- Nicholas de Lange, Origen and the Jews: Studies in Jewish-Christian Relations in Third-Century Palestine (University of Cambridge Oriental Publications 25; Cambridge: Cambridge University Press, 1976), pp. 103-21.
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オリゲネスの聖書解釈に関する該博さは、ヒエロニュムスも認めるところだった。本章は、そのオリゲネスの聖書解釈のユダヤ教に由来する側面を検証したものである。オリゲネスはどの程度、同時代のユダヤ教聖書解釈に依拠していたのだろうか。論文著者はこの問いに、オリゲネス自身がユダヤ教聖書解釈について語っている箇所と、この点に関する研究から得られる印象とから応えようとした。
オリゲネス自身が言っているように、ユダヤ教の聖書解釈はあまりに「字義的」であると見なされていた。しばしば「ユダヤ的な」という形容詞は、「字義的な」という意味で用いられた。ただし、オリゲネスは、そう考えるキリスト者の中でも、最も鋭くユダヤ教聖書解釈の多様性に気づいていた人物であった。そもそも、ここで言う「字義的」とは、現代的な意味としての、テクストが最初に書かれたときの意図を指してはいない。彼は決して聖書の統一性や、それが永遠の神託的な価値を持っていることを疑わなかった。
これはラビたちの「字義的」という言葉の理解とも一致している。ラビ・アキバはトーラーの一字一句にも深い意味があると考えていた。一方で、ラビ・イシュマエルはトーラーは神ではなく人間の言葉で書かれており、また語ではなく文の意味について解釈するべきと考えていた。両者は自分たちのアイデアを文章の中に読み込むことを目的としており、違いはその方法の違いにすぎなかった。
ただし、ラビ・アキバとラビ・イシュマエルの解釈法は、ラビたちが「字義的」な解釈と「法的・説教的」な解釈とを区別できなかったことを意味しない。ラビ・ユダヤ教にはそれぞれ、プシャットとミドラッシュという区別が存在する。この区別は、現代的な意味での「字義的」と「非字義的」とはやや異なっている。
フィロンは、聖書解釈の方法として、「ヘー・レーテー・アポドシス」と「アレゴリア」を区別した。また、字義的解釈では説明しきれないものを、パラドクサなどと呼んだ。彼の聖書解釈は、聖書の物語を、自身の宗教的・哲学的なアイデアのテクストとして使うものだった。彼は律法を寓意的に解釈することで、聖書の法の不適切なところを取り除いたが、決して律法遵守を廃止することを目指していたわけではなかった。
これに対し、パウロはモーセの律法に異議を唱え、文字の法ではなく霊の法を守るように求めた。パウロによれば、キリスト者は法を無効にするのではなく、それを制定するのである。ラビやフィロンの律法理解とは異なるパウロのそれは、キリスト者の律法理解となっていった。フィロンは、律法にはより深い意味があり、それを捨て去ることはできないと述べた。ラビたちは、律法は永遠に有効であるが、解釈のために変更してもよいと見なした。これらに対し、パウロやキリスト者は、ユダヤ法に「文学的(literalistic)」に相対した。すなわち、彼らの「字義性(literalism)」は、盲目的に律法を受け取ることではなく、日常生活の中で意味あるものとして律法を受け入れるということであった。ただし、聖書の歴史部分については、永遠の真理の予型として、正確なものと見なした。
オリゲネスの聖書解釈は、しばしば3種(肉的、魂的、霊的)あると考えられてきたが、この区分をきちんと応用している解釈は珍しい。実際には、伝統的な字義的(肉的)解釈と霊的解釈の二区分が多い。これは、神が二つのアイデアを一度に語ることができるという詩篇62:12の句を拡大的に取ったラビたちの理解とも軌を一にするものである。ラビたちはさらにこのアイデアを敷衍して、トーラーには70の顔がある、とまで主張するに至った。
オリゲネスの解釈スタイルは、ラビ・アキバの特異な解釈と、アクィラの聖書翻訳とに似ていると言える。オリゲネスは、アキバと同じく、聖書の一字一句に深い意味が隠れていると考えていたので、特に不定法を用いた繰り返し表現などに意味を見出した。こうした寓意的解釈がラビからの直接の影響なのか、それともアレクサンドリアの伝統からの影響なのかは、判別し難い。
従来では、ラビたちの聖書解釈における寓意性を等閑に付されてきたので、オリゲネスとラビたちの影響関係は詳しくは検証されなかったが、ラビたちの例え話である「マシャール」は寓意的解釈に近い。似た用語としては、「リシュム」と「ホメル」とが挙げられる。こうした方法は、雅歌やエゼキエル書の解釈に適用された。オリゲネスもラビたちも、トーラーを水、木、マナ、力、真理、善、地、火などと同一視した。
オリゲネスや、彼より前の教父であるユスティノスらは、こうしたトーラーと何かとの同一視を、そのままキリストへと繋げた。すなわち、トーラーを表わしていた木は、そのままキリストとも解釈されるのである。オリゲネスの時代には、キリスト教のシンボリズムはすでに高度なものとなっていたが、まだあるシンボル(十字架など)が完全にユダヤ教から切り離されてはいない、中間的な時期でもあった。こうしたシンボリズムにおける一致を、単純にフィロンや新約聖書のみとの関係で捉えることはできない。
こうしたシンボリックな聖書解釈としては、特に聖書の登場人物の名前の解釈が挙げられる。名前の語源学的な解釈は、フィロンより古く、ホメロスを解釈したアレクサンドリアの伝統に属するものである。こうした解釈に関するオリゲネスのソースとしては、フィロン、名前語彙集(のちにヒエロニュムスがラテン語訳するハンドブック)、そして同時代のユダヤ伝承があった。三つ目のユダヤ伝承とは、現在では『メヒルタ』やタルムードなどに残されているような解釈である。オリゲネスによるこれらの名前解釈のうち、ヘレニズム期ユダヤ作家に共通のものが見つからず、あまりに明白に語源が想像できるもの以外は、ユダヤ伝承から採用されたものである可能性がある。
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オリゲネス自身が言っているように、ユダヤ教の聖書解釈はあまりに「字義的」であると見なされていた。しばしば「ユダヤ的な」という形容詞は、「字義的な」という意味で用いられた。ただし、オリゲネスは、そう考えるキリスト者の中でも、最も鋭くユダヤ教聖書解釈の多様性に気づいていた人物であった。そもそも、ここで言う「字義的」とは、現代的な意味としての、テクストが最初に書かれたときの意図を指してはいない。彼は決して聖書の統一性や、それが永遠の神託的な価値を持っていることを疑わなかった。
これはラビたちの「字義的」という言葉の理解とも一致している。ラビ・アキバはトーラーの一字一句にも深い意味があると考えていた。一方で、ラビ・イシュマエルはトーラーは神ではなく人間の言葉で書かれており、また語ではなく文の意味について解釈するべきと考えていた。両者は自分たちのアイデアを文章の中に読み込むことを目的としており、違いはその方法の違いにすぎなかった。
ただし、ラビ・アキバとラビ・イシュマエルの解釈法は、ラビたちが「字義的」な解釈と「法的・説教的」な解釈とを区別できなかったことを意味しない。ラビ・ユダヤ教にはそれぞれ、プシャットとミドラッシュという区別が存在する。この区別は、現代的な意味での「字義的」と「非字義的」とはやや異なっている。
フィロンは、聖書解釈の方法として、「ヘー・レーテー・アポドシス」と「アレゴリア」を区別した。また、字義的解釈では説明しきれないものを、パラドクサなどと呼んだ。彼の聖書解釈は、聖書の物語を、自身の宗教的・哲学的なアイデアのテクストとして使うものだった。彼は律法を寓意的に解釈することで、聖書の法の不適切なところを取り除いたが、決して律法遵守を廃止することを目指していたわけではなかった。
これに対し、パウロはモーセの律法に異議を唱え、文字の法ではなく霊の法を守るように求めた。パウロによれば、キリスト者は法を無効にするのではなく、それを制定するのである。ラビやフィロンの律法理解とは異なるパウロのそれは、キリスト者の律法理解となっていった。フィロンは、律法にはより深い意味があり、それを捨て去ることはできないと述べた。ラビたちは、律法は永遠に有効であるが、解釈のために変更してもよいと見なした。これらに対し、パウロやキリスト者は、ユダヤ法に「文学的(literalistic)」に相対した。すなわち、彼らの「字義性(literalism)」は、盲目的に律法を受け取ることではなく、日常生活の中で意味あるものとして律法を受け入れるということであった。ただし、聖書の歴史部分については、永遠の真理の予型として、正確なものと見なした。
オリゲネスの聖書解釈は、しばしば3種(肉的、魂的、霊的)あると考えられてきたが、この区分をきちんと応用している解釈は珍しい。実際には、伝統的な字義的(肉的)解釈と霊的解釈の二区分が多い。これは、神が二つのアイデアを一度に語ることができるという詩篇62:12の句を拡大的に取ったラビたちの理解とも軌を一にするものである。ラビたちはさらにこのアイデアを敷衍して、トーラーには70の顔がある、とまで主張するに至った。
オリゲネスの解釈スタイルは、ラビ・アキバの特異な解釈と、アクィラの聖書翻訳とに似ていると言える。オリゲネスは、アキバと同じく、聖書の一字一句に深い意味が隠れていると考えていたので、特に不定法を用いた繰り返し表現などに意味を見出した。こうした寓意的解釈がラビからの直接の影響なのか、それともアレクサンドリアの伝統からの影響なのかは、判別し難い。
従来では、ラビたちの聖書解釈における寓意性を等閑に付されてきたので、オリゲネスとラビたちの影響関係は詳しくは検証されなかったが、ラビたちの例え話である「マシャール」は寓意的解釈に近い。似た用語としては、「リシュム」と「ホメル」とが挙げられる。こうした方法は、雅歌やエゼキエル書の解釈に適用された。オリゲネスもラビたちも、トーラーを水、木、マナ、力、真理、善、地、火などと同一視した。
オリゲネスや、彼より前の教父であるユスティノスらは、こうしたトーラーと何かとの同一視を、そのままキリストへと繋げた。すなわち、トーラーを表わしていた木は、そのままキリストとも解釈されるのである。オリゲネスの時代には、キリスト教のシンボリズムはすでに高度なものとなっていたが、まだあるシンボル(十字架など)が完全にユダヤ教から切り離されてはいない、中間的な時期でもあった。こうしたシンボリズムにおける一致を、単純にフィロンや新約聖書のみとの関係で捉えることはできない。
こうしたシンボリックな聖書解釈としては、特に聖書の登場人物の名前の解釈が挙げられる。名前の語源学的な解釈は、フィロンより古く、ホメロスを解釈したアレクサンドリアの伝統に属するものである。こうした解釈に関するオリゲネスのソースとしては、フィロン、名前語彙集(のちにヒエロニュムスがラテン語訳するハンドブック)、そして同時代のユダヤ伝承があった。三つ目のユダヤ伝承とは、現在では『メヒルタ』やタルムードなどに残されているような解釈である。オリゲネスによるこれらの名前解釈のうち、ヘレニズム期ユダヤ作家に共通のものが見つからず、あまりに明白に語源が想像できるもの以外は、ユダヤ伝承から採用されたものである可能性がある。
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