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2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。

2020年7月25日土曜日

ユダヤ・キリスト教論争における聖書 Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue"

  • A. Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 616-37.

アウグスティヌスは、キリスト教徒にとってのユダヤ人および旧約聖書の役割を論じている。彼によれば、本来であればイエス・キリストに書かれている旧約聖書をユダヤ人は正確に読めてはいないが、それをキリスト教徒にもたらすことがその役割なのだという。つまりキリスト教社会におけるユダヤ人は、キリスト教がユダヤ教を更迭し、取って代わること(supersession)を具体化する存在である。またキリストを拒絶したことの罰として離散の憂き目にあっている。このアウグスティヌスの「証言者論」の核には、ユダヤ人は自分たちの聖典を理解できず、また理解しようともしないという逆説がある。

キリスト教徒がユダヤ教と対決する文学ジャンルとして「対ユダヤ人(Adversus Iudeos)」テクストがある。初期の例としては、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、セビーリャのイシドルスなどがある。12世紀になると「反ユダヤ人論(anti-Jewish polemics)」もまた盛んに論じられた。そこでキリスト教徒とユダヤ人の対話のかたちで描かれる議論は、実際の議論を文字通りに再現しているのではないが、ある程度は現実を反映してもいる(たとえば1240年のパリ討論や1263年のバルセロナ討論、1413-14年のトルトーサ討論など)。

一方で、12世紀の終わりの南フランスやスペインでは、中世のヘブライ語で書かれた「反キリスト教論(anti-Christian disputations)」が登場する。その代表が『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』である。これはドイツで編纂された、当時の反キリスト教的聖書解釈や新約聖書への攻撃などを収録した辞書的集成である。

これらユダヤ・キリスト教論争において常に中心となったのは聖書テクストとその解釈の問題である。聖書を読む解釈原理が論じられ、また根本的な神学問題を論じる際の証明のために聖書が引かれた。たとえば、モーセの律法の妥当性、メシアの到来、選民の真のアイデンティティ、三位一体の教え、受肉、処女懐胎などといった問題が俎上に挙げられた。

ユダヤ人との論争において、キリスト教学者たちはヘブライ語を読む必要はなかった。彼らはヒエロニュムス読めばよかったのである。イザヤ書7:14の「処女」論争において、シャティヨンのウォルター、ギルベルトゥス・クリスピヌス、ペトルス・アルフォンスィ、ブールジュのウィリアムらは、ヘブライ語のアルマーという語の訳について、ヒエロニュムスの解釈に依拠している。ギルベルトゥスはヒエロニュムスに従って、エゼキエル書44:2-3の閉じられた門のイメージ用いてマリアの処女性を論じている。これに対しヨセフ・キムヒは、アルマーの語についてキリスト教徒に謝った情報を与えているとして、ヒエロニュムスを非難している。

ギルベルトゥス・クリスピヌスは、聖書の翻訳の問題も論じている。彼によると、七十人訳はヘブライ語聖書の忠実な訳であり、またラテン語ウルガータはギリシア語およびヘブライ語聖書と言葉についても意味についても一致していると主張し、ウルガータを擁護した。

キリスト預言として知られている聖書箇所についても激しい議論が行われた。イザ53:1-10の「苦難の僕」の解釈については1263年のバルセロナ討論がある。この討論においてユダヤ側の代表者はナフマニデスであり、この箇所はイエスではなくイスラエルの民のことを指しているのだと主張した。創49:10の「シロ」は1413-14年のトルトーサ討論の主題であった。創22:28のアブラハムの祝福についても、ギルベルトゥスや『イサゴーゲー』著者、ドゥーツのルペルトらがメシア的解釈を展開している。

聖書解釈の方法として、ユダヤ人が字義的(literal)解釈をするのに対し、キリスト教徒たちは比喩的(figurative)解釈を得意とした。キリスト教徒に言わせれば、キリスト到来以後では、モーセの律法を字義的に解釈すると矛盾を来たすので、比喩的に解釈するほかないというのである。偽ウィリアムは木の実のたとえを用いて、果肉としての新たな法を味わうためには外側の硬い殻としての古い法を砕かなくてはならないと述べる。これに対しヨセフ・キムヒは、トーラーの解釈は字義的だけに取るのも比喩的だけに取るのも間違っていると反論する。聖書は素朴な人々でも理解できるように、ときに比喩を用いて語るからである。このように、ユダヤ人は字義的解釈だけに限られるわけではなかったが、一方で、比喩的解釈は字義的解釈に取って代わることはないというタルムードの大原則のもとにもあった。

キリスト教徒の中には、ユダヤ人の助けを借りて、ラテン語旧約聖書の本文を直そうとする者もいた。シトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人からヘブライ語聖書およびタルグムの情報をフランス語で仕入れていた。ニコラス・マニアコリアやサン・ヴィクトルのアンドリューも同様の方法を採り、聖書の歴史的意味を知るために、ラシなどのユダヤ教注解を引用している。これは、なるべく正確な字義的・歴史解釈を下敷きにして、比喩的解釈の確固とした基礎を築こうとしたのである。

ボシャムのヘルベルトゥスはヒエロニュムスのヘブライ語詩篇に関する注解をものしたが、ヘブライ語の知識やラシ注解に基づき、ヒエロニュムスの訳文を修正しようとした。ただし、このユダヤ教聖書解釈への依拠は、ヘルベルトゥスがキリスト教的視点を失ったからというわけではない。あくまで字義的解釈を通じて霊的理解を深めるためであった。他にもラルフ・ニゲル、アレクサンデル・ネッカム、ロジャー・ベーコン、リラのニコラら、多くのクリスチャン・ヘブライストがいる。

イザヤ書6:3には「聖なるかな」と3回書かれていることから、三位一体の証明に用いられることがある。これはキリスト教においては聖餐の祈りといった典礼に用いられる箇所である。一方で、ユダヤ教においても同箇所は典礼の重要句である。イェフダ・ハレヴィは、同箇所がユダヤ典礼における最も聖なる箇所のひとつであるケドゥシャーと関係していることを論じている。このように、同じテクストを神を称えるために用いながらも、ユダヤ人とキリスト教徒は異なった視点を持っていた。

2019年1月10日木曜日

ヒエロニュムスの翻訳 Fürst, "Prinzipien und Praxis des Übersetzens"

  • Alfons Fürst, Hieronymus: Askese und Wissenschaft in der Spätantike (2nd ed.; Freiburg: Herder, 2016), 83-95.

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4世紀後半になると、ローマ帝国が政治的・文化的に東西に分裂をし始めたために、ギリシア文学のラテン語訳の需要が高まった。アウグスティヌスがヒエロニュムスにギリシア語の聖書解釈書の翻訳を依頼したのは、まさにそうした時代のことであった。ヒエロニュムスはこうした要求に応えていったのである。

ヒエロニュムスの最初の翻訳は、380年にコンスタンティノポリスで作成したエウセビオス『年代記』のラテン語訳である。これは聖書の名前リストとアブラハム以後の出来事について簡潔にコメントしたものである。ヒエロニュムスが訳さなかった第一部はアルメニア語訳のみで伝わる。このような「歴史モノ」には、ヒエロニュムスは基本的に関心を示さない。事実、予告された同時代史もついに書かれなかった。ではなぜこれを訳したのかというと、単に翻訳するのではなく、改訂しようとしたからである。エウセビオスはトロイア征服(前1182年)からコンスタンティヌス帝の治世(326年)までをカバーしたが、ヒエロニュムスはこれにローマ史と327-378年までの歴史を付け加え、西方キリスト教世界に初めての世界史の年代便覧を与えたのだった。この翻訳は、第一に、当時の三位一体論争におけるアレイオス主義への抵抗運動と、第二に、初期修道制のプロパガンダという側面も持っていた。

釈義や修道制に関する翻訳としては、380/81年のオリゲネス『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』、『イザヤ書説教』、383/83年の『雅歌説教』、387年のディデュモス『聖霊について』、392年のオリゲネス『ルカ福音書説教』、387-390/92年の『ヘブライ人福音書』(アラム語写本を370年代にナザレで入手し、ギリシア語とラテン語に訳した)、404年のパコミオスの『規則』と11書簡集などがある。他に、389/91年の『ヘブライ語の名前について』と『ヘブライ語の地名について』があるが、前者はギリシア語の名前辞典の翻訳であり、後者はエウセビオスの翻案である。『地名』の方は、ヒエロニュムス以前にも翻訳が存在したようである。

オリゲネス神学の正統信仰に関する議論の翻訳としては、ギリシア教父の書簡の翻訳がある。エピファニオス(書簡51、91)、テオフィロス(書簡87、89、92)、リダのディオニュシオス(テオフィロス宛書簡94)などである。テオフィロスがヨアンネス・クリュソストモスを誹謗する文書も訳したが、これは『イザヤの幻視に関するオリゲネス駁論』(書簡113参照)に断片が残るのみである。しかし、この分野で最も重要なのは、オリゲネス『諸原理について』の翻訳であろう。この翻訳は、現在ではヒエロニュムス自身の引用によって伝えられる(書簡124)。論文著者によれば、ヒエロニュムスの翻訳をギリシア語原典と比較すると、ごくわずかな誤りしか見られないという。彼の翻訳は正しいだけではなく、ラテン語としても魅力的なのである。そうした意味では、ヒエロニュムスは勤勉で有能な翻訳者であった。

聖書の翻訳は三段階に分かれている。第一段階では、ローマで福音書と詩篇を改訂した(383/84年)。この時期に、教皇ダマススは西方教会の典礼をラテン語化しようとしていたが、その一環でヒエロニュムスにこれらの文書の改訂を依頼したようである。第二段階では、ベツレヘムで『ヘクサプラ』版七十人訳を基礎として旧約聖書を改訂した。このときにはヨブ記、歴代誌、詩篇、ソロモンの文書(箴言、コヘレト書、雅歌)を改訂したことが知られているが、現存するのはヨブ記、雅歌、詩篇のみである。歴代誌とソロモンの書については序文が残るのみである。ヒエロニュムスは他の文書も改訂したが、彼の存命中にすでに大部分が失われたと報告している(アウグスティヌス宛書簡134.3)。

第三段階は直接ヘブライ語テクストからの翻訳である(390年以降)。順番は相対的にしか分からないが、論文著者によれば、サムエル記・列王記、預言書、ヨブ記、エズラ記、歴代誌、詩篇、五書、ヨシュア記、士師記、ルツ記、エステル記、ソロモンの書、トビト記・ユディト記であるという。ヒエロニュムスはトビト記をアラム語から訳したと述べるが、現存する2種類のギリシア語写本とも、クムランで発見されたアラム語断片とも異なる本文型である。ヒエロニュムスの力強いラテン語はヘブライ語やアラム語の訳として適している。個々の文書でスタイルは異なってはいるが、全体的に高度に文学的である。このラテン語訳を基にしたウルガータ聖書は、1546年にトリエント公会議で正典とされ、1979年に新ウルガータに替わるまで、カトリック教会の公用聖書であった。

翻訳論。ヒエロニュムスは翻訳に関する最初の論文を書いたが、その動機は実用的なものだった。彼はエピファニオスの手紙をあまりに意訳し、歪曲したとして非難を受けていた。それに対する反論である書簡57こそが、その論文に当たる。この中でヒエロニュムスは、一般的に翻訳は意味を重視すべきだが、語順も神秘である聖書は別だと述べている。

これだけを見ると翻訳者ヒエロニュムスは一貫した態度を取っているようだが、実際にはそうではなかった。そもそも書簡57も組織的な理論書ではなく、意訳の実例を豊富に挙げている。また別の書簡では、書簡57とは反対に、聖書以外の文書でも逐語訳が必要なときがあれば、聖書でも逐語訳が適さないときがあると述べている(『ダニエル書注解』3.9.24、書簡106.3, 29, 55, 57, 60)。聖書翻訳だけに限っても、エステル記は逐語的に、ユディト記は意味を重視し、ヨブ記はその両方に配慮したと述べている。また七十人訳に基づく改訂とヘブライ語テクストからの翻訳において、「我々の理解は一致している」(書簡112.19)と述べているが、これはヘブライ語とラテン語の言語構造からいってありえない。

文学スタイルに造詣の深いヒエロニュムスとしては、ヘブライ語聖書を正しく伝えるだけではなく、ラテン語としてエレガントに伝えたいと考えていた。それゆえに、書簡57で自ら設定したルールよりも、ラテン語のルールに拘ったのである。それと同時に、ヒエロニュムスの矛盾は、ルフィヌスとの論争における立場からも説明される。ルフィヌスの向こうを張るために、常にルフィヌスの立場とは逆を行かねばならなかったのである。そして結局は、翻訳者としての長い経験から、翻訳に一貫した理論など不可能だと悟ってもいたのだろう(「エウセビオス『年代記』序文」)。

2018年12月7日金曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#4 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 61-104.


第3章"Jerome, the Hebrew Text, and Hebrew Grammar"より。ヒエロニュムスは『書簡57』において聖書は逐語訳を必要としていると述べているが、実際にはウルガータの出エジプト記は意訳である。著者は、七十人訳の翻訳者がアレクサンドリアの文法学の伝統から影響を受けているように、ヒエロニュムスもまたラテン語文法の伝統から影響を受けていると指摘する。

ヒエロニュムスの翻訳の理論的な側面と彼の翻訳の実際の性質については、それぞれいくつもの研究がなされてきたが、Benjamin Kedar-KopfsteinとSebastian Weigertを除いて、彼の理論を実際の翻訳と比較してみる研究はなかった。一方で、Kedar-KopfsteinもWeigertも、ヒエロニュムスのラテン語に対する見解について考察しなかった。それをしたのがMichael Gravesだった(ただしGravesの研究は聖書翻訳そのものではなく『エレミヤ書注解』が対象である)。Gravesは、ヒエロニュムスがラテン語文法の伝統を自身のヘブライ語テクストの翻訳に適用したことを説得的に示した。

ギリシアの学術から発生したラテン語文法は、次の4つの部分から成っている(ウァッローの用語)。すなわち、「読解(lectio)」「説明(enarratio)」「校訂(emendatio)」「評価(iudicium)」である。「読解」は、表現、アクセント、綴りなどを含むテクストの正しい読みのこと。「説明」は比喩表現、普通でない語、複雑なシンタックスといった難しい箇所の説明のこと。この「説明」は聖書翻訳と深く関わっており、さらに4つの下位分野に分けられる:文法的・言語的説明、ヒストリアの解釈、スタイルや詩的言語への注意、パラフレーズや語源学による難しい語(glossae)の説明である。「校訂」は単なる本文批評だけではなく、文中の誤りの修正なども含む。「評価」は作品の評価であり、注解、書簡、序文などに出てくるが、翻訳テクスト上には出てこない。

「読解」は現代的に言えば「文法的変換(grammatical transformation)」や「文脈的操作(contextual manipulation)」などと言える。これは、たとえばヘブライ語とラテン語の数の違いを説明することや、文章を正しく区切ること(クインティリアヌスによれば、distinctio)などを含む。

「説明」は、難しかったり普通でない語(glossemata)の解釈である。起点テクストでは言語的に暗示的なところを、目標テクストでは明示的に変える。ときにid estやquod significat quid est hocなどといった定式で導かれるパラフレーズ的な形式を取ることもある。いわゆる形式文法はこのカテゴリーに入る。文中で繰り返し同じ語を用いないように「変化(variatio)」をつけるのは、ラテン語ではエレガントなこととされるが、そうすることによって、せっかく「説明」によって取り去られた不明瞭さがまた出てきてしまう。ヒエロニュムスのつける「変化」は意味に影響を与えない場合も与えてしまう場合もある。「説明」という観点によって、ある言語独特の数や時制の感覚を理解したり、ヘブライ語の文章表現を再現するために廻説的表現を用いたり、修辞的効果よりも科学的な細部に注目したり(「ヒストリア」)、ウェルギリウスのテクストとの間テクスト性を理解したり、さらにはヘブライ語の言葉遊びをラテン語で再現したりすることが可能になった。

「校訂」は本文批評だけでなく、起点テクストを意味論的あるいは統語論的に変化させることも含んでいる。これは解釈の伝統ではなく、テクストの伝承や言語的システムに依拠した改変である。中でも顕著なのは、聖書ヘブライ語に特徴的なパラタクシスをヒュポタクシスに変えることである。ヘブライ語のパラタクシス構造をラテン語で扱うには、3つの方法がある。第一に、文字通りに繋辞etでつなぐ。第二に、それぞれの繋辞を等位接続詞や従位接続詞に変えて、文章同士の関係を説明する。第三に、文章を繋辞でつなぐのではなく分詞に変えて従属させる。第三の方法は統語論的には最も大きな変化だが、実は意味論的にはヘブライ語に最も近い。というのも、本動詞に対する分詞の意味は、ヘブライ語の繋辞と同様に、あくまで文脈が決めるからである。ヒエロニュムスの訳文は、この第三(および第二)の方法が多用されている点で、他の翻訳と大きく異なっている。キケローのスタイルを学んだヒエロニュムスは、ラテン語的な雄弁を犠牲にすることはできなかったのである。彼はパラタクシスを維持する場合でも、小辞を入れて文章同士の関係性を明らかにしたし、維持をやめて思い切って関係節や独立奪格に変えることもあった。ヘブライ語で冗長だったり反復されている箇所を削除して単純化することもあった。

目標言語やその文化が翻訳に影響を及ぼすのはよくあることである。翻訳上の変化は、古代末期ラテン語文献学という、ヒエロニュムスのいた文脈を教えてくれる。「説明」は、ヘブライ語のみに依拠している、いくつものnon-obligatory shiftsを説明し、「読解」や「校訂」はobligatory shiftsの理解の枠組みを与えてくれる。フィロンが証言する七十人訳の訳者たちのように、ヒエロニュムスはヘブライ語テクストに直に向き合ったが、一方で『アリステアスの手紙』の物語のように、彼もまた他の諸訳との対話をしながら翻訳したのだった。

2018年12月6日木曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#3 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 43-60.


第2章"Translation Technique of the Vulgate"より。ヒエロニュムスのヘブライ語テクストのVorlageは、特に五書に関しては現在のマソラー本文と同じものだと見なされている(それゆえに、E. Tovによれば、ヘブライ語聖書の本文批評にはほとんど役に立たない)。ヒエロニュムスの翻訳技法を知るためには、テクストそのものと共に、翻訳に関する彼の発言(『書簡57』など)も参考にすることができる。

著者はヒエロニュムスの「意味(sensus)」という語の二段階の理解について分析している。ひとつのレベルは「文献学的な(philological)意味」で、語彙論、形態論、スタイルを統合したものである。これは語彙論と形態論だけに着目する「言葉(verbum)」と対になっている。もうひとつのレベルは「霊的な(spiritual)意味」で、宗教的な文脈における理解のことである。文献学的な意味が翻訳において優勢であるのに対し、霊的な意味は注解においてより中心的な役割を演じている。Pierre Jayによれば、注解においてヒエロニュムスは、聖書の字義的な意味を「ヘブライ的真理」に、そして霊的な意味を七十人訳に結び付けることもあれば、逆に霊的な意味をヘブライ語テクストに、そして字義的な意味を七十人訳に結びつけることもあるという。

『書簡57』には、聖書以外は意訳、聖書だけは逐語訳という原則を書いた箇所があるが、ヒエロニュムスは実際にはこれを無視しており、それどころか書簡の後半では矛盾したことすら述べている。これは、この書簡を書いたのが聖書翻訳の初期のことであり、実際に翻訳が進んでからはフレキシブルになったからと考えられる。またそもそもヒエロニュムス自身が意訳を好む性質だったために、最終的にはこの原則を覆したとも考えられる。

古典文学を引きながらヒエロニュムスが述べているところでは、たとえばキケローは、自身の言語の特徴(proprietas)を通じて、外国語の特徴を明らかにしようとして、省略したり付加したりしたという。というのも、原文のエレガントなスタイルを再現できていない翻訳は、原文の著者が文学的素養を欠いているという誤った印象を与えてしまうのである。それゆえに、「文献学的な意味」が必要なのである。

新約聖書には旧約聖書からの非逐語訳的な訳があるが、著者によると、このことはヒエロニュムスの「意味」の理解を複雑化すると共に明らかにもしているという。さまざまな具体例から、ヒエロニュムスは福音書記者やパウロは聖書を意訳したと結論付けた。それどころか、彼は逐語訳をしているアクィラを悪い例として出してもいるので、『書簡57』における原則(「聖書は逐語訳すべき」)と矛盾しているわけである。著者は、福音書記者らは翻訳において「霊的な意味」を得たのであり、アクィラは「文献学的な意味」への注意を引こうとしたのだと説明している。

このように、ヒエロニュムスの翻訳技法の分析とは彼の意訳へのコミットメントを認めるところから始まる。ウルガータの五書は、古ラテン語訳や、彼が訳した他の聖書文書よりは自由だとされている。ヘブライズムはヒエロニュムスの逐語訳者としてのテクニックを示すが、語源学的な訳し方や釈義的な訳し方、ギリシア語Vorlageの使用、またラテン語の語法に沿う傾向は、彼の自由訳者としてのテクニックを示す。

著者は、ヒエロニュムスの翻訳に三つの方法論があると考えている。第一に、ヘブライ語テクストのみを直接的に考慮している場合、第二に、七十人訳など他の伝承を参照している場合、そして第三に、釈義的な伝承に関わっている場合である。つまり、彼の翻訳がヘブライ語と一致しないときに、すぐにそれは釈義的な伝承の影響と考えるのではなく、まずは七十人訳、古ラテン語訳、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを用いた可能性を考慮するのである。そしてもしヘブライ語ともこれらの版とも大幅に異なる場合に、初めて釈義的伝承を考慮するのである。しかもそれは、ユダヤ的、古典文学的、そしてキリスト教的な伝承すべてを考慮する必要がある。

ウルガータの出エジプト記の翻訳技法は、逐語訳者を志向してはいるかもしれないが、それは「逐語訳」という言葉の定義に相当の自由度を認めた上でのことであった。翻訳はときにヘブライ的、ギリシア的、古典文学的、キリスト教ラテン的でもあり得た。これをBenjamin Kedar-Kopfsteinのように「一貫していない」とか「矛盾している」とか評価することもできよう。しかしながら、非一貫性とは翻訳の本質である。翻訳とは本性上、同一性や一貫性に基づいた評価に逆らうような文化間あるいは文化内の現象である。

2018年12月2日日曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#2 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 15-42.


第1章"Recentiores-Rabbinic Philology and Vg Exodus"より。ヒエロニュムスは、一方では、ヘブライ語に基づく翻訳のために七十人訳を拒絶したという異端的な批判から身を守る必要があり、他方では、ヘブライ語とユダヤ伝承を不十分にしか理解していないという批判に反論する必要があった。彼が『創世記におけるヘブライ語研究』と聖書の翻訳において用いた方法論は、Adam Kamesarによって「改訂者的・ラビ的文献学(recentiores-rabbinic philology)」と呼ばれている。すなわち、アクィラら改訂者たちとの緊密な関係性のもとでラビ的なソースを用いることで、ヘブライ語テクストの理解に至るという方法論である。

ヒエロニュムスのユダヤ伝承への通暁は明らかだが、2つの問題点がある。第一に、彼はいくらかラビ文献を見たことがあるかもしれないが、その量は個人的なそのときどきのものにすぎない。つまり、ある箇所について特定のラビ的解釈に触れただけであって、全体ではない。それゆえに、ヒエロニュムスが持っている伝承が、たとえば『メヒルタ』やタルグムにあったとしても、彼がそれらを直接読んだかどうかは分からないのである。むしろユダヤ人教師から聞いたものである可能性が高い。第二に、ユダヤ伝承そのものの年代決定が難しい。なぜなら現存するものは、後代になってからまとめられたからである。

ヒエロニュムスのヘブライ語能力は、昨今ではある程度認められている。そもそもこれを否定する言説は、Gustave BardyとPierre Nautinが嚆矢である。彼らは、ヒエロニュムスのユダヤ伝承はオリゲネス由来だと述べたのである。確かに、ヒエロニュムスはヘブライ語教育を受けたと主張しており、実際多くの言及があるが、そこには誤りがあったり、改訂者たちやオリゲネスからのコピーと思われるものがあったりする。しかしながら、著者は、わずかな誤りよりも多くの正しい言及がヒエロニュムスのヘブライ語能力を証明していると述べる。そもそもヘブライ語の誤りが直ちにヘブライ語能力の欠如を示すわけではない。高度な誤りはむしろヘブライ語への習熟を教えてくれる。また彼のヘブライ語能力の発露には、段階や機会の違いが反映することもある。

著者は何人かの研究をまとめている。Megan H. Williamsは、ヒエロニュムスが自己成型(self-fashioning)のために修道制と聖書釈義を統合したと主張する。また彼がユダヤ人やユダヤ教を否定的に描いている一方で、ユダヤ伝承を肯定的に用いているのはなぜか、という問いについて、Williamsは次のように答える。ユダヤ人を否定的に描くのは、修道者としての自己成型のプロセスによるものである。つまり、ヒエロニュムスのユダヤ人との交流を彼自身がどう説明しているかという論点と、実際のテクスト上の平行箇所は、別物として研究しなければならないのである。ヒエロニュムスのユダヤ伝承の利用と彼のユダヤ人描写は、ユダヤ文化とラテン世界のキリスト教との間に架け橋ではなく壁を作ってしまったと言える。彼の翻訳も、その作成過程ではキリスト教とユダヤ教の境界線を超えるものだったが、出来上がったものはその境界線の間の壁となってしまった。

Andrew Cainは、ヒエロニュムスの書簡から、彼の生涯に関する情報というよりは彼のアイデンティティの形成について検証した。Hillel Newmanは、ユダヤ人やユダヤ文学に関する数多くの言及を検証して、古代末期のユダヤ教の実像を明らかにした。Alfons Fürstによれば、こうした昨今のヒエロニュムス研究のトレンドは、「彼の著作が客観的なゴールのみならず、著者の自己成型的かつ散漫な解釈を知ることに資する」のだという。これは、ヒエロニュムスが『エレミヤ書注解』の中でローマ略奪にどのように反応したかを分析したPhilip Rousseauの研究などにも見られる傾向である。

著者が否定的に紹介しているのがJohn Cameronの"The Rabbinic Vulgate?"である。この中でCameronは、ヒエロニュムスが教会の旧約聖書をラビ聖書と取り替えようとしたという(G. Bardyからの影響を受けた)Dominique Barthélemyの主張を覆そうとしている。そのためにCameronは、そもそもヒエロニュムスの聖書はラビ聖書と呼ぶにはラビ的解釈に乏しいのだから、ラビ的釈義ではなく文献学的な翻訳なのだと主張する。これに対し著者は、ヒエロニュムスの聖書がラビ聖書だと言いたいわけではなく、Cameronがヘブライ語テクストに基づく翻訳とラビ聖書とを混同していることを問題視している。そもそもヒエロニュムスの「ヘブライ的真理に従った」という表現は、ラビ的・ユダヤ的翻訳を指すのではなく、ヘブライ語伝統からの文献学的正確さに基づく、キリスト教徒のための翻訳を指している(その注解もミドラッシュではない)。また釈義(exegesis)と文献学(philology)二項対立となるものではなく、古典の文法学で釈義は文献学の一部である。それゆえに、Cameronが「科学的」と呼ぶ文献学的方法論には釈義も入っていなければならないはずである。つまりCameronは、ヒエロニュムスが言ってもいないこと(「自分の聖書翻訳はラビ的釈義だ」)を否定しているだけといえる。それにCameronがこうした主張をするために詩篇に関するヒエロニュムスの見解しか考察していないのも問題である。なぜなら詩篇と翻訳と五書の翻訳ではユダヤ伝承を使う量が明らかに異なっているからである(それは詩篇を扱った『書簡106』と創世記を扱った『ヘブライ語研究』の比較からも見て取ることができる)。

これまでのウルガータ研究のアプローチは、Georg Grützmacherのそれに従ってきた。すなわち、ヘブライ語テクストから翻訳した理由を分類し、翻訳の特徴を定義し、ヒエロニュムスの能力を評価し、その方法論の原則を定義しようとするのである。Grützmacher自身はこうした検証の結果、ヒエロニュムスの翻訳には、アウグスティヌスのような創造的な精神は見られないと主張した。現在の研究ではウルガータの翻訳としての良し悪しを評価することはあまりないが、基本的にはGrützmacherの姿勢を踏襲している(H.F.D. Sparks, Dennis Brown, Eva Schulz-Flügel)。こうした研究は多くの場合わずかな一節や特定の文書の翻訳の分析に終始する(創世記についてFelix Reuschenbach、サムエル記についてVictor Apotowitzer、箴言についてCyrus Gordon、詩篇についてColette Estin, David Paul McCarthy, John Cameron、ルツ記についてRafael Jiménez Zamudio、ダニエル書についてRégis Courtray、エズラ記についてDieter Böhler、トビト記についてVincent T.M. Skemp)。

まだ誰も彼のソース、方法論、翻訳の性格を古代末期の文脈に位置づけて総合的に研究した者はいない。Benjamin Kedar-Kopfsteinは、ヒエロニュムスの翻訳からユダヤ伝承を見つけ出したが、そのうちのいくつかは説得的でない。特に、しばいばギリシア語訳がすでに持っているユダヤ伝承からの影響を見落としている。Neil Adkinは、ラテン古典文学からの影響を検証したが、これも最高の余地がある。著者はこれらの試みを否定しているわけではない。脱文脈化されたフレーズや孤立した問題ではなく、より全体論的かつ十全なアプローチが必要だと考えているのである。

そこで著者はウルガータの出エジプト記を対象とする。出エジプト記は物語、法、詩歌を含み、最も成熟した翻訳の一つでもあるからである。著者は問う。ウルガータの出エジプト記は「改訂者的・ラビ的文献学」を翻訳技法として用いているのだろうか。

2018年12月1日土曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#1 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 1-14.

最新のヒエロニュムス研究書の序章"Jerome and Translation Technique"より。これまでウルガータ聖書研究は、漠然と翻訳としての良し悪しや正確さ不正確さといったカテゴリーで語られてきたが、本書は出エジプト記という特定の書物に関してヒエロニュムスが取った翻訳的な動きを厳密に検証することで、翻訳のプロセスを論じるという新しいアプローチを取っている。

さらに詳しく言えば、本書は第一に、ヒエロニュムスが翻訳に際し「改訂者的・ラビ的文献学(recentiores-rabbinic philology)」を取っていること、そして第二に、彼の翻訳の方法論と結果は古代末期の文脈を反映していることを明らかにする。「改訂者的・ラビ的文献学」とはAdam Kamesarの用語で、ヒエロニュムスがラビ的伝統と対話しつつ、古典文学やアンティオキア学派の文法理論(文献学)を、七十人訳、古ラテン語訳や諸改訂(アクィラ、シュンマコス、テオドティオン)の分析に結合させたことを指す。

著者はまず七十人訳の翻訳技法の研究をまとめる。この分野は、第一に、自由訳と逐語訳を区別する基準を明らかにしており、第二に、翻訳が依拠しているのは逐語的技法か、ヘブライ語の原型(Vorlage)か、それとも釈義的翻訳かを明らかにしており、そして第三に、翻訳学と七十人訳研究の新しい相乗効果を刺激している。

逐語訳と自由訳。ここでは、James Barr、Emanuel Tov、そしていわゆるフィンランド学派(Ilmari Soisalon-Soininen, Raija Sollamo, Anneli Aejmelaeusら)が取り上げられている。Barrは、逐語訳はテクニックの問題だが自由訳は実態的な方法論とはなり得ないと考え、専ら逐語訳について議論した。Tovも逐語訳の基準を統計学的に評価しようとした。Tovとフィンランド学派が逐語訳に注目したのは、本文批評的な理由である。つまり、逐語的な翻訳者が自由訳をしているのは実際には別のVorlageの可能性が高いのである。フィンランド学派はさらに、量的な分析と質的な分析を統合しようとした。

翻訳技法と釈義。W. Edward Glennyは、MTとLXXとの違いを説明するためにあらゆる可能性(違うVorlage、誤読、翻訳技法、転写の歴史、釈義など)を捨てないマキシマリストの立場を取った。そして、七十人訳における翻訳技法に対して、テクスト的アプローチと釈義的アプローチがあるとした。テクスト的アプローチは、翻訳者が原典に忠実であり、相違がVorlageの問題であることを前提とする。一方で釈義的アプローチは、翻訳者が聖書の読みや解釈の知識を翻訳に持ち込み、ミドラッシュ的な釈義技法をテクストに加えることを前提とする。この2つのアプローチを用いることで、Glennyは逐語訳のみならず自由訳の度合いについても扱えるようになった。統計学的な逐語訳の分析だけでは、翻訳のダイナミズムを見失うのである。

さらにGlennyは、翻訳技法の研究のために次の5つの点に注意を喚起している。翻訳技法は、第一に、翻訳技法は評価的ではなく記述であり、第二に、共時的なのものとして翻訳者と読者の文脈が考慮されるべきであり、第三に、パロール(個人的な発話行為)から検証されるべきであり、第四に、起点言語と目標言語の構造の比較分析を伴うものであるべきであり、そして第五に、起点言語を出発点とするべきである。

七十人訳の翻訳技法と翻訳学。Gideon Touryは、テクスト生成とテクスト受容の区別に基づいた記述的な翻訳研究を求めた。彼はさらに、翻訳の文化的な位置としての「機能」に注目した。これは、テクスト生成時よりも受容時のことの方が知られている七十人訳研究には適切なやり方である。七十人訳の場合、翻訳技法の再構成は不確かなものにならざるを得ない。それゆえに、より翻訳の一般的な特徴に関する理論的なモデルは、翻訳プロセスの解明に役立つ。Raija Sollamoは、Touryの理論に依拠しつつ、七十人訳によって、起点言語による目標言語への影響(干渉)の普遍的規範、暗示の明示(補足)、非定型の語彙パターニング、目標言語の過小評価などが明らかになると述べる。こうした規範は逐語訳にも自由訳にも適用できる。

Theo A.W. van der Louwは、翻訳に関する要素をいかに説明するかを論じている。彼のアプローチは、翻訳者の性格や文脈、翻訳者と翻訳の社会的・歴史的・文化的な文脈全般を分析している。変化を分類することは古代の聖書翻訳の分析にとって重要である。そしてとりわけVan der Louwの方法論が特徴的なのは、マソラー本文と比較する前に、七十人訳を独立したテクストとしてまず分析したことである。そうすることで目標言語の視点からギリシア語を理解することができる。その上で、マソラー本文との比較によって得られた変化をカテゴリー化し、本文批評的な発見を吟味し、一番最後に翻訳上の釈義的・イデオロギー的な要素を分析する。

以上のように七十人訳の翻訳技法の研究は、ウルガータの研究のためにも、Vorlageの問題とヒエロニュムスの起点テクストへの関わりの問題を考えることが重要だと知らせてくれる。しかしながら、七十人訳とウルガータの両者には決定的な違いもある。すなわち、七十人訳の翻訳者は無名であるために、彼らの活動時期、来歴、背景、性格、翻訳技法を知るために翻訳そのものしかデータがないが、我々はヒエロニュムスの教育、歴史的文脈、神学的興味、古典学からの影響、ユダヤ人情報提供者、解釈技法への通暁などを知っている。彼のVorlageとして、ヘブライ語テクスト、七十人訳、古ラテン語訳、「校訂者」などさまざまなものがあったことも知っている。そのうえ、彼は自身の翻訳技法について著作の中で言及すらしている。七十人訳の翻訳プロセスにおいては、文法、辞書、コンコルダンス、注解もなかったが、ヒエロニュムスは文献学の訓練、オリゲネスの『ヘクサプラ』、ラビ、先達者の注解、先行する諸訳を持っていた。

ここから、ウルガータは一般的には翻訳技法を分析するための、また各論的には釈義的翻訳を分析するための豊かなリソースとなり得ることが分かる。

2016年9月28日水曜日

ラテン語聖書 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 505-26.
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本論文は、後600年までのラテン語聖書の成立史を扱っている。著者は成立史を三段階に分けている:第一に、古ラテン語訳、第二に、ヒエロニュムスの改訂と翻訳、そして第三に、古ラテン語訳とヒエロニュムスの翻訳との合流である。

古ラテン語訳。古ラテン語訳は後2世紀のアフリカで作られた。イタリアやローマでなくアフリカで作られたことについては、3世紀以降の北アフリカで、テルトゥリアヌスやキュプリアヌスなどの、ラテン語で書かれたキリスト教文学が興隆したことから理解できる。ローマ教会では4世紀になるまでギリシア語聖書が使われていた。

古ラテン語訳の情報源としては、以下の六つがある:
  1. 教父文学や中世文学での引用
  2. 古ラテン語訳が使われていた頃の聖書写本の断片(800年頃まで)
  3. カロリング朝の聖書(ウルガータ聖書内に含まれる古ラテン語訳の文書)
  4. ヒエロニュムスの翻訳に欠けている七十人訳由来の付加部分
  5. さまざまな典礼式文に含まれる聖書箇所
  6. カピトゥーラとティトゥリの順序
教父時代に、古ラテン語訳を始めとするラテン語聖書が独立した権威を持つことはなかった。ラテン世界にあっても、七十人訳こそが霊感を受けた聖書だったのである。

古ラテン語訳の巻物は見つかっていない。教父の証言やわずかな写本からは、当時の聖書は10巻以上のコーデックス型の書物の形式で読まれていたことが分かっている。これが4世紀の前半になると、次第に一つの大きなコーデックスにすべての文書が写されるようになった。カッシオドルスはこうした大きな写本を「パンデクト」と呼んだ。こうしたパンデクトにまとめられた諸文書は、カピトゥーラと呼ばれる区分に分けられ、番号とタイトルがふられていた。また一行は、ヘクサメーターの一行に当たる16音節ほどで書かれることが多かった。

福音書の順序は古ラテン語訳の時代では確定していなかった。北部イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコの順、偽テオフィロスによる5世紀の福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカの順、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカの順、アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスではマタ・ルカ・マコ・ヨハの順、テルトゥリアヌスやペタウのウィクトリヌスではヨハ・マタ・ルカ・マコの順になっている。

ヒエロニュムス。ヒエロニュムスは序文の中で翻訳理論を語り、また彼の姿勢を批判する者たちを逆批判した。彼の旧約聖書の翻訳は、著作に見られるようなキケロー風の散文と古ラテン語訳の逐語訳との中間を行くようなスタイルだった。

ヒエロニュムスの正典観は、ヘブライ語聖書に伝わっていない文書は含めないというものだった。ただし、例外としてエステル記とダニエル書の付加部分と、トビト記およびユディト記の翻訳をしている。

新約聖書に関して、ヒエロニュムスはすべての文書を翻訳したようなことを述べてはいるが、確実に彼が扱ったと言えるのは福音書のみである。福音書以外の文書に対する序文を書いておらず、また翻訳スタイルも異なっている。パウロ書簡の改訂とその序文を書いた人物として可能性があるのは、シリア人ルフィヌスという人物である。彼はローマにおけるペラギウス派の一員であり、かつてはヒエロニュムスの弟子のひとりであった。

ヒエロニュムスは、自身の翻訳を一冊にまとめたパンデクトを持つことはなかった。彼の翻訳は個別のコーデックス形式で回覧された。

古ラテン語訳とヒエロニュムスの翻訳との合流。極めて明らかな例は、エステル記、サムエル記・列王記、そして箴言である。ヘブライ語から翻訳されたエステル記には、ヒエロニュムス自身によってギリシア語テクストの加筆部分が付加され、オベロス記号がしるされた。5世紀になると、イタリアでサムエル記と列王記の古ラテン語訳がヒエロニュムスの訳に付け加えられた。この版はスペインやガリアで広く読まれた。箴言に関しては、ペレグリヌスという不詳の人物が、『ヘクサプラ』七十人訳に基づくヒエロニュムスの改訂版に、古ラテン語訳を付け加えた。

典礼で用いられることの多い詩篇と雅歌に関しては、ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳ではなく、『ヘクサプラ』七十人訳に基づく改訂版が用いられた。

関連記事

2011年10月26日水曜日

ラテン語訳聖書

  • H. F. D. Sparks, "The Latin Bible," in The Bible in Its Ancient and English Versions, ed. H. W. Robinson (Oxford: Clarendon, 1940), 100-27.

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このSparksという人は、どうやら旧約聖書外典の英訳のエディターとして知られている聖書学者のようで(The Apocryphal Old Testament, Oxford 1984)、ドイツ聖書協会版のウルガータ(Biblia Sacra iuxta Vulgatam Versionem)の編集協力者にも名前を連ねています。

この論文では、ラテン語訳聖書の歴史を、(1)ヒエロニュムス以前、(2)ヒエロニュムスのラテン語訳、(3)ヒエロニュムス以後に分けて概観し、(4)最後に本文批評の分野などでラテン語訳聖書をいかに活用するかについて書かれています。正直なところ、(2)にはさほど目新しいことは書いてなかったのですが、(1)と(3)をおもしろく読みました。(1)では古ラテン語訳が扱われており、2世紀のキリスト教徒による訳業であること、原テクストの複数説と単数説があることなどが説明されます。そしてこの翻訳がなされた場所として、シリア、アフリカ、ローマを挙げたうえで、Sparksはアフリカ説を取っています。また古ラテン語訳はあくまで「翻訳」なので権威がなく、改訂も躊躇なくされていたというのは大事な指摘だと思います。

(3)では古代末期から中世にかけてウルガータがどのように受容されていったか、そしてそのとき古ラテン語訳はどのように扱われていたかといったことが説明されます。中でも少し調べなければならないのは、ウルガータを最初に校訂したカッシオドルスの役割です。カトリックの聖書の現在の姿を作ったのはこの人といっても過言ではないほどの人物のようですが、いかんせん私に知識がありませんので、いずれ調べてみたいと思います。カッシオドルスは、北イタリア版および南イタリア版の二つの写本群が一致した読みのみをテクストに採用するなど、かなりの文献学的な客観性を持った人物であったようです。

(4)では、Sparksは、ウルガータが底本としたヘブライ語テクストは、結局七十人訳よりも新しいものなので、原テクスト復元のツールとしては七十人訳の方が上であること、それゆえにウルガータの役割は、シリア語訳やタルグムなどと同様に、マソラーと七十人訳とが一致しないところのチェック用にしかならないことなどを述べています。とはいえ彼は、古ラテン語訳が七十人訳および新約聖書の本文批評に役立つことを高く評価しており、いくつか具体例を挙げて説明しています。こうしてみると、やはりウルガータは本文批評に適さないというのが大方の見解であるようです。先日読んだKedar-Kopfsteinなどは、こうした通説に対して反論しようとしていたのだと思われます。

ちなみにSparksの論文で他に読んだことがあるものとしては、次の一作があります。少し古いですが、必要な情報がバランスよく含まれた論文だと思います。

  • H. F. D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible: From the Beginnings to Jerome, vol. 1, ed. P. R. Ackroyd and C. F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 510-41.

The Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to JeromeThe Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to Jerome
P. R. Ackroyd

Cambridge University Press 1975-10-31
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