- Sidnie White Crawford, "Frank Moore Cross's Contribution to the Study of the Dead Sea Scrolls," Bulletin of the American Schools of Oriental Research 372 (2014), pp. 183-87.
本論文は、死海文書の校訂チームに長くかかわったCrossの業績を、彼の弟子の一人であるCrawfordがまとめたものである。Crossと死海文書との関わりは、彼がジョンズ・ホプキンス大学の大学院生だった1948年に、師であるW.F. Albrightから、クムラン第一洞窟で発見されたイザヤ書巻物の写真を見せられたときから始まった。Crossはのちに死海文書の古文書学(paleography)で大きな業績を上げることになるが、彼の古文書学的なアプローチは、この最初の体験のときから始まったようである。
1952年に第四洞窟が発見されると、G. Lankester HardingとRoland de Vauxらは、パレスチナ考古学博物館にて巻物の研究をすることにした。Crossはアメリカ・オリエンタル研究所の代表として、国際チームの中で最初に現地に到着したために、第四洞窟の巻物を最初に手にした一人となった。
見つかったままの写本を検証することができたために、彼は次の二つの大きな発見をすることになった:第一に、巻物のいくつかは、おそらく洞窟に入れられたときからすでに劣化していた。第二に、比較的新しい巻物も古い巻物も同じ場所から見つかった。この二つの発見から、Crossは、巻物は秩序立てて保存されていたのではなく、むしろ洞窟の中に慌てて捨てられていたのだと考えた。これは第四洞窟の正確を考える上で大きな手掛かりになる発見であった。
さらに1953年にCrossが第四洞窟の巻物を調べていると、サムエル記に関係する写本を見つけた。しばらくは放っておいたのだが、ある日それを読んでいると、Crossはその写本がマソラー本文とは異なり、むしろサムエル記のギリシア語訳と共通する特徴を持っていることに気付いた。この写本は、ヘブライ語聖書の本文研究に大きな貢献をすることになる4QSamaであった。
Crossは、クムランに住んでいた共同体のアイデンティティの問題にも大きな関心を寄せていた。彼はこの共同体をエッセネ派だと考えていた。彼は大プリニウスのエッセネ派に関する証言(『自然史』5.73)がクムラン共同体の特徴に酷似していることに注目した。さらに、フィロン、ヨセフス、デュオン・クリュソストモス、ヒッポリュトスらによるエッセネ派に関する証言と、『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、『戦争巻物』、『会衆の規則』などの諸文書とを比較することで、クムランがエッセネ派の本拠地であったと結論付けた。Crossは次の有名な一節で、クムラン=エッセネ派説を強調した:
Crossの死海文書研究に関する簡便な入門書としては以下がある。
1952年に第四洞窟が発見されると、G. Lankester HardingとRoland de Vauxらは、パレスチナ考古学博物館にて巻物の研究をすることにした。Crossはアメリカ・オリエンタル研究所の代表として、国際チームの中で最初に現地に到着したために、第四洞窟の巻物を最初に手にした一人となった。
見つかったままの写本を検証することができたために、彼は次の二つの大きな発見をすることになった:第一に、巻物のいくつかは、おそらく洞窟に入れられたときからすでに劣化していた。第二に、比較的新しい巻物も古い巻物も同じ場所から見つかった。この二つの発見から、Crossは、巻物は秩序立てて保存されていたのではなく、むしろ洞窟の中に慌てて捨てられていたのだと考えた。これは第四洞窟の正確を考える上で大きな手掛かりになる発見であった。
さらに1953年にCrossが第四洞窟の巻物を調べていると、サムエル記に関係する写本を見つけた。しばらくは放っておいたのだが、ある日それを読んでいると、Crossはその写本がマソラー本文とは異なり、むしろサムエル記のギリシア語訳と共通する特徴を持っていることに気付いた。この写本は、ヘブライ語聖書の本文研究に大きな貢献をすることになる4QSamaであった。
Crossは、クムランに住んでいた共同体のアイデンティティの問題にも大きな関心を寄せていた。彼はこの共同体をエッセネ派だと考えていた。彼は大プリニウスのエッセネ派に関する証言(『自然史』5.73)がクムラン共同体の特徴に酷似していることに注目した。さらに、フィロン、ヨセフス、デュオン・クリュソストモス、ヒッポリュトスらによるエッセネ派に関する証言と、『共同体の規則』、『ダマスコ文書』、『戦争巻物』、『会衆の規則』などの諸文書とを比較することで、クムランがエッセネ派の本拠地であったと結論付けた。Crossは次の有名な一節で、クムラン=エッセネ派説を強調した:
前2世紀に興隆したセクトで他に荒野の共同体と関係したものを〔クムランの〕他に我々は知らない。さらに、クムランの共同体は正確に新しいイスラエルとして編成されていた。すなわち、エルサレムの祭司制と祭儀を否定する真のセクトとしてである。パリサイ派もサドカイ派もこれに該当しないが、エッセネ派は完全に該当する。〔中略〕クムランをエッセネ派と同定することに疑義を唱える研究者は、自らを驚くべき立場に立たせることになる。彼が真剣にも示唆しているのはこういうことである。二つの大規模な共同体が死海の砂漠の同じ地域に共同の宗教共同体を作り、実際に二世紀にも渡り共に住み、似たような奇妙な見解を持ち、似ているというよりは同一の清めや儀式的な食事、そして祭儀を行なっていた、と。この研究者はまた次のように考えなければならない。片方の共同体は、古典作者らによって丁寧に描写されていたにもかかわらず、建築物の遺跡や陶器の破片さえあとに残さず消え、もう片方の共同体は、古典作者たちによって組織的に無視されたにもかかわらず、多くの遺跡や、偉大な図書館をも残したのだ、と。私だったら無謀でもきっぱりとクムランの人々を彼らの永遠のゲストであるエッセネ派と同一視したい。(Cross, Canaanite Myth and Hebrew Epic: Essays in the History of the Religion of Israel, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1973, pp. 331-32)ただし、Crossは同時に古典資料に書かれたエッセネ派の姿と、巻物から浮かび上がる共同体とには違いが見られることにも気づいていた(結婚と独身主義など)。そこで、当時のユダヤ教には浄不浄を問題にする祭司的な伝統と、より後代に発展した終末論的な伝統とがあり、クムラン共同体ではその二つが祭司的な終末論として同居していたと説明しようとした。ここでのCrossの説明は十分ではなく、事実クムラン共同体をエッセネ派と考えることに疑義を挟む研究者もいる。Crossは他にも、ペシャリームに言及されている悪の教師をハスモン家のシモンと同定したが、この説はあまり広く受け入れられたわけではない。
Crossの死海文書研究に関する簡便な入門書としては以下がある。
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