデル=スコットのインターメディエイト版のp.684, C. III. 5の意味だと書いているが、これは対格での用法なので誤り。実際は属格なので、同頁、Aの用法を見なければならない。

*3 限定の対格の用法で訳した。つづく「魂において」、「語りにおいて」も同様。

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2011年6月10日金曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.4

クリュソストモスは、「これらのこと」と「あれらのこと」という言葉を用いながら、今自分たちがしている聖餐式に過度な装飾を施すことと、外に出て貧しい者に施しをすることとを対比し、前者を戒め、後者を促しています。途中の、「まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい」や、「遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい」という言葉は、古代のキリスト教が持っていた素朴ながら最も重要な精神を表しているように思われます。



50.4
私がこうしたことを言うのは、これらの献げものを準備するのを妨げようというのではなく、これらのものと共に、そしてこれらのものより前に、施しをなすことを〔あなたがたに〕要求しているのです。なぜなら、彼〔キリスト〕はこれらのもの〔献げもの〕も受け取ってくださいますが、あれらのもの〔施しをすること〕をより多く受け取ってくださるからです*1。というのも、こちらでは献げものをする人だけが助けられたわけですが、あちらでは受け取る人もまた助けられたからです*2。こちらでは行為は野心の基礎でもあるように見えますが、あちらではすべてのことは施しと人間愛なのです。食卓が彼のために黄金の杯で満ちていながら、彼自身は飢えで苦しんでいるようなとき、何が助けになるでしょうか。まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい。あなたは黄金の杯を作りながら、冷たい〔水の入った〕杯を与えないというのですか。それが何の助けになるでしょうか。あなたは金を散らした覆いを食卓に準備していますが、彼に必要な覆いを提供しないというのですか。ここから得るものは何でしょう。私に言ってみてください、もし誰かが必要な食糧に事欠いているのをあなたが見て、彼の飢えを解放することを怠り、食卓を銀で上塗りするだけならば、彼はあなたに感謝するでしょうか。むしろその者は怒りを覚えるのではないでしょうか。では〔次のような例は〕どうでしょう。ボロきれを身にまとい、寒さで凍えている者をあなたが見て、彼に衣服を与えるのを怠り、黄金の柱を準備し、かのお方〔イエス〕のために作ったんだと嘯いているならば、彼はあなたが〔自分を〕侮辱していると言うのではないでしょうか。傲慢さ、しかも最大の傲慢さだと考えるのではないでしょうか。遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい。あなたが彼を受け入れることを怠り、床や壁や柱頭を磨き、銀の鎖をランプで固定している一方で、彼が監獄に繋がれていることを見たくないのならば。私がこういうことを言うのは、これらのこと〔装飾〕を熱心にするのを妨げているのではなく、これらのこと〔装飾〕をあれらのこと〔施し〕と共に、むしろこれらのことをあれらのことより先にするのを妨げているのです*3。かつてこれらのことしないからといって、誰も非難された者はいませんが、あれらのことをしないことについては、ゲヘナや消えることのない火やダイモーンと共にある罰が恐れとなっていました。それゆえに、家〔教会〕を飾り立てるのをやめなさい。苦しんでいる兄弟を見過ごしてはなりません。なぜなら、家よりもその兄弟こそが、より正しい意味での神殿なのですから。

*1 「これらのこと」(tauta)と「あれらのこと」(ekeina)が対比されていますが、前者はクリュソストモスの信者たちが準備していた華美な奉献物のことで、後者は貧者へ施しをすることのことを指しています。

*2 entauthaとekeiとが対比されています。

*3 同様にtautaとekeinaが対比されています。

2011年6月2日木曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.3

『マタイ講話』50.3において、クリュソストモスは、「ここentautha」と「外exo」、「このことtouto」と「あのことekeino」という言葉を用いつつ、自分たちが行っている聖餐式と、外に出て行って貧者に施しをすることとを対比し、後者こそがキリスト自身の望んでいることだと述べます。信徒たちは、聖餐式で華美な装飾や豪華な器具を用いてキリストを崇めようとしますが、クリュソストモスはそれに批判的だったのでしょう。なおこの章は、途中を省略しています。




50.3
それゆえに、今でもかの食事があり、そこには彼(イエス)もまた横になっていると信じましょう*1。というのも、かの食事はこの食事と少しも違わないからです*2。またこの食事は人間がなすもので、かの食事は彼がなしているのではなく、この食事もかの食事も彼がなしているからです。それゆえに、司祭があなたに(パンを)運んでくるのを見たときはいつでも、司祭がそれをしていると考えるのではなく、キリストの手が広げられているのだと考えなさい。〔……〕
あなたはキリストの肉体を崇めたいのですか。(それなら)彼が裸であることを見落としてはなりません。ここでは絹の衣を着ている彼を崇め*3、外では凍えるような寒さと裸でいることによって殺された彼を見落とす、ということがあってはなりません。なぜなら彼は次のように言っています。《これは私の肉である》〔マタ26:26〕。そしてこの言葉によって、物事を確かなものにし*4、彼は言いました。《あなたがたは私が飢えているのを見たのに、食べさせなかった》〔マタ25:42〕、そして、《あなたがたが最も小さい者にしなかったのと同じように、あなたがたは私にもしなかったのだ》〔マタ25:45〕*5。というのも、このことは覆いではなく清い魂を必要としますが、かのことは大きな配慮を必要とするからです*6。それゆえに、知を愛すること、そしてキリストご自身が望むようにキリストを崇めることを学びましょう。なぜなら崇められる者にとって、彼自身が望む崇敬が最も甘美なのであって、我々が考える名誉が甘美なわけではないからです。たとえばペトロもまた、足を洗うことを妨げることで彼を崇めようと考えましたが、起こったことは名誉ではなく、まったく逆のことでした*7〔ヨハ13:1-11参照〕。あなたもまたこのように、彼自身が定めたこの崇敬で彼を崇めるようにしなさい。つまり貧者に財産を使いつくすのです*8〔マタ19:16-22参照〕。なぜなら、神が必要としているのは黄金の壺ではなく、黄金の魂だからです。

*1 「横になる」とは、ローマ時代の横臥して食事するスタイルのこと。

*2 「かの食事」(ekeino [to deipnon])とはイエスの最後の晩餐のことであり、「この食事(touto [to deipnon])とはクリュソストモスと聴衆が現在行っている聖餐式のこと。以下両者の同一性を説いていく。

*3 「絹の衣を着ている彼」とは、比喩的な意味なのか、それとも当時イエスの図像として絹の衣をまとった姿があったのか、興味深い記述です。

*4 pragmaは、deed, thing, occurrence, matterといった意味ですが、訳すのが難しいところです。

*5 マタ25:42の引用はNestle-Alandと異なっていますが、マタ25:45はまったく同じです。クリュソストモスの引用の仕方は、依然よくわかりません。

*6 ここでまたしてもtoutoとekeinoの比較が出てきますが、何を意味しているか判然としません。可能性としては、①前のところで出てきた「この食事」と「かの食事」を再び対比している、②直前のマタ25:45の引用中の、「私」と「最も小さい者たちの一人」とを対比している、③マタ25:45の引用と25:42の引用とを対比している、④「裸のイエス」と「絹の衣を着たイエス」を対比している、⑤現在自分たちがしている聖餐式と外に出て施しをすることを対比している、などが挙げられるでしょうか。このあとの文脈から考えると、⑤が適当かと思われます。

*7 ペトロの洗足の話はヨハ13:1-11にしか出てきません。『マタイ講話』ではありますが、例をマタイ以外から取っているわけですね。

*8 analiskoは、Lampeの辞書によると、destroyなど激しい意味のようです。つまりクリュソストモスはここで、財産を「使いつくす、使いつぶす」ということを述べているわけです。

2011年5月18日水曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.2 (2)

クリュソストモスは、一貫してマタイの8章と14章を比較しています。8章では、イエスは病を持った人に直接触れたり、言葉で指示を出さなければ癒すことができませんでしたが、14章では人々はイエスの服の裾に触れるだけで癒されています。クリュソストモスは、この転機を9章の「長血の女」の話に置いています。この長血の女がイエスの服の裾に触れるだけで癒され、それを皆に伝えたことにより、人々の信仰が深まったというのです。

そしてクリュソストモスはこのことを受けて、講話を聴いている聴衆に向けて、「私たちも服の裾に触れましょう」と呼びかけます。またおそらくこの講話は聖餐の際のものであったらしく、自分たちは「服の裾」どころか、「彼の体」たる聖餐のパンを持っているのだから、服の裾に触れた者たちが得た力より大きな力を得ることができると述べています。聖書の中にある類似の話の相違点から、説得力をもって自分の言いたいことを引き出し、それを礼拝のテーマにまで持っていく手腕は見事なものですね。

50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)



というのも、彼らは同様に、以前のように近づきはしなかったし、彼(イエス)を家へと引き入れたり、手の接触や言葉を通しての指示を求めたりもしませんでした〔マタ8:5; 9; 15; 16等参照〕。そうではなく、彼らはより高度に、またより知恵を愛するように*1、そして大きな信仰をもって、癒しを引き出そうとしたのです。なぜなら血を流している女が、皆が知恵を愛するように教えたからです〔マタ9:18-26参照〕。福音書記者が示しているところでは、彼(イエス)は長い時間を通じて(しばらく経ってから)その地方に入りました。いわく、《その地の人々は(彼を)認め、その地方にふれまわった。そして彼らは彼のもとに悪い状態にある者たちを連れてきた》〔マタ14:35〕。しかし同じように、この(長い)時間は信仰を消し去ってしまうことがなかっただけではなく、それをより大きなものとなし、盛んな状態に維持しました。それゆえに、私たちもまた、彼の服の裾に触れようではありませんか。それどころか、もし私たちが望むなら、全体としての彼を持ちましょう。というのも、今や彼の体も私たちの前に置かれているからです*2。服だけではなく、体もまたです。そして触れるだけではなく、食べて満たされるために*3。それゆえに、私たちはそれぞれ病を持ちつつも、信仰をもって近づきましょう。なぜなら、もし彼の服の裾に触れる者がそれほどの力を引き出すならば、彼を全体としてしっかり持つ者たちはいかばかりでしょうか。信仰をもって(パンに)近づくことは、前に置かれているもの(パン)をつかむことだけではなく、清い心をもって触れること、そしてキリストご自身に近づく状態にあることでもあるのです。もしあなたが声を聞くことができないとしても、それが何だというのでしょう。置かれているものを見ればいいのです。(そうすれば)むしろ声もまた聞くことができるでしょう。なぜなら、彼は福音書記者を通して叫んでいるのですから。

*1 philosophosは、G. W. H. Lampe (ed.), A Patristic Greek Lexicon, Oxford 1961-68によると、形容詞として1. loving wisdom, 2. wise, 3. Christian, 4. virtuous, 5. contemplative, 6.solitary, 7. monasticという意味がある。ここでは1の意味を取った。

*2 「彼の体」とは、聖餐におけるパンのこと。

*3 emphoreoについて、Lampeはp.458の2.b.でまさにこの個所を挙げて、"grace through union with God"の 意としている。少々訳しすぎのように思われるので、私訳では受動で「満たされる」とした。

2011年5月17日火曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.2 (1)

ブログを開設してみました。このブログでは、自分の勉強についてや、その合間にやっているギリシア語読書会についてメモを残していこうと思っています。

目下の研究対象がラテン教父であるため、ここのところずっとラテン語ばかり読んでいて、ギリシア語の勉強がおろそかになっていたので、ギリシア語読書会を始めました。

テキストは、肩慣らしのつもりで、
R. A. Whitacre, A Patristic Greek Reader, Peabody: Hendrickson, 2007.

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というギリシア教父の読本を使うことにしました。本書は、使徒教父からはじまって、ギリシア教父文学の最盛期(ユスティノス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスなど)を経て、ビザンツ期の新神学者シメオンに至るまで、広範な教父たちを取り上げ、それぞれおいしいところを読んでいくという作りになっています。ギリシア語の単語も初学者向けにかなり親切に意味を載せてくれているので、ストレスなく読むことができます。

読書会では、最初にヨアンネス・クリュソストモス『マタイ講話Homiliae in Matthaeum』50.2-4(pp.167-74)を読むことにしました。ギリシア語原典の底本はPatrologia Graeca 58 , col.507-9です。クリュソストモスについて日本語で読める文献としては、次のようなものがあります。
 
・武藤慎一『聖書解釈としての詩歌と修辞:シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス』、教文館、2004年。

・――「宗教生活から生活宗教へ:4世紀シリア・キリスト教の転換」、『宗教研究』77巻2揖(2003年)、295-316頁。

『マタイ講話』50.2では、マタ8:27と14:32ff.の、イエスが湖の上を歩いたことに関する記事が取り上げられています。前者ではイエスが海を叱りつけて鎮め、それを周囲の人がただ驚いていたのに対し、後者ではイエスは叱りつけることなしに海を鎮め、かつ周囲の人に「神の子」と認められています。クリュソストモスはこれを人々の信仰の深まりのゆえであると説明するのです。近代の聖書学では資料に分けておしまいになってしまうようなこうした類似の記事も、古代教父はひとつながりの物語として読み、矛盾や描写の違いを話の流れに沿って解決しているのがわかります。

50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)


《そして彼らが船に乗ると、そのとき風が止んだ*1》〔マタ14:32〕。これより前では、彼らは次のように言いました。《この人は何て人だ、風も海も彼に従うなんて》〔マタ8:27〕。一方、こちらではそうは言っていません。いわく、《船にいる者たちがやってきて、彼を拝して言った、「本当にあなたは神の子です」》〔マタ14:33〕。あなたは*2、彼(イエス)がいかにして少しずつすべての者たちをより高みへと導いていたかを見ているでしょうか。というのも、海の上を歩くことや、他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うことなどから〔14:28-30参照〕*3、信仰はついに大きなものとなっていたのです。先のところ(8:27)では彼は海を叱っていますが、今のところ(14:32)では叱っていません。それどころか、彼は自分の力を大いなるやり方で示したのです。それゆえに、彼らはこう言いさえしました。《本当にあなたは神の子です》。それでどうなったでしょうか。彼はこのことを言った者を叱ったでしょうか。むしろまったく逆に、彼は言われたことを確認し、大いなる権威をもって、近づいてきた者たちを癒したのです。先のときのようではありませんでした。いわく、《そして彼らは渡ってきて、ゲネサレトの地へやってきた。そしてその土地の人々は彼を認めて、その地方全体にふれまわった。彼らは彼のもとに、悪い状態の人々を皆つれてきた。彼らは彼の衣服の端に触れることを嘆願した。触れた者は誰もが癒された》〔マタ14:34-36〕。
〔つづく〕

*1 マタ14:32の引用
この引用は、Nestle-Alandの27版と比べると、かなり言い回しが異なっています。他の引用は原文と近いので、一概に記憶から引用していたとも言えません。しかし写字生が聖書原文に合わせて書き換えるという可能性もあるので、今のところクリュソストモスがどのように引用をしているのかはわかりません。

*2 「あなたは、彼(イエス)がいかにして…」
horaisは、2人称単数なので、この説教がだれか一人に向けて話されたものであることが示されています。実際には聴衆の前でしゃべっていても、あえて「あなた」とひとりひとりに語りかけているのかもしれません。

*3 「他の者にこうせよと命じることや、また危険な状態にある者を救うこと…」
ここでの内容は、明示されていませんが、マタ14:28-30のペトロに関することを述べていると思われます。つまり「他の者」(heteros)とはペトロのことなんですね。

4764272261聖書解釈としての詩歌と修辞―シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス
武藤 慎一
教文館 2004-02
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