- Bezalel Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münsteraner Judaistische Studien 4; Münster: LIT, 1999), pp. 241-50.
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本論文は、ヨセフス『アピオーンへの反論』180-81において引用されている、ソリのクレアルコスが伝えるユダヤ人とアリストテレスとの邂逅譚が、ユダヤ人がアリストテレスよりも賢いという意味合いを本当に伝えようとしているのかを再考したものである。通常、この箇所において、あるユダヤ人がアリストテレスとそのサークルの知的レベルを試し、なおかつ彼らから学ぶよりも多くを彼らに教えたとされている。しかしながら、論文著者は、アリストテレスの弟子であるクレアルコスが、自分の師よりも学識に優れている者としてユダヤ人を描くだろうかという当然の疑問を呈している。
そこで論文著者が注目するのが、παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχενという表現のμᾶλλονの使い方である:
そこで論文著者が注目するのが、παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχενという表現のμᾶλλονの使い方である:
ὡς δὲ πολλοῖς τῶν ἐν παιδείᾳ συνῳκείωτο, παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχεν.
しかしながら、彼が多くの学識ある者たちと共に住んだとき、彼はむしろ自分が持っているもののうちから何らかのものを伝えた〔or 彼はアリストテレスが持っているより多くの何かを伝えた〕。
論文著者は、この箇所のμᾶλλονについて、比較の意味で「より多くの」という意味と、絶対的な意味で「むしろ」という意味との二つがあり得ると述べている。アリストテレスよりもユダヤ人の方が知恵において優れている、という読みを採用したい研究者たちは、これを前者の意味で取るが、論文著者は、ギリシア散文での用法およびコンテクストから、これは後者の意味で取るべきであると述べる。なぜなら、クレアルコスが自分の師であるアリストテレスよりもユダヤ人を優れた者として描くのは不自然だからである。
この読みは、アレクサンドリアのクレメンスによる引用からも支持される。クレメンスは、ギリシアの知恵がユダヤ人に由来することを証明しようとする文書の中で(『ストロマテイス』1.15)、クレアルコスがユダヤ人とアリストテレスとの邂逅を物語っていることを記録している。仮にクレアルコスがユダヤ人の卓越性を描こうとしていたのなら、それをクレメンスが見逃すはずはないが、この箇所においてそのような記述はないのである。
以上から、クレアルコスが述べているのはユダヤ人の知恵がアリストテレスに勝っているということではないと論文著者は結論する。ただし、クレアルコスがユダヤ人に対して好意的な描き方をしていることは疑いない。ギリシアから離れ、違う言葉を話す民族が、自らをギリシア文化と結びつけ、偉大なるアリストテレスとの対話において、ギリシア精神を示したことを言祝いでいることは確かである。
論文著者によれば、クレアルコスは当時キュニコス派と論争をしていたのだが、その論争の中で、東方の「哲学者たち」の理想像を用いて、自らの逍遥学派的なアイデアを表明しようとしていたのだという。言い換えれば、クレアルコスは、ユダヤ人哲学者の持っている自制心(カルテリア)や節制(ソーフロシュネー)は、キュニコス派のそれとは相反するものであると言いたいのである。その際に、より東方のイメージのあるインド人を持ち出さずに、ユダヤ人を出したのは、アリストテレスが小アジアで出くわす可能性がより高かったからである。であるならば、この物語はユダヤ人に関する情報を提供しようとするものではなかったのだといえる。そしてヨセフスもまたこのことに気付いていたので、クレアルコスの記述の全体を引用せず、部分的な引用に留まったのだと考えられる。
さらなる参考文献
この読みは、アレクサンドリアのクレメンスによる引用からも支持される。クレメンスは、ギリシアの知恵がユダヤ人に由来することを証明しようとする文書の中で(『ストロマテイス』1.15)、クレアルコスがユダヤ人とアリストテレスとの邂逅を物語っていることを記録している。仮にクレアルコスがユダヤ人の卓越性を描こうとしていたのなら、それをクレメンスが見逃すはずはないが、この箇所においてそのような記述はないのである。
以上から、クレアルコスが述べているのはユダヤ人の知恵がアリストテレスに勝っているということではないと論文著者は結論する。ただし、クレアルコスがユダヤ人に対して好意的な描き方をしていることは疑いない。ギリシアから離れ、違う言葉を話す民族が、自らをギリシア文化と結びつけ、偉大なるアリストテレスとの対話において、ギリシア精神を示したことを言祝いでいることは確かである。
論文著者によれば、クレアルコスは当時キュニコス派と論争をしていたのだが、その論争の中で、東方の「哲学者たち」の理想像を用いて、自らの逍遥学派的なアイデアを表明しようとしていたのだという。言い換えれば、クレアルコスは、ユダヤ人哲学者の持っている自制心(カルテリア)や節制(ソーフロシュネー)は、キュニコス派のそれとは相反するものであると言いたいのである。その際に、より東方のイメージのあるインド人を持ち出さずに、ユダヤ人を出したのは、アリストテレスが小アジアで出くわす可能性がより高かったからである。であるならば、この物語はユダヤ人に関する情報を提供しようとするものではなかったのだといえる。そしてヨセフスもまたこのことに気付いていたので、クレアルコスの記述の全体を引用せず、部分的な引用に留まったのだと考えられる。
さらなる参考文献
The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society) Bezalel Bar-Kochva University of California Press 2016-03 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
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