- Devorah Dimant, "Use and Interpretation of Mikra in the Apocrypha and Pseudepigrapha," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 379-419.
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本論文は、外典と偽典における聖書解釈がどのようなものであるかをまとめたものであるが、それ以上に、聖書解釈一般の方法論の概観にもなっている優れた一作である。著者によれば、これまでの研究の弱点は、特定の個々の場合の分析によって一般化していくという、帰納法的なアプローチを取っていたため、限定的かつ断片的な方法論に終始していたことにあったという。すなわち、ある箇所で聖書的要素が何を含意しているのか、ということのみに注目してきたわけだが、論文著者はそれがどのように、またなぜそうしたことを示しているのか、という機能的な部分にまで論点を広げようとする。著者はこれを「機能的・構造的な分析形態(the functional-structural form of analysis)」と呼んでいる。
この分析において大きな支柱となるのが、外典・偽典における二つの形式的なカテゴリーである:すなわち、「構成的(compositional)」と「解説的(expositional)」な文書である。前者において、聖書的要素は、外的なマーカーなしにテクストに織り込まれつつ含意されるが、後者において、それらははっきりとした外的なマーカーと共に詳細に説明されている。
こうした形式の違いは、むろん目的の違いによるものである。解説的文章の目的は聖書テクストを説明することであるため、しばしば聖書テクストを見出し(レンマ)に掲げることで、解説部分と区別している。こうした形式の代表的なものは、ミドラッシュ、クムランのペシェル、フィロンの律法注解、そして新約聖書における旧約引用などである。
一方で、構成的文章は聖書からは独立した新しいテクストを創造することを目的としているため、聖書的要素を自身の一部にしている。構成的文章の例としては、物語(narrative)、詩篇、遺訓、知恵、そして論説(discourse)などのジャンルが挙げられる。構成的文章は、解説的文章と異なり、聖書的要素を特定の様式のもとで導いたりはせず、それらを自らの記事の中に織り込んでいく。これは外典や偽典によく見られるジャンルである。
論文著者は、解説的文章における解釈のことを「釈義(exegesis/hermeneutics)」、そして構成的文章における解釈のことを「解釈(interpretation)」と呼んでいる。
解説的文章における聖書の明示的な使用方法(explicit use of Mikra in exposition)を論文著者は二つ挙げている。第一に、引用である。しかしながら、外典や偽典においては聖書の明示的な引用は比較的少ない。少ない中で際立っているのが、論説ジャンルにおける五書から引用である。また祈りが神の行為と神の言葉とに言及する際に、行為は暗黙的な方法で、そして言葉は明示的で正確な引用によって示されている。聖書を引用することで、解釈者たちは、自分たちの時代を引用元の時代と「同一視(equation)」し、また引用で言われていることが自分たちの時代に「実現(actualization)」したことを示している。これはクムランのペシェルの特徴でもある。
第二に、人物や状況への明示的な言及である。こうした言及には二通りある:第一に、聖書の登場人物のカタログ、そして第二に、人物や状況への個別の言及である。登場人物のカタログは、多くの場合、論説の中でも奨励の箇所に出てくる。登場人物たちは時系列に並べられ、その役割を冠されている。注目すべきは、そうしたカタログには、善人のみならず悪人も登場していることである。第二の個別の言及は、論説や祈りの箇所に出てくる。たとえば、ディナの強姦のエピソード(創34)は、『ユディト記』、『レビの遺訓』、そして『ヨベル書』に出てくる。
では、構成的文章における聖書の暗黙的な使用方法(implicit use of Mikra in composition)とはどのようなものか。それらは、解説的文章のように、解釈のために秩序だっているわけではなく、神の言葉や行為を表現しているわけでもない。はっきりとしたマーカーによって、それが聖書に基づいていることが示されることもない。読者の読解力がそこに聖書的要素を読み取るのである。この方法には、以下の三種類がある:第一に、暗黙的な引用、第二に、暗示、そして第三に、モティーフとモデルである。
暗黙的な引用は、外典や偽典の最も特徴的な点のひとつである。これらのジャンルにおいて、引用は明示されないままテクストに織り込まれている。特に、「自由な物語(free narrative)」、「聖書の拡張(biblical expansion)」(たとえば再説聖書[Rewritten Bible])、そして「偽典的伝記(pseudepigraphic biography)」に、そうした特徴が見られる。「自由な物語」における暗黙的な引用は、聖書のスタイルや形式を模倣することが多い。著者は、自分の語る物語と聖書の物語とのアナロジーを期待しているのである。「再説聖書」において暗黙的な引用がなされる場合、もとのテクストにあった要素の解釈的な入れ替え(exegetical substitutions)や、編集的な改変(slight editorial alterations)がなされることが多い。
この分析において大きな支柱となるのが、外典・偽典における二つの形式的なカテゴリーである:すなわち、「構成的(compositional)」と「解説的(expositional)」な文書である。前者において、聖書的要素は、外的なマーカーなしにテクストに織り込まれつつ含意されるが、後者において、それらははっきりとした外的なマーカーと共に詳細に説明されている。
こうした形式の違いは、むろん目的の違いによるものである。解説的文章の目的は聖書テクストを説明することであるため、しばしば聖書テクストを見出し(レンマ)に掲げることで、解説部分と区別している。こうした形式の代表的なものは、ミドラッシュ、クムランのペシェル、フィロンの律法注解、そして新約聖書における旧約引用などである。
一方で、構成的文章は聖書からは独立した新しいテクストを創造することを目的としているため、聖書的要素を自身の一部にしている。構成的文章の例としては、物語(narrative)、詩篇、遺訓、知恵、そして論説(discourse)などのジャンルが挙げられる。構成的文章は、解説的文章と異なり、聖書的要素を特定の様式のもとで導いたりはせず、それらを自らの記事の中に織り込んでいく。これは外典や偽典によく見られるジャンルである。
論文著者は、解説的文章における解釈のことを「釈義(exegesis/hermeneutics)」、そして構成的文章における解釈のことを「解釈(interpretation)」と呼んでいる。
解説的文章における聖書の明示的な使用方法(explicit use of Mikra in exposition)を論文著者は二つ挙げている。第一に、引用である。しかしながら、外典や偽典においては聖書の明示的な引用は比較的少ない。少ない中で際立っているのが、論説ジャンルにおける五書から引用である。また祈りが神の行為と神の言葉とに言及する際に、行為は暗黙的な方法で、そして言葉は明示的で正確な引用によって示されている。聖書を引用することで、解釈者たちは、自分たちの時代を引用元の時代と「同一視(equation)」し、また引用で言われていることが自分たちの時代に「実現(actualization)」したことを示している。これはクムランのペシェルの特徴でもある。
第二に、人物や状況への明示的な言及である。こうした言及には二通りある:第一に、聖書の登場人物のカタログ、そして第二に、人物や状況への個別の言及である。登場人物のカタログは、多くの場合、論説の中でも奨励の箇所に出てくる。登場人物たちは時系列に並べられ、その役割を冠されている。注目すべきは、そうしたカタログには、善人のみならず悪人も登場していることである。第二の個別の言及は、論説や祈りの箇所に出てくる。たとえば、ディナの強姦のエピソード(創34)は、『ユディト記』、『レビの遺訓』、そして『ヨベル書』に出てくる。
では、構成的文章における聖書の暗黙的な使用方法(implicit use of Mikra in composition)とはどのようなものか。それらは、解説的文章のように、解釈のために秩序だっているわけではなく、神の言葉や行為を表現しているわけでもない。はっきりとしたマーカーによって、それが聖書に基づいていることが示されることもない。読者の読解力がそこに聖書的要素を読み取るのである。この方法には、以下の三種類がある:第一に、暗黙的な引用、第二に、暗示、そして第三に、モティーフとモデルである。
暗黙的な引用は、外典や偽典の最も特徴的な点のひとつである。これらのジャンルにおいて、引用は明示されないままテクストに織り込まれている。特に、「自由な物語(free narrative)」、「聖書の拡張(biblical expansion)」(たとえば再説聖書[Rewritten Bible])、そして「偽典的伝記(pseudepigraphic biography)」に、そうした特徴が見られる。「自由な物語」における暗黙的な引用は、聖書のスタイルや形式を模倣することが多い。著者は、自分の語る物語と聖書の物語とのアナロジーを期待しているのである。「再説聖書」において暗黙的な引用がなされる場合、もとのテクストにあった要素の解釈的な入れ替え(exegetical substitutions)や、編集的な改変(slight editorial alterations)がなされることが多い。
第二の暗示は、定義することが困難なため、研究が進んでいない。ただし、暗示には、独立した外部のテクストに言及する特別なシグナルが用いられている。そのシグナルとなる、聖書の特定の箇所に基づいたモティーフ、鍵語、そしてフレーズなどに注目するべきである。こうした暗示は、特に偽典的な枠組みにおいて鍛えられてきた。
そして第三のモティーフとモデルは、特定の用語やフレーズによって示される。『トビト記』は、明らかにヨブ記をモティーフとして、またモデルとして書かれているが、『トビト記』にはそのことを明示的に示す言及のようなものはない。そもそも物語のプロットがヨブ記から取られているわけではなく、独立した別の物語である。しかしそこに見られる類似性は、新旧の作品を比較することを可能にする。そのとき、旧作品は真作品に統合されるわけではない。
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