- Pieter W. van der Horst, "The Interpretation of the Bible by the Minor Hellenistic Jewish Authors," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 519-46.
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本章では、ヘレニズム期におけるマイナーなユダヤ人作家の著作が紹介されている。アリストブロスは入っていないが、エウセビオス『福音の準備』第9巻において、アレクサンデル・ポリュヒストルを通じて引用や抜粋のかたちで保存されている9人の作家たちが扱われている。アレクサンデルはローマで活躍した解放奴隷であり、さまざまな作家の作品を大量に引用しつつ、各国の歴史を書いたことで知られている。彼の『ユダヤ人について』は失われたが、エウセビオスが引用している。アレクサンデルが保存した作家たちのもともとの時代については諸説あるが(前250年から前50年)、おそらく多くが前2世紀の作家たちだと考えられている。
詩人としては、劇作家エゼキエル、詩人フィロン、そしてテオドトスが挙げられる。エゼキエルは我々に知られている唯一のユダヤ人劇作家である。彼の『エクサゴーゲー』は出エジプト記1-15章をもとにした作品で、聖書に忠実なところとかけ離れたところがある。エゼキエルは、ユダヤ人やモーセに対して悪い印象を持ち得るような箇所は省略している。途中、モーセが夢の中で神と言葉を交わしたという記述が出てくるが、その解釈は二通り考えられる。第一に、モーセは実際に神に会ったわけではないことを意味するという、モーセの軽視。第二に、モーセを主の天使と同一視するという、モーセの称賛。論文著者は後者を妥当だと考えている。非聖書的場面に、不死鳥が出てくるが、これはユダヤ人たちの出エジプトが歴史において新しい時代を開いたことを含意している。
叙事詩の詩人であるフィロンは、あまり知的でないギリシア語による『エルサレムについて』という作品を残している。そこでは、イサクの奉献、ヨセフのエジプトでの政治、そしてエルサレムの水道システムが歌われている。全体としては、エルサレムを称賛し、アブラハムを賛美する内容になっている。
テオドトスは、都市シケムに関する歴史を叙事詩の形式で歌っている。エルサレムではなくシケムをテーマとしていることから、テオドトスはサマリヤ人であるかもしれない。この作品では、創世記のヤコブの伝説についてもホメロスの形式で歌われている。
歴史家としては、デメトリオス、アルタパノス、エウポレモス、偽エウポレモス、クレオデモス・マルコス、そしてアリステアスが挙げられる。デメトリオスはユダヤ人の歴史を二つのジャンルに従って描いた。その第一は、ギリシア文学における非ギリシア人の歴史である。これはエジプト人マネトンをはじめ、ユダヤ人ヨセフスに至るまでさまざまに用いられてきた手法である。彼らは、ギリシアの歴史観を用いつつも、巧妙な時系列操作によって自民族の卓越性を示そうとした。デメトリオスはその際に、聖書を歴史書として利用しつつ、必要があれば大胆に改変した。その第二は、問答形式であるエロタポクリセイスというジャンルである。これは、ホメロスの解釈を始めとする科学的な文学において適用されるものだったが、デメトリオスはあまり厳密にこれを用いなかった。デメトリオスは、他の歴史家たちと異なり、モーセもアブラハムも必要以上に賛美しなかった。
学術的なデメトリオスに比して、アルタパノスは歴史小説家のような自由さを備えていた。モーセ、アブラハム、ヨセフらの伝記の断片が残っているが、それらは最も聖書からかけ離れた物語であり、のちのミドラッシュ文学にも見つからないようなものになっている。彼は聖書の登場人物たちを、エジプト人に文化や宗教を教えたような偉大な教師として描いた。その際には、扉が自発的に開くモティーフのようなギリシア文学のお決まりの表現を使う一方で、テトラグラムをみだりに唱えたことが引き起こす災厄といったユダヤ的な要素をも用いた。彼は、ユダヤ民族の特権と矜持を証明するためには、聖書物語を大幅に改変することも辞さなかった。
エウポレモスはエルサレムの祭司の家系出身であり、一マカ8:17以下で言及されている。彼は、『ユダヤにおける王たちについて』の中で、モーセを律法制定者、文化的な貢献者、そして文明の創建者として描いている。またモーセからサウルまでのユダヤ人の歴史を要約しつつ、聖書にはない大げさなエピソードを加えている。特にエルサレム神殿の建設については、大きく聖書から外れ、未来に建てられるべき理想の神殿の描写を繰り広げた。すなわち、彼にとって聖書は、再説聖書の文学の考え方と同様に、出発点に過ぎなかったのである。時系列についても独自の勘定を持っており、ギリシア人よりもユダヤ人の方が古いことを示そうとした。
アブラハムを扱っている偽エウポレモスの著作断片は、アレクサンデル・ポリュヒストルによって誤ってエウポレモスに帰されたものである。彼は聖書の伝承のみならず、アガダー的伝承や、ギリシアやバビロニアの神話をも、物語の中に織り込んでいる。さらには、ゲリジム山に言及するなど、サマリヤ人的な伝承をも持っていた。これは、エルサレム神殿を重視した真正なエウポレモスとは相容れない特徴である。偽エウポレモスは、アブラハムは、天文学を創始したエノクからその知識を得て、占星術を創始したと述べている。そしてその占星術を、アブラハムはフェニキア人やエジプト人に教えたのだった。さらに、ノアとニムロデを同一視するという奇妙な解釈も披露している。
クレオデモス・マルコスは、アブラハムの子孫の物語を語っており、ついにはアブラハムとヘラクレスとの家系的な繋がりを示した。普遍的な父であるアブラハムから多くの民族が生まれたことを示すことによって、ユダヤ人が他の民族と血縁関係を持っていると主張したのである。これはディアスポラのユダヤ人が外国に住み続ける居心地の悪さを解消するためのものだった。
アリステアスはヨブ記を要約してアガダー的伝承を付け加えた。同様の伝承は、偽フィロン『聖書古代誌』、『ヨブの遺訓』、クムラン第11洞窟で発見されたヨブ記のタルグム断片などに見られる。
上記のユダヤ人作家たちは、ユダヤ民族がさまざまな文化的創造を成し遂げたことを示すことによって、自意識を強めようとした。そのために、アブラハムやモーセは、ギリシア文明の要となる事柄の創造者として描かれた。今の偉大なギリシアが持っている知恵は、実はモーセの書から取られたものなのだ、と言うのである。これは、明らかに当時の反セム的な感情に反論するため、という護教論が背景になっていると考えられる。それと同時に、強くヘレニズム化してしまった同胞がユダヤ教を捨てることのないようにするためでもあった。これらの作家たちは、同胞たちがユダヤ人でいつづけようと思わせなければならなかった。
特徴的なのは、どの作家も、トーラーの戒律的・律法的な側面をまるで重視していないということである。モーセは文明の発明者、文化の貢献者としてのみ描かれ、律法制定者としては描かれていない。これはラビ文学とは大きく異なる点である。ただし、これは引用しているアレクサンデル・ポリュヒストルの関心から外れていたために、本当は扱っていたのに引用されていないだけという可能性もある。しかし、論文著者は、やはりこのトーラーの律法的な側面への無関心を、ヘレニズム期ユダヤ人作家の特徴と考えている。こうした特徴があったために、彼らの著作は後代のユダヤ人ではなく、むしろキリスト教の教父たちによって読まれるようになった。
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詩人としては、劇作家エゼキエル、詩人フィロン、そしてテオドトスが挙げられる。エゼキエルは我々に知られている唯一のユダヤ人劇作家である。彼の『エクサゴーゲー』は出エジプト記1-15章をもとにした作品で、聖書に忠実なところとかけ離れたところがある。エゼキエルは、ユダヤ人やモーセに対して悪い印象を持ち得るような箇所は省略している。途中、モーセが夢の中で神と言葉を交わしたという記述が出てくるが、その解釈は二通り考えられる。第一に、モーセは実際に神に会ったわけではないことを意味するという、モーセの軽視。第二に、モーセを主の天使と同一視するという、モーセの称賛。論文著者は後者を妥当だと考えている。非聖書的場面に、不死鳥が出てくるが、これはユダヤ人たちの出エジプトが歴史において新しい時代を開いたことを含意している。
叙事詩の詩人であるフィロンは、あまり知的でないギリシア語による『エルサレムについて』という作品を残している。そこでは、イサクの奉献、ヨセフのエジプトでの政治、そしてエルサレムの水道システムが歌われている。全体としては、エルサレムを称賛し、アブラハムを賛美する内容になっている。
テオドトスは、都市シケムに関する歴史を叙事詩の形式で歌っている。エルサレムではなくシケムをテーマとしていることから、テオドトスはサマリヤ人であるかもしれない。この作品では、創世記のヤコブの伝説についてもホメロスの形式で歌われている。
歴史家としては、デメトリオス、アルタパノス、エウポレモス、偽エウポレモス、クレオデモス・マルコス、そしてアリステアスが挙げられる。デメトリオスはユダヤ人の歴史を二つのジャンルに従って描いた。その第一は、ギリシア文学における非ギリシア人の歴史である。これはエジプト人マネトンをはじめ、ユダヤ人ヨセフスに至るまでさまざまに用いられてきた手法である。彼らは、ギリシアの歴史観を用いつつも、巧妙な時系列操作によって自民族の卓越性を示そうとした。デメトリオスはその際に、聖書を歴史書として利用しつつ、必要があれば大胆に改変した。その第二は、問答形式であるエロタポクリセイスというジャンルである。これは、ホメロスの解釈を始めとする科学的な文学において適用されるものだったが、デメトリオスはあまり厳密にこれを用いなかった。デメトリオスは、他の歴史家たちと異なり、モーセもアブラハムも必要以上に賛美しなかった。
学術的なデメトリオスに比して、アルタパノスは歴史小説家のような自由さを備えていた。モーセ、アブラハム、ヨセフらの伝記の断片が残っているが、それらは最も聖書からかけ離れた物語であり、のちのミドラッシュ文学にも見つからないようなものになっている。彼は聖書の登場人物たちを、エジプト人に文化や宗教を教えたような偉大な教師として描いた。その際には、扉が自発的に開くモティーフのようなギリシア文学のお決まりの表現を使う一方で、テトラグラムをみだりに唱えたことが引き起こす災厄といったユダヤ的な要素をも用いた。彼は、ユダヤ民族の特権と矜持を証明するためには、聖書物語を大幅に改変することも辞さなかった。
エウポレモスはエルサレムの祭司の家系出身であり、一マカ8:17以下で言及されている。彼は、『ユダヤにおける王たちについて』の中で、モーセを律法制定者、文化的な貢献者、そして文明の創建者として描いている。またモーセからサウルまでのユダヤ人の歴史を要約しつつ、聖書にはない大げさなエピソードを加えている。特にエルサレム神殿の建設については、大きく聖書から外れ、未来に建てられるべき理想の神殿の描写を繰り広げた。すなわち、彼にとって聖書は、再説聖書の文学の考え方と同様に、出発点に過ぎなかったのである。時系列についても独自の勘定を持っており、ギリシア人よりもユダヤ人の方が古いことを示そうとした。
アブラハムを扱っている偽エウポレモスの著作断片は、アレクサンデル・ポリュヒストルによって誤ってエウポレモスに帰されたものである。彼は聖書の伝承のみならず、アガダー的伝承や、ギリシアやバビロニアの神話をも、物語の中に織り込んでいる。さらには、ゲリジム山に言及するなど、サマリヤ人的な伝承をも持っていた。これは、エルサレム神殿を重視した真正なエウポレモスとは相容れない特徴である。偽エウポレモスは、アブラハムは、天文学を創始したエノクからその知識を得て、占星術を創始したと述べている。そしてその占星術を、アブラハムはフェニキア人やエジプト人に教えたのだった。さらに、ノアとニムロデを同一視するという奇妙な解釈も披露している。
クレオデモス・マルコスは、アブラハムの子孫の物語を語っており、ついにはアブラハムとヘラクレスとの家系的な繋がりを示した。普遍的な父であるアブラハムから多くの民族が生まれたことを示すことによって、ユダヤ人が他の民族と血縁関係を持っていると主張したのである。これはディアスポラのユダヤ人が外国に住み続ける居心地の悪さを解消するためのものだった。
アリステアスはヨブ記を要約してアガダー的伝承を付け加えた。同様の伝承は、偽フィロン『聖書古代誌』、『ヨブの遺訓』、クムラン第11洞窟で発見されたヨブ記のタルグム断片などに見られる。
上記のユダヤ人作家たちは、ユダヤ民族がさまざまな文化的創造を成し遂げたことを示すことによって、自意識を強めようとした。そのために、アブラハムやモーセは、ギリシア文明の要となる事柄の創造者として描かれた。今の偉大なギリシアが持っている知恵は、実はモーセの書から取られたものなのだ、と言うのである。これは、明らかに当時の反セム的な感情に反論するため、という護教論が背景になっていると考えられる。それと同時に、強くヘレニズム化してしまった同胞がユダヤ教を捨てることのないようにするためでもあった。これらの作家たちは、同胞たちがユダヤ人でいつづけようと思わせなければならなかった。
特徴的なのは、どの作家も、トーラーの戒律的・律法的な側面をまるで重視していないということである。モーセは文明の発明者、文化の貢献者としてのみ描かれ、律法制定者としては描かれていない。これはラビ文学とは大きく異なる点である。ただし、これは引用しているアレクサンデル・ポリュヒストルの関心から外れていたために、本当は扱っていたのに引用されていないだけという可能性もある。しかし、論文著者は、やはりこのトーラーの律法的な側面への無関心を、ヘレニズム期ユダヤ人作家の特徴と考えている。こうした特徴があったために、彼らの著作は後代のユダヤ人ではなく、むしろキリスト教の教父たちによって読まれるようになった。
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