- Jodi Magness, The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2002).
The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls (Studies in the Dead Sea Scrolls & Related Literature) Jodi Magness Eerdmans Pub Co 2003-07 売り上げランキング : 1127583 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書は、テクスト上の証拠だけではなく考古学をも用いて、セクト的な居住区の正確な姿を描こうとしたものである。クムランの考古学というと、Roland de Vauxによるプレリミナリーな研究が知られているが、著者は、クムラン遺跡が死海写本の著者たちの居住区であったとするDe Vaux説を基本的には受け入れつつ、特に時系列に関して修正を施している。著者はさらに、クムランの居住者たちはエッセネ派であったという通説を受け入れている。
写本と遺跡とを同じ共同体の産物だと考えることができるのは、著者によれば、ボウル型の蓋のついた円筒形の壺や卵型広口の壺などが、洞窟からも遺跡からも見つかっているからだという。死海写本における法的議論に基づいて考えると、壺がこうした形をしている理由は、安息日や浄不浄の規則を守るためだと考えられるのである。ただし、著者のように、文書に関する知識から遺跡を解釈することは、その前提知識ゆえに視点を曇らせてしまう。つまり、文書から得た知識に合わせるかたちで遺跡を解釈する可能性があるのである。
実際に、写本が出土した洞窟とクムランの遺跡とを必ずしも同一の集団によるものだと見なしてはいけないと考える研究者たちも多くいる。Jürgen Zangenbergは、クムランから出土する壺など陶器の特徴は、クムランに限ったものではなく、地域的なものだとした上で、そうした状況証拠は、クムランにセクト的集団が住んでいたことを意味しないと批判している。
時系列に関して、著者はDe Vauxのそれに再構成を修正している。De Vauxによれば、クムランには第二神殿時代の後期の前135年頃から、共同生活を営むエッセネ派のユダヤ人(ほとんど男性)が住み着き、特殊な聖書解釈に従った律法学習を行ない、また厳格な浄不浄意識を持っていた(1A期)。前100年になると居住区は拡張され、人口も増えたが、前31年の地震で壊滅した(1B期)。しばらく遺跡は放置されていたが、同じグループによって前4年に再建された。この新生クムラン共同体は、しかし後68年にローマによって滅ぼされた(2期)。この後わずかな期間、遺跡はローマによって支配されていたが、ついには打ち捨てられてしまった(3期)。
これに対し、著者はDe Vauxの言う1A期は存在せず、エッセネ派の定住は上の1B期に当たる前100年から始まったと主張した。さらに地震による前31年の中断もなく、共同体は前8/9年の大火まで存続した。著者によれば、このあとしばらく遺跡は放置されたが、De Vauxの言う第2期同様に、前4年から再建され、後68年に滅びたという。
著者は他にも、考古学的観点から興味深い指摘をしている。まず、遺跡の施設の配置から、西側には正常なものが、そして東側には不浄なものが集められている。また墓地のデータから、クムランには確かに女性は存在したが、人口のうちのかなり少数だったと言える。さらに、クムランの住人が来ていた白い亜麻布の服は、エルサレムの神殿の祭司たちの服でもあったという。
写本と遺跡とを同じ共同体の産物だと考えることができるのは、著者によれば、ボウル型の蓋のついた円筒形の壺や卵型広口の壺などが、洞窟からも遺跡からも見つかっているからだという。死海写本における法的議論に基づいて考えると、壺がこうした形をしている理由は、安息日や浄不浄の規則を守るためだと考えられるのである。ただし、著者のように、文書に関する知識から遺跡を解釈することは、その前提知識ゆえに視点を曇らせてしまう。つまり、文書から得た知識に合わせるかたちで遺跡を解釈する可能性があるのである。
実際に、写本が出土した洞窟とクムランの遺跡とを必ずしも同一の集団によるものだと見なしてはいけないと考える研究者たちも多くいる。Jürgen Zangenbergは、クムランから出土する壺など陶器の特徴は、クムランに限ったものではなく、地域的なものだとした上で、そうした状況証拠は、クムランにセクト的集団が住んでいたことを意味しないと批判している。
時系列に関して、著者はDe Vauxのそれに再構成を修正している。De Vauxによれば、クムランには第二神殿時代の後期の前135年頃から、共同生活を営むエッセネ派のユダヤ人(ほとんど男性)が住み着き、特殊な聖書解釈に従った律法学習を行ない、また厳格な浄不浄意識を持っていた(1A期)。前100年になると居住区は拡張され、人口も増えたが、前31年の地震で壊滅した(1B期)。しばらく遺跡は放置されていたが、同じグループによって前4年に再建された。この新生クムラン共同体は、しかし後68年にローマによって滅ぼされた(2期)。この後わずかな期間、遺跡はローマによって支配されていたが、ついには打ち捨てられてしまった(3期)。
これに対し、著者はDe Vauxの言う1A期は存在せず、エッセネ派の定住は上の1B期に当たる前100年から始まったと主張した。さらに地震による前31年の中断もなく、共同体は前8/9年の大火まで存続した。著者によれば、このあとしばらく遺跡は放置されたが、De Vauxの言う第2期同様に、前4年から再建され、後68年に滅びたという。
著者は他にも、考古学的観点から興味深い指摘をしている。まず、遺跡の施設の配置から、西側には正常なものが、そして東側には不浄なものが集められている。また墓地のデータから、クムランには確かに女性は存在したが、人口のうちのかなり少数だったと言える。さらに、クムランの住人が来ていた白い亜麻布の服は、エルサレムの神殿の祭司たちの服でもあったという。
クムラン考古学は現在進行中の知的営為であり、古い観点から新しい観点への移行期にある。その点で、著者のDe Vaux説への固執はやや時代遅れとも言えるが、それでも本書はクムラン考古学の各論点を網羅的に教えてくれるものである。
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