- John J. Collins, "Beyond the Qumran Community: Social Organization in the Dead Sea Scrolls," Dead Sea Discoveries 16 (2009), pp. 351-69.
本論文は、『共同体の規則(セレク・ハヤハド)』(1QS)という文書において言及されている「ヤハド」という共同体が、どのような特徴を持ったものかを再考したものである。Millar Burrowsら研究者たちは、この『共同体の規則』が描き出す共同体と『ダマスコ文書』のそれとがやや異なっていることには気づいてはいた。J.T. Milikは、『共同体の規則』は厳格なエッセネ派的修道生活を始めた義の教師の作であり、一方で『ダマスコ文書』は後代にクムランの共同体を離れたグループから来たものだと見なした。Geza Vermesは、『ダマスコ文書』が結婚するエッセネ派のための規則であるのに対し、『共同体の規則』はクムランに住んだ独身主義者の共同体のための規則であると指摘した。これらの研究者たちは、このように両文書の違いに意識的ではあったが、それらが描いている共同体はひとつの同じものだと考えていた。
Philip Daviesは、しかしながら、『ダマスコ文書』を独立した文書として読む必要を提案し、同書は義の教師たちがクムランにやってくる前に存在した共同体に由来するものだと主張した。言い換えれば、『ダマスコ文書』は『共同体の規則』で描写されている共同体よりも前の段階を反映しているのである。『ダマスコ文書』と『共同体の規則』を含む別の写本群が第四洞窟で見つかると、第一洞窟で見つかった写本との異読が問題となり、Sarianna Metsoらが説得的な議論を展開した。
こうした議論の蓄積から、『ダマスコ文書』と『共同体の規則』とは単一の共同体の生活を反映してはいないと考えられている。『ダマスコ文書』から再構成される共同体の姿は、結婚や親子関係に基づいた家族共同体のそれであり、『共同体の規則』に見られる修道的な共同体とは異なっている。とはいえ、Joseph Baumgartenが指摘するように、『ダマスコ文書』の共同体の全員が結婚したり子供がいたりするわけでもない。
修道的な共同体を描く『共同体の規則』には、子供や女性に関する記述が一切ない一方で、共同活動への強い関心が見られる。『ダマスコ文書』では財産の喜捨は月に二日分だけでよかったが、『共同体の規則』では全財産を共同体に明け渡すことが求められている。これこそがまさに「ヤハド(統一)」の意味するところであった。
以上のようなそれぞれの文書の特徴から考えると、『共同体の規則』の方が古いという見解(Milik, Crossら)よりも、『ダマスコ文書』の方がより古く単純な規則を保存しており、『共同体の規則』はより発展的であると見る方が妥当である。
ただし、『共同体の規則』に描かれている「ヤハド」を単純に荒野の単一の共同体と見なすこともまたできない。著者は同書の第6章の記述から(「10人の男性がいるところではどこでも祭司を欠いてはならない」)、『共同体の規則』には大グループと小グループとが含意されていることを指摘した。そして、村や都市に住む小グループにも、クムランなど大グループにも、同じ人数の協議会があったのだと述べている。また、クムランで見つかった『共同体の規則』に異読が見られるのも、こうした複数のグループが複数の写本を所有していたからだと考えた。
『共同体の規則』8章は、こうした協議会が12人の男性と3人の祭司で構成されていたことを証言している。著者は、彼らが「ヤハド」の行政を担っていたのではなく、むしろ「ヤハド」に従属する、特別な訓練を積んだエリートグループであったと見なしている。また、このように「ヤハド」には複数のグループがあったことを鑑みると、クムランが必ずしもセクトの中心地であると考える確実な理由はなくなる。フィロンやヨセフスが証言するうように、エッセネ派は複数の土地に住んでいたのであるから、クムランもまたその一つの、とりわけリトリートセンターのような役割を持っていたと考えるべきだろう。
さらに、クムランはそもそもセクト的な遺構と考えてよいのかについて、著者は議論している。というのも、巻物が洞窟に隠された時代にはすでにクムランはセクト的共同体であったにせよ、常にそうだったとは言えないからである。Yitzar Hirshfeld, Y. Magen, Yuval Pelegらの考古学者たちは、クムランの遺跡はもともとは要塞であり、後68年に軍隊によって破壊されたと考えた。事実、ハスモン朝時代(前140年-前37年)には、死海の周りに多くの要塞が作られていた。クムランもまた要塞だとすると、そこにある墓地から男性の遺体ばかりが出てくる理由も説明がつく。しかしながら、クムラン=要塞説を立証する考古学的証拠は見つかっていない。一方で、クムランは義の教師によって設立されたとする説にも疑いを容れる余地はある。
以上より、結論としては:
- 後1世紀にはクムランはセクト的居住地になっており、ハスモン朝時代にもすでにそうだった可能性が高い。
- クムランは「ヤハド」の一つの居住地に過ぎず、「ヤハド」の全体ではない。
- クムランは「ヤハド」の本拠地であったという証拠はない(巻物がここに隠されたのはエルサレムから遠かったからというだけ)。
- 『共同体の規則』はクムラン共同体のために特別に書かれた文書ではない。
- 「ヤハド」とは、孤絶した修道的共同体ではなく、各地に散っていた宗教団体のことであるため、「ヤハド」=「クムラン共同体」という等式は成り立たない。
ちなみに本論文は、著者による以下の著作を短くまとめたものである。
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