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2016年10月25日火曜日

ヨセフスの聴衆、ソース、改変、目的 Feldman, "Use, Authority and Exegesis of Mikra" #2

  • Louis H. Feldman, "Use, Authority and Exegesis of Mikra in the Writings of Josephus," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 455-518, esp. pp. 470-503.
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ヨセフスが念頭に置いていた聴衆は二種類あった。第一に、異教徒に対してである。『古代誌』で述べているように、ヨセフスは非ユダヤ人世界のギリシア人に向けて書いていた。「ギリシア人」とは、この場合、「非ユダヤ人」という意味と捉えてよい。第二に、ユダヤ人に対してである。実際には、ユダヤ人はヨセフスの主要な聴衆ではなかったが、可能であれば読んでほしいと考えていたようである。

ヨセフスが著作を書くに当たって持っていたソースは三種類、ミドラッシュ、ヘレニズム期ユダヤ人作家、そして彼個人の見解であった。第一のソースであるミドラッシュとは、成文化されたものだったのか、それとも口伝のままだったのかについては議論がある。Schalitは口伝からだと考えたが、Rappaportは成文化されたものだけからだと考えた。ヨセフスの同時代人だと考えられる、偽フィロン(『聖書古代誌』)やそれ以前の『外典創世記』には、ヨセフスと共通のソースからと見られる伝承がある。

第二に、ヘレニズム期ユダヤ人作家たちは、ヨセフスの模範となり、またスタイルのモデルともなった。特にフィロンの卓越したギリシア語は大きな影響を与えたと思われる。Wacholderは、ヨセフスは聖書外の伝承については、同時代のユダヤ人歴史家ティベリアのユストス『ユダヤ王年代記』に依拠していると考えた。他にも、悲劇作家エゼキエル、フィロンなどからの影響が認められる。

第三に、ヨセフス自身も、特に護教的理由から聖書に多くの改変を加えている。枢要徳、劇的要素、エロティックな要素の強調や、神学的・魔術的要素の非強調などが挙げられる。これは、ヨセフスの個人的な経験に基づくものと考えられる。

ヨセフスは、聖書の記述スタイルを変えている。その際には、軍事的な用語である「整列(τάξις)」という語を用いて、あたかも文学における将軍のように、彼は聖書の記述をリアレンジしたのだった。その際には、時系列やソースに従うのではなく、テーマに従ってそうした情報を並列させた。

ヨセフスによる聖書の記述の改変には、次のような諸特徴があった。テクスト上の神学的や問題や矛盾を解決すること、時系列の難点を取り除くこと、神の神人同型説を回避すること、ある出来事によりよい動機や合理性を与えること、テクスト上の曖昧なところを明確化すること、ヘレニズム期の修辞学に通じた者に自分の作品をアピールすること、ドラマの意味を増やすこと、アイロニーを増やすこと、寓意的解釈を用いること、そして一貫性のために特定のキーパーソンに注目することなどである。

以上のような改変の目的は、論文著者によると二つある。第一に、反セム主義者に対しユダヤ民族を護り、歴史の宗教的な解釈を与えるという、護教的な理由である。そのために、ヨセフスは聖書の物語をギリシア化(Hellenization)させた。彼は55人を下らないギリシア人作家に言及し、読者に対して自身のギリシア文学への造詣の深さを印象付けた。彼は『戦記』執筆においてはギリシア人のアシスタントをつけていたと述べているが(『アピオーン』1.50)、『古代誌』執筆時はすでローマに20年以上住んでいたので、すでにアシスタントを必要としてはいなかったと考えられる。

ヨセフスのギリシア人作家への知識は深かった。彼は、エウリピデスの語彙を用いてイサクを、ホメロスを用いてアブラハムを、ヘロドトスを用いてモーセを、そしてソフォクレスを用いてソロモンを描きなおした。

ヨセフスは自身の物語をつむぐために、アブラハム、モーセ、サウル、ダビデ、そしてソロモンといった偉大な英雄たちを中心に据えた。ユダヤ人は偉大な人物を生み出さなかったという批判(『アピオーン』2.135)に対し、ペリパトス派的な伝統に則り、歴史における英雄に注目したのである。これは、神を中心に据えている聖書とは異なったアプローチである。英雄たちは、生まれの良さ、見た目の良さ、徳の高さ(枢要徳)が求められていた。これらを備えることで、ユダヤ人の英雄たちは預言者であると共に、プラトン的な哲学者として描き出されるのである。

ある人物の生まれの良さに関しては、先祖を称賛することで示される。英雄は、人物の良さのみならず、生まれの良さが求められる。しばしばその者は早熟で見た目がいい人物として描かれる。身長も高い場合が多い。徳の高さは、枢要徳(知恵、勇気、節制、正義)に加えて、プラトンが五つ目の徳と数えた「敬虔」も加えられる。知恵には、天文学や幾何学といった科学への通暁、他人の意見に耳を傾けることのできるオープンマインド、聞き手(ἀκροωμένοις)を納得させる説得力が関係している。勇気としては、戦闘における勇気と技術がある。ギリシア人はユダヤ人は臆病だと思っていたが、それに対し、ヨセフスはモーセの将軍として能力の高さを強調した。節制には、謙遜であることが求められる。正義の中には、真実を語ること、人間を愛することなどがある。

ユダヤ人は、英雄を生み出さなかったと批判されていただけでなく、人間嫌いであることをも批判されていた(クインティリアヌス、マルティアリス、タキトゥス、ユウェナリス)。ヘカタイオスの時代から、ユダヤ人は「非社会的」で異民族に対し「敵対的」であると見なされていた。これに反論するために、ヨセフスは聖書の人物たちがいかに人間愛に満ちていたかを強調した。そのためには、聖書の記述における不適切な記述を省略することさえ辞さなかった。

ヨセフスはまた、読者の政治的・軍事的・地理的な関心に応えようとした。ユダヤ人の政治的な構造や政争について解説した。大衆を蔑視していたヨセフスとしては、政治構造として最高なのは貴族制であり、最低なのは独裁制であった。軍事的内容を描くときには、自身の経験を埋め込み、地理的内容を描くときには、エラトステネスやストラボン由来の科学的な地理学を用いた。

読者の哲学的な関心に応えるために、ヨセフスは、ユダヤ人の宗教的グループをギリシアの哲学諸派に比較した。また彼は聖書の登場人物を、特にストア派の用語を用いて描きなおした。

ヨセフスは、悲劇的なモチーフをもよく用いた。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスからの影響は顕著である。傲慢(ὕβρις)や運命(χρεών)といった用語を用いて聖書の登場人物を特徴づけた。

さらにヨセフスは、ロマンティックなモティーフを聖書の物語に追加した。ホメロス、ヘロドトス、クセノフォン、そしてヘレニズム期の小説を用いて、聖書では曖昧にされている性的な事柄を明示した。すなわち、性交や女性の美の強調などがはっきりと描かれたのである。

2016年4月2日土曜日

文献学者アリスタルコス Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation"

  • Rudolf Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 210-33.
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サモトラケ島で生まれたアリスタルコスは、人となりはあまり知られていないが、外見に気を使わない人物だったと言われている。彼は第五代のアレクサンドリア図書館長として奉職しつつ、他の図書館長たちと同様に、プトレマイオス王家の家庭教師としても活躍した。中でも彼はプトレマイオス7世ネオス・フィロパトルと親しかったために、前145/4年頃にこの王が政争でプトレマイオス8世エウエルゲテス2世に敗れると、アリスタルコスはキプロス島に逃れたのだった。シュラクサイのモスコスを始めとする40人もの弟子がいたというが、こうした弟子たちもロードス島、ペルガモン、アテーナイなどへと逃れたために、アリスタルコスのあとの図書館長は、キュダスという何の教養もない軍人が勤めることになった。

アリスタルコスの仕事は、先人たちが残したギャップを埋めることであった。彼以前の図書館長たちは、自分が校訂した作品に関する著作をするときに、専ら「モノグラフ(συγγράμματα)」を書いたが、アリスタルコスはモノグラフのみならず、「注解(ὑπομνήματα)」をも得意とし、一説では800巻もの注解をものしたという。アリスタルコスの注解は、『イーリアス』のヴェネツィア写本の欄外にあるスコリアに残されている。このスコリアは、ディデュモス、アリストニコス、ヘロディアン、そしてニカノルという4人の学者によって作成された。

アリスタルコスの注解の研究は、近代のホメロス文献学と密接に関わっている。1788人に発見された先のヴェネツィア写本をもとに、F.A. WolfはProlegomena ad Homerum (1795)を上梓した。この中でWolfは、アリスタルコスが書いたのは注解だけであり、また彼が作成したホメロスの校訂版は複数ではなかったと主張した。しかし、これに対してK. LehrはDe Aristarchi studiis Homericis (1833)において反論し、ディデュモスは少なくともアリスタルコスによる二種類の校訂版と二種類の注解を持っていたと主張した。20世紀になると、H. Erbseが、アリスタルコスの著作が言及されるときに用いられる、ἐκδόσεις, διορθώσεις, ὑπομνήματαといった言葉の用法を検証し、第一に、アリスタルコスが書いた注解はおそらく一種類であること、そして第二に、彼は独自の校訂版を作成することはなかったことを主張した。いわば、ErbseはWolfの主張に立ち返ったのである。

以上は近代のアリスタルコス観であるが、古代においては、たとえばディデュモスはアリスタルコスがホメロスのテクストの二種類の改訂版を作成したと述べるが、アリスタルコスの弟子だったアンモニオスは一種類の版のみしかなかったと述べる。また注解に関しては、Aスコリアは複数の注解があったと報告している。こうしたことから、論文著者はこの経緯を以下のようにまとめている:第一に、アリストファネスの校訂によるテクストに基づいたアリスタルコスの最初の注解が出版され、第二に、アリスタルコスによるテクストの改訂がなされ、第三に、その自身による改訂版を用いた二つ目の注解が出版され、最後に、彼自身による再度の改訂がなされた。

アリスタルコスは、ゼノドトスとアリストファネスによって導入された欄外における印を用いた。パピルスのスクロールを用いていた時代には、テクストと注解とは別のスクロールに書かれており、テクストに使われた印は、注解における本文引用や見出しにおいても繰り返されていたが、コーデックスを用いるようになると、欄外に十分に注解を付すことができるようになった。

アリスタルコスはこのようにホメロスを重点的に取り上げはしたが、他の非ホメロス的文学に関する文学批評をも残している。ヘシオドスのような教訓叙事詩、さまざまな抒情詩、ピンダロス、バッキュリデス、アルクマン、ステシコロス、サッフォー、アルカイオス、またアイスキネス、ソフォクレス、エウリピデス、アリストファネスらの劇にも注解コメントを残している。さらに、アリスタルコスはヘロドトスのような散文作者に初めて注解コメントをつけたことでも知られている。

このように、たくさんの注解を残したアリスタルコスの解釈原理として有名なのは、ポルフュリオスが伝えている、「ホメロスをホメロスから説明する(Ὅμηρον ἐξ Ὅμήρου σαφηνίζειν)」というものである。本当に彼がこうした言い回しをしたのかは不明だが、少なくともこの原理は他の箇所から知られるアリスタルコスの意見と一致しているという。論文著者が考えるところでは、この言い回し自体はポルフュリオスによる発案であろうと考えている。

注解をする中で、アリスタルコスは文法的、あるいは韻律学的な発見もしている。実際に、文法的な類推は彼の手法のひとつであった。それによって、アリスタルコスは、「非ホメロス的な(οὐκ Ὁμηρικῶς)」ところや「後ホメロス的/ありきたりな(κυκλικῶς)」ところを発見し、そうした箇所を消去するのではなく、「改竄(τὸ ἀθετεῖν )」として印をつけたのだった。アリスタルコスによって整えられたこの方法は、のちの学者たちによっても踏襲されることになった。

アリスタルコス自身の、ホメロス詩観としては、エラトステネスと同様に、ホメロスは教育ではなく娯楽を目的として詩を書いたというものであった。いうなれば、アリスタルコスは、ホメロスの創造性と陳腐さとを区別するアリストテレス的・カリマコス的な見解を受け入れ、クリティカル・サインを用いることでそれを明確にしたわけである。

プトレマイオス7世と8世との政争によって、アリスタルコス以降、アレクサンドリア図書館における卓越した学者たちの伝統は途絶えてしまった:
They were, as we have seen, connected by personal links, as the younger scholars were the pupils of the previous generations; but there were no διαδοχαί, as in the philosophical schools with their particular δόξαι. The great Alexandrians were united, not by doctrine, but by the common love of letters, and every one of them was an independent individuality.

2015年12月2日水曜日

ヘロドトス『歴史』の方法論とジャンル Luraghi, "Meta-historie"

  • Nino Luraghi, "Meta-historie: Method and Genre in the Histories," in The Cambridge Companion to Herodotus, ed. Carolyn Dewald and John Marincola (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 76-91.
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ヘロドトスの記述の中には、歴史文学においては稀なことに、しばしば一人称で語り手が登場する。これは、他の多くの歴史家が、自分がある情報をどこで手に入れたかを問題にしないことが多いのに対し、ヘロドトスは情報入手のプロセスを語るために、一人称を必要とするからである。論文著者は、情報を集めて評価するプロセスに関する一人称と、「~人が言うところでは」という三人称とを同時に用いることを、「メタ・ヒストリエ」と呼んでいる。本論文は、このメタ・ヒストリエがヘロドトス『歴史』の中でどのように機能しているかを検証したものである。

ヘロドトスの歴史記述には三つの基礎があって、それらは、第一に口頭での情報(アコエー)、第二にヘロドトス自身の目撃証言(オプシス)、そして第三にヘロドトス自身の調査(グノーメー)である。オプシスがヘロドトス自身の経験に根差したものであり、グノーメーがヘロドトス自身が調査して正しいと考えているものであるのに対し、アコエーは必ずしもヘロドトスが正しいかどうか確信があるわけではなく、真実であることを保証しないものである。オプシスとアコエーは、ソクラテス以前の哲学者であるエフェソスのヘラクリトスによっても用いられている方法であったが、これらの方法論だけではヘロドトスの『歴史』を説明できない。そこで、論文著者は、アコエー、すなわち口頭伝承に注目している。

口頭伝承の収集というと、まるでヘロドトスが現代的な科学的な態度で、異なる版を比較し、情報提供者の妥当性を吟味し、情報の流通経路を確かめたかのように見えるかもしれない。実際に、植民地時代以前のアフリカの歴史を再構成するために、口頭伝承に注目したJan Vansinaなどは、ここで言うところの科学的な態度によって、口頭伝承の伝達や機能を分類することに成功した。しかしながら、ヘロドトスにおける語り手による情報提供者への言及を文字通りの意味で取ることはできない。なぜなら、ヘロドトスにおける口頭伝承の情報には、二つの傾向があるからである:第一に、ある民族グループが、いつでも彼ら自身の国で起こったことや、彼ら自身の先祖に起こったことのために引き合いに出されること、第二に、そうしたグループは自分たちを有利な立場にする説明のみを提供していることである。これらから見て、ヘロドトスが情報を得たとしている情報提供者を、現代的な意味でのそれを信じるわけにはいかない。彼は、読者によって期待されている関心や観点を、口頭伝承として提供しているのである。そのときにヘロドトスがあえて情報提供者を出すのは、彼が読者をだまそうとしているというよりも、自分自身をその情報から引き離すためなのである。また、ヘロドトスが他の歴史家からの引用をほとんどしなかったのは、当時は書かれた記録よりも、こうした口頭伝承の方が読者により信頼されたからであると考えられる。

さて、ヘロドトスがメタ・ヒストリエという方法論を採った理由のひとつは、読者の期待に沿うためだったわけだが、もう一つジャンルの問題がある。彼はメタ・ヒストリエの語り手として、自身や読者が必ずしも信じることを求められていないような説を挙げているが、それは、通常ならば文学のジャンルに縛られて語れないようなことを語るためであった。ホメロスがトロイア戦争で語っている内容には異説があるわけだが、ホメロスは叙事詩に適した説のみを歌っている。それぞれの文学ジャンルは、それぞれ語るに適切な内容を選ぶのである。ヘロドトス以前の歴史ジャンルは神話を扱っていたので、叙事詩と変わらない内容であった。しかし、メタ・ヒストリエの方法を用いることで、ヘロドトスは他の文学ジャンルとの違いを示したのである。また複数の語り手を出すことで、他の文学ジャンルであればそのジャンルに縛られて省いてしまうような内容をも語れるようにし、読者に判断を委ねたのだった。

2015年9月24日木曜日

柳沼「ヒストリアはいつから歴史になったか」

  • 柳沼重剛「ヒストリアはいつから歴史になったか」『語学者の散歩道』岩波現代文庫、2008(1991)年、94-107頁。
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今学期は大学でヘロドトス『歴史』とヨセフス『アピオーンへの反論』の講読の授業に出ているので、「ヒストリア」について書かれたエッセイを読んだ。本書に収められた文章は皆、書き流したようなエッセイ風の筆致だが、さすがに碩学の文章は説得力があり、なおかつ滋味に富んでいる。

ギリシア語の「ヒストリア」は、もともとは現在の「歴史」という意味では使われていなかった。ヘロドトス『歴史』の冒頭では、「歴史」に当たりそうな語である「人間界の出来事」は「タ・ゲノメナ」であり、「ヒストリア」は「研究調査」という意味である。他の作家の用法でも同様で、プラトン、アリストテレスのほとんど、イソクラテスなども皆、「研究」「調査」「探求」を意味している。

ただし、アリストテレス『詩学』に出てくる2箇所は、しばしば「歴史」という意味で読まれてきた。第9章(1451b4以下)では、ヒストリアを書く人と詩人とが対比され、前者は個々の「実際に起こったこと(タ・ゲノメナ)」を書くが、後者は普遍的な「起こるであろうこと」を書くとしている。つまりアリストテレスは、ここでヒストリアという語を、「普遍的でない実際に起こったこと」を書くこととしているので、むしろ「歴史」というよりは「年代記」という例外的な意味合いで使っているように思われるという。

ヒストリアがまぎれもなく「歴史」という意味で使われたのはいつか。前1世紀のディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスらの用法はすでに「歴史」の意味である。前2世紀のポリュビオスは、多くは「歴史」だが、やはり「研究」の意味でも用いている。そうしたことから、著者は次のように仮説を立てる:
本来「探究」を意味し、探究のために「問うこと」を意味し、さらにその結果得られる「知識」を意味していたヒストリアという語が、アリストテレスの頃から次第に「歴史上の出来事に関する探究や知識」をおもに意味するようになり、この「歴史」と「探究あるいは知識」との間でしばらく綱引きが行われていたが、前一世紀になってようやく、単なる知識ではなくて「歴史の知識」「歴史を書くこと」へと全面的に変わった。これが私の仮説である。(101頁)
また著者はヘロドトスの重要性にも着目している。ヘロドトス以前の歴史家の用法は、神々の系譜や地誌に関する探究を意味していたが、ヘロドトスは(おそらく初めて)それを「人間界の出来事」を対象とした探究という意味で用いたのである。
つまりヘロドトスによって、ヒストリアが歴史の領分に踏み込んだということだが、同時に、彼が「タ・ゲノメナ」を研究調査する時、その調査は、系譜や地誌の研究をする伝統的なヒストリアの延長線上にあったということでもある。(102-3頁)
なおかつ、ヘロドトスの「探究」のソースには信頼性の高さの度合いがあるという。最も確かなのは、「自分の目で見たこと」であり、二番目が、「見ただけでは納得いかないが、こちらから尋ねて得た答え」であり、そして三番目が、「自分から聞いたわけではなく、おのずと聞こえてきたこと」である。そしてこのうち二番目の「尋ねる」というときに彼が使っている言葉がヒストレインなのである。いうなれば、ヒストリアとは、自分で現場へ出かけて行って、自分の目で確かめようのないことに関して、しかるべき相手に問うて答えを得ることだということである。

一方で、興味深いことに、プラトンが「探究」という語を使うときのギリシア語は、必ず「ゼーテイン/ゼーテーシス」という言葉だった。これはヘロドトスやアリストテレスとは異なっている。著者によれば、前者が「~とは何か」「何が~なのか」という探究であったのに対し、後者は「いかに」「どうして」という探究であったのだと説明している。

また、「人間界の出来事」にヒストリアを拡大したヘロドトスの後に出てきたトゥキュディデスは、明らかにへロドトスを意識しつつも、ヒストリアという語を一度も用いなかった。つまり、彼はヘロドトス型のヒストリアではないかたちでの「人間界の出来事」の探究をしたかったのだと思われる。しかし、後代になって、「タ・ゲノメナ」を語ることが「ヒストリア」と呼ばれるようになって、両方とも「歴史」と見なされるようになったのだと思われる。