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2016年11月9日水曜日

アレクサンドリア学派の聖書 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #2

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 34-52.
Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic ExegesisBiblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis
Manlio Simonetti Anders Bergquist

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本章では、アレクサンドリアにおける聖書解釈の伝統を扱っている。アレクサンドリア学派は、フィロンを始めとするヘレニズム化したユダヤ人の影響を受けつつ、グノーシスの聖書理解に対抗しようとした。アレクサンドリアの聖書解釈の特徴は、伝統的な予型論的解釈を軸に、天文学的・人間学的な解釈や、ときには黙示的な解釈を聖書に加えることである。端的に言えば、寓意的解釈と言える。

アレクサンドリアのクレメンス。クレメンスは、福音書を律法の現実化および成就と見なしており、旧約聖書はキリストに照らして解釈されるべきだと考えていた。彼は、聖書にはありきたりなところなどなく、すべての言葉は何らかの意図に従って書かれていると主張した。そしてその意図は、必ずしも明らかになっておらず、しばしば隠されているのである。聖書にはすぐに理解できるところと、隠された方法で表現されているところがあるのである。後者はすべての人が理解できるわけではない。またその隠されたところを理解するためには、寓意的解釈が必要になる。クレメンスは、こうした表面の意味と隠された意味とを、エジプトの表意文字を例に説明している(『ストロマテイス』5.4.20以下)。ただし、一方でクレメンスは過度な寓意的解釈がグノーシス的な極論を招くことにも気づいていた。

クレメンスは、律法を4つの部分、すなわち、歴史的部分、法的部分、宗教祭儀に関わる部分、そして神学的部分(エポプテイア)に分けて理解した。これらは当時の学問の三分野である倫理学(歴史と法)、自然科学(祭儀)、そして神学に対応している。クレメンスは、このうち特に神学に注目し、寓意的解釈によってのみ明らかにすることのできる隠された秘密の意味を、神学として探ったのだった。彼の寓意的解釈は、より率直なアジア学派のそれとは違い、より複雑だった。これはフィロンに由来するものだったが、キリスト論を中心に据える点でフィロンとは異なる。

オリゲネス。オリゲネスの解釈法自体は、その先行者たちにも見られるものだったが、その知識の深さにおいて段違いであった。オリゲネスは聖書解釈を学術へと引き上げたのである。それは、解釈の対象の広さに関してもそうだった。先行者たちが聖書のいくつかの文書しか解釈しなかったのに対し、オリゲネスはすべての文書に目を向けた。彼の聖書解釈の形式は、スコリア、説教、そして注解の三種であった。彼は文献学にも造詣が深く、聖書の底本の必要性を感じ、『ヘクサプラ』を作成した。

オリゲネスの聖書解釈の理論は、『諸原理について』の中に見出すことができる。彼は神の言葉である聖書は、ロゴスたるキリストそのものであり、言い換えれば聖書とはロゴスの永遠の受肉であると考えた。そうした聖書に見られる難解さは行き当たりばったりではなく最初から意図されたものであり、きちんと理解しようとしない者には理解できないようになっているのだった。聖書の真の意味は隠されているので、そもそも聖書の字義的な意味は、その真の意味へと到達するための出発点にすぎないのである。オリゲネスに言わせれば、聖書の字義的意味を受け入れているユダヤ人も、字義的意味に反発するばかりのグノーシス主義者も、共に真の意味が見えていないのである。

オリゲネスは『諸原理について』の第4巻において、有名な聖書の三種の意味――字義的意味(肉体)、倫理的意味(魂)、神秘的意味(霊)――について言及しているが、通常ではより単純な二種の意味――字義的意味(人間としてのキリスト)と霊的意味(神としてのキリスト)――に留まっている。オリゲネスによれば、聖書は通常の人間には理解できるものではなく、解釈者がいかに深く神の言葉に沈潜できるかが鍵なのであった。オリゲネスによれば、神自身が旧約聖書にあえて恥ずべき一節を含むことで、解釈者がより深い意味へと到達できるようにしたのだという。それが、明らかな神人同型説やありえない状況が聖書中に見られる理由である。すべては霊的な読解への移行のためなのだった。

とはいえ、オリゲネスは字義的意味にも目配りが行き届いている。彼は字義的解釈を自身の解釈システムの中に組み込んでいるのである。なぜなら、彼は聖書には感知可能な現実(字義的意味)と感知不可能な現実(霊的意味)との両方があることを知っていたからである。彼は、グノーシスのように恣意的な寓意的解釈に陥ることのないように、霊的解釈といえども字義的解釈に則り、また他の聖書の一節によって確証されるようになされるべきであると考えた。すなわち、神秘主義者としてのオリゲネスは、いつも聖書に基づいていたのである。

アジア学派が寓意を用いる際には、常に聖書の具体的なエピソードに従うかたちだったが、オリゲネスの寓意はより霊的だった。彼の聖書理解は、旧約聖書を新約聖書の影として認めた上で、真理は新約聖書においてより明らかにされたと考えた。その点で、旧約を否定したグノーシスと異なり、旧約聖書と新約聖書とのバランスを取ろうとしたのである。彼は寓意的な予型論的解釈を、ただ旧約に対して用いたのではなく、新約を天的現実の予型と見なすことにも用いた。

アレクサンドリア学派の聖書解釈の普及。この時期、黙示録を字義的に解釈することで抽出される「千年王国説」を唱える者たちが出てきたが、彼らはアレクサンドリアの寓意的解釈の伝統と真っ向からぶつかることになった。たとえば、千年王国説論者のネポスに対し、アレクサンドリアのディオニュシオスは、黙示録に隠れているより深い意味をの存在を強調した。そのためには、黙示録のスタイルと言語に注目し、黙示録の作者とヨハネ伝の作者は異なることをも文献学的に示してみせた。オリュンポスのメトディオスのような折衷的な千年王国論者は、千年王国説を信じる意味では字義的解釈に傾いていたが、それを寓意的に解釈しようとも試みた。

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