- Wolfram Kinzig, "Pagans and the Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 752-74.
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本論文では、古代の異教徒たちがどのように聖書に興味を持ったかについてまとめられている。非キリスト教者は、文学の修辞的・哲学的な洗練について高い基準を持っていた。そして聖書は、旧約聖書(ギリシア語訳)も新約聖書も共に、明らかにこの基準には満たない代物であると見なされていた。興味深いことに、キリスト教の勃興以前には、ユダヤ人の聖書が異教徒によって読まれていた証拠は見当たらない。言い換えれば、異教世界における聖書の受容は、2世紀以降のキリスト教成立と共に始まったのである(1世紀にも、偽ロンギノス、カッシオス・ロンギノスらがいる)。これは、ユダヤ教が宣教に熱心な宗教ではない一方で、キリスト教はそうであったからだと考えられる。
聖書に言及した異教徒の最初期の例としては、ピタゴラス主義・プラトン主義哲学者のヌメニオス、哲学者かつ医者のガレノスらがいる。彼らは必ずしもユダヤ教やキリスト教を主題にしてはいない著作の中で、聖書の非科学性を批判しつつも、キリスト者の倫理観の高さを称賛した。2世紀後半になると、聖書を中心的な主題とした書物も書かれてるようになった。3世紀から4世紀初頭にかけて活躍したヒエロクレスは『真理を愛する者』という著作で聖書の誤謬を指摘し、使徒たちを批判した。ヒエロクレスはイエスを、1世紀の新ピタゴラス主義者であるテュアナのアポロニオス(伝記はフィロストラトスによる)と比較した。
聖書を扱ったさまざまな異教徒たちのうち、論文著者はオリゲネスによって知られる哲学者ケルソス、マカリオスによって知られる新プラトン主義哲学者ポルフュリオス、そしてアレクサンドリアのキュリロスによって知られるローマ皇帝ユリアヌスを取り上げている。
ケルソスの聖書知識は限られている。彼はモーセの教えは異教の教えや神話を誤解・曲解したものだと批判している。世界の創造はナンセンスであり、人が神の似姿であるという考え方は人と神との存在論的な違いを矮小化することに他ならない。イエスの処女から生まれたのではなく、兵士パンテラとマリアとの情事によって生まれたのであり、イエスの教えはモーセのそれと矛盾している。イエスの受難は、騒擾を起こした者の当然の結果である。このように、ケルソスはさまざまな点に関して聖書を批判したわけだが、特にイエスの批判が微に入り細を穿っていることから、福音書を読んだことがあると思われる(パウロ書簡については不明)。
ポルフュリオスは、聖書の文献学的な知識において秀でていた。彼は、特に預言書の逐語的な解釈を好んだ。そして、預言書に書かれているのはキリストの受肉に関することではなく、単純にユダヤ史における過去の出来事にすぎないと示そうとしたのである。そこで彼が注目したのがダニエル書である。これはヒエロニュムスの『ダニエル書注解』の中で長く引用されている。ポルフュリオスは、第一に、ダニエル書がダニエルによって書かれたことを否定し、第二に、ダニエルが未来のことを語っているという解釈を否定し、そして第三に、ダニエルがアンティオコスの時代までについて語っていることは正しいが、それ以降は誤りであると主張した。キリスト者にとって、ダニエルははっきりとキリストの出現について語っている預言者だったので、ポルフュリオスによるそうした解釈の否定に対し、彼らは大きく反発した。新約聖書に関しては、ストア派によるロゴス・プロフォリコスとロゴス・エンディアテトスの区別に基づいて、ヨハネ伝冒頭のキリストのロゴス論を否定した。概して、福音書の非科学性はポルフュリオスをいら立たせた。
幼少時にキリスト教教育を受けたユリアヌスは、当然ながら、最も深い聖書の知識を持っていた。すべての国はローマの国家的な神々に従属しているべきであるという考えだったユリアヌスは、ユダヤ・キリスト教の一神教的世界観を大いに批判した。ただし、彼の批判はユダヤ人にではなく、主にキリスト者に対するものだった。世界の創造については、聖書の無からの創造という考え方はプラトンの『ティマイオス』に劣ると考えていた。曰く、人に知識を与えた蛇はむしろ恩人であり、アダムの助け手として創造されたはずのイブは、実際には彼を騙している。十戒は他の民族にも見られるようなありきたりのことしか書かれていない。新約聖書で示されている新しい法は、モーセのそれとは矛盾している。それどころか、福音書はそれぞれ矛盾した記述を含んでいる。イエスは、ヘロデの前で奇跡を起こすように求められてもできなかった。イエスの教えはただ馬鹿げているだけではなく、国家や社会を不安定にさせるものである。こうしたことゆえに、ギリシア文学は、人を賢明にさせることについて、はるかに有益である。
これら三人に加えて、論文著者はもう一人、マカリオスの不詳の敵対者(ポルフュリオスか?)を挙げている。この敵対者は新約聖書を特に攻撃対象として、キリスト教を批判した。曰く、福音書はでたらめで一貫しておらず、イエスはただの人である。最後の晩餐でのイエスの言葉はカニバリズムを示唆するものである。これらの事柄は、寓意的解釈を用いたとしても、受け入れがたい。またこの人物は唯一、パウロを本格的な批判の俎上に上げている。パウロがさんざん喧伝した終末は、彼が死んで300年も経つのにまだやってこない。罪の赦し、偶像の否定、死者の復活といった考え方も、みな不条理なものである。偶像は神々と同じものなのではなく、記念や祈りの場のために作られたものなのである。
以上のような著作群は、論争哲学(Kontroversphilosophie)と呼ばれる文学ジャンルとされており、哲学の学派同士でも交わされた。また公の場で朗読されることもあったようである。事実、ヒエロクレスが自身のキリスト教批判を朗読したときには、ラクタンティウスがその場にいたことが知られている。注意すべきは、彼らの作品は、多くの場合キリスト者による論駁書の中に保存されて残っていることである。ただし、彼らは聖書の統一性と多様性について、異教とキリスト教の神論の比較、救済論や終末論については、あまり扱っていない。
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