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2017年4月4日火曜日

ミシュナーについて Strack and Stemberger, "The Mishnah"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 108-48.
Introduction to the Talmud and MidrashIntroduction to the Talmud and Midrash
Herman L. Strack Gunter Stemberger Markus Bockmuehl

Fortress Pr 1992-12
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「ミシュナー」とは、「学び」あるは口伝による「指導」を意味する語である。こうした一般的な文脈では、第一に、聖書テクストの解釈としてのミドラッシュ、第二に、聖書から独立して形成された法令としてのハラホット、そして第三に、非ハラハー的資料であるアガドットを指す。より具体的には、タナイームたちによって作られた宗教法を集めた文集で、ラビ・ユダ・ハナスィの手になるものを指す。教父たちがこれをデウテローシスと訳すのは、「第二のもの」という意味もあるからである。

『ミシュナー』の構成としては、6つのセデル(orders)でできており、それぞれのセデルにはマセヘット(tractates)に、それぞれのマセヘットはペレク(chapters)に、そしてそれぞれのペレクはハラホット(laws)あるいはミシュナヨットに分かれている。6つのセデルに分かれるという構造とそれぞれの名前は、『バビロニア・タルムード』「ケトゥボット」103bにも出てくるとおり、タルムード時代にはできあがっていたが、その順番はさまざまだった。マセヘットは全部で63あるが、3つの「バボット」が一つであり、また「マッコート」が「サンヘドリン」とくっついていたとすると、元来は60だったと考えられる。

あるマセヘットがどのセデルに割り当てられているかについては、通常であればそこで扱われているテーマの繋がりから理解することができるが、「ベラホット」、「ナズィール」、「エドゥヨット」、そして「アボット」に関しては説明がつきづらい。テーマ的なつながりでない場合には、法的ミドラッシュからの影響や、聖書の節の文脈から理解することもできる。『ミシュナー』の構成に、完全な一貫性や統一性を求めることは、その本質から見て期待できない。とはいえ、『ミシュナー』における資料編成の違いからは、そのもともとの資料や伝承の歴史などを分析することができる。

『ミシュナー』の起源については、987年に書かれたガオン・シェリラの手紙が参照される。これはカイロの会衆に対するガオンからのレスポンサである。ガオンによる『ミシュナー』の起源理解は、以下のようにまとめられる:
  • ラビ・ユダが『ミシュナー』を編纂した。
  • 「ウクツィン」や「エドゥヨット」のような彼以前に存在したマセヘットには、わずかな補足を施した。
  • ラビ・ユダの主たる資料はラビ・メイールのミシュナーである。
  • ラビ・メイールは師のラビ・アキバのミシュナーに基づいている。
  • ラビ・アキバは聖書時代である大シナゴーグに遡る伝承に基づいている。
  • これらの教えはすべて一致していたが、ヒレルとシャマイの時代になると異なる意見が出てきたので、文書としての『ミシュナー』が必要になった。
ユダヤ教の外部にも、これらの理解を支持する記述がある。エピファニオスによると、ユダヤ人たちの間には4つの伝承(デウテローシス)があった。第一に、モーセによるもの、第二に、ラビ・アキバによるもの、第三に、アッダあるいはユダによるもの、そして第四に、ハスモン人の息子たちによるもの、である。

『ミシュナー』と聖書解釈。口伝律法の起源に関しては、最初から口伝と成文とが共にあった(のであるから、法規はそもそも聖書由来ではない)という理解と、口伝は成文に由来する(のであるから、法規は聖書に由来するのだ)という理解とがある。N. Krochman, Z. Frankel, J. Bruell, D. Hoffmannらは、ガオン・シェリラと同様に、後者の見解を取った。J.Z. Lauterbachは、聖書に依拠するミドラッシュ的方法論に続いて、マカベア時代になると、聖書に依拠しないミシュナー的方法論が出てきたと考えた。一方で、Halevy, G. Aicher, S. Zeitlinらは、法規はそもそも聖書由来でないので、ミシュナー的方法論の方がミドラッシュ的方法論より先に出てきたと主張した。J.N. EpsteinやCh. Albeckらは中道を取り、ミシュナー的方法論とミドラッシュ的方法論とは共に存在したと主張した。

口伝律法と成文律法との歴史的な関係性を論ずることは、実際には不可能である。『ミシュナー』から分かることは、律法には三つのグループ――第一に、聖書に由来するもの、第二に、聖書から独立しているもの、そして第三に、もともと聖書から独立してできたが、のちにそれと結び合ったもの――があるということである。『ミシュナー』にはそもそも、ほとんど聖書からの引用は見られない。見られる場合も、後代の不可である可能性が高い。すなわち、概して『ミシュナー』は聖書から独立して法規を作り出してきた。

『ミシュナー』の予備的段階はどのようなものだったか。ガオン・シェリラは、ラビ・ユダ以前に「エドゥヨット」と「ウクツィン」があったことを報告している。J.N. Epsteinは、「シェカリーム」、「タミッド」、「ミドット」、「ヨマ」などは第二神殿時代から少しあとにかけて、すでに原型が存在したと主張している。これは、D. HoffmanやL. Ginzbergらによる、内容的・言語的な研究に従ったものである。これに対し、J. Neusnerは、後70年以前に『ミシュナー』が形成されていたという見解を否定的に捉えている。Ch. Albeckは、「エドゥヨット」に見られる、他のマセヘットにはない特殊性(素材の並べ方や伝承の仕方)から、「エドゥヨット」が最初期にできたものだと主張した。

ラビ・ユダ以前の段階におけるラビ・アキバの重要性は、皆が一致して認めている。Epsteinによると、ラビ・アキバが『ミシュナー』を作ったとまでは言えないが、多くの素材を提供したと認めている。同様に、その弟子であるラビ・メイールのミシュナーもまた、ラビ・ユダの『ミシュナー』の基礎になっている。こうしたことから、我々は『ミシュナー』の予備的段階に、比較的できあがった原型があったことを想像することができるが、それがそのまま伝わって今の『ミシュナー』になったとは言えない。

『ミシュナー』の編集は、伝統的にはラビ・ユダの手になるものとされているが、現在の『ミシュナー』には、その原型に多くの付加がつけられている。それは、ラビ・ユダの見解がほかの見解と比較されていたり、ラビ・ユダ以降の教師たちの見解が収められていることから分かる。これらは一般的に、『トセフタ』、法的ミドラッシュ、バライタ、そして『ミシュナー』に関するアモライームの義論などからの付加だと考えられる。いうなれば、ラビ・ユダは『ミシュナー』の編集過程における一人の主要な人物にすぎない。

『ミシュナー』のジャンル。『ミシュナー』中の誰のものか分からない見解は、しばしばラビ・ユダの見解とは異なることが多い。ラビ・ユダはなぜ自分と異なる見解を収録したのだろうか。E.Z. Melammedは、『ミシュナー』がラビ・ユダの学派の個人的な論集だからだと説明した。しかし、『ミシュナー』はそうした寄せ集めの文書なのだろうか。この問いに対して、三つの回答がある:

第一に、Ch. Albeckは、『ミシュナー』とは純粋に学問的な論集(academically oriented collection)であると主張した。すなわち、編集者は素材を集め、最も重要なものを明らかにし、そうすることで折衷的なテクストを作り上げたのである。その際に、彼はテクストを改変したり自分の見解を差し挟んだりはしなかった。編集者の目的は、実用的な法解釈を作ることではなく、目の前にある素材に手を加えずに提供することだった。『ミシュナー』にしばしば見られる反復表現、内部での矛盾などは、論集であるがゆえに自然なことである。しかし、単なる寄せ集めの論集など、当時必要とされたのかという疑問は残る。

第二に、A. Goldbergは、『ミシュナー』とは教育的な基準に基づいてデザインされた教則本(teaching manual)だと主張した。編集者の目的は、そこで扱われている法規が受け入れられたものであろうとなかろうと、学院のために公式な教則本を作ることだった。教則本として、編集者は自分の見解を入れたりはしなかった。教則本は法典のような厳格さが求められないので、『ミシュナー』にしばしば見られる論理的な瑕瑾も問題にならない。しかも教材として反復表現を用いることもごく自然である。

そして第三に、J.N. Epsteinは、『ミシュナー』とは現行の法規の代表的な判例を含む法典(legal canon)だと主張した。編集者としてのラビ・ユダは、既存の法規を改変し、付加を加え、削除し、検証し、修正したが、自分自身の見解よりは、大多数の見解を採用した。法典として、ラビ・ユダは自らの見解と異なっているものも含まなければならなかったのである。しかしながら、現代的な視点からは、『ミシュナー』は法典と言うにはあまりにも多くの矛盾を含んでいる。

これらのどれか一つを選ぶことはできないが、ラビ・ユダは『ミシュナー』を編纂することで、ユダヤ教を一つに結ぶことを目指していたと言えるだろう。

『ミシュナー』のテクスト。『ミシュナー』の出版は、公式な文書としてというよりも、いくつかのセクションを含む非公式のコピーが出回ったと考えるべきである。3世紀に『ミシュナー』のテクストがある程度固定されたあとでも、さまざまな付加が施された。文献学的には、パレスチナ型とバビロニア型があり、独立した『ミシュナー』写本はどれもパレスチナ型である。『パレスチナ・タルムード』の写本は『ミシュナー』抜きで伝えられ、『バビロニア・タルムード』は『ミシュナー』付きで伝えられてきた。

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