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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #6

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.


本章においては、全体の結論が論じられている。マソラ本文のサラには複雑さと一貫性が見られる。サラの強張った軌道は彼女の道具としての性質に貢献する。アブラハムとの類似は彼女が固く強張るに連れて増える。サラは自分の見た目が他人の目にどう映るかに意識的であるが、マソラ本文以外の伝承にはそうした特徴はない。所有と喪失のモチーフも他の伝承からは消えている。

七十人訳のサラはより極端で突飛である。またアブラハムの人物像の派生としての特徴をより色濃く持っており、神的な約束の成就においてよりプログラム的な役割を演じている。彼女の存在の薄さや活気のなさ、また縮減などは彼女の有用性に貢献している。彼女は神の目的に合致している。彼女の美しさは特に彼女の顔に結びついている。七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりもアブラハムに似ている。その類似は神の約束の達成のための彼女の有用性を強調する。

『創世記アポクリュフォン』はやや外れものである。というのもアブラハムが語り手の役だからである。GNのサラは知りたがりで、発言力があり、感情的で、行動力やイニシアチブを示す。他の伝承同様に美しさを備えているが、他に知恵と手先の器用さをも持っている。サラに知恵があるというのはGNの新奇なアイデアである。サラの有用性は機械的な性的受容性にあり、そのとき彼女は性的な不可侵性を持つ対象になっている。GNでもサラはアブラハムに類似しているが、同一の根を持つ植物のメタフォリックで斬新なイメージのもとで表現されている。

『古代誌』のサラはアブラハムとの類似があるが、本当の血縁関係にすることで、この古いテーマを新しい切り口で表している。またサラはアブラハム同様に説得力を持った人物として描かれる。サラのイシュマエルに対する関係は、アブラハムのイサクに対する関係に比すことができる。『古代誌』においては、ハガルとイシュマエルに対するサラの態度は、アブラハム同様、神に命じられたものだった。語り手はサラやアブラハムの人物像を洗練させ、過ちを正当化しようとしているが、その試みが中途半端なため別の問題を引き起こしてしまっている。

以上のことから、著者は本書の発見を次の2つであるとしている。第一に、サラの深いところの特徴あるいはその原型的な特徴はアブラハムに類似している。これはサラがアブラハムの影になっているというわけではない。この特徴は諸物語を横断して見られるリンクになっているが、物語によってその機能は異なっている。第二に、サラのキャラクターは複雑で、展開したり、競合したり、矛盾したりする特徴を含んでいる。彼女の有用性がアブラハムや神の約束を成就させることにあるのは否定できないが、単純にその機能だけに縛り付けられているわけではない。サラはときに語り手たちの男性中心的・家父長的な伝承の狭隘さを免れている。

また著者は本書の貢献として以下の3点を挙げている。第一に、著者は創世記やその語り直しにおいて自分に明らかにされたサラを認め、再発見しようとした。聖書における女性を対象とした同様の検証はまだ手薄なので、これからそれが続くことが期待される。第二に、周辺的で無視されてきたキャラクターに光を当てるような、理論的でキャラクター主体の詩学を作り上げ、使おうとした。本書で扱った諸文書に物語論的な視点でアプローチした研究はほとんどなかった。そして第三に、語り直し聖書物語を絶え間なくその源泉に盲従させたり比較したりすることなく読む方法を見つけようとした。語り直しを独自の統一性をもった作品と見なすことで、当然与えられるべき解釈の配当を配分したわけである。本書で扱われたテクストはどれも現在最上の状態に置かれており、それらは聖書学や人文学が使えるあらゆる方法論的ツールによって探求されるべきである。

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