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2020年12月13日日曜日

書斎の中のオリゲネス Wright, "Origen in the Scholar's Den"

  • John Wright, "Origen in the Scholar's Den: A Rationale for the Hexapla," in Origen of Alexandria: His World and his Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 48-62.

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成したのはなぜか。この問いに対し、多くの研究者がさまざまな答えを提案してきた。H. Orlinskyは『ヘクサプラ』をヘブライ語への手引きとするため、P. Nautin(およびH. SweteやS. Jellicoeら)は七十人訳テクスト(マソラー伝統へと改訂された「純粋な」七十人訳)を回復するため、S.P. Brockは護教的理由のため、D. Barthelemyはデータの十全な収集のためと説明した。これらに対し論文著者は、聖書解釈的な著作のために容易に比較可能なテクストのコンピレーションを作るためと主張する。そしてこのことを、『ヘクサプラ』の構造と形式、オリゲネス自身の証言、そして『エレミヤ書説教』におけるベーステクストから明らかにしている。

構造と形式については、P. NautinとI. Soisalon-Soininenの研究が大きな貢献をなしている。Nautinによれば、『ヘクサプラ』にヘブライ語欄はなく、全体としては7欄構成(ヘブライ語テクストのギリシア文字転写、アクィラ訳、シュンマコス訳、校訂記号つき七十人訳、テオドティオン訳、クインタ、セクスタ)だったという。各欄は「コロン」(ヘブライ語単語に対応した意味の小さなユニット)で配置されていた。Soisalon-Soininenは校訂記号について特に注目し、Fieldが批判的に再構成した『ヘクサプラ』上の七十人訳欄は、これらの記号を極めて機械的に用いていることを見出した。つまり、ヘブライ語テクストと七十人訳を一対一対応で比較しようとしていたのである。

こうした分析から以下のことが分かる。第一に、コロンによる文章の分け方は『ヘクサプラ』を大部にしたので、スクロールではなくコーデックス形式を必要とした。そしてそれゆえに、『ヘクサプラ』は公の場での論争において手軽に参照されたのではなく、書斎でじっくりと説教や注解に取り組むときに用いられたはずである。第二に、『ヘクサプラ』の論拠は七十人訳の欄を純粋なマソラー本文に合わせて回復させることではない。なぜなら、この目的のためには諸訳を参照する必要はなかったはずである。また七十人訳の言い回しがヘブライ語テクストと異なるところでもオリゲネスは七十人訳を修正していない。むしろ、『ヘクサプラ』の構造と形式から分かるその論拠は、細部を容易に比較できるようなテクストのコンピレーションを作ることだったといえる。

オリゲネス自身の証言は、『マタイ福音書注解』と『アフリカヌスへの手紙』から引き出すことができる。前者では、校訂記号に編集上の重要性を付与し、七十人訳よりもヘブライ語テクストの権威を強調している。とはいえ、ヘブライ語テクストに対応しない七十人訳テクストも削除するのではなく、オベロス記号をつけて維持している。また『マタイ福音書注解』における説明は、特定の箇所の注解という文脈の中で解釈されるべきなので、安易に一般化すべきではない。

一方で『アフリカヌスへの手紙』からは対ユダヤ人の護教的意図が引き出される。ここでオリゲネスは『ヘクサプラ』の論拠を語ろうとしているのではなく、七十人訳をユダヤ人の攻撃から守ろうとしている。しかし、テクストの比較を目的とした護教の道具としての『ヘクサプラ』は、七十人訳を批判者から守るというオリゲネスの目的にも適っていた。こうした護教的意図をそのまま『ヘクサプラ』の論拠に転用するべきではない。論拠はもっと広いものだったはずである。

『アフリカヌスへの手紙』から引き出されるオリゲネスの『ヘクサプラ』作成論拠は、テクスト間の差異を発見するための比較を行うためであった。そうした比較から分かったことは、護教的意図も含めて幅広い目的に用いることができる。つまり、『ヘクサプラ』の基本的な目的は、旧約聖書のすべての入手可能な版の全般的な理解だったといえる。

オリゲネス『エレミヤ書説教』におけるエレミヤ書の扱いもまた、彼の『ヘクサプラ』作成の論拠を間接的に教えてくれる。P. Nautinによれば、エレ20:2-6についての説教において、オリゲネスの聖書は七十人訳ではなく、『ヘクサプラ』作成の際に他の諸訳のもとで改訂したテクストだったという。ただし、論文著者によればこの結果は常に一定ではない。むしろ、基本的にカイサリアの教会で流布していた七十人訳に従いつつも、マソラー本文への同化のしるしを示し、なおかつときに孤立した特異性をも含んでいるといえる。

オリゲネスは七十人訳とマソラー本文の相違を意識していた。そしてそうした違いを2つの異なった方法で扱った。第一に、異読を評価して、よりよい読みを確立しようとした。第二に、異読を両方保存し、それぞれに対する釈義を残した。とりわけ第二の方法からは、オリゲネスが七十人訳を純化させようとしていたわけではないことが分かる。むしろ釈義の利祖ソースの幅広い範囲のためのデータを残そうとしていたのである。

結論としては、オリゲネスの『ヘクサプラ』作成の論拠は、さまざまな版の理解を深め、幅広い釈義上のリソースを提供してくれる、比較分析のための聖書テクストのコンピレーションを得ることだった。ここから、オリゲネスは聖書テクストの歴史において過渡期の人物だったといえる。ヒエロニュムスのヘブライ的真理への完全な関心をオリゲネスに読み込むことはアナクロニズムである。というのも、一方で、オリゲネスはテクストに複数の可能性があるのであれば両方を保存しようとする古代の写字生の伝統の中にあったので、ヒエロニュムスのような厳格な標準化は目指さなかった。他方で、校訂記号を導入することで聖書テクストの完全な標準化への重要な第一歩を踏み出した。つまり、オリゲネスはヒエロニュムスの先行者として、ヘブライ語からラテン語への旧約聖書翻訳プロジェクトのための道を整えたのである。

2020年12月5日土曜日

オリゲネスのヘクサプラ Grafton and Williams, "Origen's Hexapla"

  •  Anthony Grafton and Megan Williams, "Origen's Hexapla: Scholarship, Culture, and Power," in Christianity and the Transformation of the Book: Origen, Eusebius, and the Library of Caesarea (Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2006), 86-132.

オリゲネスの『ヘクサプラ』について我々には3種の証言がある。第一はオリゲネス自身だが、彼は『ヘクサプラ』に直接言及しているわけではなく、2つのテクストで聖書の本文批評的な研究に触れており、そこからヒントを得ることができる。第二は4世紀のキリスト教作家たちの証言、そして第三は『ヘクサプラ』写本の2つの断片である。

第二のキリスト教作家たちとしては、エウセビオス、ヒエロニュムス、エピファニオス、ルフィヌスがいる。エウセビオスによると、彼はカイサリアの図書館で『ヘクサプラ』の実物を手にしたという。また彼はギリシア文字によるヘブライ語転写の欄の存在に言及しない。ヒエロニュムスはカイサリアで実物を見たばかりか、自分で『ヘクサプラ』の写しを持っていた。彼はヘブライ語の欄について言及している。エピファニオスとルフィヌスはヘブライ文字とギリシア文字で書かれた2つのヘブライ語欄を報告する。さらにエピファニオスは諸ギリシア語訳の並び順が成立順ではないことを断ってもいる。エウセビオスやヒエロニュムスは『ヘクサプラ』にサマリア人のテクストが入っていた可能性も指摘する。

第三の現存する2断片は共に詩篇に関するものだが、オリゲネスの時代からはかなり下る。またヘブライ文字によるヘブライ語テクストを欠いている。第一の断片は、1900年にCharles Taylorによって出版された、カイロ・ゲニザで発見された詩篇32の大文字パリンプセスト断片である。第二の断片は、1896年にGiovanni Mercatiによってその存在が発表され、1958年に出版された、ミラノのアンブロシウス図書館で発見された小文字写本である。これは諸ギリシア語訳の並べ方がカイロ・ゲニザ版とは異なっている。また小文字で書かれていることから、ゲニザよりもオリジナルとの距離が遠いと言える。一方で2つの断片にはオリゲネスのオリジナルに遡ると考えられる共通点もある。たとえば1行に1語のヘブライ語とそれに相当するギリシア語が配され、1ページにつき40行書かれている。

『ヘクサプラ』は同時代の書物から、形式においても大きく異なっている。3世紀においてはいまだスクロール形式の書物が優勢だった。一説では、スクロール形式とコーデックス形式は、それぞれ82%と18%の割合だったという。スクロール形式はパピルスに書かれていたのに対し、コーデックス形式は羊皮紙に書かれた。コーデックスのページに複数の欄が設けられることはあったが、見開きページに6欄も設けなければならない『ヘクサプラ』は例外的だった。キリスト教徒はコーデックス形式を比較的早くから受容していたが、『ヘクサプラ』はその傾向を加速させ、またその可能性を押し広げた。『ヘクサプラ』の全体はおそらく400葉(800ページ)のコーデックス40巻分に相当したと考えられる。

資金面はオリゲネスのパトロンだったアンブロシオスなどによって賄われた。『ヘクサプラ』作成のためには、書記の費用だけで75,000デナリ、羊皮紙などを含めると150,000デナリかかったとされる。ヘブライ文字の筆写のためには余計に費用がかかったであろう。オリゲネスの教師としての年収は7,000デナリほどだったようなので、彼自身にはとてもではないが無理だったが、年に6,000,000デナリは稼いでいたローマ司教コルネリウスなどにとっては出せる値段だっただろう。

オベロス記号やアステリスコス記号のような校訂記号については、『ヘクサプラ』の七十人訳の欄に書かれていたと考える者たちと、まったく別のプロジェクトだと考える者たちがいる。論文著者は、確かではないと断りながらも、後者に与している。

R. Clementsの研究によると、『ヘクサプラ』には2つの問題がある。第一に、ヘブライ語とギリシア語を両方読める者しかヘブライ語とギリシア語の欄を比較できないはずということである。この第一の問題について、Clementsは3つの可能性があり得るとする。第一に、オリゲネスはヘブライ語といくつかのギリシア語訳が載っている既存の梗概(シノプシス)を持っていたという可能性である。しかし、Clementsはこの説はありそうにないとする。なぜならば、ギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語で礼拝することを何ら問題としていなかったし、またこの議論はヘブライ語のギリシア語転写の必要性を説明できないからである。さらに言えば、こうした梗概はアレクサンドリアよりもカイサリアにこそ当てはまる。

第二の可能性は、オリゲネスはヘブライ語と諸ギリシア語訳を比較できるほどヘブライ語に習熟した助手を雇っていたというものである。Nicholas de LangeやRuth Clementsらが取る立場である。オリゲネス自身がユダヤ人の情報提供者の存在について数多く言及していることから、この見解は支持される。

第三の可能性は、オリゲネス自身がヘブライ語とギリシア語を校合できるほどにヘブライ語に習熟していたというものである。オリゲネスは多少ともなりヘブライ語を知っていたことは確実であるが、助手を必要としていたこともまた確かである。ユダヤ人の助手に大きく依拠していたことと、多少はヘブライ語を読めたことは矛盾することではなく、これらの2つの可能性が補い合っていたのである。Clementsは、もともとアレクサンドリアでオリゲネス自身が作成した『テトラプラ』に、カイサリアで雇ったユダヤ人助手がヘブライ語の欄を付け加え、『ヘクサプラ』になったと考えている(エウセビオスは『ヘクサプラ』の簡略版としてのちに『テトラプラ』が作成されたと報告している)。

Clementsが『ヘクサプラ』に見出す第二の問題は、七十人訳の底本のヘブライ語テクストと、オリゲネスの時代のヘブライ語テクストとは異なっていたはずという問題である。死海文書中の発見によって、七十人訳者が依拠したヘブライ語テクストは、後1世紀までにユダヤ人の間で基本となったプロト・マソラー本文と、さまざまな点で異なっていることが判明している(エレミヤ書に見られる時系列の差異など)。

『ヘクサプラ』の第5欄については、校訂記号が付されていたのかどうかという問題もある。多くの研究者は『ヘクサプラ』に校訂記号が付されていたと考えてきたが、実際には『ヘクサプラ』とは別の改訂七十人訳に付されていたものではなかったのか。実際ヒエロニュムスは校訂記号を『ヘクサプラ』ではなく独立した七十人訳テクストで見ていたようである。論文著者はPaul KahleやJennifer Dinesらと共に、『ヘクサプラ』に校訂記号を付すのは余分であり困惑するものだと判断する。余分というのは、七十人訳にはあるがヘブライ語や諸訳にはない部分が『ヘクサプラ』に出てくる場合、七十人訳の欄だけに文章があることは一目瞭然なので、記号をつけるまでもないからである。困惑するというのは、七十人訳にはない部分を『ヘクサプラ』上でわざわざ別の欄から埋めて、それにアステリスコス記号をつけることは、差異を曖昧にするだけだからである。

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成した目的については多くの議論がある。Henry Sweteによれば、オリゲネスは、よりヘブライ語テクストに近くなるように七十人訳を修正しようとしたと考えた。一方でPierre Nautinは、原典ヘブライ語テクストを再構成しようとしたのだと主張した。Sebastian Brockは、オリゲネスのテクスト研究は聖書解釈についてユダヤ人と論争するキリスト教徒のためになされたと述べた。Adam Kamesarは、聖書解釈の可能性を最大限に高めるために可能な限りの異読を集めたのだと論じた。Ruth Clementsは、キリスト教内の異端やユダヤ人に対する武器にするために、キリスト教信仰の領域内でヘブライ伝統を包摂しようとしたのだと見た。

論文著者はClementsに同意しつつ、『ヘクサプラ』に関する第一の証言であるオリゲネス自身の議論を分析する。すなわち『アフリカヌスへの手紙』と『マタイ福音書注解』である。アフリカヌスはダニエル書の付加部分にはギリシア語の言葉遊びがあることから、ヘブライ語テクストに元来存在したものではなく、ゆえに権威が劣るのではないかと、オリゲネスに手紙で尋ねた。これに対しオリゲネスは、そうした言葉遊びは失われたヘブライ語原典にも存在したのであり、それをギリシア語で再現しているにすぎないと反論した。七十人訳とユダヤ人の版の版との違いは、ユダヤ人による聖書の改変ゆえのことである。そこでオリゲネスは状況を現実的に判断した結果『ヘクサプラ』を作り、ユダヤ人との論争に備えたわけである。これは学識深いユダヤ人に対し生まれたばかりのキリスト教徒の主張を助けるためのツールだった。

『マタイ福音書注解』では、自分が七十人訳を「癒す」ことを試みたことを報告している。すなわち、七十人訳の諸写本(アンティグラファ)を比較し、また七十人訳を含めた諸訳(エクドセイス)を比較したのである。基準である諸訳やヘブライ語テクストに基づき、協会で受け入れられた霊感を受けたテクストである七十人訳の統一性を保存することを目指した。これこそが『アフリカヌスへの手紙』で述べられていた対ユダヤ人論争のためのツールという第一の目的に対し、第二のより中心的な目的であった。John Wrightは、オリゲネスがさまざまな諸訳を『ヘクサプラ』に集めたのは、テクストの意味をアンプリファイし、よりよい読みを決めようとしたのだと述べている。Adam Kamesarは同様の観点から、オリゲネスの試みを「釈義的マキシマリズム」と呼んでいる。

死海文書の発見によって、当時の聖書写本の状況がいかに複雑であるかが分かってくると、その複雑さを『ヘクサプラ』の特定の翻訳だけに絞り、意図しないまま権威付けてしまったオリゲネスの行いは早計だったとも言える。こうした際限のないテクスト的・翻訳的多様性の文脈においてこそ、『ヘクサプラ』の本質と機能は十全に理解できる。

『ヘクサプラ』はオリゲネスの時代の文献学における技術の状況を如実に伝える。これはローマ時代の学術の最も偉大な記念碑の一つであり、ギリシア文献学と文献批評をキリスト教文化に適用した最初の重要なプロジェクトだった。また当時の製本技術の限界を押し広げる役割も担った。いわばギリシア文化とヘレニズム・ユダヤ教文化のフュージョンの中で、生まれたばかりのキリスト教的学術を例証してみせたわけである。

2020年11月15日日曜日

聖書の校訂記号 Stein, "Kritische Zeichen"

  • Markus Stein, "Kritische Zeichen," in Reallexikon für Antike und Christentum 22 (Stuttgart: Anton Hiersemann, 2008), 133-63.

校訂記号とは、古代の編集者や釈義家たちによって単独あるいは組み合わせて用いられた線、点、文字のことで、通常は左の欄外の行の前に置かれた。記号は読者にテクストの本質やその理解、確かな特徴、内容の質などに関するヒントを与えるためのものだった。古代の文献学におけるδιόρθωσις, κρίσιςなどの領域で用いられた。

著者はこうした記号の非キリスト教的用法とキリスト教的用法を共に紹介する。そもそも校訂記号はキリスト教成立以前である前3世紀初頭に、アレクサンドリア文献学のホメロス解釈の伝統の中で生まれてきた。アレクサンドリア図書館の最初の館長エフェソスのゼノドトスはオベロス記号を発明し、彼が本物かどうか疑っている箇所に付した。疑わしい箇所を単に取り除くのではなくオベロス記号を付すことで、読者が自分で決定する可能性を奪うことなく校訂者が自分の決定を明らかにできる。続いてアリストファネスとアリスタルコスが新しい記号を発明し、校訂システムを修正・拡大した。ゼノドトスとアリストファネスは欄外の印をつけただけだったが、アリスタルコスは別個の注解に自分の見解を書き残した。アリスタルコスにとって校訂記号は、本文と注解を繋ぐものだった。

オベロス記号(−)は、真正性が疑われるテクストの目印のためにゼノドトスが開発した。アステリスコス記号(※)は、繰り返されている部分を示すためにアリストファネスが作った。アステリスコス記号はそのときどきの文脈で適切と思われる箇所にも使われ、一方で適切でない箇所にはオベロス付アステリスコス記号(※−)が付された。アステリスコス記号は他にも、Venetus Aにおいて神々や王たちに関する比喩や発言などの内容を特徴付けたり、叙情詩においては詩の終わりや始まりや、韻律の変化などを示したり、ヘルクラネウムのパピルスでは段落を終わりを指したり、プラトンのテクストではその教えの内的な一致を証明したりするためにも用いられた。

シグマ記号(Ϲ)は同じ内容を持つもともと連続する一節に、アンチシグマ記号(Ͻ)は節が置き換えられているところに、付点アンチシグマ記号(Ͽ)は疑わしい一節に付された。とはいえアリスタルコスをはじめ多くの場合、これらの記号について一貫した方法論は確立されていなかったようである。ホメロスや叙情詩の写本ではアンチシグマ記号は欄外に示された異読や本文に関するコメントを導入するために使われることが多く、節の置き換えを示すためにはめったに使われない。アンチシグマ記号と付点アンチシグマ記号の区別も明確でない。

ディプレー記号(>)はアリスタルコスが自身のホメロス注解で言語的・内容的なタイプをさまざまに解説するヒントとして役立った。とはいえ叙情詩や劇のテクストでは韻律の変化や段落の冒頭などを示すためにも用いられた。オベロス付ディプレー記号(>−)はテクストの内容の区分を示した。プラトンのテクストではディプレー記号がつくことで、それがプラトンの教説であることが分かるようになっている。付点ディプレー記号(>:)は、ゼノドトスが取り除くべきと判断したがアリスタリコスは別の判断を下した箇所に付された。また付点オベロス記号(÷)は先行者の恣意的な削除の批判を意味した。

めったに使われない記号としてケラウニオン記号がある。これはアリストファネスによる登場人物の倫理的評価を示すものではないかと考えられている。少なくともテクストの質や構造ではなく、物語の内容に関する記号と思われる。キー記号および付点キー記号は、ホメロス文献について口頭や注解で与えられる言語的・内容的なタイプの説明のためにアリストファネスが用いたが、のちの時代には完全に失われた。ホメロスのテクスト以外でも、さまざまな注解メモへの参照表示として用いられることがあった。プラトンのテクストでは、プラトンのスタイルの真正性をキー記号が、スタイル上の彩りを付点キー記号が示した。

パラグラフォス記号コローニス記号は、詩や散文での段落を表し、とりわけ対話篇では話者の交代を示した。コローニス記号はより強い境界区分のために用いられた。斜線は、間違い、脱落、変化、補足、段落分けなどのヒントになり、付点斜線は斜線に比べてめったに出てこないが、本文と注解の間の参照表示として役立つ。アンコラ記号は抜かされた一節を指摘し、ページの欄外で情報を捕捉することもあった。他にも、アロゴス(文章が壊れて回復不能な部分を示す)や句読点、また組み合わせである文字クレーシモン(読者に読む価値のあるところを示す)、ホーライオン(法的文書において注意を喚起する記号)、ゼーテイ(テクストの質への問いを指す記号)、グラフェタイ(別の写本での異読を指す記号)などがある。

ユダヤ的用法では、削除記号としてアンチシグマ記号とシグマ記号が使われている。これらは間違って配列された一節や欄外に付加された一節を指した。アンチシグマ記号はのちに「逆転のヌン」と間違われた。パラグラフォス記号は大イザヤ写本などの段落の冒頭に置かれている。

キリスト教的用法も、異教のそれと同様にテクストの解明と保全が出発点である。オリゲネスのヘクサプラの目的は、七十人訳や諸訳を比較することで可能な限り確実なテクストを手に入れるという文献学的意図によるものとされているが、ユダヤ・キリスト教双方が受入可能なテクストを作り論争に役立てるという護教的意図によるものでもあった。オリゲネスは七十人訳がヘブライ語テクストに対して余剰を示すときにオベロス記号をつけ、一方で七十人訳で単語が文章が欠けているときにはその部分を別の訳で埋めた上でアステリスコス記号を付し、両者の量的違いを表した。オリゲネスは記号の使用に関して異教の文献学に依拠したことを認めている(Ep. 1.7)。テクストに直接干渉せずに自分の批判的見解を明らかにできるこの方法はオリゲネスの意図にかなっていた。オリゲネスのオベロス記号は写本によって変化するが(−, ~, ÷, ⨪)、機能は同じである。

エピファニオスはおそらくヘクサプラそのものを見たことはないが、記号について報告している。エピファニオスによると、アステリスコス記号とは、繰り返しを避けるために七十人訳者によって言語的・スタイル的観点から抜き取られた言葉を指すという。彼はこれを星のイメージを使って説明している。一方でオベロス記号とは、七十人訳者がギリシア語文としてより明晰にするために付加した箇所を指す(そこに神の霊感が現れる)。エピファニオスは普段はオリゲネスの激しい敵だったが、これらの記号の使用については賞賛している。

エピファニオスは、オベロス記号やアステリスコス記号が付された箇所の終わりの印としてメトベロス記号ついても説明している。また七十人訳においてヘブライ語テクストや諸訳と異なる順序で言葉が並べられているとき、オベロス付アステリスコス記号が付されるという。エピファニオス(とエルサレムのヘシュキオス)はさらにレムニスコス記号(÷)とヒュポレムニスコス記号(⨪)をオリゲネスに帰している。エピファニオスによれば、レムニスコス記号は、聖書を互いに独立して訳した36の翻訳ペアのうち2つが大多数とは異なる表現を選んだところに付けられる(÷の真中の線が行を、また2つの点が二人の翻訳ペアを示す)。ヒュポレムニスコス記号はひとつのペアだけが異なるときに使われる。この報告はエピファニオスのでっち上げであるという解釈が支配的だが、Fieldらはこれが正しい可能性を排除しない立場を取る。実際はこれらの記号はオリゲネスには由来しない。

10世紀のCodex Patmiacus 270には、ポントスのエウァグリオスの著作に対するスコリアがあり、その冒頭には記号についての説明に3章が割かれている。第1章ではオベロス記号とアステリスコス記号について、ヘブライ語テクストに対する量的な違いの観点から説明される。さらにテクストの順序の相違を表すために両記号が一緒に用いられることも指摘される。第2章のその例を挙げる。第3章は写本の欄外にあった4種の書き込みについて説明される。第一は、エウァグリオスのスコリア。第二は、オリゲネスのスコリア。第三は、七十人訳と諸訳の異読を扱うスコリア。第四は、七十人訳テクストで欠けている言葉や異読。

オベロス記号とアステリスコス記号はヘクサプラ版七十人訳写本の外でも使われることがある。たとえばルキアノス改訂版写本である。ここではオベロス記号はルキアノスによる付加を表す可能性があるが、記号の付け方はしばしば完全に恣意的になっているので確証はない。たとえばアステリスコス記号の代わりにオベロス記号が付けられたり、逆のことが起こったりしている。

ヒエロニュムスは聖書テクストに関する著作の中で、しばしばオリゲネスの記号について言及している。さらにはこれらの記号を同じように自分の聖書翻訳(七十人訳に基づく)でも利用している。エピファニオス同様に、記号の説明に星の比喩も使っている。これに対し、アウグスティヌスはヒエロニュムスの方法を理解せず、記号が示すのは非ヘクサプラ版の七十人訳テクストに対し、ヘクサプラ版七十人訳に基づくヒエロニュムスのラテン語訳(ヨブ記)の違いだと考えた(Ep. 28.2)。ヒエロニュムスはこのアウグスティヌスの誤解を正している(Ep. 112.19.1)。中世になると、オベロス記号とアステリスコス記号はガリア詩篇の写本において、ヘブライ語詩篇との相違を表すためにも用いられるようになった。

以上のような文献学的な問題だけでなく、神学的・釈義的ヒントとして記号が使われることもあった。エピファニオスは、聖書の預言書において預言が成立する10種の条件を示す記号や、そのときどきの預言のテーマを読者に示す記号を説明している。またカッシオドルスは、教父の著作中の異端的思想にアルケーシモン記号を、また正統的思想にクレーシモン記号を付した。カッシオドルスはこの方法を他の修道士たちにも薦めつつ、自身の『詩篇注解』などでも一貫して使用している。こうした著作の冒頭では13種の記号のリストが与えられており、その意味や先行者が説明されている。ときに、すでに知られていた記号に新しい意味が与えられる場合もあった。たとえばアステリスコス記号は注解の中で天文学的なテーマが扱われている箇所を示すために用いられた。カッシオドルスのこうした努力は、教義学、倫理学、文法学を用いて聖書を注解するためのみならず、神学的学問や世俗的学問においてテクストを通して聖書を覚えていくような教科書を作ろうとしたためだった。

ナジアンゾスのグレゴリオスの説教へのスコリアと共に、一連の写本には欄外の記号がある。この記号はおそらく6世紀前半のスコリア作者に由来するものと考えられる。このスコリアはグレゴリオスの説教の教義上の内容説明やそうした箇所へのヒントを通して、異端者による利用から守るためのものだった。たとえばグレゴリオスが神について取り扱っているところにはヘーリアコン・セーメイオン記号が付された。アステリスコス記号は新しい意味を得て、キリストの受肉やそれと結びついた救済計画について論じていることを示した。組み合わせ文字のホーライオン記号はスタイル的・思想的に優れた箇所を、セーメイオーサイ記号は読者に内容的にも言語的にも何か奇妙なところを指す。オベロス記号は、テクスト削除という伝統的な用法を応用し、削除されるべき異端者の意見に付された。ディプレー記号は聖書からの引用を意味した。

他にも、ギリシア語やコプト語やシリア語の聖書写本およびパピルスでの用法についても触れられている。

2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。

2020年8月2日日曜日

アブラハムとロトの別れ(5) Rickett, Separating Abram and Lot #5

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 123-57.

Rowan Greerによると、教父の聖書解釈はキリスト者がいかに生きるべきかの指針となるものであり、信者の倫理的・霊的発展を可能にさせるリソースであるという。james Papandreaは教父の聖書解釈の9つの特徴を挙げている。第一に、聖書の神的霊感、第二に、啓示は継続的である、第三に、あるテクストはいくつもの意味を持っている、第四に、矛盾は避けられるべきものではなく織り込み済みのものである、第五に、教父の解釈は使徒の解釈に従う、第六に、聖書が聖書を解釈する、第七に、一般的に旧約聖書の解釈は非字義的、第八に、一般的に新約聖書の解釈は字義的、そして第九に、解釈は祈りの文脈でなされる。これらを踏まえた上で、著者は教父の解釈とキリスト教美術を分析している。

ユダヤ教の聖書解釈同様に、初期キリスト教の解釈もアブラムを守り、彼の正しい行いを強調している。ただし、ユダヤ教がロトを不敬虔な者として描くのに対し、キリスト教はより肯定的なトーンで解釈する。キリスト教的解釈はロトを救済というレンズを通して読むのである。たとえばユリウス・アフリカヌスはアブラムとロトの別離を両者が同意できるものだったとする。

オリゲネスによると、ロトは敬虔さについてアブラムに劣るので、アブラムがロトに別れを告げたのは正当なことだったという。つまり、ロトはアブラムほど敬虔ではなく、ソドムの人たちほど悪でもない、中間の人だったのである。

シリア教父エフレムは、羊飼い同士の争いにおいてロトは完全に無実であり、ソドムへの移住も悪い決断からではなく神の義とその救済を証するためだったとする。一方でアブラムについては、ロトがソドムを選ぶことを許した点で、気前がよかったと評価する。すべての土地はアブラムに訳されたものだったが、アブラムは気前よくソドムにそれを分け与えたというのである。

ヒエロニュムスは創世記13章を兄弟性という言葉で総括している。ロトはアブラムの本当の兄弟ではなく甥だが、創世記では兄弟と表現されている。つまり、創世記の表現を字義的に取るのではなく、親族関係を表すより広い意味で取るべきである。そしてそれゆえに、論敵ヘルウィディウスのように、福音書においてイエスに「兄弟姉妹」がいたと書かれているところをマリアに他にも子供がいた(=マリアは処女ではなかった)と取るのは誤っているという。ただし、ヒエロニュムスはロトが平野を選んだことについては倣うべき行為ではないとする。その上パレスチナの平野は聖書で書かれているほど風光明媚ではなく、ヨルダン川や死海などで汚染されていると主張する。

アンブロシウスは、創13:5「アブラムと共に行ったロト」という表現から、あたかも「アブラムと共にいかなかったロト」もいる可能性があると感じて困惑する者たちがいると報告する。しかし、彼によれば、ここには二人のロトがいるのではなく、一人のロトに二つの問題があるのだという。ロトという名には「回避」という意味があるが(この解釈はフィロンやヒエロニュムスと同じ)、それは善の回避の場合と悪の回避の場合があるのである。羊飼い同士の争いについて、アンブロシウスはアブラムに責任はなかったとする。アブラムはこの争いがロトとの人間関係に波及することを恐れて、別れようとしたのである。一方でアブラムは別れないという選択肢をも与えたが、ロトは別離を選んだのだった。アンブロシウスは兄弟関係の切り離せなさを、魂の理性的部分と非理性的部分にたとえてもいる。それぞれが司る徳と悪徳は兄弟的な必要性によって互いに固く結ばれているのである。それゆえに、アブラムとロトは徳と悪徳が擬人化したものといえる。

ヨアンネス・クリュソストモスの解釈は、アブラムの問題を解決し、ロトにより肯定的な評価を与える解釈の典型例である。彼によればロトはアブラムの養子であり、したがってアブラム同様に裕福な義人である。ただし、土地を選ばせてくれたアブラムに何のお返しもせず、最終的にソドムに住むという間違いをしでかしたことは確かであり、その点はアブラムにではなくロト自身に責がある。つまり、ロトは不敬虔なのではなく間違った選択をしたのである。彼はソドムに蔓延する悪を見抜くことができなかった。クリュソストモスの解釈で興味深いのは、羊飼い同士の争いは、アブラムはもちろん、ロトとその羊飼いにせいでもなく、アブラムの羊飼いたちのせいだとしている点である。ここでクリュソストモスはアブラムのみならずロトをも非難から守ろうとしている。アブラムがロトを兄弟と呼ぶのは、彼の慎み深さゆえである。これはⅠコリ6:7-8におけるパウロの慎み深さに通ずるものである。

アウグスティヌスは、別離の後もアブラムとロトは大きな愛で結ばれていたとする。平和的な関係を維持するために働きかけていたのはアブラムのみならずロトもそうだったのである。

著者はここで教父たちの解釈からキリスト教美術に筆を移す。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ・バシリカにある5世紀のモザイク画から、同時代の解釈が反映している部分と、聖書からは引き出せない付加的な独自の解釈を明らかにしている。そもそもモザイク画は礼拝のためにより神聖な舞台を用意し、聖書物語やキリスト教教義を信徒に教えるためのものである。このモザイク画では、アブラムとロトが同年代に描かれている。別離や争いの原因を示唆するものは何もない。古代の語り部たちは、羊飼いの争いやアブラムによる別離の命令から、ロトによるアブラムからの別離の決意への焦点をずらしていたが、このモザイク画でも同様である。同時に、アブラムは賞賛の対象となっている。ロトの行為はキリスト者が倣うべからざるものなのである。

付加的な解釈としては、第一に、アブラムとロトの子どもたちを描きこんでいる。そうすることで創世記19章のソドムの終焉と物語をつなげ、またいかにロトの移動が大規模なものだったかを示している。またアブラムの血筋とロトの血筋が別れていることを視覚的に表してもいる。メシアへと至るキリスト論的な要素はアブラムの血筋のみに伝わっていくのである。第二の付加は、それぞれの最終的な目的地を描いている。ロトにとってはソドムが、アブラムにとってはカナンがそれに当たる。とりわけカナンはキリスト教の教会のように聖なる場所として描かれている。

以上より、初期キリスト教聖書解釈による創世記13章の理解は、第一に、ロトのアブラム同行を問題視する、第二に、アブラムに関する潜在的な問題からロトによる選択へと問題の焦点を移す(アブラムによる土地提供の申し出は彼の気前の良さと、ロトは完全に不敬虔ではないが欲張りと解釈される)、そして第三に、聖書本文はロトについて曖昧な書き方をしているが、否定的な解釈の余地が残っている。要するに、キリスト教の解釈はユダヤ教の解釈ほどに決定的に否定的な解釈ではないといえる。ロトは徳と悪徳を両方持った人物として描かれる。

新約聖書中にはロトへの言及は2箇所見られる。いずれも神によるロトの救出を審判からのキリスト者の救済と見なしている。第一の箇所はルカ17:20-37で、イエスがパリサイ派からの問いに答えて人の子の到来について語る場面でロトにも言及している。イエスによれば、ロトはノア同様、他の者たちと異なり、審判の前に救済されたという。第二の箇所はⅡペトロ2:6-9である。ここでロトは、義人であるがゆえに救済されたこと、悪徳の人々により悩まされていたこと(つまりあちら側ではなくこちら側の人間である)、そして審判より救済されるというキリスト教徒の原型として見なされていることが語られている。いずれの例も、ロトは確かに敬虔な人物であるというメッセージを伝えているといえる。

著者は中世におけるロトの解釈について簡単に紹介している。ロト養子説については、ラシ、リラのニコラス、ペトルス・コメストル、ジャン・カルヴァン、マルティン・ルターらが触れている。ラダクは、ロトを連れていくことについてアブラムが神の命に従わなかったのではなく、ロトが行きたがったのだと述べる。ロトはアブラムの相続者だという解釈は、カルヴァン、ニコラス、ラシが紹介している。概してロトは肯定的に描かれるが、アブラムほどではない。中世の解釈は、ヨセフスや教父、さらにはラビ文学からの影響が顕著である。

この章の目的は、ユダヤ教とキリスト教の解釈者たちの潜在的なつながりを単に辿ることではなく、こうした伝承が早くから解釈史の一部を担ってきたことを強調することである。それゆえに、それらが中世から近代までも続いていることは不思議ではない。

2020年7月25日土曜日

ユダヤ・キリスト教論争における聖書 Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue"

  • A. Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 616-37.

アウグスティヌスは、キリスト教徒にとってのユダヤ人および旧約聖書の役割を論じている。彼によれば、本来であればイエス・キリストに書かれている旧約聖書をユダヤ人は正確に読めてはいないが、それをキリスト教徒にもたらすことがその役割なのだという。つまりキリスト教社会におけるユダヤ人は、キリスト教がユダヤ教を更迭し、取って代わること(supersession)を具体化する存在である。またキリストを拒絶したことの罰として離散の憂き目にあっている。このアウグスティヌスの「証言者論」の核には、ユダヤ人は自分たちの聖典を理解できず、また理解しようともしないという逆説がある。

キリスト教徒がユダヤ教と対決する文学ジャンルとして「対ユダヤ人(Adversus Iudeos)」テクストがある。初期の例としては、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、セビーリャのイシドルスなどがある。12世紀になると「反ユダヤ人論(anti-Jewish polemics)」もまた盛んに論じられた。そこでキリスト教徒とユダヤ人の対話のかたちで描かれる議論は、実際の議論を文字通りに再現しているのではないが、ある程度は現実を反映してもいる(たとえば1240年のパリ討論や1263年のバルセロナ討論、1413-14年のトルトーサ討論など)。

一方で、12世紀の終わりの南フランスやスペインでは、中世のヘブライ語で書かれた「反キリスト教論(anti-Christian disputations)」が登場する。その代表が『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』である。これはドイツで編纂された、当時の反キリスト教的聖書解釈や新約聖書への攻撃などを収録した辞書的集成である。

これらユダヤ・キリスト教論争において常に中心となったのは聖書テクストとその解釈の問題である。聖書を読む解釈原理が論じられ、また根本的な神学問題を論じる際の証明のために聖書が引かれた。たとえば、モーセの律法の妥当性、メシアの到来、選民の真のアイデンティティ、三位一体の教え、受肉、処女懐胎などといった問題が俎上に挙げられた。

ユダヤ人との論争において、キリスト教学者たちはヘブライ語を読む必要はなかった。彼らはヒエロニュムス読めばよかったのである。イザヤ書7:14の「処女」論争において、シャティヨンのウォルター、ギルベルトゥス・クリスピヌス、ペトルス・アルフォンスィ、ブールジュのウィリアムらは、ヘブライ語のアルマーという語の訳について、ヒエロニュムスの解釈に依拠している。ギルベルトゥスはヒエロニュムスに従って、エゼキエル書44:2-3の閉じられた門のイメージ用いてマリアの処女性を論じている。これに対しヨセフ・キムヒは、アルマーの語についてキリスト教徒に謝った情報を与えているとして、ヒエロニュムスを非難している。

ギルベルトゥス・クリスピヌスは、聖書の翻訳の問題も論じている。彼によると、七十人訳はヘブライ語聖書の忠実な訳であり、またラテン語ウルガータはギリシア語およびヘブライ語聖書と言葉についても意味についても一致していると主張し、ウルガータを擁護した。

キリスト預言として知られている聖書箇所についても激しい議論が行われた。イザ53:1-10の「苦難の僕」の解釈については1263年のバルセロナ討論がある。この討論においてユダヤ側の代表者はナフマニデスであり、この箇所はイエスではなくイスラエルの民のことを指しているのだと主張した。創49:10の「シロ」は1413-14年のトルトーサ討論の主題であった。創22:28のアブラハムの祝福についても、ギルベルトゥスや『イサゴーゲー』著者、ドゥーツのルペルトらがメシア的解釈を展開している。

聖書解釈の方法として、ユダヤ人が字義的(literal)解釈をするのに対し、キリスト教徒たちは比喩的(figurative)解釈を得意とした。キリスト教徒に言わせれば、キリスト到来以後では、モーセの律法を字義的に解釈すると矛盾を来たすので、比喩的に解釈するほかないというのである。偽ウィリアムは木の実のたとえを用いて、果肉としての新たな法を味わうためには外側の硬い殻としての古い法を砕かなくてはならないと述べる。これに対しヨセフ・キムヒは、トーラーの解釈は字義的だけに取るのも比喩的だけに取るのも間違っていると反論する。聖書は素朴な人々でも理解できるように、ときに比喩を用いて語るからである。このように、ユダヤ人は字義的解釈だけに限られるわけではなかったが、一方で、比喩的解釈は字義的解釈に取って代わることはないというタルムードの大原則のもとにもあった。

キリスト教徒の中には、ユダヤ人の助けを借りて、ラテン語旧約聖書の本文を直そうとする者もいた。シトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人からヘブライ語聖書およびタルグムの情報をフランス語で仕入れていた。ニコラス・マニアコリアやサン・ヴィクトルのアンドリューも同様の方法を採り、聖書の歴史的意味を知るために、ラシなどのユダヤ教注解を引用している。これは、なるべく正確な字義的・歴史解釈を下敷きにして、比喩的解釈の確固とした基礎を築こうとしたのである。

ボシャムのヘルベルトゥスはヒエロニュムスのヘブライ語詩篇に関する注解をものしたが、ヘブライ語の知識やラシ注解に基づき、ヒエロニュムスの訳文を修正しようとした。ただし、このユダヤ教聖書解釈への依拠は、ヘルベルトゥスがキリスト教的視点を失ったからというわけではない。あくまで字義的解釈を通じて霊的理解を深めるためであった。他にもラルフ・ニゲル、アレクサンデル・ネッカム、ロジャー・ベーコン、リラのニコラら、多くのクリスチャン・ヘブライストがいる。

イザヤ書6:3には「聖なるかな」と3回書かれていることから、三位一体の証明に用いられることがある。これはキリスト教においては聖餐の祈りといった典礼に用いられる箇所である。一方で、ユダヤ教においても同箇所は典礼の重要句である。イェフダ・ハレヴィは、同箇所がユダヤ典礼における最も聖なる箇所のひとつであるケドゥシャーと関係していることを論じている。このように、同じテクストを神を称えるために用いながらも、ユダヤ人とキリスト教徒は異なった視点を持っていた。

2019年12月20日金曜日

ヒエロニュムスの聖地巡礼観 Bitton-Ashkelony, "Jerome's Position on Pilgrimage"

  • Brouria Bitton-Ashkelony, Encountering the Sacred: The Debate on Christian Pilgrimage in Late Antiquity (Berkeley: University of California Press, 2005), 65-105.


385年の冬に、ヒエロニュムスはローマを離れてパレスチナの地に到着した。ローマをあとにした理由は完全には分からないが、パウラとの関係を怪しまれて教会で弁明しなければならなかったことや、教皇ダマススの死などによって、ローマでの立場が危うくなったのであろう。自身はこの移動を、バビロン捕囚から逃れてエルサレムに帰還する、と表現している。ヒエロニュムスは最初から巡礼するだけではなく移住するつもりだったが、巡礼者としての情熱も併せ持っていた。

ヒエロニュムスの巡礼のメイン・ソースは、パウラの死を嘆くエウストキウムを慰めるために404年に書いた『書簡108』である。ここでは、キリスト教信仰のために、遺跡に実際に行くことが重要だと説いている。『ルフィヌス駁論』第3巻にもローマ出発の経緯や巡礼のあらまし、そしてベツレヘム定住までの状況が描かれている。他にも、聖地巡礼の重要性については、エウセビオス『オノマスティコン』翻訳、『書簡46』、『書簡76』、『歴代誌(七十人訳)序文』、『書簡46』などに言及がある。ところが、ヒエロニュムスはニュッサのグレゴリオスがそうであるように、『書簡58』では聖地巡礼を批判してもいる。本論文では、聖地巡礼を勧める『書簡46』と、それを批判する『書簡58』を中心的に論じている。さらに殉教者を祭る祭儀について『ウィギランティウス駁論』が取り上げられる。

『書簡46』は386年にマルケラ宛に書かれ、マルケラにベツレヘムや聖地に来るよう招く護教的な内容になっている。ここには明らかにヒエロニュムスの聖地巡礼に対する肯定的な態度を見ることができる。それは自分自身の聖地巡礼を正当化するためでもあった。ヒエロニュムスは、新約聖書の出来事が起き、預言者や聖人の誕生の地であり、またイエスが復活した地である(マタ27:52-53)エルサレムに特別な地位を与えている。すなわち、エルサレムのキュリロス同様に、地上のエルサレムに価値を見出している。これは、天上のエルサレムにしか価値を認めないオリゲネスやエウセビオスとは大きく異なる点である。『書簡47』でも「主の足がかつて立った場所で礼拝するのは信仰の一部」だと主張している。

ヒエロニュムスはこの自説に対する仮定の疑問を投げかける。エルサレムは選ばれた都市ではあるが、その特別な地位はイエスがその破滅を預言したことで失われたのではないか、と。これに対しヒエロニュムスはシンプルに、イエスが本当にエルサレムを愛していなかったら、その陥落を嘆いたりはしなかったろうと答えた。さらに、罪があるのは住人であって都市そのものではないというロジックも使った。

イエスの墓という特定の場所を訪れることはがキリスト者にとって宗教的な義務であるという、新約聖書に基づかない考え方は、他に類を見ないヒエロニュムスの発明といえる。これは天上のエルサレムこそが至上であると考えるパウロ書簡とは大きく対立するものである。ただし、彼は、全能であるはずの神の存在が、ある特定の場所にしか存在しないと言おうとしているのではない。このロジックはニュッサのグレゴリオスが巡礼を否定するときに用いたものである。ヒエロニュムスによれば、エルサレムは修道的な中心地であり、修道士の質も高いので、巡礼する価値があるという。

ベツレヘムに住んでしばらくすると、ヒエロニュムスの巡礼に対する情熱は弱まった。ノラのパウリヌスに宛てて395年に書かれた『書簡58』では、エルサレムを見たことがないからといって信仰が欠けているなどと思うべきではないと主張した。『書簡46』と『書簡58』に見られる相矛盾した見解について、J. Prawerは、大衆的な宗教の表現と正統派キリスト教の展望から説明している。F. Cardmanは、『書簡58』を巡礼に反対するキリスト教神学者の典型的な修辞法だと考えている。ただし、PrawerもCardmanもヒエロニュムスの見解が鍛えられた歴史的なコンテクストを論じておらず、非歴史的なアプローチに終始している。

これに対し、F.M. AbelやMaravalらはヒエロニュムスの当時の人間関係を考慮に入れている。『書簡58』は彼がオリゲネス主義論争に巻き込まれ、エルサレムのヨアンネスとの関係が悪化していた時期の著作である。ヒエロニュムスは自分が破門されていたエルサレム教会をパウリヌスに訪れてほしくなかった。そこで聖地巡礼の宗教的な重要性を最小化しなければならなかったのである。アントニオスやヒラリオンなど有名な修道士たちがエルサレムを特別視しなかったように、修道的生活を送っている者は聖地を訪れる必要がないのである(とはいえ、グレゴリオスのように、聖地巡礼によって霊的なダメージを受けるとまでは主張していない)。こうしたロジックは『書簡46』において自ら否定していたものであった。伝統的見解にオリジナルな議論で反論していた『書簡46』に対し、『書簡58』ではむしろそうした非オリジナルな教会の公式見解をただ代表している。すなわち、キリスト教の福音は全世界に知らされているので、イエスが生きた場所にこだわる必要はないし、そうした特別な場所は心の中に持てばよいという考え方である。

むろん、自分自身がすでに聖地を巡礼し、聖地のそばに住んでしまっているという矛盾にヒエロニュムスは自覚的であった。しかし、聖地巡礼を支持するにしても、修道士にとっては不必要だと主張するにしても、ある場所が聖なる場所であることと神的存在が特定の場所に限定されることとは無関係だと主張したのである。聖地巡礼を否定しようとしているわけではないが、積極的に支持しているわけでもない。『書簡58』の目的は、聖地巡礼を否定することでも、『書簡46』の立場を取り消すことでも、地上のエルサレムと天上のエルサレムに関する神学的議論を展開することでもなかった。修道士にとって修道的生活を追及するにはどのような場所がよいか、というのが論点であった。『書簡46』では、聖地としてのエルサレムはその目的に適しているとされていたが、『書簡58』では、エルサレムの教会との関係悪化もあり、エルサレムに巡礼する必要はないと主張したのである(ただし、『書簡58』で否定的に論じられているのはエルサレムについてのみで、ベツレヘムは依然として最も尊い場所とされている)。

エルサレム教会との確執が終わると、ヒエロニュムスはまた巡礼を推奨している(『書簡68』『書簡71』『書簡76』『書簡145』『書簡122』)。それが最もはっきりと現れているのがパウラの聖地巡礼を描いた『書簡108』である。このときには聖地巡礼はすでにノスタルジーになっていた。しかし、ここでもオリーブ山については言及を避けようとしている様子が見られる。ヒエロニュムスの中で、エルサレム教会との確執は許されてはいたが、決して忘れられてはいなかったのであろう。

殉教者の墓を詣でるについて、ヒエロニュムスは若い頃から積極的だった。特にローマでは、殉教者の墓参りは祭儀と密接に関係しており、4世紀の後半には幅広い地域で行われる習慣になっていた。このことについて、ヒエロニュムスは最も手ごわい敵対者の一人であったスペインのウィギランティウスと激しい議論を交わしている(ウィギランティウスは395年と396年にパレスチナを訪れ、ヒエロニュムスやルフィヌスに面会している)。その記録である『ウィギランティウス駁論』は神学的な議論というより、主として悪口雑言のよせあつめで、教父文学において最も生々しく攻撃的な文書である。

『ウィギランティウス駁論』を通じて知られる彼の主張は、殉教者の魂は墓に留まり、神には届かないので、殉教者が信仰者のための仲介者になることは不可能である、というものだった。そして殉教者の遺跡は不浄で無価値なものなので、それを崇拝することは偶像崇拝に等しいと言うのである。これに対し、ヒエロニュムスは「崇拝する(adorare)」ことと「尊敬する(honorare)」ことを区別した上で、殉教者の墓参りでは後者を行うのだと主張した。殉教者を崇拝するのではなく尊敬することは、偶像崇拝には当たらない。これはアウグスティヌスものちに用いたロジックである。

キリスト教徒の中には、殉教者の墓参りが異郷の祭儀と似ていることに危惧を覚える者がいたが、ヒエロニュムスはむしろそこにこそ護られるべきローマの伝統を見て取った。祭儀に関する異教的なコノテーションを恐れないというところに、ヒエロニュムスの特徴がある。死んだ人間である殉教者が信仰者を助けないという議論については、ヒエロニュムスは、殉教者は死んでいるのではなく眠っているのだと反論した。殉教者の墓が不浄であるという点については、多くの尊敬される人々を引き合いに出し、彼らが不浄なのかと問うた。ヒエロニュムスは純粋に神学的な議論をしているわけではないので、殉教者の墓参りに権威を付与できれば何でもよかったのである。

このように見てくると、ヒエロニュムスによるキリスト教的聖地に関する見解は、これまで考えられてきたよりも一貫している。

2019年12月18日水曜日

エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山のイメージ Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives"

  • Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.

メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。

『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。

エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。

ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。

オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。

『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。

2019年11月24日日曜日

パウラの墓碑銘 Cain, Jerome's Epitaph on Paula

  • Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.

本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。

382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。

文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。

ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。

ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。

ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。

4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。

15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。

聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。

神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。

古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。

ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。

結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。

2019年9月12日木曜日

聖書翻訳の中のラビ伝承 Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation"

  • Matthew Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation of the Book of Numbers," Journal of Biblical Literature 136.3 (2017): 539-63.

ヒエロニュムスはラビ文献を直接読んだわけではないが、タルグムやミドラッシュやタルムードに保存された口頭伝承へのアクセスを持っていた。かつてはラビ伝承のためにウルガータを研究することは、場当たり的で方法論を欠いていた。単純にミドラッシュ的な自由な敷衍訳をしてあるところには直接的なラビ的影響があると考えるという姿勢だった。しかし、それはヒエロニュムスの翻訳底本である聖書のVorlageの違いかもしれない。こうした研究はウルガータを聖書注解としてよりもヘブライ語の解釈として読もうとしている。そこでは、翻訳者を文化のメディエーターとして見るという視点がない。この論文は、ヒエロニュムスがユダヤ的な知識や情報提供者を用いつつ、聖書翻訳を通じて聖書解釈をしていたという可能性を追求する。聖書注解にラビ伝承を入れ込んだように、聖書翻訳にもそうしていたのではないか。

こうした観点からの研究には、C.T.R. Hayward, Friedrich Avemarie, Sebastian Weigertらのものがある。Adam Kamesarによると、『創世記のヘブライ語研究』はすぐのちに始まった聖書翻訳のための新しい文献学的システムを防御するために書かれたものだというが、Haywardは、同書中の創世記の訳文とウルガータ創世記の訳文にはかなりの相違があるため、『研究』で取り入れたラビ伝承をウルガータでは避けたと主張する。しかし、論文著者はウルガータの中にさまざまなラビ伝承があることを示してみせる。さらに、そもそも『研究』とウルガータの訳文が異なるのは、前者が注解という性質上さまざまな可能性を残せるのに対し、後者は翻訳としてひとつの訳文を選択しなければならなかったからである。いわば、ヒエロニュムスの基本路線であるrecentiores-rabbinic philologyは彼の聖書翻訳をも導いていたといえる。

ヒエロニュムスが注解を書いていない聖書文書の翻訳から、どのようにラビ伝承を確実に抽出すべきか。論文著者は、まずそれが普通でない翻訳であることを確定し、それとギリシア語訳のテクスト伝承との関係を定義し、比較可能なラビ伝承を探し、そしてヒエロニュムスの他の著作から彼がその伝承を知っていたかを確認する、という手順を提案する。

具体例を挙げる段階では、たとえば専門用語に注目したり、ラビの聖書解釈テクニック(たとえば聖書のひとつの単語を2つの単語で言い換えたりすること)と同じものを探したり、古代末期の文脈でのラビの聖書解釈を見つけたりしている。中でも興味深いのは、民数記24:24において「キッティーム」を「ローマ人」と同一視する解釈は、死海文書の『ハバクク書ペシェル』にも見られるものである。『ダニエル書注解』11:30-31でも同様の解釈をしている。もうひとつ興味深いのは、民数記10:5-7におけるラッパの音の違いを訳し分けており、それが『ミシュナー』「ローシュ・ハシャナー」4.9や『ピルケー・デ・ラビ・エリエゼル』32でのラッパの音の違いに関する説明にも見られる点である。おそらくヒエロニュムスは実際にショファールを見たことがあったに違いない(ただしそれがローシュ・ハシャナーと結びついていることまでは知らなかったようである)。

Megan Hale Williamsは、ヒエロニュムスが自分の翻訳にラビ的影響があることを公言するのは、自己構築の現れであると主張した。ヒエロニュムスがユダヤ学習やユダヤ人を描いてみせたり否定してみせたりするのは、修道者として自らを作り上げるプロセスにおける肉付けだというのである。さらにWilliamsは、ヒエロニュムス自身が説明するユダヤ人やユダヤ学習との交流を研究することと、実際の交流関係を研究することとは異なるという、方法論的に重要な指摘もしている。そしてそれゆえに、ヒエロニュムスのユダヤ学習の展開は、ユダヤ教とキリスト教の間に橋ではなく壁を作ったと主張するが、論文著者はこれに反論する。なぜなら彼の翻訳の方法論は境界を越えることを要求するものであるため、これはまさに壁ではなく橋をかけているといえるからである。

George Steinerによると、翻訳プロセスの四段階は、信頼trust、攻撃aggression、結合incorporation、互恵reciprocityであるが、ヒエロニュムスが「攻撃」に留まったままだったのに対し、オリゲネスは「互恵」の段階に達していたと考えられる。

ウルガータ中のラビ伝承は次のように同定される。ヘブライ語とラテン語の普通でない不一致があること。ラビ文学の中にユニークで比較可能な伝承があること。ウルガータの外部の資料(注解など)にラビ伝承の知識について言及があること。基本的には文献学的な翻訳であるが、ときにラビ的な解釈が適用されることがあるという点では、タルグム・オンケロスとの類似が指摘できる。ただし、さまざまな影響を含んでいるので、Adam Kamesarによる「改訂者的・ラビ的文献学(recentionres-rabbinic philology)」という表現の方がより適切である。またヒエロニュムスの実際の翻訳へのユダヤ的影響と、自己構築のためのユダヤ的影響への言及を区別するというWilliamsの主張も再考が求められる。

2019年7月8日月曜日

ヒエロニュムスとパレスチナの聖地 Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem"

  • Hillel I. Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem: Jerome and the Holy Place of Palestine," in Sanctity of Time and Space in Tradition and Modernity, ed. A. Houtman, M.J.H.M. Poorthuis, and J. Schwartz (Jewish and Christian Perspectives Series 1; Leiden: Brill, 1998), 215-27.

教父による聖地巡礼への否定的評価の代表例が、ニュッサのグレゴリオス『書簡2』とヒエロニュムス『書簡58』である。グレゴリオスは、キリスト者は聖地巡礼の義務がないこと、エルサレムまでの道のりが危険なこと、聖地と呼ばれながら多くの罪にまみれていることなどを挙げ、本当の巡礼は聖地の重要性を霊的に内面化することだと主張した。

ヒエロニュムスは、395年に書いたノラのパウリヌス宛の『書簡58』の中で、エルサレムに来たことがあるだけでは意味がないこと、神の力には地理的な制限がないのだからむしろ天のエルサレムを探求するべきこと、神の国は信者の中に宿るのだからエルサレムであろうがイギリスであろうが変わりないこと、多くの聖者はエルサレムを訪れたことがないこと、現在のエルサレムは異教に汚染されていることなどに言及している。

ヒエロニュムスは実際にはエルサレムに聖地巡礼し、ベツレヘムに住んでいるのだから、こうした批判は直ちに自分に帰ってくるはずだが、それについては不問に付している。しかしながら、『書簡58』以外では、ヒエロニュムスは聖地巡礼や聖地そのものを賞賛している(『書簡5』1、『書簡22』30、『書簡45』2)。

中でも彼の聖地巡礼に対する見解の代表例が、『書簡46』(386年)である。これはパウラとエウストキウムによって書かれた体になっているが、実際にはヒエロニュムスの筆によるものである。聖地における聖書の奇跡や、そこで暮らす修道者たちの平和な生活、諍いや争いがないことなどを例に、ローマのマルケラに聖地に来るように促している。その後『書簡47』(393年)でも、『書簡53』(394年)でも、ヒエロニュムスは友人にベツレヘムに来るように誘っている。ところが、先に見たように、その数年後の395年の『書簡58』では一転して聖地巡礼に批判的な態度を取るわけである。しかし、そのあとはまた聖地巡礼を友人に勧めたり、肯定的に説明している(『書簡68』、『書簡71』、『書簡108』、『書簡122』、『書簡139』)。

ヒエロニュムスは『書簡58』ではなぜ聖地巡礼を否定したのか。主たる理由は、F.M. AbelやF. Cavalleraらの言うように、「オリゲネス主義論争」の勃発ゆえであろう。論敵ルフィヌスのパートナーであるメラニアの親族であるパウリヌスが聖地に来たら、敵方に与することは明らかであるし、そもそもヒエロニュムスは論敵ヨアンネスに破門されていたので、パウリヌスを迎える準備ができなかったのである。

確かに主たる理由はオリゲネス主義論争だが、かといって『書簡58』でのヒエロニュムスの主張を過小評価することはミスリーディングである。『書簡64』でエルサレムをソドムと呼んでいるように、地上のエルサレムへの批判は他にも見られる。またマタ27:52-53の描写を天上のエルサレムと捉えることもあれば(『書簡46』)、そうではないと捉えることもある(『書簡60』)。『詩篇96への説教』では、おそらくエルサレムに住む聴衆に対し、対立する地上の聖地と霊的な聖地のうち、後者の優越を主張した。

論文著者は、こうしたヒエロニュムスの変節の理由を、オリゲネス主義論争以外にも挙げている。第一に、まさにエルサレムが「都市」であるがゆえに、それと修道生活が相容れなかったからである。エルサレムに限らず都市一般に対する修道的な敵意は昔から表れている(『書簡2』、『書簡43』、『書簡46』、『ヒラリオン伝』、『書簡125』、『詩篇91への説教』など)。

第二に、ユダヤ的終末待望論への反発である。ユダヤ人は終末において、神殿祭儀と共に地上のエルサレムが救済されると考えていたが、ヒエロニュムスはそれを批判し、霊的な救済を説く(『詩篇96への説教』、『書簡129』)。また彼に言わせれば、廃墟となったエルサレムを見ることこそがキリスト教的に正しい巡礼であるといいう。なぜならば、エルサレムが廃墟であるさまを見ることで、救済が地上の問題ではないことを理解できるからである(『詩篇86への説教』)。おそらくこうした議論は、エウセビオスやミレウムのオプタトスらから取ってきたものだろう。

ヒエロニュムスはそもそもエルサレムに住むことは望まなかったが、ではなぜベツレヘムに住んだのか。それは、『書簡58』で述べているように、ベツレヘムに住めば、都市を避けることと、聖地に近くあることを両立させることができるからである。ついでに言えば、ベツレヘムは砂漠に近いが、ヒエロニュムスのコスモポリタン的な社会的・知的な交わりを途絶えさせずにおけるほどには都市に近い。シリアの砂漠でアラム語の野蛮な響きに囲まれていたときとは異なり、ベツレヘムでは周囲に文化的な言語を話す者たちがいるのである。ベツレヘムは大都市でも、オリゲネス主義論争の中心地でも、ユダヤ人の終末待望の地でもない。

2019年6月26日水曜日

ヒエロニュムスとタルグム Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim"

  • Robert Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim," Journal of Semitic Studies 32/1 (1987): 105-23.

近年のタルグム研究は、ある伝承の古さや新約聖書への影響に関心を持つことが多く(特に、R. le Deaut, M. McNamara, L. Diez Merinoらカトリックの研究者)、タルグムと教父の著作の関係はあまり話題に上がらない。本論文は、小預言書、とりわけゼカリヤ書、マラキ書、ナホム書のタルグムに残されているユダヤ伝承をヒエロニュムスがどのように用いたかを明らかにするものである。小預言書のタルグムが作られたのは、ヒエロニュムスが生きた4世紀から5世紀頃のことである。ちょうどパレスチナ・タルムードの成立時期でもある。

ヒエロニュムスがタルグムに由来する伝承を保存しているといえるのは、それが次のような伝承と同じでないことが明らかなときである。すなわち、七十人訳、聖書の諸訳、ラビ文学以前のユダヤ文学、ヒエロニュムスより古いラビ文学、オリゲネスらキリスト教文書である。ヒエロニュムスは、こうした前提のもとで、ヒエロニュムスの解釈のソースがタルグム伝承に由来することを裏付ける9つの例を挙げている。

そこから明らかなのは、ヒエロニュムスの時代は反ユダヤ的な法律が次々に施行された時代であったにもかかわらず、この教父がユダヤ人との付き合いを妨げなかったことである。またヒエロニュムスは、タルグムやラビ伝承が現存する写本よりももっと前の時代にどのように発展したのかを見せてくれる。ヒエロニュムスはユダヤ教の内部の人間ではないので、4世紀から5世紀にかけての非聖書的な伝承の状態を述べ伝えるのに最適の人物である。ヒエロニュムスにとっても、一節ごとになっているタルグムは、ハラハーやアガダーのポイントに沿って再編成されているミドラッシュやタルムードよりも便利だったに違いない。またハラハー的な議論についてはあまり知識を持っていないヒエロニュムスは、一般向けの聖書解釈を扱うタルグムの方が使いやすかった。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (Supplements to Vigiliae Christianae)
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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。

2019年3月17日日曜日

ヒエロニュムスとギリシア教父 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #3: Jerome and Greek Patristics"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 90-127.

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ヒエロニュムスのギリシア異教文化の知識の特徴は、それを彼が教会作家を通じて得たことである。伝統的にヒエロニュムスはギリシアについて深い知識を持っているとされてきたが、St. SychowskiやC.A. Bernoulliらによると、『著名者列伝』における記述の多くがエウセビオス『教会史』や『年代記』に依拠しているという。A.von Harnack曰く、エウセビオスがカイサリアの図書館を使うように、ヒエロニュムスはエウセビオスの『教会史』を使ったわけである。

著者はこうした評価を正当ではないと主張する。なぜなら、ヒエロニュムスは確かに『著名者列伝』でエウセビオスに頼ってはいるが、彼自身フィロンのいくつかの論文やヨセフスの全著作を読んだからである。また『著名者列伝』を書いてからさらに28年間執筆活動を続けた人物を、その著作だけで評価するのは公平でない。よりバランスの取れた評価をするために、ヒエロニュムスのすべてのアウトプットを調べなければならない。

使徒教父についてヒエロニュムスはあまりよく知らず、彼らに関する『著名者列伝』の記述はエウセビオスに拠っている。イグナティオスとポリュカルポスを知っていると述べているが、前者については誤った情報を紹介しているし、後者については著作の中で一度も引用していない。ローマのクレメンスの著作は、既存のラテン語訳には従っていないため、ギリシア語で読んだと考えられる。『ヘルマスの牧者』についても原典を読んだわけではなく、オリゲネスの影響でこれを批判することもあれば、エウセビオスに従ってこれを賞賛することもあった。以上から分かるように、2世紀のキリスト教文学についてのヒエロニュムスの知識は不十分であり、エウセビオスに拠らなければ、オリゲネス以前のキリスト教作家についてはほとんど知らなかった。

ユスティノスアンティオキアのクレメンスついてもエウセビオス経由のわずかな知識しなかった。同じくエウセビオスに依拠しつつも、エイレナイオスについてはもう少し詳しく知っていた。エピファニオスからの引用も読んでいた形跡がある。最初の2世紀の教父たちについて、ヒエロニュムスは散漫な知識しか持っていなかった。

オリゲネスの著作は実際に読み、利用していた。F. Cavalleraによれば、ヒエロニュムスがオリゲネスについて最も辛辣だったオリゲネス主義論争の前、その最中、そしてその後も、ヒエロニュムスはオリゲネスの聖書解釈者としての科学的な価値に一片の疑問も持たなかったという。しかし、ヒエロニュムスはオリゲネスのすべての著作に等しく関心を持っていたわけではない。オリゲネスの著作群は、ヒエロニュムスによれば、スコリア(excerpta, enchiridion, scholia, semeioseis)、ホミリア(homilia)、トモイ(volumina, tomoi)の3つに分けられる。ヒエロニュムスはオリゲネスの著作の翻訳をたびたび依頼され、一時は全著作を訳すことを約束したこともあったが、結局は聖書の翻訳など他の仕事が忙しくなり、それは果たされなかった。そこで、オリゲネスの翻訳については、もっぱらホミリアを扱ったのである。オリゲネス主義論争に巻き込まれてから、ヒエロニュムスは、ホミリアは訳しても、教義的な内容を含むトモイは訳さなかったとして、自らを正当化した。しかしオリゲネスの聖書解釈はずっと読み続け、それを自らの注解の中でも採用していた。それは、E. Klostermannによれば、最後の注解作品である『エレミヤ書注解』でも同じだった。しばしばヒエロニュムスはオリゲネスに一字一句従うあまり、オリゲネスがヘブライ人教師から聞いた見解を自分自身の教師から聞いたかのように引用している。

ヒエロニュムスの『書簡33』には、オリゲネスの著作カタログが収録されている。もともと彼の全著作はカイサリア図書館に収蔵され、パンフィロスによってカタログ化されていた。そのカタログはエウセビオス『パンフィロス伝』の第3巻に収録されていたようだが、現在では失われている。パンフィロスおよびエウセビオスのカタログではオリゲネスの著作は2000巻あったとヒエロニュムスが報告しているが、彼自身のカタログには800巻しか載っていないし、収録順にもやや違和感がある。おそらく当時すでにオリゲネスの多くの著作は、アカキオスやエウゾイオスによる写本保存よりも前に、散逸してしまっていたために、ヒエロニュムスは入手できた作品だけを挙げているのだろう。ヒエロニュムスは、説教、教義的著作、注解、往復書簡など幅広く読んでいる。少なくともカタログに挙げている著作はすべて目を通しているし、それ以外にも『ケルソス駁論』、『ヘブライ語の名前について』、『マタイ福音書スコリア』、『ガラテヤ書スコリア』なども読んだ。

ここから、ヒエロニュムスのオリゲネス読書経験は広範囲であり、その知識は我々よりも深い。ヒエロニュムスにとって彼は情報の宝庫だった。ヒエロニュムスは、ある聖書文書やある一節について注解を書くとき、それに対応するオリゲネスの説教を探した。そうした説教が見つからないときには、文中でその旨を断り、その消失を惜しんだ。オリゲネスがたまたまその文書や箇所に関する注解を書いていないことが明らかなとき(たとえばダニエル書の注解はない)、ヒエロニュムスは、オリゲネスの他の著作に該当箇所への説明がないか探した。敵対者たちは、ヒエロニュムスが単にオリゲネス著作をまとめているとして批判したが、彼自身はそれを否定しないばかりか、むしろ誇っていた。

ヒエロニュムスは西方世界でヒッポリュトスを読んでいた唯一の人物でもあった。彼は、当時知られていた19作品すべてではなく、釈義的な作品のみに関心を持っていた。

オリゲネスの論敵たち、たとえば、アレクサンドリアのディオニュシオスオリュンピアのメトディオスの著作にはあまり通じていなかった。

エウセビオスからの影響は極めて大きい。特に『著名者列伝』では、『教会史』、『年代記』、『ヘブライ語の場所の名前について』などへの依拠がはなはだしい。おそらくヒエロニュムスはエウセビオスの全著作を所有していた。エウセビオスはヒエロニュムスにとって、ラテン世界において欠くことのできない情報源だった。ただし、歴史的な情報についてはエウセビオスに負っていても、エウセビオスがひとたび事実関係の記述から外れると、まるで彼を信用していなかった。エウセビオスからの強い影響は、ヒエロニュムスがカイサリアの図書館と密接に結びついていたことを示している。

ラオディケアのアポリナリオスは、ヒエロニュムスが最も読んだ同時代人の一人である。彼の名前を挙げることは稀だが、ヒエロニュムスは彼を最も有益な聖書注解者であると見なし、頻繁に用いている。注解書以外では、『ポルフュリオス駁論』をよく読んでいる。アンティオキアにおいてアポリナリオスを通じて、ヒエロニュムスは、エウスタティオス、エメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヘラクレアのテオドロスなどに親しんだ。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするカッパドキア教父(ニュッサのグレゴリオス、バシレイオス、イコニオンのアンフィロキオスら)と親交を結んだ。

アレクサンドリアのディデュモスからは三位一体論、特に聖霊論について多くを学んだ。また彼の著作を翻訳することで、アンブロシウスの盗作を暴こうとした。彼の元には一月ほどしか滞在しなかったにもかかわらず、ヒエロニュムスは彼を師と呼んで慕った。一方で、ルフィヌスとの論争が始まると、そのオリゲネスを重んじる姿勢を非難した。

ギリシア文化についてヒエロニュムスが学んだのは、コンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリア、カイサリアにおいてだったが、例外がキプロスのエピファニオスからの影響である。ベツレヘムでも、エルサレムのキュリロスソフロニオスからの影響を受けた。

西方世界においてヒエロニュムスは偉大なヘレニストだと考えられており、事実彼は東方で長い時間を過ごしたが、彼のギリシア文化の知識にはそれでもなお深刻な欠落がある。彼は古典の異教文学をほとんど読んでいない。古典ギリシア文学への知識は、キケローに代表される西方のギリシア研究を通じたものでしかない。あるいはプルタルコスやポルフュリオスなどを通じた二次的なものである。それも自分の聖書釈義に直接的に有益なものしか読んでいない。しかし、ヒエロニュムス多くの場合自分の情報源を明らかにしていない。キリスト教作家についても、オリゲネス以前の者たちについては、ローマのクレメンスやアレクサンドリアのクレメンスを除いてまるで読んでいない。アポリナリオス、ディデュモス、オリゲネス、エウセビオスからは多大な影響を受けている。ヘレニストとしてのヒエロニュムスの目的は、西方世界にギリシア聖書釈義を知らしめることだった。それゆえに、ギリシア聖書釈義を参照せずに注解を書くラテン釈義家を強く批判した。アウグスティヌスには、ペンを取る前に読むべきギリシア作家をリストアップして送っているほどである。一方で、ヒエロニュムスの弱点は、一部のギリシアの異教文化への侮りとその人間中心的な思想への無関心である。彼はキリスト教思想と相反するような異教ヘレニズム思想を危険視した。それゆえに、聖書釈義については大いに参照していたオリゲネスの哲学には攻撃を仕掛けたのである。ここから分かるように、ヒエロニュムスの異教文学への愛好を批判していたルフィヌスは間違っていたと考えられる。ヒエロニュムスはある種の劣等感から、異教文学に詳しいと見せかけることで、その自分がさらに愛するキリスト教文学の卓越性を示そうとしたのである。異教ヘレニズムとキリスト教ヘレニズムは、ヒエロニュムスにとっては永遠に相互に結び合わないものだった。

2019年3月14日木曜日

ヒエロニュムスとギリシア異教文化 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #2: Jerome and Greek Pagan Culture"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 58-89.

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ヒエロニュムスはギリシア文学を翻訳で読んだことを隠していない。特にキケローの翻訳で、彼はプラトン『プロタゴラス』、クセノフォン『オイコノミコス』、デモステネスとアイスキネスの互いへの弁論などを読んだ。

ヒエロニュムスは頻繁にギリシア詩人に言及するがあまり引用はしない。ホメロスについては、必ずしも原典を直接読んだとは限らず、キケロー『老年について』やルクレティウスのラテン語訳などを通して読んでいた。ヘシオドスはアレクサンドリアのクレメンスを通して読んだ。シモニデス、ピンダロス、アルカイオス、ステシコロス、ソフォクレスらについてはその評判しか知らなかった。アラトス、エピメニデス、メナンドロスらについては新約聖書で引用されている箇所にしか触れていない。エウリピデスとアリストファネスについては、プルタルコスやポルフュリオスらから知ったと思われる。

ギリシア弁論家たちについては、名前を知っていたのみで、その著作に通じていたわけではなかった。リュシアス、ヒュペリデス、ペリクレス、デモステネス、アイスキネス、イソクラテス、ポレモンなどに言及している。詩人も弁論家も聖書解釈にはあまり役に立たないので、直接の知識が必要なかったのであろう。

ギリシア哲学については批判的である。なぜなら、彼によれば異端者は皆プラトンとアリストテレスの弟子だからである。ゼノン、クレオンブロテス、カトー、エピクロスについては、すべて読んだと主張しているが、これは修辞的な誇張であることは明らかである。他にもアナクサゴラス、クラントル、ディオゲネス、クリトマコス、カルネアデス、ポセイドニオス、エンペドクレスらを学んだと述べている。ピタゴラスについては、ラテン語訳でのみ読んだことがあると認めている。

プラトンの著作については、ヒエロニュムス自身は原典テクストを所有していたと述べているが、多くはキケローの翻訳などで読んだようである。プラトンの哲学については、かなりいい加減な知識しか持ち合わせなかった。魂の三部分に関する議論についても、オリゲネスやナジアンゾスのグレゴリオスなどに依拠していた。プラトンと新プラトン主義との混同も見られる。

アリストテレスの形而上学的著作については無知だった。ヒエロニュムスにとって、アリストテレスは論理学者であり自然学者であった。アリストテレスの話をするときには、テオフラストスも一緒に遡上に上げることが多い。テオフラストスの情報源は、F. Bockによればテルトゥリアヌスだとされているが、G. GrossgergeとE. Bickelによればセネカ、プルタルコス、ポルフュリオスだとされる。

ポルフュリオスについて、ヒエロニュムスは強い関心を持っていた。彼はポルフュリオスの『エイサゴーゲー』を若い頃からよく読んでいたが、それを情報源にしていることを隠していた。なぜなら、敵対者たちから異教文学に耽溺していることを非難されないようにするためである。しかし、ヒエロニュムスのオルフェウス、ピタゴラス、ソクラテス、アンティステネス、ディオゲネス、サテュロスらについての知識はポルフュリオスに由来する。しかもそれに勝手にキリスト教的なトーンを付加している。

ポルフュリオスの著作でも言及するものとしないものがある。『ピタゴラス伝』と『禁欲について』に言及することはないが、『反キリスト教論』には頻繁に触れる。ただし、ポルフュリオスの著作のすべてを直接読んだわけではないと考えられる。むしろポルフュリオスに対する駁論、たとえばオリュンポスのメトディオス、カイサリアのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオスらから彼の教説を紹介することもある。特にエウセビオスに主に依拠している。

ギリシア歴史家に関しては、ヒエロニュムスは必ずしもすべてを原典で読んだわけではないし、そもそも名前を挙げているだけの場合もある。彼が目を通したのは聖書研究に有益な歴史家の作品である。それはたとえば、トゥキュディデスやヘロドトスであったが、それらの引用はプルタルコスやアレクサンドリアのクレメンスからの孫引きであった。クセノフォン『オイコノミコス』はキケローの翻訳で読んだ。

ユダヤ人歴史家としてフィロンとヨセフスにしばしば言及している。フィロンの著作を所有していると述べていたが、しばしばエウセビオスを通じた引用をしている。ヒエロニュムスは、フィロンを哲学者というよりは歴史家として重んじていた。ヨセフスについては、ヒエロニュムス自身は何度も否定しているが、伝統的に彼がヨセフス著作の翻訳者だと考えられてきた。ユダヤ人の歴史と文明の知識については、ヒエロニュムスはヨセフスに負っている。また他の古代作家たち、たとえばベロソス、ムナセアス、ダマスコスのニコラオス、アレクサンデル・ポリュヒストル、クレオデモス・マルコスらの著作にも、実際にはヨセフス経由で触れている。

ギリシア医学に関しては、ヒッポクラテスやガレノスに言及している。前者はオリゲネス経由での知識と考えられる。ギリシア自然学については、アリストテレス、テオフラストス、シデのマルケッロス、ディオスコリデス、オッピアノスに触れているが、それはテルトゥリアヌス、パキアヌス、アンブロシウスらキリスト教作家からの又聞きである。ギリシア鉱物学については、エピファニオスに負っている。彼は大プリニウスを自分で読んでいたにもかかわらず、ほとんどのギリシア自然学者については名前だけ知っていたにすぎなかった。