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2016年5月12日木曜日

「誰か渇く者がいたら」 Daise, "The Literary Texture of John 7:37b-38a" 

  • Michael A. Daise, "If Anyone Thirsts, Let That One Come to Me and Drink: The Literary Texture of John 7:37b-38a," Journal of Biblical Literature 122, 4 (2003): 687-99.

コンマやピリオドを取ったヨハネ7:37-38の原文は以下のようになる:
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ καθὼς εἶπεν ἡ γραφή ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος
この箇所には、伝統的に3つの問題があると考えられてきた:第一に、イエスの呼びかけの言葉はどこまでか。第二に、「彼の腹から」の「彼」とは誰か。そして第三に、「彼の腹から命の水の川が流れる」はどこからの引用なのか。これまで、これらの疑問に過不足なく答えた研究はないという。

これらの問題をさらに複雑にするのが、「聖書が言ったように(καθὼς εἶπεν ἡ γραφή)」(7:38b)という一節である。上の文章のちょうど真ん中に放り込まれているこの言葉が、それより前にかかるのか、それともそれよりあとにかかるのかを決めることは難しい。通常は、上の第三の問題点が前提としているように、あと(7:38c)にかけて、「聖書が言ったように、『彼の腹から命の水の川が流れる』」と読む者が多い。ところが、研究史の中では、これを前にかける読み方も試みられてきた。

そのかけ方には二通りあり、第一に、「『私を信じる者は』と聖書が言ったように」と7:38aのみにかけるもの(エルサレムのキュリロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヒエロニュムス、モプスエスティアのテオドロス、メルヴのイショダード、オフリドのテオフィラクトス、John Lightfoot, Günter Reim, Jan C.M. Engelen等)と、第二に、37節を含むより広い範囲の前の節にかけて、「『もし誰か渇く者がいたら、その者を私のもとへ来させ、私を信じる者に飲ませよ』と聖書が言ったように」と読むもの(ベザ写本、Crispinus Smits, Alcides Pinto da Silva等)である。

まず、二つ目のベザ写本の読みは、καθὼς εἶπεν ἡ γραφή ・ ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίαςという中黒をピリオドと見なすことで導き出されるのだが、論文著者は他の用法との比較からこの読みを採用しない。それゆえに、ベザ写本は7:38bを前にかける読みの証言としては使えない。

一つ目の読みの例として、論文著者はHugo Rahnerによるヒエロニュムスの解釈を検証している。Rahnerによれば、ヒエロニュムスは基本的に7:38bを後ろにかける、コンセンサスに従った読みをどこでも採用しているが、『ゼカリア書注解』3.14.8においてのみ、「『私を信じる者は』と聖書が言ったように」と前にかけて読んでいるのだという。なぜなら、Rahnerによれば、ヒエロニュムスはここで「聖書が言ったように」を、「聖書の声に含まれていることに従って(iuxta id quod scripturarum vocibus continetur)」とパラフレーズすることで、ある特定の箇所ではなく、聖書全般を指しているからである。つまり、この箇所は「聖書が言ったとおりに私を信じる者は」という意味で取ることができるようになるのである。しかしながら、論文著者はヒエロニュムスによるiuxta id quodという表現の用法を検証した結果、この表現が聖書全般を指す用例はなく、むしろ常に特定の聖書箇所を引用する用法ばかりであると述べている。それゆえに、やはりこのヒエロニュムスの例も、7:38bを前にかける読みの証言として使うことはできないのである。

論文著者はここから現代の解釈者による、7:38bを前にかける読みの例として、Günter ReimとAlcides Pinto da Silvaを挙げている。前者はイザ28:16を、後者はイザ55:1-3がこのときの引用箇所だと考えている。論文著者は双方の見解の不十分な点を指摘しつつも、いくつかの理由からReimの説の方が説得的であると考えた。そしてReimが同定したイザ53:1(「渇きを覚える者は皆、水のところへ進むがよい(πορεύεσθε)」)とヨハネとのつながりをさらに確定するために、論文著者は次のように主張する:まず、ὁ πιστεύων εἰς ἐμέはどこか特定の箇所からの引用としてではなく、ヨハネ福音書に特有の表現として見なすべきだと述べる。そしてヨハ7:33-36にある「ユダヤ人は来ることができない」というイエスの正反対の台詞に、このὁ πιστεύων εἰς ἐμέという条件をつけることで、イザ55:1の「進むがよい(πορεύεσθε)」を言い換える「来るがよい(ἐρχέσθω)」という言葉に繋がるのである。言い換えれば、この箇所はイザ55:1という引用の神学的な修飾であるのみならず、ヨハネ7章のより広い文脈と繋がっているのである。

2016年4月29日金曜日

ヨハネ7:37-38に関する教父の聖書解釈 Rahner, "Flumina de ventre Christi"

  • Hugo Rahner, "Flumina de ventre Christi: Die patristische Auslegung von Joh 7, 37. 38," Biblica 22 (1941), pp. 269-302, 367-403.

本論文は、ヨハネ福音書7:37-38を教父たちがどのように解釈したかを詳細に分析したものである。ヨハ7:37-38はイエスの言葉であり、伝統的に次のような意味で読まれてきた:
もし誰かが渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人(=私を信じる者)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω.
ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος.
M.-J. Lagrangeは、こうした従来の読みではなく、コンマを打つ場所を変えることで、次のような読みにするべきだと提案した(1936年):
もし誰かが渇いているなら、私を信じる者は、私のところに来て飲みなさい。
聖書に書いてある通り、彼(=イエス)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ.
καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος. 
従来の読みでは、「彼の内から」というフレーズの「彼」は「私を信じる者」となるが、Lagrangeの読みでは、「イエス」と読むことができるようになる。Lagrangeはむろんのこと、論文著者もまた、Lagrangeの読みの方が神学的な聖書解釈としては正しいと考えている。ただし、論文著者はそうした現代的な解釈に飛びついて、どちらがいいかを決める前に、まず伝統的に教父たちがどのようにこの箇所を解釈してきたのかを分析しているのである。

そのために、論文の第一部において、著者は従来の読みを採用した教父たちを取り上げ、(1)「信じる者」が命の水の源となるとはどういう意味なのか、(2)「聖書に書いてあるとおり」というときの旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証されている。続いて第二部では、Lagrangeと同じ読みを採用した教父たちを取り上げ、「イエス」が命の水の源であるという解釈の起源はどこにあるのか、(2)旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証される。ここでは、第一部のみをまとめることにする。

命の水の源を「信じる者」とする解釈はオリゲネスに端を発する。オリゲネスのヨハネ福音書注解において、7章部分は失われてしまっているので、彼の見解は他の注解から探してこなければならない。その上で、論文著者によれば、オリゲネスはヨハネの引用元は七十人訳の箴言5:15-16であると考えていたという(オリゲネスの解釈の神学的な側面のまとめは省略):
πῖνε ὕδατα ἀπὸ σῶν ἀγγείων
καὶ ἀπὸ σῶν φρεάτων πηγῆς.
μὴ ὑπερεκχείσθω σοι τὰ ὕδατα ἐκ τῆς σῆς πηγῆς,
εἰς δὲ σὰς πλατείας διαπορευέσθω τὰ σὰ ὕδατα·
あなたの入れ物から飲みなさい
またあなたの泉の貯水池から〔飲みなさい〕
あなたの井戸からあなたに水を溢れさせてはならない
むしろあなたの水をあなたの通りへと流れさせなさい
オリゲネスは、文献学的には、3行目の否定語はあとからの挿入の可能性があることを指摘している。神学的には、フィロンの解釈を取り入れつつ、この箇所には結婚における誠実さなどといった、神秘的な意味合いがあると考えていた。

命の水の源を「信じる者」と見なすこのオリゲネスの解釈は、アタナシオス、ディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス、エルサレムのキュリロス、エウセビオスなどといったアレクサンドリアの伝統において、またバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスといったカッパドキアの伝統において、さらにモプスエスティアのテオドロス、クリュソストモスといったアンティオキアの伝統において、そしてアンブロシウス、ヒエロニュムス、ヒラリウス、アウグスティヌスといったラテン世界の伝統において、それぞれ受け継がれていった。

中でもオリゲネスの解釈を有名にさせたのは、アンブロシウスとヒエロニュムスの二人であった。特にアンブロシウスは、ラテン語のオリゲネスといってもいいほどに、オリゲネス(とフィロン)の聖書解釈に通じていた。アンブロシウスは「命の水」を聖霊および福音書的な認識と見なし、その水が湧き出る場所である「腹」をヌースと見なした。彼は、オリゲネスが指摘したように、箴言をヨハネの引用元であると見なした。そして、旧約の歴史的な出来事をキリスト教的に内面化するような寓意的解釈によって、この箇所を、新約聖書という泉から水を飲んだ者が今度は別の人にとっての泉になるという意味で捉えたのだった。

ヒエロニュムスは、ウルガータ聖書という新しい翻訳を作成したことで、七十人訳の権威を失墜させたとして激しく批判されていたが、ヨハ7:38におけるイエスの台詞の分析に基づいて、自身の翻訳を弁明したのだった。すなわち、ヒエロニュムスによれば、この箇所においてイエスが引用している旧約箇所は、ヘブライ語テクストとは一致するが七十人訳とは一致しないというのである。ただし、彼はその旧約箇所の引用元がどこであるかについては、ただ箴言であると指摘するのみで、具体的な箇所は述べていない。そこで、論文著者は、オリゲネスとアンブロシウスの見解に基づいて、ヒエロニュムスも引用元を箴5:15-16と考えていたに違いないと結論する。ただし、論文著者が言及しているとおり、この結論は、彼以前に16世紀スペインのイエズス会士フランツ・トレドによってすでに導かれていた。一方で、ヒエロニュムスの校訂版を編纂した18世紀のイエズス会士Dominic Vallarsiは、箴18:4こそが引用元であると指摘したが、論文著者はこの決定は恣意的であると断じている。

このように、アンブロシウスとヒエロニュムスとは、ヨハネにおけるイエスの台詞には旧約からの引用があり、それは箴言であると考えていたわけだが、エルサレムのキュリロス、モプスエスティアのテオドロス、クリュソストモス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらは、そもそもこれを特定の引用とは見なさなかった。彼らによれば、イエスは旧約を正確に引用したのではなく、むしろより一般的な意味で聖書の全体を指し、水と泉のメシア的救済のイメージを利用しつつ、「聖書が信じることを命じているように、私を信じる者は」と述べているのだという。