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2015年2月2日月曜日

カイロ・ゲニザからクムランへ Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran"

  • Lawrence H. Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran: The Influence of the Zadokide Fragments on the Study of the Qumran Scrolls," The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Text of the Desert of Judah, Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 451-66.
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本論文は、19世紀にカイロ・ゲニザから発見されていた『ダマスコ文書』(『ツァドク派断片』)が、さらにクムランからも発見されたことにより(以下クムラン断片)、『ダマスコ文書』理解がどのように進んだかを概観するものである。

文書の本質と文学的特徴。『ダマスコ文書』は、「訓戒(admonition)」と「法(laws)」の二つの部分に分かれている。クムラン断片は、第五洞窟、第六洞窟からそれぞれ1つずつ、そして第四洞窟から8つ、全部で10の写本が発見されている。J. Murphy O'ConnerやPhilip Daviesらによる「訓戒」部分の研究により、『ダマスコ文書』は複雑な文学的歴史を持った、合成された文書であることが明らかになった。さらに、J.T. Milikによる『ダマスコ文書』とクムラン断片との比較によると、第一に、S. Schechterによる『ダマスコ文書』の写本の頁振り分けは誤りであり、第二に、法部分は現存する『ダマスコ文書』より実際はもっと長く、第三に、『ダマスコ文書』のB写本はA写本を引き伸ばしたものであることが明らかになった。

文書の由来とセクトの正体。S. Schechterは、『ダマスコ文書』がツァドク派/サドカイ派の伝統と関わっていると考え、それゆえに、カライ派やドシテオス派によって書かれたものかもしれないと考えた。他にも、多くの研究者たちが『ダマスコ文書』の由来として、パリサイ派、初期キリスト者、熱心党、エビオン派キリスト者などを挙げてきた(エッセネ派説はほとんどない)。しかし、クムラン断片の発見により、パリサイ派説、キリスト者説、カライ派説は支持しがたいものとなった。またE. Sukenikによってエッセネ派説が主張され、現在でも支持されている。著者は同書をサドカイ派的伝統に連なるものと考えている。

法(ハラハー)的議論。L. GinzbergやCh. Rabinらは、『ダマスコ文書』に含まれる法的議論をラビ文学と比較することで、大きな成果を上げた(Ginzbergの唯一の間違いは、同書の由来をパリサイ派と考えたことである)。同様の試みは、フィロン、ヨセフス、カライ派、エチオピア語テクスト、外典、偽典などと対象を変えて続けられた。そして死海文書の発見後には、『ダマスコ文書』のクムラン断片、『神殿巻物』、『律法儀礼遵守論』などにも範囲が広げられた。その結果、第二神殿時代の法解釈は、ラビ文学に見られるそれに比較して、概してより厳格であると結論付けられた。ただし、この違いは時代の違いではなく、A. Geigerによると、第二神殿時代にすでに、ツァドク派・サドカイ派的な厳格路線とパリサイ派・ラビ的な甘め路線とが並存していたのだという。死海文書の発見はこの見解を裏付けている。

セクトの歴史の構築。訓戒部分には、クムラン共同体の歴史的背景を再構築する際にしばしば引き合いに出される、「390+20年」および「義の教師」に関する記述がある。研究者たちはこれらの記述を資料批判(source criticism)の方法で検証してきた。その代表例として挙げられるのは、「ダマスコ」の意味である。クムラン断片出土以前には、研究者たちはこれを文字通りシリアにあるダマスカスのことと捉えていた。しかし出土以降、これはクムランを指す暗号であるという意見が優勢になった。さらに、ダマスコをバビロニアのことと主張する者たちもおり、彼らは共同体の誕生をハスモン朝時代ではなくバビロニアに求めている。

ユダヤ教とキリスト教の歴史の再構築。ユダヤ教の歴史について、『ダマスコ文書』は第二神殿時代のユダヤ教のセクト主義やユダヤ法の歴史を明らかにしていた。キリスト教の歴史については、E. Wilson, J.M. Allegro, A. Dupont-Sommerらが取り組んだが、彼らの研究は死海文書の意味を引き出しすぎるものであったため、よりバランスの取れた研究が望まれている。

結論として、筆者は次のように述べている。『ダマスコ文書』の初期の研究はその祭司的な性格とセクト性を強調したが、クムラン断片出土後の研究の前半は祭司と法をあえて強調しないようになった。そしてすべてのテクストが出揃った現在は、祭司の法解釈やエッセネ派的イデオロギーが反映した書物として、『ダマスコ文書』を再文脈化しようとている。いずれにせよ、『ダマスコ文書』はクムラン断片を含む死海文書なしに語られることはなくなった。

2014年10月8日水曜日

カライ派の雅歌解釈 Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs"

  • Daniel Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs from Tenth-Century Jerusalem," in With Reverence for the World: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam, ed. Jane Dammen Mcauliffe, Barry D. Walfish and Joseph W. Goering (Oxford: Oxford University Press, 2003), 51-69.
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ユダヤの聖書解釈は、当初はミドラッシュやタルグムのように、個人名義でないある種のアンソロジーのかたちをとることが多かったが、9世紀のダーウード・イブン・マルワーン・アル=ムカッマスの登場で初めて個人名義かつシステマティックな構成を取るようになったとされている。彼はユダヤ人であったが、一時期キリスト教に改宗したことがあったため、キリスト教の聖書解釈の著作法を知っていたのだという。しかも興味深いことに、イラク人である彼はその注解をアラビア語で書いたという。10世紀にはサアディア・ガオンと、カライ派ヤークーブ・アル=キルキサーニーが個人名義の注解を著した。彼らの著作は当時のイスラームの合理主義の影響を色濃く受けていた。

雅歌については、サアディアが注解を残したことが知られているが、現存しない。現存するユダヤ人による最古の個人名義の雅歌注解は、共にカライ派のサルモン・ベン・イェロハムとヤフェット・ベン・アリによってユダヤ・アラビア語で書かれたものである(ヤフェットは聖書文書全体の注解を初めて書いたユダヤ人でもある)。これらは一節ごとの釈義と、聖書の逐語的なアラビア語訳から構成されている。彼らはなるべくひとつの「正しい」解釈を提供するようにしていた。複数の注解を挙げる場合も、どれが最も好ましいかを必ず述べていた。また彼らの解釈は、当時のユダヤ人たちの中でも、「ショシャニーム」と呼ばれる党派的な共同体の聖書解釈を反映しているとされている。彼らの特徴は3つあり、第一に、現在から見た終末への強い意識、第二に、孤立および象徴的解釈、第三に、イスラームおよびラビ・ユダヤ教に対する派閥意識である。

サルモンによれば、雅歌は3つの重要な要素を持っているという。第一に、律法を教えてくれるようにという神への嘆願、第二に、イスラエルの罪に対する自責の念と罰への嘆き、第三に、イスラエルがメシア的な救済を求めていることの表明である。こうした要素を、サルモンは雅歌を寓意的に解釈することで発見した。彼によれば、雅歌の冒頭から7:10までは人が創造主へ向けて語っており、そこから結末までは人がメシアに向けて語っている。またすべての女性の表現はイスラエルを示しているのだという。彼の注解が寓意的である一方で、彼の聖書のアラビア語訳はプシャットを旨とした字義的なものだった。

ヤフェットの注解はより学問的で、一貫しており、明晰であった。彼は雅歌を完全にエゾテリックな書物として寓意的に解釈した。彼にとって雅歌注解とは、救済史的な観点から、雅歌のメタファーを終末の日の祈りと出来事とに関係付けることだった。とはいえ、それには段階があり、まずヘブライ語をまったく逐語的にアラビア語訳した上で、字義通りの意味(al-zahir)を確認し、最後に寓意的な解釈(ta'wil)に取り掛かるのである。ときにラビ的解釈を援用することもあったが(1:9を出エジプトに重ね合わせるなど)、それは自身の終末論的解釈を補うときのみに限られた。彼の注解の中には、ラビ・ユダヤ教に対する論争の様子が数多く残されている。特に、暦、祭りの遵守、食餌規定などといったハラハーに関する事柄に関して激しい論争が繰り広げられた。

ラビたちの雅歌解釈は、自らの権威を称揚しつつ、神とイスラエルの民との歴史的な関係をテクストに読み込んでいくものだったが、カライ派の雅歌解釈は、このラビたちの解釈を部分的に受け入れつつも、それを終末論をはじめとする自らの共同体の歴史理解に当てはめていくものだった。彼らの聖書解釈はラビたちによっては無視されたが、中世に百花繚乱の様相を呈することになる、個人名義で注解を書いた聖書注解者たちのモデルになったのである。

2014年10月5日日曜日

聖書解釈者としてのイブン・エズラ Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate"

  • Nahum M. Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate," in Rabbi Abraham Ibn Ezra: Studies in the Writings of a Twelfth-Century Jewish Polymath, ed. Isadore Twersky and Jay M. Harris (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1993), 1-27.
Rabbi Abraham Ibn Ezra: Studies in the Writings of a Twelfth-Century Jewish Polymath (Harvard Judaic Texts and Studies)Rabbi Abraham Ibn Ezra: Studies in the Writings of a Twelfth-Century Jewish Polymath (Harvard Judaic Texts and Studies)
Isadore Twersky

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日本ではスピノザ『神学・政治論』の「ネタ元」として知られているアブラハム・イブン・エズラ(1092-1167)は、ミクラオット・グドロットではおそらくラッシーの次によく参照される聖書解釈者である。スペインにおいて、「星の巡り合わせの悪いとき」に生まれた彼は、パトロンの庇護を受けて生活していたため、次々と新しいスポンサーを求めて諸国を遍歴することになった。しかしそうした遍歴生活によって、さまざまな知識を得ることができたともいえる。またイスラーム・スペインからローマをはじめとするキリスト教諸国へ移動したために、彼はアラビア語ではなくヘブライ語で著作を残した。これが現在でも彼の著作がよく読まれている一つの要因といえる。

驚くべきことに、彼が著作活動を始めたのは50歳になったときだった。なぜ50歳から書き始めたのかは明らかではないが、その少し前に病気をしたから、あるいはローマで異端として告発されたので異端ではないことを証明したかったから、などさまざまな理由が考えられる。彼が残した注解は聖書すべてをカバーするものではない。現存するのは五書、イザヤ書、十二小預言書、詩篇、ヨブ記、メギロット(エステル記、コヘレト書、雅歌、哀歌、ルツ記)のみである。しかし彼は他にもヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、エレミヤ書、エゼキエル書、箴言、エズラ・ネヘミヤ記、そして歴代誌の注解も書いたと述べている。

彼は他の中世聖書注解者の誰よりも聖書解釈の歴史に対する知識が深かったといわれる。彼はトーラー注解の序文において、彼以前の聖書解釈を批判的に4つのタイプに分けている。
  1. ゲオニーム:世俗の科学の成果を過剰に含んでいる。
  2. 異端カライ派:伝承と口伝律法を否定し、恣意的な解釈をしている。
  3. キリスト者:聖書にエゾテリックな意味を求め、主観的・寓意的な解釈をしている。
  4. キリスト教世界におけるユダヤ聖書解釈:タルムード賢者たちの説教を字義的に取り、ヘブライ語文法を無視している。
彼自身の聖書解釈の方針は、文法的、文献学的、そして文脈に即した研究を基にした(grammatical analysis and intellectual acceptability, p. 6)、テクストのストレートな解釈であった。しかし同時に、トーラーにおけるハラハー上の問題に関しては、賢者たちの解釈の権威を認めていた。当時聖書写本の正確さでずば抜けていたスペインで育ったイブン・エズラは、所与の聖書本文をそのままで解釈することを目指した。そのため、彼は当時すでに写本に記されていた「写字生の修正(ティクネ・ソフェリーム)」を無視することもあった。また彼は、テクストの破損や改訂の必要性を仄めかすヨナ・イブン・ジャナハの「置き換え理論(substitution theory)」にも激しく反対した。むしろ彼は、聖書における語の用法、スタイル、レトリックに注目し、またヘブライ語の文法に依拠することで難局を乗り切ることを目指したのである。彼はヘブライ語や聖書のスタイルとして次のような特徴を指摘している。
  1. 省略(ellipsis):冗長な言葉を省略できる。
  2. 転置・逆転(transposition, invert):語順、節順、エピソード順が逆転する。
  3. 並置(juxtaposition):節と節との並置には何らかの関連した意味がある。
  4. キアスムス(Chiasmus):二つのものが言及されるとき、二度目には二つ目が先に言及される。
  5. 間隔を置いた要約的反復(resumptive repetition following an interval or interruption):ある出来事が言及されたあとに、しばらくして同じ出来事に言及することがある(出14:8,9; Ex 20:15, 18; Num 32:2, 5)。
イブン・エズラは、カライ派を批判していたことからも分かるとおり、口伝律法を重視する立場を取る。特に、聖書におけるハラハー的な箇所については、賢者たちの伝承に依拠している。一方で、ハラハー以外の箇所については賢者たちの解釈に遠慮なく批判を加えた。彼は、代々伝えられてきた伝承(カバラー)と、賢者たち自身がロジックや討論の実践によってテキストから導き出した事柄(セヴァラー)とを厳密に区別していたのである。そして場合によっては、ラビたちの見解をまったく否定することもすらあった。

さらに、彼の傾向として、タルムードより後代のラビ的解釈にはほとんど重きを置かなかった。彼はサアディア・ガオン、ヨナ・イブン・ジャナハ、サムエル・ベン・ホフニ、ラッシーをはじめ、40人ほどの先行者たちに言及しているが、そのほとんどを、莫迦にした枕詞をつけて紹介している。特にカライ派と、ヒッウィー・アル・バルヒ(9世紀)と某イツハキに対しては容赦がない。ただ彼がこうした聖書解釈者たちを単に捨て置かず、いちいち名を挙げて批判しているのは、裏返せば彼らの著作がイブン・エズラ当時よく読まれていたことの証左でもある。スピノザへとつながっていく彼の「本文批評」の意識は、こうした「文壇」事情に促されるかたちで形成されていったともいえる。

そうした「本文批評」の意識の中で、イブン・エズラは聖書中のアナクロニズムに注目した。申命記32章はモーセを三人称で描いているが、これは、五書の著者はモーセだとする当時の見解に矛盾する。彼はこの箇所を後代の付加だと見なしている。これは、なるべく聖書本文をそのままのかたちで意味が通るように解釈するという彼の基本方針に反するようにも思える。実際Sarnaも、「It is hard to establish the criterion by which Ibn Ezra differentiated acceptable from inadmissible anachronisms, p. 19」と述べている。彼はまた、モーシェ・ハコーヘン・イブン・チキティラ(1080年没)の影響下で、イザヤ書の複数著者説に言及している。

最後に、イブン・エズラの聖書解釈の特徴として、注解することで自身の哲学を開陳しているということが挙げられる。彼は晩年に哲学に特化した小品をものしてはいるが、彼の哲学はむしろ注解の中から導き出される。それによると、彼はソロモン・イブン・ガビロールに影響を受けた新プラトン主義者というのが定説になっている。