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2017年3月6日月曜日

聖書解釈前史としてのホメロス解釈 Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #1

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 130-43.

本論文は、ヘレニズム期のユダヤ文学に関する優れた概説である。著者はまず、聖書の解釈に先立って、ヘレニズム期にホメロス作品がいかに解釈されていたかということから論文を始めている。当時、文法学校では生徒たちがホメロス作品を暗記し、そこから文法を学んでいた。すなわちホメロスは教材になっていたのである。さらに言えば、神の霊感を受けた神的な詩人だとも思われていた。しかし同時に、ホメロス作品の宗教的・倫理的内容に関して疑問視されるようにもなっていた。実際、プラトンは『国家』の中でホメロス作品を禁じている。

寓意的解釈。そこで不適切に思われる箇所を「解釈」することで、ホメロス作品を救おうという試みが行われたのである。そのときに用いられたのが、「寓意的解釈」という方法であった。ストア派によれば、ホメロスは実際に語ることができたことよりも多くのことを知っていたが、それを読者に「謎(αἰνίγματα)」として残したのだという。このストア派的な解釈は、ペルガモン学派の方法論に基づくものだった。

ストア派。ホメロス作品に見られる多神教的な世界観は、哲学者クセノファネスらによって攻撃された。ストア派は物質主義的な世界観を持っており、神的な存在のことを、エーテルやプネウマなどと呼ばれる何らかの火のようなものだと考えていたが、そうした世界のシステムを説明するために、伝統的な神々の名前を用いた。こうしたある種の「神学」は、ストア派による哲学の三区分(論理学、自然学、倫理学)における「自然学」に該当するものとなった。

アレクサンドリア文献学。アレクサンドリアにおいては、ホメロス作品は文献学(歴史的・批判的アプローチ)の対象となった。アレクサンドリアの図書館において、文献学者たちは伝えられているテクストを削除することなく、批判記号を用いて校訂した。当時、ホメロス作品を他のギリシア文学から区別するような正典意識があったため、引用するときにもテクストを改変することは許されなかったのである。また彼らは、「ホメロスをホメロスから解釈する」という原則を持っていた。

ハンドブック。ホメロス作品を解釈するに当たって出くわす問題点を解決するために便利な、ハンドブックも書かれた。高等学校の教師たちは、そうしたハンドブックを用いて授業を準備したのだった。代表的なものは、偽プルタルコス『ホメロスについて』、問答形式のヘラクリトス『ホメロス問題』、そしてコルヌートス『ギリシア神学抄』である。これらの他にも、ストラボンはホメロスの地理的な知識の正しさを基に、ホメロスを擁護した。

他の解釈法。ホメロス作品の解釈は寓意的な方法だけではない。中期プラトン主義者であるプルタルコスは、崇高な真理を伝えるために神話という形式も必要だと考えた。プルタルコスは寓意的解釈をまったく否定するわけではなく、象徴を「真の意味」にあえて置き換えたりせずに、神話の一般的な輪郭に適合するような類推を見つけようとしたのである。一方で、ウェルギリウスは、ホメロス作品を類型論的(typoligical)に用いることで、ローマの国家の起源を示してみせた。

ヘレニズム・ユダヤ文学の文脈においては、ヨセフスがホメロス作品の合成的な性質やテクストの多様性を指摘し、プラトンによる禁止にも言及している。しかしながら、興味深いことにヘレニズム期のユダヤ人は、ヨセフスを除いて、テクストに対する文献学的な観点に興味を示さなかった。ホメロス作品のみならず、聖書に関しても、アレクサンドリアの文献学が適用されるのはキリスト者であるオリゲネスを待たねばならなかった。その代わり、ユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することにより大きな関心を持っていたのである。

古代においては、ユダヤ人はしばしば、他の民族から孤立していることを批判された。ユダヤ人は自分たちの礼拝を清浄に保つためにシナゴーグを建て、他の民族と交わることを望まなかったからである。そこでモーセもまた人間嫌いとして非難された。しかしながら、ユダヤ人は異教の神話や神学との接触を避けようとはしていなかった。彼らもまたホメロスを学び、ヘラクレスやヘルメスを称え、フィロンのような開かれた人物は劇場にも通ったのだった。

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2017年3月1日水曜日

セルウィウスの寓意的解釈 Jones, "Allegorical Interpretation in Servius"

  • J.W. Jones, Jr., "Allegorical Interpretation in Servius," Classical Journal 56 (1960-1), pp. 217-26.

本論文は、ウェルギリウスの注解で知られるセルウィウスがどのように寓意的解釈を用いたかを検証した論文である。ラテン作家たちにとっての「寓意(allegoria)」とは、後代での用法のように解釈のひとつの種類のことではなく、いわゆる「比喩(figure of speech)」のことを指していた。つまり、セルウィウス自身はウェルギリウスの詩を寓意的に解釈したつもりはなく、ウェルギリウスが用いていた比喩表現を発見したと考えていたのである。

古代においては、現代で言うところの「寓意的解釈」に当たるものとして、四つの解釈法が考案された:第一に、「歴史的(historical)解釈」では、実在の人物や出来事が何らかの意味を暗示していると見なされた。第二に、「自然的(physical)解釈」では、神々が自然現象や力と同一視された。第三に、「倫理的(moral/ethical)解釈」では、神々が抽象的な概念に同一視されたり、表面上は悪の行為や状況に倫理的な価値が見出された。第四に、「エウヘメリズム的(euhemeristic)解釈」では、神々が神格化された人間の英雄たちのことだと理解された。著者は、これら四つの「寓意的解釈」に加え、セルウィウスの注解の中には第五の解釈として「ローマの祭儀からの(ex ritu Romano)寓意的解釈」とでも言うべきものがあると指摘している。

「歴史的解釈」は53例あり、あちこちで見られるが散発的であると言える。セルウィウスの考えでは、ウェルギリウスは『アエネーイス』の主人公であるアエネーアースの人物像をローマ皇帝に匹敵するものだと見なしていたが、実際にはそれはセルウィウス自身の考えであった。そこで、セルウィウスはウェルギリウスによってアエネーアースに帰されている行為を、皇帝による同様の行為の先駆けと見なしたのだった。

「自然的解釈」は35例ある。これは、ウェルギリウスが神々を描写するときに、あるときには神人同型的に扱い、またあるときには単純な自然現象として扱ったことに由来する。セルウィウスは「自然的解釈」を施すときには、ギリシアの自然哲学者たち(physici)に直接的に依拠したり、あるいは間接的に依拠したりした。間接的の場合には、ストア派のコルヌートス、偽ヘラクリトス、キケロー、ウァッローらを参照したようである。

「倫理的解釈」は18例あり、特に『アエネーイス』第6巻に集中している。セルウィウスはこの巻に出てくる冥界のシーンの全体を寓意だと見なしている。彼は特にエピクロス派詩人のルクレティウスや、ピタゴラスなどに依拠しながら、作中の出来事に倫理的な意味を持たせた。

「エウヘメリズム的解釈」は44例もある。多くの場合セルウィウスは、ウェルギリウスによって言及されている神話的な獣や怪物などは、もともとは別の存在が獣化・怪物化したものだと解釈しようとした。エウヘメリズムとは神々の起源を神格化された英雄に求める考え方であるが、セルウィウスの時代には神々は「自然的解釈」をされることが多かった。パラエファロスやポリュビオスのように、セルウィウスもまた神話のような物語(fabula)の元には何らかの真理が存すると考えた。そこで、セルウィウスはウェルギリウス作品中の獣や怪物とは、もともとは障がいを持った人や現実の動物を詩人が比喩的に表現したものだと解釈した。ただし多くの場合、セルウィウスの解釈には出典があった(ウァッロー、サルスティウス、ヒュギアノス、セプティミウス・セレヌス、エラトステネス、シチリアのディオドロスら)。

これらに加えて、著者は「ローマの祭儀からの寓意的解釈」を20例挙げている。これらの中で、宗教的な事柄に関するウェルギリウスの知識が執拗に議論されている。一見、あたかもウェルギリウスの見解であるかのように見えるが、『ダニエルのスコリア』と呼ばれるスコリアの中に収められたセルウィウスの注解は、実は彼自身のものではなく、アエリウス・ドナトゥスの失われた注解ではないかと考えられている。それゆえに、セルウィウス自身の注解ではこれらの解釈を否定することもある。なぜなら、第一に、セルウィウスの見解はより哲学的なものであり、第二に、少し前の世代であるドナトゥスの読者にとっては祭儀の問題は重要でも、セルウィウスの時代にはすでにそうではなかったからである。

以上より、セルウィウスが中世の寓意的解釈と異なり、単一のプランによって『アエネーイス』を寓意的に扱っているわけではないことが分かる。また一般的に、セルウィウスが言及している寓意は、ウェルギリウス自身が用いた寓意を明らかにしようとするものではなく、むしろ注解者自身の声や彼が影響を受けた者の声だと言える。

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2016年5月9日月曜日

コルヌートスとヘラクリトスの語源学と寓意的解釈 Dawson, "Ch. 1: Pagan Etymology and Allegory"

  • David Dowson, Allegorical Readers and Cultural Revision in Ancient Alexandria (Berkeley: University of California Press, 1992), pp. 23-52, 258-64.
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本書の第一章は、ストア派哲学者のコルヌートスとヘレニズム期文法家のヘラクリトスとを題材に、寓意的解釈の発展を概観している。コルヌートスは、語源学的分析を通して、ホメロスが保存した古代の神話の中で表現されている科学的な知恵を明らかにしようとした。対するヘラクリトスは、そもそも詩人自身が寓意的解釈をしていたと考えることで、ホメロスが被っていた非倫理性の批判に反論しようとした。いわば、コルヌートスにとっての語源学は、古代のテクストから科学的な知識を抽出するための手段であったわけだが、一方でヘラクリトスにとっての寓意的解釈は、哲学者の元祖であるホメロス自身の解釈を見つけることだったのである。

コルヌートスによれば、古代の神話は自らの哲学的・宇宙論的な知恵を英雄や神々の名前の中に表現しており、のちにそれらをホメロスやヘシオドスが詩の中で伝達したのだという。それゆえに、コルヌートスは、文学の中に埋め込まれたそうした神話の断片を同定し、彼らの哲学的・宇宙論的な真理を解釈しようとしたのである。ただし、詩人たちはもともとの神話が意図するところを誤解したり、詩的装飾を加えることによって曲解したりしている。そこで、解釈者は語源学的な解釈を用いることで、そこにもともとあった哲学や宇宙論を見つけなければならない。そしてそのときに見つかるであろう哲学とは、当然ストア哲学と一致する。こうした語源学的な解釈は、ヘラクリトスのようなストア派の専有物というわけではないが、やはりストア派の特徴のひとつであるといえる。

ストア派は、「概念(エンノイアイ)」を二つに分けることで、神話作者たちが描いた神話と、その中に含まれている彼らの哲学との差を説明した。その二つとは、第一に、文化的に規定され、教育によって導き出されるもの(conception);そして第二に、人間の直接的な経験によって生み出されるもの(preconception)である。神話作者は世界を知覚することで得たpreconceptionを、神話というconceptionに定式化したのだった。コルヌートスはこのconceptionを把握するために、擬音など語源学的な要素に注目し、「真の」意味を見つけ出そうとした。

ストア派の語源学は言葉の「意味」に関する議論を深めた。彼らによれば、意味には、「命名的な(nominal)」意味と「提示的な(propositional)」意味との二つがあるという。「命名的な意味」とは、名前とそれによって示されるものとの物理的な関係性のことを指す。対象の本質や内容こそが、言葉の意味だと考えたわけである。語源学的解釈はこの「命名的な意味」に属する。一方で、「提示的な意味」とは、オウムでもできるような単なる言語表現(lexis)ではなく、意味を持った理性的な発話(logos)のことを指す。このようにしてストア派は、名前とそれによって表される対象(nominal meaning)とを区別し、それと同時に、文章とそれが意味する意味(propositional meaning)とを区別したのだった。

コルヌートスの語源学的解釈は、このうち命名的な意味を扱うものであった。彼は擬人化された神々の名前を語源学的に解釈することで、そこに隠されているであろうストア派的な宇宙論を「解読」しようとしたのである。彼が寓意的解釈を用いたのは、こうしたストア派哲学を高めるための比較神話学的「研究」のためであり、詩人の非倫理性や神人同型説への非難に対して反論するためではなかった。
一方で、ヘラクリトスは、主としてプラトンとエピクロスによって投げかけられていた詩人の非倫理性と神人同型説への非難に対し、彼を擁護しようとした。ヘラクリトスは、コルヌートスのように、古代の神話作者と彼らをソースとする詩人という二段構えにはせず、詩人をコルヌートスの神話作者と同列に置いた。またコルヌートスにおいては神話という言葉は価値ある寓意哲学であったが、ヘラクリトスにおいては否定的な意味合いしか持たなかった。すなわち、ヘラクリトスによれば、ホメロスを文字通り読むならば、確かに彼の詩は下らない不敬虔な神話とけなされても仕方がないが、寓意的に読むならば、それは深遠な哲学的な知恵の間接的な表現なのである。

ヘラクリトスはコルヌートスのように、もとになる神話と詩人による装飾とを分けず、ホメロスの詩を倫理的かつ科学的真理の寓意として意図的に書かれたものと見なしたので、その一貫性が重要な点であった。ホメロスは一貫して寓意的に詩を書いたのであるから、それを文字通り読んで非倫理的な描写をあげつらうのはお門違いだと言うのである。なぜなら、ホメロスは詩人であると同時に哲学者として、古代の神話を寓意的に表現することで、自らの倫理的あるいは科学的真理を明らかにしているのだから。そしてヘラクリトスは、そうした自身の寓意的なホメロス解釈は、恣意的なものではなく、ホメロス自身が実はそう読まれることを求めていた解釈だと主張するのだった。

ヘラクリトスによれば、ホメロスの批判者たちはジャンルを誤っているのだという。彼らはホメロスの詩を額面通りに受け取って、「不敬虔(アセベイス)」であるとか「不適切(アプレペイス)」であるとか述べている。しかし、ホメロスの物語には二つの階層があるのである:第一に、神話的な詩という文字通りの表面的なレベル。第二に、より深い哲学的真理という寓意的なレベルである。ホメロスが表面的なレベルにおいて書いていることは、実はより深い真理のほのめかしだったのである。

ヘラクリトス自身は、ホメロスの表面的なプロットに従い、しかもそれを寓意的に読むときには一貫した解釈を心掛けていた。それゆえに、一見コルヌートスの解釈法とそれほど変わらないように見えても、ヘラクリトスは解釈の放縦を慎み、相互に抵触するような解釈は採用しなかった。なおかつ、たとえば「アポロがアカイア人に死をもたらした」という箇所において、アポロを太陽と解釈しても、「死をもたらした」という部分まで寓意的に解釈して、「アポロがアカイア人に死をもたらした」を「太陽が輝いた」と読み替えることはしなかった。あくまで寓意的解釈は特定の主語にのみ適用し、動詞には適用しなかったのである。そのようにして、ホメロスの表面的な物語を解き切ってしまわずに、一貫した寓意的な意図を保持したのだった。

このようにしてヘラクリトスは、まずホメロス自身を寓意的解釈の作家であると述べることで彼を擁護し、同時に自らの寓意的解釈を提供することによって、ホメロスの元来の意図を回復させることを目指したのだった。ヘラクリトスによれば、ホメロスを批判する者たちはホメロスが表面上の物語の下に潜ませている哲学を理解しそこなっているにすぎない。それゆえに、一旦それを了解すれば、表面上の物語に見られる非倫理性や神人同型説は、本来ホメロスが意図した哲学や科学的な真理として正しく理解できるのである。そのホメロスの哲学というのは真に独創的なものであり、のちの哲学者たちの見解というのは実はホメロスから引き出したものである。ヘラクリトスの語源学的な分析は、この真理へと読者が引き返すことを可能にする。

2016年5月8日日曜日

ヘラクリトスと寓意的解釈 Konstan, "Heraclitus: Homeric Problems"

  • David Konstan, "Introduction," in Heraclitus: Homeric Problems, ed. Donald A. Russel and David Konstan (Writings from the Greco-Roman World 14; Leiden: Brill, 2005), pp. xi-xxx.
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後1世紀から2世紀の間に書かれたと考えられているヘラクリトス『ホメロス問題』は、ホメロスが神々について述べていたことは寓意的に解釈されるべきであり、その内容は例えばストア派の神観にも比されるべき高度な内容だったと主張することによって、ホメロスが受けていた非難から彼を救出することを目的として書かれた書物である。

寓意的解釈の始まり。寓意的解釈とは、前1世紀のトリュフォンの定義によれば、あることを適切な意味で表現するが、一方で類似性によって他の何かの概念を供給するような言葉やフレーズのことである。ヘラクリトスは、この寓意的解釈を用いて、宗教的敬虔さに関するホメロスの悪評判を解消しようとしたのである。寓意的解釈をホメロスに適用した者として、最も古い記録は、前6世紀のレギウムのテアゲネスである。同様の解釈は、フェレキュデス、メトロドロス、コロフォンのクセノファネスらによっても試みられていた。しかし、彼らよりも古くからホメロスの寓意的解釈は存在したはずだと考えられている。

ホメロスの権威。プラトンは、ホメロスはすべての学芸の権威であり、すべての種類の知恵の源であると考えていた。ストラボンは、ホメロスは地理学の創始者であると考えていた。ストア派の哲学者たちは、ホメロスのことを哲学的教えの証人あるいは源泉であると見なしていた。なぜなら、ストア派は賢者のみが真の詩人だと考えていたからである。

寓意的解釈の本質。ホメロスの詩の一節は、しばしば古代の批評家にとっても不明瞭だった。それを何とか解釈するために、彼らは換喩的解釈や、語源学を用いた。プルタルコスによれば、古代の詩人たちが神々のイメージを用いたのは、概念を表す特定の用語を持っていなかったからであるという。

神話へのアプローチ。ストア派やキュニコス派は、ホメロスの描く徳のある行為のモデルを求めた。すなわち、知恵や忍耐の模範となるような人物をホメロス作品の中に見出そうとするのである。これはホメロス擁護にもつながっている。なぜなら、アキレウスやオデュッセウスのような英雄は、彼らを描いた詩人自身の清廉潔白さのしるしになるからである。ただし、神話を合理的に解釈することのすべてが寓意的解釈へと行きつくわけではない。パライファトスやエウヘメロスらは、神話への歴史的アプローチを取った。またオルフェウス教のような宗教的カルトは、ホメロスやヘシオドスのオリュンポスによって描かれる神々の寓意的解釈よりも広い間口を持っていた。プラトンは、『プロタゴラス』などにおいて、伝統的な神話の寓意的解釈を行なっているが、ホメロスによる神理解に含まれる不敬虔を非難したのだった。

プラトンによるホメロス批判。『国家』第2巻において、プラトンはホメロスを批判した。彼によれば、神話の中に真実を含むものがあることは確かであるが、若者はそうした物語における暗黙の意味をきちんと読み取ることができない。それゆえに、こうした詩は皆の前で朗誦されるべきではない、というのである。キケローやプルタルコスなどのプラトン支持者はこれに従った。これに対し、ストア派はホメロス擁護にまわった。ゼノン、クリュシッポスなどはホメロス解釈において、寓意的解釈を用いてその神学を強調することによって、彼を擁護した。後代のヘラクリトスは、プラトンもエピクロスも、共にホメロスに自分たちの教えの基礎を置いているのだから敬意を持つべきだと反論した。

寓意的解釈の種類。本来の寓意的解釈の他に、換喩法、語源学、歴史的出来事における神話の起源の探究、徳の模範としての英雄像の模索、倫理的・哲学的教えを支えるようなホメロス引用の整理などが挙げられる。これらはみな、ホメロスが不敬虔であるという言説に対する反論として、またホメロスがすべての学術において万能であることの証明として、そして表面的な意味と異なる謎めいた一節の説明として機能した。これらの解読法によって、隠された意味が明らかになる。しかもその隠された意味は、教育的な効果へと高められるのである。

Wolfgang Bernardは、寓意的解釈を、「代替的寓意(Substitutive allegory)」と「分割的寓意(Diaeretic allegory)」とに分けた。前者は、物語の登場人物と、抽象概念やエレメントとが、一対一対応になるものである。これはストア派やヘラクリトスに見られる。一方後者は、個別の登場人物ではなく、エピソード全体が寓意化されるものである。こちらはプルタルコスのようなプラトン主義者に帰される方法である。オリュンピオドロスのような新プラトン主義者は、より体系的に寓意的解釈を用いた。

2016年4月18日月曜日

教師としての詩人 Russell, "The Poet as Teacher"

  • D.A. Russell, "The Poet as Teacher," in Criticism in Antiquity (Berkeley: University of California Press, 1981), pp. 84-98.
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本章は、古代の文芸批評における、詩人の役割について扱っている。アリストファネスはかつて、子供たちが教師を持っているように、大人たちは詩人を持っていると述べた。古代のギリシア・ローマにおいて、詩人の仕事はある種の教育を授けることでもあったのだ。

ただし、詩人をこのようにある意味で実用的に理解するというのは、必ずしも普遍的な見解ではなかった。むしろ詩は娯楽を与えるためのものであるというのが前5世紀からの共通見解であった。それが次第に、娯楽と実用性とのコンビネーションが賢明な詩人の目的だったと理解されるようになった。ヘレニズム期の理論家であるネオプトレモスは、実用性は詩の内容から、娯楽は言葉の響きから来るものだと説明した。他にも、詩人の目的な徳を教えることであり、娯楽は偶然それについてくるものだと説明する者もいた。

このような議論があったのは、詩が主題とする神話の中に、しばしば倫理的に非難されるべき箇所があるからであった。こうした詩の倫理について最初に批判した人物としては、クセノファネスが挙げられる。彼は、倫理の教育のために社会的な機会を用いるような詩のスタイルを推奨していた。これは翻って言えば、少なくとも前5世紀までは詩の伝統的な主題は非倫理的であると見なされていたということである。またヘロドトスは、ホメロスが物語の娯楽要素である美的効果にこだわるあまり、事実を曲げていることを批判した。

このように、倫理的な低さおよび事実の歪曲に関して、詩は否定的に評価されることがあったわけだが、これに対し、二つの点から擁護がなされた。第一に、詩が祭儀、法、そして生活の芸術において文明的な貢献をしたこと(アリストファネス、ホラーティウス)、第二に、詩人が問題のある物語を寓意化し、その内的な意味を明らかにしたことである。

ただし、プラトンはこれらの擁護の両方を否定した。『国家』において、プラトンはさまざま徳について語っているが、ホメロスにおける英雄や神々は、この徳のことごとくに当てはまらないのである。プラトンによれば、詩は明らかに読者の感情に影響を及ぼし、そうして刺激された感情は人間の自然な傾向や弱さを推し進めてしまうのだという。プルタルコスは、プラトン主義者として、この考え方をむろん引き継いではいるが、彼は詩の文脈を理解することと、詩人の言葉や状況の特殊性を歴史的に理解することなどを重視した。プラトンもプルタルコスも、詩の教育的な力を認めており、詩が読者の倫理的な姿勢を決めるとしている。それゆえにこそ、詩は厳格にコントロールされねばらないのである。

アリストテレスは、より複雑な見解を持っていた。彼が重視していたのは、詩の美的な質であり、その倫理性についてはほとんど関心を示さなかった。彼は、必要とあれば、詩において悪を模倣することも認めていた。アリストテレスによれば、確かに詩にも教育的な効果はあるが、あくまでそれは二次的で、詩の娯楽性が学びを含んでいるのだと考えた。すなわち、仮に詩が教育的あるいは実用的なレベルにおける有用性を持っていたとしても、それはあくまで付随的なものだというのである。アリストテレスは、詩人を倫理的な観点から批判する者たちの言説を一切認めようとはしなかった。

アリストテレスの考え方は、どうやら後代の者たちによく理解されていなかったような節があるという。ホラティウスはアリストテレスの影響を強く受けていたが、それでも彼は詩の倫理的な側面についてよく述べていた。と同時に、詩にとって真実であることは主たる目的ではなく、聴衆の関心を引くことが肝要であるとも考えていた。

アレクサンドリアの文献学者たちは、詩の目的をはっきり娯楽(プシュカゴギア)であると宣言した。彼らによれば、詩の中に神話的で非合理なことが出てきても、それをもって詩人を非難するのは的外れだと述べた。なぜなら、詩人の目的は真実を語ることではなかったからである。カリマコスなどは特に、詩のテクニックについて主として関心を持った。一方でストア派は、はっきりとホメロスは教育的であったと宣言した。ストア派によれば、詩のテクニックは、教育的な需要を満たすためのものであるという。そしてこうした見解を持ちつつ、ストア派が詩を解釈するに際して用いたのが、寓意的解釈であった。

ヘラクリトスは、寓意的解釈の萌芽を、アルキロコスやアルカイオスら初期の抒情詩人の中に見ている。ヘラクリトス自身の寓意的解釈は、神々や神話の寓意的解釈のみならず、抽象名詞の擬人化のようなものまで含んでいる。そしてそのようにして行なった解釈を、詩の作者の本当の意図だったと考えた。彼の考え方においては、寓意的解釈と象徴化とがあまり区別なく同居しているのである。