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2019年9月16日月曜日

『エノク書』の研究状況 Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research"

  • Michael A. Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 17-35.
Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
Brill Academic Pub
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『第一エノク書』はユダヤ教の発展に関する情報を提供してくれることと、黙示文学の最上の例であることから重要なテクストである。現在では5~6世紀に作成されたエチオピア語訳でのみ全体が残るが、もともとは前3世紀終わりにアラム語で書かれた。エチオピア語訳は、次の五部から構成される:

  1. 「寝ずの番人の書」(前3世紀後半)
  2. 「たとえの書」(前1世紀後半)
  3. 「天文の書」(前3世紀後半)
  4. 「夢幻の書」(前165年すぐあと)
  5. 「エノク書簡」(前2世紀前半)

「たとえの書」は「人の子」という表現を含むので新約聖書学者の興味を引いたが、アラム語断片はそれを含まず、代わりに「巨人の書」を含む。

アラム語断片は11もの写本から成るため、クムランでの『エノク書』の権威のほどが知られるが、党派的文書ではなく、クムラン意外でも広く読まれていた。その証拠に、『ヨベル書』4:16-25には『エノク書』への言及がある。アラム語の『エノク書』はディアスポラのユダヤ人のためにギリシア語訳されたが、その状況は不明である。「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」のギリシア語訳は前2世紀頃に作成されたと考える研究者もいる(J. Barr)。第七洞窟から発見されたギリシア語断片(7Q4, 7Q8, 7Q11-14)は「エノク書簡」と見なされている。「たとえの書」と「天文の書」が「寝ずの番人の書」と「夢幻の書」の間に挿入されたのは、ギリシア語訳された段階でのことと考えられる。

『エノク書』のギリシア語訳はキリスト教徒の間でよく読まれた。「寝ずの番人の書」については、アクミーム写本(6世紀)と、シュンケッルス『年代記』の抜粋(9世紀)が、「エノク書簡」については、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀)が重要な証言である。これらの書以外のギリシア語訳はほとんどない。

『エノク書』は次第に東西教会での重要性を失ったが、エチオピア正教会では例外的に権威を認められていた。エチオピア語訳はギリシア語訳からの重訳である。「たとえの書」はイエスに言及していると解釈された。『エノク書』に関するわれわれの知識はこのエチオピア語訳に負うところ大であるが、最古の写本でも15世紀のものである。。

近代になると、まずJoseph Scaliger(1606)やJohann Fabricius(1713)らによってギリシア語訳が注目され、次いでNicholas PeirescやJames Bruce(1773)らによってエチオピア語訳が紹介された。エチオピア語訳の英訳と校訂本はRichard Laurenceが出版した(1821, 1838)。ドイツ語訳と校訂本はAugust Dillmanの手による(1851, 1853)。1886/7年のアクミーム写本の発見は研究を進展させた。このあとさらに英語圏ではRobert H. Charlesが英訳と校訂本を出版した(1893, 1906)。これはのちのThe Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament in English (1931)に結実する。

クムランで1952年に発見されたアラム語断片は、Josef Milikによって1976年に出版された。このThe Books of Enochは非常に強い影響力を持ったが、「たとえの書」をキリスト教徒の手になるものと主張するなど、批判されるべき点も多く含む。このアラム語断片の研究成果を受けて、Michael Knibbは新たなエチオピア語訳校訂本を出版した(1978)。Milikが除外していた「天文の書」のアラム語断片は、DJD 36に収録された(2000)。『エノク書』の包括的な注解書は、George Nickelsburgによって2001年に発表された(Hermeneiaシリーズ)。

前3世紀後半に書かれた「寝ずの番人の書」はユダヤ史上最古の黙示文学である。これは正典に含まれるダニエル書よりも古い。黙示文学のルーツはヘブライ語聖書の預言文学(エゼキエル書やゼカリア書)であるとされる。ただし、エノク自身はあくまで「見る者」であって、預言者としては描かれない。

『エノク書』はさらに、ヨブ記や箴言などの知恵文学と比較されることもある。とはいえ、『ソロモンの知恵』を除いて、知恵文学は終末論的な議論を含まないことにも注意が払われるべきである。『シラ書』との比較は興味深い。というのも、Benjamin Wrightによれば、「寝ずの番人の書」を書いたサークルと『シラ書』を書いたサークルには緊張関係(敵対関係まではいかない)があるというのである。クムランの知恵文学(4QMysteriesと4QInstruction)との比較もなされてきた。どちらも黙示的な文学ではないが、知恵に対するエノク的伝統との関係性を有している。エノクは「秘儀」である特別な啓示の受け取り手として描かれている。そして彼はそれをノアへと伝えるのである。こうした意味で、『エノク書』は「明らかにされた知恵(revealed wisdom)」であるといえる。

『エノク書』をより広い第二神殿地代のユダヤ教の枠組みで捉えようとした研究としては、Gabriele Boccacciniのものがある(Roots of Rabbinic Judaism, 2002)。Boccacciniは前6世紀から前2世紀のユダヤ教を、神殿体制を代表する「ツァドク派ユダヤ教(Zadokite Judaism)」と、もともとは祭司だったが派閥闘争に負けた「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」の対立として説明する。これにさらに「知恵的ユダヤ教(sapiential Judaism)」もあったが、これとエノク派ユダヤ教との対立はすぐに中立化した。またツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の中間に位置したダニエル書は、プロト・ラビ的テクストと呼べるという。

ツァドク派ユダヤ教は、エゼ40-48章、ネヘミヤ記、エズラ記、五書の祭司資料、歴代誌に現れ、知恵的ユダヤ教はアヒカル(『トビト記』)、箴言、ヨブ記、ヨナ書、コヘレト書に現れ、そしてエノク派ユダヤ教は「寝ずの番人の書」、アラム語レビ資料、「天文の書」、「動物の黙示録」などに現れる。

ツァドク派は、Boccacciniによるとエリート層の祭司で、エゼ40-48章で示される改革をユダの共同体に適用しようとした。それにより、大祭司の独占的な権利が保証される。エノク派は、捕囚後に権力を失い、のちにエッセネ派となった祭司たちである。彼らは「寝ずの番人」、すなわち天使たちが天から落ちてきたという信仰を持っている。「寝ずの番人の書」には2つの墜落伝承が残されている。第一に、シェミハザに関わるものは、創世記の記述に従い、人間の女性への欲望に負けてこれと交わり、巨人を生んだ物語である。第二に、アザエルに関わるものは、プロメテウス伝承のように、人間にさまざまな知恵を授けるために落ちてきたという物語である。いずれも、この世になぜ罪が存在するかを説明するための物語である。

Boccacciniは、このように、第二神殿時代のユダヤ教にさまざまなシャープな対立を描いてみせるが、論文著者は、実際のユダヤ教はもっと複雑だったに違いないと主張する。

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