- Lawrence H. Schiffman, "From the Cairo Genizah to Qumran: The Influence of the Zadokide Fragments on the Study of the Qumran Scrolls," The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Text of the Desert of Judah, Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 451-66.
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文書の本質と文学的特徴。『ダマスコ文書』は、「訓戒(admonition)」と「法(laws)」の二つの部分に分かれている。クムラン断片は、第五洞窟、第六洞窟からそれぞれ1つずつ、そして第四洞窟から8つ、全部で10の写本が発見されている。J. Murphy O'ConnerやPhilip Daviesらによる「訓戒」部分の研究により、『ダマスコ文書』は複雑な文学的歴史を持った、合成された文書であることが明らかになった。さらに、J.T. Milikによる『ダマスコ文書』とクムラン断片との比較によると、第一に、S. Schechterによる『ダマスコ文書』の写本の頁振り分けは誤りであり、第二に、法部分は現存する『ダマスコ文書』より実際はもっと長く、第三に、『ダマスコ文書』のB写本はA写本を引き伸ばしたものであることが明らかになった。
文書の由来とセクトの正体。S. Schechterは、『ダマスコ文書』がツァドク派/サドカイ派の伝統と関わっていると考え、それゆえに、カライ派やドシテオス派によって書かれたものかもしれないと考えた。他にも、多くの研究者たちが『ダマスコ文書』の由来として、パリサイ派、初期キリスト者、熱心党、エビオン派キリスト者などを挙げてきた(エッセネ派説はほとんどない)。しかし、クムラン断片の発見により、パリサイ派説、キリスト者説、カライ派説は支持しがたいものとなった。またE. Sukenikによってエッセネ派説が主張され、現在でも支持されている。著者は同書をサドカイ派的伝統に連なるものと考えている。
法(ハラハー)的議論。L. GinzbergやCh. Rabinらは、『ダマスコ文書』に含まれる法的議論をラビ文学と比較することで、大きな成果を上げた(Ginzbergの唯一の間違いは、同書の由来をパリサイ派と考えたことである)。同様の試みは、フィロン、ヨセフス、カライ派、エチオピア語テクスト、外典、偽典などと対象を変えて続けられた。そして死海文書の発見後には、『ダマスコ文書』のクムラン断片、『神殿巻物』、『律法儀礼遵守論』などにも範囲が広げられた。その結果、第二神殿時代の法解釈は、ラビ文学に見られるそれに比較して、概してより厳格であると結論付けられた。ただし、この違いは時代の違いではなく、A. Geigerによると、第二神殿時代にすでに、ツァドク派・サドカイ派的な厳格路線とパリサイ派・ラビ的な甘め路線とが並存していたのだという。死海文書の発見はこの見解を裏付けている。
セクトの歴史の構築。訓戒部分には、クムラン共同体の歴史的背景を再構築する際にしばしば引き合いに出される、「390+20年」および「義の教師」に関する記述がある。研究者たちはこれらの記述を資料批判(source criticism)の方法で検証してきた。その代表例として挙げられるのは、「ダマスコ」の意味である。クムラン断片出土以前には、研究者たちはこれを文字通りシリアにあるダマスカスのことと捉えていた。しかし出土以降、これはクムランを指す暗号であるという意見が優勢になった。さらに、ダマスコをバビロニアのことと主張する者たちもおり、彼らは共同体の誕生をハスモン朝時代ではなくバビロニアに求めている。
ユダヤ教とキリスト教の歴史の再構築。ユダヤ教の歴史について、『ダマスコ文書』は第二神殿時代のユダヤ教のセクト主義やユダヤ法の歴史を明らかにしていた。キリスト教の歴史については、E. Wilson, J.M. Allegro, A. Dupont-Sommerらが取り組んだが、彼らの研究は死海文書の意味を引き出しすぎるものであったため、よりバランスの取れた研究が望まれている。
結論として、筆者は次のように述べている。『ダマスコ文書』の初期の研究はその祭司的な性格とセクト性を強調したが、クムラン断片出土後の研究の前半は祭司と法をあえて強調しないようになった。そしてすべてのテクストが出揃った現在は、祭司の法解釈やエッセネ派的イデオロギーが反映した書物として、『ダマスコ文書』を再文脈化しようとている。いずれにせよ、『ダマスコ文書』はクムラン断片を含む死海文書なしに語られることはなくなった。
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