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2019年9月25日水曜日

予備教育としてのハガル Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia"

  • Abraham P. Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia in Philo of Alexandria," in Abraham, the Nations, and the Hagarites: Jewish, Christian, and Islamic Perspectives on Kinship with Abraham, ed. Martin Goodman, George H. van Kooten, and J.T.A.G.M. van Ruiten (Themes in Biblical Narrative 13; Leiden: Brill, 2010), 163-75.


『予備教育』は創世記のサラとハガルの物語に関する解釈書である。創世記では、アブラハムの妻サラは子供ができなかったために、ハガルを側室とするようにアブラハムに提案した。これは一見不適切な物語のように見えるが、これをフィロンは逆転の発想で、至高の知恵でもあり神的な取り決めであったと解釈した。

知恵と教養諸学を区別するというフィロンのテーマは他のモチーフと関係を持っている。第一に、アブラハムの移住の解釈である。フィロンはこれを可感的な物質性の世界から神的イデアの非物質的実在性への魂の上昇と捉えた。とりわけアブラハムがアルデア人の地から出ることは、彼がコズミックな神々への礼拝からメタコズミックな超越的な唯一神への崇拝に至るブレイクスルーを与えた。つまり、カルデア人とアブラハムやイスラエルとには、フィジックとメタフィジック、コズミックな神学とメタコズミックな神学という対比がなされている(『世界の創造』冒頭など)。フィロンは、アブラハムと共にカナンの地に行かなかったナホルのことを天文学に囚われたままの人物として描いている。

第二に、名前の変化のモチーフも重要である。「アブラム」と「サライ」は最初、目に見える世界にとらわれていたが、予備教育を学ぶことですべての物事の原因やロゴスのアイデアに気づくことができた。そうした観点の変化と魂の方向転換を経て初めて彼らの名前は「アブラハム」と「サラ」に変わったのである。

こうした解釈は当然聖書そのものからは得られない。フィロン以前からユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することはあったが、フィロンのような「哲学的な」寓意はなかった(H. Wolfson)。彼はこれをギリシアの文学伝統から取り入れたのである。前6世紀のランプサコスのメトロドロス以来、この方法はホメロスやヘシオドスのような古典をアップデートする方法として好まれた。

予備的なものとしての教養諸学からより高度な知識へ、というテーマも疑いなくギリシアから来ている。これは数学と論理学を区別したプラトン以降の考え方である。しかし、フィロンは原理を可感的な現実に向けるというより後代の予備的科学を用いている。プラトンにとって可感的世界は科学の対象ではなかった。フィロンのような用い方はストア派にも見られるが、その淵源はアリストテレス『形而上学』である。アリストテレスは哲学を真に自由な科学とし、その他の学問をそれに仕えるものと見なした。

ハガルに代表される予備的科学の学びには、哲学に対して従属的なヒエラルキーがあるものの、決してそれは「奴隷的」な行為ではない。とはいえそれは可視的・物質的世界につながれたままでもある。『巨人』60において、フィロンは人を地上的・星的・神的なものに分けている。地上的人間は快楽を求める者、星的な人間は教養諸学の習得に身をささげる者、そして神的な人間は可視的世界を超越する祭司や預言者である。

教養諸学のギリシア語であるエンキュクリオス・パイデイアについて、De Rijkはそれがピタゴラス主義者の音楽的理想に由来し、歌や合唱を子供たちに指導する習慣と関係していることを明らかにした。他の研究者もさまざまに議論をしているが、みなに共通するのは、エンキュクリオス・パイデイアの概念がストア派の時代を遡らないという認識である。それゆえに、概念の創始をストア派に記する者すらいるが、論文著者はこれを否定する。著者によれば、フィロンの知恵概念などには非ストア派的認識論が見られる。すべてを支配する神と、より低次のロゴスあるいは神の力というグノーシス的区別の最初は、フィロンに帰されるという。

そして、論文著者は以上のような考え方はアリストテレスと完全に合致すると主張する。彼は人間が議論できる現実世界と、それを超える超越的な知識を区別した。魂の関与できる領域と知性の領域を分けているのである。他にもフィロンはアリストテレス同様にホメロスを賞賛し、モナルキア主義を共有している。フィロンは、アリストテレスの失われた対話編から「エンキュクリオス・パイデイア」の概念を借用したに違いない。

2019年3月14日木曜日

ヒエロニュムスとギリシア異教文化 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #2: Jerome and Greek Pagan Culture"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 58-89.

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ヒエロニュムスはギリシア文学を翻訳で読んだことを隠していない。特にキケローの翻訳で、彼はプラトン『プロタゴラス』、クセノフォン『オイコノミコス』、デモステネスとアイスキネスの互いへの弁論などを読んだ。

ヒエロニュムスは頻繁にギリシア詩人に言及するがあまり引用はしない。ホメロスについては、必ずしも原典を直接読んだとは限らず、キケロー『老年について』やルクレティウスのラテン語訳などを通して読んでいた。ヘシオドスはアレクサンドリアのクレメンスを通して読んだ。シモニデス、ピンダロス、アルカイオス、ステシコロス、ソフォクレスらについてはその評判しか知らなかった。アラトス、エピメニデス、メナンドロスらについては新約聖書で引用されている箇所にしか触れていない。エウリピデスとアリストファネスについては、プルタルコスやポルフュリオスらから知ったと思われる。

ギリシア弁論家たちについては、名前を知っていたのみで、その著作に通じていたわけではなかった。リュシアス、ヒュペリデス、ペリクレス、デモステネス、アイスキネス、イソクラテス、ポレモンなどに言及している。詩人も弁論家も聖書解釈にはあまり役に立たないので、直接の知識が必要なかったのであろう。

ギリシア哲学については批判的である。なぜなら、彼によれば異端者は皆プラトンとアリストテレスの弟子だからである。ゼノン、クレオンブロテス、カトー、エピクロスについては、すべて読んだと主張しているが、これは修辞的な誇張であることは明らかである。他にもアナクサゴラス、クラントル、ディオゲネス、クリトマコス、カルネアデス、ポセイドニオス、エンペドクレスらを学んだと述べている。ピタゴラスについては、ラテン語訳でのみ読んだことがあると認めている。

プラトンの著作については、ヒエロニュムス自身は原典テクストを所有していたと述べているが、多くはキケローの翻訳などで読んだようである。プラトンの哲学については、かなりいい加減な知識しか持ち合わせなかった。魂の三部分に関する議論についても、オリゲネスやナジアンゾスのグレゴリオスなどに依拠していた。プラトンと新プラトン主義との混同も見られる。

アリストテレスの形而上学的著作については無知だった。ヒエロニュムスにとって、アリストテレスは論理学者であり自然学者であった。アリストテレスの話をするときには、テオフラストスも一緒に遡上に上げることが多い。テオフラストスの情報源は、F. Bockによればテルトゥリアヌスだとされているが、G. GrossgergeとE. Bickelによればセネカ、プルタルコス、ポルフュリオスだとされる。

ポルフュリオスについて、ヒエロニュムスは強い関心を持っていた。彼はポルフュリオスの『エイサゴーゲー』を若い頃からよく読んでいたが、それを情報源にしていることを隠していた。なぜなら、敵対者たちから異教文学に耽溺していることを非難されないようにするためである。しかし、ヒエロニュムスのオルフェウス、ピタゴラス、ソクラテス、アンティステネス、ディオゲネス、サテュロスらについての知識はポルフュリオスに由来する。しかもそれに勝手にキリスト教的なトーンを付加している。

ポルフュリオスの著作でも言及するものとしないものがある。『ピタゴラス伝』と『禁欲について』に言及することはないが、『反キリスト教論』には頻繁に触れる。ただし、ポルフュリオスの著作のすべてを直接読んだわけではないと考えられる。むしろポルフュリオスに対する駁論、たとえばオリュンポスのメトディオス、カイサリアのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオスらから彼の教説を紹介することもある。特にエウセビオスに主に依拠している。

ギリシア歴史家に関しては、ヒエロニュムスは必ずしもすべてを原典で読んだわけではないし、そもそも名前を挙げているだけの場合もある。彼が目を通したのは聖書研究に有益な歴史家の作品である。それはたとえば、トゥキュディデスやヘロドトスであったが、それらの引用はプルタルコスやアレクサンドリアのクレメンスからの孫引きであった。クセノフォン『オイコノミコス』はキケローの翻訳で読んだ。

ユダヤ人歴史家としてフィロンとヨセフスにしばしば言及している。フィロンの著作を所有していると述べていたが、しばしばエウセビオスを通じた引用をしている。ヒエロニュムスは、フィロンを哲学者というよりは歴史家として重んじていた。ヨセフスについては、ヒエロニュムス自身は何度も否定しているが、伝統的に彼がヨセフス著作の翻訳者だと考えられてきた。ユダヤ人の歴史と文明の知識については、ヒエロニュムスはヨセフスに負っている。また他の古代作家たち、たとえばベロソス、ムナセアス、ダマスコスのニコラオス、アレクサンデル・ポリュヒストル、クレオデモス・マルコスらの著作にも、実際にはヨセフス経由で触れている。

ギリシア医学に関しては、ヒッポクラテスやガレノスに言及している。前者はオリゲネス経由での知識と考えられる。ギリシア自然学については、アリストテレス、テオフラストス、シデのマルケッロス、ディオスコリデス、オッピアノスに触れているが、それはテルトゥリアヌス、パキアヌス、アンブロシウスらキリスト教作家からの又聞きである。ギリシア鉱物学については、エピファニオスに負っている。彼は大プリニウスを自分で読んでいたにもかかわらず、ほとんどのギリシア自然学者については名前だけ知っていたにすぎなかった。

2017年3月4日土曜日

修辞学の歴史 Kennedy, Classical Rhetoric

  • George A. Kennedy, A New History of Classical Rhetoric & Its Christian and Secular Tradition from Ancient to Modern Times (2nd ed.; Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1999).
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本書は、古典的な修辞学が古代から現代にかけてどのように発展したかを検証したものである。著者によると、修辞とは、特定の目的を遂げるために書いたり話したりすることで説得を試みるようなコミュニケーションのことであるという。そして修辞には、一次的(primary)なものと二次的(secondary)なものがある。一次的な修辞とは、口頭のもので、前5世紀にギリシアの修辞学の中で最初に出来上がったものであり、一方で二次的な修辞とは、より広く、文学、芸術、言説といった非口頭的な修辞のためのテクニックのことである。

一次的な修辞の発展は、前4世紀になると、ギリシアでソクラテス、プラトン、アリストテレスらの哲学によってなされた。これらの哲学の中にある「弁証法的な論法(dialectic reasoning)」は法廷においても活用されるようになった。アリストテレスの考えでは、修辞学はある人が無実の罪で牢屋に入れられそうなときなどに役立つという。また彼は、話し方、様式、配置などの具体的な修辞法についても議論している。

ローマ時代になると、キケロー『発明について』やクインティリアヌス『弁論家の教育』などは修辞学の教科書として使われた。いずれも、修辞学は人々の共通の善に使えるべきものだとしている。クインティリアヌスはイソクラテスからの影響を大きく受けており、修辞学的技法を洗練され得るものであるとし、また状況を支配するために使うものだと考えた。彼もまたアリストテレスのように、修辞学における話し方と様式に関心を持ち、体の動かし方、顔、腕、手、足などをいかに使うかをアドバイスしている。一方でキケローは、ソフィストの哲学の伝統と技巧的な修辞学のそれとを合成しようとした。話者は哲学に通じた上で、人々を楽しませつつ、異なった価値観へと聞き手を連れていくのである。

キリスト教時代の修辞は、聖書的なものと非聖書的なものとに分かれる。前者としては、旧約聖書の預言、説教、そして律法における修辞や、新約聖書の使徒行伝の使徒たちの修辞が挙げられる。後者としては、アウグスティヌスに対する護教家たちの説教などがある。上で見たギリシアとローマの修辞が、教父時代にキリスト教説教の中でいっしょになるのであった。異教の修辞とキリスト教の修辞との違いは、キリスト教においてはしるしや奇跡によって神の啓示が明かされたと信じていることである。キリスト教の説教には4種類あり、それぞれ宣教、預言、説教、称賛とされている。

オリゲネスは解釈の三つのレベルとして、論理的(logical)、倫理的(ethical)、感情的(emotional)と区分けしたが、これはアリストテレスの論理的(logos)、精神的(ethos)、感情的(pathos)に由来する。ただしオリゲネスは、神からの啓示は聖書のもともとの内容を変える可能性があると考えている。すなわち、オリゲネスは皮肉にも、聖書を解釈する際にはコンテクストから離れてはいけないという反面教師になったのである。

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古代と現代の文学批評の類似性 Nünlist, The Ancient Critic at Work

  • René Nünlist, The Ancient Critic at Work: Terms and Concepts of Literary Criticism in Greek Scholia (Cambridge: Cambridge University Press, 2009).
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本書はスコリアに注目することで、古代の文学批評の実態を検証したものである。スコリアとは、古代の文学作品の特定の一節に関する短い注釈を集めたもののことである。古代の文学批評に関する多くの研究では、アリストテレスの『詩学』やデメトリオスの『様式について』などといった論文が扱われることが多かった。そもそもW. Arendのような研究者は、アレクサンドリアの学者たちの仕事であるスコリアによって、文学作品としてのホメロスの詩は損なわれてしまったと考えていたほどであった。

一方で、著者があえてスコリアを選んだのは、第一に、スコリアは原理の形成よりもその応用を示すからであり、第二に、スコリアは諸論文よりも大きなコーパスを提供するので、より多くのトピックを扱っているからであり、そして第三に、諸論文が散文の修辞に注目するのに対し、スコリアは詩に注目するからである。著者はこのスコリアの利点を生かすために、ホメロス、ヘシオドス、古典劇作家、ピンダロス、カリマコス、テオクリトス、ロードスのアポロニオス、ルキアノスらの作品に関するスコリアを扱っている。

著者によれば、こうしたスコリアを集中的に扱うことによって、古代の注釈者たちは現代の用語で表わされる文学批評の概念をすでに知っており、それらを自分たちの文学批評において用いてたという。著者が扱っているのは以下のトピックである:プロット、時間、物語と台詞、焦点化、読者への効果、欠落と削除、詩的逸脱、著者の特定、様式、ほのめかし、隠された意味、登場人物、神話学、など。たとえば焦点化(focalization)に類似する議論としては、古代の注釈家たちは「話者を考慮することによる解決(λύσις ἐκ τοῦ προσώπου)」といった洗練された議論を持っていた。

こうした現代的な概念が、必ずしも当時の用語での表現ではないにせよ、実際に古代の注釈者たちによって親しまれていたというのは驚くべきことである。古代の議論の価値は、彼らがテクストにしたことと我々がテクストにしていることとの目を見張る類似性に注意を払うことで、現代の読者の目においても高いものとなる。

2016年12月10日土曜日

カリマコスとその弟子たち Pfeiffer, "Callimachus and the Generation of His Pupils"

  • Rudolf Pfeiffer, "Callimachus and the Generation of His Pupils," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 123-51.
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アレクサンドリア文献学の歴史において、ゼノドトスに匹敵するのはビザンティウムのアリストファネスしかいない。彼らに次ぐ存在が、カリマコスとエラトステネスである。カリマコスは、アレクサンドリア図書館の図書館員ではなかったが、創造的な詩人と思慮深い学者とが統合された人物であった。キュレネからアレクサンドリアに移り、プトレマイオス二世の宮廷に仕えた。彼は、自分が語ることは、それが詩歌であっても真実であると主張した。また長大な伝統的な詩を批判し、短く清新な詩こそを高く評価した。彼の学識は詩の中に隠れているので、詩を検証しなければならない。

アレクサンドリア図書館のパピルスは、東方の図書館の慣例に従った収蔵方法が採られていた。作品の題名と行数が巻物の最後に書かれていた。カリマコスはこれらの巻物を分類した、120巻にも渡るカタログを作成したのだった。カリマコスの編纂によるこの『ピナケス』においては、詩歌と散文は分けられ、それぞれお題名と冒頭の一行が記されていた。また著者はアルファベット順に並べられ、わずかながらも伝記が付されていた。この一般的な『ピナケス』に加えて、時系列に特化したカタログと、語彙に特化したカタログも別に作成された。何千巻もの巻物を読者の便宜を図りながら収蔵するためには、きちんとしたカタログが必要不可欠だったのである。ビザンティウムのアリストファネスは、のちに『ピナケス』の増補版を作成している。

学者としてのカリマコス自身の著作ジャンルは三つある:古代誌、言語、そして文学批評である。カリマコスは非ギリシア人の生活に関する好奇心にあふれた古代誌を書いているが、あまり科学的なものではなかった(アレクサンドリア学術が科学性を増すのはエラトステネスからである)。言語に関する著作では、魚の名前の語彙集を作成しているが、それを彼の先行者たちのように哲学的な議論のたたき台とすることなく、純粋に文学的に吟味している。文学批評としては、逍遥学派のプラクシファネスの著作を批判した。

詩人としてのカリマコスは、反アリストテレス的な傾向を持っていた。アリストテレスは、ホメロスの詩の統一性、完全性、偉大さを称揚した。カリマコスはホメロスの偉大さを認めるにやぶさかではなかったが、師の文化を再生させるにはそれでは難しいと感じていた。そこでカリマコスは詩の統一性や完全性を求めるのではなく、「薄さ/軽さ(λεπτόν)」こそを重要視した。この用語は、エウリピデスやアイスキュロスの時代には否定的な意味合いしかなかったが、カリマコスはその価値を転倒させたのである。他にも、「頭でっかち(πολυμαθής)」という語についても、かつては真に賢いわけではないという意味だったのを反転させて肯定した。

カリマコスはアレクサンドリア図書館に雇われたときには、詩歌から散文へと方向転換していたが、かといって文学作品の注解書は残していない。彼のホメロス理解は、むしろそれ以前に書いた詩歌の中に残されている。彼の詩の中で引用されているホメロス作品を見ると、彼がホメロスの旧版を読みつつも、一方で明らかにゼノドトスの校訂版を知っていたことが分かる。

カリマコスの弟子としては、ロードスのアポロニオスが挙げられる。『アルゴナウティカ』を書いた彼は、ゼノドトスの後継者として図書館長にもなった。図書館長の伝統として、彼はプトレマイオス三世の家庭教師も務めた。ただし、アポロニオスはカリマコスからは冷遇されたようで、『アルゴナウティカ』を最初に発表したとき、師からその作品を酷評されたために、アレクサンドリアを離れてロードスへと移った。おそらくロードスへと移ってから、彼は『アルゴナウティカ』の第二版を作成した。

アポロニオスの詩歌への態度は、その師であるカリマコスと比べて、より伝統的なものだった。彼の詩は統一性や完全性を目指すものだったのである。その意味で、アポロニオスの詩はアリストテレスの基準にこそかなうものだったが、カリマコスのそれには反するものだった。彼は『アルゴナウティカ』の他にも、地方の英雄をヘシオドスのスタイルで書いた詩や、アルキロコス(カリマコスが嫌っていた)に関する研究所をも著した。彼は特に、詩人たちの生涯や時系列、そしてその詩の主題に関心があった。ホメロスの注解者としては、『ゼノドトス駁論』において、ゼノドトス校訂版を吟味しつつ、さまざまな文学的な問題を扱っている。ゼノドトスの校訂版ではなく、ティモンがアラトスに勧めたような旧版を参照していたことからも、アポロニオスの保守性が見て取れる。

カリマコスの他の弟子としては、クレタ人リアノスがいるが、彼はアポロニオスに比べてその師の傾向をよりよく引き継いだ。

2016年4月18日月曜日

教師としての詩人 Russell, "The Poet as Teacher"

  • D.A. Russell, "The Poet as Teacher," in Criticism in Antiquity (Berkeley: University of California Press, 1981), pp. 84-98.
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本章は、古代の文芸批評における、詩人の役割について扱っている。アリストファネスはかつて、子供たちが教師を持っているように、大人たちは詩人を持っていると述べた。古代のギリシア・ローマにおいて、詩人の仕事はある種の教育を授けることでもあったのだ。

ただし、詩人をこのようにある意味で実用的に理解するというのは、必ずしも普遍的な見解ではなかった。むしろ詩は娯楽を与えるためのものであるというのが前5世紀からの共通見解であった。それが次第に、娯楽と実用性とのコンビネーションが賢明な詩人の目的だったと理解されるようになった。ヘレニズム期の理論家であるネオプトレモスは、実用性は詩の内容から、娯楽は言葉の響きから来るものだと説明した。他にも、詩人の目的な徳を教えることであり、娯楽は偶然それについてくるものだと説明する者もいた。

このような議論があったのは、詩が主題とする神話の中に、しばしば倫理的に非難されるべき箇所があるからであった。こうした詩の倫理について最初に批判した人物としては、クセノファネスが挙げられる。彼は、倫理の教育のために社会的な機会を用いるような詩のスタイルを推奨していた。これは翻って言えば、少なくとも前5世紀までは詩の伝統的な主題は非倫理的であると見なされていたということである。またヘロドトスは、ホメロスが物語の娯楽要素である美的効果にこだわるあまり、事実を曲げていることを批判した。

このように、倫理的な低さおよび事実の歪曲に関して、詩は否定的に評価されることがあったわけだが、これに対し、二つの点から擁護がなされた。第一に、詩が祭儀、法、そして生活の芸術において文明的な貢献をしたこと(アリストファネス、ホラーティウス)、第二に、詩人が問題のある物語を寓意化し、その内的な意味を明らかにしたことである。

ただし、プラトンはこれらの擁護の両方を否定した。『国家』において、プラトンはさまざま徳について語っているが、ホメロスにおける英雄や神々は、この徳のことごとくに当てはまらないのである。プラトンによれば、詩は明らかに読者の感情に影響を及ぼし、そうして刺激された感情は人間の自然な傾向や弱さを推し進めてしまうのだという。プルタルコスは、プラトン主義者として、この考え方をむろん引き継いではいるが、彼は詩の文脈を理解することと、詩人の言葉や状況の特殊性を歴史的に理解することなどを重視した。プラトンもプルタルコスも、詩の教育的な力を認めており、詩が読者の倫理的な姿勢を決めるとしている。それゆえにこそ、詩は厳格にコントロールされねばらないのである。

アリストテレスは、より複雑な見解を持っていた。彼が重視していたのは、詩の美的な質であり、その倫理性についてはほとんど関心を示さなかった。彼は、必要とあれば、詩において悪を模倣することも認めていた。アリストテレスによれば、確かに詩にも教育的な効果はあるが、あくまでそれは二次的で、詩の娯楽性が学びを含んでいるのだと考えた。すなわち、仮に詩が教育的あるいは実用的なレベルにおける有用性を持っていたとしても、それはあくまで付随的なものだというのである。アリストテレスは、詩人を倫理的な観点から批判する者たちの言説を一切認めようとはしなかった。

アリストテレスの考え方は、どうやら後代の者たちによく理解されていなかったような節があるという。ホラティウスはアリストテレスの影響を強く受けていたが、それでも彼は詩の倫理的な側面についてよく述べていた。と同時に、詩にとって真実であることは主たる目的ではなく、聴衆の関心を引くことが肝要であるとも考えていた。

アレクサンドリアの文献学者たちは、詩の目的をはっきり娯楽(プシュカゴギア)であると宣言した。彼らによれば、詩の中に神話的で非合理なことが出てきても、それをもって詩人を非難するのは的外れだと述べた。なぜなら、詩人の目的は真実を語ることではなかったからである。カリマコスなどは特に、詩のテクニックについて主として関心を持った。一方でストア派は、はっきりとホメロスは教育的であったと宣言した。ストア派によれば、詩のテクニックは、教育的な需要を満たすためのものであるという。そしてこうした見解を持ちつつ、ストア派が詩を解釈するに際して用いたのが、寓意的解釈であった。

ヘラクリトスは、寓意的解釈の萌芽を、アルキロコスやアルカイオスら初期の抒情詩人の中に見ている。ヘラクリトス自身の寓意的解釈は、神々や神話の寓意的解釈のみならず、抽象名詞の擬人化のようなものまで含んでいる。そしてそのようにして行なった解釈を、詩の作者の本当の意図だったと考えた。彼の考え方においては、寓意的解釈と象徴化とがあまり区別なく同居しているのである。

2016年4月8日金曜日

古代の詩人たちに関するコルヌートスの見解 Tate, "Cornutus and the Poets"

  • J. Tate, "Cornutus and the Poets," The Classical Quarterly 23 (1929), pp. 41-45.

コルヌートスは、ネロ帝の時代に活躍したストア派の哲学者である。本論文は、コルヌートスがホメロスやヘシオドスといった詩人たちの哲学的な側面をどのように評価していたかを検証したものである。

ギリシア神学を扱った論文の第17章において、コルヌートスは、詩人たちが歌う神話を安易に寓意的に解釈することを批判している。これは寓意的解釈の有効性を主張するストア派の主流派とは異なる見解である。コルヌートスによれば、ソクラテス以前の哲学者も神話を用いたが、詩人たちは神話のロマンスの部分ばかりを取り上げ、古代の哲学者たちによる寓意を部分的にしか伝えていないのだという。

コルヌートスの寓意的解釈自体はストア派由来のものであるが、詩人に対する低い評価はその限りではない。というのも、クリュシッポスは、古代の詩人をあたかもストア派であったかのように語っていることをキケローから批判されているし、ストラボンはホメロスの詩は哲学論文であり、ホメロスは哲学者であると見なしているし、そして寓意的解釈者のヘラクリトスはホメロスの哲学と知恵について語っているからである。とはいえ、ホメロスがストア派において最も理想的な人物であるかといえばそうではない。ストア派哲学者たちは、ホメロスが自分の創作を入れていること、彼の知識が不足していること、そして大衆を相手にしていることなどを批判してはいる。しかし、ホメロスがそうした非科学的な箇所を含みながらも、寓意的解釈によって正しい知識をも伝えようとしていることを、ストア派は高く評価していたのである。

それゆえに、詩人の誤りの強調と、その哲学的な性格の否定とは、コルヌートスがストア派から異なっている特徴になっている(彼は、語源学的解釈に関しても、クレアンテスやクリュシッポスよりも穏当なものをよしとした。言葉遊びはなるべく慎まなければならないという方針だったからである)。こうしたコルヌートスの逸脱は、キケローによる批判(古代の詩人を、現在から見ることで、あたかもストア派の哲学者であったかのように解釈するべきではない)に対するコルヌートスなりの回答であったと思われる。コルヌートスによれば、古代の詩人たちは確かにストア派哲学者ではないが、彼らの作品における神話は、ストア派的な寓意的解釈と親和性が高く、また彼らよりも前の哲学者らの見解を反映しているという。

コルヌートスにおけるこうした非ストア派的な考え方は、アリストテレスに依拠したものであると思われる。アリストテレスは、神話から、エッセンスとなる神学を抽出し、残りは創作だから必要ないものだと考えた。また彼は、ずっと古代にも哲学はあったのだが、それは詩人たちの神話の中にしか残っていないのだとも考えていた。

以上から、コルヌートスは、詩人たちが哲学的な真理を含んでいると考える点においてはアリストテレス的であるが、それがほんのわずかでしかないと考えるアリストテレスに対し、もっと多くがあるはずだと考える点においてはストア派的である。一方で、すべてのストア派的な原理が詩人たちの作品にあるとは考えなかった点においては非ストア派的であるが、詩人たちが哲学的なシステムを必ずしも伝えなくてもいいと考えていた点では非アリストテレス的である。

2016年3月20日日曜日

ギリシア哲学諸派による文学批評 Grube, "The Schools of Philosophy"

  • G.M.A. Grube, "The Schools of Philosophy," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 134-49.
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本章では、アカデメイア、ストア派、ペリパトス派、ヘルマゴラスの学派らが、どのように詩や修辞の理論を扱ったかについて説明されている。前2世紀のヘルマゴラスまでは、修辞学者よりも哲学者の方がむしろ、修辞的な理論のイニシアチブを取っていた。とはいえ、その姿勢は学派によって大きく異なってもいる。ただし、エピクロス派のみは修辞学にまったく意味を見出さず、文学批評の理論にいかなる貢献もしなかった。

アカデメイアの者たちは、プラトンの偏見を受け継ぎ、修辞学をあまり重視しなかった。プラトン自身は、文学批評に関しても、少なくともある程度の貢献をしたが、彼の弟子たちはまるで無関心だったようである。

ストア派は修辞学に強い関心を示した。中でも彼らが熱中したのは、語源学である。アレクサンドリアの文献学者たちが、語源学を単に言葉の歴史的な学問と捉えたのに対し、ストア派はオノマトペをもとに、ものそれ自体とその名前との自然的な関係性を考察した。その点で、analogistであったアレクサンドリア文献学者に対し、ストア派はanolmalistの性格を持っていた。ストア派は修辞学と弁証法との類似関係を指摘しつつ、ストア派的な哲学者のみがよき弁論家になれると主張した。ただし、ストア派は虚飾を好まないので、修辞的な徳目に簡潔さを加え、また形式よりも内容を重視した。一方で、哲学の真理に至るには詩的な工夫も必要と考えていたので、音のよさをないがしろにしたわけではなかった。

アリストテレスの議論を受け継いだペリパトス派は、文学と修辞学の歴史にも最大の影響を与えている。ただし、彼らが学派として何か独創的なことを主張したというより、アリストテレスとテオフラストスの独創的な見解に依拠して語っていたと見るべきである。たとえば、3種類の弁論(審議、法廷、演示)、5種類の修辞技法(創案、主題の配置、様式、提示法、記憶)、文学スタイルの4種類の徳目(正しい言葉、明晰さ、適切さ、装飾[、簡潔さ(ストア派)])などの定式は、基礎となる部分をアリストテレスとテオフラストスに依拠しつつ、ペリパトス派が定めたものである。ただし、文学の3種類のスタイル(素朴、壮大、その中間)や弁論の4部分(導入、物語、証明、結論)は、ペリパトス派のものとは考えにくい。特に弁論の4部分は、イソクラテスやテオデクテスなどによって、4つ以外の定式も提案されている。

またペリパトス派の文学理論で特筆すべきは、失われたアリストテレス『詩学』第2巻にあったと考えられる、喜劇の理論である。コイスリニアヌス小論(Tractatus Coislinianus)という掌編は、この失われたアリストテレスの理論を部分的でも含んでいると考えられている。その中で、笑いは言語による笑いと状況による笑いとの2つに分類され、それぞれさらに7つと9つの下位分野に分かれている。言語による笑いは、同音異義語、同意語、饒舌、類音語、指小語、言葉の変化、そして言葉の性などの誤りに分けられ、状況による笑いは、あることを別のもののようにすること、欺き、不可能性、非論理的な方法を通して潜在的な終わりに至ること、思いもよらぬこと、ある人物を実際よりも悪く描くこと、大衆的な踊り、よりよい選択が可能な中でのより悪い選択、そして論理的な手順を欠くことに分けられる。細かい点において疑いはあれど、大きなくくりではこれはアリストテレス的といえる。

ここまでは、哲学者が修辞学の理論を先取りしてきたが、前2世紀のヘルマゴラスがこうした議論を修辞学のフィールドに引き戻したのだった。彼は、弁論家の主題を、一般と特殊に分けた。また彼は弁論における4つの立場(事実、定義、質、異議)を定義した。こうした定式は、修辞学の歴史ならびに法律学の歴史にも属している。ヘルマゴラスによって再興された修辞学は、ローマ世界に伝えられた。

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2016年3月12日土曜日

テオフラストスの定式 Grube, "Theophrastus"

  • G.M.A. Grube, "Theophrastus," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 103-9.
The Greek and Roman CriticsThe Greek and Roman Critics
G. M. A. Grube

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古代における文学批評上の2つの定式がテオフラストスに帰されているが、著者はそれらが本当にテオフラストスに始まるものなのかを検証している。テオフラストスの著書は幅広い分野に及んでいるが、わずかなものを除いてほとんど残っていない。

テオフラストスの見解は、基本的に常に師であるアリストテレスのそれと一致しているが、これは彼がただ師の受け売りだけをしていたということを意味しない。テオフラストスはアリストテレスの見解をより明確にし、発展させてもいる。これは特に、散文のリズムに関する議論において見ることができる。またテオフラストスは、アリストテレスよりも詩の教育的な効果を強調した。さらに、彼は文章の威厳は、言葉の選択、言葉の並び、そしてその形式(σχήματα)によって決まると述べているが、ここでの「スケーマタ」という言葉の使用は彼に特有のものである。

テオフラストスによれば、弁論には2つの観点、すなわち「内容」と「聴衆への効果」があり、哲学者が前者を重視するのに対し、詩人や修辞学者は後者を重視するのだという。これもアリストテレスが述べていたことではあるが、アリストテレスが哲学者と詩人との観点の違いをさほど明確に区別していなかったのに対し、テオフラストスはそれをはっきりと分けたのだった。

このように、テオフラストスはアリストテレスの概念を繰り返したり、解釈したりしつつ、自分自身の見解を付け加えたが、アリストテレスの見解と食い違うようなことはついぞなかった。

テオフラストスに帰される定式の一つ目は、文学におけるスタイルの四つの徳目(four virtues of style)である。アリストテレスはこの文学スタイルの徳目として、「明晰さ」のみを挙げているが、テオフラストスは「言語の純粋さ」、「適切さ(πρέπον)」、そして「装飾」を挙げている。これらの4つを特権的に徳目として選んだのはテオフラストスなのか、またそれを徳目と呼んだのも彼が初めてなのだろうか。これをテオフラストスに帰しているのはキケローであるが、論文著者によれば、キケローはこうした専門用語を極めて不用意に使う人物なので、彼の証言は当てにならないという。それゆえに、この定式をテオフラストスの独創と考えることは難しそうである。

定式の二つ目は、文学における三つのスタイル(three styles)である。すべての作家や弁論家は、時と場合に応じて、「素朴(plain)」、「壮大(grand)」、そしてその「中間(intermediate)」のスタイルを使い分けることを求められていたが、テオフラストスはこの「三つのスタイル(τρίτη λέξις)」を区分けたと考えられていた。テオフラストスは、壮大な弁論と素朴な弁論との中間のスタイルとして、カルケドンのトラシュマコスを挙げているのだという。ここからは、テオフラストスがゴルギアスのような壮大な弁論とリュシアスのような素朴な弁論と、さらにその中間のトラシュマコスの弁論とを想定していたことがはっきりと分かる。しかし、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、トラシュマコス自身がこうした三っつのスタイルを想定して自身を中間に位置づけたとしているようなので、やはりこの定式もテオフラストスのみに帰することは難しい。

以上のことから、やはりテオフラストスの特徴は、その関心の広さと、彼の師であるアリストテレスの見解の言い換え、詳細な説明、そしてその仕上げといえそうである(ただし、後4世紀のラテン文法家ディオメデスによれば、テオフラストスによる悲劇の定義は彼の独創であったと述べてはいる)。

2016年3月10日木曜日

ギリシアの教育者としてのホメロス Verdenius, Homer, The Educator of the Greeks

  • W.J. Verdenius, Homer, The Educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, Afd. Letterkunde, Nieuwe Reeks, deel 33, No. 5; Amsterdam: North-Holland Publishing, 1970).
Homer, the educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, afd. Letterkunde. Nieuwe Reeks, deel 33, no. 5)Homer, the educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, afd. Letterkunde. Nieuwe Reeks, deel 33, no. 5)
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本書の中で、著者は以下の二つの点を検証すると宣言している。第一に、詩人ホメロスはギリシア人に教育的な影響を与えたのか、そして与えたとすればその影響は他の詩人によるそれよりも大きいのか。第二に、ホメロスはどのような点について人々を教導しようとしたのか。言い換えれば、彼の作品はどの程度まで教訓的な詩であるといえるのか。

研究史においては、Werner Jaegerによる研究が代表的である。Jaegerによれば、古代のギリシア人たちは常にホメロスを教育者として見なしてきたという。そしてホメロス自身の教育的な意図も大きなものだったと評価している。しかしながら、論文著者は、次第に研究者たちはホメロスの教育的な意図を否定する方向に向かっているとする。そこで、著者自身は、ホメロスのギリシア文化への影響を検証するために、時間的には古典期に絞り、また芸術・文学・哲学への影響ではなく、一般の人々の考え方や生活への影響を調べることに集中することにした。

ギリシアにおいて「詩人」といえばホメロスのことを指すことからも分かるように、ホメロスは広く読まれていた。その影響力の大きさから、しばしばホメロス自身が神格化されることもあった。そうした意味で、彼の作品は「ギリシア人の聖書」であったのである。しかし、教育プログラムにおいては、ホメロスはしばしば聖書以上の文化的な力を持っていたともいえる。生徒たちは読み書きを学ぶときにホメロスを習い、暗記することを求められた。ホメロスの学習は単に読み書きだけのためではなく、徳を養うためでもあった。アイスキュロスやクセノファネスも、ホメロスから徳を学べることを指摘している。

ギリシア人は子供のときに一度ホメロスを習っておしまいというわけではなく、吟遊詩人の朗誦を通して、何度も新たに学びなおした。プラトンの『イオー』は、そうした吟遊詩人たちによる涙を誘う感動的な朗誦を伝えている。しかも詩人たちはホメロスを吟じるだけでなく、詩についての講義も行ったことが知られている。一方で、ソフィストたちもホメロスの称賛者として、ホメロスについて語っていた。しかし、彼らは自身の理論を証明するために、ときにホメロスを批判することもあった。むろんホメロスを語るのは吟遊詩人とソフィストだけでなく、プラトン『プロタゴラス』冒頭に出てくるソクラテスの友人のように、普通の人物が何にでもホメロスを引き合いに出すということがしばしばあった。

ホメロスの詩に倫理的な模範を見出すことも行われていた。アナクサゴラスやピタゴラス主義者たち、さらにはアリストテレスまでもが、ホメロスの詩から倫理的な教訓を引き出すことがあった。これに対し、プラトンはそうした試みを一切せず、ホメロスを批判的に扱うことで知られている。しかし、逆に言えば、プラトンがホメロスを批判的に扱わなければならないほど、当時の人々の間でホメロスの倫理的な影響力が大きかったともいえる。

プラトンは、ホメロスの詩が人々を善へと導かず、理性よりもむしろ感情に頼らせてしまう点を批判していた。さらにプラトンによれば、ホメロスが神話を破壊したことも咎められるべきであるという。ホメロスの詩に出てくる神々の所業を後ろ盾に、自分のしでかした不始末を正当化する者たちがいたのである。その例としては、前3世紀の哲学者メニッポスの記述が挙げられている。一方で、プラトンはホメロスがギリシアに与えた影響すべてが悪かったわけではないとも認めている。ギリシアの徳の要素がホメロスの詩から発展したこともまた否めないのである。それゆえに、プラトンは作中でソクラテスにホメロスを引用させ、自身の理論を証明したりする場面もある。そのように、もともとの文脈を無視してホメロスを引用し、自身の説を裏付けるという行為はよく行われていた。この点も聖書によく似ている。

ホメロスの詩の引用は、政治的な文脈、技術的な文脈(家事、戦争、修辞)などでも見られる。ホメロスの詩の登場人物の特徴を、自分の身の回りの人に当てはめるような遊びも行われることがあったという。これは特に酒席での余興のようなかたちで行なわれた。

宗教に関するホメロスの教育的な影響も大きい。作品の中でも、神託やまじないや魔除けなどが登場する。ヘロドトスによれば、ホメロスとヘシオドスは神々を体系化し、名前を与え、役割によって組織化したという。つまりオリュンポスのパンテオンはホメロスによって体系化されたのである。神のイメージに関して、たとえばアテーナがフクロウを従えるという典型的なイメージも、ホメロスの詩に由来する。

ホメロス自身の教育的な意図に関しては、論文著者によれば明らかにJaegerの説は行き過ぎであったが、Eric Havelockは、ホメロスの教育論の倫理的な側面ではなく、百科全書的な側面は認めるべきであると述べている。そうしたホメロスの教育的な意図を感じられる例として、論文著者は7つのポイントを挙げている。ただし、神学的な教訓主義は、『イーリアス』よりも『オデュッセイア』に多く見られるものだとも指摘している。

結論としては、ホメロスの叙事詩は、『オデュッセイア』のセイレーンの歌でも述べられているように、快楽と知識とを与えてくれるものであった。そうした意味で、ホメロスが第一に文学的な快楽を目的としていたとしても、教育的な意図をも持っていたことは疑いない。ホメロスの詩は一つの目的でくくることはできないのである。教訓詩であるヘシオドスが100パーセント教訓的でないように、ホメロスの詩も100パーセント英雄的なものでもないのである。

2016年2月6日土曜日

偽プルタルコス『ホメロスについて』概説 Lamberton, "Introduction"

  • Robert Lamberton, "Introduction," in Plutarch: Essay on the Life and Poetry of Homer, ed. J.J. Keaney and Robert Lamberton (American Philological Association American Classical Studies 40; Atlanta: Scholars Press, 1996), pp. 1-31.
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偽プルタルコスの『ホメロスについて』は、ホメロスを諸学の祖として称揚しつつ、その言語、思想、世界観、そして作品の内容を分かりやすく説明した、初学者向けの古代のハンドブックである。本書は13世紀のマクシモス・プラヌデスによってプルタルコスに帰され、『モラリア』と共に保存されていたが、現在では明らかに著者はプルタルコスではないと考えられている(これを最初に主張したのはDaniel Wyttenbach)。というのも、4世紀に作成されたプルタルコスの著作リストである「ランプリアス・リスト」の中に本書は挙げられていないのである。とはいえ、本書の一部が3世紀のパピルスに残っていることから、プルタルコスと同時代から2世紀末頃までに書かれたものではあるとされている。このterminus ad quemの算定は、2世紀に発達したピタゴラス神秘主義的な寓意が本書のどこにも含まれていないことからくるもので、やや曖昧なものである。著者がプルタルコスを知っていた可能性も高いが、プルタルコス本人の主張と明確に異なることも述べられている。

偽プルタルコスの目的は、ホメロスを諸学の祖として証明することで、彼を称揚することであった。プラトンは、ソクラテスがしきりにホメロスを否定していたと書き残しているが、偽プルタルコスはこのプラトン的伝統には無関心であった。かといって、ストア派哲学に完全に依拠しているわけでもない。ただし、はっきりと反エピクロス派ではあった。また、彼は後代の思想家のアイデアをホメロスの記述の中に「発見」することもあった。

偽プルタルコスがホメロスの真作と考えていたのは『イーリアス』と『オデュッセイア』だけであり、それぞれ肉体の強さと魂の気高さとを象徴しているとした。ホメロスの作品に悪徳が登場することについて、彼は、ホメロスが徳と悪徳との両方を登場させたのは、読者が自分自身で倫理的感覚を磨き、自ら徳を選ぶように期待しているからだと説明した。すなわち読者の積極的な役割が求められているのである。

ホメロスの言葉遣いを、偽プルタルコスは寓意と定義している。彼によると、この寓意はあるものを別のもので言い換えることだが、そのとき皮肉や風刺が関係してくるという。寓意は、ヒント(ヒュポノイア)と言い換えることも可能である。こうした、表面上の意味以上の意味は、謎(アイノス、アイニグマ)という言葉でも表されている。

偽プルタルコスはホメロスが発明した人間の議論を、歴史的(ヒストリコス)、理論的(セオレティコス)、そして政治的(ポリティコス)とに分けている。歴史的議論は、過去の出来事の物語を扱うものである。理論的議論は、自然学(physics)、倫理学(ethics)、そして弁証法(dialectic)に分けられる。

理論的議論中の自然学の中では、宇宙論、神論、霊魂論などが扱われる。偽プルタルコスは、ホメロスが神を非肉体的、非物質的なものと考えていたと述べている。言い換えれば、ホメロスが肉体的な神を描いたのは、詩を書くにあたって必要に迫られたからだというのである。ホメロスの神々は、実際にはプラトン、アリストテレス、テオフラストスが考える神だったのである。霊魂に関しては、偽プルタルコスは特にピタゴラス主義的な考え方を持っていた(霊魂移入など)。プラトン『クラテュロス』からの影響も見られるが、それもピタゴラス主義的に変えられている。オデュッセウスの冥府下りも、魂の肉体からの分離と理解された。こうした物質的な魂理解はピタゴラスに依拠しているが、非物質的な魂というプラトンとアリストテレスからの影響も見られるという。倫理学に関しては、偽プルタルコスはストア派的というよりも、逍遥学派的であるという。とはいっても、オデュッセウスの英雄的行為のプラトン主義的理解とストア派的理解とを並置することもあり、こうした諸学派間の矛盾に関してはあまり興味を持っていないようである。

政治的議論は、実際にはホメロスの修辞学的側面、すなわち彼の演説の修辞学的力と弁論家のテクニックに関する彼の知識を扱っている。

興味深いのは、ホメロスの詩を占いに用いる観点である。偽プルタルコス以前にホメロスのテクストに魔術的目的のために言及しているものはないようである。こうした叙事詩を占いに用いるという方法は、ハドリアヌス帝の時代にウェルギリウスの『アエネーイス』を寓意的解釈することで始められたことなので、ローマで生まれた実践法がギリシアに輸入された好例であるといえる。

2015年11月24日火曜日

クレアルコスはなぜユダヤ人をアリストテレスに会わせたのか? Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle"

  • Bezalel Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münsteraner Judaistische Studien 4; Münster: LIT, 1999), pp. 241-50.
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本論文は、ヨセフス『アピオーンへの反論』180-81において引用されている、ソリのクレアルコスが伝えるユダヤ人とアリストテレスとの邂逅譚が、ユダヤ人がアリストテレスよりも賢いという意味合いを本当に伝えようとしているのかを再考したものである。通常、この箇所において、あるユダヤ人がアリストテレスとそのサークルの知的レベルを試し、なおかつ彼らから学ぶよりも多くを彼らに教えたとされている。しかしながら、論文著者は、アリストテレスの弟子であるクレアルコスが、自分の師よりも学識に優れている者としてユダヤ人を描くだろうかという当然の疑問を呈している。

そこで論文著者が注目するのが、παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχενという表現のμᾶλλονの使い方である:
ὡς δὲ πολλοῖς τῶν ἐν παιδείᾳ συνῳκείωτο, παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχεν.
しかしながら、彼が多くの学識ある者たちと共に住んだとき、彼はむしろ自分が持っているもののうちから何らかのものを伝えた〔or 彼はアリストテレスが持っているより多くの何かを伝えた〕。
論文著者は、この箇所のμᾶλλονについて、比較の意味で「より多くの」という意味と、絶対的な意味で「むしろ」という意味との二つがあり得ると述べている。アリストテレスよりもユダヤ人の方が知恵において優れている、という読みを採用したい研究者たちは、これを前者の意味で取るが、論文著者は、ギリシア散文での用法およびコンテクストから、これは後者の意味で取るべきであると述べる。なぜなら、クレアルコスが自分の師であるアリストテレスよりもユダヤ人を優れた者として描くのは不自然だからである。

この読みは、アレクサンドリアのクレメンスによる引用からも支持される。クレメンスは、ギリシアの知恵がユダヤ人に由来することを証明しようとする文書の中で(『ストロマテイス』1.15)、クレアルコスがユダヤ人とアリストテレスとの邂逅を物語っていることを記録している。仮にクレアルコスがユダヤ人の卓越性を描こうとしていたのなら、それをクレメンスが見逃すはずはないが、この箇所においてそのような記述はないのである。

以上から、クレアルコスが述べているのはユダヤ人の知恵がアリストテレスに勝っているということではないと論文著者は結論する。ただし、クレアルコスがユダヤ人に対して好意的な描き方をしていることは疑いない。ギリシアから離れ、違う言葉を話す民族が、自らをギリシア文化と結びつけ、偉大なるアリストテレスとの対話において、ギリシア精神を示したことを言祝いでいることは確かである。

論文著者によれば、クレアルコスは当時キュニコス派と論争をしていたのだが、その論争の中で、東方の「哲学者たち」の理想像を用いて、自らの逍遥学派的なアイデアを表明しようとしていたのだという。言い換えれば、クレアルコスは、ユダヤ人哲学者の持っている自制心(カルテリア)や節制(ソーフロシュネー)は、キュニコス派のそれとは相反するものであると言いたいのである。その際に、より東方のイメージのあるインド人を持ち出さずに、ユダヤ人を出したのは、アリストテレスが小アジアで出くわす可能性がより高かったからである。であるならば、この物語はユダヤ人に関する情報を提供しようとするものではなかったのだといえる。そしてヨセフスもまたこのことに気付いていたので、クレアルコスの記述の全体を引用せず、部分的な引用に留まったのだと考えられる。

さらなる参考文献
The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)
Bezalel Bar-Kochva

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2015年11月20日金曜日

ギリシア哲学者としてのアブラハム Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus"

  • Louis H. Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus," Transactions and Proceedings of the American Philological Association 99 (1968), pp. 143-56.

本論文の中で著者は、アピオーンやアポロニオス・モロンによるユダヤ人批判に反論するヨセフスの護教的テクニックの一つとして、アブラハムをギリシア哲学者として描くことを挙げている。ヨセフスのアブラハムは、神の存在に関する目的論的議論を洗練された方法で逆転させる鋭さを持ちつつも、相手の話を聞く柔軟さを併せ持ち、しかも自身の科学的知識をエジプトの哲学者たちと共有する気前良さをも持っていた。

『古代誌』におけるヨセフスの護教論の目的は、非ユダヤ人からの批判に対抗することであったので、そうした非ユダヤ人読者にアピールするようなアブラハム像を創り出したのだった。ヨセフスは、トゥーキュディデースが描いた政治家ペリクレスのように、論理学と説得能力を持ったアブラハムを描いた。そもそも、古代における哲学の目的は、相手を説得し、転向させることであった。

論文著者は、そうしたアブラハムの論理的な演繹法のうちでも最も重要なものとして、神の唯一性の証明を挙げている。ユダヤ文学の中では、『アブラハムの黙示録』、『ヨベル書』、『創世記ラバー』などで、アブラハムが自身の理性を通じてこの見解に至ったことが描かれている。ただし、ヨセフスのアブラハムは、ストア派などギリシア哲学における証明方法を用いているのが特徴的である。しかも、多くの哲学者が天体の秩序だった動きに基づいて神の存在を証明するの対し、ヨセフスのみは――論文著者の調べた限りでは――ただ一人、天体の無秩序な動きに基づいてそれをしているという。キケロー『神々の本姓について』で描かれるクレアンテスは、神の存在を証明するものとして、嵐や地震といったこの世界における異常な出来事と共に、天体の秩序だった動きを挙げている。ヨセフスは、完全な自由意思を持った非物質的なユダヤ的な神概念を持っているがゆえに、クレアンテスの二つの議論を一つにまとめたような証明に至ったのだと考えられる(ただし、論文著者によれば、ヨセフスは哲学者というガラではないという)。

こうしたアブラハムを賢者として描く方法は偽エウポレモスにも見られるものであるから、ヨセフスの独創ではないが、ヨセフスはアブラハムを天文学者かつ論理学者として、より強調して描いている。ラビ文学や偽フィロンが、アブラハムが巻き込まれるカルデアでの騒動を、主に信仰の問題として描くのに対し、ヨセフスは、アブラハムが科学的かつ哲学的な議論において反発されたとしている。

ピタゴラスやソロンのようなソクラテス以前の哲学者たちが、マギ、インド人、エジプト人などの賢者たちと哲学的な議論するという典型的なイメージがヘレニズム時代にはあったが(フィロストラトス、プラトン『ティマイオス』)、アブラハムがエジプトを訪れたこともこのイメージを下敷きにして描かれている。事実、ヨセフスは『アピオーンへの反論』の中で、教養あるユダヤ人が小アジアにいたアリストテレスを訪ねて、知識を交換する様子を描いている。
ラビ文学にも同様の描写はあるが(ベホロット8b)、そちらではアブラハムは伝道者として描かれることが多く、ヘレニズム的な様式の哲学的な議論はほとんど出てこない。ヨセフスの描くエジプト人と対話するアブラハムは、論理学、哲学、修辞学、科学に秀でた極めて知性的で教養あるヘレニズム的紳士であった。それどころか、アブラハムは、のちにエジプト人が名声を得るに至った計算術や天文学に関する知識を、当のエジプト人に教えた人物となった。そうした知識を惜しげもなく与えるほど気前のよい人物としてアブラハムを描きたかったのである。ラビ文学においては、天文学の知識を持つアブラハムを肯定的に描く伝統は、中世になるまでなかった。むしろ、ラビたちは天文学や占星術を魔術と見なしていたので、アブラハムがそれを知っているがゆえに子供をなかなか得ることができなかったと説明していたほどである。

天文学者としてアブラハムを描くのは、先に述べたように偽エウポレモスにも見られるものであったので、ヨセフスはそれを流用して、ギリシアの読者にアピールするように、天文学のような科学的な精神を持った人物としてアブラハムを描いた。しかしながら、興味深いことに、フィロンはアブラハムはカルデアで天文学の知識を持っていたが、それは目に見える世界への執着であり、そこから出て目に見えない世界へと入ることによって、純粋な哲学者になったとした。ラビ文学は、アブラハムが占星術に関する知識を持っていたとしているが、神がアブラハムを説得して占星術を手放させたと伝えている。

ヨセフスは護教的理由から、哲学者かつ科学者としての側面を強調しつつ、アブラハムを典型的な国民的ヒーローとして描こうとしたのだった。

2015年11月7日土曜日

ギリシア人とユダヤ人 Jaeger, "Greeks and Jews"

  • Werner Jaeger, "Greeks and Jews: The First Greek Records of Jewish Religion and Civilization," Journal of Religion 18 (1938), pp. 127-43.

本論文は、ヘレニズム期におけるギリシア人とユダヤ人との関係を明快に解き明かしたマスターピースである。たとえ自身はユダヤ人に関する記述を残してはいなくとも、ユダヤ人を含む東方世界の諸民族の理解への道を整えたのは、アリストテレスその人であった、と論文著者は述べる。彼のキャリアの初期に書かれた、完全には現存しない作品の中で、アリストテレスは東方世界の宗教への関心を見せていた。そうした作品群のひとつである『哲学について』において、アリストテレスはオリエントの「哲学」に言及している。論文著者は、ここでの「哲学」とは厳密な意味でのギリシア哲学のことではなく、いわばゾロアスター教のマギが持つ知恵、すなわち「神学」というほどの意味であると指摘する。

一方で、アリストテレスと同時期のプラトン主義哲学者たちもまた、プラトンによる善の原理を彷彿とさせる、ゾロアスター教の形而上学的な二元論に関心を持っていた。しかし、アリストテレスは彼らのプラトン的二元論に反対し、それを彼の厳格な一元論、さらには神学的な観点から言えば、一神教に取り換えたのである。論文著者曰く、こうした傾向を持つアリストテレスがもしユダヤ教を知っていれば、間違いなく言及していたであろうし、逆にアリストテレスがユダヤ教に好意的に言及していたならば、後代のユダヤ人歴史家たちは間違いなくそれを引用していたはずである。しかし、残念ながらそうした事実はない。

代わりに、アリストテレスの弟子であるソリのクレアルコスは、師匠がユダヤ人と出くわした場面を描いている。おそらくクレアルコスは、ユダヤ人口の多かったキプロスあたりで、実際にユダヤ人に出会っていた可能性は十分ある。また、同様にアリストテレスの弟子であるテオフラストスもまた、新プラトン主義者ポルフュリオスの『自制について』に引用されている、『敬虔について』の中でユダヤ人に言及している。

テオフラストスはユダヤ人を「哲学的な人種である」と述べている。そのこころとして、彼は2点ユダヤ人の哲学的な性質を挙げる。第一に、ユダヤ人が自分では食べない動物を犠牲に奉げる習慣を持っていること、第二に、ユダヤ人が祭りの夜に神を賛美し、神に関する議論をしながら星を観ることである。これは、ヘレニズム期に新しく生まれてきた、自然神学的な特徴を示している。加えて、テオフラストスははっきりとは明言していないが、彼は間違いなくユダヤ人が唯一なる神を信仰していることを知っていたはずであり、そうであるがゆえにユダヤ人を「哲学的な人種である」と説明しているのだと考えられる。

テオフラストスはさらに、ユダヤ人が動物のみならず人間をも犠牲として神に捧げた最初の民族であると述べている。これは、彼が部分的にでも聖書の物語を知っていたことを意味する。なぜならば、カインとアベルは初めて神に犠牲を捧げた人間であり、イサクを犠牲にしようとしたアブラハムは始めて人を犠牲にしようとした人間であるからである。むろん、七十人訳の翻訳がまだ完成していなかった時代に生きたテオフラストスが聖書を読めたはずもないので、おそらく彼は何らかのソースを持っていたと考えられる。

こうした記述を残すテオフラストスのソースは何であろうか?論文著者は、それは『エジプト史』を書いたアブデラのヘカタイオスであると考えた。エジプトの歴史資料を自由に使うことのできる位置にいたヘカタイオスは、エジプトの君主制をプラトン的な理想の国家像として描いた。そしてすべての文明がエジプトに由来するという説明をする中で、ユダヤ人がいかにしてエジプトを出ていったかについて触れているのである。前288年に死んだテオフラストスが、前300年頃に書かれたとされるヘカタイオスの『エジプト史』を読んでいた可能性は十分ある。

ただし、ヘカタイオス自身がユダヤを訪れたことがあるとは考えにくい。おそらく彼はアレクサンドリアなどで、ギリシア語を話せるユダヤ人と接触したのであろう。彼は、七十人訳完成以前であるにも関わらず、申命記の一節らしき文章も引用している。一方で、ヘカタイオスにはユダヤ人の歴史を誤解している部分も少なくない。特に、モーセがエジプトを出てエルサレムの町を作っていくところなど、明らかな誤りだが、もしかしたらそれは彼がモーセの逸話を、ギリシアにおける通常の植民地の作り方に合わせて変更したからかもしれない。さらにヘカタイオスは、明言はしていないが、やはりテオフラストスと同じように、ユダヤ人が純粋な一神教を奉持していると考えていた節がある。

テオフラストスもヘカタイオスも、ユダヤ人たちが持っている、普遍的な一神教に基づいた宗教システムと、神権政治的なヒエラルキーに基づいた政治システムを考慮することで、ユダヤ人が「哲学的な人種である」という結論に至ったのである。

アリストテレスとユダヤ賢者の邂逅 Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage"

  • Hans Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage according to Clearchus of Soli," Harvard Theological Review 31 (1938), pp. 205-35.

以下かなり長文かつ、途中から話の流れが分かりづらくなるが、それは筆者がまだ論文の内容を完全には消化しきれていないためである。ここではとりあえずのまとめを残しておきたい。

(I)ヨセフスは『アピオーンへの反論』1.177-81において、逍遥学派哲学者であるソリのクレアルコスがユダヤ人に言及している箇所を引用している。クレアルコスの著書『眠りについて』の中では、彼の師匠であるアリストテレスがあるユダヤ賢者と出会い、哲学的な議論をした場面が描かれている。ヨセフスはここでの彼らの議論がどのようなものであったかまでは引用していないので、その内容はよく分からない。ヨセフスの意図はただ、ユダヤ人が古くから教養あるギリシア人とつきあいがあったことを示すことで、ユダヤ人が新しい民族であるというアピオーンの主張に反論することだった。引用から分かることはただ、アリストテレスがこのユダヤ賢者の「不思議な性質と哲学」を称えており、なおかつ「何らかの驚くべき夢のようなこと」を学んだということである。

ところで、新プラトン主義者であるプロクロスもまた、『プラトン「国家」注解』の中で、クレアルコスの『眠りについて』を引用している。そこには、眠っている子供から魂を引き出す実験をした魔術師の逸話が残されている。論文著者(および先行研究者ら)は、この魔術師こそ、ヨセフスの引用でアリストテレスと会ったユダヤ人その人であると指摘する。論文著者は、この推論をもとに、不明な点の多いヨセフスの引用におけるユダヤ人を、プロクロスの引用における魔術師の描写から解き明かしていく。

そこで論文著者が注目するのが、プロクロスの引用における、肉体から解き放たれた魂の議論である。魂がどのように肉体から解き放たれるのかというのは、プラトンの時代からの議論であった。そして、眠りは、魂が本来のかたちを取り戻すひとつの契機であると考えられていた。それゆえに、ヨセフスの引用におけるアリストテレスとユダヤ人とが交わした哲学的な会話にも、この眠りと夢に関する事柄があったかもしれないと論文著者は考える。ヨセフスの引用における「何らかの驚くべき夢のようなこと」という記述もこれを暗示している。

ただし、本来ならば、こうした催眠術師のような存在と、通常の理解でのユダヤ人のイメージとは相いれないものであるはずである。しかし、論文著者は、ユダヤ人の起源に関するクレアルコスの見解をもとにこの矛盾を説明しようとする。ヨセフスの引用において、クレアルコスはユダヤ人がインドの哲学者の末裔であると説明している。すなわち、インドにおいては哲学者は「カラノス」と呼ばれ、シリアにおいては「ユダヤ人」と呼ばれていたというのである。このカラノスとはインドの裸形者たちのことであり、あるカラノスがアレクサンドロスの東方遠征において、王の前で自らを火の中に投じたことが知られていた。またギリシアではこのカラノスたちは、東方における他の宗教共同体と関連付けられていた。それゆえに、クレアルコスは他の著作において、裸形者たちがゾロアスター教におけるマギの末裔でもあると説明している。そして、これらマギたちは、魂の不死性を信じていることが知られていた。いうなれば、ユダヤ人もまたこれら東方の聖職者たちの間接的な末裔であると見なされていたので、ユダヤ人が魂の不死性を信じる催眠術師であるという同一視も成り立つわけである。

ヨセフスがアリストテレスとユダヤ人との邂逅において、催眠術師のくだりを省いたのは、それがギリシア人の目から見てばかばかしく見える可能性があるからで、一方で、プロクロスが魔術師のくだりでその正体がユダヤ人であることを隠したのは、アリストテレスと議論したという名誉をユダヤ人に与えるのを惜しんだからであると考えられる。

(II)ただし、ヨセフスの引用において、このユダヤ人は「言語においてのみならず、魂においてもギリシア人であった」とも描写されているが、それはなぜなのか。論文著者は、これをクレアルコスの執筆意図から説明しようとする。クレアルコスの『眠りについて』は、アリストテレスを主人公にしたプラトン的な対話文学である。論文著者は、この作品をプラトン『国家』第10巻と比較する。プラトン『国家』は、有名な知恵の教師が出てきて、魂が実在することを証明するために、奇妙な神話的・寓話的な体験をするという新しい文学形式となっていた。プロクロスの魔術師と同一視されうる、クレアルコスにおけるユダヤ人も、こうした対話文学における登場人物の中に組み込まれるのである。

ただし、以下の2点には注意すべきである:後代のプラトン主義者たちが創作した、この文学形式の作品の中で、奇妙な体験をするのはギリシア人であるのに対し、プラトン『国家』それ自体とクレアルコス『眠りについて』では、バルバロイがそうした体験をしている。また他の作品では、語り手が他の人に起こったことを語っているのに対し、クレアルコスでは語り手としてのアリストテレスが自分自身に起こったことを語っている。

クレアルコスは、プラトン以来のギリシア知識人の例にもれず、主として正確な知識を欠いているがゆえの憧れから、親オリエント的傾向を持っており、それは同時に親ユダヤ人的傾向にもなっていた。ただし、ユダヤ人に関する知識が極めて限られていたがゆえに、彼らを独立した人種と見なさず、ペルシアにおけるマギやインドにおけるブラフマンのように、シリアにおける祭司集団だと見なしたのだった。そして、そうした祭司階級への高い評価から、クレアルコスは、ユダヤ人を神学や天文学に生涯を捧げる哲学的なセクトの一員と信じたのである。

こうしたギリシア人のオリエント趣味は、初期ヘレニズムの文学作品に大きな影響を及ぼしている。特に、ギリシア賢者の伝記文学においては、タレスやピタゴラスらがオリエントに行って東方の賢者たちから知恵を授かるという形式が好まれた。アリストテレスの弟子であるタレントゥムのアリストクセノスは、ソクラテスがインド人と出会う物語を書いた。また実際にインドに行ったとされるメガステネスはインド思想について著述を残しており、なおかつ哲学はインド人にもユダヤ人にも昔から知られていたと書いている。アリストクセノスのような文学の流行と、メガステネスによるインド人とユダヤ人との共通性とから、クレアルコスはユダヤ人をインド人の末裔としたのかもしれない。

(III)いうなれば、クレアルコスのユダヤ人は、現実のユダヤ人ではなく、作家の想像力による創作の中の人物である可能性が高い。ところ、ヨセフスは182節において最後にユダヤ人が「驚くべき自制心と節制」について語ったと、結論めいたものを述べているが、そこからは、ヨセフスが引用しているクレアルコスの記述には続きがあり、そこにはユダヤ教の食餌規定などの決まりが書かれていたことがうかがわれる。しかし、それをヨセフスが省いたのは、おそらく実際のユダヤ人から見るとやや都合の悪いことが書かれていたからであり、ギリシア人を超えたユダヤ人のイメージを植え付けようとしていた彼の意図にそぐわなかったからかもしれない。

ところが、論文著者は、この省略部分には、むしろ禁欲主義と眠りとの関係が書かれていた可能性を指摘する。新プラトン主義者のオリュンピオドロスは、『プラトン「パイドン」注解』の中で、アリストテレスがある男と会った物語を語っている。それによると、その男はまったく眠ることがなく、また太陽のような空気のみを糧としているという。この描写はいかにもプラトン的かつピタゴラス的なものである。「太陽のような空気」とはエーテルのことに違いない。またエーテルのみを糧にする禁欲的な生活をすることで、不死なる魂を清浄に保とうとしている。この魂の不死性という考え方は東方の賢者たちに共有されていたもので、彼らと比較されていたユダヤ人も当然持っているものとされていた(ヘルミッポス)。もしこのようなことが書かれていたならば、ヨセフスはやはりこれをあまりに馬鹿げているとして省かなければならなかった。

(IV)クレアルコスは、このように当時の文学的流行やステレオタイプなどをもとにユダヤ人を描いているため、あまり批判的な目を持っていない。彼の作品のテーマは、友情、動物、格言、なぞなぞ、性的なもの、プラトンの称賛など多岐に渡っており、文字通りさまざまなテーマを逍遥してはいる。しかし、また聞きをもとにした紋切り型の作品ばかりなので、アリストテレス的な経験主義に基づいた批判精神には欠けている。むしろ、クレアルコスのテーマはプラトンの弟子であるスペウシッポスなどと共通の要素が見受けられる。またピタゴラス主義の影響も多大である。こうしたことから、よく言えば、クレアルコスはプラトンとアリストテレスの教えの矛盾を調和させようとした最初の者たちのうちの一人であるともいえる。

(V)魂が肉体から分離可能であると考えたプラトンに対し、アリストテレスは肉体と、それと共に死ぬ魂との不可分な調和を説いた。すると、魂を肉体から引き出す魔術師の話を語る、クレアルコスのアリストテレスは実は完全なるプラトン主義者になってしまっている。むろん、この逸話自体は、プラトンが死んでアリストテレスがアカデミアを去り、小アジアにいた時代なので、まだプラトンの影響下にあったということもできる。が、やはりクレアルコスは意図的にアリストテレスの権威を用いてプラトンの説を正しいものとして描こうとしていると考えられる。

2015年9月24日木曜日

柳沼「ヒストリアはいつから歴史になったか」

  • 柳沼重剛「ヒストリアはいつから歴史になったか」『語学者の散歩道』岩波現代文庫、2008(1991)年、94-107頁。
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今学期は大学でヘロドトス『歴史』とヨセフス『アピオーンへの反論』の講読の授業に出ているので、「ヒストリア」について書かれたエッセイを読んだ。本書に収められた文章は皆、書き流したようなエッセイ風の筆致だが、さすがに碩学の文章は説得力があり、なおかつ滋味に富んでいる。

ギリシア語の「ヒストリア」は、もともとは現在の「歴史」という意味では使われていなかった。ヘロドトス『歴史』の冒頭では、「歴史」に当たりそうな語である「人間界の出来事」は「タ・ゲノメナ」であり、「ヒストリア」は「研究調査」という意味である。他の作家の用法でも同様で、プラトン、アリストテレスのほとんど、イソクラテスなども皆、「研究」「調査」「探求」を意味している。

ただし、アリストテレス『詩学』に出てくる2箇所は、しばしば「歴史」という意味で読まれてきた。第9章(1451b4以下)では、ヒストリアを書く人と詩人とが対比され、前者は個々の「実際に起こったこと(タ・ゲノメナ)」を書くが、後者は普遍的な「起こるであろうこと」を書くとしている。つまりアリストテレスは、ここでヒストリアという語を、「普遍的でない実際に起こったこと」を書くこととしているので、むしろ「歴史」というよりは「年代記」という例外的な意味合いで使っているように思われるという。

ヒストリアがまぎれもなく「歴史」という意味で使われたのはいつか。前1世紀のディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスらの用法はすでに「歴史」の意味である。前2世紀のポリュビオスは、多くは「歴史」だが、やはり「研究」の意味でも用いている。そうしたことから、著者は次のように仮説を立てる:
本来「探究」を意味し、探究のために「問うこと」を意味し、さらにその結果得られる「知識」を意味していたヒストリアという語が、アリストテレスの頃から次第に「歴史上の出来事に関する探究や知識」をおもに意味するようになり、この「歴史」と「探究あるいは知識」との間でしばらく綱引きが行われていたが、前一世紀になってようやく、単なる知識ではなくて「歴史の知識」「歴史を書くこと」へと全面的に変わった。これが私の仮説である。(101頁)
また著者はヘロドトスの重要性にも着目している。ヘロドトス以前の歴史家の用法は、神々の系譜や地誌に関する探究を意味していたが、ヘロドトスは(おそらく初めて)それを「人間界の出来事」を対象とした探究という意味で用いたのである。
つまりヘロドトスによって、ヒストリアが歴史の領分に踏み込んだということだが、同時に、彼が「タ・ゲノメナ」を研究調査する時、その調査は、系譜や地誌の研究をする伝統的なヒストリアの延長線上にあったということでもある。(102-3頁)
なおかつ、ヘロドトスの「探究」のソースには信頼性の高さの度合いがあるという。最も確かなのは、「自分の目で見たこと」であり、二番目が、「見ただけでは納得いかないが、こちらから尋ねて得た答え」であり、そして三番目が、「自分から聞いたわけではなく、おのずと聞こえてきたこと」である。そしてこのうち二番目の「尋ねる」というときに彼が使っている言葉がヒストレインなのである。いうなれば、ヒストリアとは、自分で現場へ出かけて行って、自分の目で確かめようのないことに関して、しかるべき相手に問うて答えを得ることだということである。

一方で、興味深いことに、プラトンが「探究」という語を使うときのギリシア語は、必ず「ゼーテイン/ゼーテーシス」という言葉だった。これはヘロドトスやアリストテレスとは異なっている。著者によれば、前者が「~とは何か」「何が~なのか」という探究であったのに対し、後者は「いかに」「どうして」という探究であったのだと説明している。

また、「人間界の出来事」にヒストリアを拡大したヘロドトスの後に出てきたトゥキュディデスは、明らかにへロドトスを意識しつつも、ヒストリアという語を一度も用いなかった。つまり、彼はヘロドトス型のヒストリアではないかたちでの「人間界の出来事」の探究をしたかったのだと思われる。しかし、後代になって、「タ・ゲノメナ」を語ることが「ヒストリア」と呼ばれるようになって、両方とも「歴史」と見なされるようになったのだと思われる。

2015年9月3日木曜日

ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立 Kamesar, "The Bible Comes to the West"

  • Adam Kamesar, "The Bible Comes to the West: The Text and Interpretation of the Bible in Its Greek and Latin Forms," in Living Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim Practice, ed. James E. Bowley (St. Louis: Chalice Press, 1999), pp. 35-61.
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本論文は、ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立についてと、ギリシア世界での聖書解釈の歴史を概観したものだが、今回は前半分(pp. 35-50)を読んだ。著者は、まず前500年を起点として、ギリシア世界、ユダヤ世界、ローマ世界の三者の関係がどのように発展していったかを説明する。最初は三者は関わりあうことのないままそれぞれの歴史を作っていたが、前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によって、まずギリシア世界とユダヤ世界とが接触した。この征服は軍事的のみならず文化的なものでもあった。そして前30年にはクレオパトラの死によって、ローマ世界がギリシア世界とユダヤ世界を飲み込んだが、この征服はアレクサンドロス大王と異なり、あくまで軍事的なものであって、文化的にはローマはギリシア文化に依存していた。

ギリシア語訳聖書とラテン語訳聖書とはこうした歴史的な背景の中で制作されたものであるが、著者はその流れをSeptuagintal-traditionとnon-Septuagintal traditionとに分けている。七十人訳が作られた時代は、偉大な古典期はすでに終わってしまったという感覚が支配的だった。そこでそうした遺産を整理し、保存しようという試みが始まったのである。同時に、プラトン的な哲学から、アリストテレス的な経験的・組織的なアプローチの学問が発達していった。この二つの傾向をもとに考えると、『アリステアスの手紙』も違った風に読めてくる。多くの研究者は、アレクサンドリアの図書館がユダヤ人の律法に興味を持って、わざわざ翻訳してまでそれを手に入れようとしたという逸話を作り話と考え、七十人訳はヘブライ語を忘れた離散のユダヤ人によって作られたものだと説明してきたが、アリストテレス的な保存・収集の学問的傾向が律法に対する興味を生んだとも考えられるのである。

こうして出来上がった七十人訳は、フィロンやパウロによって権威あるものと見なされていった。また新約聖書の中でイエスが預言を成就させたことは、ギリシア語の旧約聖書である七十人訳の存在によって証明されるので、その価値はいや増していった。その権威は、ヘブライ語テクストと七十人訳との違いが見つけられていってからも、変わらずに高かった。その代わりに、後2世紀までにギリシア語を話すユダヤ人たちは七十人訳を捨ててしまった。これは一般的にはキリスト教徒の七十人訳利用に対するリアクションとして見られているが、これは必ずしも正しくはない。

というのも、non-Septuagintal traditionの特徴である、ギリシア語訳をヘブライ語に近づけようとする試みの最初期の例は、キリスト教の成立以前のものだからである。それはナハル・ヘヴェルで見つかった十二預言書のギリシア語訳である。すなわち、キリスト教徒が七十人訳を用いるようになる前から、七十人訳ではあきたらず、ヘブライ語に近いギリシア語訳を作ろうという機運がユダヤ人の中にあったのである。

その後、後2世紀になると、"The Three"とも呼ばれるアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの訳が現れる。しかしこれら三者の翻訳は、ユダヤ人よりもむしろキリスト教徒に大きな影響を与えるようになった。3世紀のオリゲネスに端を発する、キリスト教聖書研究の始まりである。オリゲネスがヘクサプラを作成したことで、七十人訳がいかにヘブライ語テクストと違うかが一目瞭然となってしまった。と同時に、七十人訳の権威を貶めないままにこの矛盾を説明しようとする、洗練した神学もアウグスティヌスのような人物によって編み出されることになった。

このヘブライ語に近づけようとする傾向が結実したのが、ヒエロニュムスのウルガータ聖書であった。ヒエロニュムスが活躍したのは、オリゲネスの時代から150年ほどもあとのことであったが、これほどまでに時間がかかったのは、ラテン世界における聖書研究が成熟するのにそれだけかかったということであろう。

以上から分かることとしては、次のことが言える:Septuagintal traditionは「キリスト教」の伝統だというわけではないし、non-Septuagintal traditionも「ユダヤ教」の伝統というわけではない。両者は共にギリシア語を話すユダヤ人のもとで始まったものであり、Septuagintal traditionはギリシア語のキリスト教徒の共同体で受け入れられ、non-Septuagintal traditionはラテン語のキリスト教の共同体で受け入れられたのである。

2015年5月25日月曜日

第四マカバイ記の文学形式 Lebram, "Die literarische Form des vierten Makkabäerbuches"

  • J.C.H. Lebram, "Die literarische Form des vierten Makkabäerbuches," Vigiliae Christianae 28 (1974): 81-96.

『第四マカバイ記』(以下四マカ)は、理論および具体例によって、「ユダヤ律法遵守が情念の克服であること」や「遵守とは敬虔な理性そのものであること」などを証明したものである。しかし、特に3:19以降の後半部分では、このテーマからややはずれることも述べている。しばしば敬虔な理性の「ヒストリア」が挿入され、話の流れを中断している。テーマとヒストリアとを不自然に繋げようとしているのである。四マカ3:19-18:24は、エレアザル、七人の兄弟、母親に関する別のテーマといっていい(二マカ6:18-7:42を下敷きにしている)。

五世紀のフィロストルギウスは、後半部分はヒストリアではなくエンコーミオン(称賛演説)であると述べている。J. Freudenthalは四マカはシナゴーグにおける説教と考えたが、E. Nordenはそうではなく文学的な演説であり、フィロストルギウス同様エンコーミオンであるとした。Nordenによれば、前半部分がシンプルな哲学論文であるのに対し、後半部分はその自らの命題の正しさを証明する例としての称賛演説なのである。LebramもNordenの考え方に基本的に同意しているが、エンコーミオンという名称はどちらかというと詩文に使うものであり、散文ではエパイノスが適切であるとしている。この称賛演説は演示弁論の一種である。

本論文でのLebramの問いは、四マカ以前は殉教者の称賛は演示弁論の対象ではなかったのに、なぜ四マカ著者は称賛演説というジャンルを殉教者の称賛のために用いたのかというものである。そして、四マカ著者はこのことをした最初の人物なのだろうか。

そこでLebramが注目したのが、17:8にある架空の墓碑銘である。Lebramによれば、これは演示弁論の一種であるエピタフィオス(追悼演説)の特徴であるという。追悼演説は、戦没者のためになされる墓前での演説であり、アテーナイで発展した。四マカの墓碑銘のところでは、この書物のテーマである神への証しについても情念の克服についてもあまり出てこない。殉教という結果のみならず、演説の使用という点も父祖の地のための犠牲という思想から定められている。

四マカ著者は、ダビデの渇きの話など、殉教物語でない部分も要約して自身の殉教物語の冒頭に置いているため、追悼演説との類似性が分かりにくくなっているが、Lebramは追悼演説の代表例と比較することでその類似性を明らかにしている。追悼演説を含むプラトンの『メネクセノス』は、死者のための称賛と生者のための慰めとに分かれている。この後半の生者に対する慰め部分には、パラミューティア(奨励)、トレーノス(哀悼)、そしてアナケファライオーシス(要約)あるいは嘆きへの呼びかけなどといった特徴が見られる。四マカでいえば、17:7-18:19が要約、18:20-21が哀悼、18:22-24が奨励に当たる。

追悼演説のもうひとつの特徴である死者の称賛部分には、プラトンによると、その死者のエウゲネイア(生まれのよさ)、パイデイア(受けた教育)、そしてプラクシス(業績)が述べられているという。リュシアス、デモステネス、ヒュペリデスらの追悼演説では、この死者の称賛部分がさらに、その先祖の歴史的・時系列的な称賛と、その死者そのものの称賛とに分けられている。この「過去の先祖の称賛」+「現在に死んだ英雄の称賛」という形式をもとに四マカを見ると、ダビデの渇きなどの逸話は、この演示弁論の作法に則っていたことが分かる。図示すると以下のようになる:

演示弁論→追悼演説→
  • 生者のための慰め(奨励、哀悼、要約)
  • 死者のための称賛(生まれのよさ、受けた教育、業績)→先祖の称賛と死者本人の称賛
プラトンによる死者の称賛部分に重ねて四マカを読んでみると、その類似性がはっきり分かる。まず「生まれのよさ」の関しては、殉教者たちが気高い生まれのヘブライ人であり(8:2; 9:6, 18; 17:9)、徳があり(9:18)、アブラハムの子であることが明言されている(9:21; 18:1, 20)。「受けた教育」については、拷問を耐える力となる律法教育を受けたことが指摘されている(13:9, 22)。一見、殉教物語に教育など関係ないように見えるが、わざわざ言及されているのは、四マカ著者が演示弁論の作法に則っているからなのである。「業績」については、徳(アレテーあるいはアンドラガシア)のもとで殉教者たちの業績が要約されている(1:8, 10; 7:22; 9:8, 18, 31; 10:10; 11:2; 12:15; 17:23)。先祖に恥をかかせぬよう、殉教者たちは拷問を「耐えている(クラテレイン)」が、この語はヒュペリデスにもしばしば出てくる。

最後にLebramは、四マカに特徴的な4つの考え方が他の演示弁論にも出てくるかを検証している。第一に、暴君と殉教者との対立・対照という特徴については、演示弁論における暴君の典型としてのペルシア王の存在が類似点として挙げられる。四マカは、演示弁論の持つ暴君への対抗心や自由への希望といった傾向を借用して文学形式を整えている。第二に、父祖の地のために死ぬこととは律法を遵守することそのものであるという考え方は、ヒュペリデスらの演示弁論にもしばしば出てくるモチーフである。演示弁論の戦士たちが国家のために死んだのが法律に則った行為であったように、殉教者にとって、殉教の理由は律法が課した義務だったのである。第三に、敬虔さの姿勢に関していうと、神(神々)を信じないことは、演示弁論においても四マカにおいても、必ず敵の特徴であった。そして第四に、名誉の永遠性に派生する復活信仰である。演示弁論では、普通の人間の生の儚さに対する、戦死者の名誉の永遠性が強調されるが、四マカはこの死者の永遠性を復活信仰に結び付けている。すなわち、復活とは殉教者にとっては永遠の褒賞なのである。復活信仰の考え方自体は、二マカ12:44に父祖たちの復活といったかたちで出てくるが、これが四マカでは殉教者の復活信仰へと一歩進められているのである。

以上の四点をまとめると、四マカは殉教者の称賛を演示弁論の形式で表現したわけだが、その形式のもとで、殉教者たちは暴君に対抗し、律法を遵守し、そして敬虔さに準じつつ、永遠の生という恩恵に与っているのである。

Lebramは本論文で明らかにしたことを以下の3点にまとめている。
  1. 四マカの後半部分で、殉教者たちの描写は、当初の歴史的な描写との関係性から話され、演示弁論という現在の文脈に置き換えられている。
  2. 著者はこれらの演説にアテーナイの演示弁論の形式を与え、弁論術の学校における模範や文学的テクニックを与えている。
  3. 演示弁論は殉教物語を修辞的に処理することに適している。なぜなら、マカバイ時代のユダヤ教の思想――暴君への抵抗、律法や敬虔さのための軍事的戦い、殉教者の復活信仰――は、演示弁論の精神的態度に近いからである。

2014年11月13日木曜日

第四マカバイ記の諸問題 Van Henten, "4 Maccabees"

  • Jan Willem van Henten, The Maccabean Martyrs as Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 57; Leiden: Brill, 1997), pp. 58-82.
The Maccabean Martyrs As Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, V. 57)The Maccabean Martyrs As Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, V. 57)
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第四マカバイ記は七十人訳聖書中の一書だが、他の文書とは語彙に関して大きく異なった特徴を持っている。こうした四マカの文学的スタイルは、アジアニズムと呼ばれる前3世紀以来のスタイルに似ている。同じ言い回しや似たイメージの繰り返しや、同根の言葉での言い換えなどがその特徴だが、アジアニズムという評価は、対となるアッティシズムの側からの否定的評価である場合も少なくなかったので、はっきりとした定義があるわけではない。

四マカの文学的形式については、さまざまに議論されてきた。FreudenthalやThyenらは、四マカはアレクサンドリアのシナゴーグにおける説教、特にハヌカー祭のときに語られた説教だったと考えたが、これは今ではあまり支持されていない。Nordenは、四マカはむしろ、前半部分1:1-3:18が哲学論文であるディアトリベー、後半部分3:19-18:24が個人に対する賛辞であるエンコーミオンだと考えた。実際古代の注解者フィロストルギオスは、四マカがヒストリアよりはエンコーミオンだと述べている。一方でLebramは、Nordenの説を引き継ぎつつ、後半はエンコーミオンではなくエピタフィオスだと主張した。ここで言うエンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)などは、アリストテレスによる弁論術の分類、すなわちディカニコン(法廷弁論)、シュンブーレウティコン(議会弁論)、エピデイクティコン(演示弁論)のうち、三つ目である演示弁論に分類されるものである。ディカニコンが過去のことを法廷で、またシュンブーレウティコンが未来のことを議会で議論する際に用いられるのに対し、エピデイクティコンは現在のことを祭りや葬儀などで議論し、徳を賞賛したり悪徳を非難したりする際に用いられた。以上の関係を図示すると次のようになる:
  • ディカニコン(法廷弁論)
  • シュンブーレウティコン(議会弁論)
  • エピデイクティコン(演示弁論):エンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)
エンコーミオンもエピタフィオスも共に死者を賞賛する際に用いられたが、前者は個々人を対象とし、かつ必ずしも名誉の死を前提としないのに対し、後者はもともとアテーナイにおいてポリスの名誉のために死んだ市民全体を顕彰する愛国的なものだった。Lebramはさらに、葬礼演説がしばしば墓の前で行なわれたことと、四マカ17:8に架空の墓碑銘が出てきていることから、四マカ後半は葬礼演説であるという主張を続けている。ただし、Van Hantenは、四マカ後半が葬礼演説として解釈できることと、四マカが実際に墓の前で読まれたこととは別の問題であると指摘している。また、四マカ後半には、葬礼演説には似つかわしくない苛烈な拷問の描写があることにも注意すべきであるという。

こうした前半と後半とのスタイルの違いから、Lebramは、現在の四マカはそれぞれ別のソースを一つに編集したものだという仮説を立てたが、両者の修辞イメージの一貫性、相互参照、似た語彙、言語的・主題的な関連性などから、まったく別物と考えることはできないとVan Hantenは述べている。むしろこうした構造は、アリストテレスによる弁論が備えるべき二つの特徴を現している:第一に、主題と問いがあること(プロブレーマあるいはプロテシス。四マカではヒュポテシス)。第二に、その証明があること(アポデイクシス)。

四マカは、殉教物語の素材に関しては、二マカに大きく依拠している。二マカ自体はキレネ人ヤソンの現存しない文書に依拠していると述べられているが(二マカ2:19)、四マカは二マカとヤソン文書の両方を知っていたとされている。二マカと四マカとの比較によって得られた結果を、Van Hentenは四点ほど指摘している。第一に、四マカ著者は、二マカにおける殉教者の台詞を、自らの言葉で語りなおしている。第二に、四マカ著者は殉教者の台詞を敷衍し、拷問の様子を拡大している。第三に、しばしば四マカには、二マカの文章をそのまま取ってきたような箇所が見られる。第四に、いくつかの箇所で、四マカは二マカに記された情報とは違う情報を提供している。Van Henten によれば、これらの違いは、四マカ著者が二マカの素材を、自分の論文の論旨と、四マカの読者の社会文化的な文脈とに適用させるための「脚色(adaptation)」によるものだという。

四マカが成立した時代について、Grimmをはじめ多くの学者は一世紀としている。これに対しBickermanは、四マカ中でキリキアがローマ属州として説明されていることを受けて、同地がローマ属州であった18-54年を四マカ成立の年代としている(Hadasはさらに37-41年にまで範囲を狭めた)。しかし、文書中である事柄が説明されているからといって、必ずしもそれが文書の年代を特定できるわけではないし、そもそもキリキアは72年まで実質的にローマ属州であったことがのちに判明したために、Bickermanの年代特定は不確実であるといえる。Breitensteinは、四マカが神殿に無関心であることから、神殿崩壊後の70年以降を成立年代とした。さらに、Dupont-SommerやCampbellは、ヘレニズム哲学の再興隆の時期と重ね合わせて、2世紀に書かれたと主張した。Van Henten自身は、神殿への無関心、ユダヤ人やユダヤ地方の抽象化、使徒教父文書との類似、新約聖書との非類似などから、二世紀初頭からそれ以降の成立と結論付けた。書かれた場所としては、アレクサンドリアやアンティオキアといった大都市を想定する者と、小アジアの小さな町を想定する者とに別れる。Van Hentenは、殉教の舞台自体はアンティオキアだったとしつつも、文書が書かれたのは小アジアだったと主張する。というのも、四マカにおける歴史記述が小アジアを想定している箇所があり、さらには作中の墓碑銘で使われている語彙が小アジアで出土した碑文と酷似しているからである。