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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #6

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.


本章においては、全体の結論が論じられている。マソラ本文のサラには複雑さと一貫性が見られる。サラの強張った軌道は彼女の道具としての性質に貢献する。アブラハムとの類似は彼女が固く強張るに連れて増える。サラは自分の見た目が他人の目にどう映るかに意識的であるが、マソラ本文以外の伝承にはそうした特徴はない。所有と喪失のモチーフも他の伝承からは消えている。

七十人訳のサラはより極端で突飛である。またアブラハムの人物像の派生としての特徴をより色濃く持っており、神的な約束の成就においてよりプログラム的な役割を演じている。彼女の存在の薄さや活気のなさ、また縮減などは彼女の有用性に貢献している。彼女は神の目的に合致している。彼女の美しさは特に彼女の顔に結びついている。七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりもアブラハムに似ている。その類似は神の約束の達成のための彼女の有用性を強調する。

『創世記アポクリュフォン』はやや外れものである。というのもアブラハムが語り手の役だからである。GNのサラは知りたがりで、発言力があり、感情的で、行動力やイニシアチブを示す。他の伝承同様に美しさを備えているが、他に知恵と手先の器用さをも持っている。サラに知恵があるというのはGNの新奇なアイデアである。サラの有用性は機械的な性的受容性にあり、そのとき彼女は性的な不可侵性を持つ対象になっている。GNでもサラはアブラハムに類似しているが、同一の根を持つ植物のメタフォリックで斬新なイメージのもとで表現されている。

『古代誌』のサラはアブラハムとの類似があるが、本当の血縁関係にすることで、この古いテーマを新しい切り口で表している。またサラはアブラハム同様に説得力を持った人物として描かれる。サラのイシュマエルに対する関係は、アブラハムのイサクに対する関係に比すことができる。『古代誌』においては、ハガルとイシュマエルに対するサラの態度は、アブラハム同様、神に命じられたものだった。語り手はサラやアブラハムの人物像を洗練させ、過ちを正当化しようとしているが、その試みが中途半端なため別の問題を引き起こしてしまっている。

以上のことから、著者は本書の発見を次の2つであるとしている。第一に、サラの深いところの特徴あるいはその原型的な特徴はアブラハムに類似している。これはサラがアブラハムの影になっているというわけではない。この特徴は諸物語を横断して見られるリンクになっているが、物語によってその機能は異なっている。第二に、サラのキャラクターは複雑で、展開したり、競合したり、矛盾したりする特徴を含んでいる。彼女の有用性がアブラハムや神の約束を成就させることにあるのは否定できないが、単純にその機能だけに縛り付けられているわけではない。サラはときに語り手たちの男性中心的・家父長的な伝承の狭隘さを免れている。

また著者は本書の貢献として以下の3点を挙げている。第一に、著者は創世記やその語り直しにおいて自分に明らかにされたサラを認め、再発見しようとした。聖書における女性を対象とした同様の検証はまだ手薄なので、これからそれが続くことが期待される。第二に、周辺的で無視されてきたキャラクターに光を当てるような、理論的でキャラクター主体の詩学を作り上げ、使おうとした。本書で扱った諸文書に物語論的な視点でアプローチした研究はほとんどなかった。そして第三に、語り直し聖書物語を絶え間なくその源泉に盲従させたり比較したりすることなく読む方法を見つけようとした。語り直しを独自の統一性をもった作品と見なすことで、当然与えられるべき解釈の配当を配分したわけである。本書で扱われたテクストはどれも現在最上の状態に置かれており、それらは聖書学や人文学が使えるあらゆる方法論的ツールによって探求されるべきである。

第二神殿時代のサラ #5

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.

本部分においては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(以下『古代誌』)におけるサラのキャラクター性が論じられている。『古代誌』において、著者はサラのキャラクター性には3つの中心点があると主張する。第一に、サラはしばしば役割やイニシアティヴにおいて減じられている。第二に、サラのイメージはしばしばアブラハムのそれに一致している。そして第三に、サラの描写は、語り手が主要登場人物をポジティヴに改善させて描こうとするあまり、複雑化してしまっている。ちなみに著者は、『古代誌』の語り手は必ずしも著者であるヨセフスと同一ではないため、「語り手」という言葉を使っている。

『古代誌』1.148-160:父であるハランの死によってサラは孤児になってしまったが、ハランの兄弟の一人であるアブラハムがサラと結婚し、その兄弟であるナホルがロトを引き取った。著者によれば、ここには叔父としての思いやりと共に性的・生殖的な目的がはっきりとあるという。いずれにせよ、『古代誌』はサラとアブラハムが本当の血縁関係であることを示している。他の伝承でも多くの場合サラはアブラハムによく似ているとされているが、『古代誌』は両者を血縁関係にすることで、この類似を「深い特徴」にしているのだ。ただしこうした血縁関係はもともとアブラハムを定義するためのものであり、それを介してサラを描いているため、サラの説明としては間接的である。

『古代誌』1.161-168:エジプトにおいて、アブラハムはエジプト人たちに教育を施すことができるほどの説得の能力を示している。しかし、女性に対して熱狂的な欲望を持つエジプト人たちの目に、肉体的な美しさを持つサラが留まってしまうと、自分も危うくなるかもしれないため、アブラハムはサラを妻ではなく妹だとごまかすことにした。そこでアブラハムはこのごまかしによって自分もサラも利益を得るのだとサラに説明したわけだが、結局大金を得たのもエジプト人の知識人と交流できたのもアブラハムだけであり、サラは誘拐され強姦されかけた。つまり語り手はアブラハムの先見の明を強調しようとしたが、アブラハムはサラの危険に考えを予想できていなかったことになってしまった。同様に、語り手はサラをポジティヴに描こうとして失敗しているところもある。語り手によれば、ファラオはサラがアプラハムを連れてきたように述べており(1.165)、またファラオは最初はサラの見た目に惹かれたが彼女から真理を学んだという(1.165)。つまりここでサラは比較的独立性を保っており、語りの中で主導権を握りさえしているわけだが、彼女の主体性は長くは続かず、結局また元の役割に戻っている。

『古代誌』1.169-185:サラの存在についてのヒントなし。

『古代誌』1.186-190:サラに子供ができないことにアブラハムが苛立っている。これは子供がいないことについてサラの役割に触れた最初である。そこでサラはハガルをアブラハムにあてがうわけだが、『古代誌』においてはそれが神に命じられてしたことだと明言されている。神に命じられてサラがハガルにしたことと、神に命じられてアブラハムがカナンに移住したことが同等視されている。つまりサラは神からの直接の交信を受け、それに従順に応じている。この従順さとはアブラハムの主たる特質だった。このようにアブラハムに似ていることはサラのキャラクターの根本的な点になっている。ここでのサラは奴隷所有者である。語り手は、サラがハガルを「横にならせた」(1.187)と婉曲表現を使っているが、これは「性交させた」という意味である。いかに遠回しに表現してもサラの残酷さは隠せない。また語り手はサラをよく見せるために、サラはイシュマエルを自分の子のように可愛がったが、ハガルは驕り高ぶっていたと述べる。つまりハガルの反応を蔑むかのように描いているが、妊婦に対して死に至るような虐待(aikia)をしたのはサラである。このようなサラによるハガル虐待は、他の伝承ではエジプトにおけるサラのひどい扱いと関連付けられていた。『古代誌』においてもそれはそうだが、語り手がアブラハムやサラに直接セリフを言わせないため、主として心理的な要素に留まっている。

『古代誌』1.191-193:特にサラの描写なし。

『古代誌』1.194-206:三人の天使の訪問を受け、アブラハムが歓待している。これは天使たちを温かく迎えなかったソドムの市民たちとの対比になっている。サラはそのとき近くにいたので、天使たちはサラの「笑い」を見たに違いない。ただし、この個所ではアブラハムやサラたちのシーンよりもソドムの破壊の方が強い印象を与えてしまっている。アブラハム自身がサラの妊娠の可能性よりもソドムの破壊に気を取られている(1.199-206)。ここではサラの高齢について初めて明確な言及がある。またサラが天使たちの言葉を信じずに笑ったことで天使たちが変装を解いたので、サラはここでわずかな力を示したと言える。ただしいずれの特徴もバラバラで、このエピソード全体があまりうまくまとまっていない。

『古代誌』1.207-212:ゲラルの滞在はエジプト滞在とさまざまなかたちでリンクしている。ここでも語り手はアブラハムをよく描こうとして失敗している。洞察力に優れているはずのアブラハムがサラの陥りかねない危険をなぜ予期できないのか。マソラ本文や七十人訳ではエジプトよりもゲラルにおけるサラの方が主体性や行動力を持っていたが、『古代誌』においてはエジプトのときの方がましである。『古代誌』におけるゲラルのサラは自分の正体を明かすことも知恵の言葉を語ることもない。誘拐と強姦未遂に遭ったサラのゲラルにおける動きははっきりしない(彼女が自分の正体をアビメレクに明かすシーンもない)。『古代誌』のようにアブラハムとサラが叔父と姪の関係であれば結婚は可能だが、マソラ本文や七十人訳のように兄妹関係であれば結婚は不可能である。これは『古代誌』の語り手が二人の血縁関係を強調しつつ、二人が律法違反を犯していないことを示すことで、二人をよく描こうとしているのである。しかし結局こうした策を弄そうとしたアブラハムを肯定的に描くことには失敗している。

『古代誌』1.213-221:イサクの命名は「老齢での出産を予言されたサラが笑った」ことに由来するが、イサクの名前説明にはゲロース、サラが笑った時にはメイディアオーという別の単語が使われているので語源説明になっていない。『古代誌』は「子供が両者から生まれた」と説明することで、イサクがアブラハムだけでなくサラの子供でもあることを示している(マソラ本文はアブラハムのみ)。サラはイシュマエルが生まれたときに最初は愛情を示していたとされるが(1.215)、これは語り手による下手な正当化である。サラが最初は愛情を示したにもかかわらずイシュマエルに辛く当たったことは、アブラハムがイサクに愛情をかけたにもかかわらず献げ物にしかけたことと並行関係になっている。サラはイシュマエルがイサクを害するかもしれぬと考え、かつては愛情をかけたイシュマエルとその母ハガルをアブラハムに「植民地(アポイキア)」へと追放させたとされている。この個所の解釈としては、第一に、「どこか別の場所に行かせた」という一般的な解釈と、第二に、「植民地を設立させた」という解釈がある。いずれもサラの非道さを和らげて暗い話を何とか明るくしようとする語り手の試みであるが、実際のところこの追放は死刑に等しかった。そしてその決定はサラのイニシアチブのもとでなされたのである。

『古代誌』1.222-236:イサクの奉献の場面においてサラはほとんど登場しないが、まったくいないわけではない。ここでアブラハムがイサクに向けている「好意(エウノイア)」はサラがかつてイシュマエルに向けたの(1.215)と同じ単語である。つまり、サラはイシュマエルに母のような愛情を持っていたにもかかわらず、神の干渉によって助かったとはいえ彼を死出の旅に送った。一方アブラハムはイサクに父親としての愛情を持っていたにもかかわらず、イサクを死に追いやるところで神の干渉を受けた。ここでサラははっきりとアブラハムのイメージと一致している。イサクの奉献のエピソードにおいてアブラハムが彼の目的をサラに明かさなかったことからは、サラの力が透けて見える。ただし結局のところサラはアブラハムの計画に気付かなかったので、状況に置いてけぼりを食らったともいえる。

『古代誌』1.237:サラの死はアブラハムとイサクが戻ってわずかのちのことだったというが、実際には十年以上経っている。サラはアブラハムが受けたような敬意(1.256)を受けていない。カナン人たちが公共の英雄を称えるのと同じように、サラの葬儀を公費で賄おうとしたところ、何の説明もないままアブラハムがそれを断り、自分で土地を購入したのである。語り手がサラをよく描こうとして「公費」の設定を加えたが、もともと創世記にアブラハムが土地を購入したくだりがあるため、両方残しておかしな筋になったのであろう。とはいえ、アブラハムは、カナン人が考えたような価値がサラにはないと判断したともいえる。結局語り手はアブラハムの品格を貶める結果になっている。

結論:著者は『古代誌』におけるサラの特徴を次の3つにまとめている。第一に、『古代誌』のサラは、たとえばマソラ本文のサラと比べて減じられ、縮められている。サラが直接話をすることはなく、彼女の動きに語り手が興味を持つこともない。またサラが何か行動を起こそうとするとすぐになかったことにされている。サラが何かする場合も、それは結局すでにアブラハムがしたことになっている。

第二に、『古代誌』のサラはさまざまなやり方でアブラハムに似せられている。何よりサラはアブラハムの姪として血縁関係がある。サラはアブラハムがそうしたように、エジプトでファラオに真理を教授している。ゲラルにおいてアブラハムは説得力がある人物として描かれているが、サラもまたイシュマエルとハガルを追放することについてアブラハムを説得し、そればかりか神までをも説得している。またサラがイシュマエルに愛情を持っていたにもかかわらず彼を追放したことは、アブラハムがイサクを愛しながら犠牲にしようとしたことに似ている。語り手はアブラハムもサラもよりよい人間として描こうとしているが、結局中心はアブラハムであり、サラは偉大な彼に相応しい妻でしかない。

第三に、『古代誌』の語り手はサラを含め主要人物をよく描こうとしているが、やり方が不注意なので新たな問題を生み出してしまっている。アブラハムは先見の明があるはずなのに、サラが直面するであろう危険を予測できていない。サラが死に際し受けるはずだった名誉もアブラハムが取り去ってしまっている。サラのハガルに対する酷い仕打ちは、ハガルが傲慢だったという設定により和らげられ、またサラがハガルとイシュマエルを追放した件は
、サラがもともとイシュマエルに愛情を持っていたという設定により和らげられている。つまり、『古代誌』におけるサラの肖像は好意的なトーンで再度色付けされているが、その仕事は完成されないまま、ときに彼女のイメージを曇らせ、前からある瑕疵はそのままになっている。

2021年5月26日水曜日

第二神殿時代のサラ #1

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.

聖書研究において、たとえばアブラハムの研究が無数にあるのに対し、女性の登場人物への関心は必ずしも高かったとはいえない。そこで著者は、サラを主題に、ヘブライ語聖書、七十人訳、『創世記アポクリュフォン』、ヨセフス『古代誌』を物語批評の方法論で読んでいる。その結果、サラの「深い特性(deep traits)」はアブラハムのキャラクターへの度重なる類似性だといえるという。と同時にそれだけに留まらず、複雑でときに相反するキャラクターでもある。

この研究で著者は3つの目標を掲げている。第一に、比較的無視されてきた女性の登場人物を認知し、再発見することへの貢献、第二に、理論的で登場人物主導の物語批評的アプローチを取ること、そして第三に、第二神殿時代の文学の幅広く代表的なサラ理解を提供するのみならず、いわゆる再話聖書への有益なアプローチ方法を示すことである。そこで、これまでの多くの研究が「比較(comparative)」アプローチを取ってきたのに対し、本研究は「対照(contrastive)」アプローチを取る。このアプローチにおいてはテクストを機械的に並置することがあるが、そのときに要素の相互作用を見落とさないように気を付ける必要がある。また基準テクストとそこからの派生テクストという構図を取ることで、後者を十全に読み込まないという事態にも注意しなければならない。

第二神殿時代のサラの物語は、『ヨベル書』とフィロンの著作にも出てくるが、前者はサラへの無関心ゆえに、後者は過度の抽象化ゆえに、本書では扱わない。

マソラー本文のサラ研究は、エピソード的、テーマ・類型論的、そして概論的なものに大別される。マソラ―本文のサラに関する研究は、古代近東の文脈からサラを解釈するSavina TeubalとTammi Schneiderをはじめ数多い。七十人訳、『創アポ』、『古代誌』、第二神殿時代文学のサラ研究はそれほど多くない。これら先行研究に対し、著者は、こうした諸文学においてサラがどんな登場人物なのか、そしてそうした人物像はどのようにして作られたのか、という理解から議論を始めようとする。

「キャラクター」とは何か。キャラクターは架空の存在でありながら、時に現実の人間よりも生き生きとした実体を持つ。この二極について、Marvin Mudrickは、架空の性質をpurist、現実感のある性質をrealisticと呼んだ。著者は後者をrealisticだけでなくmimeticと呼んでいる。つまり、自分が知っている人間との人間的な類比として、文学上の登場人物の作られた現実感に注目するのである。こうしたアプローチはWilliam Harvey, Seymour Chatman, Baruch Hochmanらに見られる。架空のキャラクターと生身の人間は同じではないが、キャラクターを知るために使う方法論や道具は生身の人間との経験の中から作られるのである。

Chatmanはstoryとdiscourseを区別する。storyは出来事や行為や人物が「何」なのかを語る。一方でdiscourseは内容が伝えられる表現や手段が「どのように」なされるかを語る。これらは互いに関係しあっている。なぜなら、discourseを通じてstoryへのアクセスが得られるからである。またstoryは、劇、映画、小説と異なったメディアにおいても同じものとして伝えられるという転移能力(transposability)を持っている。これはstoryの構成要素であるキャラクターの持っている力でもある。

さらにChatmanはキャラクターとプロットを区別する。アリストテレスは悲劇においてキャラクターをプロットの下位に置いた。構造主義者はさらに進んで、キャラクターとは純粋に機能的なものであり、物語のアクションのために使えるものだと考えた。Chatmanは「特性のパラダイム」としてのキャラクターという考えを打ち出している。Chatmanによると、キャラクターの「特性」とは形容詞で表せる類のもので、キャラクターのある程度持続的な側面を描写する。またキャラクターはプロットを含む時系列に縛られない。

著者のキャラクターへの関心は、他の人々への人間的な関心という側面を持っている。それゆえに、キャラクターを知るために、著者は実在の人物との具体的な類似に注目する。すなわち、実在の人物に対してするように、矛盾した行動や発話を説明し、精神的・感情的な行動の動機を探ろうとするのである。すなわち著者のmimeticなアプローチは、puristアプローチがそうであるように、表現されたテクストであるdiscourseと格闘しなければならない。

読者の役割:我々がそうしたdiscourseを読むとき、それが作り出された言語や世界についてできる限り学ぶことは確かに重要である。しかし、結局のところ我々がそこから引き出すことができるのは、キャラクターやその行為の動機についての我々自身の理解にすぎない。つまり、そうしたテクストやキャラクターの「他者性」を認識しつつも、自分自身の知識と経験についてそのイメージを構築するほかないのである。

実際Wolfgang Iserによれば、意味がテクストの背後に隠れているという近代的感覚は正しくなく、むしろ意味は読むという行為の中で生み出されるものだという。つまり、文学テクストは、実在物の世界と読者自身の経験世界の間にある特異な中道に存在するわけである。そして読むという行為は振り子のように振れるテクスト構造にピンを刺そうとするプロセスなのである。それゆえにテクストには常に間隙や空白を残すような「不確定性(indeterminary)」が不可避的に付きまとう。そうした間隙を埋めることはdiscourseには無理で、ただ読者のみがそれをできる。逆に言えば、不確定性は読者の参加に対する前提条件、すなわちテクストと読者を橋渡しするものでもある。ただし、テクストの意味が読者の読むという行為に委ねられているのだとすると、その意味は読者の出来栄えにかかってくることになる。サラのようなキャラクターもまた、discourse構造と読者の意識の結節点において構築される。

しかしながら、サラが出てくる聖書の物語は、我々とはかなり異なる文化の人々により、そうした人々のために書かれたものである。こうした状況に対し、聖書学者は第一に、「非歴史的(ahistorical)」なアプローチを取った。すなわち構造主義的に「テクストそのもの(text-in-itself)」を強調した。それは結局のところ現在の「私にとってのテクスト(text-to-me)」を意味した。第二の立場は、そうした非歴史的立場への反動による「歴史的・文脈的(historical-contextual)」なアプローチである。この立場で問題とされているのは、テクストの成立した時代の聴衆や読者である。

確かにこの「非歴史」と「歴史・文脈」の2つの立場があるが、これらはきれいに切り離せるものではない。著者はその中間を行こうとする。すなわち、キャラクターにきっかけとして動く物語批評が、サラにまつわる古代の受容や再話に出会うところである。いわば、著者の関心は文学的なものだが、それをするために基礎的な歴史や影響についても考慮するということである。

また著者は、サラ物語の受容を扱うに際し、「菌糸状(rhizomorphous)」モデル(C.V. Stichele < G. Deleuze and F. Guattari)を採用する。すなわち中心となる幹から枝が伸びていくような「樹木状(arborescent)」モデルではなく、菌糸状モデルには中心もヒエラルキーもなく、確固とした始まりも終わりもない。受容の歴史とは動的に開かれたものであり、いくつもの始まりや終わりがあるはずである。それゆえに、受容史の中で取り上げられるテクストはそれ自体の統合性および生成能力を持っているのだから、他の特権的なテクストとの比較のためだけにあるのではない。

また古代の受容史を語るに際しても、「受容(reception)」というきわめて受動的な概念ではなく、むしろもっと能動的に干渉する(active intervention)ような「再話(retelling)」などという表現の方が適切であろう。何となれば、あるテクストを「読む」ことはとりもなおさずそれらを「書き換える(rewrite)」することといっていい。

以上のことから、著者はテクストの原語や表現を重視し、また歴史的文脈に目を配りながらも、遠く時空を隔てたテクストの理解の困難さ(すなわち「他者性(otherness)」)を自覚するので、歴史上の著者や読者には必ずしも関係のない著者自身の社会的位置や個人的関心に基づき、現在生きている人間を理解するようやり方でサラを理解しようとする。すなわち、男性、四十代、ローマ・カトリック、北部ヨーロッパ人の子孫、北アメリカ生まれ、文化横断的な経験のある、古い言語と物語を愛する、異性愛者、健常者、既婚の父親としての著者から見たサラを描く。

著者はサラの人物描写(characterization)を判断するに当たり、Chatmanによる「特性の枠組み(paradigm of traits)」という概念を用いる。キャラクターの特性とは、ある程度持続的な個々人の性質を指すが、物語の進展に伴ってそれは互いに衝突したり、浮き沈みを経たり、変容したり、消えてしまったりする(優しかった人物が残忍になるなど)。こうしたキャラクターの特性を読者が理解するのは、現実世界の人間との交わりの経験に基づく。Shlomith Rimmon-KenanやHochmanはこうしたChatmanの見解を「静的にすぎる」とし、キャラクターの志向的次元の議論をも取り入れるべきと主張する。著者としては、キャラクターの特性の衝突や成長を受け入れつつ、ある程度の構造や一貫性を要求している。

こうした人物描写の判断基準として、Robert Alterは計量スケールを提案した。すなわち、行為、容姿、他の人物のコメント、セリフ、思考、地の文の説明の順で、その人物の特徴づけの明示性や確証性が表現されるというものである。Alterによれば、行為や容姿は読者に推論させるだけであり、コメントやセリフはそうした主張を判断させ、思考や内面的なセリフは比較的確かであり、そして語り手の説明が最も信頼できるという。このスケールは影響力が大きかったが、むろんその曖昧さに対する反対意見も多い。とりわけAlice Bachは、物語の語り手はある意味ではキャラクターの一人であり、その中立性を安心して信じるわけにはいかないと主張する。そして本研究のように女性の姿を明らかにするためには、語り手が語ること以外にも目を向けなければならない。それゆえに、われわれ読者は語り手も含めて、語られていることの軽重を判断しなければならないのである。

Rimmon-Kenanはキャラクターの「直接的定義(direct definition)」と「間接的定義(indirect definition)」を区別する。前者は形容詞や名詞で語られるものであり、後者は体格、社会的位置、倫理的嗜好、感情などのことである。この2つの定義の区別はやや曖昧で、その線引きについて意見が一致しないことがある。直接的定義の方が間接的定義によりも上に来ることもあるが、それは永続するものではない(直接的定義でダビデは「若い」が、いずれ年を取る)。

とにかくキャラクターの構築や読みの自由度は直接的カテゴリーと間接的カテゴリーの間で異なっており、またカテゴリーの内部でも異なっている。つまり人生と同じように、文学的な状況を評価する機械的な方法はない。経験に照らして語られていることの軽重を量ることによって判断されるのみである。

そこで著者はHarveyにならいつつ、「関係性(relationality)」に注目する。すなわちキャラクターと別のキャラクターとのつながりの中で、関係性が人物描写に影響するという理解である。キャラクターは個人で直線的に存在するのではなく、人間というクロスロードの上にいるのである。それゆえに、誰かとの衝突、ジェンダーなどに注目する必要がある。当然ながら物語の語り手もまた、関係性の中にあると考えるべきである。発話が行為とぶつかることも、初期の行為があとの行為とぶつかることもある。そしてそうした結果に至るまでの「プロセス」という「直線性の概念(concept of linearity)」も忘れてはならない。

以上より、サラのようなキャラクターの構築は、特性(traits)という有機的な付着物によって影響されるが、それはdiscourseによってきっかけを与えられ、読者の精神において判断され、集められ、分離され、また集められる。読むというプロセスは、勘を使って仮説を立てていく連続的なプロセスであり、また初期の証言や現在の証拠を統合し、キャラクターの過去と未来を検証するプロセスでもある。