2015年11月19日木曜日

エビオン派キリスト教徒について Schoeps, "Ebionite Christianity"

  • H.J. Schoeps, "Ebionite Christianity," Journal of Theological Studies 4 (1953), pp. 219-24.

エビオン派のキリスト教とは、ローマの偽クレメンス、シュンマコス、福音書系の黙示文学、ラビ文学や教父文学などによって知られる、2世紀のユダヤ・キリスト者の共同体である。彼らはエルサレムを離れてコイレ・シリアやトランス・ヨルダンに移住した、最初期のキリスト教徒たちであった。論文著者はこのエビオン派について、そのキリスト論、反パウロ主義、そしてユダヤ法への姿勢という3つの観点から説明する。

キリスト論。エビオン派はイエスのことを、律法を完全に遵守する預言者だと考えていた。すなわち、イエスは神の子ではなく、あくまで人の子と見なされたのである。イエスが神の力を得たのは、誕生のときや先在のときではなく、洗礼を受けたその日からであった。いわば、イエスは神の実の子ではなく、洗礼によって縁組した養子なのである(adoptionist Christology)。この人の子は、天へと上ったあとも、救済のときに最後の審判のために再臨することが期待されていたが、再臨の遅れによって、エビオン派の神学は次第に廃れ、カトリック教会の発展につながることになる。一方で、イエスはモーセのような「真の預言者」と見なされていた。モーセがユダヤ人にとっての世話役であったのと同様に、イエスは異邦人にとっての世話役であった。

反パウロ主義。エビオン派は教会におけるパウロの役割をまったく重視しなかった。パウロの使徒性がビジョンと啓示によってのみ担保されていたのに対し、真の使徒性はイエスとの直接の個人的な関わりこそが裏打ちするのだと彼らは考えたのである。それゆえにパウロは、真の使徒たちと共同する者といった役割にまで格下げされたのだった。この理由の一つとしては、回心前のパウロによるキリスト教への非道な行為もあったと考えられる。

エビオン派の律法理解。エビオン派は自他共に認める律法の熱狂的な支持者であり、それを厳格に守るあまり、菜食主義、清貧、そして清浄を旨としていた。一方で、モーセの律法を組織的に変更した点もある。彼らは律法の変更によって、以下のことを否定した:動物犠牲の血なまぐさい祭儀、イスラエルの王政、聖書の中で成就しなかった預言、そして神人同型説である。彼らにとって、イエスは律法の遵守者であると同時に、律法の改革者でもあったのである。中でも、動物祭儀の否定は、エビオン派による反パウロ主義とつながっていて重要である。というのも、パウロによるイエスの死の救済論的評価とは、まさにイエスを贖いの犠牲とすることに他ならなかったからである。いわば、イエスは洗礼の水によって、犠牲という火を鎮火したのだった。このように、一見矛盾する、律法の厳守と改革とは、律法と神の意志との乖離を埋めるためのものであった。

歴史の中でのエビオン派の位置。すでに見たように、エビオン派の考え方は、祭儀の場所としてのエルサレム神殿の否定であった。これと似た考え方は、エッセネ派にも見られる。論文著者は、アイン・フェシュカのツァドク派、ダマスカス教会、エッセネ派、そしてエビオン派が教義上の関連性を持っていると指摘する。

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