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2015年11月16日月曜日

ヨセフスとパリサイ派 Neusner, "Josephus's Pherisees"

  • ジェイコブ・ノイズナー「ヨセフスとパリサイ派」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究2:ヨセフスとキリスト教』山本書店、1985年、117-60頁=Jacob Neusner, "Josephus's Pharisees: A Complete Repertoire," in Josephus, Judaism, and Christianity, ed. Louis H. Feldman and Gohei Hata (Detroit: Wayne State University Press, 1987), pp. 274-92.
ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)
秦 剛平

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本論文で、著者は、ヨセフスによるパリサイ派に関する記述を比較検討することで、モートン・スミスによるパリサイ派理解が正しいことを論証しつつ、それまでの理解を批判している。そのスミスによるパリサイ派理解とは、要約すると以下のようなものである:
ヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』とを比較すると、前者においてヨセフスはパリサイ派についてさほど詳述していないし、描いたとしてもアレクサンドラ・サロメの迷信に付け込んで政治的権力を手に入れた偽善者として描写している。しかしながら後者において、ヨセフスはパリサイ派が民衆の間で人気がある者たちとして描いている。しかも、サロメの夫であるアレクサンドロス・ヤンナイオス(反パリサイ派)ですら、死ぬ間際にパリサイ派を認めていたという記述を付け加えている。いわば、『古代誌』においてヨセフスは、エルサレムを占領したローマに対する政治的配慮から、手を組むならパリサイ派にしろと推奨しているのである。
つまり、ヨセフスが『古代誌』で描くパリサイ派の姿は、ヨセフスのプロパガンダによる歪曲である。これまでの多くの研究者たちは、『古代誌』の記述をもとに、後70年以前におけるユダヤ教の規範的宗派はパリサイ派だったという「汎パリサイ・汎ラビ的」見解を持っていたが、スミスとノイズナーは、『古代誌』の記述はパリサイ派の実際を描いたものではないし、またおそらく後70年以前のパリサイ派は多くの諸派のうちの一つにすぎなかったと主張するのである。

論文著者はまず、『自伝』における記述から、ヨセフスが自分をパリサイ派であると見なしていたこと、そしてガリラヤで指揮官を務めていたときに、パリサイ派のシメオン・ベン・ガマリエルと対立したために解任されたことに触れている。

次に、著者は、『戦記』のパリサイ派について、アレクサンドラ・サロメとの関係、ヘロデの宮廷で賄賂を受け取っていたこと、そして哲学の学派の一つとして説明されていることなどから検証していく。ここではパリサイ派は、宗教の実践や律法の解釈では卓越しているが、マカベア王朝で政治的実権を握り、敵対者を殺害した者たちとして描かれている。しかしながら、彼はここでは、パリサイ派が最も人気がある宗派であるとか、民衆に支持があるなどとは述べていない。

一方で、『古代誌』のパリサイ派は目立つ存在として描かれている。それどころか、パリサイ派の協力なしではパレスチナ統治は成り立たないとさえ述べている。著者は、パリサイ派について、哲学の学派の一つ、ヨアネス・ヒュルカノスとの関係性、アレクサンドラ・サロメとの関係性、ヘロデの宮廷での出来事などから説明していく。それによると、パリサイ派は市井の人々によって支持されており、アレクサンドロス・ヤンナイオスにも最終的には認められ、アレクサンドラ・サロメの後ろ盾を得ている。さらには、『戦記』では描かれていた、パリサイ派による敵対勢力へのリンチも、『古代誌』では隠ぺいされている。

こうしたことから、著者は、パリサイ派を後70年以前のパレスチナ・ユダヤ教の中の規範的宗派として言及することはできないと結論付ける。歴史上のパリサイ派について我々が学ぶことができるのは、パリサイ派の影響力や権力ではなく、第一に、ハスモン王朝の政治に深くかかわる政治結社だったこと、第二に、ユダヤ社会の主流の民族哲学とは異なる特有の哲学を持った学派だったことである。そして政党としてのパリサイ派は前1世紀の最初の50年は有効に機能したが、それ以後は、個々人のパリサイ派は存在しても、派としてのグループはヒレル時代までには政治的活動を停止したのである。

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